真・恋姫†無双 妄想伝   作:コイル

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第23話  悪夢のカタチ

 声がする。

 遠くから。あるいは、深くから。

 周囲に人はなく、その身は黒の海中にある。

 黒き海水は半透明で、不純物が遙かに濃いのか汚泥のように強い粘り気と弾性を肌に伝え、一度でも包まれてしまえば全方位の質量からまばたきも碌に出来ない。

 身体はただゆっくりと沈んでいく。

 深く深く堕ちていく。

 次第に海面から射す光芒も力を失い、深海の闇が訪れた。

 孤独な闇。静寂の黒。ここには何もない。

 しかし、声がする。

 遠くから。あるいは、深くから。

 分厚い黒の膜に阻まれているせいなのだろう。非情に聞き取り辛いが、僅かに聞こえる。

 "寄るな 消えろ 目障りだ"と。

 聞き馴れた言葉だった。

 幼少期、あの日を境に向けられるようになった言葉だった。

 世界は残酷だと思い知らされた言葉だった。

 そんな声が辺鄙なこの深海でも聞こえる。

 一条の光も届かない闇の底でさえ、自分は受け入れて貰えないらしい。

 理不尽だ。

 世界の在り方はあまりに歪。自分と他者の何が違うというのか。

 だが、その嘆きすら届かない。口は開かず。舌は動かず。喉は鳴らず。思いは決して言葉になりはしない。

 無力だ。

 自分はいつだって無力だった。

 "特別"になんて成り得なかった。初めから無理だった。自分は()()なのだから。

 そう思った瞬間、世界は突然に姿を変えた。

 映る色は紅。一面が血だ。

 身体中の穴という穴から血が一斉に吹き出し、黒の中を昇っていく。

 紅と黒は決して交わらず、水と油のように分離し、血痕だけが水泡のように浮かんでいく。

 そこでようやく気がついた。

 自身を覆うそれが海水などではなく、人の感情だということに。

 嫉み、僻み、侮蔑、中傷、差別。

 これまで幾度となく味わってきた人の"悪意"だということに。

 だから声がする。

 近くから。あるいは、浅くから。

 溢れ出る自分の紅から聞こえてくる。

 "下賎な血だ"と。

 

「――――」 

 

 そして、そこで夢は終わり。

 

「っ……」

 

 夢から醒めし者は、しばらく乱れた浅い呼吸を繰り返し、今のが夢であることを確信してから寝台を出た。

 

 

***

 

 

 北の大地に寒冷はひと足早く訪れる。

 秋も深まりし幽州南端、易京城には濃い朝霧が降りていた。

 浅い曙の中、白く浸透する霧の海は揺蕩(たゆた)いながらも地表を沈め、堆積する白幕からは城壁だけが半ばから突き抜ける。

 それは絶えず押し寄せる波頭のように。

 一重、二重、三重と連なり、外へと広がる城壁と霧の重層は全五段。一辺は最長で十五里(約六キロ)にも及ぶ巨壁で、さらに点々と立ち並ぶ城楼の数は三百を超す。

 その様相はまさに、雲海にそびえ立つ天険が如し。

 幽州南の守護を司る絶対の要塞は高峻にして、堅牢堅固なその威容をまざまざと顕示する。

 そして、そんな易京城のほぼ中心。一際高い楼閣の窓にはひとつの影があり、

 

「わぁ」

 

 と感嘆を漏らす者がいる。

 幽州刺史・公孫賛。真名を白蓮という女性だ。

 彼女は久々に見た悪夢のせいで最悪の起床を迎え、淀んだ空気を入れ替えようとしてその景色に出くわした。

 寝間着のまま、梳かれも束ねられてもいない桃色の髪を開け放たれた外気に流し、映る眼下の白景色と白ずむ吐息に彼女は呟く。

 

「……季節が変わる、か」

 

 冬の訪れは間近だろう。

 例年通りならあとひと月もしない内に、ここは霧ではなく雪の降り積もる厳寒の地へと変貌を遂げる。

 季節は移り、人の往来すら困難な停滞の時を迎えるのだ。さしずめ氷雪の牢獄と言ったところか。

 ゆえに、そろそろ本格的に冬支度をする必要があると白蓮は思った。

 火を絶やさぬための薪に油、兵糧の備蓄も増やさねばならない。雪かきの道具も倉から出し、増設中の城壁もそろそろ休止にした方がいいのだろうか。

 ――要相談だなぁこれは。

 白蓮は静かに窓を閉じる。思考に一区切りをつけ、まずは身支度を整えようと思い、しかし、その時だ。

 振り向きかけた視界の端に、白蓮はわずかな違和感を得た。

 今、無意識を流れる白景色の中に何か異物のようなモノが見えた気がして……、

 

「なっ――」

 

 不意に戻す視線は見つけてしまう。

 目を凝らした先。城壁連峰の向こう側。霧がかかる平野地帯のさらなる奥。

 そこには風が霧を攫うたび、白以外の色が微かに揺れていた。

 濃淡の切れ間から覗くは漆黒の旗。並ぶ敵影があった。

 

 

***

 

 

「――で、敵はどんな様子だ?」

 

 ここは中央楼閣の二階、謁見の間。四階の自室から今しがた到着した白蓮は素早く玉座に腰を下す。

 敵軍襲来により、城内は俄かに騒がしくなり、白蓮も内心は相当に浮き足立っていた。

 本来ならば君主としてもっとも平静でなければならない立場なのだが、今朝の悪夢も重なってか、そう意識すればする程かえって表情にはぎこちなさが出てしまい、

 ――どうなんだよっ……!

 白蓮は答えを求め、知らず知らずに平伏で控える二人の者を注視していた。

 正面。

 まずは向かって左、小柄な身体に白を基調とする身軽な戦装束と毛皮のモフモフ襟巻きを纏う桃色髪の女性が顔を上げる。

 

「いやぁ聞かれても。こっからじゃ霧もっくもっくで何にも見えねっしょ? けど、とりま大丈夫なんじゃねーっすかね。勘で」

「……勘?」

 

 白蓮を一瞬で呆れさせたその人物の名は厳鋼、真名を鬼灯(ほおずき)。白蓮に古くから付き従う腹心のひとりで、私生活でも実妹のように近しい存在だ。

 その一方、将としても頼りになり、こと騎兵術に関しては軍内随一の腕前を誇り、"白馬義従"を指揮する軍団長でもある。

 ちなみに、白馬義従とは騎兵の中から選りすぐった精鋭部隊につけられた愛称で、隊はその名が示す通り騎馬の毛色から始まり、馬具や武装に至るまで一式すべてを白で統一されている。白蓮一押しの演出だ。

 ちなみのちなみに。こだわりのあまり以前には、兵士の素肌まで白粉で染めたこともあったが、周囲から"これじゃ死霊の集団ですよ!"と大顰蹙(ひんしゅく)を買った経緯も。やりすぎた。

 ただ、その時でも隊長の鬼灯だけは例外だった。

 彼女だけは命令に従い、とういうかノリノリで白粉に塗れ、しかし、その性分はどれだけ白に装っても塗り潰せない黒、というか強烈な腹黒さで。

 今も向かって右、隣に控える朝服姿の男性へひと言。

 

「つーわけだからさ、おい根暗。オマエちょっと外行って、オレの勘があってるか確かめて来てくんね? 単騎で」

 

 すると、その売り言葉の先。細目をさらに細めた仏頂面がぬっと顔を上げ、

 

「……誰が根暗だ。貴様が行け。そして逝け」

「んだとコラー!」

 

 喧しい、と冷静に流すその男の名は関靖、真名を(あざみ)。公孫賛軍の軍師を務める者で白蓮が実兄のように慕う存在だ。

 その性格は鬼灯とは対照的に神経質そのもので、眼の下にはいつも大きな隈があり、徹底っぷりも尋常じゃない。以前の役人時分にはあまりの厳密さから周囲に酷吏(こくり)と揶揄される程だった。

