健全だ。
何がと問われれば、草木が秋化粧を始める中庭も。熱を生む汗肌へと染み入るような朝の清涼も。見上げた空の深く澄んだ青も。何もかもが健全だと一刀は思う。
半年前には考えられなかったことだ。
夜明けとともに起床し、欠かさずの朝練をこなし、日がな一日書庫で攸を手伝い、空いた時間は意欲的に語学を励み、復習と夜練が終われば夜更かしをすることもなく即就寝。そんな健全溢れる生活なんて。
それは遅刻ギリギリまで惰眠を貪り、何の意志もなくダラダラと授業を受け、ズルとサボりにだけ意欲的で、日付が跨いでも何となくネットやテレビに噛り付いてたあの日々とは雲泥の差だった。
積み上げた環境が男を自然と変えつつある。
ちょうど季節も実りの時。新たな日常が習慣という名の実を結び始めていた。
が、無論、それも満点とはいかない。
桂花との仲は依然絶海だ。廊下ですれ違うことがあろうものなら、一方的な小言のひとつや二つ、三つや四つ、いや五つくらいは余裕で飛んでくる。
最近ではその尽きない豊富な語彙力に一刀も逆感心してしまう程で。指南とはそういうことなのだろうか?
ともかく、他の諸将とは顔を合わせれば、普通に挨拶を交わせるくらいには馴染んだものの、あの猫耳だけはどうにもこうにもままならない。
しかし、それでもだ。
桂花と距離を置けたことは精神衛生上とても良好かつ健全。十分に及第点と言える。
あとは陳留のアレやコレやを知るうち恙無い生活を送れるようになった。
所謂、ローカルルールというやつである。
それは職務時間や閉門の刻限といった基本条項から、女尊男卑を物語る数々の仕来り、果ては華琳崇拝の作法までと多岐にわたる。特に三項目は命に関わると熱心な説明を受けた。
ただ、そんな中で一刀が印象的だったのは一項目。食事について。
宮城本殿内には内勤者用の大食堂が備わっているのだが、そこには独特な取り決めが存在するのだ。
それは朝昼晩、どの給仕の時間帯も開始から二刻は遠慮しろと言うもので、巷では"暗黙の二刻"と呼ぶ。
なんでも、その時間は厨房がとにかく死ぬほど忙しから気を遣った方がいい。と、そういうことらしい。
確かに皆が一斉に開店から押し寄せるのは利用者と調理場、双方にとって宜しくないだろう。特に恋みたいな底なしの胃袋が開幕から陣取った日には色々終わりだ。気遣えの意味も知れる。
ただ不思議なことに、思い返すと一刀はその恋と食堂で顔を合わたことがない。
真昼間から酒とツマミを注文し、秋蘭から"また酒か。姉者との件といい何度言えばわかるのだ? " と冷静に怒られる霞なら一度見たが。
「……二人とも出入り禁止くらってなきゃいいけど。無尽蔵と不謹慎で」
あながち冗談じゃ済まないな、と一息。
渋い一刀は木に掛けていた白の学ランを肩に羽織り、踵を返す。
今日はいつも以上に鍛錬へ熱が入った。そろそろ"暗黙の二刻"も終わる頃だ。
中庭から遊歩回廊に上がり、一刀は体内の熱を逃がすようにゆるりと歩く。
すると、そこで普段とは少々異なる光景に出くわす。
声がする。
子供特有のよく通るにぎやかな声だ。
そして目を引かれる遠方には、
「流琉、はやくはやく!」
「もう、季衣ったら。服を脱ぎ捨てちゃ駄目っていつも言ってるでしょ」
先の回廊より中庭へ降り立つ少女たちの姿があった。
***
季衣と呼ばれるのは、すみれ色のマントコートを脱ぎ投げ、ノースリーブでショートパンツ。桜髪を三段重ねアイスクリームのように結い上げる快活っ子。
流琉と呼ばれるのは、放られたそれを拾い、お揃いである自らのコートと共に畳み置く山吹シャツに黒スパッツ。薄碧色の前髪を大きなフリルリボンで掻き上げるおませっ子。
後漢ファッションの超発展ぶりにはもう一刀がツッコミを放棄したので割愛です。
それよりも、
「あれは、許緖ちゃんと典韋ちゃん?」
許緖。真名を季衣。
典韋。真名を流琉。
これでも華琳親衛隊の双頭である。
数日前、彼女たちを歴とした将官だと紹介された折には一刀も大いに驚かされたものだ。
二人がどう見ても幼なかったから。
浮いていると言ってもいい。音々といい勝負だ。
今だってあどけない表情で"子供は風の子元気な子"と言わんばかりに薄着ではしゃいでいる。
その手には剣玉とヨーヨーをそれぞれ持って。実にらしい。健全だ。
ただし――その大きさや形状が通常だったならばの話だが。
「っとりゃあああ――!!」
「ちょりゃあああ――!!」
なにこれ、と漏れる視線の先。
回廊を降りたところで足を止め、がっつり引きつる一刀の前方。
そこにはビルの解体現場かと錯覚する程の爆音が炸裂。周囲の地面が振動と共に次々と抉られていた。
季衣が振るう剣玉らしき巨大なイボ付き鉄球も、流琉が投げるヨーヨーと思しき紅鋼の大円盤も、おそらく自身の体重の数倍は軽くあろう。
そんな重機同士の大衝突が両者の中央で起こり、互いの破壊力に火花を散らして弾け、無作為に大地を掘削。触れる景色は根こそぎ消滅する。
そして、二人はめり込んだ超重量をすかさず相手目掛けて引っこ抜き、よい子が絶対に真似しちゃいけない破壊の二拍子が繰り返される。
「あの小さな体のどこから、あんな馬鹿力が出てくるんだよ……?」
史実においても、無類の怪力だったとされる両雄。
この世界では容姿こそ年端も行かぬ少女だが力は本物。親衛隊の肩書きに偽りなし。単純な膂力だけなら春蘭や恋にも引けを取らないように見える。それ程の圧倒的な戦闘が繰り広げられているのだ。
一刀は目の前の光景をまいったなとただただ眺め、思う。
――そりゃ華琳の性格からして、なんの力もない子供を可愛いって理由だけで身近に置くわけがないと思ってたけどさ。これはちょっと……、ほんとぶっ飛びすぎだって……。
常軌を逸した三国女傑たち。
それも近頃では、だんだんと慣れてきたと思っていたのだが、どうも一刀の勘違いだったらしい。恐れ入る。あとついでに、
――って、あれ? じゃあ、マスコットにもなれそうもないパンピーの俺はなんでここにいるんですかね……?
と、他所事に意識が入りかけた時だ。
「いっけええええッ!!」
「きゃうぅ――ッ!?」
これまででもっとも激しい衝撃音が鳴り響き、驚く一刀は見る。
反発の威力に耐え切れず流琉の手を放れ、狙い定めたようにこちらへ飛来する謎の未確認飛行物体を。
「――――」
刹那。悲鳴すら上げられず、ミリ単位の行動も許されなかった男の耳横を、大気を切り裂く高速回転の赤光が擦過。そのまま後方の地に突き刺さり、つい先程まで万事健全だった筈の中庭にとんでもない破砕音と爆裂の粉塵が舞い上がる。
そして得物の行方を追う季衣と流琉が一刀の存在に気がつき、
「あ~っ! 天の兄ちゃんだ!」「ほ、北郷さま!?」
「……ハハッ、健全でよい子の皆はヨーヨーを人に向けて飛ばしちゃ駄目だぞ? あ、危ないから、すんごく」
そこには、衝撃の余波に混じって焦点定まらぬ涙目男の笑い声が木霊していた。
***
あわやの大惨事。
流琉の胸中は謝意で一杯だ。
正面に土埃を払う男を置き、開いた手のひらを膝にあて、体を折り、まず一声。
「ごめんなさい! 近くにいるなんて全然気づかなくて本当に」
「――当たんなくてよかったね兄ちゃん!」
「うん。マジよかった」
途端。季衣! と諌める彼女だが、持ち上げた視線はすぐに落ちる。
――こういうことは私がしっかりしなきゃいけないのに……。
秋蘭さまからも二人で遊ぶ時はくれぐれも周囲に気をつけろと言われていたのに、と反省しきり。
しょんぼり流琉に一刀は言う。
「ほら、もうそんな顔しないの。なんともなかったんだから。そもそもボーっと見ていた俺が悪いんだし」
優しい言葉だ。初対面時に抱いた印象通りだと流琉は思う。
だが、落ち度が自分にあるのはまた明白。はいそうですかと簡単にはいかず、
「でも……、もう少し気をつけていれば」
「――そうだよ兄ちゃん! もう少し気をつけて、あれくらいパシっと受け止めなきゃ!」
季衣! と二度目の諫言。もちろんさっきよりも強目です。
すかさず一刀が割って入り、
「き、気にしなくていいって。それにほら、パシっは無理でも、今度はククっと華麗に避けてみせるからさ。ね?」
「でも……」
でも、それだと次も季衣に負けるという意味で。
――また私の伝磁葉々が弾き飛ばされるみたいじゃないですかぁ……?
