真・恋姫†無双 妄想伝   作:コイル

21 / 24
第21話  軍議にて

 本殿中央廊下。資料の束を抱え歩く桂花は朝から気が気ではなかった。

 この日のために努力は惜しまず、資料の見直しは二十回以上した。段取りの確認も三十回以上仮想練習した。予想される質問だって四十個以上列挙したし、妄想の華琳さまには"完璧ね、さすが私の愛しい桂花"と五十回以上褒められた。

 だと言うのに、桂花はちっとも安心出来ずにいた。

 どうやっても取り除けない、たったひとつの不安要素のせいで胸一杯なのだ。

 だから辿り着いた大扉の前で桂花は足を止めると、勢いよく振り返り、

 

「いい? 余計なことは絶ッ~~~~~~対にしゃべらないで。身じろぎひとつしないで。呼吸も忍んで。もう草木のように。けど真面目に。ただひたすらに座ってなさいよ? わかった!?」

 

 と、そこにはひとりの男がいた。

 今日もアホ面下げてこっちを見ている北郷一刀だ。

 ただ彼は思いの外げっそりとした様子で、

 

「もう勘弁してくれよ桂花……。朝から何度目だと思ってるのそれ? もう百回は同じ会話してるからね?」

「――し、仕方ないでしょう! あんたなんか何度言ったって信用出来ないんだから!」

 

 その日、桂花は朝からずっとこの調子。

 万が一でも遅刻されたら敵わないと、早朝鍛錬とやらにも付き添い、宝剣の素振りに合わせてその台詞を延々繰り返していた。

 しかし、それでも足らない彼女はまだまだ言う。

 いい? と詰め寄り、

 

「今日は、今日だけは邪魔しないでお願いだから! 余計なことは絶ッ~~~~~~対にしゃべらないで。身じろぎひとつしないで!」

「言ってる傍から百と一回目始まったんですけど……。町の入り口で何回話しかけても"ようこそ ここは アリアハン です"って頑なに返してくるNPCみたいになってるんですけど……」

「ちょっと、何わけのわかんないことブツクサ言ってんの! ちゃんと聞きなさいよ!」

「ハイハイハイ、聞いてます聞いてますよ! だからもう要はあれだろ? ただひたすら、耐えに耐え、じっとアリアハンでLv上げしてアバカム覚えりゃいいんだろ?」

「……は? あ、ありあ、何? あばかむ?」

 

 謎言語だ。

 この男はちょくちょくこうした言葉を使う。しかも、それを周囲には"天の言葉"などと嘯いて。

 ――なぁにが天の言葉よ! だぁれが天の御遣いよ! 絶対に私は騙されないわよ! あ、でも、これは別に華琳さまが騙されてるとかそういうあれじゃないから。華琳さまが騙されるとかあり得ないから。私が言いたいのはあくまで、天の御遣いなら天子さまの処へ行くのが筋でしょって話だから! そうよ、だからとっとと馬鹿は塵も残さず消えなさい――って、あっ。でもそれなら、次代の天を必ずやお掴みになられる華琳さまのもとへ来たのは……逆に筋が通ってるじゃない、やるわね! 

 さておき。

 そうだなぁ、と変態は説明を始めた。

 

「まぁ例えて言うと、ある旅人が関所を超えるのに通行手形を必要とするんだけど、それを正規じゃなくて、敢えて、闇取引で手に入れようとするんだ」

「……は? 関所? 通行手形? 闇取引?」

 

 うん、と彼は頷き、

 

「んで、望外な手数料を請求された旅人は誰にも頼らず、たったひとりでお金を工面するんだけど……」

「けど、何よ?」

「その手段が、ひたすらお使いの駄賃だけを貯め続ける、みたいな?」

「……は? 何その努力の方向性見失った馬鹿は? どんだけ非効率なのよ。だったらせめて正規で購入しなさい――ってぇ! どぉ~でもいいからッ! そんな話微塵もしてないから! 意味わかんないから! まったくもう、それよりいい? 余計なことは絶」

「――扉よ開け! アバカームッ!」

 

 そして桂花は無視され、扉は開かれる。

 

「って待ちなさいよ! 何どさくさ紛れで勝手に入ろうとしてんの!?」

「だって、アバカム唱えたし」

「だからなんなのよそれっ!?」

 

 両開きの立派な朱扉の先。

 そこには"コ"の字状に並べられた長卓があり、中央にも上座と向き合うように一脚。

 ここは評議の間で、これから定例軍議が行われる予定なのだ。

 つまり、

 

「あーもう、とにかく! いい? 余計なことは絶ッ~~~~~~対にしゃべらないで。身じろぎひとつしないで。呼吸も忍んで。もう草木のように。けど真面目に。ただひたすらに。屍のように。ひっそりと。ていうか、死になさいよ?」

「――死ぬか! 意地でも天寿まっとうして、孫に看取られて心穏やかに死んでやるわ! 百三回目にして何微妙な変化を織り交ぜてんだよ、恐ろしい! 流れで頷きそうだったじゃねえか、ったく」

「チッ」

「チッじゃねぇし!」

 

 その日、北郷一刀は軍議初参加です。

 

 

***

 

 

 一刀に用意された席は"コ"の字の末席だった。

 席順は軍団内の序列に従い予め決められており、おかげで桂花とは席が離れて大助かり。

 彼女は対面、左列の二番目に位置している。つまり序列は三位。

 ちなみにその左隣。

 左列先頭、序列一位に鎮座するのがあの春蘭というのはなんとも受け入れがたい現実である。

 座る姿もなんだか普段より落ち着きと貫禄を見せていて慣れず、これぞ、

 

「地位が人を作るっていうアレか……!」

 

 ただそうは言っても、この場に居合わせているだけで十分不釣合いな男に、彼女をどうこう言えた義理はない。一刀は恐縮ですと大人しく右列の最後方に着くことにする。

 その長卓はまだ空席が目立っていた。

 軍議開始までには時間があるため、現在の出席者は四人だけだ。

 顔ぶれは一刀、桂花、春蘭とそれに、

 

「どうした? らしくないな、緊張か?」

 

 そう気さくに話しかけてくれる序列二位の秋蘭だ。

 

「おはよう秋蘭」

「ああ、おはよう北郷」

 

 彼女とは先日の視線騒動を機に交流の頻度も何かと増え、今ではこうして真名も許され、ついでに春蘭のエンカウント率も上昇。こちらも真名を許されている。

 ただし、その時のやり取りは謎が多すぎた。

 それは騒動当日の晩のこと。

 話は春蘭にどう謝罪すればいいのかを相談するため、一刀が秋蘭の部屋を訪ねたところから始まり、そこで飛び出してきたのが、なんと、半泣きの春蘭本人だった。

 事情を聞けば、なんでも今夜中に部屋を元通りに直すため食事も抜きの突貫工事中だったらしい。

 それでお腹は空くわ、間に合わなさそうだわで彼女はすっかり涙目に。

 多少の責任を感じなくもない一刀は、とりあえず食堂から食料をデリバリーして、そのまま作業も夜通し手伝う羽目に陥る。

 そしてその夜、一刀は驚愕の事実と対面することになる。

 ――いやーあれにはびびったなぁ。だってさ、春蘭めちゃくちゃ手先器用なんだぜ? あのガサツなゴリが指先だけ匠並みに繊細さなんだよ? まさか破壊神と創造神が同一人物だなんて普通――。

