【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
もともと、種々雑多な武力集団の連合体だった攻守連合には、国家としての求心力が乏しい事は前述の通りだが、それは裏を返せば、各集団の国家への執着が乏しい、という事でもあった。それは盟主国たるカストル軍政府の幹部たちも同様だったのだろう。いや、指導者ディビット自身、攻守連合という国家は銀河連邦で台頭したルドルフの攻撃に対抗するために作った便宜的な枠組み、だと見なしていたようだ。そんな彼らが、帝国軍に大敗し、その主力を喪失した今、攻守連合の枠組みを解体して、再び個々の集団に戻ろうとするのは、自然の流れだった。事実、帝国暦45年、帝国遠征軍が同国への最終的な侵攻を開始した直後、ディビットが攻守連合の解散を宣言したのは前述した通りだ。
帝国軍の偵察部隊に逮捕された攻守連合の軍人らの証言によると、帝国暦42年、帝国領内での共和主義勢力の蜂起に応じて、侵攻開始した攻守連合軍の主力が帝国軍に敗北した直後から、ディビットらはこの逃亡劇を企図していたようだ。
残存兵力の一部を使い、イゼルローン回廊方面への航路を確保し、戦闘用艦艇を量産する代わりに、大量の人員を運べ、かつ居住性も高い大型輸送船を大量に建造させている。そして、帝国軍の残虐さを殊更に喧伝し、人民の恐怖心を煽り、子供を持つ青壮年世代の家族、及び青年男女の単身者を優先的に脱出させている。それは帝国暦42年から同45年まで、帝国遠征軍が最終的な侵攻を開始する直前まで続いていたと云う。
だが、疑問となるのは、何故、惑星上の住民をほぼ全て引き連れていったのか、という点だ。逃亡だけを考えるならば、大量の非戦闘員を同行させるのは足手まといにしかならないからだ。この点について、筆者はディビットらが新国家の建設を想定していたから、ではないかと考えている。
こと国家建設との事業において、宇宙時代の以前と以後で全く異なる事が1つある。それは国民という存在をどこから連れてくるか、という点だ。
宇宙時代以前、人類が地球という惑星にのみ居住していた時は、無主の地を発見し、そこで新国家の設立を宣言しても、その地が全くの無人という事は少なかった。少数であっても、原住民との形で人間は存在していた。彼らはそのまま新国家の国民、被征服民と見なされた。かの13日戦争以前、地球上のヨーロッパ地方に建国された諸国が南北アメリカ・アフリカ等の大陸に進出、入植しているが、原住民は例外なく被征服民として、現地の統治機構に組み込まれている。
だが、宇宙時代以降、人類が銀河系宇宙に進出を開始すると、無主の地こそ無限に存在したが、その地に国民たり得る生命体は存在しなかった。況や人間など1人としていなかった。よって、宇宙空間に新国家を建設しようと企図する場合、まず考えるべきは、その国の国民をどこから連れてくるか、という事だった。統治する者はいても、統治される者達が存在しなければ、国として活動する事は出来ないからだ。故に、ディビットら攻守連合の残党が、数多くの人民―その数は数億人から数十億人とも見られている-を帯同したのは、まさに彼ら人民を新国家の国民として考えていたからではないか、というのが筆者の見解である。
そして、この事は史上有名なあるエピソードを想起させる。即ち、帝国の奴隷階級だった共和主義者アーレ・ハイネセンが天然ドライアイスの船体を持つ宇宙船イオン・ファゼカス号を建造し、多くの同志たちと共に、アルタイル第七惑星を脱出。航行困難なイゼルローン回廊を突破し、帝国の手が及ばぬ新天地に到達したという、自由惑星同盟の建国神話である。
