三冠バのライバル   作:懐古おじさん

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コロナ感染にて投稿間隔が空いてしまいました。申し訳ございません。
皆様も充分お気をつけを。


【本編】栄光の代償 目覚め/面会/リハビリ

「必ずターフに戻って見せます。だから、協力いただけませんか?」

やや頭がぼんやりしている状態で目覚めたパッセリヴァルは、傍らで沈んでいたトレーナーにそうやって右手を差し出した。涙ながらに彼女は何度も頷いた。

まだ、何も終わっていない。これからなのだ。やる前から諦めてなどいられない。諦めるのは全ての可能性が潰えてから、嘆くのはその後でいい。今は復帰プランを練って邁進するだけだ。

体を動かすことが億劫だなあ…。

パッセリヴァルは目が覚めて動かない身体を自覚したが、せいぜい次の日には起きるだろうと思っていた。

ふと目にしたカレンダー日付は、彼女の認識からだいぶ離れた日を指していた。

それだけ寝てたのかなぁ、とひとりごちた。トレーナーが落ち着いて、現状を把握することができた。

ライブ後の緊急搬送とそのカバー。緊急手術からの感染症併発による意識の混濁。集中治療室に一時運ばれ一時意識不明の状態に陥ったこと。パッセリヴァルを巡っての扱いに世間が紛糾し、難しい対応を迫られたこと。そのため記者会見をする事になり、対応のための学園・URAとの話し合いが設けられ紛糾したこと。実際に会見を開いた際にのターフとトゥインクルが暴走したこと。それらの苦労話を聞いて、とんでもない事態を引き起こしていたと自覚した。パッセリヴァルは美心への申し訳無さで胸がつぶれる思いだった。満足に動かせなかった左手に気がつくことなく戯言を言っていたとあとから知って、何度も彼女に謝ることになった。

言われてみれば夢を見ているような感覚で、ターフに戻ると美心に発言した記憶があった。一刻も早く怪我を直してターフに復帰して、今度こそシンボリルドルフとの決着をつける。彼女はそれだけしか頭になかったのだ。

包み隠さず話をしてくれた感謝を込めて、左手を添えて美心の手を握り返した。じわりと確かな温もりが感じられ、彼女の心を落ち着かせた。

落ち着いたのを見越してなのか、ドアのノックがされた。タイミングが良すぎるその合図をしてきたのは医師であった。

落ち着いて聞いてください。その枕詞から放たれた宣告は全治不明。治るかどうか分からず、そもそも歩けるようになるかすらわからない。とりあえず以前のようにレースすることは無理だろう。

落ち着いていたことを感じ取ったのか、嘘偽りなく医師は告げた。結んでいた手が固く握られる。隣を見ると、眉を歪めて真剣な表情で涙をこらえているようだった。

ウマ娘としての終わり。いやその表現ですら生やさしいかもしれない。競技者としての死を意味する、事実上のお手上げ宣言だ。ウマ娘としての死刑宣告とさえ捉えられる、トレーナー同席の上告げられた無情の通告だった。

彼女は軽く考えすぎていた。馬であれば死んでいたであろう骨折という怪我でも、今は人の形をしているのだから最悪の怪我でもさっさと復帰できるだろうと見込んでいたが、全くの見込み違いであった。

身体は違えど、馬と変わらない速度で駆け抜けていく。受け止める身体は以前と比較にならないくらい小さく、細いのだ。脆い構造のそんな身体に競走馬としてのパワーとスピードを添加して、無理がかからないわけがない。種族が違うため想定の人間よりはずっと頑丈にできているはずだが、それでもすべてを受け止めるにはあまりにもその身体は脆かった。

ジャパンカップでの激走の、栄光のコスト。覚悟していたとはいえ、それはあまりにも重すぎる代償だった。

もう治らないかもしれない。走れないかもしれない。いや、それだけにとどまらず、自身の足で一生立つことができない車いす生活を強いられるかも知れない。

二度と走れない、ウマ娘としての死。自立することなく腐り落ちて行く存在に成り下がるかもしれない。

思わずよぎったその考え方に、パッセリヴァルは笑ってしまった。

ーー何が最悪の状態だ。馬であったらターフで死んでいたのだ。安楽死処分とならなかったのは幸運と言えるだろう。死んでないのであれば、次を臨むことができるのだ。次の機会が与えられるのであれば、復帰のチャンスが有るということだ。

