行きよりも長い道のりを耐え、何とか地霊殿まで辿り着いた。僕は額に滲んだ汗を拭い、一息つく。
結局、街にはお燐さんもいなかったため、無駄に歩いた悲しみが僕の太腿を痛めていた。帰ったらさとりさんのペットに顔を埋める許可をいただこう。そう思い、僕は地霊殿の玄関のノブを掴んだ。
「…痛って!」
その時、頭に針が刺さるような鋭い痛みを神経が受けとった。それに伴うように猛烈な目眩が僕を襲う。グラグラと世界が揺れる。以前、学校の行事で酩酊した人の視界が分かるゴーグルを装着したことがあるが、あれよりも酷いように思える。
「うぅ…」
僕は無駄な怪我を避けるべく、地面に膝を着ける。この眩暈を耐えるしか、方法は無い。背筋に寒気が走った。
「……耐えた。」
僕は再び立ち上がり、深呼吸をする。場酔いをしてしまったのかもしれない。意外と、僕は感受性が高かったのか。そんなことを考えながら、未だに刺さる頭痛に耐えながら地霊殿の中に入る。するとそこは薄暗く、生物の気配を感じられなかった。
誰でもわかる。これは何かがあったのだと。
「あのー、誰かいませんかー?」
虚しく反響するだけで、返してくる言葉は響かなかった。これは、本格的に何かがあったと考えた方がいい。そして、僕の出る幕では無い。外に出よう。
そう思い、玄関のノブに手を触れる。
「…なるほど。」
一切開く気配はない。ホラーゲームの典型的な展開に、僕は思わず納得の言葉を呟いてしまった。いや、本当は軽い現実逃避の、ため息に似た言葉だ。
僕は直ぐに真正面を向き、自分の部屋へと向かう。
「あ、そういえば。」
温泉の記録簿を仕舞い忘れたことを思い出した。こんな時に、面倒だけど仕方がない。
そうだ、温泉から外に出られるのではないだろうか。僕にしては良い発想をしている。とはいえ、玄関の摩訶不思議な力から、それがあまり期待できないのも事実だが。
僕は小走りで温泉の方へと向かう。
「道中にも、誰一人いないなぁ。」
さとりさんやペットは一切見当たらない。廊下は走ってはいけないと言われているが、もう走ってもいい気がする。そんな遠い距離でもないし、小走りからマラソンをする時ぐらいに足を速めた。
そして暫く走っていると、廊下の真ん中に何かが落ちている。僕はそれに駆け寄り拾い上げた。
これは、お燐さんのリボンだ。ヒラヒラと揺れながら僕の手からはみ出している。何故、お燐さんのリボンが落ちているのだろう。いや、単純に考えて先に帰ってきたのだろうが、どうにも嫌な予感が僕の臓物を浮かせる。
こういう時、勘が良いことをつい呪いそうになる。
「あれ、急に立ち止まった?」
後方から聞き覚えのない声がした。振り返ると、そこにはにこやかな表情をした少女の姿。奇しくもさとりさんと同じような姿なのだが、違う点はその髪は緑に染まっており、三つ目の目が閉じているのだ。
この子は一体誰なのか。
「誰ですか?」
「え?」
そう訊くと、少女は僕の目線の延長線、つまり自身の後方に顔を向けた。なんとベタなボケをかますのか。
「貴女ですよ、緑髪の。」
「え、私が見えるの?」
「まぁ、視力は良い方なので。」
それとも暗がりの中よく見えるね、という話だろうか。どちらにせよ、僕は目の前の少女の姿をハッキリと確認できている。
少女は不思議そうな表情を浮かべ、僕の姿を前から横から後ろからと、新生物を発見した子どものような瞳で見てくる。
「あの、どうしました?」
「え?あぁ、珍しいなぁと思って。ゴメンネ?」
確かに、地底で僕以外の人間の姿を見た事は無い。それは、そう興味深く観察もしたくはなるか。しかし、この少女は一体誰なのだろう。地霊殿にいるということは、ここに住んでいる妖怪なのだろうか。
「えっと、一週間前からここの温泉で働かせていだいてる者で、上嶋直人と言います。よろしくお願いします。」
「『古明地こいし』だよ。よろしくね。」
「え…?」
「お察しの通り、さとりお姉ちゃんの妹だよー。」
妹がいらっしゃったのか。初耳だった。しかし、それならば彼女の容姿には納得がいくものがあった。
「すみません。まさか妹さんがいらっしゃるとは知らずに、挨拶もできていませんでしたね。」
「ううん、しょうがないよ。」
お姉さんに似て、寛容な人のようだ。
さて、折角人を見つけたのならば、訊かなくてはならないものがある。無論、今の地霊殿の薄気味悪い雰囲気についてだ。
「恐縮ですが、何故このような状況になってしまったのでしょう?」