と、思うところもあるが、流琉は黙って頷くことにした。
彼に怒りの素振りは見られないし、身振り手振りも交えた宥めは、むしろ、困らせているようだったから。これでは謝罪として本末転倒だ。
だから不十分だと感じつつもこれぐらいにして、後回しにするしかなかった次の問題へ取り掛かろうと切り替える。
「んで、兄ちゃんはあんな所で何してたの?」
「――それぇ! その呼び方! さっきから失礼だよ季衣!」
"兄ちゃん"だなんて。
いくらなんでも不躾すぎるだろう。
――そりゃ私だって素敵なお兄さんが欲しいなぁとか考えたことくらいあるけど! でもでもだからっていきなりは……!
だが、
「あはは、好きな様に呼んでくれればいいさ」
「だってぇ流琉~♪」
「……もう」
いつもそうだ、と流琉は少しだけ小さな頬を膨らます。
昔からそうだった。
どちらかと言えば引っ込み思案な流琉とは違い、屈託知らずの季衣は誰に対してもありのままで接する。おかげでいつもやきもきさせられるのは流琉の役回りで、大抵こうして真面目の烙印を押されて馬鹿を見る。
――ずるいよ季衣ばっかり。羨ましい……!
本当に羨ましかった。特にことある毎、春蘭さまにじゃれつく季衣は。
私も秋蘭さまにあ~んとか、ぎゅ~とかされたい! けど恥ずかしいし言う勇気もないし迷惑かなとか考えちゃうし――などと錯綜する流琉も、向けられる親友のニコニコ顔を前にすると結局は何も言えなくなってしまう。
そのお日様のようなポカポカ笑顔が大好きだから。彼女の笑顔はいつも元気をくれるから。何度も救われたから。二人はずっと一緒だったから。今も、昔も。
***
豫州は沛県。
エン州の南、国境付近にある小さな村。そこが二人の故郷だ。
この時世なら珍しくもない戦争孤児。それが二人の出自だ。
今となっては肉親の顔もおぼろげで、物心がつく頃にはそういう者であり、村の実情も相当な有様であった。
度重なる戦禍によって若い男は戦場に散り、若い女も多くは略奪の際に連れ去られ行方知れず。残るのは役立たずな子供と老人ばかり。
家は焼け、田畑も踏み荒らされ、挙句、労働力すら貧しい村は誰も彼もが己の事で精一杯だった。
とても他者を気にかける余裕などありはしない。ただ日々を生きることだけで限界。
そんな環境に身を置く幼き流琉の日々は過酷なものだった。
まともな食料などあるわけがない。それこそ食べられそうな物は片っ端から試した。不味かろうが、気持ち悪かろうが、食わねば死ぬ。それよりはマシだったから。泥水をすする生活とはまさしくこの事だろう。
だが、それでも彼女の傍らにはいつだって季衣がいた。いてくれた。
何が始まりでいつからだったのか。思い出の中に答えは見つからない。
けれど、ひもじい時も、凍える時も、悲しい時も、寂しい時も、どんな時も。彼女は確かに一緒だった。
だから二人は生きていけた。
分かち合い、支え合い、励まし合い、寄り添って。
乱世へと突き進む厳しい世を今よりもさらに幼かった二人が生き抜き、年月を重ねるうちにいつしか新たな家族を作るまでに。
二人きりで始めた生活。それが次第に三人、四人、五人とその数を増し、気がつけば村人全員が父であり、母であり、兄弟姉妹であり、友であった。
そして、そのきっかけはいつだって季衣がくれたもので。
思いやりを捨てざるを得なかった村にあって、季衣はなんの打算も屈託もなく皆を思う。そちらの方がきっと楽しいからと。たったそれだけの理由でだ。
が、簡単に心を開く者などいるわけがない。邪魔者扱いする者だって少なくなかった。皆、自分が生きるだけで精一杯なのだ。
しかし、それでも沈むことのない彼女の明るさは、皆の冷え切った心を次第に暖めていく。形ある希望として。生きる活力としてだ。
皆は接するうち自然と季衣を愛していった。
流琉もそんな家族の絆が大好きだった。
ゆえに、二人は誓う。
ならば、守ると。
もう誰にも奪わせはしない。
亡き父と母から授かったこの身と力をもって。なんとしてでも。
こうして二人は、黄巾討伐の武勲により陳留太守となる華琳と出会うまでの数年間、村をあらゆる外敵から守り続けたのだ。
そして、今もまた――。
「いやさ。俺も体を動かしに来てたんだよ。そしたら二人が来てちょっと見学をね」
「へぇ~兄ちゃんも鍛錬に……。じゃあじゃあさっ、ボクたちと一緒にやろうよ!」
「え、一緒に……? でも俺じゃ二人の相手はきついというか、もう戻るところというか、朝食の時間が迫っているというか」
「――流琉もそっちのがいいよね! ねっ!」
ああ、また新しい家族が増えるんだ、と流琉はそう思い、
「ほ、北郷さまがご迷惑でなければ是非!」
応えた。いつもより、少しだけ勇気を振り絞って。
***
はじらいからか、ほんのり赤みを差す頬。自信なさげな上目遣い。祈るように胸前で組んだ小さな手。なんていじらしさか。
圧倒的妹力に一刀は思う。
――こんな健気な誘いを断われる兄が存在するのか!? 否! そんな存在、俺が許さん!!
この男、"兄ちゃん"発言に感化され、すっかりその気である。
けど俺は決してロリコンじゃないからな! と何者かに胸の奥で釈明しながら。
さておき、"ただの"子供好きな男は言う。
「よし、じゃあ少しだけね? あ。でも手合わせとかはなしの方向で」
あんな戦闘見せられたら当然だ。微塵も勝てる気がしない。五体満足で切り抜けられる気がしない。というか死ぬ。
すぐさま、えぇ~? と不満声が上がるも、一刀は平謝りに徹した。
ちょっと遊ぼっかのノリで命がけはさすがに嫌だ。
すると流琉の仲裁もあってか、季衣は意外にすんなり大人しくなり、寸刻考え込むと、そうだ! と顔を上げ、
「じゃあ、あれにしよう!」
「あれ?」
「うん、鬼事だよ!」
おにごと。
なにやら聞き覚えのあるのかないのか微妙なフレーズに、一刀は鸚鵡返しをお返しするが、季衣は、にししと笑うだけ。
だからすぐさま隣の流琉へと目配せするが、彼女もまた非常に愛らしいハニカミを返してくれて、
――うん。こんな妹が欲しいです! ――っていやいや違うから! 違わないけど違うから! 説明は? 鬼事って一体何事よ!?
一刀は焦る。なにせ、おっかない。
目の前の季衣は少し距離を取りながら張り切っての屈伸運動。もうやる気満々の準備万端。臨戦態勢なのだ。
「そいじゃ最初はボクからね!」
「――ちょい待ったあ!! ボクからねって、何するのこれ!?」
「だから鬼事だってばぁ。ボクが兄ちゃんを追いかけるから、兄ちゃんはとにかく逃げるの。この前、みんなの前でやってたみたいに」
つまり、
「……ああ、なんだ鬼事って鬼ごっこの事ね」
鬼ごっこ? と小首を傾げる二人へ一刀は安堵の声色で言う。
「俺の世界にも似た遊びがあってさ、それを鬼ごっこって言うんだよ」
しかし、思った矢先に、
「へぇ~天の国だとちょっと違うんだね」
「私たちはこの鍛錬法を"春蘭さま"に教わったんです」
「え……?」
一刀はよもやの名を聞き、安堵など一瞬で綺麗さっぱり吹き飛ばされる。楽観は少しばかり早計だった。
よりにもよってこのタイミングで"春蘭"。もう嫌な予感しかしない。
おっかなびっくり委細を確かめると、季衣は胸を張ってこう答える。
「兄ちゃんとの仕合の後すぐに教えてくれたんだ。逃げ回る敵を確実に仕留めるための鍛錬だー! って」
――お、教えるってか絶対自分のためにやってるだろそれ! なに純真な子供たちを出しに使って……って、あいつバリバリ再戦する気じゃねーかッ! ふざけんな!
が、今は先々の不吉より、寸前に迫っている不吉についてだ。
もはやこれはどう考えてもアウト。止めなければきっと拙い。やっぱり他のにしよう。
しかし、一刀がそう切り出そうとした時にはもう――、
「んじゃ始めるからね!」
「うぇ!?」
やっぱりの"や"を言う暇もなく、季衣に開始を告げられてしまう。
そして、眼前。彼女は右足を大きく後方へ引き、足裏で大地を強く噛む。完全なるスタートの姿勢だ。
流琉が二人の邪魔にならぬよう一歩、二歩と後ろへ下がったのを見計らい、合図の号砲が元気よく鳴った。
「いっくよおお――!!」
同時。とっくに狙いを定めいた季衣はロケットスタート!
「――なッ!!」
弾ける砂塵に、一刀は思わず息を呑む。
驚くのも無理はない。それだけ彼女の脚力はズバ抜けていた。
四、五メートルはあった間合いを初動の一歩で縮めてみせ、すでに手の届く位置。射程圏内にいるのだ。
これでは、今から振り向き逃げていては間に合いそうもない。
開始直後に早くも王手をかけられてしまう。が、一刀を本当に驚かせたのはそのことではなかった。
何故かと言うか、やっぱりと言うか。迫る季衣の手には剣玉が握られているのだ。
さらに、その腕は勢いよく振られ、
「せぇぇのッ!!」
追随する巨大な鉄の塊が奥から襲来――!
