【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
貴族領の治安維持を領主に委任すると決定しても、帝国軍及び内務省から、各領主家雇用の治安部隊へと、治安維持業務がスムーズに移管できた訳ではない。豊かな財力を持つ大諸侯であればいざ知らず、中小の領主の中には、人件費や装備費など維持経費を負担できないと、私兵や治安部隊を持たない者も少なくなかった。帝国政府に逆らう事など思いもよらない彼らからすれば、皇帝ジギスムントの勅令は、将に寝耳に水だった。
実際、当時の枢密院分院の議事録を見ると、内務省から派遣された警察官や社会秩序維持局職員に去られては、自領の治安維持など不可能になると、中小領主の困惑と不安が盛んに記されている。
だが、それさえも皇帝ジギスムントの想定内だったようだ。私兵や治安部隊を持たない領主達には、領地の治安維持体制が調うまでの経過措置として、特に申し出れば、現行の治安体制を継続する、そして、現行体制の継続を望んだ領主家は、自領の治安維持体制が調えば、帝国皇帝に対して、政府派遣の警察官らの即時退去を要求する権利を持つと明言した。
だが、経過措置と言いながら、最長何年までしか許可しない、とは定めなかった。この点、ジギスムントは確信犯的に年限を定めなかったのではないか、と筆者は考えている。
自領の治安維持を帝国政府に依存しなければならない、という事実は変わらずとも、政府から強制されてそうなるのと、自ら申し出てそうするのとでは、人間心理上、雲泥の差がある。客観的には選択の余地が無くとも、自らの選択の結果そうしたのだと思えれば、人はその事に不平不満を抱きにくくなるからだ。まして、現実問題として限りなく不可能ではあっても、自領を警備できる私兵や治安部隊を調えれば、皇帝に向かって、政府派遣の警察官らに退去して頂きたいと、領主たる自分は堂々と宣言する事が出来るのだと思えば、将来のその日を想像して、現在の状況を受け入れやすくもなる。そして、皇帝ジギスムントは、領主らの同意の下、帝国領内の治安維持体制を堅持できるとの「実」を手に入れられる。
青年期より、先帝ルドルフの政務秘書官として、領内各地の領主らと親しく言葉を交わし、彼らの性向を熟知していた冷徹な政治家・ジギスムントらしい老獪さだと言えよう。事実、旧帝国滅亡まで、領内の治安維持を帝国軍や内務省に委ねていた領主家は決して少なくはない。
以上の様に、親政開始したジギスムントが行った枢密院分院の設置と、治安維持体制の再編成は、先帝ルドルフが憂慮していた領主貴族らの増長を巧みに牽制すると共に、彼らの意向をある程度は満足させて、領主達の中に潜在する反帝国、反政府的感情を鎮静化、なおかつ、拡大戦役終了後に推進した軍縮にも裨益する、極めて巧妙な政策だった。
しかし、上記の見解は、新王朝開闢後、軍務省・学芸省が共同設置した旧軍戦史編纂所で、同帝が推進した軍縮政策の分析、研究が進んだ結果、提唱されるようになったものである。旧帝国時代では、絶対的権力者たる帝国皇帝が臣下に過ぎない領主貴族と妥協、膝を屈した事の証左だと、建国期の政治史を専門とする歴史家達から批判される事が多かった。その結果、表立って語られる事は無かったが、旧帝国末期の歴史学会では、強堅帝ジギスムント1世とは、父親の帝国宰相ノイエ・シュタウフェン公ヨアヒム死去後は、指導力を発揮できなかった凡君である、との学説が主流だった。
だが興味ぶかい事に、この説が提唱されてきたのは、主に帝国暦400年代以降。前述した通り、この頃から対同盟戦争が激化し、さらに領主貴族の勢力が伸長して、皇帝権は凋落傾向にあった。当時、皇帝に代わって国政を壟断する権臣たちは、自己の存在を正当化し、かつ対同盟戦争を遂行するための大義名分として、共和主義勢力を討伐した社稷之臣、ノイエ・シュタウフェン公という存在を殊更に称揚したのではないか、との見解を紹介したが、同公を偉大な存在だと称えるために、その後見を受けていたジギスムント帝が必要以上に貶められた結果なのではないか、と考えている。
それ以前はむしろ、同帝を専制君主の理想と称揚、先帝ルドルフの政策を受け継ぎ、帝国の基を固めた名君だとする、文華帝エーリッヒ1世の見解が主流で、新王朝で行われた歴史研究の結果、旧王朝で提唱されていた見解の妥当性が立証された好例だと言えるだろう。
閑話休題。先帝以来の懸案だった領主貴族らの増長を巧みに抑え、帝国領内の反帝国感情を鎮静化させたジギスムント帝だが、この時点で既に齢40歳を超え、在位は20年近くになっていた。
同帝は帝国暦71年、54歳で崩御しており、後世からの視点ではあるが、その治世は後10年強しか残っていなかった。ジギスムント帝の死因は心不全とされているが、この頃から身体の不調を度々訴え、数日に亘って病床に臥す事も珍しくなくなっていた。青年期から政務に精励し過ぎたが故の過労死、これが後世の一致した見解だが、ジギスムント自身、自身の余命が決して長くはない事を自覚していたのかもしれない、この頃から、自身の死後を見据えたと思しき施策を実行し始めている。その中でも特徴的なものが、一年を通じた公式行事・各種式典の確立だろう。次章ではその内容を解説したい。