真・恋姫†無双 妄想伝   作:コイル

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第20話  視線

 人なら誰しも、一度や二度不思議な視線というものを感じた事があるだろう。

 例えば、ひとりで部屋にいる時。

 窓の外から不意な視線を感じた、なんて経験はないだろうか?

 あるいは、人混みの中を歩く時。

 唐突に、誰かから見られていると感じたことはないだろうか?

 どちらにしろ、急ぎ振り向く先には何もないことが大半だろう。

 それらの原因は往々にして、視界の端に入った自分の前髪だったり、単に木の葉が風で揺れただけなど、所謂、気のせいだからだ。多くの者は"なんだよかった"とそこで安堵して終わりだろう。

 だが――、極稀に。無数の勘違いに紛れ、どうしても納得いかないことはないだろうか? 気のせいとは到底思えない気配を肌で感じたことはないだろうか?

 そう。それは、何かが背筋を這うような、名状しがたいなんとも異質な悪寒――。

 

「―――!?」

 

 今しがた一刀が味わったのはそういう感覚だ。

 朝食を終え、書庫へと向かう裏庭で背後から襲う得体の知れぬ視線。だが、案の定、振り向く先には誰もおらず、

 

「……ま、またかよ」

 

 これで一体何度目のことだろうか。

 明らかに何者かに見られている。しかも、その視線には只ならぬ物を感じる。

 だと言うのに、幾度振り返ろうとも、謎の視線と一刀の視線が重なることは決してなく、いくら周囲を探ってみてもその痕跡すら残ってないのだ。

 

「くそ、なんなんだよこれ……!」

 

 始まりは起床直前からだった。

 まだ朝日も昇る前のこと。眠りの中で感じたのは夢を覗かれているような不思議で不気味な視線。

 ハッと目を覚まし飛び起きた一刀も、当初はこれを夢の出来事だと思った。何を寝ぼけているんだと自嘲もした。が、以後もそれは起こり続けた。

 洗顔中も。朝練中も。食事中も。会話中も。そして今も。ここまでくれば考えなおすには十分な材料だろう。何かが己を見ていると一刀は確信する。

 ただし。

 一方ではこれを、超常現象的な? スピリチュアル的な? 半透明的な? なんかフワフワしたそんな存在とは死んでも認めたくない。

 そこを譲ったらおしまいだ。秋の夜は長いというのに、もう今晩から厠にも行けなくなるだろう。そうでなくても平時から夜中の厠は暗くておっかないのだ。

 だから諸々の不安を振り払うためにも、犯人が薄いのは存在ではなく存在感だと断定。

 たまにいるだろう? 集合写真なんかで本人も周囲も気づかぬうちに撮影終了してしまい、欠席でもないのに吹きだし調の扱いで左端にフワフワしている可哀相な奴が。

 きっと犯人もそのタイプのフワフワだと、一刀は無理やり己を納得させ、感情の振り子を憤りへと振る。

 そして、いい加減にしろよとばかりになんの脈絡もなく後方へ振り返り、

 

「――喰らえ、ひとり時間差攻撃っ!」

 

 と、その視界に飛び込むのは、影薄の犯人――ではなく、

 

「え? あの、えっと……、おっ、おはようございます北郷さま!」

「……おはよう攸さん」

 

 完璧なタイミングで曲がり角から現れた、幸薄の攸だった。

 一刀は両手を広げ、"伏せる鷹"と銘打った変な決めポーズをしっかり取りながら思う。

 ――はっず! 何これ、何この気まずさ! アニメの必殺技を真剣に練習してるの見つかった時みたいな気分がするよ懐かしっ!

 それは攸側も同じのようだ。

 ばつの悪さからか、一向に目を合わそうとしてくれない。見てはいけない物を見てしまったと、引いているのが手に取るようにわかる。

 堪らず一刀は、

 

「あのさ……、なんか朝からごめん攸さん」

「いえ、こちらこそ上手い返しが見つからなくて……その、すみませんでした」

 

 それきり。二人は会話もなく書庫へと向かう。

 朝一からなんとも言えない空気と心の距離感を堪能しながら。

 

 

***

 

 

「え? 視線を……、ですか?」

 

 書庫に到着早々。

 先ほどの奇行の理由を語り始めた一刀に、室内の換気を行う攸は、俄かには信じられないといった表情で問い返した。

 正面。彼はそれに、うん、と頷き、

 

「そりゃあ、俺だって気のせいだって思おうとしたよ? けどさっきので……、あれ何回目だったけな?」

 

 と指折り数える姿を見て、攸はようやくこれが真面目な話なのかと把握する。

 ――何分、普段から奇抜なお方なので判断難しいんですよねぇ……。

 さておき。

 六? 七? あれ? と悩み始めた彼に、低位置の通気用格子戸を開き終えた攸は言う。

 

「しかしですね、一体誰が、なんのために、そのようなことを?」

「さあ? こっちが聞きたいよ」

 

 仮に一刀の言う通り、彼を見つめる何某がいるとしよう。

 それ自体は別段、珍しくもない事だ。城内での一刀の注目度は最上位と言っていいし、彼にとって視線に晒されること自体は日常茶飯事と言えるだろう。

 ただ、ここで問題になるのは、何故その何某がコソコソと正体を隠しているのかという点だ。普通に考えるならば、

 ――バレたら不都合な理由がある、ですよね。

 とするなら、その不都合とはなんなのだろうか?

 攸は一刀を見やり、さらに考察を深める。彼を取り巻くあらゆる事象からその原因を探ろうとする――が、すぐやめた。

 ――だ、駄目です。私には北郷さまのやましい点しか見えてきません……!

 攸は蓬莱の一件を機に己の姿勢を改めたのだ。

 このままでは、いずれ自分も荀彧さまのように責任を追及される日がきてしまう。見て見ぬ振りはやめよう、と。

 おかげで、あれ以来一刀の起こす数多の不祥事をどれだけ尻拭いさせられたことか。

 昨日なども、曹操さま直筆『孫子』の写本を、達筆と悪筆の区別もつかない彼が"これ字汚すぎて全然読めねえ! "と処分用の竹簡と一緒に持ち歩いている姿を目撃。口から心臓が飛び出そうなのを必死に堪えて取り上げたものだ。

 ――ですが……、何が一番恐ろしいって、それでも北郷さまは何かしら毎日怒られていらっしゃるんですよねぇ……。

 何をどうしたらそこまで人に叱られるのか。優等生で通ってきた攸には遠い世界だ。わざとやっているのかと疑いたくなる。

 ならばいっそのこと、自分がこれまで懸命に抑え、表沙汰にはならずに済んだ分を荀彧さまに密告してやろうかとも思うが、

 ――そ、そんなことをすれば、間違いなく余波で私の首も飛びますよ!

 と、攸が本筋から随分と脱線した所で青ざめる、その時だ。

 突然、腕組みしながらウーウー唸っていた一刀が、アーっ! と大きな奇声を発し、

 

「わかった! うん、間違いない。これだ。もうこれしか考えられない!」

 

 と人差し指を一本、顔の前に突き立てていた。

 そして、それは一体? と疑問符を浮かべる攸に、

 

「くくくっ、この名探偵一刀にかかれば容易い事件だったぜ。犯人は、ずばり――!」

「ず、ずばり?」

 

 ずばり東を指差し、彼は自信満々にこう言った。

 

「桂花だ!!」

「……け、桂――って、えええええッ――――!?」

 

 攸は大いに慌てた。

 何がどうなったらこんな発想になるのか全くもって理解不能だ。彼は自壊衝動でも抱えているのだろうか。ともかく、

 ――名探偵とはかなりの厄介者だと理解します!!

 とか混乱している場合じゃない。

 さっさと軌道修正しなければ、ドえらい事になるだろう。

 しかし、そんな心配も他所に、したり顔の張本人は暢気に、まあまあ、と手を掲げ、

 

「落ち着いてよ攸さん。いい? この犯行は俺を恨んでいる桂花による新しい嫌がらせなんだ」

「い、嫌がらせ、ですか?」

 

 うん、と頷き、

 

「そして、その目的は、狡猾な精神攻撃で俺を疑心暗鬼に追い込み……」

「追い込み?」

 

 彼はこう断言する。

 

「その……、なんやかんで亡き者にしようと企んでるんだ! 恐ろしい!」

「――どこがですかあああ! むしろ、一番肝心なところを"なんやかんや"で済ませた北郷さまが恐ろしいですよ!?」

 

 しかも、そんな適当な推理で導き出された犯人がよりにもよって桂花とは。

 ――本当になんて恐ろしいこと考えるんですかこの人は!

 早く止めなければと攸は思う。このままでは違う意味で推理が真実になりかねない。死因は精神攻撃ではなく物理攻撃に変更だろうが。とにかく、事は一刻を争う。

 しかし、現実は時に非情だ。

 名探偵は行動力だけ無駄に一人前だ。

 攸が焦りからアタフタするわずかの間にこう言うのだ。

 

「なら、さっそく確かめてみようじゃないかワトソン君!」

「は、はい? わとそんくん? また天の言葉ですか? って、あの、北郷さまどちらへ? そちらは外ですが……?」

「どちらって、竹簡回収行まだでしょ?」

「え? あ、はいこれからですが……ってぇ!!」

 

 まさか! と慌てても、もう遅かった。

 換気のため開け放った扉の前。そこには、こちらへ首だけ返す満面の馬鹿がいる。温厚な攸でも思わず横っ面を貼り付けたくなるような顔した馬鹿が、だ。

 そして、馬鹿は親指を力強く突き上げると、

 

「んじゃ、先行ってるから!」

「――ええええッ!?」

 

 颯爽と行く。行ってしまう。攸も咄嗟に手を伸ばし、

 

「ま、待ってください北郷さま!! なんの確証もなく、そのような暴挙を――」

 

 と、懸命に訴えてはみたが、それもすぐに溜め息へと変わるしかなかった。

 お前の悪事もここまでだー! と見る見る遠のく背中に喪失感を禁じえない。人は何故こうも無力なのか。

 虚空を彷徨う腕を力なく降ろし、ひとり残された攸は思った。

 

「……今日も、波乱の一日のようです……」

 

 

***

 

 

 男子禁制(馬鹿厳禁)の木札が下がる扉の奥。

 整理整頓が足りない、というわけではないが、一日の仕事量が尋常じゃないためだろう。机から手の届く範囲に関係書類やら文献やらが大量散在する部屋には、のっけから大荒れの桂花がいる。

 理由は言わずもがな。

 

「……で、なんであんたがひとりで来てるわけッ!?」

 

 攸はどうしたのよ! と、険悪全開の彼女は着座の位置から何故か余裕を覗かせる一刀を睨みつけ、

 

「どういうつもり? 新手の嫌がらせ? それに何その顔、無性に腹立つわね……!」

「嫌がらせ? おやおや、やっこさん焦るあまりにもう尻尾見せやがったぜ。そんなに俺がひとりで来たのがご不満ですかい?」

「不満に決まってるでしょう!? どこに不満以外の要素があるのよ! 本当ならあんたなんか死んでも部屋に上げたくないんだから!」

 

 とは言っても、桂花も蓬莱事件を機に反省はした。

 無暗に拒絶するのは駄目だ、と。コレを野放しにするのは返って我が身を滅ぼすことになる。大事なのは距離感だ。ギリギリ目の届く範囲に置いておく必要がある。だから仕事とあれば渋々コレの同行も認めよう、と。

 しかし、どういうわけかこの馬鹿は、いきなりその境界線を乗り越えて来るもんだからさあ大変。よもやの緊急事態に怖気が走る。

 ――わからない、男の思考がわからない! 変態の習性なんて知りたくもない! なんなの? なんで二人きりなの? 向こうも私を嫌っている筈でしょ!?

