蒼白い闇の中、古びた日本家屋の内部はすでに朽ち果てて廃墟と成り果てていた。
ギイイ…
ギイイ…
軋んだ音を立てながら、二人の女性が歩く。
渡り廊下は広く、左右には煤けた襖が並び、その奥に天井から垂れさがる暖簾があった。床まで届きそうなその暖簾は、風も無いのにゆらゆらと漂うように揺らめいていた。闇の中ぼんやりとようやく確認できる暖簾の奥は更に深い闇。
ギシリ…
黒いパンプスがひと際大きく軋んだ音を立てて動きを止めた。
後ろの女性もやや前の女性にぶつかりながらも動きを止め、前方を見つめる。闇の中浮かぶ二人の女性は対照的であった。後ろに立っているやや背の高い蒼い髪の女性は、白のワイシャツにデニムと爽やかな装い、そうして前に立っている女性は、長い黒髪に黒のワンピースとまるで闇に紛れるように黒づくめだった。二人とも妙齢の美しい女性だが、特に前に立っている黒髪の女性は「恐ろしいほど」美しかった。
「どうしたのさ…」
後ろの女性が前の女性に囁く。前にいる黒髪の女性はまるで声など聞えていないという体で暖簾を見つめていた。艶のある黒髪、白磁のような肌、そして整った横顔。長い睫毛の下に隠れたアメジストの瞳が薄暗い闇の中光を放つかのように、妖しく輝いている。細く白い手を左耳にあてると、そのまま彼女は軽く黒髪を梳いた。彼女の瞳と同じ光を放つイヤリングが姿を現す。
「来るわ…」
形のいい唇から洩れる艶のある声
「え…?」
黒髪の女性の言葉を咀嚼できない蒼い髪の女性は首を捻った。
闇は更に深まっていく。黒髪の女性のアメジストの双眸がまるでライトの様に妖しく光を放つ。
――暖簾が大きく揺れた。
蒼い髪の女性が顔をしかめ、左耳を抑える。つんざくような悲鳴にも似た、哄笑があたりを響き渡った。あはは、あはははと体を揺らしながら、白い着物を着た女が現れた。着物には紅い蝶の模様のように血がおびただしく広がっている。血のような帯が床まで垂れ下がり、未練がましく引き摺られていた。二人を抱擁しようとでもいうように、その両腕がぶらり、と広げられる。
「……八重…アイ…タカッタ…」
着物の女は歯の無い口を嬉しそうに広げ、そうしてぽっかりと穴のあいた空虚な洞窟のような目を三日月型に細めながら、一気に間合いを詰めた。
「…うわぁっ」
間の抜けた声をあげ、蒼い髪の女性が黒髪の女性の背中に隠れるのと、黒髪の女性がゆっくりと細い手を前にかざすのは同時だった。白い着物の女と黒髪の女性の手があとほんの数センチで触れ合わんとした瞬間、悲鳴をあげながら白い着物の女が後ろへのけぞる。
「……八重……ドウ…シテ……ェ」
しゅうしゅう…と音を立て、白い着物の胸元が燻ぶる。硫黄のような匂い。
その顔は苦悶に歪み、口からそして目から無数の血がぼたぼたと滴り落ちる。
「未練がましいわ」
黒髪の女性は苦悶している白い着物の女を冷酷に見下ろす。
「あなたは既に浄化されたはず…なのに何故愚かにもこんな戯言を繰り返すのかしら」
黒髪の女性は、体を屈めている少女の頭へ向け手をかざす。
「それとも…別の何かの意思?だとしてもあなたはそれを拒むべき…それをあきらめて自ら再びこんなくだらない道へと堕ちるのなら…消えなさい」
だが、白い着物の女ははじかれたように後ろへと飛び退った。あはは、あははははと再び狂ったように笑いながら暖簾の奥へと消えていった。しばらくその奥を見つめていた黒髪の女性は、はあ、とため息をついて呟いた。
「……憐れね」
人外である自分が他人を憐れむのもどうかと思うが――
「……あれ、確か写真に写っていた女よ…」
黒髪の女性の肩越しで、蒼い髪の女性が囁く。その手はしっかりと黒髪の女性の華奢な肩に置かれ、その体はまるで庇護を求めるかのように、己よりも小柄な相方の後ろに隠れていた。はあ、とため息を再びついて、黒髪の女性はゆっくりと後ろを振り向いた。そうして、蒼い髪の女性を睨む。
「情けないひとね」
「へ?」
ぱちん
乾いた音が廃墟の中に響く。額を抑えながら涙目になる蒼い髪の女性。一瞬口元を緩ませる黒髪の美女。陰鬱とした日本家屋の廃墟の中、二人はしばしの間戯れ、そしてまた再び捜索を始めた。
消えた学生達を見つけるために――
* * *
「地図から消えた村?」
美樹さやかは怪訝な表情を浮かべて、傍に寄り添う茶髪の若い女性を見つめた。