「――――」
一刀は咄嗟に身を左へよじる。
間一髪だ。肩に羽織っていた学ランは轢かれ飛ばされるものの、流琉に冗談交じりで言った"今度はククっと華麗に避けてみせるから"を忠実に再現。
指一本分の隙間もない背後を高速の鉄球が通過し、その慣性に引っ張られ投擲者も一緒になって飛んで行った。
そして数秒の滑空後。
季衣は轟音を上げて地面にめり込む鉄球の上へ事も無げに着地し、
「おおー! やっるぅ兄ちゃん! すごいすごい!」
と無邪気に飛び跳ね喜びはしゃぐ姿のなんと恐ろしいこと。
じゃあ次は手加減なーし、なんて嬉々とした声が聞こえてくるのは幻聴だと信じたい。
今起こっている出来事は全部何かの間違いだと疑いたくない。
でなければ、
――何だよこれ! 手合わせとかなしって言ったよね!? あっ、でもそうか。避ける専門だから合わせてないね――っじゃねーよッ!! アホか俺! 馬鹿なのか俺! もっと駄目だろ!? むしろ危険度増してるし詰んでるよね!?
春蘭の名を聞いた時点でもっと早く手を打つべきだったのだ。
慎重にことを進めるべきだったのだ。
さっさと朝食を食べに行けばよかったのだ。
そうすれば、今頃平穏なひと時を過ごし、健全な一日が続いていたことだろうに。
だが、後悔は先に立たないから後に悔やむと書くんです。
結局は兄ちゃん兄ちゃん呼ばれ、浮かれていた一刀がすべて悪い。
ゆえに、
「今度こそ、――兄ちゃんつっかまえたああ!!」
二撃目が到来。
ほ、本気は駄目だよ! との親友の声も右から左に聞き流し、掛け声だけが無駄に鬼ごっこ感のそれは、間合いもタイミングもあったもんじゃない常識外れの特攻だ。
季衣は短い跳躍で鉄球から飛ぶと、空中姿勢は攻撃の構え。そのまま埋もれる鉄球を力ずくで引き抜き振るう。が、二人の距離は八メートル。通常ならば射程外だ。
だから季衣は先の空振り時に見せた滑空をここでも見せる。
ブン投げた鉄球を推進力にこちらへ飛ぶ。今度は意図した移動術として。
そう。あくまで移動のために。一連の行動は遠距離からの攻撃ではなかったのだ。
鉄球の射線から身を逸らす一刀は、先程よりもなまじ余裕を持っていたせいで遅れ、手前二メートルの地点でようやく気づく。
――だ、弾道が、低すぎる!?
違う、と。
これでは届かない。飛距離が足りていない。端から避ける必要もない。
ならば、この回避行動は不用意そのもの。
「しまっ――」
一刀が右に身を振る左斜め一メートル前方。変化は生じた。
巨大な弾丸となって大地に着弾した季衣が粉砕と同時、踏み堪える着地の運動エネルギーを垂直に転化。
横から縦へ。視線はこちらをしかと捉えて、再度、飛ぶ。
「だっりゃァアアアッ!!」
季衣は大量の粉塵を背に、宙を舞う。
対してこちらの重心は右に傾いたままだ。こんなのアリかよとも思う。が、泣き言の時間も与えては貰えない。
刹那。頭上から鉄球が唸る。
描く軌跡は上段の円弧。空中で引き抜かれた鉄球は季衣のデタラメな膂力と、ヘビー級の自重に、遠心力まで味方につけて加速する。
またも不意だ。
一刀に選べる選択肢など限られていた。
――くっ、左と後ろはもう間に合わない! 正面も微妙、避けるならこのまま右へ飛ぶしか――!
だが、一刀はその選択も瞬時に捨て、流れる重心を右足で踏み留めるとまさかの正対を選択。視界を鋼色に塗りつぶさんとする鉄塊に正面切っての対峙だ。
腰の宝剣を抜き、それでは駄目だと両手で握り締めていた。
――駄目なんだ。避けてるだけじゃ許緖ちゃんは止まらない。それどころか避ければ避けるほどムキになって追いかけてくる。それじゃ……マジ死んじゃうから!
これが鬼ごっこだと言うなら、言葉では止められそうもない彼女を止める方法は二通りだ。
ひとつは延々と攻撃をかわし続け、季衣が根負けして諦めること。
実際、この一撃も際どいながら避けることは出来ただろう。逃げに関しては微才を持つ男だ。季衣の一撃に易さは感じていた。
というのも、彼女の攻撃には必ず一瞬の空白、ズレがあるのだ。
それは得物の構造に起因する特徴と言ってもいい。
鋼の剣玉は剣先と鉄球が鎖で連結されているために、動作の多様性を担保する反面、指示伝達が鎖部分で弛む瞬間が必然的に生じてしまう。
要するに、鉄球は季衣の行動とは完全同期しておらず、必ず遅延付随して行われるのだ。
だから一刀は不意を突かれた初撃もギリギリで回避出来たし、今後も回避だけを考えるなら満更不可能ではないと思っている。が、現実的には残念ながら期待薄だ。
いずれは捕まるだろう。根負けを待つ前に一刀の体力が尽きる公算の方が高い。そして、それこそが季衣を止めるもうひとつの手段となる。
一刀が捕まること。一撃を受けた時。鬼ごっことは鬼が触れれば終了だ。
とはいえ、この場合まともに触れようものなら漏れなく死出の旅行券が付いてくる。同じ受けるでも受け流す必要性がそこにはある。
だったら、それは双方に余力が残っている今を置いて他なく、大きく振りかぶっての一撃はまさに絶好機。
「――でも超怖いんだよ! こんちっくしょうがッ!!」
行く。
それでも行く。
情けない叫びの中、一刀はわずかなバックステップを踏み、剣を斜めに合わせた。
狙うは春蘭との初相対で偶然発生した"北郷流後方離脱式いなし術"。別名、ぶっ飛ばされたけど生きててよかった、だ。
構図も似ている。なら、あとはあの奇跡体験をなんとか経験値に変えて再現するのみ。
――なんとかなれえええッ―――!
しかし、願い届かず。
剣が鉄球と触れ、芯に届く硬質音が鳴ったその瞬間。
「――ッおヴぇろん!?」
自らの剣は自らの額を撃ち抜いていた。
ビビって鉄球との接触面が浅すぎたためか破壊力をモロ被り。
上っ面を擦るように撫でただけで呆気なく弾き返された宝剣は、無情にも一刀を吹き飛ばし、
「「あ……」」
と、季衣&流琉が送る視線の先では、男が地面を何度も弾んでもみきり状の縦回転。
それはもう事故現場さながらで、そもそもが余りに酷な話だったのだ。鈍器との相対経験に乏しい男が超重量のこれを対処しようと言うのは。
結果、一刀は無残。数メートルにおよぶ衝突スタントを敢行する羽目になり、地面に仰向けで大の字。見上げる虚ろな眼差しは天を泳ぎ、
「……ハ、ハハハ。あ、青空が、眩しいんだ、ぜ……」
がくり。呟き終わると意識もフライアウェイ。
「兄ちゃん!?」「北郷さま!?」
慌てて駆け寄る二人の呼びかけに、おでこから一筋の流血と何故か穏やかな表情を残して――。
***
午後の陽光を受ける八角形の建物がある。
中庭のほぼ中央に位置する木造の東屋だ。
深いウグイス色の板屋根は気持ち良さそうに日差しを浴び、柵状の木壁が囲う内部には、これまた八角形の卓が中心に鎮座して、その輪郭をひと続きの長椅子がなぞる。
そして、そこには季衣の姿も。
その表情からは普段の元気印も鳴りを潜め、窺えるのは色濃い反省と心配の念。
彼女は長椅子の上で体育座り。膝を抱き寄せアゴも乗せ、じっと何かを見つめていた。
落とす視線。先にあるのは同じく長椅子上に寝かされている一刀の顔だ。
思い出したように姿勢をほどき、彼の頭部側からそっと手を伸ばして額の手拭をのければ、赤く腫れるタンコブがなんとも痛ましい。
――ごめんね兄ちゃん……。
所々に赤の斑点が残る手拭を握り、季衣は思う。
流琉の忠告をちゃんと聞いておけばよかった。こんなはずじゃなかったのに。いつもこうだ、と。
悪い癖だ。
季衣は夢中なるとつい羽目を外してしまい、度々騒動を起こしてきた。
例え本人に悪気はなくとも、如何せん規格外の力だ。簡単に度が過ぎてしまう。
今でこそ人外の群れに身を置き目立たなくなったものの、昔は酷い有様だった。
村の皆を思っての行動はいつも裏目。ただ仲良くなりたかっただけなのに、役に立ちたかっただけなのに、張り切れば張り切るほど空回り。そのくせ、失敗の不利益を被るのは決まって本人以外ときたものだ。
そりゃ疎まれた。嫌われた。拒絶された。
散々蔑まれ、罵倒され、鬼の子と呼ばれ、無視された。
そう。まるで鬼事のように。村人は季衣との接触を避けるため逃げ続けた。
だから、もし流琉がいなかったら。もしも、ひとりぼっちだったら。
考えるだけでそら恐ろしいが、季衣は断言出来る。今はなかった、と。笑顔を失わずにいられたのは全て流琉のおかげだと。
それだけ流琉には多くの迷惑をかけ、いつだって助けられ、先刻にしてもそうだった。