「あぁ、実はね…
「お燐さんが?」
僕が居ない間に、彼女に何があったのだろうか。しかし、暴れたと言う割には床や壁に傷はなく、家具やインテリアも美しさを保っていた。
「…まだ、目が慣れていないんじゃないかな。」
「え?何がですか?」
「目を凝らしてごらん、ナオ君。」
「ナオ君って…」
いや、とりあえずこいしさんの言う通りに目を凝らしてみよう。僕は目を細め、眉間にも皺を寄せてみる。すると、まるで今生成されたかのように、その惨状が浮かび上がってきた。
床や壁は引っかき傷だらけで、照明のガラスも割れている。何故、気が付かなかったのだろうか。
「これは…」
「安心して欲しいのだけど、さとりお姉ちゃんは他のペットを連れて避難してる。全員無事だよ。」
「それは、良かったです。」
皆が無事であるということに胸を撫で下ろす。そのおかげか、その針を刺すような頭痛が止んだ。これで腹の立つ痛みに苛まれることは無い。
それにしても、こいしさんは何故避難をしていないのだろうか。
「そういえば…あれ?」
話しかけようとすると、目の前にいたはずのこいしさんの姿が消えた。いや、いつの間にか消えていた。辺りを見渡してみるも、やはり気配すら感じられなかった。
「…まぁ、いいか。」
僕は温泉へと足をセカセカと動かした。
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温泉の入口まで着くと、僕はなんの躊躇もなくその扉を開いた。予備のタオルや洗剤が崩れていたり裂かれていたりしているのを見ると、ここでもお燐さんが暴れ回ったのだと理解ができる。
巻き込まれないように、早く記録簿を仕舞いに行こう。耳を澄まし、少しの物音も聞き逃さないようにする。
「…誰も居なさそうだな。」
僕は普通に歩き始める。二つの扉の前に立ち、左の扉に手をかける。ここが開けば外なのだが、果たして開くのだろうか。淡い期待を抱きながら、そのノブを捻る。
「…なるほど。」
めちゃくちゃ普通に開いた。しかし、僕はその扉を閉めた。鍵を閉め、扉の前に重い棚を引っ張って置く。
僕は見た、巨大な猛獣が二股に分かれた尻尾をうねらせているのを。決して、僕が対峙していいわけが無い獣が。
「よし、記録簿は明日仕舞おう。」
そうして僕は踵を返した。しかし、あの妖怪がそれを許す訳もない。爆音と同時に僕の横を、先程置いといた棚の破片が飛び散っていった。
僕は急いで後ろを振り返る。
「た、ただいま。お燐さん。」
返事はボディランゲージで示してくれるようだ。大きな猫パンチを振りかざしてくる。僕は急いで避け、全速力で地霊殿の方へと向かうのだが、それを遮るように、お燐さんは棚を投げて入口を塞いだ。
つまり、僕は詰んだ。
「なん、でよ…」
「え?」
どうにかして生き残る方法を考えていると、目の前の妖怪から似合わない女性の声が聞こえた。いや、聞き覚えがある。これは彼女の声だ。
僕はその大きな猫を見つめると、ノイズのように姿が不安定だったことが分かる。お燐さんが、顔を隠して苦しんでいる姿が見え隠れしている。
「お燐さん!僕です、上嶋直人です!」
「う、えじ、ま…なおと…」
「気を確かにしてください!」
しかし、そんな僕の呼びかけは虚しく、猫は僕に対して肉球を振り上げる。
咄嗟に逃げようとしても、既に遅い。彼女の爪は僕の太腿を裂いた。そして、血飛沫と一緒に僕の体は二つの扉の前に飛んでいった。
「アアアアアッ!!!」
痛い。痛い。喉も裂けてしまう程の無意味な叫び声が部屋の中で響く。僕は無我夢中で後ろの扉に手をかけ、その中に入る。
しかし、それが僕のミスであることを、痛みの中から絶望した。ここはボイラー室だ。空気が歪むほど熱されたこの空間。出口は、僕の後ろにしかない。
「クソ…クソクソォッ!!」
僕は鍵を閉める。足を引きずりながらボイラー室の奥へと向かう。
逃げ場は無い。僕はここで死んでしまう、そう意識し始める。そうすると、背筋が凍るような、ドス黒い闇が僕の心臓を握り潰そうとしている感覚に襲われる。
パイプの前で、僕は静かに沈んだ。
「死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ…」
心臓が痛みを刻む度に、太腿から血が吹き出る。傷口が焼けるように熱い。部屋の熱気など、比較にもならないほど。それと同時に、指先が冷えてきた気がする。部屋の熱気など、頼りにならないほど。
