対戦よろしくお願いします
第九十夜「自分勝手」
辛い時はキチンと体を休めましょう、とよく言う。
薬を飲んで、よく寝て、程よく体を動かす。心身に無理を言わせないように気をつけながら、疲弊した自分自身を癒していく。寝たきりでも逆に疲れるし、いつも通りに動けば疲れは溜まる一方だ。
大事なことなのだ。
特に寝る前。薬を飲んで、グッと寝る。
ここだけでも違う。
「さすが医者……薬剤師なのか? どっちでもいいか」
結論から言って、貧血による頭痛や疲労はほとんど
士季たちと話した後、別れ際に夏月先生から渡された薬のお陰だ。
せめてこれを飲んで寝なさい。バルコニーから一度屋内に引っ込み彼女が次に出てきた時に、掌の中には錠剤入りの小さな箱があった。そこにあったのは、よく効く薬、らしい。
もらってよかったと思う。
ただ、薬をもらった代わりに今度採血に行くことになったのだが、そこは特に問題じゃない。ハツカも吸血鬼社会への寄与ということで納得してくれた。
「そろそろ起きたかな」
スマホの左上の時間表記を見つめたあと、ラインのメッセージ画面に視線を動かす。もうすぐ着くよ、と岡村
寝坊助さんだろうか。日曜日だしな。
ただ約束の時間になってまで既読が着かないというのは、あまりいい気分ではないのは確かだ。反応がないというのが居心地が悪い。
手に持った紙袋をぶらぶらと揺らしながら、赤い帽子を被った一軒家を見上げる。庭を取り囲むアンティーク調ガーデンフェンスの切れ目となっている片開きのドアの先に見える窓には、カーテンが降りていて中の様子は伺えない。
––––……チャイムを押したら、起きるだろうか。
「もしかしたら、先生が帰ってきてるかも」
時間も過ぎてるし、中に入ってみよう。思い立ったまま、ガーデンフェンスのドアを開いて庭へと足を踏み入れた。玄関の前に立って、そばにある呼び鈴を鳴らす。
「ごめんくださーい」
ごめんください、とか初めてだな。
自身の身寄りのなさに雀の涙ほどの自嘲を抱きながら待つこと数分。誰も出てこなかった。なんでやねん。
スマホを見る。時間は8時5分。既読にはなっていない。
なんでやねん。
やっぱりおねむなのか。オネンネ中なのか。
「どうするかな」
ドアノブを捻って動かしてみるが、鍵がかかっていて動かない。当たり前である。至極当然のことなのだが、開いてたら直接本人の部屋の前までノックしに行けるのに。
ふむ……。腕を組んでドアノブを見下ろす。
少しだけ考え込んでしまったのがいけなかった。人は隙を作ると悪知恵が働くものだ。
––––俺って……一応、吸血鬼なんだよな。
今日も左の手首にビッタリ巻きついている腕時計のスイッチ。本当にハツカたちの言う通りならば、俺は目の前の扉を通り抜けることができるはず––––なのだ。
「…………ッ」
不意に息を呑む。異様に鼓動が高鳴っている。
状況証拠は両手で抱えられないほどあるし、殆ど俺が目を背けて違うと言っているだけ。でも、吸血鬼であると自分で断言はしたくない。オバさんが捨てられた証明にもなってしまうから。
「自分勝手、だよなぁ」
俺が吸血鬼なら、もう特にハツカが俺と会う必要ってないんだよな。半端者とはいえ、同胞ではあるわけだし。同胞にすることで安全を確保するというのがアイツらの目的な訳だし。俺の我儘で引き留めてるようなもんだよな。連絡先は持ってるわけだし、今は引っ越してもらって高校生になったらハツカが住んでる場所に行けばいいかな。
なんかなぁ––––ぼやきながら頭を掻いて、もう一度腕時計を見つめる––––できるのかな。
「–––––」
ドアノブへと目が釘付けになって、扉に耳を這わせて中の音を、
「……あれ、吼月?」
「あ」
呼ばれて、一度瞼を下ろす。そして振り返って見てみると、フェンスの向こう側にジャージ姿の岡村蒼が不思議そうな目でこちらを覗き込んでいた。フェンスのドアを通り、岡村は近づいてくる。小麦色に焼けた額にじんわりと汗が馴染んでいた。息も少しあがっていて、肩を上下させている。腰にランニングポーチが巻きついているのを見るに、どうやら走り込み帰りのようだと気がついた。
「ごめん、約束の時間に間に合わなくて」
