【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
責任感の強いジギスムントは、父親ノイエ・シュタウフェン公が帝国宰相として専決処分した事柄について、その決定に異を唱える事こそしなかったが、必ず報告を求め、その内容を熟知するよう努めた。父親を信頼し、政務を一部委ねながら、決して依存はしていなかった。この問題でも、父親の推薦状がある案件は基本的に承認して、その証として国璽を押したが、そこに至る事情と理由は、必ず報告するよう求めた。
また、先帝ルドルフの在位中、皇帝の政務秘書官として帝国内の各地を訪れ、現地の総督や領主らと親しく言葉を交わしていたジギスムントは、その時から独自の人脈を構築していたと思われる。皇帝即位後、学友たちを政務秘書官等に任命して、即位前の自分と同様、帝国領内を視察させ、現地の「生の声」を収集させてもいる。この結果、この問題の背後にある事情―功を焦った一部の貴族が現地勢力と裏取引した-も、ある程度、察知していた節がある。
ジギスムントは、この事に関して感想を漏らす事こそ無かったが、心中密かに期するものがあったのだろう、これ以降、自己の支配権確立のため、父親の派閥とは別に、自前の政治勢力を形成するべく、密かな行動を開始している。それは、攻守連合滅亡後、シリウス・経済共同体の征服戦争が、攻守連合へのそれとは異なる形で遂行された事の遠因ともなっている。詳しくは次章で詳述したい。
なお余談ながら、明敏な政治家であった父親ノイエ・シュタウフェン公は何故、息子ジギスムントの感情を刺激し、面子を傷つけるが如き行為を容認したのか、現在に至るまでも定説はない。裏取引した貴族を領主に推す推薦状には「愛民の志ある〇〇(当該貴族の名)は、現地の臣民らにも敬慕され、領主に相応しき人材云々」と、形式的な文言しか書かれておらず、その真意を窺う事は出来ない。
今までに出された見解は、①息子が不満を抱いても、父親に逆らう事は出来ないと、ジギスムントを軽視していた、②息子の態度が硬化する事は予想できていたが、爵位と領地を求める若手貴族たちの要求に抗しきれなかった、③一門の党首として、例え息子と敵対しても、自家と一門の利益を最優先せざるを得なかった、④既に齢60歳を超え、家族との不和から鬱病も発症して、往年の指導力は失われていた、などだが、どの説も説得力に乏しい。
ノイエ・シュタウフェン公は息子ジギスムントの力量と性格を熟知しており、皇帝権を犯す行為を容認するはずがない事は認識していただろう。そして、自派閥や一門に属する貴族家の統制も出来ていた。それは、ノイマン候アルベルトの如き傲慢な人間さえも、同公の指示に従っていた事から看取できる。
また、政府や軍での権限や役職を活用して、自家や一門の権勢拡大を図る手法を確立したのは、確かに同公ではあったが、後世のブラウンシュヴァイク公などと比較すれば、あくまで貴族社会での常識との前提はあれども、その内容は常識の範囲内に収まっていた。さらに、同公は帝国暦55年、自殺の可能性が高い不審死を遂げるが、それまでに大病を患った、または鬱病を発症したなどの記録は無い。
確かに、一門の党首、主家として、自家の傘下にある従家の要望を叶え、一門全体の権勢拡大を目指さざるを得ない、という事情は確かにあっただろう。だが、詳しくは後述するが、敢えて皇帝権を犯す行為を容認したのは、ジギスムントの反感と危機意識を煽り、父親とその派閥に依拠しない、自前の政治的基盤を形成するよう促し、将来の親政に備えさせた、例えて言うなら、政治上の「親離れ」を目論んでいたのではないかと思われる。幼い息子ジギスムントの学友に優れた人材を配して、皇太孫の地位を脅かしかねない従弟アンドレアスさえも学友から外さなかったノイエ・シュタウフェン公の厳しい姿勢を考えると、帝王教育の最後の仕上げとして、優れた軍人政治家である私自身を超えてみせよ、という課題を与えたのかもしれない。