気持ち悪くなってきた。しかし、そんな状況でも目線の先にある扉は容赦なく開かれる。あの巨大な生物が現れる。そう思い、僕は目を閉じる。
「あたい、貴方のことが嫌い。」
予想だにしない言葉に、僕は目を開く。目の前の猫は、人型だった。
「さとり様に、好かれてるから嫌い。」
「お燐さん、意識が戻ったんですね!僕のことを嫌っているかもしれませんが、助けてください!」
「無理よ。私は、私の感情に自我を抑えられてるんだから。」
どういうことなのだろう。目が霞んできた、悠長にしていられない。
「お願いです、どうか助けてください。」
「だーかーらー!出来ないのよ。今だって、どうして貴方と話していられるのか、不思議なぐらいだもん。」
「…じゃあ、貴女は一体?」
「あたいの、冷静な部分のあたい。貴方、なんであたいの精神と喋ってるのよ?」
何が何だか分からない。当事者なのに、話に置いてかれている。目の前のお燐さんが、お燐さんの精神?意味がわからない。
「兎も角、貴方のことが嫌いなあたいが、今振り上げているのよ。拳を。」
「………じゃあ、僕は死ぬしかないのですか。」
「そんなこと知らないわよ。」
頭が混乱している。目の前のお燐さんは何なのだ。今、拳を振り上げている?目の前の生物は腕を上げようともしていないというのに。
「貴方、死にたい?それとも、死にたくない?」
「…死にたくないです。」
「へぇ、そうなんだね。それじゃあ、生きてみなさいよ。」
「でもどうやって…」
「ああもう!うるさい!!『でも』とか『じゃあ』とか『助けてください』とか!自分で考えろ、バーカ!!」
何故罵倒をされなくてはならないのだ。至って正常な反応だろう。少し、目の前の女性に腹が立ち、僕はその女性を睨んだ。
「元はと言えば、貴女が僕を勝手に嫌ってるからこうなったんでしょう!?貴女の責任だ!」
「ハァ!?あたいだって、好きで貴方のこと襲ってるわけじゃないのよ!」
「そうですね、嫌いで僕のこと襲ってるんですもんね!!」
「屁理屈だぁ!!だから嫌われるのよ!!バカアホマヌケ!!」
「責任から逃れようと話を逸らそうとしてますよね!?ということは若干自覚はあるんですねー!!」
「
喧嘩の中でも、一際大きな声でお燐さんはそう叫んだ。それに、僕は気圧されて言葉を詰まらせる。
「あたいだって、こんなにみんなに迷惑かけて…責任感じないわけないでしょう?」
お燐さんは怒ったような表情から、歯を食いしばるようにして視線を落とした。
「貴方にだって、嫌いだけど、嫌な奴じゃないことは知ってるから…傷付けたいだなんて思ってないわよ…」
いきなり悄らしくなられては、こちらとしてもどう話しかければいいのかが分からない。どちらにせよ、お燐さんはこの状況が本意ではないようだ。
「こんな嫉妬なんて、今までにも何回かあった。でも、『あの声』がして、私の中の感情が肥大化していくのを感じた。次第にそれは、貴方を殺したいという感情へと変化していった。」
「…」
「お願い、貴方を殺させないで…」
お燐さんは俯いて、顔を覆うように手で縦に鋭い瞳から溢れる涙を抑える。
「貴方を死なせたくはないの…」
絞り出すような声で、そう呟いた。その言葉を聴くと同時に、空間が歪み始める。お燐さんの姿が大きくなっていき、その姿は先程の獣の姿へと変貌を遂げる。
正しく、その手を振りあげているのだ。
「お燐さん…僕は貴女のこと、嫌いじゃないですよ。」
そうして、僕は背後にあるパイプに繋がっているバルブを大きく捻った。すると、それは大きく震え始め、離れていても分かるほどに熱気を帯び始める。
あまりの揺れに、大きな猫は動揺して辺りを見渡し始める。
「お疲れでしょう?少し、寝てて下さい。」
天井のパイプから何かが吹き出る音が聞こえる。次第にその音の数が増えていき、最終的にはパイプに張られていた鉄板が弾かれ、猫の頭目掛けて飛んだ。
カンッと硬い音が響くと、同時に鋭い熱気が噴射されて彼女の身体を焼き始める。苦しそうな雄叫びを上げながら、彼女はその場に倒れた。
「…姿が、元に戻った。」
その獣は収縮して、元のお燐さんの体に戻った。服などは流石に着ていなかったが、そのお陰で身体には火傷の痕が付いていないことを確認する。流石、妖怪だ。
僕は急いでバルブを最大まで閉め、メーターが0を示したのを確認する。そして振り返る。
「僕も、ちょっと眠いや。」
彼女の寝顔を見て、僕も意識を手放した。