 そこだけが唯一の救いだと思っていたのに。あれだけ毎日毎日怒鳴られて何故懐くのか。桂花は止まらぬ身震いに、自らの肩をきつく抱きしめる。

 すると、一刀はさらに、

 

「へぇ。そんなに嫌なんだぁ? あれ。けどおっかしいなぁ。その割には朝からやたら誰かさんの視線を感じるんだけどなぁ?」

 

 などとすら恐ろしいことを言い始める。

 その気色悪さたるや過去に類を見ないやばさ。爬虫類が如し。身の毛がよだちまくる。お腹の底から桂花は声を張った。

 

「はあああああ!? おかしいのはあんたの頭と顔と性癖でしょうが! なんで私が変態観察しなきゃいけないのよッ!!」

「え? 俺、別に桂花とは言ってないけど? あっれれぇ、もしかして心当たりでもあるんですかぁ?」

「……あ、……あんたねぇ……!」

 

 グシャリ。手元にある書きかけの書状が枯れた音を立てて歪んだ。

 完結まで残り数行のところだったのに、何をやっているの? と我ながら思う。

 が、それ以上に馬鹿の奇妙な上から目線が我慢ならず、理性は早くも限界をお知らせします。

 ――こ、殺スッ! ぶっ殺ガスッ!!

 途端。桂花は動いた。

 豪快に机の最下段の引き出しを開けるや否や、中にびっしり詰まっている文鎮を掴み取る。

 そして、大きく息を吸って吐いてまた吸うと、

 

「なんで私が、――あんたなんかに気があるみたいな話になってんのよッ――――!!」

「ぃ!?」

 

 桂花は容赦なく放った。溢れる殺気と共に。それも単発では終わらず次から次へ。

 

「死ねこの! このッ! このッ――!!」

「ちょっ危ね! こいつ何本文鎮持ってんだよ!? 趣味なの? 文鎮集め趣味なのかな!? って、誰もそんな話してないだろ! 俺は、ただコソコソつき纏うようなマネはやめてくれって言いたいだけでっ」

「――なっ、なんですってええ!? ゆ、ゆゆ、言うに事欠いて、つき纏うッ!?」

 

 冗談じゃない。彼女はより一層腹に力を込め、

 

「――っ誰が! いつ! どこで! そんな真似したって言うのよッ!! 寝ぼけるのも大概にしなさいよこの妄想魔ッ――――!!」

 

 と、その同時。机上には重量感たっぷりの金属音も鳴った。桂花は叫びの中、引き出しの一番奥から"護身用"と書かれた布袋を引っ張り出していたのだ。

 それはこれまで以上に危険な香りがする代物、というか裏面に"危険物"とご丁寧に書いてあり、そこから出てくるものは――。

 

「ちょ!? 何その不必要に鋭利な文鎮! 両側苦無みたいになってるんですけど? 暗器感丸出しなんですけど! つか、それ本当に文鎮? 刺して使うの? 机に用紙ごと突き刺して固定するあれですか――て、え、嘘? 何振りかぶってんの? 冗談だよね? それは血出ちゃうよ? いくらなんでもドバドバだよ? そんなの当たったら死」

「――死ねええええッ!!」

「ギャアアアアアア!?」

 

 桂花は躊躇なく投じた。

 狙うは眉間。殺意の赴くまま腕を振り降ろす。それは理想的な一投だった。

 放たれた苦無型文鎮は目標を目掛け完璧な軌道で飛んで行く。

 その行方を見つめる桂花は確信した。

 ――捉えたッ!!

 が、次の瞬間。

 

「――チッ!」

 

 響いた音は一刀の断末魔でも歓喜の喚声でもなく、万感の籠もる短い舌打ち。

 避けられた。

 大人しくじっとしておけばいいものを、寸前で彼は首を捻り、頬を掠めた文鎮は背面の壁に突き刺さっていた。

 さすがはゴキブリ並に不快な男だ。ここでも持ち前のしぶとさをこれみよがしに発揮してくる。

 と、こうなればもう意地だ。桂花は引けない。ここまで通常文鎮も含めると都合、十二発も外されている。一発くらい当てなければ、もう気も済まないというもの。

 ――ホント、ムカつく生物……ッ! けど、次で仕留めてみせるわッ!!

 急ぎ危険袋から新たな文鎮を桂花は掴み、間髪いれず投擲動作に移った。 

 しかし、

 

「――――」

 

 これも不発に終わる。

 装填の間隙を縫い、一刀は目にも止まらぬ速さで竹簡を抱えていたのだ。そして、

 ――こ、この状況でよく憶えていたわね……。 何よ、こいつ男のくせに意外と律儀……?

 なんてことを思っているうち、

 

「し、ししし、失礼しましたあ!!」

「あ」

 

 一刀は逃亡。まんまと生還を許してしまう。

 まさか、男の入室時は扉を半開きにしておく習慣が仇になろうとは。

 ――でも、密室はもう嫌なの……!

 蓬莱事件のトラウマです。

 しかし、そのせいで両手塞がった状態ながらも、扉を足で蹴り押すことで素早い脱出を可能にしてしまった。

 

「……チッ」

 

 遠ざかる憎き背。

 再度の舌打ち桂花は標的不在の十三投目を、せめてもの憂さ晴らしに勢いで落ちた"男子禁制"の札へと向け、

 

「フンッ!」

 

 お見事。ど真ん中を射抜いた。

 

 

***

 

 

 宮城には一際人通りの激しい場所がある。末広がりの階段を裾野にする本殿玄関口だ。

 上下に行き交う人々の列は総数三十九段にも及ぶ階段を絶え間なく埋め、その光景は聖地巡礼の宗教信者にも似ている。差し詰め、ここなら華琳教と言ったとこか。

 ともあれ、わざわざ高さを強調する威容にはちゃんとした意味があった。

 それは三十九という段数に現れていて、九という数字が大変重要な意義を持つ。

 なんでもこの時代、"九"は"苦"ではなく、"久"と同発音で永遠を示す吉祥だと考えられており、とりわけ権力者に強く好まれる数字とのことだ。

 また、現代日本では嫌われがちな"四"も、ここでは"死"ではなく"幸"と捉えるのが一般的で、四十にひとつ足りない三十九には"無限大の忠誠を礎に繁栄へと至る"という戒めの意味合いもあるそうだ。

 ただ、そんな聞きかじったご高説も、今のこの男に言わせればこうなる。

 

「はぁ、はぁ、はぁ、嫌がらせかよ……! ふざけやがって、何が無限の忠誠だ。んなことより、日に何度も上り下りする方の身になってみろってんだ! これ絶対設計者の性格悪いよ。幼少期に文鎮投げつけられて、それが原因で卑屈な性格になっちゃったんだよ!」

 

 やさぐれる一刀だ。

 彼は登庁で忙しい本殿階段の最上段に腰を降ろし、全速力の代償を清算中。

 桂花の部屋は本殿一階の再奥に位置するため、竹簡抱えての全力疾走は息も絶え絶え。長階段を前にして一息も吐きたくなる。

 だが、こんな場所でこんな男が座り込んでいれば、整然としていた人波にも淀みが生じ、

 

「なぁ、あれって北郷さまじゃないか?」

「ほんとね。あんな所で何をされているのかしら?」

「何をって、そりゃ、ひと仕事遂げられたんだろ?」

「……なるほど。では君は誰だと思う? 曹太守さまだろうか?」

「いやいや、今日は荀彧さまじゃないかな?」

 

 と、丸聞こえのヒソヒソ声と丸わかりのチラ見が横行する。

 ちなみにここで言う"仕事"とは"叱れる"の隠語で、巷では天の御遣いが誰の雷に打たれるかを日ごと予想する"お天気予報"が流行っていたりする。さらには、一刀が誰に怒られたかで一日の運勢を占う、"一刀占い"なるものまであるとかないとか。ともあれ、最上段付近では足並みが遅れ、軽い渋滞を巻き起こしていた。

 その状況に追加でやさぐれる一刀は、

 

「ええ、ええ、やらかしましたよ。ばっちり桂花に殺されかけましたよーだ!」

 

 よくよく考えれば、あの性悪があんな中途半端な手法を取るわけがない、とひとりごち。

 そもそもあれは根っからの男嫌い。計画的犯行を企てるならば、なるべく直接的な関与は避け、なおかつ、完全犯罪を狙ってくるタイプだろう。

 ともかく、

 

「犯人の巧妙なミスリードにしてやられ――」

 

 たかどうかは別にして。

 状況は完全に振り出し。いや、無駄に怒られた分だけ後退。おまけに今後の方針も白紙だ。これからどう捜査を進めればいいのやら。手掛かりらしい手掛かりなんて、視線が特徴的なことくらいしか浮かばず、

 

「視線、か……」

 

 そうだよなぁ、と一刀はぼやき、確かに華琳の臣下に加わってからというもの、日夜、好奇の目に晒されてきたと思い返す。

 今も前を通り過ぎる人々はほぼこちらを見ているし、どこにいたってそうだった。

 視線に籠められた感情も多種多様で、初めは好奇心や物珍しさ。次に蔑みや嘲笑。でも最近では専ら親近感を覚える、というのは都合のよすぎる解釈だろうか。

 ただいずれにしろ、あの言い知れぬ視線とは決定的に何かが違うことだけは確かだ。

 

「でも、それが怨恨の類じゃないとすると、他に何があるよ……?」

 

 さっぱりわからない。犯人もその動機も。

 そして、思い悩むうち気もどんどん重くなり、いっそ、すべてを気のせいにしてうっちゃりたくなる。が、こうしている今も、やっぱり首元はぞわぞわ。

 一刀は向け所のない理不尽さに思わず大声を上げ、 

 

「あっ~~~くそっ! 誰だよ卑怯者! 隠れてないで出て来い!」

 

 と、立ち上がったその時だ。

 背後から忍び寄る人の気配を感じ、聞こえてくるのは聞き覚えのない女性の声で。

 

「おやおや御遣い殿。往来の真ん中で騒いでいては通行の邪魔では?」

「す、すいません! 今すぐどきますんで!!」

 

 しまった、またやらかした! と素早く自覚する一刀は声の主へ頭を下げつつ、地面に置きっぱなしの荷を急ぎ抱える。

 慌てて竹簡と共に持ち上げる視線にそれを見た。

 

「あ……」

「ふふ、おはよう北郷。何をしているんだこんな所で?」

 

 それは偽りの声色を元に戻し、くすくすと悪戯な微笑を携える秋蘭だ。

 

 

***

 

 

 二人は少しだけ場所を移した。

 そこでは立ち話をするのに迷惑なため、本殿の玄関階段を下り、遊歩回廊から続く導入広場へ。

 そして、その一角で秋蘭は一刀からある相談を受けていた。

 

「……なるほど。それで北郷は不可解な視線の正体を桂花の仕業だと考えたわけか」

「大ハズレだったけどねぇ」

「だろうな。嫌がらせにしても桂花ならもっと別の手段を用いるだろう。少なくともこんな簡単に足のつくやり方はしない筈だ」

 

 だよなー、と落胆する彼を見て、秋蘭はどうやらここが考察の終着らしいと汲み取った。

 

「それで、あんな場所で騒いでいたわけか?」

「ハハハ」

 

 その気持ちはわかなくもないが、あれで出てくるようなら初めから隠れたりはしないだろう。そう思う秋蘭はおもむろに紺橙の瞳を左右へ流し、

 ――ふむ。特に怪しい気配はなし、か。私に警戒して一度この場を離れたか? それとも既に監視を解いていたのか……。

 どちらにしろ、彼女に言える事は、

 

「そう落ち込むな北郷。犯人の特定までは難しいが、ある程度の目星ならついたぞ」

「……え? マジでっ!?」

 

 秋蘭は頷きをもって話を始めた。

 

「まず、この犯人はこれ以上の危害を加えるつもりはないという事だ。機会はいくらでもあった筈だしな。その気があるなら、とうの昔にさらなる行動へ移っていただろう。それに、そもそも視線にはなんの意味もない。これは単なる犯人の手落ちだ」

「手落ち?」

 

 首を傾げる一刀に、秋蘭は、少し考えればわかることだ、と続ける。

 

「いいか? 目的はなんであれ、相手は姿を隠し北郷をつけ回しているのだ。であれば、どこにわざわざ自分の存在を知らせる必要がある? 仮に嫌がらせ目的だとしても警戒されるだけまるで無意味。これは単純に犯人の未熟さと見るべきだろう」