 それはさておき。

 本当の事件は翌早朝に起きた。

 夜明けの陽光を浴びながらも、なんとか全工程を終了した一刀の身に、何故か突拍子もなく真名を預けられるという恐怖の強制イベントが発生したのだ。

 しかも何が怖いって春蘭の口ぶりはほぼ寝言同然。迂闊に了承しようものなら後が恐ろしい。しかし、丁重にお断りすればしたらで、

 

「にゃんらとぉ……? 貴様ぁ、私の真名にゃぁ、不服なろかぁ!? 」

 

 と半分閉じた寝ぼけ眼の春蘭はしっかり七星餓狼を抜こうとしくさる。すごくめんどくさい。

 が、イベントはそれで終わりじゃない。

 不意に扉が開き、

 

「おはよう、二人とも。朝から仲がいいな」

 

 悩める一刀の前に現れたのは秋蘭だ。

 そして、彼女は何やら微笑ましい光景でも見るように柔和な表情でこう言った。

 

「ふふ、よかったな姉者。というわけで北郷、私のことも今後は"秋蘭"でいい」

 

 その直後、朝の静寂を一刀は驚きの絶叫で存分につんざくこととなり、何が"というわけ"なのかは今もってさっぱり謎のままだ。

 ――何度聞いても教えてくれないんだよな、二人とも……。

 ともあれ、今更考えたところで答えが得られるとも思えない。

 一刀は話を戻そうと、秋蘭に顔を寄せると小声で、

 

「いや緊張ってわけじゃないんだけどさ……ほら、あれ見てよあれ」

「ん?」

 

 と斜め前方からさっそく睨みつけてくる桂花を横目で秋蘭に示す。

 これじゃ息苦しくて堪らないとばかりに。

 すると秋蘭は頷きの動きで視線を戻し、しかし、答えは意外なもので、

 

「ふふ、あれは仕方ないな」

「えー、でも桂花の奴、息も忍んで屍のように動くなとか言ってくるんだぜ? 酷くない?」

「ん、そうか? 私も姉者には彫像になったつもりで動くな、とそう言ってあるぞ?」

「……そ、そうなんだ」

 

 道理でさっきから春蘭が石膏像のように、まばたきひとつしないわけだ。

 というか、

 ――秋蘭って、案外ヤバいんだよなぁ……。

 一時は"陳留の良心"とまで思っていたのに、今はもう知ってしまった。

 秋蘭も十分に異能者だ、と。特に姉絡みの話題ではハンパない出力を叩き出してくる。

 抱いてた偶像はガラガラと音を立て絶賛崩壊中だ。

 しかし、それでもなお肩落とす一刀はめげず、

 ――い、いいんだもん! これも打ち解けた証拠なんだもん! 駄目な部分も見せてくれるまでに心開いてくれたんだもん!

 頑なにそう己へ言い聞かせ、憧れに一縷の希望を求めた。

 じゃないと涙が出ちゃう。思春期の男の子だもん! と。

 ただ一刀だって、丸っと丸々夢見な男の子というわけではない。

 一刀は知っている。

 アイドルをどれだけ崇拝しようと、邪な願望は絶対に叶わないことも。

 もしライブ中に目が合うことがあっても、それは偶然以外の何物でもないことも。

 公然と恋人いない宣言をしているアイドルに限って、結局はどっかのイケメン俳優とデキ婚するのが世の常なことも。

 人はこうして憧れに破れ、少しずつ大人になっていくんだと薄々は感じ、

 ――心が童と書いて憧、だもんなぁ。

 そう言えば、と現世で愛読していた頭髪脱色剤マンガでも"憧れとは理解から最も遠い感情"とか言っていたことも思い出す。

 当時は、うわ、藍○やべえ! とか頭の悪そうな感想しか持たなかったが、今ならその意味が身をもってわかるというもの。

 ならばさっさと切り替えようと、一刀もそうは思うが、憂鬱にはもうひとつ別の理由もあり、

 

「俺、ここでも春蘭と同列扱いなんだ……」

「何だ北郷? 姉者と同じは不服か?」

「いやまぁ、不服っていうか……その、ね」

 

 不安なのだ。このカテゴリーに定着してしまうのが。是非やめていただきたい。

 すると秋蘭はチラっと姉を確認した上で、

 

「しかしな北郷。北郷はひとつ大事なことを見落としているぞ」

「大事なこと?」

「うむ。よく考えてみろ? 北郷は姉者と同列などではない」

「え……?」

 

 なぜなら、と一刀の肩を励ますように叩いて言った。

 

「屍は"元"人間だからな。一応、彫像より上位だと思うぞ?」

「――って、そこ!? つか全然嬉しくないんだけど! だって、どっちにしろ分類人間じゃないもの! あと、いくら姉妹でも扱い酷すぎだから!」

「ん? 当たり前だ。無茶な言いつけを守ろうとする姉者はとびきり可愛いんだぞ? ほら北郷、あれを見てみろ。……あぁ、まばたきを我慢するあまり乾燥であんなに目を充血させて……ヌフフ。どうだ?」

「――いや、そこでうっとり同意求められても知らないし! 知りたくもないし! っていうか、これ以上僕の大事なモノを壊さないでくださいお願いします!!」

「……大事な、はて?」

 

 意味を図りかね秋蘭は小さく首を捻った。

 と、ちょうどその時だ。

 儚い憧れを守ろうと頭を下げる男の後方。朱の扉が大きく開く。

 その派手な開音に、

 

「おっ、本日の主役たちのお出ましか」

「……主役?」

 

 ああ、と秋蘭は含みを持った笑みを浮かべ、

 

「彼女らも北郷と同じ"初"組でな。もっとも、それは参席者という意味ではなく、発議者として、だがな」

「へぇ」

 

 一刀も向ける視線の先。

 そこには緊張からか幾分表情が硬い女性が三人いた。

 まずは先頭。紫の長衣を開放的に着飾るは李典だ。

 現代の科学者をも思わせるその姿はなんとも大胆で、長衣の前面は全開。中も水着のような申し訳程度のインナーのみ。

 おかげで陳留一二と噂される豊かな双丘がゆっさゆっさと強調され、

 

「アカン沙和……、ウチもう緊張で胸がバーンて弾けてまいそうや!」

 

 一刀は正直、目のやり場に困る。もちろん心の中では感謝してます。だから遠くから聞こえる桂花の舌打ちも、色んな意味で聞かなかったことにしようと思う。

 ともあれ、今は、

 

「大丈夫なの」

 

 と李典に続く、于禁に注目にしよう。

 その風貌は端的に言い表すなら、茶髪、ミニスカ、ルーズソックスの三種の神器を備えし、ソバカス片おさげのメガネっ子。

 ――で、でたぁ後漢ギャル!

 一刀は正直、もうどこから突っ込んだらいいのかわかりません。

 それに、ギャルというジャンルはどうも苦手で。

 過去に苦い経験をしたのだ。

 それは高校一年の頃、渋谷ですれ違った見知らぬ黒ギャルに何の脈絡もなく、うわぁウケるぅ、なんかこいつの顔超テンション下がるんですけどぉ! と罵倒された。

 しかも運が悪いことに、現場を及川に目撃され大爆笑を誘い、おまけに翌日にはもうばっちりクラス中に拡散済み。

 朝教室に入ると"よう! ロストアタック! "の大合唱だった。命名は間違いなく及川だろう。

 そして仕舞には、廊下ですれ違う顔も知らない他クラスの奴からもロストアタック呼ばれるようになり、挙句、たまに間違えてボエミアタック言ってくる奴まで現れ……。

 それからというもの、一刀はDQ10談義が聞こえてくるだけで、無性に心がそわそわと、

 ――って、これもうほとんどDQ10のトラウマだよね! つかほぼ及川せいじゃねえか!

