真・恋姫†無双 妄想伝   作:コイル

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第15話  刻痕

「戦ってたんだよな……、俺」

 

 独り言の答えは脳裏に焼き付けられた鮮明すぎる映像と、痛む傷で十分だろう。

 怒涛の展開からようやく解放され、時間のできた一刀は、ひとり城壁の上。夕暮れ空に佇んでいる。

 本当なら安静が必要な体を引きずり、昇った内壁。さすがに街を抜け、外壁まで行くのは無理があり、ここらで妥協に。

 一刀はどうしても見たくなったのだ。敵も味方も、多くが死んだ、あの場所を。戦場を。

 絶対に風化させないために。刻みつけておくために。

 けれど残念ながらここからでは、いくら背伸びをしてみても外までは見えず、背に痛みが走るだけ。

 ――なら、せめて。

 ここで刻もう。戒めの言葉を。

 

「殺したんだ、人を」

 

 直接は手を下さずとも、部隊を指揮して命を奪った。味方も敵も。なおさら罪深い、と一刀は思う。

 不殺だなんだと(のたま)い、何をした?

 言うことだけは一丁前、やったことは半人前以下ではないか。

 睨みひとつで敵を釘付けにした霞とは違う。単に己が手を汚すのを嫌い、他人の手を汚させただけ。思えば恋の、あの凄まじいモノを引き起こした一因もそこにある。

 自己嫌悪で見つめる頼りない掌を、一刀は強く握った。

 葛藤。それは殺を認めない信念と、不殺に甘えた嫌悪。理想と現実だ。

 安易に殺人を許容するつもりはさらさらない。問題なのは不殺を貫くことで、どうしても弊害が生まれることだ。

 なら、それをどう解消する? その自問に一刀はいつまでも答えを見出せなかった。

 それはそうだろう。もとの近代日本ですら、法律上、自衛のための殺人は許容され得る。善悪の前に、方法論として他に解決が望めないのだから。

 それを、この乱世で覆そうと? 思い上がりもいいところだ。

 結局、一刀の理想など、だったらいいなの夢物語でしかない。何をどう言い繕おうと、殺意を持つ相手への対処は先に殺してしまうのが、もっとも確実で効果的なのだ。

 だが、それでも一刀は理想を追った。

 譲れない。諦められない。捨てられない。偽善的で。独断的で。短絡的で。非合理的なのも全部、自覚している。でも、割り切ってしまったら、取り返しのつかない大事な何かを失ってしまう。一刀はそんな気がしてならなかった。

 夕刻の風に優しく吹かれて、答えの見つからぬ時が刻々と過ぎる。

 気づけば、涙が静かに頬を伝っていた。

 理由は自分でもよくわからない。

 生きている実感を改めて得たからかもしれない。死んでいった者たちへの哀悼からかもしれない。緊張の連続からの反動かもしれない。情けない自分への失望からかもしれない。

 ただ、つらつらと涙は流れ続け、止めるタイミングは、しばらくのちにやってきた。

 

「こんな所で何をしておるんじゃ」

 

 呼びかけに急いで涙を袖で拭い、振り向くと夕焼けに輪郭の沈む管輅が、探したぞ、と近づく。

 眩しさにかざした手を下げ、一刀は答えた。

 

「ちょっと、考え事」

「……戦のことか?」

「うん。まあ、ね」

「下手な考え休むに似たりじゃ。同じ休むなら寝台の上にせい」

 

 確かに下手な考えだ。見つからない答えを求めて、こんな場所まで来てしまったのだから。

 一刀は軽く苦笑いして、視線を移した。眼下。橙色に染まる濮陽の街へ。

 

「俺さ、もっともっと強くなりたい。甘すぎだった。何もできなかった。今のままじゃ駄目なんだ」

「……ならば、殺さずもこれまでか?」

 

 ややあって、一刀は見下ろす首を横に振る。

 

「ううん。俺はやっぱり誰も傷つけたくない。だから、無茶な理想を貫くだけの力が少しでも欲しいんだ」

「どういう意味じゃ?」

「この戦で俺には死ぬか、相手を殺すか。その二つしか選択肢がなかった。でも、もし力があったら。例えば、恋や霞みたいな。そしたら選べる道は他にもあったんじゃないかって」

