詩乃の言葉に恭二は体をピクリと震わせると、いつも詩乃と話す時に浮かべていた憧れを潜ませる様な笑みを浮かべた。
「…へぇ、凄いね、さすが朝田さんだ……《死銃》の秘密を見破ったんだね。
そうだよ、僕が《死銃》の片手だよ。と言っても、今回のBoBの前までは僕が《ステルベン》を動かしてたんだけどね。グロッケンの酒場で《ゼクシード》を撃った時の動画、見てくれてたら嬉しいな。でも、今日だけは現実側の役をやらせてもらったんだ。だって、朝田さんを他の男に触らせるわけにはいかないもんね。いくら兄弟って言ってもね」
「き…兄弟?……じゃあ、昔SAOで殺人ギルドに入ってたっていうの…君の、お兄さん……?」
恭二は流石にそこまで知られているとは思っていなかったので、目を見開いて驚いた。
「へぇ、そんなことまで知ってるんだ。大会中にショウイチ兄さんがそこまで喋ったのか。ひょっとしたら、兄さんも朝田さんのことを気に入ったのかもね。でも、安心してよ誰にも触らせないから、君は僕だけのものなんだから。
今日、朝田さんにこれを注射するのはやめようって思ったんだ。兄さんがこれを聞いたら怒っただろうけど……でも、朝田さんが公園で僕のものになってくれる、って言ったからさ」
その瞬間、彼の表情は一気に暗く、狂信的な悍ましいものとなる。
「…なのに……朝田さん、あんな男と……。騙されてるんだよ、朝田さん。あいつが何を言ったのか知らないけど、すぐに僕が追い出してあげる。忘れさせてあげるからね」
恭二はそこまで言うと、詩乃の左手で右肩を掴んで力任せにシーツの上に押し倒すと、彼女の太腿の上に跨った。
「安心して、朝田さんを独りにはしないから。僕もすぐに行くよ。二人でさ、GGOみたいな……ううん、もっとファンタジーっぽいやつでもいいや。そういう世界に生まれ変わってさ、夫婦になって一緒に暮らそうよ。一緒に冒険して……子供も作ってさ。楽しいよ、きっと」
完全に正気を失っている恭二の言葉を聞きながら、詩乃は麻痺した思考の一部を使ってある事を考え続けていた。バランの話では後少しで警察が来るはずであり、それまでは何がなんでも時間稼ぎをしなければならない。
「まだ…まだ間に合うよ、新川くん。君はまだ現実世界でその注射器は使ってないんでしょ?駄目だよ、死のうなんて思ったら……。お医者さんになるんでしょう?予備校にも通って、高認試験を受けるんでしょう?」
「コウニン……?」
恭二は詩乃の言った言葉をすぐには理解できなかったが、やがて自嘲的な笑みを浮かべながら細長い紙切れをポケットから出した。
「これ見てよ……」
それは詩乃も見慣れた模擬試験の成績表だったのだが、並んでいる得点と偏差値はどの教科も目を疑うほどの惨憺たる数字ばかりであった。
「新川くん…これ……」
「笑っちゃうよね?よくこんな偏差値が出せたねって自分でも驚きだよ」
「でも…ご両親は……」
「こんなの、プリンタを駆使すればいくらでも誤魔化せるよ。親にはアミュスフィアで遠隔指導受けてるって言ってあるしさ。流石にGGOの接続料の引き落としはさせてくれなかったけど、それくらいはゲームの中でいくらでも稼げるはずだった。なのに……」
不意に恭二の顔から笑顔が消えて、代わりに歯を食いしばって憤りを隠せない表情を浮かべながら口を開いた。
「……GGOで最強になれれば、それで僕は満足だったんだ。なのに…あのゼクシードの屑が……AGI型最強なんて嘘を…あの卑怯者のせいで、シュピーゲルはM16もろくに装備できないんだ……畜生…!畜生…!」
恭二はひとしきり怨嗟の声を吐き出すと、詩乃の事を見て不気味な笑みを浮かべながら口を開いた。
「これで……もう、こんな世界なんてどうでもいいよ。さぁ、僕と一つになろう」
恭二は詩乃の髪に自分の指を絡めると頬を撫で始めた。そしてうわ言のように詩乃にとって絶望の言葉を発した。
「朝田さん…僕の朝田さん…ずっと、好きだったんだよ。学校で、朝田さんの、
その言葉が耳に入った瞬間、詩乃は自分の心が一気に冷え込むのを感じた。詩乃は、唇を震わせながら恐る恐る恭二に訊ねた。
「じゃあ君は…あの事件があったから、私に声をかけたの……?」
「そうだよ、もちろん。本物のハンドガンで悪人を射殺した事のある女の子なんて、日本中探しても朝田さんしかいないよ。本当にすごいよ。
言ったでしょ?朝田さんには
「そん………な……」
詩乃はその瞬間、五感の全てが消滅して意識が遠ざかるのを感じた。
色がどんどん消えていきそうになった時、詩乃は恭二の後ろに赤いフォルムの機影が目に映った。
そこで私は、今ここに彼が向かって来ている事を思い出した。
今ここで恭二と鉢合わせれば確実にあの注射器で襲いかかる。だがそれは……