――兄ちゃん動かなくなっちゃって、ボク、どうしたらいいか全然わかんなくて。でも、流琉はすぐに兄ちゃんを東屋へ運ぼうって。静かに、優しく、慎重に。それから御典医さんを呼びに行くって。
そして、その後も。
医師から単なる失神であるとの見立てを受けた流琉は、手拭と水桶を用意し、滲む血を丁寧に拭き取り、全身の砂を払い落とし、腫れる患部を冷やしつつ、回収した一刀の上着を上半身に掛ける等々の献身的な介抱を続けた。
本来なら季衣がすべきことを端から全てだ。
なのに肝心の当人は常に傍観者で。
――だって、ボクが触るともっとひどいことになっちゃうし……。
それはもう何年も昔の話。
季衣は過去に一度だけ風邪で寝込む流琉の看病をした事があるのだが、その際、熱冷ましの水手拭を取り替える、まではよかった。
しかし、そこから彼女は、こっちの方が効果的だよ! と、あくまで良かれと思って、濯ぎ直した水手拭を顔全面に密着させるという殺人未遂事件を誘発。
以降、季衣もこの手の類は自重するようになり、窒息しかけた流琉だって洒落にならないと絶対譲らない。
――そう言えばあの時、流琉ったら鼻水も涙もダッラダラで、すっごい顔して怒ってたなぁ。それを思い出し笑いしたら二週間くらい口きいてくれなかったもんなぁ。
と、そこへ。
「どう? 北郷さまのご様子は」
桶の水を変えに行っていた流琉がちょうど戻り、慌てた季衣はとりあえず言う。
「笑ってないよ!」
「……なにが? って、ああっ!」
が、問題はそっちじゃない。
季衣の手に手拭が握られているのを発見した流琉はじとっと目を細め、
「……いじっちゃ駄目って言ったよね?」
「へ? あっ! これは違っ――」
「貸して」
一言。言い訳を待たず、ただちに取り上げる。
そして、防壁とでもするように二人の間へ水桶を置き、手拭を水に浸した、その時だった。
「う……、うぅ」
呻きの先。一刀の瞼が薄く開き、
「あっ……季衣見て! 北郷さまが!」
「え、――兄ちゃんッ!!」
途端。東屋には飛散する水音が鳴る。
間に桶を置いたのは大失策。防壁の役割など欠片も果たさず、飛びつく季衣が豪快にひっくり返して、
「ぶふぉあッ!? 耳、耳があああ!!」
これぞ"寝耳に水"誕生の瞬間であった。
***
一方その頃。
所変わっての太守執務室。
着座する華琳の視線は手にある巻物上を滑らかに走り、文字列を追う上下運動は躓きなく右から左へ。最終確認の精読は巻末まで一気に進み、納得をもって顔は上がる。
対面。そこには政務机を挟み秋蘭と桂花の姿があった。
華琳は広げた巻物を巻き直しながら起立する二人に言う。
「これで最後かしら?」
「はい。本日の案件はこれにて終了になります」
「私の報告も以上です、華琳さま」
そう、と頷き一息ついた華琳は集中力を解く。
今日は朝からずっとだ。
秋蘭は、新戦力加入と濮陽併合に伴う軍の再編成と展望。
桂花は、新領地での統治方針と新国境線における問題点の洗い出し。
それぞれの議題を中間報告として聞き、最終立案の方向性を話し合った。
そして、充実の三人会談はこじんまりでも現施政下における最高顧問級会合だ。しかもこれで全員参加の。
これをたったの三人で凄いと見るか、はたまた為政者不足が甚だしいと取るのかは意見が分かれるところだろう。
だが、華琳は言いたい。断固、後者であると。麾下の将たちは肉体労働派ばっかりだ。
ただまあ現状、確かに三人いれば事足りるのも事実。なんら不足はない。しかし、それもあくまで二人の超優秀な部下が超勤勉なおかげなだけで、もし万が一、どちらかに体調不良でも発生した日にゃ、それ相応の犠牲を覚悟しなければならない。
具体的には、まず睡眠時間は削られるだろう。食事の時間もままならないかもしれない。何より、身だしなみの時間が半減してしまう。特に髪型の。
――ゆ、由々しき事態だわっ……!
華琳は、それだけはどうしても嫌だった。
よってそういう面でも新将の加入は大きいと言える。
「ところで、秋蘭。音々の働きぶりはどう?」
そう。とりわけ、董卓軍の財務を一手に切り盛りしていたという彼女の存在は有意義だ。
問いの意図を汲み取った秋蘭は笑みを浮かべ答える。
「はい。秀でた才覚は噂に違わず、公務に対する姿勢も真面目の一言。少々甘えすぎかもしれぬと自制が必要なほどの働きです」
そう、と短く返す華琳の表情も柔らかだ。
秋蘭の"甘えすぎかもしれぬと自制が必要"は、自身も二人に対して常々抱いていた感情。自嘲が混じる反面、よかったと頬も緩む。
が、そんな華琳の正面。秋蘭の右隣にはピクリとも笑わず、むしろ対照的に顔の強張る猫耳娘が一匹。
理由は手に取るようにわかる。
ゆえに華琳は割り増しで口の端を吊り上げ、
「で、桂花。そちらはどうなの? 一刀に書庫の仕事をさせているとか聞いたけれど?」
「……し、知りません。あれはあの男が勝手に始めたことですから」
想像以上の白々しさに、いよいよ吹き出しそうになった。
それはどうやら秋蘭も同様のようで、笑いをぐっと飲み込む仕草を見せると代わりに応答する。
「聞くところによりますと、なんでも読み書きを教わる代価として手伝いしているそうです。で、いいかな桂花?」
「……知らないって言ってるでしょ?」
だがそれも、私には関係ありませんとでも言いたげで。
桂花は大きなお世話だとばかりに視線をあらぬ方向へ逸らし、こうなっては秋蘭もお手上げだ。
机の前にはやれやれ顔と仏頂面が並び、二つを見つめる華琳は思う。
成程、これが桂花の選んだ処世術か、と。
――名目は自主性を重んじる、放任主義と言った所かしら?
なんにしろ、桂花は一刀との接点を最小限に留める気だ。
指南役として十分な責務を果たしているのかは怪しい所だが、どこまで不干渉を通せるか。それが彼女の課題なのだろう。
そして華琳には別段、それを咎める気もなかった。
確かに反抗的と言えば反抗的とも取れるが、これはどちらかというと苦手克服に形振り構わず躍起だと見る方が近い。
それにもともと一刀を導けと命じただけで、その指導法にまでは華琳も言及しておらず、また敢えてそうしなかった。
――でも、このまま放置というのも少し面白みに欠けるかしら?
悪女は、これまたわざとらしく語気を強め言う。
「桂花、一刀の指導方針はあなたの好きになさい。こちらから注文つけるような野暮はしないから。けれど、もしそこに結果が伴わない時は……わかっているでしょうね?」
「は、はい!」
「ふふ、なら最低限の監督責任は果たすことね?」
「……はい」
内心はとても"はい"ではなかろう。肩を落とす彼女は捨てられた子猫のような瞳をしている。
――いい表情よ桂花! そそるわ!
不敵な華琳は抑え切れず、すくりと席を立ち、
「なら、そろそろ昼食にしましょう」
ここからもうひと弄り追加になりまーす。
***
「折角だから城下に出ましょうか。どこがいいかしら? 何か食べたいものでもある?」
何気ない主の問いかけを、心待ちにしていた者がいる。
桂花だ。
――ふふふ、来た来た読み通り! この桂花に抜かりはないから! 最近のオススメはばっちり押さえているわよ!
彼女は主が外食を選択する可能性も網羅して、事前リサーチに余念はなかった。
ずばり、躍起なのだ。点数稼ぎに。ここ最近の大失点挽回に。
だから、心なしか萎れているように見えた猫耳頭巾もピンと力を取り戻し、彼女はここぞとばかりに手を挙げ述べる。
「――はい華琳さま! それなら良いお店を知っています!」
「へぇ、どんな店なの?」
「はい! 最近出来たばかりでまだ知る者は少ないのですが、その刀削麺は絶品だと季衣太鼓判のお店です!」
そう、と返す主は秋蘭の意見も、と左へ目配せ。
「構いません。季衣の勧める店なら、なんら問題ないかと」
「じゃあ決まりね」
「それでは、ご案内致しますっ!」
どんなことでも華琳さまのお役に立てれば至上の喜び。
さっそく勇んで先導を務めようとする桂花は、こんな小さな加点でも存分に嬉しく、会心の握り拳を胸に引く。
が、華琳はその動きを片手をかざして制し、
「いいえ。案内は結構。場所だけ教えてちょうだい」
直後に一蹴。桂花は固まる。
――えっ……? 今の結構はあれよね、肯定の結構よね? 大変結構なお手前で、とかの結構よね? 拒否じゃないわよね? そうよ。私と一緒は嫌なんてことあるわけないわ。まして、私がいると食事が不味くなるとか、そ、そんなわけ――ないですよね華琳さま!?