 

 それは、と口を挟んだきり、管輅は黙する。

 だよなー、と矩形の胸壁に手を置く一刀は、夕空に身を乗り出した。

 浮かぶのは腹ばいの体と、また苦笑い。わかってる、と口ずさみ、

 

「どれだけ馬鹿げた考えかなんてさ。けど、そこだけは曲げたくないんだ」

「…………」

 

 それは突き詰めれば、戦わずにして勝つということだ。まさに究極の勝利と言えよう。

 孫子の有名な一節にもこうある。『百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なる者なり』と。

 だが、それは至難がゆえに善の善。万人が望みながらも、万人が()いた道。

 しかも、百戦百敗の男がそれを成そうと言うのだから、沈黙で済んでいるだけ優しいものだ。

 さらに言えば、

 

「それを……あの主人の下で叶えると言うのか?」

「しょーがないでしょ。成り行きとはいえ返事しちゃったし。それに、これでも真面目に頑張ってみようと今は思ってるんだよ」

「わかっておるのか? あれは覇王と称される者じゃ。すなわち、この乱世を力で治めようとする者じゃぞ?」

 

 ブラブラと揺れていた足は地に戻り、一刀は頷きながら首を掻く。

 

「わかりたくないけど、わかってる。相性悪いだろうねきっと」

「悪いどころか正反対じゃて」

 

 曹孟徳は覇道を行く。その道において、情け容赦は排他されるべきもの。目指すは武力による天下統一だ。

 平和を願う心は同じであっても、一刀の求めるものとは道筋がまったく異なる。

 ゆえに、二つの道は漸近(ぜんきん)線。限りなく近づくことはあっても、決して交わることはなく、絶対に相容れない。

 

「けど、逆にそんな覇王の下でだからこそ、やれることもあると思うんだ」

「仮にそうじゃとして、あれがおぬしの言葉なんぞに耳を傾けると思っておるのか?」

「――うっ。そこはほら、その、あれだよ。諦めずに? 頑張るだけ? みたいな?」

「なんじゃその根拠もなければ思慮もない、煮詰まった汁粉も驚くほどの甘ったるい考えは……」

 

 前向きなのは結構なことだが、世の中、それだけでまかり通るほど甘くはない。

 正直者が報われて、夢追い人が大成するのは、基本的に想像と物語の中だけだ。

 現実は往々にして、正直者が泣きを見て、夢追い人は不相応な高望みに潰れるか、相応な平凡に妥協するもの。残酷にできている。

 毎度のことながら管輅は大いに呆れ、一刀もどんなお説教が始まるのかと身構える。しかし、どういうわけだか、今日の老人は大人しかった。

 

「……ならば思う通りに励んでみるがよい」

「え?」

 

 思いがけない反応に、少し戸惑っていると、

 

「折角じゃ。景気づけ代わりに、ワシもあのことについて伝えておくかのう」

「あのこと……?」

「うむ。おぬしがワシのもとを訪れた理由。すべての始まり、おぬしの予言についてじゃ」

 

 予言――その単語ひとつで妙な胸のざわつきを覚えて、呼吸が早くなる。

 管輅は言った。

 

「北郷一刀。おぬしこそ紛れもなく、ワシが予言に見た天の御遣い人じゃ」

 

 重い。息苦しい。何か途轍もないモノが両肩に圧し掛かったと一刀は感じる。

 それはやはり忌避の感情からだろう。

 ずっと避けてきた。今でこそ、形式的に御遣いを名乗ることにはなったが、それでもまだ決め手というか、最後の一線というか、管輅からの明言だけは避けられていた。

 一刀にとって予言の詳細とは、現世に戻るための垂涎の情報でありながら、いつからか最大の禁忌ともなっていたのだ。

 だが、それもここまでにしよう。

 一刀は喉を鳴らして覚悟の息を飲み込み、

 

「――とはいっても、その、なんじゃ。実のところ、おぬしがどのように乱世を治めるのかは皆目、知らん」

「はい……?」

 

 気張っていた肩はカクンと落ちる。

 知らんとはこれ如何に。なら一体何を根拠にして? と思うのは当たり前の流れで。

 それについては曰く、

 