 ただし薊の場合、一般的に酷吏と呼ばれる連中とは決定的に毛色が違う。

 彼は過度な法の遵守者であっても、法を後ろ盾に権威を振りかざすことも、より強大な権力へ媚びることも一切ない。それどころか、上役だろうが上官だろうがお構いなしのハッキリキッパリバッサリ派。

 おかげで本人にその気はなくとも周囲との軋轢が絶えなかったらしい。

 無論、その性質は今もしっかり継承されており、痩せ型の長身を起こした彼は何故かこちらを指さして、

 

「だいたい、アレでも一応は幽州の刺史なのだぞ? だというのに、なんだその言葉遣いは? 不敬罪で牢にブチ込むぞ下品女」

「――なっ、誰が下品だ! どっからどう見ても気品溢れまくりだろ!」

「……ほう。つまり、その今日に限って妙にめかし込んだ髪形は気品の現れだと?」

「っ、な、なんだよ! そうだよ! 文句あんのか!」

 

 いやいや、と薊は首を横に振る。ただ、

 

「ただ、一見邪魔以外の何物でもない溝鼠(どぶねずみ)の尾のような後ろ髪だな、と。もしくは己の投獄時に緊縛用として使ってくれという殊勝な――」

「お洒落だコラァアアア!! 誰が鼠に似せたり自分を縛る用にせっせと髪結うかっつーの! そんな後ろ向きな気品あってたまるか!」

「……そうか」

 

 薊はわざとらしく困った表情を作った。それから哀れむようような目つきで、

 

「だとするなら、どういうことだ? 私の知る限り、お洒落とは身なりを見栄えよく飾るための行為のはず。それを貴様は溝鼠……、ハッ! まさか精神修行……?」

「――どういう意味だオラァアアア!? フリフリだろが可愛いだろがボケッ!!」

「……ほう。なら私は承服しかねるが、仮にそれを可愛いと定義して目的はなんだ? 私は承服しかねるが、今頃になって色気づいたか? それとも、私は承服しかねるが、凡人刺史にせめてもの特徴を与えるため、その尾髪を手綱代わりに握らせて溝鼠愛玩として生きるつもりか?」

「――んなわかあるか!! つか、承服承服うっせえよ! もう気品もお洒落も関係ねえし、しかもなんで白蓮ねえさまにわざわざ変態属性を付与しなきゃいけないんだよバカ! んなもんは袁紹やら曹操にやらせときゃいいんだよ! あいつらは個性濃いから変態のひとつやふたつ――って、誰が凡人刺史だ! 指へし折んぞてめえ!」

「……は? 何を言う? 仕方なかろう。それが最適表現なのだから。貴様とて、我らの主は普通が普通を普通に着こなす至って普通の御仁だと理解しての上だろう?」

「――ハァアア!?」

 

 途端、鬼灯は飛び上がった。

 どうもここが我慢の限界だったようだ。怒りの気配を見るからに色濃くさせ、

 

「オマッ……! 人が大人しくしてりゃ舐めたことばっかほざきやがって……!」

 

 どこが"大人しく"なのかはさておき、鬼灯は爆発寸前だ。

 白蓮もよく理解している。

 自分で言うのは少々憚れるが、彼女は本当に慕ってくれているのだ。

 それは臣下としての忠義を超え、友誼や家族の絆に近いもの。有難い話である。

 とはいえ、これ以上の激化はやめてほしい。

 なにせ二人のじゃれ合いは本格化するととても手におえない。だからそうなる前に、

 

「そこまで! 二人ともいい加減に――」

 

 が、その瞬間。

 

「ふっざけんな!!」

 

 鬼灯は仲裁の声をかき消すように、いかり肩で空をかっ切る。力強く一歩を踏み込み、

 

「白蓮ねえさまが普通だぁ? んなもん――あっっったりめぇだろが!! むしろ普通だけが唯一の長所なんだぞコノヤロウッ! 全力で!」

「――全力なの!?」

 

 白蓮も思わず叫んでいた。いくらなんでも唯一は嫌だ。人として。全力で。

 ――だいたい流れ的にもここは否定する場面だよ!?

 が、そんな思いとは裏腹に、荒ぶる二人は主放ったらかしで喧々諤々おっぱじめた。

 それも白蓮の駄目なところを交互に言い合い、真に唯一の長所なのか否かを検証するという極めて非道な方法で、だ。だいぶ泣きたい。

 ――でも……。

 それでも。

 多少、いや、かなり行き過ぎなところはあっても、白蓮はこの仕打ちになんら悪意を感じていなかった。

 違うのだ。

 鬼灯も薊も少々意思疎通が下手なだけ。ちょっぴり人付き合いが不器用なだけだ。

 だから彼らは思ったことが素直に……、

 ――って、素直は駄目! 素直じゃ本音じゃん! なにこれ自虐!?

 ともあれ、それを侮蔑からでも(へつら)いからでもなく、ありのままに伝えてくれる二人の存在が嬉しくて。しかし、分不相応な身分に申し訳もなくて。

 ただ同時に、それこそが白蓮の描く天下図でもあり、

 ――王の器じゃない私だからこそ十分なんだ。それだけで。

 なぜなら幽州の王は時勢に抗う者であっても、世に覇を唱える者ではないのだから。

 天に掲げる志はあっても、その御旗は錦と呼ぶにはあまりに貧相で、往く道も天下ではない。

 されど胸には確かな使命を抱き、それはただ汝"普通"たれ。

 特別な何かを持たざる凡なる者でも、誰彼に虐げられることなく、ただ平凡な生涯を全うする。そんな極めて凡庸な願望なのだから。

 ――だから私は普通がいいさ。仮初めの王として、天下泰平へ導いてくれる真の強者が現れるその日まで……。

 それが、易京城塞と白蓮自身の存在意義だった。

 

 

***

 

 

 一方その頃。

 

「……よっし! 行こう!」

 

 遠くエイ州・陳留の地にも、朝からやたら使命感に燃えるひとりの男がいた。

 本殿食堂の入り口、意気込むのは一刀だ。

 城壁で交わした主従の誓いより一夜を明けたが、彼の胸には依然として煌々と高揚が灯っている。

 華琳の期待に応えたい。力になりたい。何かをしなきゃと心が急く。

 そんな感情の高ぶりから身体も逸り、今朝はいつになく早起きをしてしまい、いつになく熱心に剣を振り、いつになく腹が減り、いつになく早足で食堂へ向い――と、そこで思いがけない機会に遭遇した。

 部屋の片隅。人目を避けるように座る彼女たちを見つけたのだ。

 李典、楽進、于禁の三人組だ。

 昨日の軍議で盛大にやらかしたサポート対象がそこにいる。幸先のいいスタートと言えよう。

 が、状況はそう易しくもない。

 彼女たちは前日のショックをがっつり引き摺っているご様子。負のオーラをまだまだ絶賛拡散中で、会話もなく、覇気もなく、黙々と朝食をとりつつも強力な人払いの結界を展開中だ。十分な意気込みが必要なくらいには近寄りがたい。

 反面、そのおかげだろう。

 食堂は今、彼女たちの貸切状態にあり、接触にはやはりもってこいの状況で、

 

「……行こう」

 

 一刀は踏み出した。

 行く。

 向かうのは配膳所ではなく、まっすぐ彼女たちのもと。

 何をどうすればいいかなんてまったく考えていないが、まず行く。

 そして横並びの三人を対面に置き、一刀は言った。

 

「ここ、いいかな……?」

 

 

***

 

 

