白露。
夏の終わりとは名ばかりで、未だ燦然と輝く太陽と茹だるような暑さに誰もが眉をしかめる季節。
とはいえ、そんなことはエアコンを効かせた部屋の中に居れば関係のない話で。その上深夜と来ればなんと過ごしやすいこと。
今晩も俺はベッドの上で薄いブランケットに包まり、熱帯夜特有の寝苦しさとは一切無縁の快適な睡眠に浸っていた。
遠くで聞こえる室外機の駆動音を子守唄に、何人にも妨げられない夢の世界へと意識を投げ捨てる。なんとも素敵な至福のひと時だ。
……だがそれも唐突に終わりを迎える。
ピコン。ピコン。ピコン。
耳に障る無機質な通知音の連続に思わず目が醒める。
半開きの目を擦り、発光するスマホの液晶画面を眺め、重い溜め息を吐く。この動作も最早日課になっていた。
「……おいおい、まだ深夜なんだけど……」
ぶつくさと悪態を吐きながらベッドから這い出ると、先程から烈火の如く電子音を発し続けるスマートフォンを床から拾い上げた。
『ごめんなさい』
『まだ起きてる?』
『迷惑だよね』
『こんな時間に連絡取るなんて』
『ごめんなさい』
『でも無理』
『我慢できない』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『ごめんなさい』
『嫌いにならないで』
呪詛のように連なる謝罪の言葉——。
最早見慣れた光景に、俺は頭を抱えることしか出来なかった。
「……今度は何があったよ」
俺はスマホから乱雑に充電コードを引き抜くと、ラインを起動した。意識はとうに覚醒し切っていた。
『どうしたの?』
すると間髪入れずに既読が付き、濁流のような勢いで返信が来る。
『ついさっきまで配信やってたんだけど』
『コメント欄を見てたら耐えられなくなって』
『ごめんなさい』
「見なきゃいいだろ、って言っても無理だよなぁ……」
俺は枕元の間接照明を点けると、ベッドの端に腰掛けてラインを返した。
『どんなコメントを見ちゃったの?』
『具体的にどのコメントを見たとかじゃなくて』
『なんて言うんだろう』
『上手く説明できない』
『ゆっくりでいいよ』
『ありがとう』
『ごめんなさい』
『やっぱり直接話したい』
「…………マジ、今から?」
深夜早朝時間を問わず数千回数万回と繰り返したやり取りだが、この展開は初めてだった。
通話となると色々と面倒だ。この時間帯はまだ両親も隣の部屋で寝ているだろうし、何より『この子』とまだ関係が続いていることを悟られる訳にはいかない。
声を抑えれば大丈夫か、と思った矢先——。
『いつもの場所で待ってる』
「……はぁ!? こんな時間に!?」
咄嗟に枕元の時計へ目を向ける。時刻は午前二時。健全かつ一般的な人間、特に成長期真っ只中の高校生なら夢の中に居るはずの時間帯だ。
そんな時間に外出するとは正気の沙汰ではない。
思わず小言を申し入れようとしたが、その気概も送られてきた一枚の写真に妨げられる。
青白い電灯に照らされた錆びたジャングルジム、滑り台、砂場。
間違いない、いつもの——俺達が時折逢引の場として利用している——徒歩数分で着く公園だ。特段行けない場所ではない。
「……仕方ない、か……」
『今から行く。そこで待ってて』
手早くメッセージを送信すると、俺は寝間着に薄手のパーカーだけを羽織ってポケットに財布とポケットを突っ込んだ。
エアコンの電源を落とし、リモコンをベッドの上に放り投げる。
「……見捨てる訳にはいかないもんな」
俺は決意めいた言葉を呟き、凍えるように冷たいドアノブに手を掛けた。
その右手はか細く、寒い訳でもないのにガクガクと小刻みに震えていた。
~~~~~~~~~~~~~~
「ねぇちょっと、いい加減起きなって」
「…………………ぅん?」
ふと、誰かに肩を揺すられる感触に目が覚めた。
目だけを動かして上を見ると、平均を遥かに超える長躯の女生徒の姿が視界に影を落とした。
逆光になっていて顔や表情は窺えないが、その恵まれた体格を一目見ただけでそれが誰か判別することが出来た。
「友衛さん」
一言彼女——友衛芽衣良の名を呟くと、俺は再び机に突っ伏した。「あー」という間の抜けた声が半開きの口から漏れ出る。
「六限目はもう終わった?」
「六限目どころかホームルームも終わりましたー」
「……マジかぁ……」
居眠りから起きた直後特有の、漠然とした後悔が俺を襲う。
