ごった煮のような初日よりニ日。陳留生活、三日目の朝である。
濃すぎた初日のせいで未だに食傷気味ではあるが、一刀は無事生きている。いや、生かされていると言うべきか。
ここが初日を過ぎれば順風満帆なんてぬるい環境の筈がない。漕ぎ出した航海は大時化。高波は次から次へと押し寄せ、一歩進んで二歩下がった気分。今回の嵐は特に質が悪かった。
ひとり歩く回廊で一刀は激しくごちる。
「なんなんだよ、あの態度! 男嫌いだとしても、もうちょっと言い方ってもんがあるだろう! ああーッ、ムカつく……!!」
桂花だ。
ここ数日、一刀は、とある理由から彼女に何度も接触を試みている。
が、そこは水魚改め、水油の交わりとでも言うべき二人。
取り付く島など存在せず、話しかければ十倍返しの罵声が返ってくる。
管輅との関係も始まりは中々の難物であったが、桂花との現状は数段上の酷さ。会話すらままならず。新たな災難としてその身に降りかかっていた。
「……なんで。なんで桂花に文字なんか教わらなきゃいけないんだよ――ッッ!!」
とある理由。なぜ一刀が彼女を"桂花"と真名で呼ぶのかも。どうしてよりにもよって彼女に文字を習うのかも。
すべてはあの日。桂花が華琳の執務室へと乱入した後に起こった出来事。悪魔の人事にあった。
***
二日前――。
海(中庭の池)越え、山(階段)越え、谷(溝)越えて、押し開いた執務室の扉は開きっぱなし。豪快に雪崩れ込んだ桂花は、肺の底から空気を捻り出して叫んでいた。
「ご、ご無事ですか、華琳さまァ!?」
敬愛する主を救わん(妄想)がため、精も根も尽き果て(運動不足)必死に滑り込み(転倒)、されど、毅然と参上の顔だけは上げる。
が、目の当たりにする光景は、想定とは丸っきり正反対。ケダモノは借りてきた猫よろしく部屋の隅で。主は威風堂々と断罪の鎌を担ぐ。
はて? これでは、どう見ても窮地にあるのはケダモノの方ではないか。まばたき多めで桂花は思う。
――あ、あら? なんでよ……?
が、しかしそれも一瞬のこと。よくよく考えれば、あんな獣畜生に麗しの華琳さまが遅れを取るわけがないと改め、桂花はほんのすこ~しだけ妄想を惜しだ。
ただそうなると。
この登場は一体なんだ? となるわけで。
あるのは、そこはかとなく漂う場違い感に、出オチで滑った感。主も哀れみの半目をこちらに向けているではないか。
――ま、拙いわ。
これは拙い。明らかな非礼があった。ついでに今もだらしなく這いつくばったままである。
状況に気づき、桂花はハッと見開く表情を作り、
――駄目! ここままだと、咎められるのは私。あいつの前で無様にお仕置きされてしま……って、え、お仕置き? 華琳さまの、お仕置……? お仕置きで、私はあんなことやこんなことをされて――むしろ、ごご、褒美じゃない! 何を拒むと言うの桂花! そうよ、お仕置きしてください、華琳さまぁぁ~~!!
本当に拙い。違う意味でやばい。ガチだ。
駆け巡るバラ色、いや、百合色の妄想に薄ら笑いを浮かべ、華琳からはいよいよもって気付け代わりに咳払いが飛んでくる。
そして桂花はまたもハッ。
正常な意識を取り戻すと、慌ててくたくたの半身を起こし、まず述べる。
言葉だけは選び、
「そ、その、華琳さまのお声が外まで漏れ聞こえ何事かと。ひょっとしたら、そこの色魔が何かよからぬことを、と思いまして……」
嘘はない。
執務室まであと少しの所で悲鳴のような絶叫を確かに聞いたし、おかげで焦り、足は縺れて躓き、えらく前衛的な飛び込み型入室になってしまったのだから。断じて嘘はついていないし、お伺いを立てるには最適な弁だ。
その言葉に華琳は、なにやら不満げな流し目を作り、
「……よからぬ、ねぇ?」
壁際で腰を抜かす一刀へ向けた。
途端。鳴るのは二つの声。
「――なっ!? あんた華琳さまに何したのよッ――!!」
「――むしろ被害者ですけど――!?」
桂花は視線に合わせて振り返り、忌々しいその男を呪い殺す勢いで睨みつけていた。
が、その発露は主に何らかの害を及ぼしたから、ではない。
いや。正確にはそれもあるがより看過できない事態が発生した。背中から聞こえてくる華琳の笑い声が大問題なのだ。
そう、それはまるで、二人だけで秘密の共有を楽しんでいるような、発展した親密さを見せつけられているような、心が掻き毟られるような感覚で――!
――この男、生かしておいては危険よッ! 絶対消す。消そう。消す時。消したら。消さなければッ!!
と独特な五段活用に抹消を誓う。
桂花にとってそれは絶対の聖域。これだけは許すまじ。あってはならないこと。
まさか愛しの愛しの最愛の華琳さまが男と仲睦まじいだなんて――。
――ありえないわよ!! 華琳さまが、お、男とお手手繋いでランランラン。幸せな家庭を持つなんてッ――!!