俺の目の前に来ると、岡村は顔の前で両手を合わせて謝罪する。聞けば、赤信号にひっかかって時間を食っていたらしい。問題ないよ、と俺は応えた。
「あれ?ってなんだよ。今日はいつも通り男の服だろ」
俺は自分の服装をゆっくりと見下ろす。今日は白のジャケットに黒のスラックスなので、別に疑いがかかる姿はしていない。
「なんか雰囲気がいつもと違くて分かんなくなっちゃってさ。いま開けるよ」
ポーチから鍵を取り出して、鍵穴に差し込み、捻る。殆ど流れ作業で澱みなくドアノブに手をかけた。
「……ん?」
ドアを開けようとすると岡村は違和感を感じ取った。もう一度鍵を差し込んで、今度は意識して鍵を動かす。
そして、ガチャと開錠の音がした。ようやく鍵が開いた。
「締め忘れたかな」
俺を招き入れる岡村は、青空を見上げながら過去の自分を顧みる。
「大丈夫だよ。岡村は」
そう慰めてから岡村家へと足を踏み入れた。
冷房も暖房もいらないちょうどいい室温が体を包み込む。
家に入ってまず第一にしたのは捜索である。念の為、盗られたものがないか確認しようという運びになったのだ。棚や金庫に置かれた貴重品、洗濯籠の中に折り畳まれた洗ったばかりの服や下着など。
一緒に家の中を軽く見回ったが、当然異常はなかった。
よし、と岡村は言う。彼女自身、なにか盗られるとは微塵も考えていない声色だった。
「先にシャワー浴びに行っていい?」
「どうぞ。そうだ、朝ごはんは全部おれが作っておくか? すぐに食べたいだろ?」
「ありがとう。でも、卵焼きは一緒に作るって言ったし、それだけは一緒にやらせて」
「分かった。なら、赤味噌か白味噌どっちが好き?」
「赤」
そう答えた岡村は申し訳なさそうにリビングを出て、浴室につながる通路を歩いていく。
「さて、ささっと終わらせるか」
離れていく足音に背を向けて、俺はキッチンに立つ。朝食に使う食材を冷蔵庫から取り出す。卵に、小ねぎに、鮭に、豆腐とだし昆布と鰹節……白米は昨日炊いたものを残してあるから問題ない。シャワーだってすぐに終わるだろうし、副菜はすぐできる小松菜のピリ辛和えでいいだろう。
作るものを決めて、取り掛かる。
「キョウコさんのホテルもキッチンがあれば、押し売りに行けたのになー」
あの人、いつもどこで何を食べてるんだろう。タバコを吸ってる割には肌が荒れてる様子もないし、それどころか綺麗な方だ。思ったより気を遣ってるんだろうか。基本的に疲れてるから見劣りするけど、萩凛さんが言ってたが『勿体無い』と思う。本人が聞いたら、余計なお世話だと言いそうだが。
夜に向けて気絶するように寝てそうなキョウコさんを思い浮かべながら、鮭に塩を振って水分が浮くのを待ったり、小松菜のレンチンが終わるのを待ったり、味噌汁を作ったり、グリルで焼き始めた鮭から良い香りが昇り出したり、卵を溶いたり、出汁を取り終えた昆布と鰹節で一品作ったりしている内に、時間はすぎる。
先ほど岡村が消えた通路から物音がする。
「戻ったよー」
「おう。とりあえず卵焼き以外の料理は終わったぞ」
戻ってきた岡村はさっきのジャージから着替えていて、ゆったりとした黒のパーカーとカーゴパンツを身に纏った男っぽい姿だった。
––––やっぱり岡村は、そういう服装の方が着やすいのかな。
動きやすい服装を選んだ結果かもしれない。俺は吸血鬼ではないから岡村の心中は分からないので、料理に意識を向け直す。
彼女は軽く伸びをしながらテーブルに置かれた食事を見る。小松菜のピリ辛和、昆布と鰹節の梅ふりかけ、鮭の塩焼きに、味噌汁と白米。それぞれ二人分用意した。今日は俺もここで食べさせてもらう。
「おいしそー」
「それじゃ、卵焼き始めようか」
「お願いします」
ふたりでキッチンに立つと、俺は『すでに砂糖だけとネギ入りの卵をそれぞれ溶いてあります。基本的に一人につき卵はふたつみっつ』と言いながら、必要な道具を流し台の下にある棚から取り出した。
知ってる知ってる。彼女は馬鹿にするなと言いたげな顔で頷いた。
「卵焼き器とフライ返しだよね。学校だと菜箸でくるくるって畳んでたよね」
「できた?」
「……出来ませんでした」