治る見込みがない=死とは違うのだ。治らず苦しませるだけなのだからせめて楽に逝かせてやろうとなる馬と違う、人の形をした故のメリット。生かさない手はない。想定より状態が悪かったからというのが何だというのだ。やることは何一つ変わっていなかった。

うっすらと涙を浮かべたトレーナーに対して、彼女は手を重ねた。彼女は初めてそこで涙をこぼした。

トレーナーに対する世間のバッシングと対応を全部任せっきりで、全部彼女におぶさってのうのうと寝ていただけということを理解できたために。

「ごめんなさい、私のせいで。トレーナーにたくさん迷惑を」

「迷惑なんかじゃない。私はパッセリヴァルの決断をいつだって一番近くで応援してきて勇気をもらえたから。あなたの走る眩しい姿に惹かれたのだから。全然迷惑じゃない。

一緒に頑張ろう? 絶対苦しいし、以前とのギャップと走れないその時とを比べて走れなくなっているその事実に心が折れちゃうかもしれない。

でも、私はあなたの走る姿が好き。理不尽に食らいつき、決して折れず、泥臭くもがいて這い上がろうとするそのあり方に惹かれたの。あんな形で、終わりにしてほしくないの」

一緒に頑張ろう。どんなに苦しくても、辛くても、理不尽でも。トレーナーと担当ウマ娘は改めて語り合い、固い絆を確認し合った。

茨だらけの道筋でも折れないことを誓いあったのだ。

 

 

シンボリルドルフから面会依頼が来ている。その意味をパッセリヴァルは初めわかりかねていた。

ーー特に親交があるわけではないのに、何しに来るんだろうとトレーナーに向かって聞いていた。

その言葉を聞いてトレーナーの美心は苦笑していた。

「ライバルに宣戦布告とか、激励とか、お見舞いなんじゃないの?」

ライバル。それは彼女が一方的にそのように考えていただけで、シンボリルドルフは眼中には無いはず。そんな彼女の考えを読まれたのか、足を撫でながら語りかけた。

「ジャパンカップでの激走に感化されたのは私や観客だけじゃないよ。一緒に走っている娘たちの方がもっと感慨を受けたに決まっているわ。それについて一言言いたいのかもね」

どうするの、と聞かれてもどうしましょうとしか返せなかった。会話をしたこともなければ、人となりを人づてにしか聞いたことがない。共通の話題も思い浮かばないし、来てもどうするのだろうか。

そういうところは抜けているのね、と笑われた。

「呼んでおくわ。日程はいつがいい?」

「明日か明後日かなぁ。日にちが開くと気後れしそうだし」

話しておくわ、と言ってトレーナーは立ち上がった。彼女はチームを見る仕事があるし、何よりもジャパンカップの後始末で忙しいのだという。メイクで隠しきれていない目の隈が痛々しい。そのような激務を敷いているのを申し訳ないと思った。

デコピン。子気味よくはねられた指が乾いた音をたてた。衝撃に、思わず涙目になる。

「痛い? つまらないことを気にした罰よ、怪我人は大人しく寝ていなさい。怪我してなくたって、大人のつまらない事情なんだから気にしなくていいわ。ゆっくり休んで色々考える時期よ」

子供といわれると非常に違和感があるが、今の立場からすると仕方のない部分もあった。彼女の両親や親族が誰も来ないことを指摘するわけでもなく、自身の疲れている姿を見せるわけでもなく颯爽と美心は立ち去っていった。

自身の方が生きてる合計年数は長いはずだったが、中央を任されるトレーナーはこう言う部分もできているらしい。感心すると共に、気遣い、踏み込み方などが心地良かった。もう少し話をしていたい気分だったが、忙しい身をひきとめるわけにもいかない。明日か明後日来るであろうシンボリルドルフと何を話すかを決めておくぐらいしかやることが無かった。

感覚を失った脚。痛み止めで誤魔化してそうなっているが、昨日は激痛で寝れないほどだった。文句も言わずじっと耐えていたところを通りがかりの看護師に見咎められ、強制的に薬の量を増やされた。そのため、感覚が曖昧だった。

随分長い間、ベッドに横たわっていることになる。筋肉が落ちているのが目で見なくともはっきりわかる。

無理した代償はあまりに重かった。会見もトレーナーにまかせっきりでどのようなものだったのか確認できていなかった。

無理して度々やってくるトレーナーにコルンバのメンバー。最近は勝ち上がるメンバーも増え、チームも勢いづいているという。元々チームの顔をしているリーダーは今度のCBC賞※に出走予定とのことで追い込みトレーニングの最中のはずだが、隙を見ては顔を出して病院で騒いでいた。