 突然の問いかけに対する三者の反応は、それぞれ三様のものだった。

 右の沙和は彼をチラリと見やるだけで食事を続け、左の真桜は溜め息の中、遊ぶ箸で惣菜をつつくだけ。

 そして、男の正面に座る凪は静かに椀を置くと、目線を伏せたまま、

 

「……席なら他にいくらでも空いていますが?」

 

 その声色に明らかな拒絶を籠めた。

 言葉こそ選んだものの、ほっといてくれという本音がありあり。許されるならそう叫びたかった。

 だが、

 ――言えるわけもない……。

 こんなんでも一応は自分たちと同じ華琳さまの直参。無礼があっては主に対する不敬だろう。

 それに、それはただの八つ当たりだ。

 凪にだってあの軍議以降、周囲に余計な気を遣わせてしまっていることくらい自覚していた。

 情けないことに年少の季衣や流琉にすら、である。

 だからこれ以上は些細な迷惑もかけるわけにはいかず、なら沈んでいないでさっさと行動で示すべきだともわかっている。

 が、それでも凪は感情をうまく切り替えられずにいた。

 どうにも実感が伴わない。

 失敗の実感。

 凪にはそれが抜け落ちてしまっている。なにせ、

 ――き、緊張しすぎで気絶って……。

 凪自身、未だに自分の不甲斐なさが信じられない有り様なのだ。

 振り返れば、華琳さまに名を呼ばれたことはハッキリと覚えていて。

 落ち着けと何度も自分に言い聞かせ、ぎこちない足取りでも発議席へ向かったのも覚えていて。

 開始を促され、気合を入れて返事をしようと思って。

 ところが摩訶不思議なことに、いざ渾身の返事をしてみれば軍議は終焉を迎えていて。

 評議の間は空席に変わり、何故か驚きの顔をした沙和と真桜だけが隣にいて。

 凪はわけがわからなかった。

 何が一体どうなったのか。中身が丸ごと飛んでいる。ただ始まりと同時に終わりが訪れ、そこに実感など生まれよう筈がない。狐につままれたとはこのことだろう。まさに化かされた心境だった。

 ゆえに凪の知る昨日の失態とはすべてが伝聞で成り立っている。

 あくまで人から聞いた顛末を想像しただけに過ぎず、何もかもが内側で燻り続けたまま。停まったままだ。

 これでは区切りをつけることはできず、それどころか主観なき過去は省みることも踏み出すことも叶わない。

 ならばこそ、凪は望んだ。

 ――今だけは、そっとしておいてくれ……!

 我侭は承知の上で、せめて自分なりの決着をつけられるまでは、と。

 だと言うのに、その領分に土足で上がり込もうとするこの男は一体何のつもりなのか。返答次第では気弾を叩き込んでくれようか。

 と、そんなことを思っていると彼はニヘラと馴れ馴れしい笑みを見せ、

 

「確かに空いてるんだけど、あのぉ、そのほらっ、折角だし? ちょっとお話とかしてみたいなーなんて、ハハ」

「――っ」

 

 瞬間、反射で本当にブン殴りそうになるが、ギリギリで堪えられたのは日頃の精神鍛錬の賜物だろう。よかった。やはり努力は人を裏切らない。これからも精進しよう。

 ともあれ凪は心を落ち着かせるため一端、彼から視線を外す。大きく息を吐き、よりにもよってなぜ彼なのかと考えていた。

 ――北郷一刀……。

 天の御遣い。稀代の夢想家。色欲の権化。両刀の遣い。

 彼を指す呼称は数多いが、今や陳留城下においてそれらが誰を示すのか知らぬ者はいないだろう。

 無論、凪もよぉく知っている。

 着任から一ヶ月足らずの彼が、既に無数の騒動をまき起こしてきたことは。

 しかも恐ろしいことに、その頻度が沙和や真桜どころかあの春蘭さまをも凌駕するということも。

 そしてこの状況。

 今現在、自らも彼の騒動に巻き込まれているだろうことはしっかり認識していて。

 直後、予想通りに両脇から同時の声が上がった。

 

「――何が話や!!」「――最っ低なの!!」

 

 息巻く真桜と沙和は机を揺らす勢いで立ち上がり、

 

「さっきからニタニタ気色悪い顔しくさって! ウチらおちょくってそないにおもろいんか!!」

「そうなの! 人の不幸を喜ぶなんて最悪の畜生なの! とんだ腐れ玉無し野郎なの!!」

「いぃっ!? ち、違うって誤解だから! 俺はそんな……」

「――嘘や!!」「――嘘なの!!」

 

 響く声。

 凪も内心で頷く。二人に同意だ。

 たとえ他意がなくとも、彼の発言は十分に不愉快で誰だってこう考えるだろう。

 

「どうせ仕返しに来たんやろ! ウチらが御遣い兄さんの奇天烈っぷりを肴に、いつも楽しく一杯やってたん逆恨みしてここぞとばかりに……ッ! ウチには全部お見通しや! この卑怯もん!」

「……え?」

 

 違った。これじゃない。心の声が彼と重なる。

 凪は急ぎ困惑の視線を上げ、

 ――じ、自分は無関係です!

 するとその目に映る彼も大いに困惑顔で、

 

「さ、逆恨みって言うのそれ? つか今初めて聞いたし、むしろ一生知りたくなかった真実っていうか……」

「もう白々しいの! どうせ沙和たちが警邏中に御遣いさんのあることないことを面白おかしく言いふらしたことへの逆恨みに決まってるの!」

「「……え?」」

 

 今度は確かな声となって重なった。

 そういえば、と、ここ最近の二人を思い返せば思い当たる節がちらほら。

 凪は諦めるように目を伏せ、代わりに彼が大きく目を見開き、

 

「――いやマジで何してくれてんだよっ! 道理で最近、街の人たちに変なこと言われるわけだ! 昨日だって出店の前通りかかったら突然、主人のおやっさんに、"これをあっしだと思って好きなだけ揉んでやってくだせい! "って点心二個強引に渡されて、一体何を吹き込んだ結果だよあれ!? すんげえ怖かったんだぞ! あぁ、もうこれ全然逆じゃないじゃん。純然たる恨みじゃん。復讐したって正当じゃん!」

「ああっ! 復讐言いおった!!」

「ついに自白なの!!」

「い、今のは突っ込んだだけだろっ! だいたい、なんで二人は俺を非難できんの!? どんな精神構造してんだよ! さっき自分がなんて言ったか思い出してみろよ!!」

 

 凪は内心で深く頷く。

 彼に激しく同意だ。たとえ他意があっても、二人は十分に自業自得で誰だってこう思うだろう。

 ――真桜と沙和は、後で厳重注意だ……!

 しかし、このまま静観していては揉める一方なのも目に見えている。

 仕方がない。凪は騒がしい二人の腕を掴むと、その手に少しだけ力を籠め、

 

「「――ッ!?」」

 

 問題児が静かになったところで淡々と尋ねた。

 

「……それで、北郷殿。お話とは?」

 

 騒動だけは御免なのだ。

 こうなったらさっさと用件を窺い、可能な限り迅速にお引取り願おうと凪は判断する。

 すると眼前。締まりのなかった顔は急に表情を変え、

 

「――――」

 

 こちらをまっすぐに見つめる真摯な眼差は言った。

 

「……あのさ、聞かせて欲しいんだ。軍議の、あの時の続きを」

 

 

***

 

 

 それは咄嗟の言葉だった。

 事前に用意していたわけではない。

 完全なる即興。殴られても文句は言えないし、不躾で配慮に欠けた発言だ。

 だが、それでも一刀は直感に従った。

 もう一度言う。

 

「聞かせてくれないかな? 中途半端に終わった軍議の続きを」

 

 焚きつけ、煽り、挑発するように。

 

「あったんでしょ? 予定してた報告が、さ」

 

 何でもいい。

 彼女たちを覆う閉塞感を打破できるのなら、この際、反感でも敵愾でも構わない。

 結果的に嫌われてしまうかもしれないが、それはそれだ。その時改めて悩めばいいことで、それよりも今は、

 

「あの時、俺は何も聞いてないし、君たちも何もしてないよね? ねぇ楽進さん、いいのあれで? 気絶のまま終わりで満足なの?」

 

 まず知らねばならない。

 彼女たちは何を為そうとしていたのかを。彼女たちの何が足りなかったのかを。華琳は彼女たちに何を求めているのかを。

 その上で、自分が何の力になれるのかを見定めなければならない。

 だから一刀は形振り構わず変化を求めた。きっと華琳ならもっとスマートに事を運ぶんだろうな、とも思いながら、

 ――いや待て。スマートどころかスパーっといきなり首斬られたんだった!