前巻にて述べたように、筆者は、旧帝国で奴隷が置かれていた状況を考えると、どのような形態でも恒星間宇宙船を建造できる可能性は乏しい。自由惑星同盟を建国したのは、辺境域の領主貴族らが密かに派遣した深宇宙探査を目的とする農奴・奴隷であり、アーレ・ハイネセンは、彼らが同盟領に到達した後、自分たちの団結の象徴として掲げた偶像だったのではないか、との見解を有しているが、このディビットら攻守連合の残党達が敢行した逃亡劇こそ、アーレ・ハイネセン神話の原典であり、さらに言えば、攻守連合最後の指導者ディビット・スーこそ、自由惑星同盟の建国者とされたアーレ・ハイネセンのモデルになった人物ではないかと考えている。
無論、ディビットらが自由惑星同盟の建国者だと主張したい訳ではない。歴史上、アーレ・ハイネセンらの逃避行、いわゆる「長征一万光年」の開始は帝国暦164年、再建帝オトフリート2世の御代と伝えられ、攻守連合の滅亡より一世紀以上の後である。この年が後世、自由惑星同盟建国の起点とされたのは何故か、当時の帝国の状況から、さらに考察する必要があるだろう。同盟建国の謎を旧帝国史の視点で解明する事は、極めて大きな研究テーマであるため、本節ではこれ以上の記述は控えるが、一点だけ指摘しておきたい。アーレ・ハイネセンという人物の見方、研究姿勢についてだ。
旧帝国では、建国者ルドルフを神君と崇め、神聖不可侵、不敬罪の名の下、実証的研究は不可能だった事はよく知られているが、同盟におけるアーレ・ハイネセンがよく似た状態だった事はあまり知られていない。
同盟ではイデオロギー的史学が歴史学界の主流だったため、建国者ハイネセンの存在はおろか、その業績とされる長征一万光年もまた、完全に歴史的事実と見なされていた。それどころか、ハイネセンは人類史が生んだ偉人、いや聖人であり、長征一万光年は人類史上に燦然と輝く奇跡だと、宗教的言説を以て語られてもいた。
同盟末期、トリューニヒト政権に代表される衆愚政治を嫌った同盟軍人の中には、アーレ・ハイネセンの如き指導者が現れて欲しい、いやハイネセンの時代に生まれていれば、その人格に全幅の信頼と尊敬を捧げ、軍事面の補佐役として一生を全うできたのに、などと語る者もいたと言うが、これなどもハイネセンを絶対視する、英雄待望論そのものだと言えるだろう。側聞するに、有権者たる市民の生命と人権を守る事が民主国家の軍人の責務だというが、卓越した一個人の為に戦いたいと願うのは、彼ら同盟軍人が否定、闘争した帝国軍人と何ら変わらないのではないかと思えてならない。
筆者はハイネセンの実在それ自体を疑う者だが、仮にハイネセンが実在の人物だったとしても、同盟建国という歴史的事象は、彼一人の存在にのみ由来するものでないだろう。銀河帝国の建国がルドルフ・フォン・ゴールデンバウムという一個人の存在にのみ帰せられるものではなく、連邦末期という時代状況の中で生起した歴史的現象であるように。
如何に優れた人物であっても、歴史的事象の発生を一個人にのみ還元するなど、歴史という人類共通の記憶への冒涜に等しいのではないかと、個人的には考えている。歴史とは、一個人によって左右されるほど、生易しいものではないのだ。
本作は、今まで神聖不可侵、不敬罪の名の下に堅く閉ざされていた旧帝国史の実証的研究を目指すものだが、その姿勢は同盟史に対しても同様である。旧帝国史を主題とする本作では、同盟史は副次的な扱いにならざるを得ないだろうが、それでもハイネセンに象徴される建国当初の同盟を理想的な民主国家と見なし、かのトリューニヒトに代表される末期の同盟を衆愚政治に堕した崩壊すべき民主国家と見なす、斯くの如きステレオタイプな見方は排除し、あくまで実証史学の手法で歴史を考察していきたいと思っている。
本章の最後に、攻守連合の征服戦の結末、そして帝国領に組み込まれた同国の存在が、その後の人類史に如何なる影響を与えたのか、その点を概説しておきたい。