多分気落ちしないように。考え込むことがないように。

骨が完全にくっつくまではトレーニングは厳禁。その間に衰えた筋力を戻すために、どのくらいかかるのか皆目予想がつかない。茨の道でさえ、もっと優しいかもしれない。崖を素足で登るが如くの険しい道が待っている。

それを励ましてくれているのだ。いいトレーナー・チームに恵まれたと思う。毎回馬鹿騒ぎになって追い出されているのが玉に瑕かも知れないが。

記憶がないが、一時は本当に危なかったようだ。URA、トレセン学園やトレーナーへの抗議の声で電話がパンクしたりお問い合わせフォームが機能しなくなり一時閉鎖に追い込まれたりと大変だったようだ。すでにトレーナーやチーム員たちは笑い事にしているが、当時としては決して笑い事ではなかっただろう。

肝心な時に寝ていて何もできなかった自分。それを払拭するには結果で示すしか道は残されていない。彼女の決意の炎が燃え上がった。

決意を新たにしていると、シンボリルドルフその人と対面するときがやってきた。

あれこれ考えこんでは見たものの、彼女と会話するのはレース直前のゲートイン前のときぐらいだった。それも皐月賞では相手にされていなかったためか、ダービーと菊花賞の2回だけだ。ジャパンカップは彼女の意識を向いていないのをいいことに、集中すべく無視していた。

何を話そうか。人生経験は彼女より豊富なはずだったか競走馬としての人生と今までとが邪魔をして、以前の記憶を引っ張り出すことに難儀していた。

共通の話題とか殆どないし、特に世間話をする間柄でもないしなぁ。

そういう意味では彼女らは親交のないライバル同士だった。

「やあ、パッセリヴァル君、でいいかな。お加減はいかがかな?」

「話題選び下手か。パッセリヴァルでもリヴァルでも好きに呼んでいいよ。見てわかるでしょ」

折れちゃったわ私の脚~、とよよよと嘘泣きしてみせた。シンボリルドルフの眉がハの字に変わった。

「いや、たしかにそうだな。こちらが無神経だった…。済まない」

「気にし過ぎか。まあ私以外だったら気にする娘もいるから気をつけたほうがいいと思うけど」

何しに来たの? と落差がひどいボールを投げつけられ、更にシンボリルドルフの困惑が深まっていた。

あっ、これなに話していいか相手もわかっていないな。表情から察し、何を話そうか頭を悩ませた。

こっちから振らないとどの話題に地雷が埋まっている変わらずパスが回ってこなさそう。まあ重症者の入院相手なんざ経験がないから仕方ないよね、と半ばシンボリルドルフに同情した。

「脚は折れてるけど、あんまり自覚はないかな。そもそも鎮静剤突っ込まれているから感覚がないし、しばらくはこのままだって。薬が抜けると痛むけど…まあそれは仕方がないわ。

わたしのことは良くって、聞きたいことがある」

「良くはないんだが…何かな」

「ジャパンカップ」

走りきった感想が聞きたい。その言葉に、シンボリルドルフは顔を思いっきりしかめていた。

「なんというか、すごく”らしくない”走りだったと思ってわ。私が知っているシンボリルドルフは、常に余裕綽々の憎たらしいウマ娘で、常にペースを支配して、自分の思った通りのレース運びで、最小限の労力で、絶好の抜け出しで勝ちを拾っていく。殴りたくなるウマ娘だったんだけどさ」

「…殴りたくなるウマ娘…」

「適当に相手されながらいざ最終局面となると絶好のスパートしてさらっと勝利をかっさらっていくウマ娘に関してそう思わないことなんて無いでしょ。私以外の走っている人に聞いてみたら?

まあそれは良くって、ジャパンカップには私の知っている”シンボリルドルフ”はいなかったの。私が憧れた、腹立たしくも敵わないと思った最強のライバル。ずっと探してたんだけど、どこにもいなかったの」

「…それは」

「別に責めたいわけじゃないわ、勘違いしてほしくないけど」

ただ、とパッセリヴァルは続けた。ただ疑問だったのだ。以前だったらペースも何もかも握って思い通りにする”皇帝”の姿がなかったことが。彼女が見たのは、脚に釣り糸をつけられ支配から必死に逃れようとしている渡り鳥のようなウマ娘だったのだ。とても三冠レースを達成したときとは違う姿だった。

