【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
さて、以上が皇太子及び皇族の子女が受けた教育の概要だが、その教育体制の特色として、これまで屡々言及した学友制度が挙げられる。これは、ジギスムントの父親ノイエ・シュタウフェン公が「帝位継承者だからと、教師と一対一で教育されたのでは、良好な人間関係を構築できる社会性が身に付かない。知識偏重で独り善がりな人物になってはならない。自分自身が如何なる人間であるのか、客観視できるようになるためにも、共に学ぶ仲間は必要だ。また、専制君主とは孤独な存在にならざるを得ない。豊かな人間性を養うためにも、せめて子供時代の間だけでも、ジギスムントに対等の友人関係を与えてやりたい」と主張。祖父ルドルフも賛同した事で、皇族男性の教育制度として、旧帝国滅亡時まで続く学友制度が開始された。
同制度を端的に述べると、皇太子と同世代の皇族男子、及び大貴族当主の息子を10~15人ほど選抜、彼らを1グループとして、ともに上記の勉学や身体鍛錬、或いは集団活動を行わせるというもので、いわゆる学校で言う所の「学級(クラス)」を編成する事だった。ジギスムントの事例で言えば、母親カタリナの妹達の息子、ジギスムントから見れば従弟達と、当時の大貴族の子息-例えば宮内尚書ノイラート候マルクスの孫で、自身の許嫁アデルハイドの弟アルフォンスなど-から選ばれている。
皇太子は立場上、学友達の統率者、リーダー的存在(学校制度に準えて言えば「学級委員長」)となり、彼らとの交流を通じて、対人関係を構築できる社会性、そして即位後に必要となる指導力などを養っていった。
また、これは時の皇帝や皇后の意向に左右されたのだが、少なくとも学友制度を発案したノイエ・シュタウフェン公と、賛同した皇帝ルドルフに関して言えば、学級内に限り、皇太子と学友達は平等に取り扱われるべきと主張。幼少期から特権意識を持ち過ぎれば、増長した精神の持ち主にしか育たない、帝位継承者たる者、皇太子という立場ではなく、自身の能力とカリスマによって他者を服従させる器量が無ければならない、少なくとも、そのような人物になる事を目指すべきだと言い、ジギスムントを特別扱いする教授がいれば、ノイエ・シュタウフェン公は自ら叱責し、態度が改まらないようであれば、その教授は解職して、ジギスムントには「周囲の学友達がみな行っているのに、教師がお前はやらなくて良いなどと言えば、それは教師が間違っているのだ。その結果、学友達は出来るようになったのに、お前一人だけが出来ないという事になるからだ。それを恥だと思いなさい。楽が出来て良いなどと考えるような、怠惰な男になってはならない。自分よりも無能で怠惰な男を主君として忠誠を尽くす事が出来るか、自分の身に置き換えて考えてみなさい」と指導した。
これは、ジギスムントが特別扱いされる事で、人格と能力がスポイルされる事を防止すると共に、専制君主には本質的に不可能な事なのだが、可能な限り対等に付き合える相手を作ってやりたい、という親心だったと思われる。
ジギスムントへの教育時に創設された学友制度は、この後、皇太子への教育体制として受け継がれたほか、時代が下ると、その有効性が認められて、皇太子以外の皇族男子や大貴族当主の後継者にも適用されるようになった。しかし、前述したように、教育段階が上がるにつれ、皇太子を含む学友内で能力の格差が明らかになる事は避けられなかった。
むしろ、格差が生じる事で、ジギスムントが自己を客観視できる能力を養う事がノイエ・シュタウフェン公、そしてルドルフの意図だったと考えられるが、ジギスムントが同世代の皇族男子の中で劣っている、帝位継承者ととして不適格ではないかとの疑義が生じかねない学友制度は、ジギスムントの即位を熱望していた母親カタリナからすれば、今すぐにでも廃止したい、憎むべき制度だった。