別の問題だ
「だからって、どうにもならないよ……」
詩乃は暗闇の中、無重力のような空間で蹲りながら呟いた。絶望な状況から逃げるように目を瞑ったその時、彼女の横から小さな、しかしはっきりとした声が聞こえた。
『そんな事ないよ』
詩乃が視線だけ動かして横を見ると、そこにはサンドイエローのマフラーを巻いたシノンが自分の肩に手を置きながら立っていた。
『私たちは、今までずっと自分しか見てこなかった。自分の為にしか戦わなかった。でも……もう遅すぎるかもしれないけど、せめて最後に一度だけ、誰かの為に戦おうよ』
詩乃はゆっくりと瞼を開けると、シノンが差し出した手を恐る恐る握った。
『さあ行こう……!』
シノンはにこりと笑うと、詩乃を助け起こしてはるか上に見える光に向けて上昇を開始した。
詩乃の意識が現実世界に再接続した時、恭二は彼女の着ているトレーナーを引き抜こうとしているところであった。しかし片手では上手くいかないようで、若干顔に苛立ちの表情が浮んでいた。
詩乃は恭二の肩に置いていた右手を体に引き寄せると、次の瞬間恭二の顔面を思いっきり殴った。恭二の体が揺らいだのと同時に、自分に突きつけられていた注射器を左手でベッドに押しつけると、跨っている恭二の股の下から足を引き抜いた。
なおも自分に縋りつこうとする恭二と揉み合いになる内に、詩乃は恭二を突き飛ばした衝撃でベッドから転がり落ちた。
背中を強く打ったせいで息を詰まらせながらも、詩乃は急いで起き上がって玄関に向かって走り出した。
途中に置かれているマットに足を取られながらもなんとか玄関にたどり着き、鍵とチェーンを解除してドアノブを回そうとした時、詩乃は自分の右足が冷たい手に握られたのを感じた。
「っ……!?」
息を呑みながら後ろを振り返ると、そこには魂が抜け落ちたかのような顔をした恭二が足を掴んでいた。どうにか抜け出そうと詩乃は必死に抵抗したが、恭二の常軌を逸した力によって引きずられてしまい、ついに恭二の体が彼女の上にのし掛かってきた。
「アサダサン!アサダサン!アサダサン!アサダサン!」
もはや呪詛としか言えない喋り方で自分の名前を呼ぶ恭二に、詩乃は恐怖しか感じなかった。
後少し、恭二の顔が近づいたら首筋を噛み付いてやろうと口を緊張させたその時。
ガンッ!ガンッ!バキンッ!
金属の割れる音と共に鉄製の扉がこっちに倒れて来た。
冷たい空気と共にギギギと音を立てながら落ちてくる扉に恭二と詩乃は驚いて咄嗟に恭二が奥の部屋に転がって避けていた。
詩乃も先に恭二が逃げた事で咄嗟に風呂場に転がり込んだ。
倒れた扉の上から誰か一瞬で入って来きた。その赤い姿に詩乃は一瞬誰なのかと思うと目を見開いた。
「フ…リューゲル……?」
「ああ、そうだ。さっきぶりだな。シノン」
えんじ色のライダージャケットを着たフリューゲルと名乗った青年を見て詩乃はその安心から思わず意識が遠のいてしまい、風呂場で視界がブラックアウトしてしまった。
フリューゲル……元い修也は着ていたジャケットを意識の失った詩乃に被せて風呂場の扉を閉じ、奥の部屋に逃げた恭二を見ていた。
「さて、君がもう一人の死銃だって?」
「フリューゲル…お前が…僕のシノンを……!!」
そう言って恭二は高圧注射器を持ったまま修也に恨み声を呟く。
そして修也はドアをこじ開けた防災用のハンマーを放る。
「何を言っている。女性を襲った時点で君は男性として失格だ。いや……殺人に加担したから人間失格かな?まあ、どちらでも良い。投降したほうが身のためだと思うぞ?」
修也が最後の慈悲でそういうも恭二は目を真っ赤にして話も聞かずに右手に注射器を持って飛び掛かって来た。
「黙れぇぇぇぇええ!!」
注射器を持って突っ込んでくる恭二に修也は容赦無く懐にパンチを入れた。
ゴッ!「ガッ……」
勢いよくくの字に曲った恭二の体は奥の部屋の本棚などを巻き込んで吹っ飛ばされた。
パキッという嫌な音が聞こえた気もしたが女性に危害を与える奴に慈悲などないっと言った様子で恭二が気絶したのを確認すると部屋にあったタオルを拝借して注射器を回収して、風呂場の扉を開けた。
「大丈夫か……?」
修也は風呂場に転がり込んだ詩乃を見たが……
「気絶している……」
ジャケットであったまりながら倒れている詩乃を確認し、修也は仕方がないと思うと彼女をゲームの世界の時のように持ち上げて、お姫様抱っこをすると部屋を出た。
そこでは修也の呼んだ警察が待っており、部屋の奥で気絶している恭二の引き渡しと回収した注射器を渡すと警察が事情を把握してそのまま病院まで送って貰った。
そこで詩乃を預けると自分はそのまま警察に事情説明をした。この時、警官たちの目が生暖かい目だったのは気にしない事にした。