「多分皇帝は、動揺していたんだと思う」

件の皇帝が、他人事のようにボソボソ喋りだした。

「日本中の期待を背負って世界レベルと戦うことになったこと。三冠バが他にもいた事。いつものペースメーカーがいなかったこと。色々あったが、自身も三冠を達成して、目標が行方不明になっていたようだった」

あくまで他人事という体で。シンボリルドルフは綴る。ある種全力で当たることができなかったライバルへの贖罪なのかもしれない。

「大目標であるジャパンカップ制覇という物はあったが、三冠レースほどの熱量を向けられなかった。

スタートして。マークを付けられ。いつもの姿がない。指針も消え失せた。

そうして何もかもががわからなくなってしまい、首輪をつけられてペースが乱された。思ったような展開に持ち込めないそんな中で”初めて日本のウマ娘としての”ジャパンカップ制覇に挑んだ愚か者になってしまったのだと思う」

「要するにレースに集中できていなかったと」

「そういうことになるな」

言い訳無用と、眼が語ってた。そこにはパッセリヴァルが憧れ憎んだ溌剌とした皇帝の姿はなかった。

燃え尽き症候群か。そんなものに皇帝様がなるなんてね。

完璧超人だと思っていたのはどうやら彼女の思い込みで、皇帝も一人の悩める少女だったということなのだろう。その隙を漬け込んで勝利をさらっていたに過ぎない。

やっぱり。ライバル意識をしていたのは自分だけだった。勝手に目標にして、憧れて、恋焦がれて失望する。以前だったら関わり合いになりたいとは思えない面倒な少女の姿だった。

がっかりしなかったといえば嘘になる。だが、ジャパンカップに皇帝がいなかったことは理解できた。

「そっか。私の憧れたライバルは、いなかったのね。勝手に熱くなって、無理をして」

勝手に一人で盛り上がって、自爆して、本当に馬鹿みたい。つぶやくつもりのなかった言葉が漏れ、目から熱い雫がこぼれた。

制御が効かなかった。次から次へと反乱軍のように次々と飛び出していき、そのまま染み込んでいった。

目を固く閉じ、唇を血が滲むほど噛み締めた。情けない姿を晒していたが、せめて声だけでも漏れないようにというせめてもの抵抗だった。

ぐっと拳を握りしめた音がした

「決して許されることではないのは承知している。だけど」

シンボリルドルフが絞り出すように、小さくうめいていた。その続きは聞きたくない。拒否しようにも、うまく言葉が出なかった。

彼女の皇帝としての歩みは菊花賞で終わっていたのだ。ただの蛇足。それに意味を見出そうとしたのはパッセリヴァルだけ。しかも身勝手に彼女を攻め立てて困らせる。

どちらが大人かわかったものではなかった。パッセリヴァルはシンボリルドルフを責めるつもりではなかった。ただの勘違いをした愚か者の戯言など聞き流してくれればそれで完結したのだ。

顎を持ち上げられ、強制的に目を開かせられた。拒否など許さないという、まっすぐ見つめた明確な意志を持ったアメジストの輝きに目が眩んだ。

「もう一度、君と勝負がしたい。本気でぶつかりあいたいと思ったんだ。

今更何をと思うかもしれないが、聞いてもらえないだろうか」

そこでパッセリヴァルは聞いたのだ。皇帝としての生い立ちを。彼女が走るその意味を。

”全てのウマ娘の幸福のために”その壮大な意味を。

「リヴァル、君は私の理想形だった。

寒門出身のウマ娘で、一般家庭の出自。特に特別な事情もなく育ち、デビューに耐えうる耐久性がないと言われながらも見事勝利をしてみせ、成績不振のチームの立役者になった。

どのウマ娘、どんな出自でもチャンスがあると、頂点に立つことができるのだと君が示したくれたのだ。

ただの上澄みで恵まれた環境で育ったエリートが導くのではなく、それらと切磋琢磨しぶつかり合い勝つこと。そしてその姿を見て周りのエリート達が更なる奮起をして激戦なること。