カタリナは妹達が生んだ息子、即ち甥達の評価とジギスムントの評価とを比較し、一喜一憂し始め、父たる皇帝ルドルフがジギスムントを廃嫡し、甥の中の誰かを皇太孫に選びなおすのではないか、との疑念に憑りつかれて、夫たるノイエ・シュタウフェン公ヨアヒムに対し、ジギスムントを帝位に就けたくないのか!と、幾度となく激高して詰め寄ったが、ルドルフの意向もあり、ヨアヒムは教育方針を変えようとしなかった。
後世、ジギスムントは理想的な専制君主として、歴代諸帝から称えられる名君となるので、この教育論争は父親と祖父に軍配が上がると言えそうだが、この結果、仲睦まじい夫婦だったヨアヒムとカタリナの間には隙間風が吹き始め、権力闘争の結果、親友や僚友とも断絶せざるを得なくなったヨアヒムは、その寂しさのあまりか、密かに愛人を持ち、愛人との間に男子カスパーを儲けた事が決定打となって、ルドルフ崩御後、二人は完全な別居状態に陥ってしまう。
このヨアヒムとカタリナの事例が示すように、特定の人物を帝位に就けたいという意向を持つ者からすれば、その人物の劣等性が明らかになりかねない学友制度は、確かに邪魔物でしかなかった。そのため、学友制度が創設時の理念通りに運用された事例は、旧帝国史上、それほど多くは無い。時の皇帝や皇后、または権臣の意向により、才能に乏しい、或いは性格に難がある皇太子の劣等性を目立たせなくするため、敢えて能力・人格ともに低劣な人物を学友に選ぶなど、教育体制ではなく、権力闘争の道具に堕してしまった事もあった。
一例を挙げると、ダゴン星域会戦において、遠征軍総司令官を務めたヘルベルト大公は、戦地にも自身の取り巻きを引き連れ、彼らを相手に遊興に耽っていた事はよく知られているが、彼ら取り巻き達は、同大公の学友でもあった。これは、父帝たる敗軍帝フリードリヒ3世が、自らの地位を脅かすような優秀な息子を育てたくないと、敢えて無能で怠惰、快楽に溺れる質の貴族子弟らを学友にあてがった結果だと言われている。
ただ逆に、制度の趣旨を理解し、皇太子に匹敵、あるいはそれ以上の能力の持ち主を学友に選抜して、皇太子も優れた資質を示し、彼らの尊敬と忠誠を勝ち取る事が出来れば、即位後、彼ら学友たちが側近集団を形成、新帝の統治を強力に補佐する事が出来た。詳しくは後述するが、父親ノイエ・シュタウフェン公の死去後、ジギスムントが親政を開始すると、彼ら学友達の中から、同帝の治世を助けた名臣・名将が生まれている。
本節の最後に、勉学や身体鍛錬以外で、彼ら皇族子女に課せられた義務を説明したい。それは、皇宮ほかで行われた各種公式行事への出席。ゴールデンバウム家は、家業として人類社会の統治を行っているという名目上、当主たる皇帝の家族も、その責務を分有しているとの考えから、公式行事には家族全員で出席する事が慣例だった。また義務ではなかったが、帝室主催の舞踏会やパーティ等にも出席する事が多かった。前述したように、旧帝国では舞踏会やパーティの席上、皇族や大貴族同士が重要な政治的談合を行っており、皇太子ほか皇族男子にとっては、自分の存在を列席者に認知してもらい、将来に備えた人脈を形成できる格好の場であった。また、帝位を窺う非嫡出子(寵姫の息子)らは、自身の優秀性を喧伝し、皇太子を凌ぐ人物との評価を得るためにも、進んでパーティへの出席を企図していた。
以上のように、旧帝国においては、未成年の皇族と雖も、日々の大半は勉学と身体鍛錬に費やされ、その合間に公式行事や各種パーティへの出席が半ば義務付けられており、その多忙さは平民、いや中小貴族の子弟の比ではなかった。そのため、重圧に耐えられず、精神的に病み、社会参加が出来なくなった者も少なくなかった。新無憂宮の各所には、保養所という名目の精神病院が設けられていた事は、半ば公然の秘密であったが、その患者たちは権力闘争に敗れて、事実上の幽閉状態に置かれた皇族だけではなく、心を病んでしまった皇族も多数いたと思われる。
第2代皇帝となったジギスムントは、これらの重圧に耐え、日々の勉学と身体鍛錬に励み、皇族として公式行事やパーティ等にも出席、そして、後世の皇帝から専制君主の理想と称えられる人物にまで成長できている。次章では、立太子の後、彼が摂政皇太孫になるまで、如何なる生活を送っていたのかを述べたい。