腕に包帯を巻き、布団ですやすやと寝息をたてている妖夢さんの横で、僕とお燐さんは畳の上で静かに座っていた。恐らくこいしさんもいるはずだ。幽々子さんは神田零に呼ばれて席を外している。
あれからずっと沈黙が続いている。横目でお燐さんを見ると視線はずっと下の方にあった。
「ねぇ、直人。」
「どうしました。」
恐る恐る声をかけてきたお燐さんに、僕はいつもの声色で返事をした。言おうとする内容は既に分かっている。
「貴方はさっき、妖怪になったって言っていたでしょ?それ、本当なの?」
「本当ですよ。」
「…そうなんだ。」
僕が妖怪になった。それはお燐さんにとってどのような感情を湧かせるのだろうか。少なくとも、表情からはポジティブな雰囲気を感じることは出来ない。
また、沈黙が訪れる。この白玉楼に足を踏み入れた時の静寂と違い、妙に肩の重みが不愉快だ。
「深く訊いてこないんですね。」
「…訊く勇気がないだけよ。」
「別に、貴女にとって重要なことでもないのですよ?」
そう言うと、お燐さんは何かを言おうとしてその口を閉ざした。何を言おうとしたのだろう。
分かるわけもないその『何か』を考えていると、妖夢さんの瞼がゆっくりと薄目に開いた。
「目が覚めましたか?」
「あれ…直人?」
呼び捨てだ。つまり、無意識の世界で交わした会話は覚えているということ。これなら、僕に対して信用をしてくれるのではないだろうか。神田零を討つ為の仲間にすることができるかもしれない。
妖夢は体を起こし、自分の手の平を眺めては閉じたり開いたりする。
「ご迷惑をおかけしてしまいました。」
「いえ、お気になさらず。」
「そんな、私、直人を殺してしまいました。」
「その話はもう済んだことでしょう?」
妖夢はその言葉に言葉を詰まらせた。そうは言っても、責任を感じてしまうものなのだからしょうがないのだろう。
僕は人差し指で眉を掻き、一拍置いて口を開いた。
「それなら、今度何か奢ってください。それでチャラです。」
「いや、でも…」
「なぁんだ、何かを奢るほどでもないのですね。」
「…分かりました。」
少しズルいかもしれないが、これぐらいが彼女にとっては丁度良い苦痛だろう。自責の念に駆られて、当の本人には優しくされて、彼女の精神は形容しがたいストレスを抱えているはずだ。それから逃れるために目の前の僕に対して特別な感情を抱くはずだ。
無論、それは恋愛的な意味では無く、いや、別にそれでもいいが、贖罪や信用などの僕にとって有益な感情に変化するだろう。上手くいけば、宗教のように盲信するかもしれない。
これは彼女の控えめで負い目を感じやすい性格から予想できることだ。彼女の精神は必ず防衛機制を働かせる。人は、すぐに変わることなどできないのだから。
「…」
「あの、お燐さん?」
「何よ。」
「なんで、僕のことをそんなに睨んでいるんですか?」
「睨んでないし。」
ふと横に目を向けると鋭い瞳孔が僕の横顔に刺さっていた。明らかに不機嫌だ。僕は何かしてしまったのだろうか。
僕が苦笑いをしていると、部屋の襖から「失礼します。」という声が掛かる。僕が返事をすると、それは開かれた。居たのはここの女中さんだった。
「神田様がお帰りになられる為、上嶋様と火焔猫様をお呼びになられております。」
「あぁ、そうですか。すぐに向かいます。」
そう伝えると、女中さんは襖を閉じて去っていった。神田零に従うのは癪に障るどころの騒ぎでは無いが、今はまだ刃を向ける時では無い。それに、僕が妖怪になっているのだから何か恨み辛みを孕んだ存在であることは分かっているだろう。その上で僕を呼んでいるのだ。それならば、その便利なタクシーは利用する他ないだろう。いや、人力車と言った方が良いか。
「それでは、お暇させていただきますね。」