トゥインクルシリーズは単に恵まれたものが規定コース歩むだけじゃないんだと、君が新たな風を吹き込んでくれたんだ」

それは私だけでは到底なし得なかった理想系だったと、雄弁に語った。

「その姿の返礼としては、ジャパンカップでの私の姿は到底許容されるものではないのはわかっている。でも、許されるならば、もう一度最高の舞台で君と戦いたい」

そうすれば、全てのウマ娘の幸福のための”幸福”がわかる気がする。と眼力を込めて熱く語っていた。

勘違いじゃなかった、無駄ではなかった。バッシングと無残な後遺症に晒されて傷ついたパッセリヴァルの心に、シンボリルドルフの言葉は深く刺さった。

「待っててくれる? 時間がかかるわ」

もう雫は落ちては来なかった。代わりに、冷水をかけられ寒空にさらされて凍りついた心に火が灯った。

シンボリルドルフは大きく頷いた。

「それは私からお願いしたい事項だよ、リヴァル。最高の舞台で、待っているよ。君が戻ってくるまで、私は負けずに待っている」

だから最高の勝負をしよう、と右手を差し出した。その手を、固く握り返した。

「そうね、こちらからもお願いするわ」

勝つのは私だけど、という挑発に私が負けるわけにはいかないな、とシンボリルドルフが調子をよく返した。

薄曇りの雲の間からの光が、一筋窓を通じて二人を照らした。

 

 

何度も挫折してしまいたいと思った。言う事は聞かないことは覚悟していたものの、脚が交換されて鉛をつけられているのかと感じるほど言うことを聞かず、動かない。引きずって歩くことも、立っていることもできずにそのままふらついて地面に何度もぶつかった。松葉杖がなければろくに立つこともできない、やせ衰えた姿がそこにはあった。

復帰できないかもしれない、ではない。医師には歩けるようになるだけで奇跡だから、レースに戻ろうなんて考えるなと言われた。仮に歩けるようになった脚が今度こそなくなるぞという脅し文句とともに。

逆を言えば、それを言うことは少なくとも歩けるようになるということなのだろう。医師の無言のメッセージを受け取ったパッセリヴァルは折れるどころか闘志に火がついた。

歩けるのが精一杯と言うなら、不格好でもジョギングしてやる。それをすれば歩けるようになるということだ。

 

これ以上トレーナーに負担も迷惑もかけたくない。ジャパンカップの顛末の詳細を改めてきちんと聞いた際には、申し訳無さと自身の身勝手さで死にたくなった。結局走るためわがままをいって後処理もせずにのうのうと寝ていた恥知らずのウマ娘となっていた。

今度こそうまくやって見せる。そのためには、まず独りで歩けるようにならなければならなかった。

第1段階は、松葉杖を使って体重をかけることだった。

「リハビリはじっくりやっていきましょう」

長い付き合いになるんですからと言われたものの、復帰までの期間を逆算するとそう長いこと時間はかけられない。

シンボリルドルフの海外遠征。今年のトゥインクルシリーズを蹂躙し、アメリカへの本格参戦が来年計画されているはずだ。生前とは事情が違うのか、以前であれば米国遠征が持ち上がるも怪我で断念という流れであったがこの世界ではそんな風潮はない。だがこのままでは彼女の走るレースがなくなるのは明白だった。明言されずともすでに計画され、来年には飛んでいくのだろう。だから今年のうちに決着を付ける必要があった。最も遅いレースで有マ記念だが、こちらはファン投票が絡むため、ジャパンカップが最終期限と言えた。

選手生命を絶たれるほどの怪我からの一年での復帰。その道は果てしなく険しい。

「必ずケアをするようにしてくださいね。まだまだ始めたばかりなんですから、無理をしないように」

理学療法士がその言葉を残し、別の患者のケアにあたっていった。その隙にリハビリを続ける。

地面につかずに長いこと生活していたせいか、脚は青く腫れ上がり血の気が失せていた。折れていない脚も明らかに以前と比べて細くなっているが、それと比較しても六割ぐらいの細さになってしまったのが恨めしい。負担をかけると急激に限界を訴えかけるように熱を持ち、疼き出す。何度トライしても充分に血流が巡らないせいか、痒さと気持ち悪さだけが延々と駆け巡る。

自分の脚なのだから、主人の言う事を聞け。反抗は許さない。

サインを一切無視し、リハビリを続ける。理学療法士に言われた時間をとっくに超過し、途中他の部分のトレーニングを行いながら限界まで酷使する。

使わなければ、治らない。結局血流を正常に戻すためには、自身の脚で立ち上がり踏みつける他ないのだ。

限界を超えないギリギリまで追い込まなければ、とてもではないが間に合わない。

シンボリルドルフは待っているのだ、海外遠征を表明せずにずっと。ライバルが帰ってきて、決着を付ける機会が来ることを。

追い込んで、酷使して、倒れそうになっても踏ん張って。パッセリヴァルは一切弱音を吐かず、誰に言われるわけでもなく黙々とリハビリを続けた。限界に達しふらつき倒れそうになっても、力が入りなくなってもたれかかり這いつくばる姿勢になっても、医学療法士から強く辞めるよう言われても決してやめなかった。何度もやんわりと静止を推奨するトレーナーの説得には耳を貸さなかった。