思う間、こちらへ歩み寄る主はさらに、
「ふふ。それから、桂花にはこれを頼みたいの」
「……はえ?」
手渡されたのは机の角に積まれていた数冊の書物。
それを自分に頼みたいと主は言う。
つまり、
「私と秋蘭は先に店へ向かっているから。あなたはそれを書庫にきちんと返却してから来なさい。いいわね?」
「――なあ!?」
一刀の様子を見て来い。と、そういう意味だ。
なんと忌々しい。またあの男がッ……! と頬はピクピク引きつるが、表向きは普通のお使いである。どうしたって拒否は出来ないし、それは桂花の信条にも反するところ。
なら、取り得る行動は決まっている。
「か、畏まりました……ッ」
桂花は秋蘭に店名と場所を伝えると、一目散に部屋を飛び出していた。
その胸に本と怒りと涙を抱えて。
***
開けっ広げの扉越しに見える後姿を、秋蘭は視線で追いつつぼそりと呟く。
「華琳さまも人が悪い」
「ふふ、なんのことかしら?」
そして隠そうともしない笑みを前に改めて苦笑だ。
――これは桂花も大変そうだな。
もっとも、その当人にも被虐を望むきらいがあるだけに善し悪しの判断は非常にややこしい。どちらにせよ止める気はないが。
さておき、秋蘭は呟きを続けた。
「以前、書庫管理者のひとりを解任した折、代わりは自分で探すよう桂花に命じたのは華琳さまではありませんか」
「あら、そうだったかしら?」
「こうなることを全て予想の上で、桂花に北郷を任せたのでは?」
「さあ、ねぇ?」
どうやら、あくまで恍け続けるようだ。
やれやれと首を振る秋蘭は、おかげである種の確信を得る。
北郷一刀の教育には人手不足の書庫を手伝せるのが一石二鳥。そうお考えになった華琳さまは、桂花にその権限がある点と彼女の性格を考慮された上でご采配を振るわれたのだろう、と。
そしてそれらは大方思惑通りに運んでおり、主はすっかり素知らぬ振りして楽しんでいらっしゃるわけだ。
――うむ。単に嫌がらせだけでない辺りがミソ。華琳さまらしさが詰まっている。陰湿具合も絶妙で一級品の隠微さだ。さすがは我が王。これは……、姉者にも応用可だな!
と内心にやける秋蘭は、
「では、そろそろ参りましょうか華琳さま。久々の城下をご案内致します」
「ええ」
参考の礼として歩みを進めることにした。
出来る限りゆっくりと。
それがせめてもの情けだろう、と。
***
さて。桂花がひ弱な脚力で懸命に書庫へと駆けるその頃。
秋蘭と華琳がのんびり向かう先、とある飯店ではひとつの悲劇が起きていた。
「おいちゃんおかわり!」
「あいよ譲ちゃん!」
これ自体は客と店主のどこにでもある極々自然なやりとりだ。
何も珍しいことはない。至ってありふれた光景である。
ただし、調理場と対面式の長卓上に高々と築かれたどんぶりの塔と、季衣の末恐ろしい食欲を除けば、だ。
お行儀よく刀削麺なるラーメンに似た短い麺を啜る流琉の横。季衣はどんぶりを大胆に持ち上げ、まるでエイやマンタの捕食シーンを彷彿とさせる食べっぷり。スープごと具も麺も一緒くたに猛烈な勢いで口の中へ流し込んでいく。
その迫力の光景を反対隣で青ざめ見つめる一刀は、存分に我が目を疑っていた。
「……そ、そんなに食べて大丈夫なの?」
既に積み上げられたどんぶりは十五階建てのツインタワー。
これが一体どんな原理で、あの小さな体に消えてなくなったのか。
仮に一杯の量を四百グラムだとして、なんと、その総量は十二キロ。
推定体重二十キロ程の彼女が自重の六割にも相当する量を胃袋へ納めた計算になる。
――って、いやいやいや無理だから。ならないから! こんなもんあれだよ? もうただのイリュージョンだよ? だから本当は食べてないんだよね? わかってるって、ちゃんとどっかに保管してあるんだよね? 返品OKだよね? ここ、俺の奢りなんですけどお!?
しかし、願いは空しくどんぶりに溶け落ち、季衣はひと飲み。
「ん? ほへくはい、へんへんへっははらお?」
「もう、季衣。口に含んだまましゃべらないの。あ、えっと、これくらい全然へっちゃらだって言ってます」
「アハハハ……。ナ、ナライインダァ」
なんて強がってみても、麺に浸かる一刀の箸が動くことは、もはやない。
いくら飯が美味かろうと、状況は非常に拙いのだ。
まさか恋に匹敵するフードファイターがこんな所に潜んでいようとは思ってもみなかった。まさに不覚。またも不覚。
――気絶までして、あれだけ慎重さの重要性を学んだばっかりなのに……、ちくしょうがッ!
「おかわり!」
「あいよ!」
やってる間に、トリプルタワーへの増改築が始まった。
***
台越しの前方。喜びのリズムで、麺を大釜へ削り入れる店主は言う。
「まさか嬢ちゃんがここまでやるとは。こりゃこっちも負けてらんねえな!」
隣では、麺を頬張る季衣が無言で親指を突き上げ"おいちゃんもやるな"のサイン。
一刀は気づかれぬよう机側に半身を預け、こっそりと俯いていた。
ズボンから取り出す巾着袋の口を静かに開き、濮陽での別れ際に管輅からもらった餞別銭の残高確認である。
――やばいって。これもう何か変な空気になってるって。飯食ってるだけなのに敵同士が互いの激闘を称え合うみたいな少年漫画の展開になってるって。今更、お金ないとか言えないじゃんっ!
そもそも。
何故このような事態に陥っているかと言えば、それは彼女たちを元気づけるためだった。
気絶から目覚めたあの時。
文字通り桶をひっくり返したような水流を食らった一刀は何事かと跳ね起き、辺りを見回せばこちらをじっと見つめる視線に気づく。
不安げで。申し訳なさげに。何か言いたげな少女が二人。
その姿に、事の顛末を思い出した男は、気づけば桃色の髪へと手を伸ばしていた。
ずぶ濡れの手で。無造作に。わしゃりと。
冷たいだの、くすぐったいなどのクレームは全無視して、もちろん仲間外れはよくないと隣の流琉もぐりぐりだ。二人もすぐにきゃっきゃとはしゃぎ始める。
一刀は心配かけてごめんねと伝えた。もう大丈夫とも。
すると安心からか、季衣の腹音が大きく鳴り、笑いの中で時刻は正午を過ぎていることを知る。ちょうどを暗黙の二刻が終わった頃らしい。"ボクたちの時間は終わっちゃった"と季衣が落ち込んでいた。
そして、そこが分岐点。
あまつさえ午前の手伝いをすっぽかしておいて何が飯だ。本来なら一刀は何はともあれ書庫へ向かうべきだった。
にもかかわらず、軽々に昼食をご馳走するなんて大見得切り、その上、先ほどの意味深発言にも言及なしだ。そりゃバッドエンドルート突入に決まっている。
こうして、男は本日二度目の後悔入り。遅ればせながら理解する。
どうして彼女たちの時間が暗黙の二刻なのか。
どうして暗黙の二刻は死ぬほど忙しくて遠慮しろなのか。
どうして恋を食堂で見ることがなかったのか。
ばらばらの謎はひとつに繋がった。
要は、
――暗黙の二刻って大食い枠ってことだよね!
確かに、こんな底なし共を一般人に混ぜて食堂へ放ったら厨房は過労死するだろう。そのための時間制限で隔離政策なのだろう。
現に今も、ご馳走さまでしたと手を合わせる流琉の横では、建設ラッシュが継続中。トリプルタワーは早くも半ば完成をみた。
――これさ、五十杯食べたらタダになるとかないかなぁ……。
ない。
もはや動揺も隠せない一刀は両手で顔を覆い、異変に気づいた流琉は小声で、
「……ねえ季衣? ご馳走してもらうんだし、そろそろよしたら?」
「ええ~? だって、兄ちゃん好きなだけ食べていいって」
「そ、そうなんだけど、さ」
と、気遣いのチラ見がこちらを窺う。
一刀は思った。あぁ、流琉は優しい子だな、と。
が、今はその優しさが残酷だ。
逆に年長者のつまらぬ意地を刺激され、広げた大風呂敷は余計に畳めない。
とういうか、もう予算オーバーを悟り、一刀はどんぶりに箸と匙を投げ、
「え、遠慮することないぞ! うん。ドンドン食べなさい! ハハ、アハハハハハ」
「北郷さま!?」「やったー!」
どうせ足りないなら一杯分だろうが十杯分だろうとどちらも大差なし。
だったらせめて終わりが来るまでこの時を楽しもうと、十八番の現実逃避です。
精一杯です。
***
薄暗い書庫の、そのまたさらに奥。本棚の森を抜けた先には部屋がある。
中には新古問わず様々な形態の書籍が所狭しと詰まれ、中央に年季のはいった小さな机と椅子が一脚。そこは攸の作業場だ。
攸は筆置きにそっと筆を寝かせ、両腕を突き上げ大きく伸びをする。
充実だ。肩のコリと共に感じるのは久々の充足感である。
ここ最近はドタバタ続きで、ろくすっぽ作業に専念できずにいた。
だが、今日は違う。
――もうお昼ですけど……、来ませんね北郷さま。
あの日以来、欠かすことなく通いつめていた厄介人が何故か姿を見せない。
おかげで書庫には相応の落ち着いた雰囲気が満ち、攸も書物の編纂に没頭できたわけなのだが……。いざいないとなるとこれがまた不思議と寂しいもので。
――何かあったんでしょうか?
