東京都立呪術高等専門学校。そこの教師にして現代最強と名高い特級呪術師、五条悟。
彼が手にする一枚の写真には、修道服を着た銀髪の少女が写っていた。
今しがた呪術界の上層部、呪術総監部に告げられた彼の任務は写真の少女を生け捕りにすること。何でもイギリスを抜け出して日本へやってきたそうで、今回の任務は英国呪術界からの依頼となっている。
「頑固でプライドだけ無駄に高い老害共にしては珍しい」
上は海外の呪術界を見下していて、外交も閉鎖的である。今更交友関係を大事にするような玉でもなし、頼まれたところで素直に引き受けると五条には思えない。相当の額が積まれたと見る。
「うひゃ~こりゃあ凄い。僕より高いんじゃないの?」
呪詛師御用達の闇サイトというものがある。そこでは暗殺や誘拐などの依頼に懸賞金が掛けられている。ダークウェブとはいえ呪術師の間では割と周知されていて、五条にとっては10年程前の苦い記憶を思い出させるものでもある。
興味本位で件の少女を調べてみると、バッチリ掲載されていた。
懸賞金は10億ポンド。日本円にして約1600億円。到底個人が出せる金額ではない。呪術師や呪詛師がいくら束になったってこの額は工面できない。十中八九国家ぐるみの案件と推測できる。
他国とはいえ国家が呪詛師に依頼するほどの案件。加えて呪術総監部へも依頼してくるあたり、なりふり構わずなのが分かる。
非殺傷を条件にしていることから、彼女にはそれだけの価値があるのだろう。それこそ10億ポンドは軽く回収できる程の。
呪詛師だって馬鹿ばかりじゃない。こんな常識外れな額を提示されたら警戒する。契約不履行を案じてではない。よっぽどの危険があると考えられるからだ。人道を外れた者でも見え透いた厄ネタに関わろうとはしない。
だがそれでも危険を顧みないネジの外れた連中はいる。
まして相手は年端もいかない少女。こんな楽な仕事で一生豪遊して暮らせる金が手に入るとは――と群がるバカ共の姿が目に浮かぶ。
既に幾らかの呪詛師が彼女を襲撃したようで、そういった連中は軒並み気絶・負傷した所を呪術師が捕縛したという報告が上がっている。
「やる気でないなぁ」
ろくでなしの称号を欲しいままにする五条といえども、年端もいかない少女を好き好んで甚振る趣味はない。まして罪人ではなく単なる家出少女なのだから、暴力に訴えるのは気も引ける。五条悟は後味スッキリ気持ちよく甚振りたいのだ。
目撃情報を頼りに市街を彷徨っていた彼は、ふと人通りに違和感を覚える。
やけに人通りの少ない箇所がある。人が何かを求めて立ち止まるような場所ではないが、そこを避けて通ると遠回りになる。
観察を続ける内に、人が避けて通っているというより場所が人を遠ざけているという印象を抱いた。さては呪術かと思ったが、呪力は感じられない。わざわざ六眼でも確かめたのだからこれは間違いない。
妙な居心地の悪さを感じながらも、五条はより人のいない方へと導かれるように探索を続けた。
スマホの地図アプリで現在位置を把握しながら進んでいると、残穢を発見する。
「ビンゴ」
勘は当たっていた。しかし不思議なのは、ここまで呪力の痕跡はなかったのにここにきて急に現れたことだ。
残穢を辿っていくと、日も高いというのに酔っ払いだろうか。歩道に座り込んで眠っている男がいた。
近づいてみると、彼は息をしていない。
「死んでるのか……?」
脈はある。耳を澄ますと、心臓の鼓動が聞こえる。
周囲を見渡すと、この状態に陥っているのは一人ではなかった。明らかに一般人ではない容貌の者達が、先へ進むに連れて数を増す。残穢は彼ら呪詛師のものだった。
写真を撮って情報を補助監督へ送る。後は彼らが捕縛・連行用の呪術師を派遣してくれるだろう。
歩みを進めた五条は、やがて交差点へとたどり着く。
信号機が青を示し、車は一台もない。大勢の呪詛師が昏睡状態で倒れ伏す車道。
その中心に、一人の少女がポツンと立っていた。
――その姿を目撃した時、五条は思わず持っていたスマホを取り落とした。