 

 さらに、加えて言うなら、

 

「それから。この犯人には多少、武の心得があると推察できる。気だけで対象に不快感を与えるなんて芸当、一般人には難しいからな。例外があるとすれば、それは北郷も言っていた通り、怒りや恨みといった特別な感情を抱いている場合だ。が、その心当たりも桂花で打ち止めとなれば、自ずと前者となる訳だ」

 

 無論、一刀が失念していたり、あるいは、本人も気づかぬ内に恨みを買っていた、なんて場合もあるにはある。が、その可能性も秋蘭は大方勘案済みだ。

 先程、密かに行った周囲への索敵。ズブの素人相手なら、何らかの痕跡が感覚の網に掛かっていた筈だ。つまり、あの時点で怪しい気配が感じられなかったことで、素人の線はほぼ消えていることになる。

 となると、すべき解説はあとひとつだろう。

 

「……でもさ、なんで多少なの?」

 

 そう。多少の論拠だ。

 そして、それも難しい話ではない。

 秋蘭は一息入れると、それはな、と前置き疑問に答えた。

 

「始めにも言ったが、犯人は手落ちにより視線を悟られている。この一点を見てもこの者が練達に程遠いことが窺い知れよう。さらに、この者は愚かしくも失敗を重ね続けた。それが熟練者のする行動だと思うか?」

 

 おおー! という同意の歓声に秋蘭も頷き、それはありえないと断ずる。

 何より、何度も失敗を重ねておきながら、秋蘭の出現、もしくは、その直前には結局撤退するという一貫性のなさが決定打だ。その行動はまさしく状況に流され右往左往する未熟者の典型と言えるだろう。

 ゆえに、秋蘭の導き出した最終結論はこうだ。

 

「犯人はおそらくどこかの間抜けな間者だろう」

「か、間者……?」

「そう案ずるな。間者と言っても、暗殺目的でないことは明白だ。もしそうなら、北郷は今頃血みどろの寝台で冷たくなっていないと辻褄が合わないからな、はは」

「いや、ははって笑い事じゃないから! 爽やかな顔して超おっかないこと言うのやめてもらえますかねっ!? あ~やべっ、違う意味で怖いし。せっかく霊的なあれじゃないわかったのに、俺もうひとりで寝れる自信ないよこれ……」

「ふむ」

 

 が、この物言いはどうもお気に召さなかったらしい。一刀の表情は瞬く間に曇る。

 これでも彼女なりに元気づけようとしての茶目っ気だったのだが逆効果のようだ。

 ――なら……、これでどうだ。

 秋蘭はすかさず挽回を狙い、

 

「そうか? それは悪いことをした。ならば詫びも兼ねて今晩からは私と寝所を共にするか? それなら安心して眠れるだろう?」

「え……? ちょ、えええッ――――!?」

「ふふ」

 

 今度は成功だ。

 また別の意味で寝れそうもないんですけどお――!? と彼は目の前で大喜びしている。

 ここまで素直な反応を見せられると女として喜ばしくもある。華琳さまや姉者には及ばずとも私も満更捨てたものじゃないな、と彼女は笑みがこぼれてしまう。

 ただ――。

 この時、秋蘭は微笑ましく一刀を見つめながらも、一方では全く別の思考を展開していた。

 ――やはり違うな……。北郷は"あの者"とは明らかに違う。

 性格も。容姿も。見せる仕草も。"あの者"とは似ても似つかない。

 ――それでも、あの日。姉者との相対を果たしたあの時。華琳さまは伏せる北郷に"驚いた"とおっしゃられた。

 確かに秋蘭もあれには驚いた。まさか姉の攻撃を凌ぎ、あんな形で決着するとは思ってもみなかった。しかし、それは一刀の実力に対してだけではなく、

 ――あの瞬間、私は北郷と"あの者"の姿が重なる刹那を得た……!

 あるいは、それこそ北郷が配下に迎えられた真の理由ではないかと、秋蘭は秘かに目していたのだ。

 とはいえ、こうしていざ当人を改めて見るかぎり、両者の間には共通項を探す方が難しい程の隔たりを感じる。まして同一人物と見紛うなど笑止だ。何かの間違いだったのではとも思えてくる。

 ――だとすると、やはりあれは私の気のせい、なのか……?

 と、その時だ。

 秋蘭は突如として、全思考を緊急停止させることになった。

 原因はぼんやり映る周辺視の中。

 

「じょ、冗談でも女性が軽々しくそういうこと言うのは……、ほらっ! か、勘違いしちゃう人とか一杯いるし!」

 

 と、まだモジモジやってる一刀の肩越し。回廊の袂に、見てはいけないものを見てしまった。

 ――ちょ、ちょっと待て……。今、欄干の端から一瞬だけ飛び出たものはなんだ? 気のせいか? 私には果てしなく見覚えのある剛直癖毛に映ったのだが……ま、まさかな?

 すると、こちらの視線に気づいた"まさか"は物陰よりひょっこり顔を出し――。

 

「――あ、姉者ッ!?」

 

 そこには、嬉しそうにわんさか手を振る紛うこと無い姉の姿があった。

 

 

***

 

 

「……え? あ、姉者?」

 

 いくら純情男子まっしぐらの一刀と言えど、その言葉にはぴたりとクネクネ運動をやめた。やめざるを得なかった。

 ち、違う!! と食い気味の否定が入ろうとも、確かに聞こえたのだ。

 姉者=夏侯惇=生命の危機、と。

 ついでにそこへ、他の人的要因をx、浮かれ度をy、体調をαとして加えれば、これまでの経験則から独自に編み出した以下の方程式が成り立つ。

 

 {(x-1)²+夏侯惇}y÷α×100=死亡率(%)

 

 それぞれ数値を当てはめると、

 ――えっと、xは夏侯淵さんの1、yは120位いってるなぁ。で、αは90ってとこだから……。え、なんか余裕で100%超えてるんですけど!?

 そして、その計算値を証明するかのように秋蘭の様子は変わり、

 

「そのあれだ! あの、――穴! そう穴だ! い、いいか北郷? つまり私が言いたいことは、今回の件で宮城の警備には穴があるかもしれないということでな!」

「いやでも姉者って聞こえた気が……」

「姉者じゃない穴だ! 聞き違いだ!」

「…………」

 

 普段のクールビューティーは見る影もなく。泳ぐ視線はこちらを見ているようで見ておらず、何故かチラッチラ背後ばかりを気にしている。

 ――これなんか誤魔化してるよね? モロバレだよね? つか、絶対後ろに何かいるよね? ねぇ!?

 気になる一刀は真相を確かめるべく彼女から視線を逸らし、

 

「あのぉ、後ろがどうかしました?」

 

 と振り向こうとしたのがよくなかった。

 途端だ。

 

「――どうもこうもしていないッ!」

「――とぅッ!?」

 

 一刀は顔だけを力づくで捻り戻され、止まらぬ胴体は超危険なツイストを敢行。首からは小枝が折れるような乾いた音と激痛の雷電が走るり、視界が暗転。

 頚椎に深刻なダメージを負った男はプッツリ全身から力が抜け落ち、しかし、秋蘭は潰れ顔をぐっと引き寄せるとこう言った。

 

「ま、まったく、大事な話の途中で余所見とは失敬だぞ! ほら、白目を剥いていないで、ちゃんと私の目を見て話せ!」

 

 もう滅茶苦茶だ。

 もとはと言えば、後ろばかりを気にしてしゃべっていたのも秋蘭だし、白目を剥かせたのも彼女だろうに。こういう強引さは春蘭に通じるものを感じる。さすが姉妹だと断線寸前の意識で一刀は思う。

 そして、ピクピクと痙攣する男は残された力を振り絞り、

 

「わ、……私の目っていうか、酷い目には、あってるんです、けど……!」

 

 と、すべてをどうでもいいツッコミに費やし、闇へずり落ちた。

 呑まれる。

 五感もほぼ失われ、まどろみの中に漂う身体。得も言われぬ浮遊感。

 そこにあるのは、ぽっかり開いた底なし沼に己が埋もれていくのを俯瞰視点で眺めているような感覚だけ。全身を覆う黒にゆっくりゆっくりと溶け込んでいく。

 そして、ついにはすべての感覚が遮断され、時間からも隔絶された完全なる無が訪れる。時の流れを感じることもなく、静かな闇がただただ続いた。

 と、一刀は無に身を任せるうち、ふと、己の体が横へ横へと移動していることに気づいた。

 ――あ……、あれ……? 俺どうなったんだっけ……?

 それと同時。

 意識の回路がつながり始め、呼吸に圧迫を感じる。

 それは埋まっているというか、密着しているというか、とにかく窮屈なのだ。

 だが、不快かと言えば不思議とそうではない。

 むしろここは心地いいし、なんだかとても安心する。この場所を自分は探し求めていた気すらする。

 しかも、なんの臭いかはわからないが、どこか甘く優しい香りも鼻孔をくすぐる。

 身体の芯から力が抜けるような、それでいて、もっと欲しいと力がこみ上げてくるような、そんな香りだ。

 そして何より、それは押し込めばどこまでも柔らかく、頬を包みこむ至極の温もりは、例えるなら――、

 

「って、――お、おおお、オパ――――イッ!? こ、こここ、これ、あのオパ――――イッ!!」

「んんっ。こ、こら、急に暴れるな! あと少しだ。大人しくしていろ」

 

 覚醒に見るは水色のユートピア。

 男なら誰もが憧れる桃源郷が超至近距離でズームイン。

 あろうことか秋蘭の胸に顔を埋める形で、一刀は抱きかかえられていたのだ!

 ――なっ、何これええええ!? 何この嬉し恥ずかしドキドキイベント!? いいの? お、俺にこんな美味しい展開あってもいいんですか? たまにはいいよね!!

 そこはまさに夢心地だった。こんな嬉しいハプニングならいくらでも大歓迎。

 おかげさまで、ついさっき首の骨をへし折られそうになった事も綺麗に忘れた。

 そんなことより、と魅惑の縦揺れに合わせ少しだけ自発的に一刀は頬ずりして、

 ――こ、これぞ男の浪漫……! トラブる万歳ッ……!

 俺、一生大人しくしてます! と、どっぷり蜜月の時に浸り、普段は嘆きの対象でしかない神様にも心から感謝。

 ――ありがとう……乳の神様ッ!

 だが、しかし。だが、しかし!

 悲しいかな、過ぎて欲しくない時間ほど速いもの。

 一刻千金とはよく言ったもので、例に漏れない秋蘭も本殿角を曲がった所ですぐに、

 

「……ふう、ここらでいいな。そら立て」

「ふえ?」

 

 と、いきなり両手を離す。

 支えを失う文字通り骨抜きの身体は宙に投げ出され、

 

「――フゴッ!」

 

 今度は地面と熱い抱擁。顔面強打で強制的に(うつつ)へ引き戻された。

 

「……何をしている?」

「何って急に離すからじゃん! いっつう……! 思いっきり顔で受身とっちゃったし。あぁ、これなんか鼻血出そうな臭いがする……!」

「鼻血?」

「あっ。いや、鼻血って言ってもあれだからね? いやらしい事とかそういう感じのあれじゃないからね?」

「わかったから、とりあえず立ったらどうだ? 折角の白い衣が汚れるぞ」

 

 促され、一刀は鼻の穴から出血がないかを確かめつつ立ち上がる。

 すると面前。彼女は気絶前とは異なり、すっかり落ち着きを取り戻していて、

 

「よし。なら少しここで待っていろ。すぐに戻る」

「ん? どっか行くの? って、あれ? なんで本殿脇に移動してんだこれ?」

「……それと。北郷は絶対にこの場を動くな。もし一歩でも動いたら――撃つ。いいか?」

「――――」

 

 そこからの数分間。一刀は人間を辞めた。

 著しい状況変化には、からっきしついていけていないが、しかし、さっきの目がマジだったのはわかる。

 "撃つからな"と言われた時、狙撃手の無機質な瞳はピンポイントで心臓を射抜いていたし、彼女が弓の名手だとも聞いているし、死にたくないから一刀は頷きまくった。

 ――俺、一生動きません! 