傍迷惑な人物ではあるが、仕事には熱心だった。
ならば、休むなら休むで一言くらいありそうなものだ。そこは少し気になる。
が、だからといって部屋を訪ねるわけにもいかず、それに、もし本当に何かあったなら今頃その噂で城内持ちきりの筈だ。
――そうですよ。便りがないのは無事の知らせとも言いますもんね。
だいたい、あれでも一応は将なのだ。急な用件のひとつや二つあってもおかしくない。
むしろ、こんな所へ毎日毎日足しげく通う方がどうかしている。
そう結論をまとめると、攸は腕を戻し、
「まあ昼食にしますか」
と席を立ったその時だ。
立て付けの悪い作業場の扉が軋みを立てながら開き、そこから思わぬ人物が姿を現す。
それは、
「あ、いた。ちょっと、馬鹿の姿が見えないんだけど、どこいったのよ? 食堂?」
「じゅ、荀彧さま!」
相変わらず辛気臭い部屋ね、と悪態つく桂花だ。
彼女は机に歩み寄り、その上へ抱えていた本を置く。と、今度は急にハッと顔色を変え、
「かっ、勘違いしないでよ!? 私は華琳さまの言いつけでこれを返しに来ただけだから! あいつの様子が気になってとか、そういうのじゃないんだから!!」
「は、はぁ……?」
なにやら、聞いてもいない弁解を必死に始めた。
――これは、先日北郷さまが『史記』の項羽本紀を読みながらおっしゃっていた、"おいおい、作者最後の一文で項羽批判してるけど、作中じゃ項羽大好き感が駄々漏れだろこれ。どんだけツンデレなんだよ"のツンデレなるものでは?
と冷静に分析する攸だが、そんな場合でもない。
桂花は益々必死さを強めて言う。
「なんで黙ってるのよ! いいから答えなさい! あの馬鹿はどこ!」
「え、北郷さまですか? いや、どこと言われましても、その」
そう。これは拙い。
――ど、どどど、どうしましょう!? 今日はまだ来られていないことをお伝えしてもいいのでしょうか? それともこの場は言い繕った方がいいのでしょうか?
「……なにキョロキョロしてるの? 私、急いでるんだから早くして!」
「いや、そう言われましても、だから、えっとですね……」
どうしたものか。とりあえずこの場は誤魔化すべきか。
――でも、北郷さまを庇い立てして、万が一、何か不都合でも生じたなら私の引責なんでしょうかこれ!?
「あぁ~じれったい! なにをもたもたと! 別に困るようなことは聞いてな……、って、まさか。あいつ早速怠けてるわけじゃないでしょうね……?」
「い、いえっ、そのような! これはあのその、なんと申しますか、つまりですね」
「――攸ッ!!」
途端。怒声に合わせて机を打つ激しい威嚇音も鳴り響き、反射でびくんと伸びる背筋。
思考停止の文官は即座に答えていた。
「はい! 今日はまだ北郷さまをお見かけしておりません!」
「なっ、なんですってええ!? あの変態穀潰し……っ、なに考えてるのよッ!!」
「ひぃ!?」
そして桂花は、信じられない! と吐き捨て、慌てて部屋を飛び出す。
作業場の扉も、書庫の扉も開けっ放し。おそらくはまた彼を探しに行ったのだろう。
外気の流入を風として感じた攸は、ひとりぽつんと残る作業場で両手を合わせて祈っていた。
「どうかご無事で北郷さま……!」
どうか彼の悲報だけは届きませんように、と。
***
「でもほんと、無事? って言っていいのかはわかんないけどさ、生きててよかったぁ。あの瞬間、正直死んだって思ったからね俺」
額を押さえ、いてて、とやっている一刀の言葉に、四十七杯目を飲み乾した季衣が言う。
「ボクも兄ちゃんが"おびろんっ"て、すっ飛んでった時はびっくりしたなぁ」
「お、おび? 何それ? 俺そんなこと言ってたの?」
「はい。ゴンってすごい音と一緒に"おび"とか"おべ"とか。それから北郷さま鞠みたいに弾んでました」
「鞠……」
すごかったよねー、ねー、と可愛らしく笑う二人を他所に、一刀は我が身の不幸に改めて背筋が凍る。人が鞠のように弾んでいいわけがない。どんな状況だ。
あと、隣で季衣が箸をふりふり音頭を取って、おびろん? おべろん! と真似をしているのは怒るべきだろうか。悩んでいると流琉が諌めに入ったのでよしとする。
ただ注意の仕方が、食事中にお行儀が悪い! なのはどうなのだろう。間違いではないだけに歯がゆい。
ともあれ、季衣がおびろん音頭を諦めたようなので一刀は話を続けた。
「あのさ、二人にちょっと聞いていい?」
「ん?」「何ですか?」
少し真面目な表情で。
こんな話をするつもりは更々なかったが、愛らしい二人を見ていると、どうにも募る感情がある。
それはこの世界に来てからくどいほど感じたことで、
「二人は……、どうして華琳の下にいるの?」
何故、彼女たちが戦わなければならいのか、だ。
――こんな子供をどうして人殺しの場なんかに巻き込まなきゃいけないんだよ……。
少なくとも、彼女たち自身がそれを望んでいるとは思いたくない。
しかし、一刀は同時に理解している。
時は乱世。彼の通念、常識はこの世界で通用しないと十分痛感している。
あの日見た美しき鬼人。愛紗との出会いは今なお鮮烈な記憶として胸にある。
だから、きっと聞くだけ無駄なことも。
こんな問答は初めから一刀の自己満足でしかないこともわかっている。
案の定、二人はさも当然とこう言った。
「どうしてって、そんなのボクたちが華琳さまにお願いしたからだよ。一緒に戦いたいって」
「はい。私も季衣も村でいつも戦っていましたから。それでお目通りの機会に二人でお願いしたんです」
そんな、と無意識に吐きかけた言葉。一刀は寸前で飲み込んだ。険しくなる表情を無理やりに取り繕う。
ここで二人に現代日本の道徳をぶつけて何になるのか。そんなもの八つ当たりでしかない。
でも。
それでもせめて一言。彼女たちの口から現状の否定を聞きたくて、一刀は新たな問いを作る。
「け、けどほらっ、戦なんかしてないで皆と楽しく遊んでたいって思うでしょ?」
だが、卑しい浅慮に返ってくるのは切ないほど実直な意志で。
「そりゃ、たまにはあるけどぉ。けど、ボクやっぱり皆を守りたいから!」
「うん、そうだね。いつかきっと華琳さまが平和な国を作ってくれます。なら、遊ぶのはその後でいいから」
二人の顔には照れ隠しの笑みが浮かんでいた。
「――――」
その瞬間。一刀は継ぐはずの言葉を失う。急激に思考が冷えていくのを感じる。堪らなくやる瀬無かった。
どんな理由があるにしろ、彼女たちが戦場にあることを正しいとは思いたくない筈なのに、否定の言葉が出てこないのだ。
けれど、沈黙もまた駄目だ。
「なら……、俺は二人に負けないくらいもっと頑張らなきゃな」
ならば。それでもなお、彼女たちを矢面に立たせたくないと言うのなら、己が彼女たちの代わりを務めるしかないのだろう。
白だ黒だの感情論も、善だ悪だの方法論も二の次。わかっていることはひとつだけなのだから。
「それでさ、平和な国を作っていっぱい遊ぼう。皆で」
乱世を一刻も早く終わらせ、治世へと邁進する。それが彼女たちを戦場から解放する唯一確かな手段なのだから。
所詮、一刀の思いにしろ、現代のモラルにしろ、大前提は"平和たれ"。その上で成り立っているモノだ。
貫くなら、とにかく進むしかない。強さがすべての世界、その時計の針を先へと進めるしかない。
――けど、俺なんかに何が……?