呪霊を呪力で祓うというのは、毒を以て毒を制すのに近い。こう考えた事はないだろうか。正の力なら効率よく負の力の塊である呪霊を祓えるのではないか、と。確かに、呪霊の体内に反転術式の正エネルギーを流し込めば確実に祓える。ところが話はそう簡単ではない。
まず第一の障害が、反転術式の使い手が少ないこと。自分でなく他者に反転術式を使える者となると更に限られる。
第二の障害は実用的でないということ。
反転術式は負の力と負の力を掛け合わせることで正の力を生み出している。それは本来持ち得ない力を生み出す荒業に過ぎない。
強力な反面、消費も激しい。呪術師はただでさえ呪力消費を気にかけながら戦わなければならないのだから、治療はともかく戦闘に使うというのは狂気の沙汰だ。実用に足るには乙骨憂太のような並外れた呪力量か、五条悟のような消耗を極限まで抑えられる六眼が必要になる。
そんな彼らであっても、使いどころは考えなければならない。呪霊に対して特攻を得られるのは接触して内部に流し込んだ場合であり、術式反転は術式効果を裏返すのみで特攻は持たない。他にも正のエネルギーの特攻効果は呪霊にしかないので対呪詛師戦ではこの手は使えない、そもそも反転術式を身に着けているほど高位の術師が『高威力で確実に祓いたい』となった時は領域展開の必中必殺で十分、などの問題がある。
――ではもし、消耗など問題にならないほど莫大な正の力を持つ者がいたとしたら?
強い負の力というのは強力な呪術師や呪霊で見慣れていても、正の力はたかが知れている。今日、五条悟史上で正の力の多寡の観測記録を更新した。
裏技じみた方法で生み出されたものとは違う天然の力。桁違いの質・量・濃度。六眼を通した視界には、修道服を身に纏った少女から放たれる眩いほどの光輝が映っていた。彼には知りえないことだが、それはテレズマと呼ばれる力であった。
加えて、彼女からは呪力が微塵も感じられない。
呪力が一切ないというのは、禪院甚爾を彷彿とさせる。では彼女は天与呪縛のフィジカルギフテッドなのか?
否、これは断じて呪縛などではない。寧ろ祝福だ。
天から与えられたというのも相応しくない。天から遣わされた、と形容するのが正しい。
彼女の持つ正の力が、五条にそう思わせた。
「Hello?」
停止した体に油を差し再起動。動揺を悟られないよう隠した彼は、少女へ声をかける。
「こんにちは」
英語で話しかけると日本語で返ってきた。ペースを乱される。
「悪意や敵意はないんですね」
少女は珍しいものを見るように五条を観察した。
事実、彼にそのような感情はない。家出少女を連れ戻すだけのこと、どうして悪意を抱こうか。
それは呼吸をしないまま意識の戻らない呪詛師達に聞いてみねば分かるまい。
「あ、分かる? 僕ってば紳士だからさ」
努めて相手を刺激しないように、五条はおどけてみせる。
……あるいは素でこうなのかもしれない。
「これ、君がやったの?」
辺りに転がる呪詛師を指して尋ねる。
「やったというか、やられたというか。多少実験には付き合ってもらいましたけど」
少女は首にかけた
「あー、できれば大人しくお兄さんについてきてもらえると助かるんだけど?」
「知らない人にはついていくなと言われているので」
家出少女が今更教えを律儀に守る必要はない筈だ。建前上のそれっぽい理由でやんわりと拒絶された。
交渉は決裂。五条は仕方がないと溜息を吐いて、実力行使に移ることにした。
瞬間移動。コンマ1秒も満たない刹那の内に少女の背後へと回った彼は、少女のうなじに手刀を叩き込む。
「おや?」
意識を刈り取るつもりで放った一撃は、しかし手ごたえが無かった。
スポンジでも殴ったかのような感覚。いや、それも違う。
水を叩いたかのような感覚。振りぬくつもりが、威力を吸収されて想定の位置に届く前に止まった。
「呪具かな」
それにしては呪力が一切感じられない。どころか、彼女の体から溢れ出すソレと同質の力が込められている。
正の力を扱う呪具はないわけではないが、このような呪具は聞いたことがない。
着るだけで誰でも防御力を得られる呪具があるなら、呪術師の生存率は今ほど酷くない。金で命は買えないという呪術界の常識がひっくり返る。
あるいはこの呪具の存在自体がイギリス呪術界が彼女を捕らえようとする理由なのかもしれない、と五条は思った。