 さようなら乳神様。こんにちは石神様。柔から硬へ信仰の大転換だ。

 そいや実家の近所に石神っておっさん住んでたなぁ、とか思いつつ、男はすたすた遠ざかる背に石へなることを誓う。

 そして、一刀が動かざること山の如しを実践すること、しばらく。

 どこへ何をしにいったのかと思えば、彼女は置き去りになっていた竹簡を抱えて戻り、急かされるままに受け取る一刀は、

 

「ほら、ちゃんと持て北郷。いいか放すぞ?」

「え? んっと大丈夫。わ、わざわざありがとう」

 

 一応お礼を言うが、そこに違和感を生じていた。

 彼女の態度が変わったように思える。

 その行動は親切や面倒見がいいと言うより、どちらかと言えば厄介払いを急いでいるように感じてしまうのだ。

 

「よし。では、そのまま仕事に戻るといい。随分と長話にもなったしな。私も予定がある」

「ちょ、ちょっと待ってよ! まだ色々と中途半端っていうか、むしろ基本的にはなんにも解決してないような気もするんだけど……?」

「いいから、間者の件はもう気にするな。心配ないと説明したろ? あとは私に任せておけばいい。それとも、北郷は私の言葉では信用に足らんと?」

「いや、そういう訳じゃないけど……。なんつうか、こう、すっきりしないって言うかさ。思ってたのと違うって言うかさ?」

「大丈夫だ」

 

 その言葉に合わせ、一刀は後ろから肩を押すように叩かれた。

 勢いに任せ一歩二歩と足は前へ進む。が、三歩四歩とは続かず、後ろ髪引かれて首だけ翻る。

 すると、思いの外、彼女の顔が近く、

 

「――――」

 

 頬を合わせるように接近する秋蘭は、耳元へ囁く声でこう言った。

 

「それと。夕刻、仕事が終わったら書庫で待っていてくれるか? 少し付き合ってほしいんだが」

「……は、――はいぃ!?」

 

 直後。

 ならば駆け足! と含み笑いで背を打たれ、一刀は走り出していた。

 とりあえず全速力です。

 

 

***

 

 

 そして、猛然と駆ける一刀の背中を見送り、なんとか急場を凌いだ秋蘭は安堵感とも虚無感とも言えぬ脱力に襲われていた。

 染みてくるのだ。知ってしまった事の真相に、費やした時間の馬鹿馬鹿しさがいやと言うほど。

 それもこれも、すべての原因はこれだ。

 

「待て姉者……!」

「こ、こら! 何故、襟を掴む!? は、放せ~ぇ、北郷を見失ってしまうではないか!」

 

 身を屈め、隣を通り抜けようとする姉を捕獲して秋蘭は思った。

 ――何が"武に多少心得のある間抜けな間者"だ。これはどう見ても"武に心得はあっても不器用な姉者"ではないか……! 

 なんとも的外れな推察だ、と。よくも抜け抜けとらしげに語れたな、と己を恥じる。

 しかし、それにしたってまさか真犯人が実の姉とは盲点すぎる。

 道理で周囲を索敵しても異変を見つけられないわけだ。なぜなら、秋蘭にとってそれはあくまで日常的光景。

 ――私には姉者の異常こそ通常……!

 言ってて悲しくなるが、落ち込んでもいられない。ここからまだもうひと仕事ある。

 ――すまない北郷……。

 的外れな考察を詫びる秋蘭は聴取を開始した。

 

「それでだ。姉者は何故北郷をつけ回している?」

「つ、つけ回すだとぉ? 誰がそのような卑怯者のまねをするか! 私はただ、あやつを観察していただけだぞ!」

「…………」

 

 何が、観察していただけだぞ! だ。

 普通ならここで、"どこが違うのか? "とか"なんで偉そうに胸を張っている? "やらを小一時間くらい問い詰めたくなることだろう。

 だが、それ不正解です。

 春蘭相手にそれはやっちゃいけない。

 そんなことをしていては、話は逸れに逸れて、とても小一時間では終わらなくなる。 よって、ここではあっさり話を進めるのが正解です。

 姉の扱いを熟知する秋蘭は動じず尋ねた。

 

「そうか。では、何故観察をしているのだ?」

「? はは、何をおかしなことを。観察と言ったら、よく見るために決まっているだろう?」

「…………」

 

 ただし、よく憶えておこう。

 たとえ正解を選んだとしても先へ進めるとは限らない、と。根本的に予測不能なのが春蘭です。

 眉間に若干のシワを作る秋蘭も、気にしたら負けだと質問を変える。

 

「す、すまない姉者。できれば、何故北郷を観察しようと思ったのかを教えてくれないか?」

「む?」

 

 すると、今度こそ大正解。姉は記憶を手繰るように目を伏せ、実はな、と前置きして、

 

「華琳さまに伺ったのだ。北郷のことをな」

 

 ある出来事を語り始めた――。

 

 

***

 

 

 それは昨晩のことだった。

 夕食を終え、皆それぞれが私的な時に興じる頃。

 春蘭はひとり。思いつめた表情で、その扉の前にいた。   

 

「……あの華琳さま? 夜分に申し訳ありません。少々お時間をよろしいでしょうか?」

 

 尋ねつつ、春蘭は思う。

 華琳さまのことだ。きっとまだ寝所にも下がられず、何やら難しい書に目を通さたり、何やら小難しいことを書き記したりしておられるに違いない、と。

 彼女の夜は誰よりも遅く、しかし、彼女の朝は誰よりも早い。

 それはここ陳留では誰もが知ることで、そのあまりに凄まじい生活様式から、巷では不夜城にかけて"陳留太守は不夜嬢なり"の標語となった程だ。

 かく言う春蘭も一度だけ主に習えと同じ生活を真似てみたのだが、二日目にして大事な会議を寝過ごし、さんざっぱら怒鳴られたのはいつの日か。

 ――しかし、あれは不思議な体験だったなぁ。朝はちゃんと起きたのだ。二度寝対策も万全で、絶対に眠らぬよう朝食の時間まで華琳さまのお姿を想像して、ひとり二人と数えていたはずなのだがなぁ……。

 と、回想に耽っていると声は戻り、

 

「いいわよ、入りなさい」

「あっ、し、失礼します!」

 

 そして、扉を開いて遠慮がちに一歩を踏み入れれば、主はやはり政務机で何某かの書に筆を入れていた。

 その姿に一瞬、春蘭はやめようかとも迷いが生まれる。

 こんなことを聞いてどうする、と。多忙な主を煩わせてまで聞くべきことか、と思った。

 だが、結論が出るより先に、ちょうど切りがよかったのか華琳は筆を置き、視線がこちらへ。

 

「どうしたの? 元気のない顔をして。秋蘭と喧嘩でもした?」

「い、いえ、そうではなくて、その……」

 

 ――ええい、ここまできたら……!

 春蘭は思い切って"?"の表情を作る華琳にそれを問うた。

 

「私は、北郷という男がよくわからぬのです。あの男は何者なのですか? 何故華琳さまはあの男に真名をお許しになられたのですか?」

 

 春蘭だって、こんなこと柄でもないと自覚しているし、頭を使うことは自分には向いていないともわかっている。

 秋蘭にもよく言われることだ。

 "姉者は考えて行動すると碌なことにならない。余計なことは考えず、直感で動く――のもやっぱり碌なことにならないから、まず指示を待て"と。

 だから余計な考えは捨てて、主の意向に従えばいい。そう考えようとした。悩むのはやめようと何度も思った。けれど、駄目だったのだ。

 どうしても気になる。今回ばかりは自分できちんと答えを出さないといけない。そんな気がしてならない。そして気がつけば、剣を交えたあの時のことを幾度も思い返していたのだ。

 

「あの日。北郷に対し、最初に起こった感情は純粋な喜びでした」

 

 手加減こそしていたものの、面妖な技で一撃を防いでみせた男の存在に。強者の存在に。嬉しくてつい笑みがこぼれたのを春蘭は印象強く憶えている。

 ――あれほど心が躍ったのは、虎牢関で霞と戦って以来だったか……。

 しかし、それも長くは続かなかった。

 

「ですが、次の瞬間にはもうわからなくなりました。北郷はあろうことか華琳さまの御前であの醜態……。私は怒りさえ覚えました」

 

 勝手な期待はすぐに裏切られ、逃げる背を全力で追った。

 馬鹿にされている気がして。誇りを穢された気がして。まるで、お前とは戦う価値もないと言われているような気がして。

 ――だから、私は是が非でも北郷を本気にさせてやろうと思い……。

 

「だと言うのに、私の渾身は届きませんでした。一転、逃げるのをやめて立ち向かって来た男に、私の剣は受け止められていました。あれは……、あれは一体なんだったのですか?」

 

 もう訳がわからない。強者なのか弱者なのかも。勇敢なのか臆病なのかも。いや、それ以前に真面目なのか不真面目なのかすら定かではない。

 どれがあの男の本質なのか。春蘭には理解が及ばない。

 そして、それは以後も続く。北郷一刀という男は知れば知る程、実像が見えなくなるのだ。

 聞けば、なんでも彼は"天の御遣い"なる者で、この大陸とは別の場所からやってきた者らしい。

 この時点でとっくに信じ難い話だが、主が信じると言うのだから信じもしよう。

 よくわからない存在でも主の役に立つならそれでいいし、構いはしなかった。

 だが、思いに反して連日聞こえてくる彼の噂は、文字の読み書きもできなければ、職務怠慢で叱咤されたといった真逆の話題ばかりだった。

 

「無論、私は秋蘭や桂花のように賢くありません。華琳さまのお考えも、多少見聞きしただけの人間も、容易く計れると思っていません。ですから、季衣や流琉にも頼み、北郷を知ろうと色々と試してはみたのですが……」

 

 それでも届かない。あの男に。見えないのだ。主の心が。

 不明はいつしか不安へと変わり、不安は焦りへと至った。だからせめて、

 

「結局、天の御遣いとはなんなのですか? 北郷一刀とは華琳さまに必要な人間なのですか?」

 

 せめて、この答えだけを春蘭は欲した。

 

「だとするら、私もいずれ……、北郷を信用出来るようになるのでしょうか?」

 

 それさえ聞けば、たとえわからずとも受け止めることは出来る。何かのきっかけだって掴めそうな気がする。だから春蘭は真っ直ぐに華琳を見つめて答えを待った。

 すると、同じく目を逸らさず、こちらを見つめ返す華琳は短い吐息を合図に席を立ち、

 

「……なるほど、ね」

 

 と机越しに春蘭の頬を優しくひと撫で。

 

「ここ最近、どうもおかわりの回数が少ないと思っていたら、そんなことを考えていたのね? 私はてっきり、また胸――」

「胸?」

「……なんでもないわ」

 

 それよりも、と華琳はこちらを覗き込むように顔を寄せる。

 

「でも、そうね。折角それだけ悩んだのなら、もう少しだけ頑張ってみたら?」

「もう少し、ですか?」

 

 それから眼帯を指先で遊ぶようになぞると、こうとも。

 

「もう少しだけ、この濁りなき眼で一刀を見定めてご覧なさい。そうすれば、少なくとも、あなたにもわかるわ。アレがどういう生き物なのか、ね」

「は、はい華琳さま!」

 

 

***

 

 

「――――と、言う訳だ!」

「…………」

 

 どうだ! と、大きな胸を大きく張る姉の正面。

 片手で両目の視界を覆わんと押さえる秋蘭は、深く深くうな垂れていた。

 

「む? どうした秋蘭、俯いて? 気分でも悪いのか?」

「いや……、なるほど。最近、姉者が私のおかずを欲しがらなかったのはこういう理由か……。私はてっきり、また胸が大きくなったのを気にして減量でも始めたのかと。まったく、今更気にしても華琳さまには目の仇にされるものを。きつめの下着で押さえつけて隠してみたり、あぁ、無駄な悪あがきをする姉者は可愛いなぁ、なんて思っていたら……」

「――なっ、何故それを知っている!? というか、やはり私の胸は華琳さまに疎まれているのか!? 無駄なのか!?」

 