「ワシの予言とは知っての通り、未知を断片的に垣間見るものじゃ。しかも己の意思とは関係なしに、一方的に見せられるだけの極めて不完全なもの。よっておぬしについて見たのは三つの場面だけじゃ」

 

 つまり、老人が予言で見たものとは、

 

「ひとつ。おぬしがこの世界に降り立つ光」

「目が覚めたら山の中だった時のあれか。……光ってたんだ俺」

「二つ。その者が持つ宝剣」

「ああ、だから南皮で初めて会った時、あんなにジロジロと」

「そして三つ。それは、笑顔じゃ」

「うんうん。救世主と言えばやっぱ笑顔だよなぁ。あ、今、気づいたんだけど、英雄と笑顔って漢字で書くと字面が似てるよね!」 

「おお、確か似てる言われれば、似ておるな! かっかっか」

「――かっかっか、じゃねえよ! 似てねえよ! つか、なんだよ笑顔って!!」

 

 一刀の追及に、管輅は何かを思い出すように遠くを見つめ、

 

「その者の周りは、それはそれは暖かい笑顔で包まれておったんじゃ。この荒んだ乱世では考えられぬ心の底からの笑顔での」

「……なにそれ? じゃあ、じいさんはそれだけで俺を天の御使い人だと……?」

「それだけとはなんじゃ。それだけとは。実際、おぬしは天から降ってきたし、ワシにはわかる。あの笑顔こそが乱世の終わりを象徴するものじゃと」

 

 少しだけムキになって答える老人に、一刀はもう我慢の限界だった。

 

「ぷっ――あははっ、あはははははははははっ なんだよそれっ!」

「な、何がおかしい! それほど皆よい笑顔をしておったんじゃ! おぬしに何がわかる!」

「ご、ごめんごめん。だって、くっ、違うんだ。俺はてっきり、ほら。大軍勢を相手に戦う? とかさ、敵の大将を討ち果たす? みたいなのを想像してたから……だっ、だから、はははははっ――」

「わ、笑うでない! じゃから最初に、おぬしが何を為すかなんぞ知らんと言ったではないか!」

 

 気恥ずかしさで、茹でタコのように真っ赤な管輅を他所に、一刀は笑う。

 腹を抱え、傷口が痛むと盛大に。ひと笑いする毎、肩の荷が溶け込んでいくという、なんとも不思議な感覚を覚えながら、涙をこぼして笑った。

 結局の話、天の御遣いが世界を救うという予言は明確なものではなかった。

 それはあくまで管輅が見て感じたことを、手前勝手に紡ぎ合わせただけの曖昧な未来。世界を救うなどとは甚だしい、小さな小さな希望なのかもしれない。

 しかし、一刀にとっては仰々しい予言なんかより、よっぽど実感しやすくて。おまえが世界を救うんだと言われるより、誰かを笑顔にできると言われた方が遥かに嬉しくて。

 

「ねえ、そこにじいさんはいた?」

「ワシがか? いや、多くの者がおったからのう。一瞬ではすべて把握しきれんかったわい」

「そっか。じゃあ、きっとじいさんも、それから椿も、そこにいたと思うよ。てか、いてくれないと困る」

「なっ、馬鹿者め! 何を生意気なことを……」

 

 覚悟の重圧は、いつの間にか、柔らかな温もりに変わり。地平線へ沈みゆく夕日と同様、心へ穏やかに馴染んでいく。

 見上げれば、輝きだした星たちに、見たい笑顔が重なっていく。

 椿に管輅。恋、霞、陳宮も。平原の人々に、南皮のおやっさんや劉備さんたち。思い浮かぶその数の多さに一刀自身が驚かされて、

 ――それくらいの恩返しはしないとな!