思った時だ。
不意に季衣は床摺りの音たてながら椅子を引き、目線を合わせるように立ち上がり、
「ならね兄ちゃん! ボクももっと頑張る! 春蘭さまみたいに強くなる! そしたらず~っと早く平和になるでしょ?」
さらに流琉も並び立ち、
「あっ、あの北郷さま! なら私ももっと努力して秋蘭さまのように強くなります! だから絶対約束です!」
どこか得意気でまっすぐな眼差しがそこにはある。
正直、目を合わせているのが辛かった。一刀にはもう少女たちへ返すべく言葉が見つけられなかった。
よく言ったと褒めればいいのだろうか? それは駄目だと制すればいいのだろうか? それとも、なんて時代だと嘆いて見せればいいのだろうか。
わからなかった。
混濁する感情が締め付ける胸。その痛みの意味をわかりたくなかった。
「……許緖ちゃん、典韋ちゃん」
だというのに。
彼女たちはなんとか搾り出した言葉にも言うのだ。
「る、流琉でいいです。その、に、にに兄さま!」
「……え? に、兄さま? ――って、真名だよねそれ!?」
「あうぅ。だって季衣もずっと兄ちゃんって呼んでるし、駄目ですか……?」
「いや、そっちはどうでもいいっていうか、あの」
「――もう流琉だけずるいっ! ボクも真名で呼んでよ兄ちゃん!」
「なっ……」
ただでさえぐちゃぐちゃの感情の上に、新たな色彩を塗り重ねられる。
バケツに入れた絵の具をぶちまける様に。それは喜び、あるいは驚き。
どちらにせよ、混ざり合って心に生まれる新色は戸惑いだ。
本当にいいの? と一刀は問い返す。
すると、はい! と、うん! が間髪いれずに同時に上がり、
「華琳さまも兄さまに真名を預けていますし、それに、お話してわかりましたから。とってもいい人なんだって」
「兄ちゃんといると楽しいもんね。だからボクも季衣って呼んで」
眩しいほどの笑顔がこちらを見ている。
正直、直視が痛かった。
しかし、一刀はしかっりと言葉を紡ぐ。答えなければ。今度こそ。
「そっか、ありがとう。流琉、季衣」
「は、はい!」「えっへへ」
二人の髪を撫で繰り回し、共に笑う。
今は。
今だけは。
裏側にある負の感情を隠すためにも。
『そしたらもっと早く平和になるでしょ?』
『だから絶対約束です!』
二つの台詞が示す矛盾。
彼女たちを救うための方策すら、彼女たちをより戦場へと引き寄せてしまう皮肉さ。
胸にこびりつくそんな不快感を抱えながら、一刀は笑っていた。
そろそろ御代を、と、にこやかに手を揉む店主のまん前で――。
***
「あの店のようです華琳さま。"
「蓬莱軒? また随分な名ね」
「……言われてみれば、確かに」
蓬莱とは仙人が住むとされる東方三神山のひとつ。司馬遷著『史記』の中にも徐副の伝記として蓬莱の名は登場する。
――方士、徐副は秦の始皇帝に、"蓬莱には不老不死の霊薬がある"と進言して、三千人規模の人員と大量の資材を与えられ東の海へ出立するのよね。戻ってこないけど。
さらに言うなら、同じく『史記』の秦始皇帝本紀では、"徐副は援助を受けるだけ受けておいて出立すらせず"との記述もあり、蓬莱は始皇帝から物資をせしめるための名目として描かれている。
――だいたい何が不老不死の霊薬よ。本当にそんなものが存在すると言うのなら、始皇帝も自分で取りに行くでしょうに。私ならそうするわ。なんてたって不老よ? 不死に興味はないけれど、不老なのよ? 万軍動員よ!
と、どうでもいいことを割と真剣に考えながら歩く華琳は、通りにある赤暖簾を見やる。
目的地はもう目と鼻の先。
秋蘭の時間稼ぎも功を奏さず、桂花は間に合わず仕舞い。
華琳は無論、意図的な遠回りだと気づいていた。
ならば、ひょっとしてすれ違いで、桂花が待ち構えているかもしれないと視線を送ったのだが、どうやらその気配もない。
――ふふ、私の徐副はちゃんと戻ってきてくれるのかしら?
と、ちょうどその時だ。
赤暖簾が左右に割れ、店内から二人の少女が現れる。
その姿に秋蘭も気づいたようで、
「おや、季衣と流琉か」
「「あっ、秋蘭さま!」」
「奇遇ね。二人とも」
「「華琳さまも!」」
嬉しそうに小走りでこちらへ駆け寄る彼女たち。
華琳は冗談めかして、あなたたちに不老不死は早すぎよ? と二人を迎え、
「不老……?」「不死……?」
史記をまだ習っていない二人が、なんの話かと揃って小首を傾げる姿は微笑ましい。
いいの、何でもないわ。と華琳は笑いながら返す。
横から同じく、くすり顔の秋蘭が話を進めた。
「それより、ここは季衣の勧めと聞いてやって来たのだが、その様子だとかなり期待してよさそうだな」
「うん! ボク最近ここにハマってるんだぁ! けどね秋蘭さま、あんまりお外で食べると流琉がうるさいから、いっつも食べたいの途中で我慢してて……でもでも、今日は一杯食べちゃったんだ!」
「うるさいって、ほっといたらお小遣いあっという間に使っちゃう季衣が悪いんでしょ? それに、今日だって遠慮して欲しかったんだけどな……」
「む? 何かあったのか?」
それが……、と流琉が向ける視線は暖簾の向こう側を指している。
いかにも意味ありげだ。
華琳も暖簾をもう一度見つめ、
――店内で何かあった? それとも、喰らい尽くして何も残ってないとか?
だが、会話を聞いているとどちらも少し違うらしい。
「あのね秋蘭さま、兄ちゃんがご馳走してくれたんだ! 好きなだけ食べていいよって」
「兄ちゃん……?」
「あっ、北郷さまのことです。今日は兄さ、北郷さまから昼食に誘って頂きそれで」
「北郷が……?」
はい! と うん! の合唱を聞きながら、華琳はとっくにひとり暖簾を掻き分けていた。
いつの間に二人とこんな仲良くなったのか等、諸々聞きたい事はある。が、今は、
――あの馬鹿……。季衣に好きなだけご馳走って、どれだけかかると思って――。
そして、思った通り。
開けた先、客がまばらに座る四人掛け卓の最奥。調理場に面した長机の前で土下座する馬鹿がいた。
「ほんとすいませんっしたあああ! 悪気はなかったんです。ただ二人にいい格好したかっただけで、あんなに食うなんて思ってなくて! 残りの代金は必ずお払いしますんで、お金出来たらすぐかっ飛んできますんで! ほんとぉ~に、すいませんでしたああああ!!」
「いや、あんちゃん。もうやめてくだせぇって。あっしにだってわかりますよ。そりゃあんだけ可愛い妹さんがいりゃ誰だって――」
「ですよねっ!」
何がですよねだ。
華琳の心境としては、このまま走っていって後頭部を思いっきり踏み躙ってやりたい気分だ。この恥さらし! と罵りながら。が、一方で情状酌量の余地も感じている。
これは華琳も通った道なのだ。
――そう、あれはエン州国境まで賊徒討伐に遠征した時。そこで季衣と流琉に出会い配下へ招いたのだけれど……。帰城まで一日以上残して兵糧は空に。飢えと戦う行軍を強いられたのをよく覚えているわ……。
いくら最小限の人員と兵糧で挑んだ強行軍だったとは言え、まさかたったひとりの胃袋が輜重隊の全職務を奪おうとは思ってもみなかった。
だから華琳も己の失敗を棚上げにして、馬鹿の恥だけ叱るのは如何なものかと。
――なら、ここはあの時と同様、桂花に責任と支払いを背負わせて……。
なんて考えていると。
「ありがとう親父さん……! 本当は皿洗いでも掃除でもなんでも手伝うのが筋なんだろうけど、俺にもやらなきゃいけない事があるんだ。ごめんなさい!」
一応、馬鹿は馬鹿でも真面目な部類の馬鹿らしい。
一刀は再度低い姿勢を作り頭を深く下げていた。
店主もその姿に、わかってますとも、と繰り返し一刀を地面から剥がす。
となると、仕方がない。
少々癪だが、ここは立て替えておくかと華琳は一歩を踏む。
しかし、そこで聞こえてきた続きの会話は――。
「ああ、もしかして聞こえてました? いやぁ、あれだけせがまれちゃうともう断わるに断われなくてぇ。はは、兄冥利とでも言うんすかね? この後三人で城外へ遊びに行こうって話しになってて」
「でも仕事の方はいいんですかい? 随分悩んでたみてぇですが」
「あーいいのいいの。息抜きってやっぱ必要じゃん? それに俺さ、陳留に来てまだ日が浅いんだけど、ここの上司っていうか上官っていうか、とにかく上が歪んだ心の持ち主ばっかでさ……」
「そら大変で。じゃあ、さしずめ今日は心の洗濯ってところですかい?」
「あはは、そうですね。でもほんと、華琳や桂花に二人の素直さが少しでもあればなぁ。体は妹みたいなのに、なんであんな捻じ曲がった」
「――悪かったわね捻じ曲がった性根で……!」
馬鹿は、傾く良心の振り子を反動つけて押し戻していた。
***
一刀は吹きだす冷や汗を止められない。
ほんの数秒前までは、何とか窮地を切り抜けられたと安堵感に包まれていた筈が、今やとんでもない悪寒に左肩を鷲掴みされている。
そして、徐々に強まる肩の痛みと共に、泣きたくなるほど聞き覚えがある声がするのだ。
「それで? 聞きたいんだけれど、私の一体どこら辺が妹みたいな体なのかしら……!」
怒涛の如く押し寄せるのは本日三度目の超後悔。
一刀は恐怖で錆つく首をゆっくり回し、
「や、やあ……華琳。奇遇だねこんな所で……アハハ、ハ」
「ええ。本当に奇遇、――ねっ!」
力の篭る"ね"に店主が悲鳴を上げて逃げ出した。
なにせ、横目で見る彼女は右眉をピクピクと吊り上げ、不機嫌そのものだ。
明らかに覇気的な何かを拡散している。
――やばぁ――い! やばいやばいやばぁ――い!! どうする? どうするの一刀? とりあえず逃げるか一刀!? い、いや、落ち着け一刀。そんなの無理だ一刀。肩がもってかれるぞ一刀。それにどこから聞かれたかで対応は違うよ一刀。前向きに考えるんだ一刀! 全部は聞かれてないはずだ一刀!