 しかたなかろう? 私でも羨ましいぞ、これは。と、半目で豊胸を見やる秋蘭は大きな溜め息をつく。

 相変わらず変に真面目で、変に頑なで、変に胸の発育だけいいな、と。

 これだから、常々あまり考えすぎるなと言っているのに、肝心な時だけは自分を頼ってくれないから困り者だ。

 ――まあ、それが姉者の可愛いところか。ついでに、寸法が合わなくなっただろう下着はいつもより可愛いらしいものに買い換えてやろう、そうしよう。ヌフフ。

 ともあれ、表情をきっちり冷静に切り替えた上で秋蘭は告げる。

 

「それより姉者。胸の件は置いておくとして、華琳さまがおっしゃられたお言葉の意味は、何も隠れて北郷を観察しろという意味ではないぞ?」

「な、なんだとぅ? 馬鹿を言うな。華琳さまは確かに"見定めて"とおっしゃって――」

「あれは。北郷ともっと交流の機会を持てという意味だ。夜這いでもあるまいし、どこに見極めたいからと他人の寝所へ忍び込む者がいる? はしたないにも程があるぞ。かなり引いたぞ。二度とするな」

「――だ、誰が北郷の寝入りを襲うなどと――!」

「そこまでは言ってない。とにかくもうやめろ。言い訳もよせ。正直、今の姉者は気持ち悪いぞ」

「……き、気持ち、悪……い、だと?」

 

 やっと自分の奇行に気がついた姉を見て、妹は思う。

 これを成長と喜べばいいのか、浅慮と悲しめばいいのか。どっちだろうか、と。

 ――どちらにしろ、あとは当人同士の問題のようだな……。

 秋蘭はもう一度深く溜め息をつくと、抜け殻となった姉の手を引き、その場をそっと立ち去るのであった。

 

 

***

 

 

 一連の視線騒動から半日の時が流れた。

 書庫を照らす日もすっかり傾き、斜陽の空には秋茜が点々と舞い、その淡い陽光は地面に長い影法師をひとつかたどる。

 施錠済みの扉の前。

 黙っていても日に日に早くなる夕暮れ時を、足元に落ちる影以上に首を長くして、まだかまだかと急かし立てる男がいた。

 その人物は、もちろん、 

 

「す、少し付き合って、あれだよな? 間者の件的なあれだよな? まさか、デート的なあれでは――な、ないない! わかってるし。知ってるし俺! これは期待させるだけ期待させといて落とすパターンのあれだろ? 気づいたら落とし穴に嵌ってるあれ的なあれだし。べ、別に期待なんかしてないし!」

 

 と、期待で胸張り裂けんばかりの一刀だ。

 多少卑屈気味なのは彼の涙ぐましい体験が成せる業とでも言っておこうか。直入するなら、モテない男の予防線です。

 さておき、彼は書庫の手伝いに戻ってからというもの、ず~っとこの調子である。

 仕事中も秋蘭の大胆発言や行動を思い出してはニヤニヤ、ブツブツ。

 勉強中も"丸"や"柔"という漢字を見るだけでソワソワ、ゴソゴソ。

 ついに気でも違えたかと攸にいらぬ心配をかけ、同時に存分な薄気味悪さでガン引きさせていた。

 が、浮かれる男は我知らず。

 不思議な視線からも解放されたのをいいことに、 

 

「……いや、でもさ。たとえその、話が間者の件にしたってだよ? どうせなら食事でも一緒にどう的な流れに発展する可能性も無きにしも非ずであってさ? それにほら、彼女には色々お世話になってるわけじゃん? そうなってくると、あっ、あくまでお礼的な意味で、やましい感じとか一切なしで! その――ど、どっかに陳留ウォーカーとか売ってないかな!?」

 

 もう頭の中は、どうにかこうにかデートへ(かこつ)ける算段に終始。

 すぐデート本に頼ろうとする哀れな習性と合わせて特有のあれ。未体験への冒険心は無限大だ。

 ただ、そうは言っても、秋蘭に日頃からお世話になっているという一点だけはまた事実。

 今朝のように何か困った事があると、彼女はいつもさりげなく手を差し伸べてくれた。

 それは先日の蓬莱事件にしてもそう。

 季衣の暴食代と店への迷惑料を何も言わずに立て替えてくれたのは彼女だった。それも立て替えた分は毎月少しずつ返済してくれればいいと、至れり尽くせりの安心安全料金プランまで用意してくれて。

 ともかく、華琳&桂花という二大鬼畜を筆頭にする奇人変人の巣窟の中、唯一の良心とも言える秋蘭の存在は一刀にとって存外大きい。

 平たく言うなら、近所の綺麗で優しいお姉さんだ。このジャンルが十代男子に効果抜群なのは説明不要だろう。その上、今は"アダルトな"の称号まで追加されているとなれば、免疫乏しい一刀には一溜まりもない。

 

「やっべ……、なんかすげえ緊張してきたんですけどっ!」

 

 と、その時だ。

 前方に砂を踏む足音が鳴る。そわそわと落ち着きのない影に新たな影が並ぶ。

 ハッと息を飲み、一刀は目線を上げ、

 

「あっ……!」

「すまん、待たせてしまったか?」

 

 さあ、“近所の綺麗で優しいアダルトなお姉さん”のご登場だ。

 

 

***

 

 

 西日に浮かぶ彼女を見て、一刀は向けた視線を急いで下げた。

 

「ぜ、全然待ってません!」

「そうか? ならよかった。少々視察が長引いてな」

 

 妙に意識してしまい、彼女を見ていられない。

 今も待ち合わせのテンプレ的なやり取りに軽い感動を覚えている。

 と、同時に一刀はパニックでもある。次に何を言えばいいのか言葉が出てこない。準備していた会話のストックなど全部吹き飛んだ。

 普段あれだけ飄々と彼女たちに接しておきながら、一度意識したらこのへたれっぷりは如何なものか。

 もしここが現世だったなら、何処からともなく現れる悪友に、"かずピーのあっつあつ照り焼きチキン入りました! "とか散々いじり倒されたことだろう。

 ――でも今思うと、あれはあれで俺、救われてたのかもしれない……!

 おかしな思考に流さそうになるのは混乱度合いの現れか。はたまた、懐旧の情か。

 さておき。そんな一刀の硬直を察してか秋蘭が先に動く。

 

「どうした? ほら、いつまでも突っ立っていないで行くぞ?」

「あ、はい!」

 

 通り過ぎるように歩き始めた彼女を一刀は追いかけ肩を並べる。

 二人の背丈はほとんど変わらない。ちらりと目をスライドさせれば、彼女の横顔がそこにある。

 少し照れながらも、一刀はそのまま疑問を口にした。

 

「あのさ、行くってどこへ?」

「私の部屋だ」

「……はい?」

 

 そして、お次は全力で思考した。

 待ち合わせ。 → 部屋。 → ???

 ――おいいい! なんだこのフローチャートは! 初っ端からとんでもないミッションおっぱじまったぞ! つうか"???"って何? 何故、三文字分!? もうアレしか連想できねえよ俺の馬鹿!

 思考に合わせるように、脳内BGMも"今晩からは寝所を共に"のアダルトエコーverだ。動悸の高鳴りがドえらいビートでドラムっている。

 ――い、いや! 落ち着け。一端落ち着くんだ一刀。いくらなんでもそれは飛躍しすぎだ。部屋って言っても=アレじゃないだろ。そういう安直な決め付けは非リア充の特徴的行動……っ、気をつけるんだ! そう、これはただ単に効率の問題だろ。きっと、なるべくひと目を避けて二人きりになった方が好都合な――って、え、何それ? 部屋で二人きりが好都合って何する気っすかそれ!?

 勝手にドツボに嵌る一刀はまず尋ねた。

 

「あの、つかぬ事を窺いますけど、夏侯淵さんは俺に話があるんですよね?」

「うむ。そうだ」 

「だったら、ほら、もうすぐ夕飯の時間だし、食堂で食べながらとかじゃ駄目かな?」

「そ、それは……」

 

 そして、次の瞬間。

 完璧とも思われた一刀の軌道修正は無為に帰す。

 秋蘭は不意に視線を逸らし、まるで恥らうようにこう言うのだ。

 

「人に聞かれるのは少々問題がな……。その、あ、穴だ。大事な穴の話がしたくてだな……」

「え゛っ?」

 

 ――あ、穴あああああ!? なんか言い方が異様に意味深なんですけど! 想像力掻き立てられるんですけど! 何の穴ですかそれ? 警備の穴ですよねそれ! 赤く頬染めてるのは夕焼けの見間違いですよねそれ!?

 あまりの破壊力に一刀は昏倒しかけた。紙装甲の純情ハートには荷が重すぎる。

 しかし、そこへトドメとばかりに波状攻撃が襲う。

 

「いいから。い、急ぐぞ北郷!」

「――――」

 

 秋蘭は強引に一刀の手を握り、歩速を早めた。

 畳みかけだ。

 いや、ちょっと、と一刀は抵抗を示すも、あくまで口だけ。とっくに呆け、秋蘭の大胆な行動にまたしても骨抜き。怒涛の展開に、もはや頭は真っ白、いや、真っ桃で鼓動だけを早めていた。

 そして、そうこうしているうちに周囲の景色は次々に移る。

 回廊は通り抜けた。長階段も上った。本殿廊下をひた進む。ふと気がつけば、

 

「……って、ここ、あれ?」

 

 既に秋蘭の部屋の前で並び立っているではありませんか。

 ――い、いつの間に!? どうしてこうなった!?

 状況把握に必死な男は咄嗟に思う。

 拙い、と。こんなフワフワした状態で密室の中、二人きりは精神衛生上、非常によろしくない、と。

 ――な、何か言わなきゃ!!

 しかし、

 

「さあ、入るぞ」

 

 彼女は扉の取っ手に手を掛けようとしていた。悠長に言葉を選んでいる暇はなかった。

 たぶんここがラストチャンス。入室したらきっと駄目だ。何が駄目なのかはよくわからないが、とにかくそんな気がする。

 だから、一刀は秋蘭を少し乱暴でも払い除ける。

 女性に対して不適切な行動だと後ろめたさを感じながらも腕を引く。

 刹那、二人を繋ぐ手は離れ――ところが、

 

「っと、残念」

 

 それは本当に刹那だけのことだった。

 払い除けの動作は途中から別の軌道に塗り変えられる。

 一度は離れた秋蘭の手が流れに沿って一刀の手首を滑り掴み、力任せに吊り上げたのだ。

 

「へ?」

 

 何が起こったのかすぐには理解出来ず、一刀は唖然。

 一方の秋蘭は諭すように、

 

「まあ時には強引さも必要だが、乱暴者は女性に嫌われるぞ?」

 

 そして。

 その目的は、こうだ。

 

「すまない北郷」

「――――」

 

 言うなり腕を振り下げられ、爪先立ちの男は部屋の中へ飛ぶ。

 

 

***

 

 

 勢いよく部屋に放り込まれた一刀は、腹ばいで蹲ったまま固まっていた。

 

「…………」

 

 意味がわからないのだ。

 投げられたことも。謝られたことも。そして何より、わずかに上げた視線の先、卓台の脚の隣に何者かの足が見えることも。

 ――あ、あの。この足は夏侯淵さんじゃないよね……? だって彼女は後ろにいるもの。仁王立ち感がハンパないもの。なんか見覚えあるもの。これ以上、上向きたくないものおお!?

 だが、向かずとも秋蘭が言う。

 

「では姉者、あとはしっかりな」

「うむ」

「――うむ、じゃねーよ!」 

 

 まさか午前中におっ立てたフラグの回収がこのタイミングでやってこようとは。

 一刀は血相変えて跳ね起きる。

 ――なんすかこの時間差攻撃! なんで? なんで今頃姉者? そりゃ確かに数値も134%だったよ? でもさ、だからってこれはないっしょ? いくらなんでも悪質っしょ? 違うっしょ? だいたい、あんなもん姉者っていうか、ただのアジャだからね? 見てくれ美人だからって、中身は純然たるコングだからね!?

