必要な場所に最低限が整然と並ぶ部屋。あるのは机に、椅子が三脚と一架の書棚。飾り気などさっぱりで、家主は簡素な生活を好んでいるのがよくわかる。あれだけの捻くれ者だ、さぞかし悪趣味な置物が並んでいると一刀は思っていたが、そこは意外なほど地味な間取りをしていた。
「いつまでボケっと立っとる気じゃ? さっさと座らんか」
きょろきょろと敵情視察に余念のない一刀へ向けられる言葉、これまた管輅の性格をよく表している。そこに悪びれた様子はなく、図太いというか図々しいというか。一刀は平静を装って席に着くが、腹の中はよくもほざいたと復讐心を募らせていた。
「あの時はやってくれたね。じいさん」
「はて、あの時?」
「飯店での食い逃げだ!」
あくまでとぼける管輅に声色が強くなる。一刀は拳を握りぐっと半身を迫り出すも、睨みつけた相手の顔は涼しいまま。どれだけ凄んでみても、管輅にとっては鼻たれ小僧と同義のようだ。薄っすらと笑みすら浮かべ答える。
「食い逃げとは人聞きの悪いことを言うものじゃ。ワシはおぬしが働き場を求めておったから、手っ取り早く紹介してやっただけじゃろうて?」
「なっ――あれのどこが紹介だよ! 騙しただけだろ!」
「騙す? ワシは礼がしたいと言っただけのはずじゃ。どこが騙しておると?」
いやはや。謝罪のひとつでも出てこれば、まだ穏便に済ます道もあっただろうに。この老人から謝罪の言葉を引き出そうとしたのが、そもそも甘かったようだ。それどころか“紹介してやった”と言い切る性根は相当な偏屈であろう。一刀の怒り指数はうなぎ上りである。
「……なら、俺が管輅を探していると言った時はなんで名乗り出なかった?」
「ワシはこれでも有名人じゃからの。どこの馬の骨ともわからぬ若造に、ホイホイ名乗る名なぞ持ち合わせておらんわ」
限界は近い。一貫する憎たらしい態度に一刀の堪忍袋はいつ張り裂けてもおかしくないほどパンパン。あと一滴でも増せば確実だ。今か今かと体は逸る。そこにトドメとばかりに続く言葉は、
「それにじゃ……教えぬ方が面白そうじゃろ?」
「――このクソじじいッ!!」
一滴どころか容量を遙かに上回る怒りが押し寄せ、解き放たれた体はガタンッと勢いよく椅子を引く――が、そこまで。飛び立つはずだった腰は、僅かに浮いただけで緊急着陸。管輅はたった指二本を額に押し当てるだけで、一刀の動きをものの見事に止めてみせる。二度目の襲撃も失敗、今度はその体すら成さぬままにだ。
「かっかっか、立てんじゃろ?」
「なっ――、くそっ!」
どれだけ踏ん張ろうが言葉通り、一刀は立てない。それは何も、管輅が無類の怪力というわけではなく、ちゃんとしたタネがある。
簡単に説明すると、人が椅子から立ち上がるためにはまず、重心をずらす必要があり、そのために頭を動きたい方向へ傾ける。この時にだ、頭を押さえ重心移動を封じると、あら不思議。人は立ち上がることができなくなるのだ。理屈は単純、知っていれば誰にでもできることだ。だが、それでも一刀は人を小馬鹿にするような笑い声に、怒りではなく驚きを感じていた。
問題はそこではないのだ。本当に彼がすごいのは後の先を取ったこと。一刀より後から動いたにもかかわらず、先に重心移動を止めてしまったことだ。只者じゃない、投げ飛ばされたのも偶然じゃない、こいつはただの占い師じゃないと思い知る。
同時に、その姿は祖父と重なるものがあった。あっちのじいさんにも一刀は剣道で一度も勝ったことがない。とても齢七十を過ぎた人間の動きではなく、一本たりとも取れず仕舞いだ。思い出されるのは散々に打ち負かされた苦々しい光景ばかりである。
そんな懐かしい記憶に力も抜け、戦意がなくなったからだろうか。管輅は額から指を離し、
「それよりおぬし、ワシに用があったのではないのか?」
「あっ」
一刀は大事なことを思い出す。すっかり目的を忘れて報復ばかりに囚われていた。我に返った一刀はこれまでの経緯を洗いざらい話す。
目が覚めたら山の中にいたこと。
予言にある天の御遣いかと問われたこと。
その予言は管輅という易者によるものだと聞いたこと。
そして、最後にどうやったら元の世界に帰れるのかと、静かに聞き入る管輅に問う。
――これで、帰れる……!