 閑話休題。

 于禁は李典の胸を半目でチラ見し、フン、と小さく鼻を鳴らすと、

 

「真桜ちゃんの胸はバ~ンじゃなくて、バイ~ンなの。前からなの。少しくらい……弾けて萎んじゃえばいいの」

「いやいや、弾けるんも萎むんも垂れるんもアカンし!」

「…………。けど、やっぱり沙和も胸はずっとドキドキしっぱなしなのぉ~。凪ちゃんは平気~?」

「って、ウチ無視かい!」

 

 そして、最後尾。

 李典のツッコミを華麗にシカトして、ああ、と頷きで続くのが、朝の中庭でもよく顔を合わす銀髪女性、楽進だ。ちなみに、しゃべったことはほぼない。

 ――だって楽進って溢れんばかりの武闘家オーラっていうか、ATフィールド全開っていうか、しゃべりかけんなコラ感が……!

 現に今もその佇まいは前二人と一味違い、強い気骨を纏っているようで。

 しかしそんな彼女にも、李典は気さくに肩をバシバシ叩き、

 

「かぁー凪はホンマ頼りになるで! ウチが男なら絶対惚れるわ。間違いない凪さまさまや! てなわけで、ウチは今のうちにちょい厠へ」

 

 と、すかさず、

 

「もぉ、駄目なの! 何にも"てなわけ"じゃないの! 厠はさっき行ったばかりなの! 真桜ちゃんは往生際が悪いの! ねっ、凪ちゃん?」

「ああ」

 

 発生した二対一の状況に李典はいじけたように口を尖らせた。

 

「しゃ、しゃーないやん生理現象なんやから! 別に逃げるわけやあるまいし、そないきつく言わんでも」

「ふぅ~ん?」

「うっわ、ひどっ! 信じとらんなその顔は! もう凪からも言うたってぇな! ウチはそんなちゃうでーって。真桜はやる時はやる女やでーって!」

「ああ」

「ほれみい! よっしゃ凪先生、ここはいっちょバシィっと頼むで!」

 

 ところが、だ。

 

「…………」

「あ、あれ?」

 

 待てど暮らせど、楽進からの援護は一向にこず。

 なんとも不自然な間だけが生まれ、不思議に思った李典が振り向けば、

 

「――あぁ~~っ!! ま、真桜ちゃん大変なの! よく見たら凪ちゃん死んだお魚さんみたいな目してるの! それにさっきから"ああ"しかしゃべってないの!」

「ああ」

「ほんまや!!」「なの~!!」

 

 お後が宜しいようで。

 これぞ陳留名物の三馬鹿――もとい、三羽烏。そのコント風味の会話をぽかんと一刀は眺めていた。

 なるほど。さすが曹幕下のムードメーカー。この賑やかしスキルは噂に違わぬ強烈さだ! と思いながら。

 なにせ登場からわずかで、やかましい! と桂花を怒鳴らせているのだ。驚異的な早さだ。完璧すぎる。

 もはや親近感すら覚える一刀はそっと隣に尋ねた。

 

「……ねぇ秋蘭。大丈夫なのあれ?」

「……まあ、その、なんだ。大丈夫だろう。きっと」

「そ、そっか」

 

 そして、これ以上を問うのはやめた。

 ――だって"きっと"のところで、秋蘭目逸らしたし。今のでまた親近感が強くなったし!

 それはつまり、三羽烏はオチスキルも卓越しているに違いないという証で。おそらく、聞けば聞くほど不安材料しか出てこないわけで。

 ――で、でも俺は応援するぜ! なんか頑張れ!

 と、その時。

 声無き応援を遮るように、再び大扉が押し開かれた。

 向ける視線。

 お次に現れたのは一刀もよ~く知る三人組。それは先頭から、

 

「お、やっほぉ一刀~♪」

 

 こちらに気づき、ひらひら手を振る霞に、

 

「恋殿ぉ、着いたのですよ? そろそろ起きてください」

 

 うつらうつらの恋の手を引く音々と、

 

「うぅ……、ぅん? 赤兎……?」

「――っ!? れ、れれ、恋殿何を! 音々は赤兎では――むぎゃっ!」

 

 寝ぼけて音々を力ずくで抱きしめる恋、のお気楽トリオだ。

 ――いや元気そうなのは何よりなんだけどさ、こういう場でくらいもう少しシャンと……。

 が、一刀は霞に小さく手を翳すだけで目を逸らし、

 

「うん、無理だよね知ってる。だってほら、緊張感の欠片もないもの」

「霞たちも今日が初参加なのだがな」

「ハハハ」

 

 笑っていると、あんたたち神聖な軍議を何だと思ってるのよ!? と桂花の怒号が飛ぶ。

 そこで思わず謝りそうになったのは、濮陽組としての仲間意識からなのか。それともすっかり染み付いてしまった条件反射なのだろうか。

 どちらにしろ碌な習性じゃないなと一刀は首を振り、そのままもう一度部屋をぐるり。見渡せば、空席はほぼ埋まっていることに気づき、

 

「では北郷、私もそろそろ戻ろう。あまり気張らずにな?」

「あ、うん。ありがと秋蘭。また後で」

 

 秋蘭も戻り、残る席は三つとなった。

 ――ってことは、あとは季衣と流琉と、それから――。

 と、その名を思い浮かべた瞬間。

 大扉は三度(みたび)開かれ、

 

「あっ」

 

 季衣と流琉をお供に思い人は颯爽と入室。

 

「おはよう。皆、揃っているようね?」

「「はっ、おはようございます華琳さま!」」

 

 そして一同は華琳を出迎えるため一斉に席を立ち、半テンポ遅れて一刀と恋が続く。

 登場ひとつで先程までの弛緩した空気は見事に塗り替わった。

 やはりさすがのカリスマ性。いるといないとでは皆の表情が大違いだ。

 あと、そんな中でもマイペースを貫く恋もある意味さすがです、と一刀は思う。

 ともあれ、華琳は最上座にゆるりと腰を下すと、

 

「では、始めましょうか」

 

 開始の合図を告げた。

 

 

***

 

 

 軍議は秋蘭の発議から始まりを得る。

 序列二位、右列先頭の席から中央の発議席へと移った彼女は、幾つかの資料を提示しながら、その報告を進めていた。

 

「――――と、以上のように新体制への進捗は概ね順調と思われます。とりわけ、霞の指揮する騎兵隊の錬度向上には目を見張るものがあるかと」

「重畳ね。皆も部隊再編は、我が軍において何よりの急務と心得なさい」

「「はっ」」

 

 そして参席者の賛同を耳にした華琳は自らの発言に思う。

 これまではあまりに歩兵偏重だった、と。また、そうせざるを得ない状況下にあった、とも。

 如何せん、騎馬の配備には時間と費用が嵩む。

 その上、問題だったのは、騎馬の用兵術に長けた者が臣下には少ないという点だ。

 そこに加えて、春蘭を筆頭に"自走でも十分"などという馬並の将官が横行したせいもあり、調練もままならない部隊を実戦闘に使えるわけがなかった。

 しかし今後の戦況を鑑みるに、それでは些か厳しいと華琳は見ている。

 それを特に痛感させられたのは先の濮陽、黒山党の乱だった。

 あの時など賊軍との遭遇戦に際し、全兵が一端下馬。戦闘はあくまで歩兵として行うというお粗末っぷりだった。

 相手が精も根も尽きた敗残兵だからよかったものの、そんな子供騙しが今後も通用する筈もない。

 ならば、

 ――そこを本当に理解して頷いた者が、この中に何人いるのかしら?