ひとり脳内会議が続く中、一刀はゴクリと生唾を飲み言った。
「ち、違うんだよ華琳。落ち着けって。何そんな怖い顔してんの? 捻じ曲がったってあれだよ? 髪型の話だよ? 華琳の髪型はいつも綺麗にねじねじ曲がってるなーってそういう――ハガッ!?」
「質問にはきちんと答えたら? 私はどこが妹みたいか聞いているのよ! それに、城外へ息抜きですって? いいご身分ねぇ一刀……ッ!」
「…………」
喉からっからの男は思う。
――ノオオオォォォ!? 全部聞かれてるじゃねえか! やっべえよ、猛烈やっべえよ、肩超痛いてえよッ!!
「どうしたの? 早く答えなさい。でないとこの左肩、――煮込んで出汁にするわよ?」
「――おふっ!? ごめんなさいごめんなさいっ!! 答えます! 今すぐ答えます!! だから少しだけ力を緩めては」
「却下」
「ですよねえ!!」
悶絶しながら膝折る男は、それでも必死に思考を続けていた。
どれだけ泣いて喚こうと、このド鬼畜が力を緩めてくれるわけがないことは初めから承知。会話は時間稼ぎにすぎない。
この状況からどうすれば被害を最小限に抑えらるか。
そこに全精力をつぎ込むための、だ。
――とにかく、これ以上話がややこしくなる前に謝罪攻勢に打って出るしか手はないッ!
が、そんな思惑をあざ笑うように、騒ぎに気づいて舞い戻った季衣がスキル発動!
「待って華琳さま! 兄ちゃんを怒らないで! 悪いのはボクなの! 今日は朝からずっと一緒で楽しくて、だからまだ遊ぼうってボクがお願いして、だから!」
「朝から……ずっと……?」
「――ちょおおっ!? 季衣さんそれ大事なところが、一番伝えなきゃいけない箇所がバッスリなくなってるから! それじゃ華琳が誤か――インザァアアギッ――!?」
「……いいえ。よぉ~く、わかったわ。私はあなたを甘やかしすぎたってことが、ネッ――!!」
「ギャアアアア痛い痛い!! 華琳折れる!! マジ肩砕ける!!」
「ええ、折るの! 砕いているのよ! 今から特製"一刀削麺"を皆へ振舞うためにね!!」
「ピィギャァァアア――――!?」
見事な空回りだ。
あ、あれ? と首を捻る季衣の正面では、一刀が華琳に後頭部を踏みつけられていた。
真の徐副はあなただったのね! 天の御遣いと方士、肩書きの胡散臭さもぴったりじゃない!! と物凄い剣幕で捲くし立てられながら何度も蹴られていた。
店内には激しい打撃音と男の断末魔が交互に鳴り響く。
居合わせた客たちはもう食事どころではなかった。
皆、脅えた顔で代金も払わず逃亡。店主も厨房の奥で震え、出遅れた流琉が、季衣のドジ! 違うんです! と止めに入とうとするが、秋蘭に無駄だと止められる。
もはや公開処刑現場と化したこの状況下で、怒れる華琳を止められる者など誰もいないのだ。というか、怒ってなくても基本止めらない。
しかし、次の瞬間。
そんな華琳をぴたりと止める凄い人物が現れた。
それは、息を切らし、汗を拭い、赤暖簾からひょっこり猫耳を出す、
「す、すみません! 遅くなりました華琳さ、ま……?」
凄ぉく運と間の悪い桂花である。
***
「あら桂花……! あなたは本当にいつもいい頃合いで現れるわねッ!」
「え……」
これは一体どういう状況なのか。
馬鹿捜索を一時中断して駆けつけてみれば、主は完全にご立腹。
最手前でこちらを見る秋蘭は季衣と流琉を抱きしめ、首を横に振っている。まるで、諦めろとでも言わんばかりに。
――な、何を諦めろって言うのよ? それにあの華琳さまの足元で転がってる汚らしい物体はなんなのって、……え? 嘘でしょ? あれってまさか……。
そのまさかだ。
恐る恐る向けた視線が捉えるボロは、主に引き摺られこちらに一歩一歩近づいてくる。
徐々に明確になる正体。
桂花には、見れば見るほどこんな目立つ身なりをした馬鹿の心当たりはひとりしかなく、
――って、やっぱりこれ、最低自堕落男じゃない!?
確信と同時。桂花は急いで何か言わなければと顔を上げる。だが、
「――――」
華琳の眼光は有無を言わさず。
黙ってついてこい、とそれだけを目で語り、隣をゆっくり通りすぎ、暖簾を潜る。
――そ、そんなぁ、どうしてこんな……。
肩を落とす桂花は思う。
私が何をしたのよ、と。
毎度毎度こいつのせいでとばっちり。いい加減にしてくれ、と。
――だから、もうこの馬鹿には関わりたくないって……ハッ!
そして、そこで己の過ちに気がついた。
そう、相手は一級の馬鹿なのだ。それを放置しておけばどうなるか。問題を起こすなんて目に見えていた筈だ。つまり、
――私が何もしなかったのが最大の原因だというの……!?
少なくとも、もっと注意深く監視すべきだったのだ。
いくら関与を避けたくとも、馬鹿の馬鹿を予防する程度には。
しかし、桂花は指南役を命じられておきながら、監督すら怠ってしまい、その結果がこれだ。
汚名返上? いやいや、待っていたのは汚名の上乗り。名誉挽回どころか汚名挽回で。
――殺すわ呪うわ埋めるわ絶対ッ! 覚えておきなさい北郷一刀ォォオ!!
かくして、二人の徐副は覇王により蓬莱から強制送還となった。
***
そして、一日も終わり。太陽はすっかり沈み、夜の帳が深々と下りる頃。
警備の者を除き多くがそろそろ寝床に入る時にも、未だ煌々と灯火が照らす部屋があった。
本殿一階の角。格子窓がひとつあるだけの物置部屋だ。
中にいるのはもちろん、
「あ~っもう! 何度教えたら覚えるのよ! この馬鹿、阿呆、間抜け、甲斐性なし、変態! 誰のせいでこんなことになってると」
「――だから悪かったって! はいはい全部俺のせいですよ、くどいなぁ。何度も謝ってるだろ」
「謝る? はっ、なら今すぐ死んで詫びなさいよ?」
「出来るかっ!!」
あの後こっぴどくお説教を喰らった一刀と桂花。
二人は今、仲良く揃って物置部屋に閉じ込められていた。
説教後、華琳に数冊の書物と一緒に放り込まれ、それを全て読めるようになるまでは何があっても出さないと外側から施錠されたのだ。
だからこうして一刻も早い解放のために、寝る間も惜しんで勉学に勤しんでいるわけなのだが……。
「ちょっと!! この境界線からこっちに入らないでって言ってるでしょ! 何考えてるのよ色狂!」
「なっ、桂花が灯りをそっちにもってくからだろ! じゃあ貸せよロウソク。見えないんだよ字が」
「わ、私を暗がりに追いやって何する気!? このケダモノ!!」
「勉強ですけど!? そっちこそさっきから何考えてんだよ! ったく。もういいからこれだけなんて読むか教え」
「いやァアア――――!! 犯される!! 誰かっ、誰か――――ッ!!」
「人の話聞いてるかな!? ――って、うおい!? 何投げてんだよ危ねえな!」
「華琳さま助けてええ! 倒錯者に無理やり穢されるうう!!」
「聞けよだから!!」
まあ、こうなるわけで。
悲鳴やら。怒号やら。何かが割れ砕ける音やら。それはそれは騒々しい物音が屋外にまで響き渡り、当直の衛兵も突然の騒動に急ぎ駆けつける始末だ。
しかし、集まる衛兵の中には、何故か扉を開く者はおろか、扉まで辿り着く者すらいなかった。彼らは残らず数歩手前で足が竦み立ち止まっていた。
そう。彼らは見たのだ。
馬鹿騒ぎが現在進行形で漏れる扉の前。廊下に伸びる恐ろしい影を。
それは月明かりに照らし出される彼女の代名詞、二本の縦ロールの影が大きく突き出す双牙にも見え、その全容はまるで、怒りに打ち震える悪鬼のようで――。
「いい加減になさいッ!! この、大馬鹿共ォ――――!!」
「「ヒィィイイイ――!?」」
この日、一刀を襲う真の不幸はここからが本番であったという。
19話読んでいただきありがとうございます。
いや、ほんと更新遅くてすいません。
一話がすんごく長くなるわ、GW挟んで全然書けなかったわで……はい、言い訳やめます。
今回は季衣と流琉にスポットを当てた回でした。
二人の過去は原作と少々異なっていますが、ご了承ください。
そして次回は、一刀に並ぶあの問題児が主役に! さっさと書きます!
それではまた。
感想、ご意見お待ちしてます。