 さておき、他に選ぶ手段はない。ついでにもう手段を選んでいる段階でもない。

 ならこのまま行こうと思う。最善とはお世辞にも言えないが、あながち間違いでもないと思えるし。

 一刀は小さく一息、正面を見据えた。

 それは机の向こう側。

 そこには、既にこちらを標的と定め、飛び掛からんとする李典と于禁がいて。

 しかし、一刀に逃げる気はない。

 承知で撒いた種だ。

 ブン殴られることにはとりあえず腹を括り、今にも訪れる衝撃に浅く正対。すると二人の我慢もいよいよ決壊し、

 

「――――」

 

 卓は大きく揺れ、椀や小鉢は暴れ、汁気の零れ散る音が鳴る。が、それだけだ。

 食い縛る男に痛みはなかった。

 予想された衝突は起きず、二人はこちらを前のめりに睨むだけでそれ以上動かない。というより、腕を強く引かれ動けずにいた。

 

「なっ……」

 

 つまり完全な不発。

 起爆の導火線は楽進によって止められ、思い描いていた少年誌にありがちの、本気でぶつかればわかり合える的なフワフワフー展開はご破算。代わりにえらく険悪なムードだけが立ち込めて、

 ――ちょおっ! これじゃ俺、単にすげぇ嫌味な奴で好感度暴落しただけじゃんっ!?

 やばい。

 大失敗だ。一刀は慌てて挽回の手段を探るが、そんな都合のいいものを早々思い浮かぶわけがない。

 それでも、事態は無情に刻々と進み、沈黙が重く圧し掛かり、冷たい汗が額をたらり。

 頭は真っ白で、このままでは関係修復を望むべくもない。

 ――ど、どうしよおおおおおお!?

 だが、どれだけ焦ってみてもやっぱり打開策は見つからず、いよいよお手上げかとも思った、その時だ。

 それは意外にも彼女の方から差し伸べられる。

 

「……ひとつ、質問してもよろしいでしょうか?」

「え?」

 

 こちらの戸惑いに構わず質問がきた。

 

「何故、北郷殿は軍議の続きをお聞きになりたいとお考えになられたのですか?」

「あ、いや、それは……」

「それはなんや!」「なの!」

「……っ」

 

 一刀は言葉に詰まる。

 馬鹿正直に、"切っ掛けになればと思って"と答えるわけにはいかず、かと言って"華琳に命じられたから"とは、なお更言い辛い。

 そこで思考停止しそうな男は苦し紛れに、

 

「え、え~っと、それは後のお楽し――ッ!?」

 

 とその瞬間、視界がいきなり上に弾かれた。

 額には鈍い衝撃を感じ、すぐさま食堂の天井が見え、身体は後方へ飛ぶ。僅かの浮遊感の後、床板に腰から落ちた一刀は急激に理解する。

 

「いっつうぅ……!」

 

 自分は殴打されたのだ、と。

 おそらくは蹴りだろう。

 何をどうされたのかはまったく見えなかったが、先程まで己の頭があった高さに、楽進の右足が静止している。

 ――でも、蹴りの届く間合いじゃなかったよな……?

 しかし、その残心が一刀の肉体と楽進の心境に何かしらの作用をもたらした結果なのは間違いなさそうだ。

 彼女は掲げた脚を膝から折り畳み、こちらを見下ろしながらもこう言う。

 

「わかりました。お聞かせしましょう」

「え?」

 

 またもこちらの戸惑いを無視して、

 

「ただ、このままここでというわけにもいきませんので、続きは昼時に時間を作りますから改めて。場所はそうですね、北郷殿のお部屋でよろしいですか?」

「……は? 続きって、場所、あの、え?」

「何か不都合な点でも? でしたら――」

「あっ、いや! 大丈夫! 俺の部屋でよければいくらでも!」

「そうですか。では後ほど」

「は、はい! お待ちしてますっ!!」

 

 音量調節の誤った馬鹿デカイ声が食堂内に空回るが、楽進は気にも留めずに軽い会釈で踵を返す。

 不要な社交を持つ気はない。そう言いたげな後姿が足早に遠ざかる。

 だが、

 

「あ」

 

 何かを思い出したのかその足は数歩で止まり、

 

「そうそう北郷殿。ひとつだけ警告を」

「警告……?」

「はい。くれぐれも昼までには"お楽しみ"とやらを考えておいてください。でないと……」

「で、でないと?」

 

 翻る横顔は無感情で宣告した。

 

「次は手心なく、粉砕しますから」

 

 

***

 

 

「――うわああああああん!! いつまで続くんだよ、この嫌がらせ!」

 

 廊下にまで届く喧騒の中、玉座の前では鬼灯と薊が激しい口喧嘩の火花を散らせ、白蓮はその周囲でオタオタ。

 まったく進展なしだ。

 入室から彼此一時は経とうとしているが、話は脇道に逸れっぱなし。

 未だに緊急招集の本題は語られず、しかし、ようやく変化の兆しが。

 ――やれやれ。

 それは新たな人物の出現だ。

 入り口から一直線に伸びる赤絨毯。その中央を、舞を感じさせる白の振袖が横に揺れ、細長く結った空色の後髪が歩幅に合わせて縦に弾む。

 そこには武を思わせる女性が凛然と闊歩していた。

 彼女の名は趙雲。字を子龍。真名は星。

 "常山の登り龍"と称される程の武人で、公孫賛軍の客将たる者だ。

 その星は白蓮の隣まで来ると不敵に口を開く。

 

「して、これは一体なんの騒ぎですかな? ……よもや、メンマではありますまいな? さすれば早急に参戦してもよろしいですか?」

「――あ、子龍っ! ツッコミどころ万歳だけど、いいところにっ!」

「いいところ? おお。では、やはりこれはメンマ会談……!」

「いや、そうじゃなくて。メンマはいいから。そんなことよりなんとかしてくれよこれ。私じゃ止められなくてさ」

「ふむ」

 

 そんなこと呼ばわりは誠に遺憾だが、なるほど。嘆きの先には鬼灯と薊の白熱する口論があり、内容もメンマについてではなさそうだ。

 その様子をしばし窺う星は不器用な二人の心中を察し、

 ――いつもと変わらぬ……というより、いつもと違う主君が心配で変われぬといったところか。

 もう少しやり方があるだろうに。これでは鈍感な主殿に伝わり難かろう、と首を振る。

 もっとも光景としては見慣れたもので、こうして騒がしいのはいつものことだった。

 この三人はいつだってそうだ。

 顔を合わせればいつでもどこでも大体こうで、ただそれを煩わしいと感じたことは一度もなく、今も星は含み笑いでからかうように言う。

 

「まったく。国の一大事やもしれぬというのに、変わらず賑やかなものですな?」

 

 しかし、肝心の白蓮は肩を落とし、

 

「いや笑い事じゃないからホント……、はぁ~」

 

