目を覚ますと、いい匂いが俺の鼻をくすぐる。体を起こして台所の方へと足を運ぶと、椿が鼻歌を歌いながら今日の朝ごはんを作っていた。
椿は俺の存在に気が付き、その可愛らしい顔に花を咲かせる。
「零様、おはようございます。」
「おはよう。」
匂いの正体は味噌汁だったよう。椿が作る味噌汁は絶品であり、そこらの料理人も顔負けの出来栄えである。
「美味しそうだな。」
「えへへ、ありがとうございます。」
やはり、その笑顔は彼女そのものである。それなのに、俺は椿を怪しんでしまっている。複雑な感情のまま、俺は彼女の木の葉の色をした髪を撫でる。
そうしていると、次第に他の奴らも顔を出していき、自然と席に着いていた。俺は茶碗などを出して椿の手伝いをした後に椅子に座る。
「いただきます。」
そうして、俺はその味噌汁を啜った。
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毒殺もしない、隙を伺っている訳でもない、ただ昔のように一緒に暮らしている。彼女は、俺にはまだ見えていない真実があり、それにより生き返ったのだろうか。黄泉は関係がない?
神社の屋根に寝転がり、青空を眺めながらぼんやりと考えていた。
「分からない…」
あれから一週間が経過したものの、未だに分からずにいた。当たり前だ、安直に黄泉からの刺客と言える訳が無い。いや、そう思い込みたいだけなのかもしれないが。
俺も人間臭くなったものだ。逆に、多くの死に触れてきて、良くまともな人間のままでいられたものだ。
「零様、どうされました?」
声が頭上から聞こえる。顔の角度を変えてそちらを見ると、椿の姿があった。彼女も屋根の上に昇ってきたらしいが、俺がいるからだろうか。
「考え事だ、気にするな。」
「そうですか。それなら、気にせず零様の横に座らせていただきますね。」
そう言い、彼女は俺の隣に座る。今更、焦ることもなくなった。目線は青空のまま、外の涼しい風を感じている。何が楽しいのか、椿はそんな俺を見て微笑んでいた。
「なぁ、椿。」
「なんでしょう?」
「どうして蘇ることが出来たんだ。」
ついに、俺は訊いた。世間話のように、軽く。
もう、こんな思考を終わらせたい。そんな怠惰が働いたのだろう。所詮、俺も人間臭い人間なのだ。
椿の方に目を向ける。椿は未だに微笑んでいた。
「分かりません。」
「そうか。」
「でも、予想はしてます。合ってるかは分かりませんけど。」
「それでもいいから、聴かせてくれないか。」
俺は考え込みすぎたのだろう。最早、作業のような質問だった。それでも椿は笑顔を絶やさない。
「本当に予想なのですけど、でももしそれが理由なら私は幸せです。」
「どういうことだ?」
椿はその手を、滑らすように俺の手に重ねる。人差し指と中指で絡ませようとしてくる。何か、おかしい。
「零様に会いたいから、です。」
そう言うと、椿は俺の上に跨ってくる。椿の笑顔が、まるで艶かしいもののように見える。
俺はやっと焦りを覚えた。今の椿は何かがおかしい。いや、本当はずっと…
「零様ぁ…あの頃からずっと貴方様をお慕いしておりました。」
手が動かない。彼女の力量は俺と比べるまでもなく弱いはずだ。しかし、手が動かないのだ。それは決して心因的な原因では無い。椿は俺に何をした。
「零様も私の事を好いておりますよね。私にはわかっております。ただ、先に恋人ができてしまわれたので、公に愛せないだけですよね?」
違う。そう否定しようとしても、口も動かない。霊力の動きは無い。エネルギーの流れを感じることが出来ない。しかし、現に動かなくなっている。
「零様…私たち二人だけですね。」
そう言うと、彼女はまるで今から狩り取ろうと獲物を見る肉食獣の様に俺を見下ろし、ニヤリと笑う。
椿はゆっくりと、そのあどけない顔を近付ける。俺の顔を両の手で持ち、更に近付けてくる。彼女は、俺と接吻をしようとしている。
抵抗したくても出来ない。動かない腕に出鱈目な力をいれる。しかし、虚しく微動だにしない。もうすぐ、彼女の唇が───
「れいー、どこだー。」
屋根の下から芳香の声が聞こえる。それに反応し、椿の動きが止まる。
彼女は顔を離し、俺の上から退けた。その瞬間、やっと腕や口が動くことを確認する。
「邪魔が入りましたね。えへへ、続きはまた今度。」
そう言って、椿は屋根から飛び降りて芳香に話しかけている。芳香は顔を見上げ、俺に向かって手を大きく振る。
俺は手を振り返すが、心はここにあらず。今まで娘のように可愛がっていた椿の妖しい笑みを思い出し、これまでにないほどの動悸を感じた。
彼女は確実に椿であることは明らかだった。しかし、その上でずっと俺に対してあの様な感情を抱いていたのか?俺の中の椿の像が崩れていくのを感じる。
「れいー、青娥が呼んでるぞー。」
「あ、あぁ、今行く。」
いつの間にか椿の姿はなかった。俺は冷や汗を拭うと屋根の上から降り、芳香の方へと駆け寄った。