お得意の暴走妄想も相変わらず絶好調。桂花は肩を震わし、目を血走らせ、陰気を垂れ流し、出来得る限り無残に死ねと一刀を呪う。
しかし、そんなことだから肝心なことを見落とす羽目に。
「それより、
桂花は知らなかった。
この時、扉を閉めようと隣を通り過ぎる主の横顔には、アレが浮かんでいたことを。
泣く子も黙る、どころかより激しく泣き叫ぶだろうアレが。
そして、もう遅い。
出口は静かに、堅く、完全に、閉ざされていた。
***
先に一刀が反応を見せる。
疑問だ。扉を閉め終えて机に戻り、腰掛ける華琳に尋ねる。
「話を戻す?」
「あのねぇ……。なんのためにここへ連れて来たと思っているのよ? これでしょこれ」
彼女が手に取り、軽く振るそれは竹簡。
そうだ。一刀には屯田について意見を聞く筈で、見極めようと思っていた。平たく言えば二次試験。だと言うのに、
「読めないなんて言い出すから、話が大脱線したのでしょう?」
「アハハハ。ソウデシタ」
「ねえ、笑えば許されると勘違いしていない?」
言うなり掲げる絶。鎌首に揺れる装飾の金属音。男は、滅相もッ!! と前髪を死守。
と、そこにゴミ屑でも見るような、蔑みに満ちた視線が横から混じり、
「よ、読めないって……、春蘭でも字くらい読めるわよ?」
「ぐぉッ――!」
「書けないならまだしも、読めないってどんな頭してるのよ? ああ、答えなくていい。ええ、わかってるから。聞くまでもないから。どうせ男なんて汚らわしい妄想をするしか能のない生き物だから。でも、それにしたって、いるものねぇ……。春蘭より馬」
「――はいッ、馬鹿じゃないですぅ! 断固違いますぅ! 夏侯惇より頭いいですぅ!! 馬鹿って言う奴が馬鹿なんですぅ!! いいか、よく聞けよ? そもそも、俺はだなッ――!!」
桂花は、禁句と言う名の地雷を踏みしめてくれた。これでもかと。的確に。
おかげで、数秒前までは部屋の端で縮こまっていた男が中央へと這い戻り、急接近に彼女は悲鳴を上げて……華琳は思う。面倒だ、すぐ止めよう、と。
なるべく刺激のない口調で、
「はいはい、それはもういいから。で、とりあえず話の続きを――」
しかし、
「いいや、華琳! ここは言わせてくれ! これは俺の沽券に関わる重要な」
「――ちょ、ちょっとおおおおお――ッ!! 今なんて言ったあ!!! 今、あんた、か、華琳さまの、真名、神聖なる真名を――ッッ!!」
「……はぁ~」
ばっちり誘爆である。
しまった顔の華琳を差し置き、二人は一足飛びで地雷原を渡っていく。
おまけに。主戦場も中央でのいがみ合いから、ご丁寧にもわざわざ机際までにじり寄ってきて。
開戦だ。
「だいたい、この件は華琳だって留保って言ったんですぅ! これからなんですぅ! だよな華琳!」
「何が"だよな"よ!! 華琳さまの真名を何度も何度も! あんたなんかが軽々しく口にしていい名じゃないのにッ!! しかも、呼び捨てだなんて――訂正しなさい、この馬鹿色情魔!!」
「だから馬鹿じゃないですぅ!! 賢いですぅ!!」
「はぁ? 賢い? 笑わせないで、
「なっ――!!」
「あぁ~。そう言えば春蘭のしゃべり方に似てるじゃない。真似? 親近感? 尊敬?」
「――おいいい、やめろッ! ふざけんな似てねえし! てか、荀彧のが夏侯惇っぽいとこあるし!!」
「――やっ、やめてよッ!! 誰があんな大猿女と! 埋めるわよッ!?」
なんて噛み合わない激論なのか。
どれだけ程度の低い争いなのか。
そして……、春蘭が一体何をしたというのか。あんまりだろう。
華琳は机に肘つき眉間を押さえ、とりあえず、心境をそのまま言葉にした。
「――うるっさい!! 二人とも少し黙りなさい!!」
「でも華琳!」「ですが華琳さま!」
なのに、これだ。
一刀のそれはまだわかるとしても、普段あれだけ従順な桂花ですらこれ。
華琳は思わず半笑い。
波及性混乱製造人間と、その効力に感嘆。まさかここまでとは恐れ入る。
もしかして、一刀を単騎敵陣のど真ん中に放り込むだけで敵軍は自滅するのではなかろうか? 今度、賊相手に試して――の前にやる事があったと眼力全開。
馬鹿の有効活用はひとまず後回しに、華琳は左右の問題児に切れ味鋭い睨みを効かせる。
両者の上擦った悲鳴を確認すると、視線は桂花で止まり、
「まったく、今日は随分と反抗的ね?」
「そ、そんなことはありません! 私は身も心も華琳さまにお捧げしています! 反抗だなんて、天地がひっくり返ってもありえません!」
「そう? なら……」
華琳は思う。
本音を言えば、もっとねっちりじっくり締め上げるのが好み。苦悶に歪む顔をゆっくり楽しむのが流儀だと。が、ここは仕方ない。妥協しよう。
一刀の混乱がまたいつ暴発するかわからない以上、ここは流れを修正できただけよし。ただそれでも華琳はニヤリともったいぶり、せめてものタメを作った後に宣告。
「この時をもって桂花、あなたを一刀の指南役を命じます。いいわね?」
「「――なッッ――!?」」
「ふふふ、さっそく息を合わせるなんてさすがよ」
絶句を尻目にしめやかな笑い声が告げていていた。
物事にはケジメが必要。どんな行動にも因果がある。いい気味、と。
つまり、これは制裁の時で、華琳は根に持つタイプ。