 華琳は疑問の瞳を左右に流し、ひとりひとり表情を窺う。

 と、理解云々以前の問題児が四人も見つかった。

 それは順に、まず左列先頭、春蘭。

 ――ええ。今日も綺麗に固まっているわねぇ、目真っ赤にして。……秋蘭に任せましょう。

 続きまして。右列二番、恋。

 ――か……、完全に寝ているわ。もう誤魔化す気すら感じられない。いっそ清々しいほど机に突っ伏して寝ているわ。……ま、まあ彼女も音々がなんとかするでしょうし。

 という訳で、本題はここから。左列三番と右列六番。霞と一刀だ。

 ――この二人……、さっきからニタニタニヤニヤ目配せして、明らかに私の話聞いてないわよね? ええ、だってさっきも返事してなかったもの。

 どうも二人は、霞が褒められたことについてのやり取りしているらしい。様子から察するにその内容は、

 

『すごいじゃん霞! 普段はお酒と怠けることばっかり考えてるのに見直したよ!』

『まあそれ程でも……へへ、ウチも結構やるもんやろ?』

『結構どころじゃないって! うわぁーなんか俺まで嬉しくなってきちゃった!』

『もう、一刀は大げさすぎやねんて♪』

 

 とまあ、こんなところだろう。

 しかも何が腹立つって、二人はこれでも隠れてやっているつもりなのだ。どう見ても丸出しのこれを、だ。

 その鈍感さは不真面目な態度よりよっぽど気にかかり、そこで華琳は、

 

「一刀」 

「え?」

 

 慌ててこちらを向く間抜けに、こう問いを投げつけた。

 

「では何故、騎兵が今後重要なのか、その理由を述べなさい」

「は、はい? いや何故って言われてもそれはその、あの……。つ、強いから?」

「二点」

 

 途端。評議の間が失笑でどっと沸く。

 いくらなんでも"強いから"は酷い。方々から笑いが起こるのも当然だ。

 ただ、そんな中でも桂花だけはクスリともせず、呪詛的な何かを物凄い速さで詠唱しているのは気持ちがわかるので放っておこう。

 それよりも、皆本当に理解して笑ってるのかと疑問の目を向ければ、やはり一刀以外にもわかっていない者もチラホラ。

 次当てられたらどうしよう!? みたいな顔を露骨にして、

 ――って、さっきから何なの! 皆どれだけ隠し事下手なのよ? 素直って言っていいの? 大丈夫なのこれ……?

 ともあれ、華琳は解を適任者へと委ねた。

 

「桂花」

「はい!」

 

 すかさず桂花は起立し、まず、こう述べる。

 

「恐れながら、今後騎兵が重要となる要因には、版図の拡大が密接に関係していると考えられます」

「続けて」

 

 畏まりました、と彼女は頷く。そして、長台詞の準備のためか、小さく喉を鳴らすと、

 

「これまで我が軍は、陳留を中心とする極限られた地域を支配下としてきました。ですが、それは濮陽の件で一気に拡大。今ではエン州の西側半分を自領とし、今後も覇道を邁進すれば、一層の拡張は必定と言えます」

 

 つまり、

 

「つまり、騎馬の重要性とはどっかの馬鹿が言う"強さ"などという曖昧なものではなく、偏に、その機動力にあります。領土が広大になればなるほど騎兵の速度が必要不可欠。もちろん、それは大局的な観点だけに囚われず、個々の戦局においても新たな可能性となる筈です」

「ええ、その通りよ」

 

 模範解答を受け、手振りで着席を促す華琳は改めて思う。

 濮陽にて并州出身の二将を得られたことは本当に幸いだった、と。

 并州とは涼州と並び、北方騎馬異民族との間に血塗られた歴史を持つ土地だ。必然的に、そこには騎馬文化が根付き、そこで生まれ育った霞と恋は騎馬に深く精通している。

 そしてその彼女たちが鍛え、率いるのが新生騎兵隊だ。それは近い将来、必ずや我が軍の大きな武器となり、

 ――ようやく我が覇道にも、機が……!

 黄巾の乱然り。反董卓連合然り。常に受身の中で対応せざる得なかった激動を、ついに、こちらから動かすことに繋がる。

 雌伏の時もいよいよ終わりが近いと言えよう。

 となれば華琳にはもうひとつ、どうしても確認しておかなければならない事があり、

 

「なら、霞」

「ぎゃー!? やっぱウチにもあるん!?」

 

 難しい質問ではない。そう思いながら、

 

「騎兵隊の実戦配備には、あとどれくらいの時が必要?」

 

 冬の到来までには間に合うのか。それとも来春以降になるのか。

 聞きたいのは具体的な時期だ。

 そこで取るべき戦略は大きく変わってくる。

 ――早いに越したことはないのだけれど、……どうなの?

 すると小難しい問いではないことに安堵したのか、霞はスッと席を立ち、

 

「まあ、どれくらいて言うよりは……」

 

 机に両手をつき、前のめりでこう答えた。

 

「いつでもええよ?」

「なっ、なんですって?」

「何てまぁ、馬の扱いゆぅんは演習だけをダラダラ繰り返しててもしゃーないちゅうか、さっさと実戦にほっぽり出してしまうんが一番っちゅうか」

「はあ……?」

 

 確かに実地とは効果的な訓練方法のひとつだろう。兵卒の成長には何よりの糧となる筈だ。その言い分はわかる。

 だが、それは経験を吸収できるだけの下地があっての話で、今はそれがいつ出来上がるのかと尋ねている。

 ゆえに彼女が問いの意味を履き違えていないのなら、

 ――額面通り、既に素養は出来上がっている、と?

 しかし、それもあり得ないと華琳は直ちに否定する。

 霞が赴任して、まだひと月足らず。いくらなんでもそんな短期間で馬上の戦闘経験もない素人集団が、一端の軍隊として機能するとは考えにくい。

 ――それなら、たとえ素人集団であっても、自分が率いさえすれば相応の形になるとでも言いたいわけ?

 もしそうならば、法螺とも驕りとも取れる発言だ。華琳の瞳が俄かに色を変える。

 ところが、当の霞はなんら物怖じすることなく、それどころか、より挑発的に身を前へ迫り出すと、まるでこちらを試すようにこう言ってのけた。

 

「んでもって、それを出来るんが騎馬の魅力で本質や。だったら、あとはどう戦術に組み込むかの問題、ちゃうん?」

「…………」

 

 そしてその意味を華琳は瞬時に理解し、

 ――なるほど……。興味深い発想だわ。ふふ、一本取られたわね。

 結んだ口元には三日月を作り、

 

「一刀」

「――ちょ、また俺!?」

 

 抗議は無視で用件だけを告げた。

 

「では霞の言う騎馬の本質とは何か述べなさい」

「くっ、けど懐かしいなこの感覚……! うわ、今日俺の出席番号と同じ日じゃん! 宿題全然やってねーよ的な――って、すいませんでしたすぐ答えます! だから睨まないでごめんなさい! で、……問題なんだったっけ? ああ、馬の本質? そう本質だ……だからえっと、つまり、あっはい! 足が早い!」

「二点」

「ちくしょう!」

 

 そしてまたも沸き起こる失笑の渦に華琳は思った。

 ――よ、よくこの点数で悔しがれたわね……!

