【概説】ゴールデンバウム朝銀河帝国史:第2巻「拡大期~強堅帝ジギスムント1世」 作:旧王朝史編纂所教授
…帝国暦45年の暮れ、あと数日で新年を迎える帝都オーディンは、年末特有の高揚と喧騒に満ちていたが、今は深夜12時をやや過ぎた頃、人も町も静かな眠りについていた。十分な睡眠こそ健康維持の秘訣であるとした先帝陛下の意向で、夜間の活動が自粛されていった結果、今では夜9時を過ぎると、人通りは極端に少なくなった。お蔭で、皇帝たる余が地上車で走行していても、見咎められる心配が少ないのは有り難いと思う。
同乗のファーレンハイト伯は端然と座し、余が聞いた事以外は一切喋ろうとしない。皇帝の前で緊張しているのか、いや生来そういう性格なのかは分からないが、余自身が酷く緊張している事を自覚している今、この沈黙は却って幸いだった。無駄話で緊張を解したいと思う者には辛いだろうが、余は元々、沈黙を苦とはしない性格である。これから自分が行わなければならない事を想定し、独り静かに決心を固めたいと思っている今、この静かな車中は、精神を集中できる格好の場であった。或いは、伯はそこまで考えて、沈黙を保っていてくれたのかもしれない。
地上車が目的地、父上が暮らす別邸に着いた。運転手を務めた親衛隊員が無言で扉を開けてくれると、温かった車中に、キンと音がしそうな程、冷厳な寒気が突入してきた。
毎年の事だが、オーディンの冬の寒さは酷い。そう言えば、御祖父様は生前、連邦の首都星テオリアの冬の方がもっと寒かったぞと、寒さに震える私や妹に向かって話してくれた事があった。何故、今、突然に御祖父様の事など思い出したのか。私は不安なのか。これから父上と対決せねばならない事に対して。あの強く揺るぎなかった御祖父様に縋りたいと、無意識にでも思ってしまったのか。駄目だ。御祖父様はもう居ないのだ。今の皇帝は私なのだ。私が皆から頼られる存在でなければならないのだ。自分の怯懦を叱咤する意味で、親衛隊員が着せかけてくれた外套を断り、敢えて平服のまま、父上の自室まで歩いていく事にした。
邸内は森閑としていた。照明は必要最小限に抑えられ、人の気配が無かった。外聞を憚る会談であるため、父上が人払いする事は予想していた。しかし、護衛兵の気配さえ無いのは意外だった。私が実力行使に出ないと見切っているのか、私の信頼を得るための作為か、それとも、会談に先立ち私を混乱させるのが目的か、いや、ここまで来れば、区々たる小細工など気にはしない。同行のファーレンハイト伯と親衛隊員らに、隣室で控えるよう命じると、軽く息を調え、父上の居室の扉を静かに開けた。
父上はこちらを向いて立っていた。軽く笑みを浮かべたまま、扉の前に立ち尽くす私の前まで歩いてくると、親しみを示すように、私の肩に軽く手を置き、応接用のソファに腰掛けるよう、手で合図してきた。
反射的にソファの方向に身体を向けかけたが、その瞬間、父上のペースに乗せられている事を自覚できた。温柔な安楽椅子に腰かけて、久しぶりに会った父子が歓談する?そんな事のために私はここに来たのではない!私は父上に引導を渡すためにここへ来たのだ!その時、私を支配していたのは怒りだっただろう。未だに私を子供扱いする父親への苛立ち。あの時、私の精神状態は、まさに思春期のそれだった。
そして、短いが深刻な怒りは、私から言葉を奪い去ってしまった。私は、ここに来るまで、父上に突きつけるべき言葉をどれほど考えてきただろう。それを無くした私に残されたのは、たった一言だけだった。完全な結果論なのだが、むしろそれで正解だった。あの時、私が小賢し気に自己の優位を誇示していたら、父上は私を見捨てていただろうから。