ただひたすらに、愚直に彼女は実行する。それが最善と信じて。根性を振り絞って。

トレーナー・医師・医学療法士・またはチームメンバー。入れ代わり立ち代わり、急ぐことはない、じっくり直していくことが大事だと何度も説得が入った。

それでは間に合わないんだ。今頑張らなければ全て無に帰すのだ。先を知っているがゆえに、パッセリヴァルは焦り階段飛ばしをするように駆けていった。

倒れるまで、いや倒れて這いつくばり、前に進めなくなるまでリハビリに挑み続けた。毎日毎日飽きることなく繰り返すその姿は、いっそ滑稽なほどだった。這いつくばり、動かない脚に鞭を打って立ち・無理やり動かし続けるその無駄な努力にも見える無茶なリハビリを、決して欠かすことなく毎日続ける、愚かなウマ娘。

頑なに諦めない姿勢を医師が、医学療法士が、トレーナーが見続けることになった。そんな彼女のど根性は、関係者一同を折れさせた。彼女が満足するまで、事故が発生しないようにとほぼ専属で一人監視がつくようになり、問題がないか適宜医師が確認していた。

決して実ることがなさそうな、愚鈍なウマ娘の足掻き。その姿を、病院の入院患者が、関係者が、見舞いに来る人々が見守り続けた。

 

 

春を過ぎ、夏本番に近づいた頃。国内のトゥインクルシリーズを盛り上げていたのはライバル認定をしてくれたシンボリルドルフその人だった。

圧倒的だった。有馬記念でシニア級の最強格のライバルカツラギエースとミスターシービーに完封勝利した勢いそのまま駆け抜けて、シニアレースを蹂躙していた。

4コーナーから抜け出し他を全く寄せ付けず、流したまま日経賞を制覇。天皇賞春を後半400Mスパートのみで抜き去りあっさり差し切り勝ち。自走は宝塚記念だが圧倒的な一番人気。見事に制覇してみせるだろうことは想像に難くなかった。

シンボリルドルフの前に敵はなし。グランドスラムを達成するのではという期待が高まっていた。

宝塚記念の次はステップレースを使わずに、次走は天皇賞秋。春と違い短縮され、中距離2000Mのレースとなったスピード勝負。シンボリルドルフが最も得意と予想される距離で、こちらも制覇するのだろうということが見て取れた。特に左回りを苦にしているわけでもなく、2000Mという距離の強さは皐月賞ですでに確認が取れていた。

ジャパンカップではあんなに近かったのに。思えばずっと先に行ってしまっていた。

現在の進捗は思わしくなかった。冬の姿が消え、気温が上がってきたところでも満足に脚は動かなかった。パッセリヴァルは更に強度を上げ、毎日虐め抜いた。

痛々しいその姿に、もう我慢ならない、限度を超えていると医学療法士が訴えた。

もうやめなさいと。君のその努力する姿はたしかに胸を打つが、以前のようにレースに復帰することは決して敵わないと。レース以外にも生きる道なんていくらでもあるはずだと。