「それから。文字の習得はもちろんのこと、将としての日常生活も慣れないうちは戸惑うことも何かと多いでしょう。だから、それらを含めた身の回りすべてを、桂花? あなたが導いてあげなさい」
「――ふぁアア!? そ、そんなっ、酷いです華琳さま! どうして私が男の面倒なんかをッ――!」
「け、い、ふぁ?」
「――――」
念押しの直視に桂花はもう否と言えず。
彼女にとって華琳の下知は問答無用の専権事項。これみよがしに忠誠を誓わされた直後ならなお更だ。
よって、否応なし。あえなく轟沈。
なんとも恨めがましい地鳴りのような呻き声だけ残して、おろおろと机の地平へと消えていく。ご愁傷様。
が、一刀はまだ食い下がり、
「あのぉ、華琳さん? 本人もここまで嫌がってるわけだしさ? 俺だって別に荀彧じゃなくても……ほら、霞とか陳宮もいるし!」
彼としても教育係が桂花というのは願い下げなのだろう。
気持ちは良くわかる。誰だって嫌だろう。抹殺を平気で企てくる教育係なんて。
けれど、そうでなくては意味がない。犬猿にこそ意味がある。これはあくまで仕置き。罰。もがく二人を見ていたい!
よって、華琳は待ってましたとばかりに搦め手から両断。
「あら? そうなの桂花? あなた嫌がっているの? 不服なの? どうなの? 返事をなさい」
「……ぃ、いいえ。承知致しました……」
「だ、そうよ? よかったわね一刀」
「ワ、ワーイ……ヤター……」
結果、伏したまま震える声も、立ったまま震える声も同じく涙色。華琳に容赦はありません。
これは反抗的な態度を見せ続けた戒めと、写メで恥をかかされた復讐が目的。パワハラの超先駆け。有意義な淑女の嗜みなのだ。
だから、この程度ではまだまだ不満。締めには、ちと物足りない。
そんなわけで、トドメは絶を肩に担ぐ死神さまの提供でお送りします。
「あ。あと、真名も一刀に預けるように」
「「――――」」
またも重なる無声の呼吸。そこにカラカラ響く笑い声のなんと惨いことか。
その血も涙もない所業を、後に一刀はこう評した。
あれは――"愛すべからず冷笑"だと。
そして、これが新たな苦悩の始まりであった――。
***
というわけで。
悩める一刀くんは今、本殿を出て宮城の北西端、裏庭にいる。目的地はその一角にそびえる書庫だ。
「誰があんなヤツに教わるかってんだ。見てろ、こうなりゃ独学で習得してやる。現役高校生を舐めんなよ! 一夜漬けの一刀と呼ばれたこの実力、とくと拝ませてやるぜ!」
それがどれだけしょーもない二つ名なのかはさておき。
今日こそ攻略の糸口をと、気合を入れて桂花の部屋を訪ねた今朝のこと。いくら呼んでも応答がないことへ意地になり、扉の前で真名を呼び続けたのが良くなかった。その辺、非常にシビアなのだ。
と言うのも、桂花は断腸の思いで一刀に真名を許したものの、だからといって全面的に容認したわけではないのだ。直接、もしくは間接的に華琳へ知られる可能性がある時のみという条件つき。要するに可能な限り呼んでくれるな、埋めるわよこの変態! と、そういうわけだ。
にもかかわらず、大声での連呼。結末は想像に難くないだろう。が、実のところ一番の問題はそれ以前の話で。
しばらくすると、寝間着のまま。トレードマークの猫耳頭巾もなしで飛び出してきた桂花に"こんな朝っぱらから何考えてるのよ!!"とこっぴどく怒られ……、
「まあ、確かに。ちょっと朝早すぎたかもしれない」
そこは一刀も少しだけ反省している。
なにせ、桂花の部屋へは中庭にて朝の修練を終えた足で向かったのだが、道中、人っ子一人見ていない。というか聞いたのは爽やかな小鳥たちの囀りだけ。
管輅家で身についた初老級の早寝早起きは健在で、今や一刀は超健康優良児。充実の朝だった。
まあ、だからと言って、仮に諸々の非がなかったとしても結果は同じだったろう。
違いがあるとすれば過程。最初から全力で罵られるか、徐々に加速するかくらいの違いだ。最終的にボロクソ言われるのは一緒。一昨日からの接触も例外なくそうで、彼女に言われた最多語句は"埋める"。ちなみに二位は"消えて"で、三位は"死んで"。一体何の嫌がらせなのか。
華琳には読み書きを修業するように言い渡された筈が、現状は不屈の忍耐力を養う修行と化している。直に精神も耐えかねて異常をきたすことだろうさ。
だからこそ一刀もここらでなんとかと意気込んでいたわけなのだが、残念ながらもたらされたのは糸口どころかアレに教わるのは不可能だという泣きたくなる結論。暮れ果ててもよさそうな現実。ところがだ。
男は先の通り、見返してやると燃えていた。
なぜか? それは期せずして別ルート、抜け道を発見したからに他ならない。しかも、ある意味で桂花攻略より価値のあるもの。まさに天啓。ヒントになったのは桂花自身が残した捨て台詞の中にあった。
それは好き放題に暴言を乱射した直後。扉を叩き閉める直前。彼女はこう言ったのだ。"そんなに文字を学びたいのなら書庫にでも篭ってなさいよ!"と。
ややもすると、ただの当てつけにしか聞こないこの言葉。が、そうではない。これにより、一刀は目下最大の鬼門に対する免罪符を手に入れたことになる。つまり、桂花に学べという華琳の命令を違えながらも、これを逆手にとって被害者顔して独学が可能になったのだ!