「菜箸だと難しいからね。その代わりに使うのがフライ返しなわけだけど、1番いいのは卵焼き器の横幅に合うフライ返し。これとか」
岡村の前で卵焼き器に大きめのフライ返しを当ててみると、ピッタリ嵌まるサイズだ。これなら何箇所も折り畳む必要がないので時短もできるし、やりやすい。説明しながら岡村をIHコンロの前に立つように促すと、彼女は素直に従って卵焼き器を熱し始める。
「とりあえず動作だけ覚えてみようか。大体は家庭科でやった時と同じだけど、俺が後ろから指示を出すよ。両手、掴むぞ」
「え?」
俺は背後に立って抱きしめるような体勢で、岡村の両手の甲に自分の手を乗せる。
「いつも通り手を翳して温まっていたら、卵を溶いた時に使った箸で卵液を少しだけ垂らして、ジュッて音が鳴るか聞く」
「………」
「聞こえてる?」
押し黙っている岡村の耳元で問い直すと、ビクリと身体を震わせる。そして、驚きながら大きな声で彼女は言う。
「え!? うん!」
苦笑いを浮かべる岡村ほど、分かりやすいものはないと俺は思った。明らかに聞こえてない。その事実を感じ取った俺は聞き取りやすいように、先ほどよりゆっくりな口調で囁く。
「それで、箸で卵液を––––」
説明を挟みながら、岡村の腕を操って卵焼きを作っていく。
「最初は土台作りだから丸めなくていい。……手前にやりながらまとめて、また奥に戻す。で、次の卵を入れる前にもう一度油引きをしておくとくっつかなくて済む」
「なら、ここからパタパタって巻いていけばいい?」
「それでいいよ。一人でやってみるか?」
「……ネギ入りの方から自分でやる」
そうして普通の甘い卵焼きを作ったあと、岡村はネギ入りの卵焼きを自分で作り始めた。やったばかりだからこちらも滞りなく進んでいく。
「……」
「……なんかガチガチだけど、どうした?」
「ど、どうもしてない。それより変な香りしなかった?」
「香り? 変わった臭いなんてなかったぞ」
「そっか。……ねえ、卵多くいれちゃったんだけど」
「それなら一回巻いて、卵を奥にやったからまた卵液を広がるといいぞ」
何故かガチガチと油を差し忘れたロボットのようなぎこちなさがあったが、特に問題はない。
そうして作り終えた卵焼きを盛り付けて、テーブルにつく。対面に座り、手と声を合わせた。いただきます、と口にして料理に箸を伸ばした。
「卵焼き美味しくできたな」
箸で裂いた卵焼きはふんわりと柔らかく、それでいて火もキチンと通っている。断面から微かに湯気が昇っている。砂糖入りの甘い卵焼きと岡村が作ったネギ入りの少し塩っぱい卵焼きも美味しい。交互に食べ進めるとなお箸が進む。半熟でも良かったが、今回はオーソドックスな卵焼きだ。個人的に卵焼きで半熟作るぐらいならゆで卵か目玉焼きでいいだろと思っている。
岡村も卵焼きを味わうように咀嚼して、胸を撫で下ろしながら言う。
「良かった……うまくできてる。学校でもフライ返しでやらせてくれたら良かったのに」
「予算の問題だろう」
「世知辛いね。生徒会権限で増やせないの?」
「生徒会が万能なのは創作の中だけだぞ」
食事を進めながら少し雑談をする。
「岡村の部屋は掃除しなくていいか?」
「自分の部屋だし、自分でやるよ」
「そうしてくれると助かる。流石に同級生の部屋を漁る勇気はない」
「へぇ、吼月くんもそういうの恥ずかしがるんだ」
「マナーの問題だろ。訳のわからん奴の部屋に行くわけじゃないんだから」
「例えば?」
「……変な人」
「変な人って女装好きのひと?」
「女装が変ってわけじゃないんだけどな。似合ってるし」
吸血鬼なんて言えるわけないし、変な人と言うのは抽象的すぎるわけではない。見てくれは自分より一回りは大きそうな大人たちを飼ってる美少年とか変な人以外の何者でもないだろう。
「でも、良いやつだよ」
「ふぅん。吼月くんって変な繋がりあるよね、都雉から聴いたけど、弁護士とも知り合いなんでしょ?」
「まぁ、俺も大体変なやつだしなぁ」
「自分で言うんだ」
「自分だから言えるんだよ」
自分も自分の環境も異質だってことぐらい分かる。