睨むわけでも、起こるわけでも、泣くわけでもなく。淡々とパッセリヴァルはいった。

「ライバルが、待っているのです。止まっている時間なんてないんです」

まるで復帰することが決定事項と言わんばかりのその発言を医師が諌めた。

限界を振り絞って努力を続けるその姿をずっと見ていたのだ。軽い発言ではなかったが、今のパッセリヴァルはあまりも痛々しかった。

まるで叶わぬ夢を追い続ける小さな子供が駄々をこねる姿に写った。

医師たちは美心を見た。もう説得できるのは同じ競技者のライバルか、彼女のトレーナーしかいなかった。

「まだ絶対に復帰できないわけではないはずです。そうですよね?」

「可能性はゼロではありません。しかし…」

「やらせてあげてください」

美心は頭を下げた。深く腰を折りそのまま地面に付きそうなほどの勢いで振り下ろされたそれに、医師が慌てて姿勢を治すよう呼びかける。

「今は、それが彼女の生きる原動力なんです。生きる目的なんです。それを失ったらパッセリヴァルは…」

黙々とトレーニングに励む彼女を、硬い拳を握りしめながら美心はその姿を瞳に焼き付けていた。

根性を振り絞って、最後は根性が尽き果てるまで限界に挑み続けるその恐ろしいまでの復帰への執念。彼女がそれを失ったが最後、どうなるかは誰も皆目予想がつかなかった。

それに、と美心は固い表情を崩した。

「トレーニングの成果が出ていないわけではないですよね」

「そうですが…」

でもやはりとてもないですがレースに復帰できる道のりが険しすぎる、と改めて反対した。元々身体が弱かったパッセリヴァルは怪我前でさえ充分なトレーニングメニューをこなすことができなかったのだ。仮に脚が自由に動くようになったとしても、そこから以前のパフォーマンスに戻すためには今のリハビリとは比にならないレベルの、相当程度の強度のトレーニングが必要となる。パッセリヴァルには、その運動強度に耐えうる素質があるとはとてもではないが言えなかった。

せめてもう少し重症度が低ければ、体質が強ければ、IFの仮定ばかりが述べられる。今のパッセリヴァルには根性以外のあらゆるものが足りていなかった。

そういう見立てでは、医師の言葉は間違っていなかった。間違っているのはパッセリヴァルとそのトレーナーである美心だった。

とてもではないが正気の沙汰でない。言外に含まされていても、そのペアはブレなかった。

狂っていると言われだしたのは今に始まった話ではなかった。周りに何と言われても構わなかった。

お互いを信じて。パッセリヴァルと美心は歩み続けていた。

 

 

「辛い?」

「それはもう。文句を言っても脚は動きませんけど」

恨めしそうに右手で何度も叩いていた。動かない脚一番苛立ち、もどかしい思いをしているのは間違いなく付き合っている彼女自身である。周囲に恨み言を言わないようにしても、やはり復帰の道のりが見えないことへの焦りが隠せていなかった。

専属トレーニングコーチまでさじを投げつつあった。専属コーチ案はずっとパッセリヴァルのリハビリに付き合っていられるわけではない美心が考えていた復帰プランの一つの骨子案であり、費用も自身で負担しようとしていた。それを嗅ぎつけた待ったをかけ、人員紹介から費用まで受け持ったのはURAからだった。

公平性が要求されるURAから援助を受けていると判明した場合、世間の大バッシングは避けられないだろう。それを理解しつつ、URAはよこしたのだ。

”初代ジャパンカップ制覇の日本ウマ娘の復活”のドラマを欲するがために。

ウマ娘ファンに絶大な人気があったミスターシービーは、すでに玄人受けがいいカツラギエースと一緒にトゥインクルシリーズから身を引いている。シンボリルドルフが現在蹂躙しているが、その姿は決して大人気という形ではなかった。

強すぎる三冠バへの期待は1年通じてのグランドスラムを達成できるかどうか。それを止められるクラシック世代のウマ娘が出てくるかというところに当てられていた。前年と違いシンボリルドルフはわかりやすく強いレースを披露しているが、それでもミスターシービーが盛り上げていた前年度より人気がなかった。

強すぎるが故、ライバル不在ゆえの盛り上がりのかけ。圧倒的な力で周りをねじ伏せ蹂躙するその姿は、勇者不在の大地を荒らす魔王を人々に連想させた。綺羅星の如く集まり流星群の中から、周りを交わして先頭を駆け抜けた寒門出身の姿にあてられ、ジャパンカップ制覇の快挙で熱狂したにわかファンたちの熱が冷めつつあったのだ。

このままではトゥインクルシリーズの沽券に関わる。魔王ルドルフを止められるとしたら、勇者パッセリヴァルしかいない。それがURAの考えであり、トレーニングコーチが派遣されてきた理由だ。

方や名門エリートコースを歩んできた、名参謀が付く絶対無敵のウマ娘、魔王シンボリルドルフ。方や一般家庭で生まれた寒門出身の雑草、成績はお世辞にもいいとはいえない平凡トレーナーがついた勇者パッセリヴァル。

正反対の歩みをしてきた彼女らに、ファンたちは期待していた。もう一度、勇者が魔王を討伐する物語を欲していた。

復帰が果たされなかった場合、パッセリヴァルを強行させて怪我の重症化を招いた責任問題が再燃しかねない。URAはなりふりかまっていられなかった。

そんな大人の事情を知ってか知らずか、パッセリヴァルは脚を揉み込む。

「これだけしてもらってできませんでした、なんていいたくない。言い訳したくない。復帰して、今度こそ”私の”ライバルと決着をつけたい」

それがどんなに残酷な決着でも、惨敗でもと。

自信満々に言い切る姿が多かったパッセリヴァルの、ほとんど言わない弱音。今の彼女が精神的に相当参っている証左だろう。

自分ではどうすることもできない、言うことを聞かない身体。一向に良くなる傾向が見えない経過。紹介されたコーチからの微妙な感じの悪さ。諦めの気配が感じられ、他の道を誘導するようになってきたこと。紹介した当初から言動や視線が怪しく、理由をつけて身体に触れてきており、最近それが顕著に増えており限度を超えていること。一度漏れ出すと、弱音や困りごとが止まらずにどんどん溢れ出してきた。