 やはりいつもの反応とは違う。

 焦り。気負い。惑い。らしからぬ感情が彼女を覆っている。

 それらが不安となり、不満として、つい吐露してしまったのだろう。であるなら、

 

「いけませんな白蓮殿。難事において、上に立つ者の負気は瞬く間に下の者へ伝播するもの。まして溜め息を吐くなど言語道断。この二人以上にいかがなものかと」

「うっ……」

「それに、二人の気持ちもわからなくはありますまい。こんな時だからこそ努めて"らしく"あろうとするのは人の性ですからな」

「子龍……」

 

 とはいえ、この場でもっとも自然体で"らしく"あるのは、断トツで星だった。

 星は、お任せあれ、と気楽に白蓮の肩を叩き、

 

「では――不肖ながらこのメンマ伝道師が、お二人の熱意に負けぬよう、まずは古より伝わるメンマの長き歴史を懇々と語らせて――」

「いやいやいやっ! なんで? なんでまたメンマ出てきた! せっかくの真面目な雰囲気が台無しだろ!」

「……おや? お気に召しませぬか? せっかく私なりに空気を察して気遣ってみたというのに」

「うん! そんな気遣いいらない! というか、どうせ気遣ってくれるなら流したボケを繰り返さないでくれる方がよ~~~っぽど助かるから!」

 

 そのツッコミに星は内心でほくそ笑む。

 いつもの調子だ。

 塞ぎ気味だった顔は上がり、先ほどまで迷い曇っていた白蓮の眼差しに精彩が少し戻っている。

 ――ふふ、それでよいのです。

 星は思う。それでこそ白蓮殿だ、と。ボケ甲斐がある、と。これぞ好ましい騒がしさだ、と。

 だからきっぱりと言い切ってやった。

 

「流す? 嫌にございますな」

「はあ!?」

「ですから、メンマとツッコミを蔑ろにする白蓮殿など白蓮殿にあらず、と申し上げておるのです。この地には名物と呼べるモノが良質な笹竹と白蓮殿のツッコミくらいしかないことはご存知の筈では?」

「――存じませんがあああ!! 何、とんでもないこと平然とした顔で言ってるんだよ!? 今のが今日一でグサっと心に突き刺さったからな!」

「……ほほお。笹だけにグサっと心に突き()()ったわけですな? これは中々……」

「――違あああう! 狙ってないからな! 今のは断固たまたまだぞ!」

「ふふふ」

 

 慌てる白蓮に星は優しく口角を上げる。

 心地いい言葉の節奏だ、とそう思いながら、

 

「いえいえ、たまたまでは困ります。君主たる者、臣下のボケに対して最善のツッコミを入れられて一人前というもの。かの孔子も"臣ツッコミなくば立たず"と論語の中で説いているではありませぬか?」

「――そんな似非論語あるかああああ! それを言うなら"民信なくば立たず"! もう、ほとんどかぶってもないな!」

「おお、それです! その間ですぞ白蓮殿!」

 

 と、いい加減、恨めしそうな視線がきた。

 

「――い、い、か、ら、止、め、ろ!」

 

 元気こそ戻ったものの、睨む瞳はやや涙目。

 拙い。

 ここらが潮時のようだ。星は自重で肩をすぼめる。

 これ以上は本格的に拗ねられかねないし、それはよくない。白蓮はこれで根に持つ方なのだ。

 

「御意に」

 

 それに、そろそろ進めるべきだろう。

 心休まる遊興はこれくらいにして、始めなければならない。心躍る戦戯を。

 

「では」

 

 だから星は踏み出す。

 白蓮から逃げるように、しかし、進めるために騒動の中心へ行く。

 背中に受けるジト目をしかと意識しつつ、声をかけた。

 

「やあやあご両人、私も混ぜてもらえぬだろうか?」

 

 

***

 

 

「げっ」

 

 星の呼びかけに、より素早い反応を見せるのは鬼灯だった。

 彼女は目一杯顔をしかめ、

 

「な、なんだよ! オマエには関係ねえだろ邪魔すんなよな! ってか、こっち見んなし!」

「おや?」

 

 ただ、それは普段より棘があるというか、大げさというか、どうも照れ隠しが混ざったもので。

 理由は簡単だ。

 星は目前、桃色の後毛を片手でわざとらしく掬い上げ、

 

「ふふ、鬼灯よ。今日は随分と愛らしい髪型をしておられるな? しかもなにやら親近感が……」

「――ッッ!? か、かか、勘違いすんなよ! べっ、別にオマエの髪型を真似たとかそういう感じのアレじゃねえかんなっ! たまたま! そう、今日はたまたま寝癖がそっち系のアレで――!」

「なるほど。言われてみれば似ている」

「ば――ッ、全然ちげえし! よく見ろや! そのあのほら……、い、色とかちげえし! 長さもちげえし!」

 

 確かに色も長さも違う。さらに言えば髪結いの装飾品も違う。が、違いはそれだけ。あとはまんま瓜二つで、なによりここまでムキになればほぼ自白しているようなものだ。

 そのあからさまな態度に星は笑いを押し堪え、白蓮や薊に壁際に整列する衛兵たちまでもが、あー、と一斉に頷きを得て、

 

「だっかっらっ、ちげえつってんだろがあああ――!!」

「まぁまぁ。そう目くじらを立てずとも」

 

 うっせえ! と噛み付いてくる鬼灯に、星はしれっと言った。

 

「別に気にすることではあるまいて。こんなにも可愛らしく、どう見ても私よりずっと似合いなのだ。誰も真似だなどと思わぬ。そうであろう?」

「……へ?」

 

 そして、そのまま愛おし気に髪をひと撫で。愛娘をあやす様に触れ、一言。

 

「今度、秘訣を教えてくだされ」

「~~~~」

 

 たったそれだけで、あの生きた傍若無人から悪態ごと二の句をあっさり奪い去り、沈黙させることに成功。

 いくら無頼を装っていも、乙女は乙女。この手の褒め言葉に敏感な彼女には、とりわけ有効な手段となるようだ。

 もっともそんな事が出来る人間は極々限られているのだが、

 

「ふふふ」

 

 その限られた人物はここぞとばかりニヤニヤ。これ見よがしに撫でくり回し、

 

「どーれ、ほーれ、そーれ」

「ぅ、ぅぅ~~~っ」

 

 鬼灯はされるがまま。

 羞恥でただただ肩を震わせ、耳まで赤く染める。すっかり星の愛玩と化していた。

 この様子ではそのうちまた暴発しかねないが、どうあれ一先ずは主命達成だろう。

 騒動の輪に鬼灯がいるならば、彼女を止めると事態は十中八九沈静化する。ここでは誰もが知る理だ。

 案の定、こちらの意図と白蓮の様子を横目で確認した薊は議論をあっさり本題へ戻す。

 

「それで、星。いくら自堕落な貴様でも、これだけ遅れてやってきたからには外の状況のひとつや二つ探ってきたのだろうな?」

「無論。しかしあの霧の中、危険を顧みず斥候を務めた者に自堕落とは些か辛辣では?」

「どこがだ。戦と酒とメンマしか語らぬ女が自堕落でなくなんだと? それに危険? 馬鹿を言え。これくらい貴様にしてみれば造作もないことだろう。いちいち仰々に語るな。そういうところが怠けていると……、まあいい。今はそれよりも――」

「左様。政と理屈と"主君"しか目に入らぬ堅物の男が何か言うておるが、今は捨て置こう」

「――っ、貴様……!」

「ふふ、なにか?」

 

 と、そこへ慌てて白蓮が、

 

「――だああああああ! なんで二回戦が始まろうとしてんだよ! やめ! もうやめ! 話を先に進めよう、なっ!」

 

 

***

 

 