 ずっと揺らいでいた己の存在理由が、少しだけ実像を伴った気がした。

 芯に一本。そこから始めてみようと。ボロボロの体に活力が沸いてくる。

 ところが、やる気の視線を戻せば、何故か管輅の表情は思い詰めたように固いままで、白髪の頭が深々と下がり、

 

「それと、すまん。おぬしは以前、もとの世界にはどうすれば戻れるかと聞いたな? その答えじゃが……残念ながらワシには何もわからん」

 

 やめろよ、と一刀はすぐに抱き起こし、

 

「いいよ。謝らなくたって。俺だって、そうじゃないかなって覚悟はしてたさ」

 

 よしんば解決法があったとしても、人智を大きく超えた奇跡を簡単に再現できるのかと疑っていた。

 どっちにしたって、簡単ではないと。何より、異世界に飛ばされたのは管輅のせいではないのだから。

 

「でも、そっか。これで手掛かりも完全になし、か」

「……いや。手掛かりと呼べるかはどうかはわからんが、これだけは言える。おぬしがこの世界に降り立った意味は必ずあるはずじゃ。なれば、もし天界に戻れるとするなら、それはその使命を果たした時かもしれん」

 

 ならその意味、使命とは? と問われれば――、わかるわけがない。

 またもすまん、と低頭の管輅を遮る一刀は、意外にも憑き物が落ちたようにすっきりしていた。

 十分だった。

 たとえ使命とやらがわからなくとも、本人のやりたいことは、漠然とだが見つかったのだから。

 それに、どこかでホッともしている。

 世界に滞在を許されたような気がして。駆け足でゴールを切らなくてもいい。もう少し、皆と歩んでいける。そのくらいにはもう、一刀はこの世界に愛着を覚えていて、

 ――この絶景も見納めにはまだ早いよな!

 邪魔な建造物も。無粋な人工灯も。淀んだガスもない。まっさらな夜には、満天の星空がすっかり広がっていて。

 一刀はありがとうを告げると、宮城に戻ることにした。

 今日はぐっすり眠れそうだ。

 

***

 

 華琳は城壁にもたれ掛かれ、暗がりに潜んで夜空を仰ぐ。

 濮陽に新たな統治体制を敷くために、各所へ指示を飛ばし、ようやく、ひと段落ついたところで、息抜きがてらに外にでたら、思わぬ場面に出くわしてしまう。

 さっさとその場を後にすればよかったものの、軽い好奇心から漏れ聞こえてくる会話につい聞き耳を立ててしまい、結局、最後まで付き合うことに。おかげで、機会を完全に逸して、こうして、まるでコソ泥のように二人が立ち去るのを待っていたのだが、何故か老人の方が一人残り、いつまでたっても帰る気配がない。

 これはひょっとして、こちらの存在に気づいているのでは? と華琳が思った時だ。

 

「いつまでそうしておられるつもりか?」

「……あら、やっぱり気づいていたの」

 

 華琳は腕組みしたまま、月明りの元へ姿を現す。

 

「盗み聞きとは感心せん趣味じゃのう?」

「人聞きの悪い冗談はやめてちょうだい。今しがた、たまたま居合わせただけよ」

「ほっほ、物は言いようとはこのことじゃな」

 

 これに少しだけムッとする華琳は、

 

「しつこいわね。こっちはわざわざ話の邪魔にならないよう気を使ってあげただけでしょう? それより、報告でも一刀が天の御遣いだ、なんて笑い話が上がっていたけれど……まさか本物だとは、ねぇ?」

 

 "ねぇ"の部分をやたら強調、仕返しとばかりに含みを持たせてみたりして。

 管輅の目力が少しだけ鋭くなる。

 

「……どうするつもりじゃ?」

「ふふっ、あなたでも弟子の心配はするのね。でも安心なさい。何もしないわ。救世の予言なんて端から興味ないもの」

 

 組んだ腕を片方解いてヒラヒラ。他意はないとおどけてみせる。

 一息。

 貴殿らしい、と管輅も緊張を解き、

 

「それにしても弟子、か」

「あら、違うの? 一刀に剣術を指南したのはあなたでしょう?」

「その通りじゃ。相違はない。一刀は間違いなくワシの弟子じゃ。ただの、何分、これまで弟子なんぞ取ったことがなくてのう。改めて口にされると、何やら不思議な感じがするもんじゃと」

 

 そう、と華琳は珍しく優しい笑みをつくり、

 