 ひょっとして彼は五点満点とでも思っているのだろうか? と。

 しかし、もしそうなら、こんなにも笑いが起きることもないだろうし、何より、こんなにも壮絶な早さで桂花が舌打ちを連打することもなかっただろうに。

 まあ、どうあれだ。

 

「誰が騎馬の特徴を答えろと言ったの? 尋ねているのは本質、もう少し思考を掘り下げなさい」

「いや、掘れ言われても……」

「なら本質を本能と置き換えてみたら、どう?」

「本能……」

 

 と、その時。

 あっ! と小さな閃きの合図が再び上がる。

 ただしその声の出所は、本能……寺? とか不可解な呟きをしている馬鹿ではなく、

 

「流琉。着想を得たのなら遠慮せずに答えてもいいのよ?」

「――い、いえ! わ、私はそんな、あの……」

「大丈夫。安心なさい。もし間違えても、あなたを笑ったりする者は誰もいないから」

「――なんか俺と扱い違くね!?」

「「ダマレ」」

 

 ちくしょう! と約全員の総ツッコミに不貞腐れる男の向かい。

 流琉は気恥ずかしそうに椅子を引く。

 それから、俯き加減で躊躇いがちに、

 

「騎馬の本質は、その……に、逃げること、だと思います!」

 

 そのなんとも愛らしいモジモジっぷりに一同はほっこり。

 もちろん華琳も優しい微笑み携え、

 

「ええ正解。なら流琉、それがどう霞の発言に繋がるのかは答えられる?」 

「え、えっと……、あ、は、はい! それは、騎馬の本領は本質である逃げることで、ですから、その、退却戦にこそ得られるものがあると霞さまはおっしゃっている、と……」

「ふふ、流琉には百点をあげましょう」

「やったぁ!」

 

 が、やっぱり謙虚な流琉は、あっ、と瞬時に喜びを翻し、

 

「――で、でも! 答えに辿り着けたのは華琳さまや兄さまのおかげでっ!」

「あら。だ、そうよ? よかったじゃない。二点の、に、い、さ、ま?」

「うぉい! いい加減にしないと、俺泣くぞ!」

「「ナケ」」

 

 こんちくしょう!! と、もはやお約束の笑いに華琳は思った。

 こんなにも和やかな軍議は初めてだ、と。

 新将を加え、変化が生じつつあるのは軍容に続き、幕内の雰囲気も同様らしい。

 まあ騒々しいと紙一重のこれを、前進と捉えるか後退と評するかは悩ましいところだが。

 それでも、

 ――ええ、悪くないわ。

 皆が生き生きと意見を交わせるのなら、やはり好ましいことなのだろうと華琳は思う。

 大陸の現状は伝統と言えば聞こえはいいが、格式や体裁ばかりに気を取られ、予定調和と思考停止に陥っているとも言える。

 そんな醜態に比べれば、

 ――多少の行き過ぎが何よ?

 むしろ熱を帯びる論議は望むところで、時勢とは生きた言葉にこそ宿り、華琳が求めるモノもまた現状維持ではないのだ。

 ゆえに華琳はその名を呼ぶことにした。

 賑やかな部屋の中で、こちらの意図をいち早く感じ取り、ひとり真剣な眼差しの彼女を。

 

「では、続いて桂花。霞の提案も含め、あなたの報告を聞くことにしましょう」

「は、はい!」

 

 次の。

 外の変化について議論を移すために。

 

 

***

 

 

 資料を抱え発議席へと移る桂花は、逸る気持ちを宥めるように吐息する。

 ――いい? ここからが勝負よ。落ち着いてやるのよ桂花!

 彼女はこの機会に人一倍賭けていた。

 ひとりの馬鹿男が登場して以来、やる事為す事すべてが空回りに終わってきた彼女にとって、この軍議の位置づけは相当な高さにある。

 今日だけは失敗できない。何が何でもお褒めのお言葉を頂戴したいと、その意気込みには執念すら滲ませている。

 よってそのための努力は並々ならず、徹底した脳内模擬によりここまではほぼ想定内の流れだ。

 だから、

 ――あとはこの報告を練習通りにこなすだけ――!

 思い、桂花はさっそくと正面へ顔を向ける。

 が、その時。

 それでは、と第一声を放とうとした矢先に、

 

「待って桂花。どうせならまず、現在の大陸情勢から話して貰える?」

 

 と、完全に出鼻を挫かれる形で、いきなりの注文が入ってしまう。

 しかし今日の桂花はこれくらいではまったく動じず、

 ――これは、第二十七の甲っ……!

 恐ろしいことに彼女はこの展開すらも読みきっていた。

 主がわかりきった質問や説明の補足を、流琉や季衣の後学のために敢えて求めることはしばしばある、とばっちり検討済みだ。

 ただし、

 

「その方が、あなたの可愛い教え子にもいいんじゃない?」

「うぐっ……」

 

 今回はどうやら変態含みの冷やかしが本命らしい。

 ――ああ、もうなんて忌々しいの! 軍議が終わったらどうしてくれようか、あの馬鹿……!

 ともあれ、畏まりました、と返す桂花は、机上より折り畳まれた白布を手に取り、皆が無理なく見える位置まで下がると視線を馬鹿に向け、

 

「……ちょっと。ここきてこっち持って」

「え?」

「早く!」

「は、はい!」

 

 そのまま布の左端を渡し、逆端を頭上へ持ち上げながら歩き広げる。

 するとそこには幅二丈(約五メートル)、高さ一丈弱の桂花お手製、巨大な大陸全土の簡略地図が張られる。

 そして彼女は空いた左手に、長さ一尺ほどの指し棒ならぬ指し文鎮を握ると、

 

「それでは、我々を取り巻く大陸の現状から説明させていただきます」

 

 即、始めた。

 

 

***

 

 

 大布を掴み上げ、回り込むように覗く一刀は、桂花が地図のほぼ中央を指し示すのを見ていた。

 彼女は"陳留"と書かれたそこを、文鎮の先端が描く楕円で囲み、

 

「まず我らが本拠地はここ。エン州の西端、中原の中心に位置する都市、陳留です」

 

 続いて文鎮はやや右上へスライド。

 

「そこから北東。濮陽にて先頃、東郡太守・王肱が賊軍に敗れ逃亡。華琳さまがこれを代わり、かの地を治めることになります。さらに、以前から水面下で交渉を進めていた済南郡、山陽郡、任城国もこの機に相次ぎ庇護下へ。これにより、現在の支配域は陳留郡と合わせ四郡一国。東平国以東を治めるエン州刺史・劉岱と州を二分する形となっています」

 

 と、そこで桂花は一度言葉を止め、新たな国境線の輪郭をなぞり縁取った。

 その様子を静かに見守る一刀は、

 ――そう言えば……俺、こういうこと何にも知らないよなぁ。

 いくら環境の変化についていくだけで一杯一杯だったにせよ、あまりに無知だとそう思う。

 それにしても、まさか天下の趨勢と正面から向き合う日がこようとは驚きだ。

 なにせそうなったのは唐突で、ほんのひと月前の話。

 それ以前は現世に戻ることだけをひたすらに求め、天の御遣いと呼ばれることに忌避感を覚えていた時期だ。

 こういった話題は意識的に避けることはあれ、関わることなどありはしなかった。

 だが、もう違う。

 今はそうもいかない。目を背けては絶対に駄目だ。さもなくば、

 ――あとで桂花に何されるかっ……!