 日輪はすっかり頂に近い。

 高く澄み渡る秋空からは控え目な陽光が降り注ぐ。

 時刻は正午。

 普段なら昼食を楽しむひと時なのだが、今日は違う。一刀は食堂でも、飯店でも、書庫でもない場所にいた。

 自室。そこには約束通り現れた三人組によって紙の束が降り注ぎ、

 

「机借りるで」「置いちゃうの」「失礼します」

 

 十分な重みと厚みを伝える重音と共に、机上には紙の山が三つ。座る一刀の目線に等しいそれらは資料だ。

 昨日の会議でも発議席に随分な量が積まれていたのを覚えている。が、ここまで多かっただろうか。間近な分だけ印象が違うのかもしれない。

 ともあれ少々面食らっていると、楽進、于禁の二人はすぐに一歩退き、あらかじめ用意しておいた横並びの椅子に腰掛けた。

 そして机越しの正面。残る李典が、

 

「ほなチャッチャといこか」

 

 と、さっそく全紙山の約半分を切り分け、ずいっとこちらへ突き出す。

 まるで"自分で読め"とでもいわんばかりに。

 無論、一刀だって朝の件もあり、ぞんざいな扱いを受けることはある程度覚悟していたが、

 ――うげぇ……。

 これは中々厳しい。

 問題なのは量も然ることながら読解力。

 攸監修による書庫学習のおかげで、ひと月前と比べれば格段に読み書き能力は向上したものの、まだまだ(つたな)いのが実情だ。

 多少判り難くても口頭で説明を受ける方がよっぽど早く、正確で、楽だろう。 

 だが、もしここでそんな甘えを見せようものならどうなることやら。

 濮陽での傷がようやく完治したというのに、逆戻りになりかねない。というか死ぬかもしれない。

 ――砕かれたら無理だよなぁ……。

 "何を"にも因るが、まあ大体駄目だろう。

 思う一刀はとりあえず上から数枚を手に取った。とにかくやるだけやってみようと紙面を覗き込み、

 

「って、ナ、ナニコレ。試作型壱号設計図……?」

「フフフ。どや? すごいやろ? 驚いたやろ?」

 

 驚いた。確かに驚いた。一刀は唖然とする。

 なにせてっきりお堅い文面が並んでいると思われたそれは図面だったのだ。

 

「…………」

 

 それも一、二ページの話じゃない。

 手元の分を次々にめくれば全部が図面。

 もしかして、と残りを確認してもやっぱり図面。

 何かの設計図と思しきモノが数千枚もの紙に描かれている。これは一体何なのか。

 

「なんや? 驚きすぎて声も出ぇへんか? まぁせやろなぁ。普通は思いつかんやろなぁ。ウチのこの"夏侯惇将軍量産計画"は!」 

「――か、夏侯惇、量産!? 何その不吉な響き!!」

「不吉て。兄さん失敬なやっちゃな。ええか? これさえ完成すれば街の平和を守るんは楽勝やろ?」

「……は?」

「は、て。兄さん物分り悪いやっちゃな」

 

 李典は、せやから、と前置き付きで自信満々に言った。

 

「ええか? 謳い文句はこうや! これからの時代は一家に一台、夏侯惇! これさえあればもうどんな屈強な悪漢が現れようと怖ない! あっちゅう間に"絡繰り惇ちゃん"が即解決! 陳留から犯罪なんぞさいならや! そんでもって絡繰りは売れに売れて国庫もホックホク! ついでに開発者のウチも大金持ちで――」

「色々待てえええええ!!」

 

 李典が、なんやねんいいところで? みたいな目をするが無視した。

 謳い文句も途中から単なる願望に変わっているし何だこれは。理解は追いつかないし、むしろ、わからない方が幸せな気もする。

 だが、悲しいかなそういうわけにもいかない。これも任務のうち。一刀は渋々ながら李典の言葉を反芻して、

 ――夏侯惇将軍量産計画。街の平和。絡繰り……。

 導き出される答えはこうだ。

 

「えっと、要するに李典さんの計画ってのは春蘭の絡繰りを作って治安活動させると……?」

「せや」

 

 李典は刺激的な胸をたゆんと張った。

 ――おおっ……!

 ただ、いくら視覚的に有難くても、無茶は無茶でしかない。

 現代の科学力をもってしても、ロボットに治安活動させるのは困難を極める筈。それをこの時代に実行出来るとは思えない。あまりに無謀な計画だろう。

 とはいえ、そんな中でも見えてきたものもあり、

 

「……ってことは、三人が華琳に言い渡された議案って治安についてなのかな?」

「まぁそんなとこや。正確にはウチらが決めた、やけど」

「三人が? 華琳じゃなくて?」

「華琳さまはウチらのやりたいことをウチらで考えてやれ、て」

「なるほど」

 

 華琳らしい、と納得しつつ、一刀はもう一度手元に視線を戻す。

 図面だ。

 率直に言えばどうしよもない案だと思う。が、そこには彼女の本気もまた窺える。

 それだけに、無碍に拒否することは憚られ、どうして絡繰りのモデルがあの破壊王なのかを悩み、一刀はひとつ根本的な質問をぶつけてみる。

 

「ねぇ、この絡繰りってマジで動くの……?」

 

 すると李典の顔が瞬時に曇った。彼女は厳しい表情を作り、

 

「……せやねん。それが問題やねんなぁ。現状じゃ一歩動けたら御の字で、そこんとこを華琳さまにも具体性が欠けるてばっちり見抜かれてしもたし、もうちょい性能を――」

「いや具体性ってそこじゃないと思うんだけど!?」

「はあ? なら、なんのことやねん?」

「そ、それは……」 

 

 絡繰りに治安活動させる発想自体、とは一刀も色んな意味で言えなかった。

 それに言ったところでどうせ無駄だ。

 

「フン」

 

 李典はとっくにこちらへの関心をなくし、一刀の手から資料を掻っ攫うと残りも抱えて即着座。そのまま思考世界に引き篭もり、

 

「…………」

 

 おそらくは絡繰りの性能向上に取り掛かっているのだろう。没頭する彼女に聞く耳があるとはとても思えない。

 ゆえに、少々唐突だがこれでひとり目は終了だ。

 全体的に衝撃的で置き去り感は否めず、正直、なんの手応えも感じていないが、

 ――う、うん。まぁまだひとり目だし!

 一刀は早くも折れかけの心に言い聞かせる。後ろ向きは駄目だ。前進あるのみだ、と。

 そしてそんな健気な男の前に続いて立つのは、

 

「じゃあ、今度は沙和なの♪」

 

 妙に乗り気な于禁だった。

 

 

*** 

 

 

「まずはぁ、ご覧あれなの♪」

 

 言って突き出された大量の紙束を前に、一刀は嫌な予感をヒシヒシと感じている。

 先程の李典とは打って変わって、表情こそご機嫌だが、展開的には全く同じだ。

 拙い。

 完全にオチへの流れが出来てしまっているし、なにより于禁の醸し出す雰囲気が拙い。このギャルンルンな軽いノリはきっとやばい。

 ――いやいや。考えすぎだって。まさかそんなハハハ……。お、――お願いします! どうか文字が書いてあってください!

