【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
以上の事を前提に、ジギスムントが摂政皇太孫に就任していた頃の帝国政界の状況を概説したい。当時の政界で主流派だったのは、ジギスムントの父親ノイエ・シュタウフェン公ヨアヒムを領袖とするシュタウフェン派である事は既に指摘しているが、彼らの大半は武官貴族であり、その基盤は帝国軍、軍務省、そして内務省と、軍及びその影響力が強い組織にあった。
反面、国務省や財務省、司法省などを基盤とする文官貴族は、軍事偏重で、支配体制の安定よりも領土拡大を重んじる彼らシュタウフェン派を必ずしも快く思っていなかった。前述した配給体制の構築を巡る対立でも示されているように、出兵と占領に託けて自派の勢力拡大を図る彼らの姿勢は、帝国を半ば私物化するものだと批判する者も多く、帝国領の無秩序な拡大よりも、領内の支配体制の確立こそが重要との信念を有する文官貴族は、その政治理念上からも、軍事偏重で出兵を急ぐ武官貴族を批判していた。
また、ノイエ・シュタウフェン公爵が自派で帝国軍の要職を独占し、かつての僚友達を軍中央から事実上、追放した事は、軍内に反シュタウフェン派の形成をもたらした。彼らは文官貴族達と密かに結び、拡大した帝国領の治安回復と維持こそ、次代の帝国軍が担うべき責務であり、臣民の生存と安寧を念願する皇帝陛下の御心にも叶うのだと、短兵急な出兵に反対の論陣を張った。
ここに、枢密院を基盤として勢力を拡大した領主貴族達の思惑が絡んできた。領主らの中には、例えば大手軍需企業を経営して、帝国軍との関係が深いビューロー伯爵家のように、シュタウフェン派に属する貴族家もいたが、その出自や立場上、領主貴族は国務省との関係が深くならざるを得ず、帝国領内の均衡ある発展を重視する国務尚書ハーン伯爵の意向もあり、多くの領主貴族は反シュタウフェン派、もしくは非シュタウフェン派という状態になっていった。
さらに、連邦時代の星系政府首相や議会議員から転身した領主貴族の中には、自分達が支援したから、一介の連邦軍人に過ぎなかったルドルフが連邦政界で台頭し、かつ帝国皇帝にも即位できたのだ、即ち、我々こそが帝国建国の真の立役者なのだと、夜郎自大的な自尊心を有する者も少なくなかった。
帝国暦34年、そんな彼らのプライドを逆撫でする事件が起こった。攻守連合の盟主国、カストル軍政府のスー総統が病死し、長男ディビットが後継者として擁立されたが、後継者争いに敗れたスー総統の三男スー・ウェイ・ダオは帝国に亡命している。その際、亡命を仲介した軍務尚書ノイエ・シュタウフェン公の推薦で、ノイマン侯爵の爵位を与えられ、かつアルベルトに改名している。
敵国の有力者を殊更に優遇し、敵勢力の団結を揺さぶり、調略の成功率を上げる為の措置だったのだが、連邦時代からルドルフに与していた領主達の中には、そう受け取らない者が多かった。旧帝国では、中央の威信を高めるため、政府や軍に仕える文官・武官貴族には比較的高い爵位を与え、一般の領主貴族には、子爵・男爵位が与えられる事が半ば慣例になっていたのだが、爵位の低さに不満を持っていた領主達にとり、如何に敵国支配者の子息と雖も、その出自を考えれば、どこの馬の骨とも知れない、傭兵あがりの男に侯爵位が与えられて、連邦時代からの政治家、議員である我々が、それよりも低い爵位しか与えられないとは!と、憤激の種にしかならなかった。勢い、その怒りの矛先が、推薦者ノイエ・シュタウフェン公に向けられるのも当然だっただろう。
とは言え、絶対的権力者ルドルフの後ろ盾があり、次期皇帝の父たるノイエ・シュタウフェン公の権勢に表立って逆らえる者はいなかった。反シュタウフェン派は政界、官界、そして領主内に密かな広がりを見せたが、彼らを糾合し、領袖となれる人物が不在のため、大きな政治勢力になる事は出来なかった。
仮に寵姫マグダレーナの一件が発生せず、ルドルフ譜代の臣下であり、ペデルギウス派の領袖だった内務尚書クロプシュトックが、帝国暦30年代も依然として中央政界に健在だったならば、ルドルフ最晩年からジギスムント即位に至る政治状況は、全く異なるものになっていたのではないか、と指摘する歴史家は多い。
彼ら反シュタウフェン派が潜在的に望んでいたであろう「領袖」。それは実に意外な所から現れたのだ。帝国暦37年、ルドルフの皇后エリザベートが崩御すると、ルドルフの長女で、皇太孫ジギスムントの母親カタリナがエリザベートに代わり、皇宮の女主人的な存在となったが、彼女こそ、反シュタウフェン派が擁立した領袖に他ならない。次章では、ルドルフ崩御時に生じるであろう権力の空白期間を狙って、旧帝国では密かに「二月事件」と呼称されていた、皇女カタリナを首謀者とするクーデター未遂事件の全容について概説したい。