食べ終えた焼き鮭の皮を摘む。焼き目がついた皮を齧ると、焦げが皿に落ちていきながらパリパリと音を立てた。そして、俺は食べ終えたので手を合わせる。
ご馳走様、と呟いて岡村を見てみると、彼女は味噌汁を飲みながら俺から視線を外していた。他の食事に目が行っているわけでもなかった。
彼女が見つめているのは部屋の隅に置かれた紙袋。俺が持ってきた紙袋だ。
「そういえばあの紙袋って何が入ってるの?」
「岡村へのご褒美」
「え?」
「本当はもう少し手間取ってくれたらご褒美感が強まったんだが……卵焼きも成功したし、ちょっと待ってろ」
岡村は首を傾げて、困惑している。
それくらいの反応でないとご褒美ではない。
自分の食器を片付けてから紙袋を手に取って部屋を出た。
☆
……ご褒美ってなんだろう。
アタシとしては吼月が料理を作ってくれるだけでも十分ご褒美なのだけれど、これ以上を期待していいのだろうか。ご褒美と言うわけだから、少なくともアタシが好きだと思うのはず。
なんだろう……なんなんだろう。
吼月が消えたドアを睨みつけながら、鮭や小松菜を食べ終え、白米と味噌汁を一緒に平らげる。そして湯呑みを持ったその時、ドアが開いた。
現れたのは白黒の、
––––メイド?
「どうでしょうか、岡村さま」
清楚な可愛らしい女の子がスカートの裾を摘みながらアタシに向かって会釈する。スカートが広がったことで露出するスラッとしながらも筋肉のついた綺麗な脚。カチューシャをつけはにかむように笑う顔。そして、それを美男子が着ているという事実。
「エッ––––」
その先はダメだ。
慌てて口を押さえた手に何かが垂れてきた。
「……」
そんなアタシを見ていた吼月は一瞬、呆然としたように固まって、
「岡村!?」
再起動と共に叫んだ。
ごめんね。これからすることを考えると––––
☆
「止まったみたいだな」
「ごめんね……まさか鼻血が出るなんて思わなくて」
「介抱するのもメイドの勤めだからな、気にしなくていいぞ」
メイド服姿を見せた途端、鼻からスゥーと血を流した岡村の対応をし終えた俺は食器を洗い始める。
「でも、なんでメイド服着てくれたの? 女装好きじゃないんだよね?」
「昨日岡村が着て欲しいって言ってただろ。ならご褒美に使えると思っただけ」
「へぇ、アタシのために……」
頬を掻きながら照れくさそうにしながらも、岡村は嬉しそうだった。
ただ理由はもうひとつあって、可愛い服を着て可愛いと言われるのも悪くないかもと思ったのだ。ハツカに可愛いと言われるのは悪くない気分だった。
岡村の反応も上々。鼻血が出た理由はわからないが……同級生がいきなりメイド服で現れたら驚くのも無理はないか。
「それで岡村様」
「待って。そういうのはちょっとむず痒いというか」
「でしたら、どうお呼びしたらいいでしょうか」
「普通でいい。普通でいいよ。喋り方もタメ口でいいよ。なんか変な気分になるし」
尋ね直すとそう言いながら、岡村は付け加える。
「ただ名前で呼んでほしいなって、アタシも名前で呼ぶからさ。出来たら学校でもさ」
理由は–––なんて、態々問い詰める必要なんてない。
苗字から名前呼びに変えるなんて、距離を詰めたいぐらいにないだろう。イメージとしては、マヒルと同じく『仲のいい友達になりたい』かな。ただマヒルのように仲が悪くなったという話は聞かないから根本的な原因は分からない。先生関連だろうか。
俺としては、岡村を悪い方へ線引きする理由もない。
「いいよ、蒼」
「よろしくね、ショウ」
答える蒼は増して嬉しそうだ。
「蒼はなにかメイドとしてやって欲しいことあるか?」
「特にはないかな。アタシとしては着てくれるだけで十分だし。そうだ、そろそろ洗い物終わる?」
俺は自分の手元の皿やコップを見てから言う。
「あと二、三分と言ったところだ」
「ならコーヒー入れておくよ。インスタントだけど」
「俺が入れるよ」
「ダメ。メイドなら主人の命令くらい聞きなさい」
「主従関係なしって言ったのはそっちなのに」
「諦めて終わったらソファに座っておいて」
少し迷ったが、治ったとはいえ体調を崩したばかりだから、ありがたく提案を受け入れることにした。
入れ替わりでキッチンを離れて、リビングのソファに座る。背後でケトルからポコポコと湯が沸き始める音がする。