眠るという行為自体は好きだが、起きた後に感じる根拠のない勿体無さは嫌いだ。
なぜか時間を無駄にしたみたいに思えて、無性に居心地が悪くなる。
……授業丸ごと聞きそびれた時点で手遅れか。
「……授業でどんなことしたんだろうな」
「黒板消えてるから分かんないや。クラスの友達に聞いたら?」
「聞ける友達がいないんだよ……」
「あっ、そういうこと……」
全てを察した、と言った風に芽衣良は苦笑いを浮かべた。
178cmという日本人女性としては飛び抜けた身長を誇る芽衣良——俺は改めてその顔を見上げる。
完全に目が覚めたからか、今度は彼女の顔の細かいパーツまでハッキリと見えた。
端正な顔立ち、直下に薄い隈を湛える吊り上がった目、ウルフカットに整えられた艶やかな茶髪、陶磁器のように白い肌。
顔の下半分は黒マスクに覆われているが、その下に隠れている顎も綺麗に形が整っているようだ。
本当に非の打ち所がない美貌。
一年生の一番最初の席替えで隣同士になったというだけで、こうして友人関係が続いていることが奇跡に思えるほどだ。
ふと、そんな彼女の顔がずいと近付いてくる。
どうやらその場にしゃがみ込んだらしい。両手の指先を机の端に引っ掛け、俺の顔を覗き込んでくる。
ふんわりと柑橘にも似た甘い香りが漂い、どきりと心臓が高鳴った。
「今日は部活あるの?」
薄く化粧の痕が見えるほどの至近距離で彼女は尋ねてきた。
「あるよ。毎週火曜と木曜は部活の日って決まってるから」
「確か誠司が入ってるのって将棋部でしょ? 将棋部って部員が少な過ぎて、最早『幽霊部活』になってるって聞いたけど」
「よ、余計なお世話だっての! まぁ、部員が少ないのは間違ってないけどさ……」
「でしょ? 今の段階で部員は何人だっけ?」
「二年生は俺含めて二人、一年生は一人で計三人……かな」
俺の返答を聞いた芽衣良はにんまりと目元を歪めた。獲物が罠に引っ掛かった狩人が見せるそれに似た、会心の笑みだ。
「そんなに部員が少ないならまともに活動出来ないでしょ?」
「まぁ、そりゃそうだけどさ……」
「……じゃあさ、そんな部活辞めて私のところ来なよ」
「……え?」
一瞬間を置いて俺は芽衣良の言葉の意味を理解した。
「それってつまり、将棋部を辞めろ……ってこと?」
「そうだよ」
俺は思わず身体を起こして芽衣良の顔を見つめた。突然の申し出に自分の顔が引き攣っているのが分かる。
「将棋って一対一でやるボードゲームでしょ? 部員が三人もいたら一局指す時にどうしても一人余っちゃうし、将棋は勝負自体が長時間にもつれ込むことも多い。別のことをする訳でもなく指を咥えて勝負を眺め続けるなんて、どう考えても非効率でしょ?」
「まぁ、そりゃそうだけどさ……」
「でしょ?」
芽衣良は俺の反応を見て勝ち誇ったように笑った。
「だから来なよ、私たちの放送部にさ」
「放送部か……」
俺達の高校の放送部は強豪だ。
俺はあまり詳しくはないが、全国規模で開催される朗読大会に毎年県代表として出場しており、必ず部員の誰かが何かしらの賞を獲るらしい。
現に今年も部員二名が県代表として大会に出場し、そのうち一名が審査員特別賞を受賞したという。
その受賞者というのが芽衣良だ。
二学期の始業式、全校生徒の前で表彰を受けた芽衣良の誇らしげな顔は記憶に新しい。
確かに放送部で仲間と共に放送したり、ラジオドラマを作るのも楽しいかもしれないが……。
「折角のお誘いだけど、ごめんな。俺は将棋部を辞められない」
「へ?」
「言ってなかったっけ? さっき二年生の部員は俺含めて二人って言ったけど、実はもう一人の二年生が学校に来れてなくて不登校になってるんだ」
「………そう」
「折角頑張って毎回部活に来てくれる一年生の子もいるんだしさ。そんな健気で可愛い後輩を見捨てるなんて俺にはとてもとても——」
「知ってるよ。だから?」
それは感情というものを持たない声だった。
愉悦も憤怒も悲哀も、どんな色も持たない無色透明の声色。
マスク越しに紡がれるのは言葉という体を成した、悍ましい音の旋律だ。
……ああ、またこれか。
俺に詰問する時。俺に怒る時。友人との会話の中で俺が槍玉に挙げられた時。
そんな時に芽衣良が放つ——この空気。
いつもの明るい雰囲気は消え失せ、能面のような表情は見る者全てを凍り付かせる。
——芽衣良さん、本気でキレてやがる。
芽衣良が何に苛立っているのか知らない。知りたくもない。知ってはいけない。