同時に、これが海外の呪術だとするなら外の呪術も捨てたものではない、とも。勘違いではあったが、五条の中で海外呪術界に対する評価が少し上がった。
呪具に興味関心も惹かれるが、今はそれどころではない。
生半可な攻撃は通用しないと分かった。
「次はもっと強くいくから、死なないでね?」
今度は正面から。またしても瞬きの間に接近し、戦車の装甲さえ貫く威力の左拳を突き出す。
ここまでしても、五条は彼女を逃げ出した迷子の犬程度にしか認識していない。
拳は修道服に触れたところで止まる。少女はびくともしない。
後ずさりもしないということは、呪具の破壊も攻撃の貫通も起こらなかったということ。追撃の判断はそれで十分だった。
「術式反転『赫』」
重さ数百キロという代物をピンボールのように弾き飛ばす威力。およそ人に向けるモノではないそれを、少女に接射した。
これをもってしても衝撃は修道服に吸収されて内部には至らない。受け流された運動量は地面へ逃げ、爆破解体のような轟音と共にアスファルトに大きな亀裂を走らせるに留まる。余波で寝転がる呪詛師達がポップコーンのように彼方へ吹き飛ばされていった。
少女はその堅牢さを確認、あるいは誇示するようにしたり顔になる。
「何ともないですよ?」
……が。
胸に下げていた十字架は無事では済まない。木端微塵に砕け散った。
「ああああああああああ!!!」
絶叫する少女。
彼女にとっては大事なものだったのか。
いやよく考えなくとも、修道服を着て市街を歩くほど敬虔な信徒の十字架を砕くなど冒涜以外の何物でもない。
日本人的感覚で言うなら、一族代々の墓石を砕くようなもの。
ダイナミック不敬。
そんなことを考えもしない五条。彼は実のところ困っていた。
殺傷ならともかく、指令は生け捕り。先程の手応えからして、通用しそうな攻撃は相手を殺しかねない。既に普通の人間にクリーンヒットすれば風穴を開けるでは済まないレベルのことはしているのだが。
これ以上は攻めあぐねる。
「やっぱり大人しく僕についてきてくれないかな?」
「素材の選定で1か月も掛けたのに……日本じゃ手に入らないのに……」
会話が成立していない。
可愛らしくも、今にも噛みつきそうな怒りの表情で睨みつける少女。
――次の瞬間、彼女の右肩からミイラのような皮と骨だけの赤い腕が飛び出してきた。
六眼をもってしても、少女の呪具と思わしき修道服の術式は読み取れなかった。
それはこの術式においても同じ。非術師だろうと感じ取れる異様で圧倒的な力。
しかしそれを支える理論や仕組みは異世界の法則。宇宙人の言語を読んでいるかのようで、解読が不可能。
ただ、五条は経験と直観でそれの脅威を推測した。
呪術師を評価する時に底なしの呪力量という表現があるが、それは比喩。底を見た事がないだけで、底は確かに存在する。
もし本当に底が無いなら、呪力だけで地球を素粒子レベルで消し飛ばすことさえできる筈。
その点、この腕には本当に底が無いのではないかと思わせる。
無下限呪術で攻撃を防いだとして……力の押し合いになれば、先にエネルギーが枯渇するのはこちらではないのかと危惧する程。
いや、それ以前にこの町が保たないのではないか。
その勘は実際に当たっていた。
少女の肩口から生えた第三の腕――『聖なる右』は、必要な力を必要なだけ引き出す術式。ガス欠という概念はなく、相手によって蛇口の広さが変わる故に瞬間出力に限りがあるだけ。腕を振れば相手を倒す。そういうモノ。
『とある』の主人公上条当麻をして、RPGのコマンドに"倒す"がついてるようなデタラメさと言わしめた力。
『
五条悟を倒すのに過不足ない力が、放たれようとしている。
だからこれは反射的にやってしまったことで、彼にその気はなかった。
「――領域展開」
『天罰術式』
前方のヴェントの術式。
術者に悪意や敵意を抱いた者を、距離場所問わず無差別に昏倒させる魔術。
科学的観点では、酸欠による仮死状態を維持させている。
鎖付き十字架が霊装。本来、神の火の資質がないと扱えない特殊な魔術。
『聖なる右』
右方のフィアンマの術式。
腕を振るう。勝つ。以上。