彼女はまだ自身の半分も経験のない、思春期の少女なのだ。迷って当然であり、うまくいかない現実に、理不尽さに投げ出してしまいそうなのだろう。そこを必死になって踏みとどまっている芯の強さがパッセリヴァルたる所以なのだと、美心は考えていた。

とりあえずセクハラクソトレーナーは早急に叩き出して、もっとマシなのを派遣してもらおう。だめなら自身で探した人に頼もう。専属トレーナーの醜態を聞き、即座に実施すべく脳裏に刻みつけた。

ただでさえ困難な道程に、余計な障害物はいらない。変態トレーナーを同時に社会的に抹殺するすべを考えながら、不安で揺れている手を握った。

「不安なのは、わかるよ。うまく行かずに地団駄を踏む経験には、覚えがあるから。

無理しなくていいよ。リヴァルのペースで、焦らずやっていこう。今は焦ってアクシデントを誘発するよりも、着実にやっている段階だよ。大丈夫、今のまま続けていけばきっと秋の最後には間に合うから。

それとあのクソトレーナーは早急に変えるから、もうアイツのことは考えなくていいよ」

途中までの優しいトーンから絶対零度まで冷え込んだ声音に、パッセリヴァルは思わず肩を震わせた。そんな彼女を優しく抱きしめる。

身体の大きさの差から、姉が妹に抱きしめられているような関係に見えるんだろうなと。身体の小ささを少し恨めしく思いながら彼女の髪を梳いた。

「泣いてもいいよ。うまく行かずに焦る気持ちは、よく分かる。競技者じゃなくても、そういう娘をたくさん見てきたから。

辛かったら私にあたってもいいよ。それで気が晴れるなら、いくらでも付き合うよ。

今リヴァルに必要なのは、休憩かな」

ちょっと休んで頑張ろう、と声音を柔らかくして髪をすき続ける。気持ちが良いのか、パッセリヴァルは目を細めながら答えた。

「ちょっとだけ、ちょっと休んでいいですか。少し疲れちゃって…」

ふふっと、やっと子供らしいところが見えたね、と美子は笑った。

「休んで、たくさん頑張って、またちょっと休んで。私達のペースでやっていこうね。どうせ誰も期待されてないコンビだったんだから、世間の目なんて気にせずにやろう」

トレーナーを変更し、リハビリをして、愚痴を言い合って。強度を上げて、また愚痴を重ねて。

毎日飽きもせず彼女たちは努力を積み重ねた。

可能な限りのチームトレーナーの献身。僅かな空き時間でも、可能な限り対面での話と状況を確認のために会いに来て、一緒にリハビリ状況や今の身体の状態、メニューのアレコレなどを話し合った。

ふと自己嫌悪に陥りそうなとき、進捗が思わしなく苛立った時にタイミングよく訪れ激励していくチームメンバー。

彼女たちの献身を無駄にしたくない一心でひたむきに答えようとする全力で必死にメニューを消化していくウマ娘。

前のトレーナーからろくな引き継ぎもなかったにも関わらず現在のパッセリヴァルの状態と彼女の思い、事情を勘案しながら適切な対応をしていく新専属トレーナー。

無茶なトレーニングでも可能な限り寄り添い、見守り続けていた病院スタップ一同。

関係各所の多大な貢献のおかげか、パッセリヴァルのもう動かないかもしれないと言われた脚は、セミが鳴き始めるより前に、地面を踏みしめ彼女の身体を支えていた。

奇跡の復活。パッセリヴァルとしては杖無しでまだ立って歩けるようになっただけという段階だったが、たしかにその足取りはトゥインクルシリーズ復帰を予感させる姿であった。

その姿を、一組の男女が構えた二対のカメラがただじっと追い続けていた。

 




※CBC賞は当時冬の12月開催だった。勝ち馬:ハッピープログレス G2に昇格したりG3に降格、6月/7月/11月/12月と開催月がコロコロ変わってきた重賞である。
天皇賞秋が距離短縮されたのは1984年から。勝ち馬ミスターシービー。
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