これなら、いざとなっても大鎌で前髪を切り落とされる心配はない筈で。それを避けるべくブチ切れそうな血管を繋ぎ留めてきたわけで。一刀の余剰前髪は前回切断された部分をカバーするので精一杯。
ゆえに、前髪ぱっつんの刑を免れるかどうかは、
「お、書庫ってこれか?」
単に"一夜漬けの一刀"とやらの実力にかかっていた。
***
到着するなり見上げる土蔵の書庫は、思っていたより巨大で重厚。両開きの鉄扉も随分と立派で頑丈。現代の図書館をなんとなくイメージしていた彼には、それが書庫というより宝物庫に見え、その認識は正しかった。
この時代、書物や竹簡とは記録媒体として唯一無二のツール。保管にしろ伝達にしろその役割を考えれば宝と言っても過言はない。厳重に管理すべきだ。
しかし、そうとは知らぬ男は半信半疑。踏ん張って引く重量感たっぷりの扉。それでも一歩踏み入れば、どこか懐かしい匂いに包まれる。
――あっ、紙と墨の香り……。
疑いなく、そこは書庫だった。
外光をあえて絞った室内はうっすら暗く、肉厚の土壁が外界を遮断するためか静けさと冷涼さも感じる。
何より進む本棚の通路には、おびただしい数の書や竹簡が並び、その圧倒的な物量は少なからず高揚感を呼ぶ。
一刀は導かれるように、何気なく一冊の書物を手に取り開く。
そして、さっそく教わる。
「…………。うん。コレどうしよもなくね?」
あなた読めもしないくせに僕をどうする気ですか? と。
やっと気がつく。日本語用の辞書があるわけでもなしに、独学とか無理なんじゃね!? と。
意気揚々からものの三十秒。意気消沈だ。
――え、ちょ、どうしよ……?
候補は以下の三つ。
一 それでも気合。ひとりで頑張る。為せば成る。
二 原点回帰。やっぱり桂花に教えを請う。
三 いやいや、ここは華琳を頼ってみたり。
「……一はないな。読めないもん。意味わかんないもん。辞書をおくれ。んで、二も絶対なし。教えてくれるわけないもん。だから書庫に来たんだし。もう目が合うだけで死ねとか言われるのはやなんだよ! ……なら三、ってわけにもいかないよなぁ。むしろ一番拙い。状況悪化する気しかしねぇ」
となると、
四 別の誰かに教わる。
「これで行くしかないわけなんだけど……」
これも誰に教わるかが問題だ。
前提条件としては誰であろうと書庫に出向いてもらう必要があること。そうでなければ免罪符が意味を成さない。ぱっつんだ。
となると、最も適任そうな陳宮が候補から消えてしまう。彼女は彼女で新天地の生活に何かと忙しそうだったのだ。桂花のぶら下がりをしている最中、小さな体で竹簡抱えて駆けずり回る姿を何度か目撃している。そんな彼女に負担をかけるのは、やはり気が引けてしまう。
同様に恋も霞もなしだ。こちらはこれといって忙しそうな姿を見たわけではないけども。恋にいたってはお昼寝模様しか見ていないけども。逆にそうだと信じたい。
なら一体誰に教わるのがいいのか。
一刀は細めた眼で読めない本と睨めっこ、頭を捻る。
そして、それはなんたる皮肉か。
この時、偶然にも一刀が手に取っていた書は『礼記』。
そこにはシチュエーション別で動作や言行、服装などの礼儀が解説されていて、言うなれば人間関係を円滑にするための知恵が記されている。
それを何の因果か、桂花という最悪の人間関係に散々悩まされている男が掴もうとは……。風刺にしたって厭味が効き過ぎだろう。
しかし、一刀がその事実を知るのはもう少々後のことで、今は別のあることに気づく。
思考の中、書棚が間仕切りの通路を、入り口からこちらへ向かって近づく足音がするのだ。
視線を向ければ、
「うわぁ……。前見えてないだろう、あれ」
ひと目で無茶とわかる山盛りの竹簡から足が生え、ゆっくりと行進しているではないか。
それもフラフラと覚束ない足取りで。緩やかに右へ右へと弧を描いて。吸い込まれるように棚の角へと突き進み、
「ちょっ、ちょっとストップストップっ! そっちは危な」
「はい? ――ふぎゃッ――!!」
衝突だ。呼びかけは空しく、というか呼びかけがダメ押し。
ストップでは意味が通じる筈もなく、歩く竹簡は無残に崩れ、尻もちついて顔を出したのは、彼と呼んでいいのか一瞬躊躇う程の中性的で色白痩躯の小柄な青年文官。"彼"の判断理由は男性用の朝服と覗く茶色の短い頭髪からだ。
その彼は、あいたたた、と視界を塞ぐ文官の印、進賢冠を正位置に被り直していた。
――へ、変に声かけなきゃよかったかなぁ……。
思う一刀は歩み寄り、
「大丈夫ですか?」
「は、はい。大丈夫です」
即答に怪我はないと確認出来る一方で彼は気もそぞろ。よっぽど急いでいるのか顔も上げずに、そそくさと散らばった竹簡を拾い集める。ついでに声も中性的だ。