 きっとそこには地獄が待ち受けていることだろう。どんな仕打ち受けるのか。想像するだけでそら恐ろしい。

 ただ、それとも別に、必要なことだとも一刀は思う。

 ――乱世を終焉を望むなら、さ。

 掲げる志の実現には少なからず知っておくべき知識だろう。

 その具体的な方策や、明瞭な己の立ち位置などを抜きにしても、だ。

 だから、一刀は真剣な表情で桂花の一挙手一投足に注視し、一言一句も聞き漏らすまいと身構え、そして、あることに気づかされる。

 

「しかし、現状の評価を僭越ながら述べさせていただのなら、我らは未だ小国。戦況は一切の予断を許しません」

 

 それは、大陸が途轍もなく広大だということだ。

 確かになぞる新領地も以前と比べ、三倍ほどに膨れ上がっているのはわかる。が、それでも大陸全土からしてみればちっぽけなものでしかない。

 桂花の言葉通り、その桁外れな規模は地図上で見てみれば一目瞭然。このすべてを曹の旗印で塗りつぶすのは、さぞかし遠い道のりだろう。

 ――千里之行、始于足下。千里の道も一歩から、か。

 先日読んだ『老子』の一節を一刀は思い、そして、聞こえる説明もこう続く。

 桂花はエン州の東半分を指し、

 

「目下のところで言えば、エン州の平定が第一でしょう。覇道を進むべく確固たる地盤と明確な地位を得るためには最優先です。ですが、そこだけに注力するわけにはいきません。ご覧の通り、我らは大陸のほぼ中央に位置し、四方を他勢力に囲まれているのですから」

 

 と、文鎮の先は地図布を撫で下り、エン州の南に隣接する地帯を突く。

 示す文字は"豫州"。まずは、と前置き、

 

「我らにとって直近の脅威と言ってもいい存在。豫州刺史・袁術です。知っての通り、かの者は先の三公、司空・袁逢の娘子にあたり、その名声は官界、財界を問わず絶大。今や袁術の影響力は豫州だけに留まらず、さらに南方の揚州や荊州の北部にまで及び、現有国数は中原随一と言っても過言ではありません」

 

 地図上には袁術の支配域としての大きな円が描かれる。

 自領と見比べれば、

 ――軽く、五倍はあるな。

 無論、面積比が単純な戦力比となるわけではなかろう。が、あの華琳マンセーの桂花が脅威とまで言うからには、そう見ておいた方がいいだろう。

 しかし、そうなるとだ。

 逆に、一刀にはある違和感も生じてしまい、

 ――袁術ってたしか……、勝手に帝位を僭称しだして、周囲からフルボッコくらって、んで、最後はハチミツ舐めたいとか言いながら死んじゃう人、だったような……?

 そう。正史での袁術の名に覚えはあっても、その功績についてはほぼ記憶なし。どころか、その名で想起されるのはどちらかと言えば残念枠に分類されるような人物像で、英傑と呼ぶには些か不足している。

 ――なら、やっぱ正史とは全然違うのか? いや、でも俺の記憶違いって可能性も普通に……。あーくそ、三国志系ももっとやっときゃよかった! 信長さんが野望しぎるから悪いだよ!

 が、悪いのはどう考えても一刀の頭だ。

 話も脱線するうち先へ進んでおり、おかげで、

 

「――んっ、ンンっ! すみません華琳さま。ちょっと喉の調子が、ゴホ、ゴファ!」

 

 と、わざとらしい咳払いに注意され、しかも一刀にはそれがこう聞こえるのだ。

 

『何もっさりもさもさしてんのこの馬鹿変態埋めるわよ! 誰のせいでこんなまどろっこしい説明してると思ってんの、アァ!?』

 

 もう調教の賜物ですよねこれ。

 ともかく、一刀は、やばい! と視線を戻した。

 すると話題と文鎮はとっくにエン州の左面、"司隸"の文字上に移っており、こちらの耳目を確認した桂花は意味深長にそれを告げた。

 

「続いて西。ここは漢の都・洛陽にして天子さまの御座す地、……だった場所です」

 

 

***

 

 

「……洛陽に、天子さま、か」

 

 

 隣にも聞こえぬほどの小さな声で、そう呟くのは霞だ。

 随分と前から傾聴を放棄していた話の中に、しかし、ついと聞き流せない言葉を彼女は拾ってしまい、

 ――懐かしいって思えてしまうんは、心の整理がついたからなんやろか。それとも、ウチが変わってしもたってことなんやろか。

 わからない。

 どうなんやろなぁ、と霞は視線を落とす。

 ほんの数ヶ月前までは、そこが己の居場所だった。

 遡るのは霊帝崩御の頃。

 即位された献帝はこれまだ幼く、それを支える後見職として太師が任命されることになった昨春のことだ。

 そして、その選任にあたり、黄巾討伐での功績と何より人柄を買われたのが、

 ――并州刺史の、月やった。

 当然、月はこれを快諾。霞も上洛に同行し、初めて目にする漢の都は何もかもが煌びやかに華々しく刺激的で。

 堪らず居並ぶ出店を恋と二人、片っ端から飲み歩き、ツケがばれて音々と詠にド叱られたのはいい思い出だ。

 また、肝心の献帝が超のつく人見知りで、自分たちの中では月にしか懐かず、おかげで詠と献帝の間では毎日のように月の取り合いが勃発。

 そんな争いをなんだかんだ宥め、時に囃し、あるいは加わり、そうして笑いを生むのが霞の役になっていき、

 ――楽しかったなぁ……。

 それはとても穏やかな時で。

 武人としては温い感覚なのかもしれないが、こんな日々も悪くないとそう思っていた。

 しかし、腑抜けた願いはあっさりと夢に散る。

 季節がひと巡りすると、終わりは呆気なく訪れたのだ。――反董卓連合によって。

 その捏造と策謀が渦巻く権力闘争に敗れ、多くを失い、皆バラバラになってしまった。

 霞、恋、音々は華琳の下。月、詠は劉備の下。

 そして、天子・献帝は、

 ――今も……、行方知らずのまんまや。

 おそらくは敗戦の混乱に乗じて、人知れず城外へと脱出を謀ったのだろう。

 しかし、その安否は未だに誰も掴めていない。

 当時の連合も名目は"暴政からの民と帝の解放"だっただけに、この時点で大義なく。むしろ、幼帝の政治利用を画策していたであろう諸侯は王権の喪失を互いの妥協点とし、次々と領国へ帰還。

 これにより、天を失った朝廷はもともと弱まっていた権威を完全に失墜させ形骸と化す。

 結果、王朝の終焉は飛躍的に加速し、帝は消え、民は戦禍に疲弊し、国は荒れ、洛陽に残ったものは中身のない張子の都だけ。

 今や司隸という地は、なまじ諸侯の介入を拒む土地柄だけに、ならず者の温床と成り果てている。

 ――ホンマ笑わせよる。これの、どこが暴政からの解放やねんなッ!

 だが、強い憤りの裏側にも、霞はわずかな希望を持っている。

 実に皮肉的なことではあるが、そんな無法地帯だからこその活路があるのだ。それは、

 ――協チンはたぶん無事や。なんたって、あの思い出すだけでもめっちゃ腹立つアレが傍におる筈やからな……!

