火焔猫燐と名乗ったその妖怪は、僕の方へと近付いて来ると手を差し伸べてくる。僕はその勢いに気圧されながらも、その手を握る。
「お燐って呼んでね、よろしくー。」
「よ、よろしくお願いします…」
いや、不条理に敵視していないだけ恵まれている。悪い人でもなさそうだし、少し戸惑ってしまっただけだ。
「さとり様から何をするかは説明されてる?」
「はい、温泉の管理ですよね。」
「そうそう。あたいも温泉の管理はしたことないから、なんとなくの説明になっちゃうけど、ごめんね?」
確かに、さとりさんが管理をしていたと言っていた。しかし、時間が無いからお燐さんに続きを任せたという流れだろう。分からないことがあれば、改めてさとりさんに聞けばいいことだし、説明されるだけでもありがたい。
「いえ、ありがとうございます。」
「おぉ、人間にしては生意気じゃないね。」
お燐さんの中の人間像は一体どうなっているのだろうか。もしくは幻想郷の人間は生意気だとか?少なくとも僕は良い印象を与えられたようだ。
「それじゃあ早速やろっか。」
お燐さんは健康的な笑顔を向けながら部屋の奥へと向かおうとする。そういえば、お燐さんの印象が強すぎて目を向けられてなかったが、この部屋は箒や積まれたタオル等が業務的に揃えられていることからスタッフオンリーの部屋であることが分かる。
部屋の奥には二つの金属で出来た扉がある。
「左の扉は外に出る扉で、ここから番台の所へと行けるよ。右の扉はボイラー室ね。こっちから説明しよっか。」
そう言うと彼女はボイラー室への扉を開き、中に入るように促してくる。僕はそれに従い中へはいると、汗が吹き出るほどの熱気が閉じこもった部屋に二つの大きなバルブがあり、上にはメーターもあった。
「このバルブで温度調節するんだけど、右は温泉用で基本41度で設定してるから。左はサウナ用で95度の設定ね。放置してると緩んだりするから、毎日確認してね。」
「分かりました。」
「それと、ないとは思うんだけどサウナの方は温度高くしすぎないでほしいな。」
そんなことをしてしまえば息をするだけで肺が燃えてきまいそうだ。しかし、温泉の方は何も言わないことから、それが理由では無いのだろう。
「えっと、どうしてでしょうか。」
「このバルブに繋がってる管がね、少し老朽化してるのさ。ほら、天井を見て。」
指差した方向に目線を送ると、サウナへ繋がる管に鉄板が貼られている。応急処置にしても荒っぽいだろう。
「温度を上げすぎるとあの鉄板が耐えきれないんだよね。中から私でも耐えられない熱風が吹き出してくるから。」
妖怪が耐えられないのならば、僕はきっと浴びた瞬間溶けてしまうのだろうなと、恐ろしい想像をしてしまった。苦笑いをしつつも身体を震わせる。
「燃料は旧地獄の熱だから、薪をくべたりとかはしなくていいからねー。じゃあ、次は番台だね。」
そんな身震いも露知らず、お燐さんはボイラー室から出ていく。僕もそれに続くように熱気の空間を後にした。
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ボイラー室の隣にあった扉から外に出ると、そこはやはり青い空は見えず、黒い岩の天井が見えるだけだった。太陽の光は一切ないと言っていいだろう。
そこから壁沿いに歩いていくと、遠くには街の灯りが見え、何やら喧騒を帯びているように思える。
「ここが温泉の入口だよ。」
街の星に目を奪われていると、お燐さんは僕に声をかけてくる。振り返るとそこに赤と青の暖簾がかかった二つの入口があった。お燐さんは青い暖簾の下にいる。
僕は彼女に付いていくと、中は温泉というより銭湯のような雰囲気があり、残念ながら牛乳が入った冷蔵庫は存在していなかった。
「この中に入ってお金の管理とかトラブルの対応とかをしてね。」
お燐さんはドンドンと叩きながら番台の存在を示す。番台に入るための扉を開けながら中に入るように促してきたので、僕はその中に入った。
「よし、番台の中にタオルとか石鹸とかあると思うんだけど、それは貸し出し用の備品ね。それぞれ一銭で貸せるから。」
一銭という金額を扱う日が来るとは思わなかった。しかし、明治時代の一銭は今のどれくらいの価値があったのだろう。
「そういえばこの温泉ってどれぐらいの金額で利用できるんですか?」
「あ、言い忘れてた。」
お燐さんは「うっかりうっかり」というようにウィンクしながら軽く舌を出した。茶目っ気のある女の子のようだ。いや、事実そうなのだろう。
「12歳以下は一銭、それ以上は一銭五厘だね。」
「厘…?」
「あー…えっと、ちょっと待ってね。」
そう言うとお燐さんは何やらワンピースに隠れたポケットをゴソゴソと漁り始めた。
「これが…一銭で、これが一厘ね。」
「おぉ、これが昔の高価…」
「やっぱりお金の単位が違うんだね。」
「そうですね、今は円です。」
「円!?はぇー、景気が良くなったもんだね。」
「いやぁ、そういう訳でもないんですけどね…」
話が噛み合っていないように感じるが、少々面倒なのでそのままにしておこう。
「さて、営業時間は朝の7時から11時、そして18時から22時までね。足と夜の営業だから。営業時間前に温泉のお湯を張って、営業時間後は温泉の水を抜いて掃除。」
正直、八時間労働であることに驚いた。偶然なのだろうが、定時で仕事を終えることが出来ることに嬉しさを覚える。酷使させると思っていたから。
「そうだ。一応覚えていて欲しいんだけど、この温泉は『博麗神社』から頂いたものだから、あまり無駄に使わないでね。」
「博麗神社、ですか?」
「あれ、聞いてない!?」
お燐さんは驚いた表情を向ける。幻想郷に来たばかりで何も分からないのだが、それでも珍しいことなのだろうか。
「初めて聞きました。」
「えぇっとね…博麗神社はこの幻想郷で悪いことをしようとする人やこの幻想郷内で起こった異変を解決する巫女がいる神社だよ。」
外の世界で言う警察のようなものだろうか。確かに、この事実は知らなくては困るだろう。紫さんはともかく、何故みんな教えてくれなかったのか。
「その博麗神社からの温泉なんですか?」
「うん、温泉の成分は博麗神社のもので、温泉の温度は旧地獄のもの。だからお互いの利益のためにってことで、両方が温泉を運営してるんだよね。」
「へぇ…」
温泉の熱は旧地獄のもの。しかし、おかしい。温泉というものは地下深くに存在しているものが、地熱により生まれるものだと俺は認識している。そうなると、まるでここが地下深くに存在する場所のようだ。
「…」
「…どうしたの?」
「お燐さん、質問いいですか?」
「な、なに?」
「あの、ここってもしかして地底なんですか?」
「え、それも知らなかったの?」
どうして誰も言ってくれないのだろう。