 祈る男は恐る恐る資料を手に取り、覗き込んだ。と、そこに書かれていたのは、

 

「って、ナ、ナニコレ。激流行・新作警邏隊意匠集……?」

「へへへ。どう? すごい? 沙和の自信作なの。びっくり?」

 

 びっくりだ。大いにびっくりだ。一刀の口元が歪に引きつる。

 なにせ今度こそ文面と願っていたそれは素描だったのだ。

 

「…………」

 

 それも一、二ページの話じゃない。

 手元の分を次々めくれば全部が素描。

 そんな馬鹿な、と残りを確認してもやっぱり素描。

 服や装飾と思しきデッサンが男性用と女性用、それぞれ数千枚の紙に描かれている。これは一体何なのか。

 

「も~ぉ。御遣いさん黙り込んじゃって、びっくりしすぎなの。けどけど、それも仕方ないかもなのぉ。普通は思いつかないのぉ。沙和のこの"可愛いは大陸を救っちゃう大作戦"は!」

「――か、可愛いは大陸を救う!? 何その馬鹿っぽい響き!!」

「馬鹿っぽい、って。御遣いさん失礼なの。いいの? もしこの意匠が採用されたら街の平和を守るのなんて楽々なの」

「……は?」

「は、って。御遣いさん物分りが悪いの」

 

 于禁は、だからぁ、と何故かピースサイン付きで言った。

 

「いいの? もし警邏隊がこんなに可愛い服装だったら、街中が幸せで犯罪なんかなくなっちゃうの! んでんで、沙和の意匠は大流行しちゃって、華琳さまにもい~っぱい褒められて、ゆくゆくは一流の意匠師として大陸中に――」

「色々待てええええええ!!」

 

 于禁が、いいとこでなんなの? みたいな目を眼鏡越しにしているが無視した。

 これのどこら辺が治安に関係しているのか。彼女の言動は終始理解できないし、むしろ、理解できたら終わりのような気もする。

 だが、不幸かなそういうわけにもいかない。これは避けては通れない試練のひとつ。一刀は泣く泣く于禁の台詞を反芻し、

 ――警邏隊、意匠、可愛い……。

 導き出されるツッコミはこうだ。

 

「あの、まず警邏隊って何かな……?」

「う~ん……、知らないの♪」

 

 于禁は愛らしく、てへっ、と小首を傾げてみせる。

 ――イラッ……!

 ただ、いくら空気を読めない相手でも、女の子は女の子だ。

 いつの世でも男は耐えるのが宿命。女性に対して感情的になっても碌なことにはならないし、彼女は華琳に命じられたサポート対象でもある。

 それに、大作戦には全く賛同出来ないものの、意匠に対する情熱だけは本物だと伝わってくる。どうやらすべてが不真面目というわけではなさそうだ。

 それだけに、何故こうも彼女のやる気は方向音痴で、どうして女性は可愛いに異常な拘りを持つのかを悩み、一刀はひとつ素朴な疑問をぶつけてみる。

 

「ねぇ、もしかして、このフリフリ付きのとか花柄の刺繍入りのとかを、春蘭や霞とかも着るの……?」

 

 すると、あれだけキャピキャピしていた于禁が一変。瞬時に神妙な面持ちになり、

 

「……そうなの。そこが問題なの。今のままじゃきっと春蘭さまも霞さまも着てくれないの。二人ともお洒落にはてんで無頓着だし、これじゃ決め手にかけちゃうの! そこを華琳さまにも具体性が足りないって怒られちゃったし、もっと細かいところまで拘って――」

「いや絶対違うから! 具体性ってそこじゃないから!!」

「えぇ~? じゃあ、なんなの?」

「そ、それは……」

 

 スタート地点から丸ごと全部、とは一刀もさすがに気の毒すぎて言えなかった。

 それにこれまた言ったところでどうせ無駄だ。

 

「フンなの」

 

 于禁はとっくにへそを曲げ、李典と同じく資料を抱えて即着席。そのまま精神世界に飛び込み、

 

「…………」

 

 おそらくは意匠の練り直しを始めたのだろう。不貞腐れる彼女に聞く耳があるとはとても思えない。

 ゆえに、少々唐突だが、二人目は終了だ。

 全体的に破壊的で絶望感が半端なく、正直、泣きたい気分だが、

 ――で、でも、まだ二人目だもん! 終わりじゃないもん!

 一刀は萎れた心を懸命に励ます。も、やっぱり駄目だった。

 身体も机に突っ伏す。もう嫌だ。これは無理だ、と。

 そして、そんな打ちひしがれた男の前に立つのは、

 

「あ、あの北郷殿? 大丈夫ですか……?」

 

 微妙に申し訳なさ気な楽進だった。

 

 

***

 

 

「では始めます」

 

 告げられた開始の合図に、一刀は一段と脊柱に意識を送り、背もたれから腰を離す。

 先程の態度はいただけなかった。いくら前二人が衝撃的だったとはいえ、楽進の前であれは拙い。

 ――く、砕かれてしまう……!

 心がなんだのと言ってる場合ではない。それこそ五体がへし折られかねないので、死にたくない。

 だから精一杯姿勢を正し、

 ――それに、普通に考えたら楽進さんが本命だよな。

 一刀は気を取り直して、頷く。

 

「はい。お願いします」

 

 すると、楽進は僅かに残された机上の資料へ手を伸ばした。

 あれだけあった紙山がほぼ李典と于禁の分だったことに今更ながら驚くが、それ以上に彼女の分がたった数枚しかないこともまた驚きだ。

 一刀はそこに薄っすら不安を覚えるが、彼女は言う。

 

「私の考えは、平たく言えば、治安活動専門の新たな組織を新設することです」

「治安活動専門の……?」

「はい。現状、街の警戒にあたる人員は憲兵として軍から割かれています。ですが聞くところによりますと、兵卒の中にはそれを不満に思う者も少なからずいるようで……」

 

 何故? と一刀は疑問するが、口にはしない。

 すぐに見当がついたからだ。

 現代日本に置き換えて考えればわかり易い。つまりこれは、自衛官に明日から警察官に転職しろと言い渡すようなもの。当然、反発は生まれるだろう。自衛官という職務にプライドを持っていればいるほどに、だ。

 となれば、

 

「やはり、意識の差から職務態度もまちまち。一部では意見対立が生まれ、さらには怠慢な憲兵と民との間に軽い衝突事例まで報告されています」

「だから意識の高い者だけで構成するような新体制が必要、ってわけ?」

 

 はい、と楽進は頷き、

 

「それに現体制下では戦時において動員が確保出来なくなる問題もあります。ですから私は、今より安定的かつ効率的に治安活動を実行するには、軍から独立した"警邏隊"の設立が肝要だと考えます」

「なるほど、ね」

 

 一刀は相槌を打つ。

 ――于禁さんの言ってた警邏隊ってこのとこか……!

 謎がひとつ解けた、と。表情も明るい。

 ようやくまともな意見を聞けたのだ。俄然、前向きにもなり、

 ――天はまだ俺を見捨ててなかった……! 

 とオーバー気味な感想を抱く男は集中の視線を楽進に送った。

 ここから先はより具体的な小難しい議論になる筈だ、と。

 気は抜けない。一刀は続きを静かに待つ。

 

「…………」

 

 だが、次に耳にする彼女の言葉は期待を大きく裏切るもので。 

 

「以上です」

「……はい? え、異常? 何が? あ、委譲?」

「いえ、終わりです」

「――色々待てええええええええ!!」

 

 瞬間、楽進とばっちり目が合ったが、この時ばかりは砕かれる恐怖心も無視した。

 さすがに早い。あまりに早すぎるのだ。

 ――やっと見つけた希望なのに……!