その様子に一刀は何の迷いもなく足元に転がる竹簡を拾い上げ、すみません有難う御座います、と手を伸ばす彼と視線が重なり――、竹簡は再び散る。
「――って、ほ、北郷さまァ!? ご、ごごご、ご無礼をばぁッッ―ー!?」
「……え?」
文官は脇に抱えた竹簡を残らず宙へ放り、一刀に優るとも劣らない見事な土下座を披露。
その洗練されたフォルムは婉麗にして優美。中性的な彼らしく、どことなく女性を感じさせる柔らかな曲線美はトップ土下座リストを唸らせる程の完成度。
――この土下座……こ、こいつ出来るッ!?
は、置いといて。
「えっと顔上げてください。無礼も何も、手伝いますってこれくらい」
「そんなっ!! なんと恐れ多い、滅相もありません!! お気持ちだけで十~分ですから、どうか微動だにしないでくださいっ!!」
彼はさらなる慌てっぷりで一刀が拾った竹簡を掻っ攫い、バラ撒いた分も再回収。
その剣幕の凄さたるや、さすがに手伝いを断念した男は苦笑。ごちる。
――俺、陳留に来てから拒絶しかされてない気がするんだ……。
言葉遣いこそ丁寧で桂花とは異なるものの、意味するところは同じく"関わってくれるな"だ。ほんのり泣きたい。
と、そうこうするうち、文官はすべての竹簡を床に積み上げ、絶妙な力加減で両端からすっぽり抱きかかえて立ち上がる。
なるほど。こうして歩く竹簡が完成するのかと、一刀は半ば感心しながら行方を眺め、
――でも、なんでこんな大量の竹簡を一度に運ぼうとしてんだろ?
ほんの数秒、意識が思考に沈み目を離した隙だった。
「――にゃぎゃッ!」
「あ……」
気づいた時には声を掛ける間なく。彼はまたも書棚に吸い寄せられ、竹簡に埋もれていた。
***
「だ、大丈夫ですか?」
「へ、平気です! どうかお気遣いなく、本当に大丈夫ですから……!」
駆け寄る一刀に彼は、まず待った。素早く両手を突き出し、またもずり落ちた冠に顔を覆われ真っ黒な中、視界回復よりも拒否を優先。
――またやってしまいました。今日は失敗ばかりです。こんなことでは本当にお先も真っ暗、冠だってゆるゆるですよ……。
つい先日まではピッタリだった。内にもうひとつ被り物をしていたから。
ゆるくなったのは冠の寸法が広がったわけでも、頭が縮んだわけでもない。二重だったのだ。
しかし、それがとある理由で使用禁止となり、今はその分ゆるゆるに。
――調子が悪いのはアレがないせいですね……冠も私も。
どことなく寂しげな彼は、聞き分けのない冠を躾なおし、もう戻らない過去を偲ぶ望遠の眼差しも正面に戻す。
「落ち込んでいる暇はありません。急がなくては」
気を取り直し、彼は猛然と竹簡を拾い集め、床に並べる。
最下層は横に二十一列、積み重ねるは天辺まで十一段。総数百二十一巻の山。
今回の崩落を加えて、都合七回目の積み直しは手馴れるのに十分な経験だ。逆の切り口だと、運ぶのにはちっとも慣れないとも言えるが。それはさておき。
ともかく、これをさっさと奥の保管室に放り込み、残りを早急に取りに戻らねばならない。
彼は激しく焦っている。
が、だとすると、この運搬方法は下策で非効率。時間短縮のために積載を増やすのは一理だが、こうも何度も何度も崩して積んでを繰り返すくらいなら、普通は別の手法を講じるだろう。
つまり、
「あのさ、それ分けて運んだ方がいいんじゃない?」
無理のない程度で待ちましょう、だ。
しかし、彼だって馬鹿じゃない。そんなこと言われるまでもなくわかっているし、竹簡を抱えながら思う。
それが出来るなら、こんな苦労はしていませんよ! と。
彼には、速さと同時に往復の回数制限までついているのだ。苦肉の策なのだ。転ぶのは嫌だ。
だが、そうとは知らぬ一刀は、無言の彼へとさらに問いかけ、
「そもそも、なんでそんなに急いで運んでいるんですか?」
「そ、それは……。その、早くしないと荀彧さまが……」
「――え゛っ?」
直後。"荀彧"の名を聞いて表情は引きつり、顔色が激変。
文官は何事かと御遣いさまを眺めていた。
***
その後の話を要約すると以下だ。
・この竹簡の山は桂花の部屋から運ばれている。
・本来は、二名で担当する作業だが諸事情で現在はひとり。
・何が悪かったのか不明だが、普段通り、入室時に部屋の外から"荀彧さま"と呼びかけると怒鳴られる。
要するに、
「これ以上荀彧さまを怒らせるわけにはまいりません! ですから急がないと……、ですが! 怖くて何度も出入りはしたくないのですっ……!!」
「…………」
切実だ。彼は思い出して涙目。よっぽど怖かったのだろう。上目遣いの潤んだ瞳に一刀はプイと視線を逸らす。
――絶ッ対、俺のせいだよねこれ!? 居たたまれないんすけど!