一刀は返事をじっと待ちながら、高まる期待感を抑えていた。己のいるべき場所へと戻るため、それだけを願いここまで来たのだ。気が急くのは仕方がないだろう。しかし、相手は管輅だ、そう上手く運ぶわけがない。
「確かに予言をしたのはこのワシじゃ。じゃが、おぬしに伝えることは何もありはせん」
「はあ!? ないって、なんだよそれ!」
「まあ、あるにはあるんじゃが……それはおぬしに伝えるべきことではないのう」
「じょっ、冗談じゃない! ふざけてないで教えてくれよ!」
ここにきて、なおも人をおちょくるような発言。慌てて詰め寄る一刀だったが管輅は突っぱねる。
「ふざける? 大真面目じゃわい! これは天の御遣い人に関することなんじゃ」
「ならどうして教えてくれないんだ!」
「これはこれは異なことを」
「どういう意味だよ?」
言葉の裏を読みきれない。が、どうやら悪ふざけでもないらしい。なら、なぜ教えてくれないのか? 曇る一刀に管輅は言う。
「おぬしは天の御遣い人かの問いに、違うと答えたのじゃろ?」
「……そうだ。俺は御遣いなんてもんじゃない。けど予言に類似してる点があったから、何か手掛かりでもと思って……」
「だからおぬしに話すことはもうないと言うておるんじゃ」
「…………」
つまりこういうことだ。
天の御遣いに伝えるべきことはあるが、それによく似ているだけの一刀には話すことはできない。御遣いであることを否定する一刀に対して、都合のいい所だけ擦り寄ってくるなと言っているのだ。やはり御遣いに関する何かを、管輅は確実に知っている。
「なら……俺が天の御遣いだと言ったらどうする?」
「ほほう、そうきたか。じゃが、答えは否じゃ」
「っなんでだよ! 天の御遣いには話すことがあるんだろ!!」
「かっかっか、あまり笑わせるでないヒヨっこが。口だけなら誰でも言えるわい」
「くっ」
「おぬしのような、なんの力も覚悟もない者が救世主のはずなかろう? もし仮にそんなことがあれば、予言したワシの恥じゃ」
「……(くそっ!!)」
一刀は苛立ちに奥歯を噛む。組んで叩いてと、忙しなく動く手は焦りの表れ。ここまで来たというのに聞きだす方法が見つからないのだ。肝心の手掛かりは目の前にあるというのに手が出せない。いくら拝み倒そうともおそらくは無駄だろう。まして力づくでなんとかなる相手ではない。だからと言って、はいそうですかと簡単に諦めきれる話でもない。途絶えてしまう、唯一の希望が。一刀だってそれだけは絶対に認められない。無為無策に空回る感情だけが、胸の奥で毒づていた。が、そこには思いもよらない展開が待っていた。
「――じゃが、おぬしがそれでも自分が天の御遣いであると言うならば、その証を見せてみよ」
「……証?」
「ワシを殴りたいのじゃろ? なら一撃いれてみよ」
天の御遣いさま程のお方が、自分に一撃も入れられないはずがない。だからできたなら認めてやる。それは管輅からの、実に野蛮な挑戦状であった。
「上等だよじじい。やってやる!」
一刀は即答。悩む必要なし。もとより手詰まりだったのだ。それが復讐の機会までもとくれば、一石二鳥。人差し指をズビシと突き出し、堂々と宣言する。
こうして、この時から御遣いを否定する男が、御遣いと認めさせるという、なんとも奇妙な挑戦が始まる。さらに言うなら、話の内容と経緯を考えると、一般人には青年と老人の戯言、孫と祖父の他愛のない喧嘩にも見える。されど、この時から間違いなく始まったのだ。長く、暗く、重たい道に一刀は足を踏み入れたのだ。もっとも、本人が自覚するのはまだまだ先のことである。今はまだ足は軽い。いずれ気づくことになるだろう。己に絡みつく『天の御遣い人』その言葉が持つ真の意味を――。