「父上、貴方が担っているもの全て、私にお渡し下さい。今の私には、それを言える資格があります」
私の口から出た言葉はたったこれだけだった。だが、この一言を口にするために、私がどれ程の年月と労苦を必要としたか、余人には分かるまい、もし理解してくれる者がいるとすれば、天上の御祖父様か、目の前に佇む父上だけだろう。
父上の顔に浮かぶ笑みが変わった。今までの笑みが社交の道具だとすれば、それは手塩に掛けて育ててきた息子が見事に成長した姿を目の当たりにした、心底から満足した父親の微笑だった。これが私の自惚れでは無い事は、続く父上の言葉が証明してくれた。
「ジギスムント、辛いぞ。…だが、嬉しいよ。よろしく頼む。全て、お前の思う通りにして構わない。誰が何と言おうと、私はお前を信じているから。そして…ありがとう。私はお前を誇りに思う」
静かな声だった。だが、私には雷鳴にも等しい衝撃だった。私は悟らざるを得なかったからだ。今までの事は全て、父上の想定通りだったという事実を。敢えて私を蔑ろにし、危機意識を募らせ、自分に対抗できる政治勢力を構築させるよう仕向けて、そして、自分自身に引導を渡しに来るように。
不意に父上の顔が歪んだ。一瞬、何が起こったのか理解できなかった。瞼の熱さが涙の存在を自覚させてくれた。私は泣いていた。もう何年も人前で涙を見せる事など無かったのに。あの時の涙の理由は何だったのか、私自身にも未だに分からない。張り詰めた緊張が一気に緩和した事への安堵?会談結果が私にとって最上の結果に終わった事への高揚?全てが父上の掌の上だった事への羞恥?自分が道化そのものだった事への憤怒?そのどれでも有り、どれでも無い様な気がしている。確かなのは、あの時、理も非も無く、ただ父上に縋りついて、頑是ない赤子の様に、泣き喚きたいという衝動を必死に堪えていた事だけだ。
私の手に柔らかな感触が伝わってきた。父上が絹のハンカチを渡してくれていた。私は俯いたまま、父上のハンカチで目元を拭うと、感謝と辞去の言葉を呟き、そのまま身を翻した。無作法と叱責されて当然の行為という事は自覚できていたが、もう限界だった。これ以上、ここに留まっていては、私はゴールデンバウム朝銀河帝国第2代皇帝ジギスムントではなくなってしまう、ジギスムント・フォン・ゴールデンバウムという名の人間でしかなくなる、それだけは出来なかった。私自身のためにも、そして父上のためにも。
…父上の邸宅から新無憂宮の自室まで、どうやって帰ったのか、ほとんど記憶が無い。ただ、黎明直前の寒気が異様に厳しく、まるで自分の身体が氷柱か金属塊と化したかのような、凍てつくような寒さに凍えていた事だけは明確に覚えている。
余はそれから、3日ほど高熱を発して寝込んだ。侍医の話では、心身の疲労と寒気に晒された結果の風邪だという。その間、余はずっと夢を見ていた。夢の中で、余は歯車になっていた。見上げるような巨大な機械、その1つの部品として、来る日も来る日も回り続けた。体は金属だから疲労はしない。ただ毎日、少しずつ体が摩耗していく事が不安だった。しかし、その設定と矛盾するのだが、掌に感じる柔らかさと、拳全体を包んでくれる温かさが何とも心地よく、ずっとそのままで居たかった。しかし同時に、その温かさは余を酷く疚しい気持にもさせた…
快癒後、何気なくアデルハイドに夢の話をしてみた。すると、アデルハイドが言うには、余は寝込んでいる間中、右手に握ったハンカチを決して離そうとしなかったらしく、ずっと手を握り締めた結果、血行が悪くなる事を心配したアデルハイドは、看病する間ずっと、余の右拳をマッサージしていた、と云う。
この時のハンカチは今でも余の執務机に入っている。だが、もう取り出す事はあるまい。余はもう人前で涙を流す事は無いのだから。