罪悪感の苛む胸に過ぎるのは今朝の惨事。名前を呼んで怒鳴られる辺りが身に覚えがありすぎてやばい。元はといえば、誰彼構わず毒づく性悪猫耳が悪い筈なのに心が痛い。まさか桂花との確執が二次被害を巻き起こしていようとは思ってもみなかった。
ならば、ここで為すべきことはひとつ。
「……お、俺、やっぱ手伝おっかなぁ、うん。ほら半分持つよ。貸して? ていうか持たせてください。罪滅ぼしさせてください!」
竹簡の山を抱き上げようとしている文官の反対側に回り込み、ピラミッドを上から三分の二程度で手を掛ける。しかし、
「――お、お止めください北郷さま! 何ですか罪滅ぼしって! もしこの様なことが荀彧さまのお耳に入ったりでもしたら私が滅びますよ――ッ!」
彼の言葉にピタリと動きを止めた。
――た、確かに俺が手伝ったなんて知ったら、どんな嫌味を言い出すかわかったもんじゃないよな……。って、え、なにこれ。俺、疫病神的なポジションなの?
そこへ、思わぬ一言まで。
「それに、曹操さまにもッ――!」
「へ?」
これは予想外だ。理解不能。わからない。なぜこの流れで華琳の名まで出てくるのか。
どうにも意図を計りかねる一刀は中腰のまま、
「……え~と、何がどうしたら華琳が……?」
「何がもどうしたらもありませんよ! 北郷さまはお二人から大層なご寵愛を受けておいでではありませんか!?」
「……ちょ、ちょ――寵愛ぃいええええええ!?」
――そうだったのか……。犬猿、いや猫猿の仲を強制されるのも、息する様に罵詈雑言を浴びせられるのも、全部二人の愛だったのかぁ。愛情表現って色々と個性があるんなんだなぁ。もてる男は辛いってこのことだったんだぁ。――って、んなわけあるか! あってたまるか! 誰が猿だよ!
一刀は勢いよく首を横に振り、
「いやいやいや! 俺、基本嫌がらせしか受けてないからね? まあ、百歩譲って華琳のソレは歪んだ愛だとしようよ。でも、桂花のは絶対違うから。あんな殺伐とした愛存在しないからね? あんなもん純然たる悪意だよ。荒みきった世紀末でも、あれが愛なら取り戻そうと思わないからね?」
「せ、世紀末……?? 何をおっしゃられているのかよくわかりませんが、ともかく、私はお二人から真名を許される殿方など北郷さま以外に存じておりません。それに今もお二人を敬称もなしで呼び捨てていらっしゃるではありませんか?」
なるほど。と小さな声が思わず漏れた。
真名については釈明の余地がありありで、北斗ネタが通じないのも当然として、敬称については本来なら不敬の極み。そう見られてもおかしくない。というか、そう取るのが自然だろう。
ただ、一刀にすると、この辺の感覚は正直な所"言われてみれば"という思いが強い。この世界への順応も当初に比べれば幾分進んでいるとはいえ、深層心理の部分でやはり、彼女たちが一国の主、あるいは重鎮であるということに違和感がある。
だから気安くも同年代の親しみを感じるし、呼び捨てにすることへの違和感は希薄。とんだ誤解を招き、そして、思い知る。
――俺が華琳や桂花に寵愛を受けてるなんて噂が、もしも、本人に知しれようもんなら……け、消されてしまうッ!!
すんごいピンチだと。
「――寵愛なんて冗談じゃないよ! 根も葉もない事実無根だし! 手伝うし!」
「結構ですっ!!」
「そこをなんとかぁ! 実は桂花の機嫌が悪いの俺のせいなんだよ! だからお願い手伝わせて! んで揉み消すの手伝って!!」
「何をですか!?」
言うや否や、一刀は竹簡の山を中腹よりもぎ取り、ああーっ! と声を上げる彼にしれっと言う。
「そうだ。なんなら、これは全部俺が運んでおくから残りを桂花の部屋から運んできたらいいんじゃないかな?」
「なああっ!? ご容赦ください北郷さま! ほ、本当にこんなことをして頂くわけには! 荀彧さまに知られるわけには!」
「俺だってそうさッ! 知られたら終わりなんだよ! 後がないんだよ! 助けてよ!!」
「だから何をですか!?」
切実だ。
ここにきて、一刀にも火がついた。当初は罪悪感と共に、同じく桂花に不当な扱いを受ける同士のようにも思え、殊勝にも是非力になりたいなどと思ったものだ。が、今は違う。
他人の心配をしている局面ではなくなった。もみ消さねば。かき消さんねば。封殺せねば!