「ショウってブラック? カフェオレ?」
「カフェオレかな。今は甘いの飲みたい」
「はーい」
この後はどうしようか。
せっかくメイド服を着たのだから、従者らしいことをひとつぐらいしてから帰りたい。壁にかかった時計を見る。ローマ数字を指す針は、9時すぎを示していた。
「考え事? はい、カフェオレ」
「ありがとう」
ふたつのマグカップにカフェオレを注いだ蒼が戻ってくる。蒼はマグカップを俺に手渡すと、隣に腰を下ろす。湯気に息を吹きかけてから口をつけた。
俺も暖かく甘い香りを嗅いでから静かに一口飲んで、マグカップを目の前のテーブルに置く。お腹も満たされたからか、少し眠気がやってきて欠伸を溢す。
「美味しい?」
「普通に美味しい」
「そっか、よかった」
ニコッと笑う蒼に訊ねる。
「蒼って俺になにかやって欲しいことあるか」
「アタシとしては十分なんだけど……なにをやってくれるの」
「よくやるのはマッサージとか」
「マッサージ」
「脚の」
笑っていた蒼の眼がスゥと感情が引いたかのように挟まる。
「……親の足踏みとか?」
「なにそれ。普通に手揉みだよ。ほら、陸上部だし」
「ふぅーん……」
失望とは違う。残念に思っているのとも違う。
なんだろう––––ピリっとした空気には覚えがあるのだが、頭に靄がかかったように思い出せない。思考がだんだん纏まらなくなっていく。
「ふぁ……」
またあくびを溢す。
……疲れが残っていたのだろうか。瞼がゆっくりと下がっていく。
「どうしたの?」
ぼんやりとした視界に蒼が映る。その表情も霞んでいてよく分からない。
「眠たい?」
「ああ、悪い。よふかしし過ぎたかも。来た時にはあまり感じなかったんだけどなー
「だったらソファに寝転がっていいよ。朝から呼んだアタシが悪いわけだし」
「でも流石に……」
流石に他人の家で眠りに落ちてしまうのは不味いと思って、目を擦ってなんとか瞳に光を取り込む。
しかし耐えきることは出来ず、蒼に左肩を押されたのかソファに倒れ込む。そのままゆっくりと眠りの中についていく。
「おやすみ」
弾んだ蒼の声が闇の中で染み込んで、消えていく。
☆
「本当に効くんだ……あの薬」
ソファで小さな寝息を立てるショウ。頬を突いても、唇を触っても呻くこともなく反応しない。完全に眠りについたようだ。
カーゴパンツのポケットに手を突っ込んで、封を切った袋を取り出した。そして、ショウの寝顔を見つめる。
もっと近くで見たくて、彼の隣で寝転がる。殆ど全身を密着させることで狭いソファの上に乗っている状態だ。
「可愛いな……」
男子とは思えない顔つき。本当に顔もいいんだよな。
スマホを取り出して寝顔を一枚撮影する。シャッターが切られても彼はやはり反応しない。
「なら、もっと近づいても問題ないし」
頬を擦り付けあって一緒に寝転がる姿がスマホに映される。
その頬を見つめながら、アタシは––––キスしてやろうか、と唇を近づけてからやめることにした。
薬をくれたあの人が言っていた。
『汚してあげればいい。知らないのだから、誰も傷つかない』
せっかくだから、普通はできないこと。しちゃいけないことにした。頬を舐めてみた。味は特にしないが、自分で濡らした頬を見ていると身体が熱くなってくる。もう一度舐めて、その様子を写真に収まる。
「理世に送りつけてやろうかな」
そう考えるが、すぐに下手に煽ることはやめた。密かな自尊心が胸の中に満ちていくのを感じたからだ。
「メイド服を着てくれたってことはやってもいいってことだよな」
思わず頬が緩んでしまう。
立ち上がって、そばに置かれた洗濯籠から自分が着ている女物の服を取り出した。ミニスカにカーディガンに、ワンピースに、下着に……寝ているショウの上にどんどん被せていく。
「––––」
モゴモゴと何か言っているが、気にする必要のない寝言だろう。
今のアタシには、目の前の少年が魚で、ソファがまな板にすら見えてくる。
あと六時間……たっぷり時間はあるんだから。
「それじゃ、いただきます」
もう一度手を合わせて、そう口にした。
皆様、コロナには気をつけてください。