***
あれから、早くも一週間が経過した。
一刀は今、管輅家で寝泊まりし、宿の対価として家事と雑用をこなす。その合間に管輅へ挑む日々を送っている。戦いについてはいくつかのルールが定められており、まず管輅からの攻撃はなし。あくまで受けに徹する。が一点。対して一刀はいつ襲っても何を使用しても構わない。が二点目。ただし、管輅邸の敷地内でのみ許される。の三点だ。
それで、気になる戦いの行方はと言えば――、
「ほーれっ」
「ぎッ、ひゃああ!!」
すでに恒例となりつつある情けない悲鳴と、庭に投げ捨てられる衝撃音が、今日も朝から鳴り響いていた。
「やれやれ」
「いってぇ~~この妖怪じじい……!」
この一週間、一刀は一撃入れるどころか、まともに触れることすらできていない。あまりの実力差に老人相手やら正々堂々などという精神はとっくになく、不意打ち、騙し打ち、罠、夜襲、朝襲――ありとあらゆる手を使ってみても触れることすら叶わないのだ。
戦闘開始から三日目、あまりの強さに一刀は疑問をそのままぶつけてみた。すると、管輅から“虚空拳”なる武術の開祖だと答えが返ってくる。虚空拳とは相手の力を最大限に利用して、自らは最小限の力で相手を制する武術らしい。例えて言うなら合気道に近いもの。このルール下ではうってつけの能力だ。道理で目にも留まらぬ早業で、ポイポイ投げ捨てられるわけだと納得する男、すぐにそんな後出し納得いくかと喚くが無駄であった。
「こりゃ一刀。いつまでも庭で寝とらんで、朝飯の支度をせんか」
背中の痛みがようやく治まってきた頃に、忌々しい声がする。
「今やろうと思ってたとこだよ……たくっ」
久しく味わうことのなかったやるせなさ。そろそろ勉強でもと珍しく考えていた所に、宿題やったの! と母親に言われるあれと同じだ。ブツブツと憎まれ口叩きながら一刀が起き上ると、今度は、庭先から声がする。
「ごめんください」
そこには一刀と同年代と思われる女性。清廉という言葉がよく似合う佇まいで一礼、白を基調とした深衣に、腰まで届くしなやかな黒髪は美しく映える。
「椿ではないか? どうしたんじゃ、こんな朝早くから」
「久々にお休みを頂きましたので。ところで……そちらのお方は?」
不意に重なる視線。その切れ長で甘美な瞳は一刀にとって、まさしく一服の清涼剤だ。奥ゆかしさを感じさせる彼女の可憐さは、ひねた老人に、繰り返し繰り返し投げ飛ばされる苦難の中で見た、心のオアシス。一刀は荒んだ感情を洗い流し、元気に名乗る。
「お、俺は北郷一刀! え、えーと……色々あって今この家に居候させてもらってます!」
「左様なのですか。私は椿と申します。以後お見知りおきください」
再度、椿は丁寧におじぎをして、戻る顔には上品な笑み。一刀も立派な年頃の男子だ。美しい女性の登場に、照れながらもテンションは急上昇である。しかし、そんな心境は管輅に見透かされ、
「なにをニヤニヤと……一刀はとっとと飯の支度をせんか!!」
思いのほか、こっぴどく怒鳴りつけられるのであった――。
***
椿を部屋に招くと、一刀は嫌々ながらも食事の支度に取り掛かる。それはガスコンロの偉大さを称える時間の始まり。火を起こすだけで、どれだけめんどくさいことか。不慣れな男にとって一食用意すると言うことは十分すぎるほど重労働である。今もケホケホと煙にむせ返り、払うように手で仰いでいる。と、そこに見かねた椿が、長い髪を後ろでキュッと束ねてやってくる。
「手伝う必要はないぞ椿。そんなこと一刀にやらせておけばよい」
「でもこんなことしか、私にはお役に立てることがありませんから」