そのためにはまず彼からだ。この文官の認識から変える必要がある。
しかし、その彼もまた切実。一筋縄にはいかない。
さしたる理由もなく天の御遣いさまのお手を煩わせるわけにはいかないと、互いの意見は平行線。竹簡の取り合い。いい迷惑だ。
「もう私のことは放っておいてください! そもそも何をしにいらしたんですか!?」
「あっ……!」
書庫を訪れた意味。独学が厳しい現実。平行線の打開策。
思考の電流は駆け巡り一刀は閃く。さしたる理由がないと駄目なら、打ってつけの理由を作ってしまえばいいじゃないと――!
「じゃあ、手伝う代わりに俺も仕事を頼みたいんだ。こういうのでどう?」
「……はい?」
「つまりさ、俺はあなたに仕事を頼みたい。けど、あなたには竹簡を運ぶ仕事がある。だから一刻も早く依頼をしたいがために竹簡運びを手伝う。これなら桂花に難癖つけられても言い訳が立つでしょ? どう?」
「…………」
何がどうだ。もう文官はぽかんだ。そういう問題じゃないないだろうとぽかんだ。何言ってるのコイツ状態だ。
が、一刀は絶句する彼を勝手に肯定と受け止め、緩んだ腕から竹簡を引っこ抜くと、にこやかに問う。
「奥の部屋に入れとけばいいんだよね?」
「え……、あの……はい」
一刀は回れ右。
強引なやり方を少しだけ責めつつも、書庫に小気味いい足音を響かせる。
諦めにも似た大きな吐息を背に、勝ったと誇りながら。
***
「……それで、私へのご用とはなんなのでしょうか?」
あれから一刻。
残りの分も無事運び終えた文官は疑いの眼差しを、目の前、天の御遣いさまへと向けていた。
――どうせ禄でもない仕事を申し付けられるんですよ……。きっと今日はそういう巡り合わせ。北郷さまは私にとって鬼門な気がします……。
北郷一刀。
ここ数日、城中はこの人物の話題で持ちきりだった。
特筆すべきはまず、彼が男性であること。
それは陳留下における異色というより、中華全土を見回しても稀有な事例。
昨今では国の要職を担うのは女性と常態化している。とりわけ軍部の上層はその傾向が顕著、各国どこでも男女比率で言えば一対九かそれ以下だろう。
となれば、降って沸いた新将が"男性"という事象は諸将のお歴々に留まらず、上役に下役、侍女に給仕、警備兵に至るまで、城に仕えるすべての者が例外なく強い関心を持つことになる。
好奇心だ。
女社会に下克上を果たした男とはどんな人物なのか興味津々。皆は方々で知り得た北郷一刀という人物像を交換し合う。
ある者は、彼は管輅の予言にある"天の御遣い"だと言った。
またある者は、濮陽での黒山賊との一戦において、彼は呂布将軍と張遼将軍を従えて見事に撃退したと伝えた。
さらにある者は、彼は御前試合で夏侯惇将軍と互角に渡り合ったと語った。
おそらくはどこかに虚実が入り混じり、真偽など到底定かではないだろう。盛られているに決まっている。噂話とはそういうもの。鵜呑みには出来ないと彼だって思っている。だが、それでも、
――皆さま熱狂的に語らい、私も興味は尽きなくて。それが今、こうしてご本人さまと向かい合っているんですよね……。
職務柄、遠巻きながらも桂花と歩く一刀の姿を見かける機会に恵まれていた彼はしみじみ思う。
そうでなければ、コレが噂の御遣いさまだとは信じられなかっただろうと。想像とかけ離れている。もっと知勇に溢れる立派な御仁だと思っていたのに。
正面。もう一度、噂の男を見直せば、なんとも裏がありそうな笑みをこちらに向け、ナヨナヨと頼りなくて。身勝手な期待だとわかっていても、疑いの眼差しは強くなるばかりだ。
と、そこでようやく一刀が口を開き、
「え~っとですね。俺は今日ここに、文字を勉強するための教材探しに来たんです。けどいざ来てみると……、独学でなんとかなるもんじゃないと気がついたわけでして」
「……は、はあ」
「そこで! っと、すいませんお名前は?」
「あっ」
とんだ失念。初手からのドタバタですっかり名乗るの忘れていた。
文官は姿勢を今一度正し、
「これは大変失礼致しました! 私、書庫の管理を仰せつかっている
名乗ると、ご丁寧にどうも、と会釈が返る。
すぐさま、それで、と本題を切り出された。
「ずばり、攸さんに文字を教わりたいなぁ、なんて思ったりするわけなんですよ」
「わ、私が北郷さまに字を、ですか……?」
「はい! からっきしなんで一からお願いします!」
「…………」
攸は重ねて思う。この御方は違う、と。
何を言い出すかと思えば、権力の中枢にある者がたかが一介の役人に師事を仰いだのだ。それも臆面もなく、嫌味もなく、執政者にはあるまじき欠点を自ら晒して。