 思う一刀は最速で扉へと振り返り、

 

「ちょっとおお、どういうことっすかこれ!? 俺なんか悪いことした? 怒らせちゃった? なんの処刑ですかこれ!」

 

 と、抗議に見せかけての脱出を画策する。本当は理由なんてどうでもいいのだ。

 今は一刻も早く死地から逃れなければ、キングコング IN 陳留が始まってしまう。ウホウホが待っている。

 だが、秋蘭はその反転に合わせ、いち早く外側から出口を閉鎖。一刀が扉へ手を伸ばす頃には指二本分程の隙間しかなく、そこからわずかに顔を覗かせると、

 

「フフ」

 

 笑みだ。

 それはまるで、初めて女の子を部屋に連れてきた息子へ送る、母の生暖かい眼差しだ。果てしなく嫌な予感を醸し出している。

 そして、秋蘭はそれだけを残して、

 

「ごゆっくり」

「え、ちょ――!!」

 

 パタリ。早々に扉は縦枠へ収まる。隙間なくぴったりと。

 つまり、だ。

 

「……と、ととっ、と、ととと、とじ」

 

 ――閉じ込められたアアア――――!?

 密室、ここに完成。

 入室直前の予感は実に正しかった。本当にもう駄目だ。

 唯一の出口へ詰め寄る一刀は外に向かって叫ぶしかなかった。

 

「ちょっ、あの冗談だよねこれ? お茶目な悪ふざけだよねこれ? はは、人が悪いんなぁ俺驚いちゃったよ――って、扉びくともしねえし! 完全に反対側から押さえてやがるよこれ!」

「…………」

「いやいや、いいって、そういうノリいらないって、もうわかったから一回待ってって! ほんとこういうのいいから。ね? とりあえず一回入ろう? 休憩しよ休憩? 何もしなくていいから。ちょっとだけ、先っぽだけでもいいからさ! お願い、二人っきりにだけはしないでえええッ!!」 

 

 それは、ラブホの前でしつこくごねる男さながらの必死さだ。

 そりゃ一刀にとってこの状況は、密室どころか猛獣の檻に取り残されたようなもの。

 先ほどの秋蘭の表情だって、母親どころかゴリラに餌を与える飼育員にしか見えなかった。もはや一刀は春蘭に差し出されたバナナだ。

 ――それなんてハニートラップ!? なんでこっちが食われそうなの? 普通逆だよね? おかしいよね!!

 しかし、秋蘭は春蘭へ。異性への好奇心は生命の危機へ。甘酸っぱいトキメキは恐怖の慟哭へ。吊り橋理論的には同じでも、目の前の様相は天国から地獄に変貌を遂げたのだ。

 しかも悪夢はこれだけに留まらず、

 

「――――」

 

 その瞬間。扉に貼りつく一刀は感じ取る。

 解放されたとばかり思っていた、あの不快な視線を。背後から強烈に。

 反射で翻る視線はその正体を捉えた。

 

「じ~~~~~~~ぃっ」

「――なんかここに擬音を自分の口で言ってる怖い人いるんですが!? 眼光鋭すぎてすんごく怖いよ!? 穴開きそうなんですけど――って、じゃあこれって、まっ、まさかッ――!!」

 

 そして、一刀はあの真相に気づく!

 

「――あ、穴の話ってこの穴かよッ!! くそっ、騙された……ッ!!」

 

 そっちか!? と外から大きな声がした。

 さすがの秋蘭もこれは突っ込まずにいられなかったらしい。

 さておき。

 そんな中でも春蘭だけは一切取り乱すことなく、凝視の構えを崩さずに一歩また一歩とこちらへ歩み寄る。そして、二人の距離が手の届く所まで近づくと、彼女は告げた。

 

「貴様は……、何故華琳さまにお仕えしている?」

「え?」

 

 もう一度。

 

「貴様は一体なんなのだ? なぜここにいるのだ?」

 

 狼狽する男に何度も。

 

「私は貴様のどこを信用すればいい? 何を見ればいい? どうすれば信用できる?」

「それは……」

「私にはわからない。だから、――答えろ北郷一刀ッ!」

 

 途端。二人を包む空気は一変し、緊張が糸引く部屋を突き刺すような緊迫感が支配する。室内の密度が上がった。

 

「「…………」」

 

 訪れるは沈黙。

 無論、春蘭の問いは拙速なもので、突然"貴様はなんだ? "と言われても大抵の者は困ることだろう。

 彼女の気迫に気圧され、口ごもることもあるだろう。

 ただし、それらはあくまで一部の要因にすぎない。

 一刀が言葉を発することが出来ずにいたのは別の理由からで、春蘭の純粋なる問いは彼の心に重く圧し掛かっていた。

 ――なんでって言われても、そんなの俺は……。

 きっかけは、理不尽な選択を突きつけられたからだった。それ以外の選択肢はなかったとも言える。

 ただそれでも、管輅から天の御遣いの真実を聞き、これも自分で選んだ道だと腹を括って陳留へと赴いた。が、それもすぐに気づかされる。

 ――そりゃ、嫌でもわかるさ……。

 こんなにも矮小な自分が何故この場にいるのだろうか? と。

 新たな環境に馴染めば馴染むほど、疑問を抱かずにはいられなかった。

 輪に溶け込もうと思えば思うほど、違いを痛感させられる。

 能力も。意識も。思想も。夢も。何もかも。間に横たわるモノは圧倒的な違和感だ。

 そうした場違いを一刀は数多く思い知らされ、しかし、華琳たちとの交流の中で新たな感情も芽生えていった。

 それは、

 ――彼女たちを殺し合いなんて馬鹿げた現実から解放したい……!

 乱世の終焉を願う強い気持ち。

 だが、皮肉なことに、その道はあまりにも大仰。漠然とした願いに一歩を踏み出す先が見えない。上げた足をどう降ろせばいいかのかすらわからない。結局はただ己の無能さを浮き彫りするだけだった。

 そして、いつの頃からか、こんなことを考えるようになる。

 仮に、天の御遣いとして世界を救えるような力があったなら――。

 もしも、本当にそんな力を持っていたとしたなら――。

 己はどう行動するのだろうか、と。

 つまり、

 ――俺は、華琳と乱世を歩むのか……?

 これは否定ではない。あくまで迷いだ。

 正史を鑑みるなら、華琳と行動を共にするのは当然の選択だろうし、第一、肌で感じる彼女の王としての才覚に疑う余地は微塵もない。彼女こそ破格な意志に英知を兼ね備えた紛れもない覇王と断言できる。そう――華琳は覇王。彼女が行くのは覇道だ。

 ゆえに、その覇道が願いの理想形なのかと問われれば、答えは否。

 もちろん、そんな事は初めからわかっていたし、管輅にも指摘されたことだ。だからこそ、ここでしか出来ないことがあるんじゃないかと一刀はそう思い、けれど、何が出来る? と打ちのめされた今があって――、

 ――俺は……、なんでここにいるんだろ?

 一刀は知っていた。

 何度も何度も嬉しそうに、同じ夢を語ってくれたその人を。

 底抜けに優しくて、でもちょっぴりドジな、大恩人のその姿を。

 ――俺は……、ここにいるべき人間なのか?

 一刀は逃げ続けていた。

 答えを徒に先延ばしして、目を背けて、とっくに答えを出しておくべき問題を務めて考えないようにしていた。

 逃げるのはもう止めだと吼えてみせた覚悟とは一体何だったのか。絶対に風化させるなと心に刻みつけた傷跡はどこに消えたのか。

 濮陽での誓いも忘れ、一時の平穏に浮かれていた。

 ――ほんと、馬鹿だよな……ッ!

 巡行の果てに、一刀は強く拳を握り締めていた。

 

 

***

 

 

 後方の窓から射し込む夕焼けは深い。

 角度の浅い黄昏は十分に部屋の内部へと届き、春蘭の足元には長い影を得る。

 正面。依然として俯く男の表情を隠すように。

 ただそれも、徐々に輪郭を失いつつある。時の流れは沈黙の上へ薄闇を広げるつもりらしい。

 そして、終わりが見えない停滞の中、変化があったのはそれだけだった。

 春蘭もまた同じ。彼女は直立を保ち、彼を真っ直ぐに見つめていた。

 ――いつまででも待ってやろうではないか。

 急かすことも脅すこともせず、ここまで来たら、ひたすらに答えを待とうと春蘭は考えていた。

 そうでなくては意味がないから。

 聞きたいのは彼自身の言葉。

 たとえそれが、嘘であろうと出任せだろうとお為ごかしだろうと構いはしない。

 彼の自発的な発言であればいい。

 そうであるならば、どんな言葉であれ判断するのは己自身だ。

 ――私は華琳さまの剣。剣は主の天道に仇なす者を残らず薙ぎ払うためにある。ならば……、貴様はどちらだ?

 斬るべきか。斬らざるべきか。見極めるべきはひとつ。

 そこに例外はなく、されど有益であれとも言わない。無害であってくれればいい。

 彼女が知りたいのはそこだけだ。一刀の立ち位置だけを見極めたい。それが彼の試金石となった者の、せめてもの責務だと考えていた。

 ――だから、答えてみせろ北郷一刀……!

 そして、彼女が瞳にそう力を込めた時だ。

 なんの前触れもなく、呼応する男の眼差しが静かに影から浮かび、たどたどしい言葉ながら、ようやく沈黙は破られ――。

 

「……俺は、俺にはその……」

 

 だが、それはあまりに懸け離れていた。

 

「答えられない。情けない話だけど、自分でもわからないんだ。華琳に仕えている理由も、ここで何をすればいいのかも」

「なっ」

 

 春蘭は耳を疑う。

 この期に及んで、何を言っているのか、と。

 そんな答えを承服されると本気で思っているのか、と。

 

「……っ」

 

 口は真一文字にきつく結ばれ、隻眼からは堪らず敵意が滲みだす。

 この感情が怒りなのかなんなのかは、正直、春蘭にもわからない。

 ただひとつ言えるのは、もはや完全なる威嚇として彼女はそれを発したということで。

 

「ふっ、――ふっざけるなアアアッ――――!!」

 

 大気が威圧に痺れ、部屋中が振動する。眼前の男は気圧され腰を引く。これを一体どう判断しろというのか。

 ――何故だ? 何故華琳さまはこの様な者に信を置かれるのだ!?

 主の真名を口にしておきながら、男は忠も意もわからないと言う。それは害の有無以前に、単に不要としか春蘭には思えない。

 ――不愉快だッ!! こんな奴今すぐにでも――――ッ!!

 しかし、そこで唐突に甦るのは主の台詞。

 

『もう少しだけ、この濁りなき眼で一刀を見定めてご覧なさい。そうすれば、あなたにもきっとわかるわ。アレがどういう生き物なのか、ね』

 

 昨夜のあの言葉だった。

 そうだ。主は見ろと言ったのだ。わかるとも。ならば、このまま感情任せに結論を急ぐことは正しいとは言えないだろうと春蘭は思う。

 

「くっ……」

 

 力の緊張が先走る身体を彼女は寸前で押し留めた。

 主の意向に沿うために。

 もう一度だけコレを見定めるために。

 今すぐ殴り飛ばすのは我慢だ。

 そして春蘭は、フッ、と切るような短い息の後、半身の男にこう問う。

 

「つまり、それはいつか華琳さまを裏切り、仇なすかもしれんという意味か?」

「え?」

 

 なんにしろ、これで最後だ。

 もし、これもわからないなどとのたまうようなら害と断じても問題ない筈。

 結果はどうあれ、決着を迎える。

 ――だから時間はいくらでもくれてやる。また好きなだけ考えるといい。精々慎重に言葉を選べよ北郷……!

 だが、思う矢先に一刀は、

 

「仇なすって、んなこと出来るかよ!」

「……ぬ?」

 

 予想外の即答だ。これまで散々のらりくらりしていた者が、初めて明確な意思を示す。

 意表をつかれた春蘭は一拍の空白が生まれてしまい、やや慌てて、

 

「で、では華琳さまに忠誠を誓うのだな?」

「いや、だからそこなんだよ問題は。そりゃ俺だって華琳のこと心の底から凄いって尊敬してるさ。けど意見の相違というか見解の不一致もあるというかなんというか……」

「……ぬ?」

 

 再度一拍。春蘭は思う。

 ――な、何を言ってるのだこいつは?