「随分と手のかかる弟子のようね?」

「呆れるほどに。じゃが、これが中々どうして、光る一面もあってのう」

「結構なことじゃない。けど、あの甘さは頂けないわ」

「……何が今しがたじゃ。いつから聞いておったかと思えば、ほとんど最初からではないか」

 

 さて、なんのことかしら? と、とぼけてみせると、管輅も、然り、と笑い、

 

「一刀は甘い。まだまだ現実と理想を割り切れないでいる。指摘されるまでもなく、かねてよりの懸念じゃった」

「なら、どうして止めなかったの? ここのままだと、死ぬわよ? あなたの愛弟子は」

「……はっきりと言いおるのう」

「周りくどいのは嫌いなのよ」

 

 じゃろうな、と管輅は渋い顔をするが、またも、然り、と頷き、

 

「じゃが、貴殿とて武に生きる者。一刀の抱く志がどれだけ尊いかもわかるであろう?」

「尊いですって? あれでは尊いどころか妄想の類よ」

「たしかにのう。否定はせん。ワシもそう思って捨てた道じゃからな。ゆえにワシは一刀がひたすらに眩しく見えるんじゃ」

「…………」

 

 らしくない、と華琳は思った。陳留の謁見の時とは印象ががらりと変わっているのだ。

 あの時、管輅は強烈な異才を放っていた。

 どこに権力者へ向かって、凶事を延々垂れ流す馬鹿がいるのか。普通は誤魔化す。実際に、華琳もそういう場面を幾度となく目撃してきた。

 そのせいもあって、とかく易者や人相見といった、佞言(ねいげん)をさも真実であるかのように語り、そこに微塵の後ろめたさも持たぬ厚顔な輩を嫌ってきた。

 だが、管輅は違った。

 真偽は別として、卜占なんて不誠実なものに命を張った。出る卦だけを信じて、彼は誠実であった。それは到底、俗人に真似できることではない。だから華琳は称えたのだ。

 だというのに、これは何だ? 言っていることは世俗に塗れ、凡庸そのもの。これではまるで孫を溺愛でするただの好々爺のようではないか。

 そう思ったからこそ、華琳は言うべきことを言った。

 

「けれど、閃光とは月夜の闇と大差ないものよ」

 

 どちらも、視界はあらず。すなわち、善も程度を誤れば悪となる。過ぎたるはなお及ばざるが如しだと。

 

「重ねて然り。じゃから曹孟徳殿、一刀のこと、どうかお頼み申す。この通りじゃ」

 

 管輅は惜しみなく深々と頭を下げてみせる。

 その姿はやはり、不肖の弟子、いや孫を送り出すただの老人にしか見えなくて。

 なるほど。老賢も人の親ね、と、今は亡き祖父・曹騰の面影をそこに見ながら、華琳は託された後事を受諾する。

 

「……あなたに頼まれるまでもない。あれはすでに私の所有物よ。だから、安心なさい。あっさり死なないくらいには鍛えてあげるから」

「恩に着る」

 

 かくして、一刀本人はとんと知らぬ内。闇夜の会談はしめやかに終わりを迎えるのであった。

 

***

 

 誰もいないはずの外壁、南門上の一点。闇夜の上空を濃い黒に塗り潰すソレは、人知れず、不気味に笑う。

 ただ、その笑い声は人間の耳にはそうと認識できないほど不吉で、まったく別の何かにしか聞こえない。

 

「――素晴らしい。これは重畳」

 

 漂う言霊は亡者に捧ぐ祝詞(のりと)。あるいは、生者を(くび)呪詛(じゅそ)。聞く者すべてが泣きながら笑い、生きながらに死へと誘われる冥府の調べ。

 間違いなく狂っている。悉く外れている。それは、この世に()()()()()()()()()()だった。

  

「くくっ、ようやく開演の刻だ――踊れや踊れ、哀れな道化よ」

 

 不可視の鳴動が大気を揺さぶり、特異の黒は波及の中で常夜に融けた。 

 

『足掻けや足掻け、愛しき道化よ――!』

 

 怖気が走る凶兆の余韻が、白々しいまでの静寂にこだまする。

 岐路の先に待ち受ける災いは、確かに蠢き始めていた。




読んでいただきありがとうございます。

さあ次回からは新天地。
陳留での生活はどうなることやら。

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