 その人物の名は張譲。献帝と共に行方知れずの大宦官だ。

 特徴を挙げると、

 

 ・顔は美形

 ・背は高く痩せ型

 ・性格はゴミ

 ・というかクズ

 ・人を人とも思わぬ外道を極めし外道

 ・卑劣も卑怯も何でもござれの下衆

 ・一日一刻以上一緒にいるとたぶん狂う(怒りで)

 ・とにかくいけ好かない

 ・シバきたい

 

 とまあ、見事なまでに最低の輩だ。

 しかし、これまた腹立たしいことに頭のキレと口達者ぶりも相当なもので、何より、献帝をまるで我が子のように溺愛していた。

 ゆえに信頼とは少し違うが、ひとまずは張譲に任せておけば問題ないと霞は考えている。

 アレにとっては今の司隸の方が何かと好都合やろうし、アレが献帝を危険な目に遭わすわけがないし、アレならどんな姑息な手を使うても元気でやってる筈や、と。

 ならば、

 ――ウチは、ウチの筋を通さんとな……!

 変わるモノにも。変わらぬモノにも。どちらにも。

 霞にはしかとつけねばならない結末があり、見届けるべき決着がある。

 それを再確認した彼女は、ああ、と力強く顔を上げた。

 そして、呼応するかのように桂花もその場所を指し、

 

「――それから昨今。新たな問題として浮上してきたのが、ここ。エン州より北の動向です」

 

 視線は地図上"冀州"の文字に注がれていた。

 

 

***

 

 

「東郡の併合により新たな国境線となった冀州。その地を治めるは冀州刺史・袁紹。その陣営に、近々にも大きな動きがありそうだと、細作より報告が挙げられています」

「麗羽の標的はさらに北。幽州ね?」

「はい。その幽州刺史・公孫賛は易京城にて篭城戦の構えを見せているようです。となれば、いくら彼我の兵数に分のある袁紹軍といえ、かの大要塞を攻略するのは至難でしょう。どちらが勝つにせよ長期戦は必至かと思われます」

 

 と、ここで、話の展開を追う一刀は二つの思考を得た。

 ひとつは袁紹という名について。

 彼女には一刀自身も散々な目に遭わされた上、霞たちの仇とも言える相手だ。感情がすんなりとは流してくれない。

 さらに地図上、示される易京の位置は平原から十分に近い。その地で大規模な戦闘が起こると聞かされれば、

 ――大丈夫かな、じいさんも椿も街の皆も……。

 たったひと月で、あの日々が随分と遠い過去にも感じられる。

 大げさかもしれないが、郷愁と言ってもいいのだろう。

 何の繋がりも無かったこの世界で、一刀にとって初めて帰る場所となったのは、やはり、そこなのだから。

 そして懐かしいと言うならもうひとつ。

 それが二つ目の思考で、

 ――公孫賛。たしか劉備さんたちが会いに行くって言ってた人、だよな? 

 ならば、大戦の一翼に彼女らの名も連なる可能性は低くないだろう、と一刀は推測していた。

 ただ、その仮定にはそもそもからして根本的な誤りがある。それは、

 

「それと今朝方入った情報では北の袁の動きに対抗するよう、南の袁にも動きがあったようです。なんでも一方的な降伏勧告を、東。徐州刺史・劉備に送りつけ、事実上の宣戦布告を行った模様です」

「――なっ!?」

 

 そう。彼女は今、徐州にいる。さらには刺史の位に就いているのだ。

 期せずして飛び込むその知らせに、自分でも判断つかない感傷で一刀は胸が締め付けられる。知らず知らずに力の籠もる手はこちら側へと地図布を引き寄せてしまい、

 

「――ちょっ、ちょっと! 何引っ張ってんのよ! 痛いでしょ!」

「あっ……。ご、ごめん」

 

 と、我に返っても、心に浮かぶのは幽州での記憶で。

 ――あれが全ての始まりだ。あの出会いがなければ、間違いなく今はなくて……。

 そして、色褪せぬ追憶の恩人たちが苦境に立たされていると聞けば、

 ――助けたい……。

 一刀は純粋にそう思った。俺が力にならなきゃ、とも。

 ただしこれは、いつものお人好しの志向ではなく、もっと単純な、極めて個人的な欲求から捻り出された感情だった。

 ――俺は、彼女たちにもう一度会って、謝らなきゃいけないんだ……! 恩返しや負い目の情などすべてをひっくるめて一刀は望む。

 彼女たちとはきちんと向き合いたい、と。

 もう一度、ありがとうと伝えたい、と。

 それ以外のことは何も考えていなかった。だからだろう。

 不意に地図を持つ手は布ごとグイっと反対側から引かれ、

 

「ねえ。私ぼけっとするなって言ったわよね? じゃあ聞いてた今の? なら私が話したこと言ってみなさいよ、ホラ? 何、どうしたの? 殺されたいの?」

「――ぃ!?」

 

 半目の桂花は、完全にマジでした。

 

 

***

 

 

 桂花マジギレの後。軍議は平和裏に進む。

 というか、部屋にあるのは桂花と華琳の声だけで、時折秋蘭が混ざるくらいなもの。話は内輪だけで加速度的に進行し、残りはすっかり傍聴者となっていた。

 ただ、そんな中にも異物がひとつ。見えない何かと死闘を演じている男がひとり。目を血走らせ、必死に地図を睨む北郷一刀だ。

 

「必死やな……」

 

 なんとも鬼気迫るその姿に、真桜は苦笑い。

 さっき裏で脅されたんやろな、と。わかる、よぉくわかるで、と。

 なぜなら、自分もよく同じ目に遭うからだ。

 ――ウチの場合やと、だいたい凪に気弾チラつかされるんやけど……、桂花さまならもっとこう、心をぐりんぐりん抉り回すようなえっぐいのしそうやなぁ。うん。

 所謂、似た者同士だ。

 真桜は彼を同じ芸風と認識している。ただし、

 ――ウチのが圧倒的に笑いの感性上やけどな!

 は、さておき。

 真桜だっていつまでも悠長に人間観察やっている場合じゃなかった。

 彼のおかげで幾らか和らいだ緊張感も、熨斗(のし)つきでどしどし復帰しつつある。

 真桜は間もなくだろうと雰囲気的に察していた。

 前方、桂花さまの話が終わるのが、だ。

 内容? そんなものは知らない。本番間近のこの状況で他人の話なんて耳に入るわけがない。右から左にツーツーの筒抜けだ。それに、

 ――ウチはもとから真面目な芸風ちゃうし!

 と、そう思った時だった。

 視線から地図布が空気を含んだ衣擦れの音と共に下ろされ、

 

「それでは、以上で報告を終わりにさせて頂きます」

「ええ、ご苦労さま。皆も引き続き周辺国の動向には細心の注意を払い、どんな些細な動きも見逃さず献策に活かしなさい。いいわね?」

「「はっ」」

 

 一同の声を締めに、桂花さまの議題はついに終了する。

 普段なら、やっと終わった。とか、何で桂花さまの話はいつも無駄に長ったらしいんやろう? とか思うところだろうが、この時ばかりは惜しい。今日だけはもっとしつこくあって欲しかった。

 だが、発議は間髪入れずに次項へ送られてしまい、

 

「では、次が本日の最後ね」

 

 主は告げた。

 

「凪、真桜、沙和、前へ」

「――!!」

 

 その瞬間、鼓動は最高潮の高鳴りを示し、全身から嫌ぁな汗がじわり。

 特に汗ばむ胸の谷間をひと拭いすれば、何処からともなく舌打ちが聞こえた気がする。それも複数。緊張ゆえの幻聴だろうか?

 ともあれ、真桜は二人と顔を見合わせると、ガッチガチの身体に資料を抱えて発議席へ。

 凪を中心に、沙和を左、右に己を置く。

 これで準備も整った。

 あとは始めるだけ。

 もう待ったなし。

 しかし、やはり内心では、

 ――嫌やぁああ! ほら、めっさお腹痛いし! もっさ帰りたいし! ウチなんかお部屋で絡繰りいじり倒してればええやんかぁ!?