管輅の言葉も受け流し、椿は火吹き竹を一刀から笑顔で受け取り、慣れた手つきでかまどに火をくべ、テキパキと朝食の支度を進めていく。その手際のよさに一刀が、思わず手を叩いて褒めちぎると、椿は少し困りながら、大したことではと繰り返す。それでも悪い気はしないのだろう。凄い凄いといつまでもはやし立てられ、彼女の頬は緩んでいた。
その様子を居間から面白くなさそうに睨む老人……は置いておいて、一刀はいつもより早く、美味しい朝食にありつくことができた。
美人で炊事までこなす椿。当然、管輅との関係が気になるところだ。食事が始まるとさっそくその話題になる。
話によれば彼女、管輅の世話になった経緯があるそうだ。椿は両親を五年前に亡くしており、頼る身寄りもなく、まだ幼かった少女は管輅によって救われる。このじじいが人助け? と一刀は首を捻りたくなるが本当の話。それから三年、管輅と暮らした椿、今は平原の宿屋に住み込みで働き、少しでも余暇ができれば、恩返しにと管輅のもとを訪れているそうだ。
――椿……なんていい子っ!
一刀は彼女の素晴らしい孝行娘っぷりに、目頭が熱くなっていた。
しかし、なぜ北郷さまはここで? と話が自分に向くと、天の御遣いでと答えるわけにもいかず、どう説明したものかと目は泳ぎ、口を濁す。すると今度は、管輅が横からペラペラとしゃべり始め、いつの間にか一刀は弟子入り志願者にされていた。ついでに、現在は弟子入りを認めるかどうかの試験真っ最中だとも。いくらその場凌ぎの嘘とは言え、管輅に弟子入り希望など一刀には不愉快極まりない。とは言っても悲しいかな他にいい案もなく、何より今更訂正するわけにもいかず。結局、不本意ながらその話に合わせることになった。
ここで食事と話は一区切り、一刀は本日の家事をこなすため立ち上がる。差し当たっては食事の後片付けだ。
「北郷さまはご自身の修練をお続けになってください。片付けは私が」
「あ……ありがとう椿さん」
そこになんとも優しい心遣い。またもや食器を笑顔で受け取り、彼女は洗い場へと向かう。その背を見つめる一刀は思った。三年間も曲がりきった性根の持ち主と過ごして、よくもこんな素晴らしい人格者に成長したものだと。ああ、これが反面教師ってやつかと納得する一刀は続いて掃除を始める。が、それもすぐに、
「今日は全て私がやりますので、北郷さまはどうぞ修練をお励みに」
「え? でもあの…………はい」
ニッコリ笑顔に抵抗できず、清掃道具はあっさり奪われてしまう。鼻歌混じりでさっそくと掃除を始める椿を尻目に、庭へ降りた管輅が逆手で手招く。どうした? 修練に励むのじゃろ? と。
そう。これはひっじょ~にまずい流れだった。椿の親切によって、一刀が家事を行うはずだった時間は弟子入り志願の嘘もあり、丸まる管輅との戦闘時間に早変わりだ。それはつまり……普段の何倍も投げ飛ばされるという意味で――。
「甘いわ馬鹿者!!」
「えっ! ちょっ! んぎゃあーー!!」
「頑張ってください北郷さま」
なぜか威力も何割増しの投げを食らい続ける羽目に。念を押すが、彼女は何にも悪くない。そこに邪な気持ちは微塵もない。一刀もわかっている。けれど泣きたい気持ちは止まらない。
「もっと真面目にやらんか!」
「もういやアアァァ!!」
「あらあら、お諦めになってはいけませんよ!」
夏の日差しがさんさんと降り注ぐ中庭に、一刀の絶叫と衝撃音がこだまする。
そこに混じる椿の無垢な声援、一刀は人知れず涙するのであった。
読んでいただきありがとうございます。
内容とは全く関係ありませんが、ここの所オリンピックで寝不足の日々。色んな感動がありました。
私も少しでも誰かに感動を与えられるようになれたら……なんて考えてみたり。
精進します。