 首と眉が斜めに傾く。

 わからない。何が言いたいのかさっぱり疎通出来ない。ただし、彼女は慌てない。

 こういう時はあれだ。秋蘭がいつも言っている"話がややこしい時は落ち着いて要点だけを考えるようにしろ"の出番だ! と春蘭は意識を建て直す。

 思い浮かべる概要図はこうだ。

 ――えーっと、まず貴様はなんだ? から始まって……。

 わからない。 → 仇なすのか? → しない。 → 忠誠を誓うのか? → 誓わない。

 つまり、

 

「むむぅ、なあ北郷。それはやはり華琳さまを裏切るかもしれんということではないのか?」

「はあ? ちゃんと人の話聞いてんの? 誰もそんなこと言ってないだろ?」

「…………」

 

 この生物が人をイラっとさせるのに長けていることだけはわかった。

 ムカつく。

 なんだこの変わり身の早さは、と。

 ついさっきまでコオロギのようにフルフル震えていた分際で、このふてぶてしさはどこから沸いたのか。その腹立たしさときたら奴そっくりだ、と。

 そう、それはバッタ界全体の評価を著しく低下させる、あの憎き仇。

 

「おい、イナゴ」

「え? 何それ、俺?」

 

 抑えていた感情が二重で再燃しつつある春蘭は憮然と言った。

 

「ああ、今日から貴様はイナゴだ! 今決めた。そして私にもわかるように説明しろイナゴ!」

「いや、勝手に決められても……。つか、俺も桂花に散々酷い仇名つけられてるけど、その切り口は斬新すぎて新しいっていうか」

「――いいから、答えろッ!!」

「ご、ごめんなさい!」 

 

 と、イナゴはまたコオロギへ戻った。ややこしい生物だ。

 春蘭は内心で思う。

 ひょっとしたらこれはイナゴに擬態するコオロギなのかもしれない、と。ならばコオロギと呼ぶべきだろうか? いやいや、騙されるな。奴はイナゴだ。だが、ここは念のためにイナロギと名付けて……とすると、私は今、ついに新種のバッタを発見したことになるのかっ!? ――などとやっていると、不意に、春蘭は彼の視線が変わらずこちらを見据えたままだと気づき、

 

「あのさ、俺は華琳を裏切るとか、皆と戦うなんてこと考えらないよ。それは絶対なし! でも、それでも、未来は未定とかいうかさ。その、違う道もあるかもしれないというか。まあ、そんな感じで、結局のところ何が言いたいのかっていうと……」

「いうと?」

 

 彼は言った。あっけらかんと。

 

「……うん。やっぱ、よくわかんない!」

「――はああああああ!?」

 

 

***

 

 

 いやぁ、まいっちゃうよ、ハハ、と自分の頭をポンポン叩く男は笑いながら泣きそうだった。

 ――やっちゃったよこれ……! 一巻のおしまいだよこれッ!!

 一刀はせめて誠実であろうしただけだ。

 どれだけ頭を悩まそうとも、ぱったり答えは出てこない。なら、嘘はやめようと思っただけで、その結果がこれ。

 途中で乗り切れそうな雰囲気も相まって、調子にのった挙句が今。

 もう完膚なきまでにやらかした。

 眼前。まばたきがやたら多い彼女からは、感情の色が急激に消えていく。

 無だ。無になろうとしている。無心でやりに来ている!

 

「――――」

 

 そして突如。一陣の風が顔横を吹き抜け、木端の衝撃が耳に響いた。

 

「……面白いか北郷?」

「ひいいい!?」

 

 扉に突き刺さったのは春蘭の左拳。がっつり貫通している。どう見たって怒っている。目が据わっている。次は貴様の番だと言っている。

 ――もうガチで風穴ブチ開けられそうなんですけどおお!?

 しかも逃げ場はどこにもない。完全にコーナーへ追い詰められたボクサー状態だ。それも一発もらえば即KO。人生終了のテンカウントが鳴り響くことになる。

 ――じょ、冗談じゃねえよ! 

 慌てる一刀は死ぬ前に動いた。

 

「お、おっしゃる通りです! ちっとも面白くないです! まんじりたりとも面白くないです、はい!」

 

 口に合わせて膝は折れ、腰が落ち、両手は耳につけて一直線に伸ばす。

 それは台詞の長さ、タイミング、強弱までも計算に入れて合わせた動き。

 その洗練された動作には一部の隙もなく、数え切れない反復により体得した"終の型"へと至る。この窮地、もはや乗り切るにはこれしかなかった!

 そう、これぞ一刀のファイナルアタックライド――、

 

「ほんと、すいませんしたあああ!」

 

 土下座の究極形。The End Of DOGEZA、略してTEODだ。

 さすがの春蘭もこれが決まれば拳を振り下ろすことはないだろう。一刀もこの技にはそれだけの自信を持っているし、KO必至だと言うのなら先にタオル投げてしまえ試合終了だ。

 ……ただし。

 今一度、思い出して欲しい。彼女は根本的に外れていることを。

 そうだ。彼女ならセコンドから投入されるタオルを空中で掴んで叩き返すくらいのことは平気でやってのける。正解を選んでも、なお斜め上行ってみせるのが春蘭の真骨頂!

 よって、あとは頭を下げれば成立のTEODを、彼女はアッパーカットの要領で顔面を鷲づかみにして掬い上げ、

 

「いいから、立てッ!」

「――!?」

 

 そのまま自分の顔前にぶら下げると一刀にこう言った。

 

「……いいか? 最後にこれだけ答えろ。貴様は――、イナゴかコオロギか新種かどれだ! はっきりしろ!!」

「――どれでもねえよッ!?」

 

 

***

 

 

「……はぁ~。まあ姉者にしてはよく堪えた方か。イナゴやらコオロギやらがどこから出てきたのかは、全くわからんがな」

 

 扉の外側。廊下で腕組み。壁に背を預け、そう漏らすのは秋蘭だ。

 彼女は扉を突き破る二発目の拳と絶叫を横目に、中の様子をじっと窺っていた。

 

「とはいえ、だ。これでは姉者以外の者が相手であっても同じだろうな」

 

 当然だ。主君に対して忠誠も誓えぬ輩を、同じ臣下として誰が見過ごせると言うのか。これは論外だ。

 

「能力や性格の問題なら、後からある程度は矯正出来よう。だが、忠義心だけはそうもいかん。力や恐怖で一時的に服従させることは可能でも、それは言い換えれば、より強い力や恐怖を前にすれば意味を成さないと証明しているようなものだからな」

 

 そして、現に彼は"未来は未定"や"違う道"などとその一端を示唆していた。これはつまり、特定の条件下では立場の変化もありうると公言しているのと同じこと。背信行為だと咎められ、叩き切られていても何らおかしくない発言だろう。

 だと言うのに、

 

「北郷は……、生きている」

 

 それも叩き切る派の急先鋒を前にしてだ。もちろん彼女も、いよいよ殺生沙汰となれば止める気ではいた。部屋を勝手に鮮血で模様替えされるのは御免だ。それに、生殺与奪は主へ伺いを立てるのが然るべきだろう。

 そのため、秋蘭はこうした考え事の最中であっても、部屋への意識は常に怠らず、

 

「ええい、逃げるなイナロギ(仮)!!」

「逃げるわ! さっきのだってアゴ外れるかと思ったんだからな! 人の口、アホほど広げて何する気だよ! つか、イナロギ(仮)って何!?」

「何って、貴様がイナゴかコオロギかはっきりしないからだろう! だからそれを確かめるために中を覗こうと思ってだな」

「中を覗くって何!? 怖いから! 中に誰もいないから! 何も入ってないからね!?」

「……? 何を騒いでいるのだ? 私はただ前胸腹板突起の有無を確かめようと思っただけだぞ? それともまさか、イナゴには前胸腹板突起と呼ばれる"のどちんこ"のようなモノがあることを知らんとでも?」

「――知るわきゃねーだろ!? 何、皆さんご存知、みたいな顔してんの? 生まれて初めて聞いた単語だよ! しかも、のどちんこなんか誰にでもあるっつーの! 夏侯惇にもついてるだろが!」

「……だっ、誰がイナゴだッ――――!!」

「ンギャァァアアアア!?」

 

 なんの話をしているのだ姉者は……? と秋蘭は若干の目眩を覚えた。

 よもや、ここでも予想を超えてこようとは。さすがの姉に涙が出てくる。が、今は捨て置こう。むしろ考えたくもない。

 それより、重要なのはもう一方だ。

 肝心の彼はやはり健在。元気に悲鳴を上げている。しかも中の様子から察するに、姉は七星餓狼を抜いてすらいない筈だ。真剣特有の張り詰めた気配も、そこに漂う殺気も秋蘭は感じていない。何より、聞こえてくる物音は何かが砕け、割れ、弾ける打撃音ばかりで――、

 

「いや、ここ、私の部屋……」

 

 秋蘭は再び軽い目眩に襲われた。

 他に北郷を誘い出す適当な場所がなかったとはいえ、これは失敗だったか……! と後悔した。

 ともあれ、崩れた姿勢を戻す彼女は、

 

「……それにしても、つくづく不思議な男だ」

 

 彼が持つ未知なる個性を思うと実に興味深かった。

 それは、

 

「間違いなく北郷の言は不審を招くに十分だというのに、しかし、それがどういうわけか、そうは聞こえてこない。……何故なのだろうな?」

 

 本来なら誤魔化しているとしか思えない言葉が、何故か彼の本心だとも飲み込めてしまう。

 明らかに矛盾する"裏切ることはない"の発言が、他方では妙にしっくり来てしまう。

 彼の言葉には、不十分な回答と思わせても不義理とは感じさせないだけの何かがある。

 秋蘭はそれを彼特有の個性だと考えていた。

 

「だから対峙する姉者も、ああして暴れ回ってはいても、剣に手をかけることはしないのだろうな。そして……ともすると、華琳さまのお心もそこにあるのやも――」

 

 

***

 

 

「だから、あるってばのどちんこは! だ~~~もうっ! いつまで続けるんだよこんなこと! ほんと何がしたいの!?」

 

 机を挟み、右へ左へと周回を続けていると男は急にそう叫んだ。

 確かに春蘭もこの不毛な円環運動には嫌気がさしてきている。ぐるぐるといつまでも。いい加減、目がまわりそうだ。

 ただ、そうであっても彼女には動きを止められない理由があった。

 と言うより、

 ――なら、私はどうしたらいいのだ……?

 彼女は戸惑いを覚えていたのだ。

 原因は言うまでもなく、対角線上を維持し続けるこの男。

 あの、誰がどう聞いても出鱈目な発言を有害だと断定しきれない己がいること。

 さらには、

 ――何故私は、イナロギの言葉を信じてもいいのかもしれんなどと思っているのだ……?