 と技術職にありがちな、真の職人は口で語らず腕で語る的なアレが叫ばれていた。

 ただ真に残念なことながら、彼女は職人肌であっても、あくまで軍人なので、そこにお構いなんてありません。

 

「どうぞ。自由に進めていいわよ」

 

 ――うわああああん!

 主は無慈悲に開始を告げた。

 始まる。

 もう始めざるを得ない。

 始まりが始まる。

 事ここに至れば、さすがの真桜も覚悟を決め、なのに、

 

「……ん?」

 

 隣では既に終わりを迎えていたのだ。

 

「凪どないしたん? 華琳さまが始めていいて言、――ッ!?」

 

 はい。進行役の凪さんが、です。

 彼女は呼びかけに応じるどころか、ウンともスンともせずに、ただじーっと一点を見つめていた。

 前方を。遙か遠くを。此処ではない何処かを。

 要するに、

 

「――た、大変なの! 凪ちゃん極度の緊張で立ったまま気を失ってるの! すごく器用なのぉ!!」

「――う、嘘やろ!? んなアホなっ! 凪がこの程度でっ、こんな途中で投げ出すようなボケかますわけが――って、自分だけずっこいやん!!」

 

 逃がすか! と真桜は凪の肩を掴んだ。

 戻って来いと切に願い、もしくは、自分も連れて行けと激しく揺する。

 が、いくら揺すっても彼女の虚ろな瞳はガクンガクンするだけで、一向に復活の兆しを見せない。

 その様子に呆れる主もついに視線をこちらへ振り、

 

「……もういいわ。真桜、代わりにあなたが進めなさい」

「――ちょえええっ!? そ、そないなこと急に言われたかて!」

「――ガンバなの、真桜ちゃん!」

「げぇっ!?」

 

 すかさず沙和も応援するフリして、机上の資料をこちら側へズイと押し付けてきた。

 となれば、合わせて動く衆目も己に感じ、

 

「うううぅぅ、なんでウチが……」

 

 決定です。

 泣き言を零していても何も始まりません。話を進めない限り永遠にこのままだ。

 しかし、いざ進めようにも何からどう話せばいいのやら。

 とりあえず眼前の資料群をガサゴソ漁ってはみても、あー、とか、えー、を繰り返すのが関の山で、

 ――せ、せめて、練習しとくんやったあああ!

 激しく後悔するのは昨日の出来事だ。

 それは警邏からの帰り道のこと。 

 

「なぁ真桜、沙和。城に戻ったら三人で明日の予行練習しておかないか?」

 

 そう誘われたのだ。凪に。

 明日はいよいよ本番。その提案は至極当然で、考えるまでもなくすべきことだった。

 ところが、真桜は先日購入したばかりの絡繰り模型、"光武帝ご愛用! 衝車・天二式 1/10型"をどぉ~してもいじりたいがため、沙和と二人して、

 

「練習? そんなんいらんて、凪なら平気や! 絶対完璧や!」

「そうなの! 凪ちゃんなら心配ないの! 大船なの!」

「いや、でも……」

「大丈夫や!」「なの!」

 

 と、こんな感じで断わってしまう。

 仮にこの時、嫌々でも練習をやっておけば凪の昇天は防げたかもしれないし、少なくとも、進行の段取りをひと通り知ることが出来ただろうに。

 ――せやかて、ウチの天ちゃん完成間近やったんやもん! 辛抱できひんかったんやもん! しゃーないやん!

 しゃーなくない。

 いつまで経っても始まらない不穏な空気に、いよいよ外野もざわめつき始めている。

 拙い。

 刻一刻、拙い。

 真桜は焦る。周囲も戸惑う。

 混乱の相乗効果だ。焦りはさらに募り、戸惑いを生む。

 そんな居たたまれない空気感に、真桜はもう大扉をブチ抜いてでも逃げ出したい心境で。

 ――せやからウチには無理やってぇええ! 助けて天ちゃああああん!

 だが、いくら願ったところで自室から天二式が駆けつけるわけもなく、それで状況が好転する筈もなく。

 そればかりか、真桜の援軍要請に応じたのはあろうことか、

 

「もういいわ」

「え? か、華琳さま?」

 

 緊急事態だ。

 正面。主は既に席から立ち上がっていた。

 慌てふためくのは真桜のみならず、部屋中が一瞬で静まり返る。皆一様に息を飲む。代わりに床を打つ足音だけが怖いほど鳴り響く。

 一歩、また一歩と。

 静かに、しかし、確実にそれはこちらへと近づき、

 ――え、えええっ、え、嘘? 何これ? ちょ、どないせいと!? 

 そして足音が止まった。

 机を挟んだすぐそこに、主は立っていた。

 どつかれる!? と反射的に思った真桜は思わず目を瞑り――、

 

「貸しなさい」

「ふぇ……?」

 

 ところが、だ。

 次の刹那に訪れたのは頭を(はた)かれる衝撃でも、頬を打つ刺撃でもなく。真桜が得たのは、手汗の酷い掌から資料を丸ごと掻っ攫われる感触とその声だけ。

 ややあってから、恐る恐ると薄っすらまぶたも開いて見れば、主は黙々と資料に自ら目を通していた。

 つまり、彼女は叱るために席を立ったわけでも、ましてや、張り倒しに来たわけでもなかったのだ。ただ単純に、

 ――この方が手っ取り早いとか思て……?

 その結論に達した真桜は深く吐息。

 紛らわしいにもほどがあるが、とにかくよかった、と。雷が落ちなくて助かった、と。

 それは隣の沙和も周囲も同様だったのだろう。

 真桜に合わせるよう、嘆息が一斉に鳴った。

 部屋が安堵に包まれ、このまま一件落着にも思われた。

 が、

 

「…………」

 

 どうやらそうもいかないらしい。

 弛緩する空気の一方で、眼前。主の資料をめくる動作は次第に間隔が狭まっていく。

 表情こそ変わらないものの、むしろ、そこだけ張り詰めていく。

 続く無声の時に緊張感も再び最高潮へ到達する。

 そして、その沈黙は思いもよらぬ一言で破られることになった。

 紙擦れ音が次々と零れるのを契機に、散らばる資料を物ともせず、

 

「何これ?」

 

 ただ真っ直ぐ、蒼穹の瞳がこちらを見据えて、こう評価を下した。

 

「使い物にならないわ。こんなもの」

「――!?」

 

 さらに、

 

「どれもこれも具体性に乏しく素案とも呼べやしない。誰が落書きを寄越せと言った? それとも何、これがあなたたちの精一杯? 本当に全力の結果? そう胸を張れる?」

 

 だとしたら、と主は続く台詞を留めた。

 小さく一息を入れる。

 瞬考の空白。

 されど辛辣の雨は止むことなく、

 

「あなたたちは期待外れ。値しない人間よ」

「――――」

 

 それが軍議を締めくくる言葉となった。




21話読んでいただきありがとうございます。
いやーほんと更新遅くて申し訳ありません!

さて、今回の三羽烏登場で現時点での魏将は揃いました。
しかし、凪は登場回なのに回想を除けば、「ああ」しか台詞ないと言う……!
語弊のないよう言っておくと私は凪好きですよ?

では、引き続き22話をお楽しみ頂けたら幸いです。ええ、今日は2話UPなんで!

感想、ご意見お待ちしてます。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。