 一刀は縋るように問う。

 

「お、終わりってまだ警邏隊の具体的な構想とか全く出てきてないんですけど……?」 

 

 すると楽進は視線を逸らし、

 

「……はい」

 

 力なく頷く。それから手にある資料の一枚をこちらに提示し、目にした一刀は理解する。

 

「……そういうことか」

 

 華琳の言葉が何を指していたのかを、だ。

 渡された資料には、彼女の考える警邏隊の構成が項目ごとに羅列してある。ただ、そこには概要の記述しかなく、金銭の関わるような項目では軒並み空欄になっていたのだ。

 ――具体性にかける……、なるほどね。

 その意味を知った一刀は緩みから、つい三者の発表の総括をありのままに呟き、

 

「でもこれで、よく説教だけで済ん――ッ!?」

 

 その直後、一刀は再び不可視の衝撃に襲われ、天井を見上げていた。

 

 

***

 

 

 そして所変わって、幽州・易京。

 軍議を終え、諸々の支度がついた白蓮は楼閣の窓から外の景色を眺めていた。

 真正面。

 すでに濃霧も晴れ、遠目でも漆黒の敵旗がはっきり見て取れる。

 距離にして十里ほど。敵兵は縦の長方に展開している。

 そこは遮蔽物も少ない緩やかな丘陵の合間で、だだっ広いだけの荒地。およそ軍を伏するにはあたわない場所で、星の報告によれば後方に控える敵軍の気配もないらしい。

 つまり眼下に見える部隊は尖兵でなければ囮の類でもない。

 これでまさしく全軍だ。その規模は多く見積もっても歩兵がたったの二千足らず。

 対してこちらの総兵は四万に及び、内訳は歩兵が三万と、騎兵が一万。その戦力比は単純計算で二十倍にもなる。

 そこに五重の大城壁と三百の城楼を構える易京城の鉄壁さを加味すれば、どだい陥落はありえない圧倒的な状況と言えよう。

 

「だから敵の目的は城攻めじゃない、ってのが薊と子龍の見解で……」

 

 この軍勢は袁紹軍ではない、というのが軍議の結論だった。

 もちろん他にもその根拠はある。

 まず未だに易京城までに点在するどの拠点からも敵軍の進攻を伝える報せは一切届いていない点だ。

 この敵は忽然と出現した。

 仮にこれを袁紹軍だとするなら、奴らはこちらの拠点をすべて無視して、かつ、こちらの哨戒網には掛からず、密かにここまで進軍してきたことになる。

 とすると、ますます意図がわからない。

 それをわざわざ知らせる意味がわからないのだ。

 ややもすると、この事態は敵にとっても不測の可能性もある。が、ならば霧の隠れ蓑があるうちに撤退しなかった理由はどこにあるのか。

 ありえない。これではもっと重要な局面で、決定打となり得たかもしれない戦略を無償で告示しただけ。あまりに不可解だ。

 つまり、これが袁紹軍だとするならば残る可能性はひとつしかない。それはこの不可解が"いつでも進攻可能だぞ"という示威行動で、敵は敢えて寡兵で国境線を突破してみせ、こちらに自軍の精強さを見せつけたのだ。

 しかし、それもまた新たな不可解を生む。

 敵の旗幟だ。

 所属を示すべき敵のそれは黒一色。袁紹一派の者なら旗幟に山吹色を用いるのが通例の筈なのに、だ。

 その上、無数に並ぶ黒旗の中には"袁"の字どころかなんの印も見当たらず、示威であるなら当然あるべき自己主張がどこにもない。決定的に矛盾している。

 あとは進攻の時期や敵軍の配置など、これが何らかの攻勢であると考えるには辻褄が合わないことが多すぎる。

 そのため、この敵は袁紹軍ではないと考えるのが妥当で、ではこれが何者かと言えば、

 

「……黒山党と推察できる、か」

 

 黒山党。

 それは河北中心に勢力を拡大したある盗賊団を指す名称だ。

 首魁の名は張燕。男性であること以外は謎に包まれた人物で、しかして、その手腕が天才的に卓越していたことには些かの異論もない。

 というのも、結党時わずか数十名だった盗賊団は、黄巾の乱に乗じ近隣の賊たちを悉く糾合。たったの二年で百万を号する大勢力にのし上がっていたのだ。

 それはまるで収束しつつある黄巾の乱を再結集させているかのような不吉さで、黄から黒への連鎖を危惧した時の朝廷は、事もあろうに賊である張燕へ官位を授けこれを懐柔。つまり事実上の黙認だ。

 おかげで黒山党は大手を振って村々を蹂躙し、融和策はむしろ連鎖の呼び水となってしまう。

 ところが、そんな大盗賊団の隆盛も長くは続かなかった。

 首魁・張燕の消失である。

 大病を患ったのか。それとも刀の錆となったのか。委細は不明だが、ともかく彼の去った黒山党は急速に求心力を失い衰退の一途を辿る。

 そして、先頃の濮陽での敗戦を最期に完全瓦解。百万を誇った大軍団は見る影もなく、今や少数の残党が飛沫として残るのみ。それが易京に忽然と現れたモノの正体というわけだ。

 無論、これには袁紹側の関与があったのかもしれない。いや、この場合はあったと見るべきだ。黒山党を焚きつけ、偵察かあるいは別の目的があると警戒すべきだろう。

 であるなら、こちらの取るべき方針はひとつだった。

 打って出る。

 たとえ裏があるにしろ、目と鼻の先に存在する賊徒を放置するわけにはいかない。領主として果たすべき責務を全うせねばならず、しかし、おめおめと敵の思惑に嵌るわけにはいかない。

 つまり、放つ一手は全容を秘匿しながらも最強の一手。

 

「頼んだぞ。子龍、鬼灯……」

 

 白蓮が心配にそうに見つめる先。そこには大城門を潜り行く白の一団があった。

 白馬義従だ。精鋭の三千騎が黒の賊徒を駆逐するため進軍する。 

 ただし、彼らに求められるものは勝利にあらず。

 敵が恐れをなして逃げるのなら致し方ないが、そうでないなら顕示すべきは圧倒的な撲滅だ。

 袁紹に手土産をくれてやるつもりは毛頭ない。これは内外に向ける示威の狩なのだから。

 

「…………」

 

 しかし、現状を見守ることしかできない白蓮の胸には、小さな小さなざわめきがあった。

 それは友の帰還を祈るありきたりな情ではなく、もっと不快でもっと不穏な雑音。言うなれば、取り返しのつかない過ちを犯してしまったのではないかという心の躊躇い。 

 こんなこと馬鹿げていると何度も振り払っているのに。軍議の推移にも結論にもまったく異論はなかった筈なのに。今朝方見た夢も相まって、ある種の違和感が拭いきれない。

 白蓮はどうしても思ってしまうのだ。

 何故今日に限って、"だったらいいな"と思う方向にすべての物事が帰結していくのか、と。

 あれが袁紹軍でなければいいな。この城を狙って来たのでなければいいな。脅威でなければいいな。いっそ迷い込んだ賊であればいいな――。

 そんな"だったらいいな"の願望にすべてが都合よく収まっていく。

 あたかもそうなるよう誘導でもされているかのように。何か極めて根本的な見落としているかのような焦燥が胸を過ぎるのだ。

 例えば、そう。あの敵軍。あれは本当に、

 

「私たちより……、弱いのか?」

 

 そして不幸にも、その囁きは真理を捉えていた。

 本来、アレとは何があっても対峙すべきではなかったのだ。アレこそが絶対に触れてはならない不浄の黒なのだから。

 しかし白蓮にはそれを知る由もなく、何よりもう遅い。地獄へ通じる五つの門は開かれてしまった。

 白き者たちは黒き闇へ往く。

 今更何かを叫んでみたところで、もはや声は届くまい。運命の歯車はもう止められない。結末は既に決した。

 ゆえに、白蓮は思い知ることになる。

 

「……馬鹿馬鹿しい。大丈夫に決まってるさ」

 

 悪夢を。それも生涯醒めないだろう本当の悪夢がなんたるか、を。




23話読んでいただきありがとうございます。
まずは前回より随分と間が空いてしまってすいません!
なんかこう色々重なってあれな感じで……すいません!
ともかく途中で投げ出す事だけはしないんで、ゆっくりでもお付き合い願えたら幸いです。

感想、ご意見お待ちしてます。
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