 わからない。

 何かの核心に触れている気はするのに、しかし、それがなんなのか掴めそうで掴めない。

 自然と春蘭の追い足は止まっていた。

 

「……だったら、貴様はどうだ?」

 

 そして、問いの内に思い返すは一刀の言葉。彼は先程こう言った。

 "何をすればいいのかわからない"と。"違う道もあるかもしれない"と。ならば、

 

「貴様は結局どうしたい? 華琳さまの下で何を成したいのだ?」

 

 ひょっとしたら、道程に迷いはあれ目指すべき最終地点だけは見えているやもしれない、と。

 そんな考えが春蘭を過ぎった。

 すると、対面。

 同じく足を止めた彼は躊躇いがちに顔を伏せ、

 

「な、何をって、そりゃ……」

 

 それでも、確かにこう言う。

 

「俺は、誰も死なずに、死なせずに、この乱世を終わらせたいだけだよ」

「なっ……」

 

 途端。春蘭は開いた口が塞がらず、またも唖然とさせられる。

 それもその筈だ。

 なにせ、この局面で、世間知らずの子供に聞かせたって馬鹿にするだろう夢物語を、面と向かって告げられたのだから。そりゃ呆れもするし、正気を疑う。

 

「き、貴様、気は確かか? それとも馬鹿なのか? そんなこと出来るわけが――」

 

 ない。あろう筈がない。そんな所業、たとえ神であっても不可能だ。誰がどう考えたって同じ結論だろう。

 だが、春蘭がそう言い切る前に一刀は、

 

「――わかってるよ、んなこと! でも、だからって、諦めるのは嫌なんだからしょうがないだろ!」

「なっ……」

 

 子供ですら言わない世迷言を、子供のような理屈を捏ね、子供にもわかるほど真剣な眼差しで遮った。

 そして、その瞬間。今まで黒塗りで不可視だった一刀の実像は色彩を灯し、彼を構成する小片が次々と型にはまっていく。おもむろに春蘭は理解する。

 ――あぁ、なんだ。そういうことか……。

 北郷一刀という人間の本質をようやく見た。否、正確にはずっと見えていたのに、あまりに直情すぎて見落としていただけだった。

 ――要するに、コレには建前というものが存在しないのだな。良くも悪くもすべてが本音。秘さず、偽らず、繕わず。ただ最初から感情のままに垂れ流していただけ、と……。

 だから春蘭には一刀の行動が一から十まですべて不可解だった。

 その時々で大きく変化する彼の本質に、当然のように何かを隠していると思ったし、本心を暴いてやろうと裏側ばかりを注視していた。

 しかし、ないものを見ることは出来ない。それではわかるわけがなかったのだ。

 信じられない話だが、彼は身分も立場も関係なく、損得すらも考慮にいれず、初めから本音を曝け出していたのだから。

 ――それこそ、表も裏もない子供のようにな。だと言うのに私は……。

 その事実に、彼女は思わず、

 

「くっ……ぷっ、あははははっ! あははははははははは!」

 

 大きな笑声を吹き出してしまい、さらには、

 ――そう言えば、あの頃にも……、くくっ、いたなこんな奴が。

 遠い日の記憶が笑いを余計に刺激した。

 

 

***

 

 

 そう言えば、じいさんにもこうして散々笑われたなぁ、と大笑いを前に一刀は思う。

 あれも似たようなシチュエーションだった。ゲラってくれた。が、ここまであからさまでもなかった。

 

「――そ、そんなに笑うことないだろ!」

「す、すまん……! 別に笑うつもりは、……くっ、その、だな……ぷっ、あっはははははあははははははっ!」

「つもりはなんだよ!? おもっきり腹抱えて、笑う気満々の姿勢じゃねーか!」

 

 正面。机に手をつき、ひぃひぃ言いながら苦しそうに大笑いする春蘭と比べれば、幾らか慎みがあった気がする。たぶん。

 ともあれ一刀は、

 

「……っ、いつまで笑ってるんだよ!」

「いつまでと言われても……、ふっふ、違うのだ。これは……、貴様を馬鹿にして……あはははははっ! くくくっ、あははははははははははは!」

「何も違わなくねーよ! もうこれ、森羅万象馬鹿にしかしてないからね!?」

 

 止むどころか酷くなる一方のそれに、いい加減、ムカついてくる。

 しかも、それがあの春蘭だと思うと特効入りで怒りゲージがモリモリ溜まっていく。

 彼にとってある意味、春蘭は特別なのだ。

 それは知力限定での話だが、ライバルというのか、唯一競える相手といえばいいのか、対抗心が漲るというか、底辺は嫌だ。彼女にだけは馬鹿にされたくないし、絶対に負けたくないし、尊厳は守りたい――と、そんな感情が沸き立つのだ。

 だから、ついムキになる一刀は言ってしまう。春蘭を怒らせたらどうなるかもすっかり忘れて。

 

「だ、だいたい! さっきから他人のこと笑ってるけど、本当に馬鹿みたいなことしてるのは夏侯惇の方だろ! 見たぞ一昨日の報告書。何あれ? どうやったら喧嘩の仲裁で店ごと大破させられるの? 馬鹿なの? こんなもんあれだよ? 店側からしたら、もう仲裁どころかただの中規模災害だからね? 略して中災だから。馬鹿は馬鹿力だけにしとけ――って、あ……」

 

 余計な本音までつらつらと。

 今更しまったと思っても覆水盆に返らず。もう取り返しはつかない。

 と言うか、腹水は地面に触れた瞬間にすべて蒸発して、別の意味で帰ります。天に。

 

「…………」

 

 一刀がゴクリと息を飲む先。

 目元を伏せる春蘭は小刻みに震えていた。引き攣りまで起こしていたあの馬鹿笑いが嘘のように静まり返っていた。その上、ゆっくりともたげる彼女の顔には、その瞳にはくっきりと浮かんでいる。

 

「……おい、貴様。今、なんと言った……?」

「ひぃ――!?」

 

 燃え上がる怒りの炎が。ここまで溜めに溜め込んだ感情を一気に爆発させて。

 その熱量に為す術なく圧倒された一刀は蒸発を免れるため、

 

「い、いや! 今のは違う! 今のはその俺の意見じゃないっていうか……、け、桂花かな? 桂花が言ったんだったかな? ハハハ、まったく酷いこと言うよなあいつ。 で、でも俺はそんなこと全然思ってないから!」

 

 と、形振り構わず矛先をブン投げようとするが、まさに無駄。

 もはや彼女の耳には何も届いていない。ただただ怒りで肩を揺らし、踏み出す足は床を叩き割らんばかりに踏み込み、春蘭は叫ぶ。

 

「だ、誰が……、誰が年中無休馬鹿だアアアッ――――!!」

「――誰もそこまでは言ってないんですがあ!?」

 

 気炎は万丈。

 彼女は親の仇でも見るような物凄い形相で、当たり前のように大剣へと手が伸びる。剣が鞘の固定具から外れる金属音が鳴る。わずかに覗く刀身が西日を反射する。

 その一部始終を涙目で見つめるしかない一刀は思った。

 ――これ、絶対駄目なやつだアアア!!

 ゆえに、

 

「落ち着いて! はっ、話せばわかる何事も!」

 

 なんて咄嗟に両手をかざし、五七五に世界平和を謳ってみても、下半身は勝手に逃げ支度を始めていた。

 止まるわけがない。ここまで来れば誰にでもわかる。オチが。

 

「――問答、無用だアアアア!!」

「――でっすよねぇぇぇッッ!?」

 

 

***

 

 

 そして、二人の雄叫びを廊下で聞く秋蘭は、猛特急で部屋から逃げ出す男をそのまま見送った。

 その手はとうの昔に扉から離れている。と言うより、彼女が扉を押さえていたのは最初だけ。実は一刀が逃げようと思えば、いつだって逃げられたのだ。

 秋蘭の目的は一刀と春蘭が誰からの邪魔もなく対面する機会を得ることで、そこさえ達成すれば無用な干渉など端からする気はなかった。

 それこそ不測の事態以外、どんな結末を迎えようと当人同士の成り行きに任せようと静観の姿勢。そこがこの場における身の置き場だと秋蘭は弁えていた。

 だから今も、騒がしい幕切れに対して微動だにせず、壁に背を預けたまま開き放たれた入り口へと感想を問う。

 

「どうだった? 北郷は」

 

 そこには剣を抜く素振りを見せただけで、彼を追うこともなく、こちらへとゆっくり歩む春蘭がいた。

 そして、姉の答えはあの日と同じ、

 

「……よくわからん」

 

 未だ納得には至っていないと言う。

 もっとも、あれだけ支離滅裂な問答をしていれば無理もないだろうと秋蘭も思う。イナゴやコオロギで人となりを計れるなら誰も苦労しないし、いや、姉者ならあるいは……! と思えてしまうのは互いのためにもそっと胸へ閉まっておこう。

 ともあれ、この時間が無駄だったのかと言えばそうではない筈だ。

 秋蘭はその変化に気づいている。

 それは些細な変化かもしれないが確かな違いとして現れていた。

 横目で見る姉は、困まり顔にも微かな笑みを浮かべて言う。

 

「ただまあ、そのなんだ。少しだけわかったこともあるぞ」

 

 それは、

 

「簡単に言うとだな、奴はその、なんというか馬鹿がつくほどの正直者で……、呆れるほどの夢想家だ」

「ふふ、なるほど。正直者の、夢想家か」

 

 うむ、と、もう一度春蘭は頷く。

 それから二人は互いを見やると、自然と笑みが込み上げてくる。

 疑いを捨て、ありのままをありのままに見れば見れるほど、彼の行動は笑えてくる。

 滅茶苦茶で。行き当たりばったりで。純粋で。一生懸命な馬鹿。それが北郷一刀だ。

 だから二人は今日見て感じた一刀を報告し合い、笑い合い、また彼を知る。その繰り返しだ。そして、やがてはそれもひと通り終え、秋蘭は姉の肩に手を置き一言。

 

「ふふふ、なら姉者。私の部屋を全部元通りにしておいてくれ。今晩中に」

「ははは、うむ任せておけ――って、今晩!?」

「あと今夜、私は姉者の部屋を使わせてもらう。というわけで後は頼んだぞ。夕食にいってくるから」

「え、いや、あの待て秋蘭。私は? 私はどうなる? 食事は? 寝床は? って、しゅ、しゅぅ~らぁ~~~んっ!」

 

 

***

 

 

 一方、自室に飛び入り逃げ切ったのを確認した一刀は、荒い息を飲み込みながら寝台へと倒れていた。

 吐き捨てる息は熱を帯び、喉の渇きをしつこく促す。

 水が欲しい。

 だが、身体は疲労感から動こうとせず、何より、心はどうにも冷めていた。

 

「……結局、何も答えてないよな」

 

 薄暗い天井を見上げ、一刀は先ほどの問答を思い返す。

 記憶にある己はわからない一点張り。我ながらよく無傷で帰ってこられたなと思う。

 

「……けど、逃げてる場合じゃないよな」

 

 誤魔化すつもりがあろうとなかろうとやっていることは変わらない。

 いつまでも"わからない"でいい筈がない。もし今は許されたとしても、いずれ必ず決断の時はやってくる。それも、おそらくはもっと重たい場面で、だ。

 その時、己はどんな答えを示すのか。何を為そうとするのか。為すべきなのか。

 そんな周回遅れの思考に自分なりの終止符を打っておく必要がある。

 

「でもやっぱり、今すぐにってわけにもいかなそうなんだよなぁ……」

 

 急ぐ必要はあっても適当に決められることではない。

 焦りは禁物。今はまだ、答えを出せそうにない。

 

「だったらせめて……、やれることをやっときますか! どっちにしろ自分の身くらい自分で守れないと話になんないよな、きっと」

 

 きっと。周囲と己を比べ、どれだけ卑小かを嘆いても仕方ないから。

 きっと。天を仰ぎ見て、遠いだ広いだ喚いていても何も始まらないから。

 きっと。そんな暇があるなら一歩でも先へ進めばいい。踏み出す先が見えなくても、正しいかどうかわからなくても、とにかく一歩踏み出してみればいい。

 きっと。その場で屈んでいたって目標は遠のくばかりだから。

 だから、落ち着き始めた身体を大きく振って、一刀は寝台から起き上がる。

 

「出来ることをひとつずつ、さ」

 

 ゆえに、今考えるべきもひとつ!

 

「とりあえず明日、――俺なんて夏侯惇に謝ればいいのかなっ!?」

 

 まずは明日を全力で生き延びましょう。きっとじゃなく、死んだら終わりです。

 ただそれでも。

 腰の剣をしっかり握り、確かな足取りで夕闇の落ちる中庭へと一刀は向かうのであった。




20話読んでいただき、ありがとうございます。

いや、ほんともう文字数だけ膨らんでいくという……。
今まで8000字とかでどうやって一話をおさめてたのかがわからない!
でも投稿上限内だしってことで開き直って、いや、無駄は省いてるつもりなんですよこれでも?

さて、今回は春蘭秋蘭の回でした。
この姉妹いいですよね。書いててほっこりします。
そして、次回はやっとこさの三羽烏登場!?

ではでは、感想ご意見お待ちしてます。
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