「本日は誠に申し訳ございません。」
「だから、いいですって。」
僕が立ち上がると、お燐さんは足が痺れてしまったのか不自然なほど慎重に立ち上がる。
「それじゃあ妖夢、今度奢ってくださいね。」
「はい、必ず。」
そうして僕はその部屋を出た。その際、お燐さんがまたも僕のことを睨みながら、その痺れた足を庇いながら進んでいた。
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玄関まで着くと幽々子さんと神田零が待っていた。幽々子さんは申し訳なさそうに口をすぼめており、対する神田零は脳みその血管が切れてしまう程にウザったい優しい笑みを浮かべていた。
「ごめんなさいね、折角来てくれたのにこんな酷いことを…」
「いえ、妖夢は何かに囁かれた後にあの様になってしまったようです。つまり、何者かの意図が絡んでいると考えた方がいいです。」
「そう…」
幽々子さんは少し考えるような素振りを見せたが、すぐに僕に向かってぎこちない笑顔を向ける。
「またいらしてね。その時は謝罪と妖夢を助けてくれたお礼を込めて歓迎するわ。」
「ありがとうございます。また来ますね。」
軽くどうでもいい会話を交わすと、神田零は偉そうに「それじゃあ行こうか。」と玄関を出た。僕は仮面のような笑顔でそれに付いていく。
神田零の肩に掴まり、お燐さんも腕に掴まった。そうして、奴は僕らに一声掛けた後に瞬間移動をする。その際、僕は目をつぶらずにその歪んでいく空間を眺めていた。神田零らしい気持ちの悪い空間だ。確かにこれは目を閉じていた方が目が汚れない。
暫くすると、景色は漸く見慣れた景色へと変形していき、最後には地霊殿の玄関の景色に完成した。
「よし、着いたぞ。」
「ありがとうございます。」
そんなこと思ってもないが。
「それじゃあ、俺は永遠亭に帰るからな。」
「はい、分かりました。それではさようなら。」
そして、奴は姿を霞のように消した。僕はそれを確認すると、深いため息を吐いた。あんな奴と同じ空間にいるなど、全くもって不愉快だ。
「ねぇ、直人。」
「どうしました。」
白玉楼の時とは違い、不貞腐れているかのような声色で話しかけてきた。今度は言おうとする内容が分からない。
「あたいのこと、呼び捨てで呼んで。」
「…なんでですか?」
「うるさい。それと、敬語で話さないで。」
「いや、ですからなんで───」
「敬語。」
なんてベタな展開だ。どうせ先に知り合った自分より、知り合った初日に呼び捨てで呼び合う妖夢に負けた気がする、みたいな理由でそんなことを言っているのだろう。まぁ、嫌われているわけでは無さそうだから、別にいいんだけど。
僕ってこんなにひねくれた人間だったっけ。いや、本当はこんなちっぽけな考え方をする人間だったのだろう。妖怪になって自分の人間性を知るなんて、面白い皮肉だ。
「わかったよ、お燐。」
「よろしい。」
お燐は満足そうに笑った。そんなに眩しい笑顔は、下水道を通るヘドロのように汚らわしい僕に向けていいものでもない。僕は耐えきれず目を逸らした。
「さぁ、今日はもう帰ろう?」
僕の前を歩き始めたお燐の後ろ姿を見て、僕は自分の情けなさに寒気がした。地霊殿って暖かったはずなんだけどな。なんだか、泣きたくなってきた。
誰にも理解できないだろう、僕の腹の中など。お燐さんがあの笑顔をこんな僕に向ける程なのだ。もちろん、それは僕が自分のことを話したがらないから。だから、誰も僕を理解できないのだ。さとりさんのような能力がない限り。
今の僕に出会ったら、さとりさんはどんな顔をするんだろう。楽しみで吐きそうだ。
今日僕は、ゴミのように死んだのだ。そして、これからも僕は死に続けるのだ。この幻想郷という恐ろしい楽園で。