だからこそ恐ろしい。
だからこそ負けられない。
「だからって……とにかく、今俺が部活を辞めたら一年生の子が独りぼっちになっちゃうだろ? 友衛さんはさっき『将棋は一対一でやるボードゲーム』って言っていたけど、そもそも一人になったら何も出来なくなるんだよ」
「ふーん。じゃあ不登校のヤツを引き摺り出せばいいじゃん」
「そ、そういう問題じゃないんだ……!」
どんな言葉を使えばこの状況を穏便に切り抜けられるか。
頭を必死にフル回転させながら慎重に言葉を紡ぐ。
「
「……それ、誠司とか部活じゃなくてもいいじゃん」
「それでもだよ」
口の中に湧いた苦い唾で喉を潤し、言い放つ。
「気休め程度でもいい。誰かが俺を必要としてくれるっていうのならさ、それなりに誠意を込めて応えてやりたいだろ? 俺に出来るのは、もうそれくらいしかないからさ」
返事は無い。
俺達以外誰もいない教室は水を打ったような静けさに満ちていて、高鳴った胸の鼓動がかすかに耳の奥で聞こえる。
エアコンの冷気が肌を刺す。
大して寒くもないのに、なぜか自然と身体が震える。
まるで身体が「ここに居たらヤバい」と警告しているかのように。
「も、もう時間だし、そろそろ行くわ! 色々心配してくれてありがとな」
俺は慌てて席から立ち上がると、急いで帰りの支度を始めた。
愛用の通学バッグに教科書を突っ込み、最低限財布と携帯が入っているのを確認する否や足速に扉へ向かい、教室を出て——。
「よくない」
ピタリと足が止まる。
「よくないよ、そんなの」
息をも忘れ、ただ立ち尽くす。
「……アタシは長い付き合いだからさ、誠司のその性格も解ってる。アンタは凄くお人好しだから、誰かが目の前で苦しんでいたら手を差し伸べなきゃいけない性分だっていうことも解ってる」
「…………」
「でもさ、やっぱり今の状況はよくない。絶対に。アタシも馬鹿じゃないんだから分かってんだよ? 今日一日ずっと眠そうにしてたのも、どうせ夜中にアイツに叩き起こされたから——」
「いいんだよ」
「……ッ」
「いいんだよ、もう、全部」
背を向けたまま、俺は芽衣良に微笑みかける。
「やるだけのことをやる。最初からそう決めてんだよ、俺は」
「でも、そのせいでアンタは……ッ」
「もういいよ。どうせ過ぎた話だからさ」
切羽詰まったような、か細く息を飲む音が背中越しに聞こえた。
戸惑い、ためらい、困惑——息遣いだけで芽衣良の感情の機微が読み取れそうで、思わず俺は笑みをこぼした。
友人のためにこれほど怒れる人間を、俺は未だかつて知らない。
思えば思うほど、芽衣良は非の打ち所がないほど素敵な女性だと実感する。
「心配すんなよ。俺は大丈夫だからさ」
だから、俺自身から遠ざけなければならないのだ。
「そっ、か……」
目を伏せた芽衣良の、寂しげな表情が尻目に見える。
違う。彼女にこんな顔をさせる為に言った訳ではない。
だが、方法は最早これしかないのだ。
「じゃあ、もう行くよ。心配してくれてありがとな」
そう言い残し、俺は逃げるように真っ直ぐ扉の方へ歩き出す。
これで良かったんだ。自分にそう言い聞かせて引き戸に手を掛けた瞬間。
「一年も入院とリハビリで棒に振って、しかも右腕に後遺症が残ってるのになにが『過ぎた話』なのッ!?」
「アンタを巻き添えに死のうとした女を、どうしてそんな必死になって助けようだなんて思えるの!?」
慟哭にも似た絶叫。
魂から振り絞ったような諌言に——俺は振り返ることが出来なかった。
胸の奥に湧き上がる様々な感情を抑え込み、歯がゆい感覚を噛み殺す。
——ふざけるな。
喉元まで迫り上がった言葉も上手く声に成らない。
何を叫ぼうと、何をしようと、頭の片隅では俺自身も理解しているのだ。
自分の行いの愚かさと、それがもたらす凄惨な顛末にも。
「……ごめんな、友衛
そうだ。俺はもう足を止められない。
歩を止めたら最後、これまで丹念に築き上げてきた物全てが水泡に帰す。
大切な何かを喪いたくないから。
それだけでこのか細く脆い道は、この人生は生きるに値する。
あの日あの時あの瞬間。俺が生きる理由は最早運命によって決めつけられたのだ。
今更変えようなどとは微塵も思わない。
「……あばよ。部活頑張ってな」
芽衣良からの返答が無いのを確認して、ようやく俺は教室を出た。
廊下を歩き始めた直後、後ろから机を蹴り上げる音が聞こえたような気がした。