それは好し悪しは別に、権力者にありがちな自尊心や体面への拘りが欠落していると言えよう。位階が昇れば誰だって囚われるそのしがらみから彼は独立。その在り様は想像とかけ離れていた。
先ほどの裏返し。
正の人物像を裏切られた一方で、負の人物像も差異を生む。
彼には国を担う自負や風格は足りなくとも、傲慢や尊大さもあらず。呆れるほど謙虚で誠実であった。
――これが、北郷一刀さま、なのですね……。
見栄と虚栄と私利私欲。漢帝国を内部から腐らせた毒だ。
攸とて一般に比べれば十分に中枢へ近い存在。先任の陳留太守時代から理想とは違う等身大の政治を見てきた。
ゆえに、経験に裏づけされた感性が告げる。彼は違うと。
良く言えば無垢。悪く言えば無知。そんな底抜けの胸襟が心地いいと。
ただ、そうは言っても彼の願いに応えるかどうかは別問題で。それはそれ。これはこれ。
「お話はわかりました。ですが、その……ご協力させて頂きたいのは山々なのですが……」
詰まるところ、物理的に無理なのだ。
攸には大事な職務があり、今は特に余裕がない。とてもじゃないが一刀にかかずらっている時間はない。
しかし、言い切る前に一刀が動き、あろうことか頭が深く沈み、
「忙しいのはわかってます。だから少しの時間でもいいんだ。この通り、お願い!」
「――!? お止めください! 顔をお上げください北郷さまッ!!」
「いいや、頭くらいいくらでも下げるから! 攸さんご慈悲を!」
「それはこちらの台詞ですよ! 北郷さまこそご自愛ください! 困ります、そのようなまねをされては!」
軽々に下がる頭に攸は大慌て。
国事の担い手が自分なんぞに何度も頭を深く下げているのだ。これが一大事じゃなくて何が一大事か。散り散りの思考は告げる。ほらみろ鬼門だったろ、と。
まさかここまで体裁に無頓着だと思いもしなかった。一体何が彼をここまで駆り立てるのか。やられる方の身にもなってほしい。それもこれも純真さが為せる業ですか、と驚きは募り、おかげで気づきもしなかった。
この時、彼を突き動かしていたのは、純度百パーセント。別次元の保身だっただなんて――。
「私とて出来ることなら北郷さまのお力になりたいと思っています。けれど、いますがその……どうしても仕事を疎かにするわけには……」
よって、こんな中途半端な、含みを持った発言をしたのが運の尽き。
保身に純な男は目ざとく察知。その目はギラリと怪しく光り、
「ってことは、仕事の負担が減って、疎かにならない状況なら力を貸してくれるってこと?」
「ええ、それはまあ……って、えっ?」
攸の両肩はガシッと捕縛。背筋に不吉な悪寒が走る。
攸は何かとんでもない過ちを犯している気がしてならない。逃げたい。が、逃げられもしない。
眼前。一刀は絶やさぬ笑顔で言った。
「ふっふっふっ、なら話は早いじゃないですか。俺が手伝いますよ。攸さんのお仕事」
「……え? え? あの、えっ? はい?」
「だぁかぁらぁ。攸さんのお仕事を手伝いますから代わりに空いた時間で文字を教えてくーださい」
「北郷さまが……? 私の……? 仕事をてつだ――ってええええぇぇ!? そんなッ、無理です無理です! ご無体です!」
「大丈夫大丈夫! 将軍だとか御遣いだとか物騒な肩書きは忘れてください。そんな大層なもんじゃないから俺!」
「何を適当なこと言ってるんですか! だいたい、そういう問題じゃありませんよ!?」
「平気平気! それにさ。俺には文字を覚えるのも仕事みたいなもんなんだ。華琳にだってそう言われてるし、むしろ早く覚えないとどんな目に合わされるか。だから、ねっ?」
「…………」
またもや絶句の攸。思考回路は短絡寸前。煙を吹きそうだ。
そして、それを再び肯定と勝手に定めた一刀は、攸の手を取り縦にブンブン。締めくくる。
「じゃ、よろしくってことで!」
「あ、ぁう」
もはや力の入らない攸は、振られるに任せてガクガクと揺れ、悟った。
違うと。
北郷さまは鬼門なんて生易しいものじゃなく、鬼そのものです! と。
しかし、今更取り返しはつかず。既に誓約の握手は堅く交わされている。一方的に。
――もう、知りません! どうにでもなっちゃえばいいんですよ……!
哀れ。自暴自棄。そこに追い討ち。弛めの冠が図ったようにずり落ち視界を塞ぎ、
「ハハハハ。お先真っ暗です」
かくして。ここに新たな書庫管理人(自称)が誕生するのであった。
18話読んで頂きありがとうございます。
相変わらずの更新の遅さ、すいません!
さて、今回は久々のオリキャラ登場回でした。
どことなく一刀くんと同じいじられオーラ満載、幸薄系の攸ですが、主人公とは違いめちゃくちゃ優秀。その実力は華琳や桂花にも認められる程です。
うん。一刀頑張れ。
では、また次回。
感想、ご意見お待ちしてます。