「うん、面白そうでしょ?さやかも行ってみる?」
やや派手な雰囲気を持つ茶髪の女性は、屈託のない笑顔を浮かべながら蒼い髪の女性に甘えるようにもたれかかってきた。思わずベンチの上でやや腰を浮かせながら、さやかは苦笑する。
ここはK大学のキャンパス内の中央にある噴水のある広場。噴水の縁や、周囲に置かれたベンチで小休止することもでき、多くの学生が課業の合間にここに集う。美樹さやかも講義の合間にとベンチで一息ついていたのだが、ほっとする間もなく、数名の女性がさやかを取り囲み、しばし談笑した後、ようやく解放されたかと思いきや、今度はこの活発な女性が、ゼミ旅行の誘いにきたのだった。
どうやら美樹さやかは同性に好かれる体質のようだった。
「いや~私はいいわ、てかそれあんたのゼミの旅行でしょ?」
「え~さやかだったら大歓迎だよ?ね?行こうよ」
「そんな馬鹿な…」
彼女の話によると、今度ゼミで出かける旅行先が、昭和初期にダムの建設で「地図から消えた村」のすぐ近くの避暑地らしい。とても美しい地であるとともに、若者が喜びそうな類(幽霊など)のスポットでもあるのだ。
「ね?行こうよ…私、小さい頃一度行ったことあるけど、すごい綺麗な場所なの!私が先生に伝えてあげるからさ…ね?」
「う~ん…」
学部が違う彼女といつの間に友人になったのか、さやかは覚えていない。ただ、どうにもこの活発な女性はさやかに懐いており、ことあるごとにこうやって何かイベントがある度に誘ってくる。
――ありがたいことではあるのだけど…
さやかは丁重にお断りした。元々行く気もなかったが、そもそもこのように見知らぬ友人とどこかへ出かけてしまっては本来の彼女の使命である「魔獣退治」もままならぬ。ましてや世界が改変されてから共闘することになった、黒髪の相方の機嫌も損ねることになり、さやかにとっては全くいいことがないのだ。さやかの真剣な表情を見て、これはあきらめるしかないと思ったのだろう、茶髪の女性はため息をついた。
「ええ~…まあ仕方ないか、じゃさ、これ見て!」
切り替えが早いのか、茶髪の女性はバッグから一枚の写真を取り出す。
「何?」
得意げに差し出されては見るより他がない。さやかは怪訝な表情を浮かべ写真に目をやる。そうしてその表情は凍りついた。
「………これ、一体どうしたの?」
「すごいでしょ?従妹がね、その「村」が「あったはず」の森で撮ったの!」
さやかの表情を見て、得意げに喜ぶ女性。だが自体はそんなに甘いものではなかった。
写真には白黒で古びた日本家屋の内部が映し出されていた。大広間だろうか、煤けた畳が広がり、その中央に白い着物の女が直立不動で立っている。病的なまでに白い肌と、肩まで伸びて切り揃えられた黒い髪がひどく対照的で人形じみている。また、着物の純白の白には、蝶のような模様でびっしりと染みがついていた。――血だ、とさやかは瞬時に悟った。そうしてその女の足元には…無数の干からびた死体がころがっていた。
「……さやか?」
常におちゃらけた、そうしてどこか浮世離れした蒼い髪の女性が、このように第三者の前で真剣な表情を浮かべるというのは稀だ。茶髪の女性は、項に手をあてて苦悶の表情を浮かべているさやかを不思議そうに見つめた。
「行っちゃだめよ」
くぐもった声で、さやかは言った。その手はまだ項を強く握っている。ぞくぞくとする悪寒、項に走るピリピリとした電気のような痛み。魔獣が出現した時の独特の感覚がさやかを襲っていた。
――魔獣?いや、違う
どちらかといえばこの禍々しさはかつての世界で存在した「魔女」に近い気もするが、そのどちらにもあてはまらない。困惑しながらも、とにかくこの旅行はかなり「危険」だとさやかは認識した。
「絶対に行っちゃだめよ、危ないわ」
きょとんと女性は顔を寄せてきたさやかを見つめ、そうしてフフ、と笑った。怪訝そうなさやか。
「さやかって面白いね」
「え?」
「私、そんなに真剣に『行くな』って人に言われたことない」
白い歯を見せて笑う女性を見て、さやかは更に不可解な気持ちになる。干渉されたことがそんなに嬉しいのだろうか?くすくすと笑い続ける茶髪の女性。黒髪の美しい友人にいつも言われているように、さやかは他人を思いやる割には、相手の気持ちに対して「鈍感」であった。さやかは思わず額を抑える。いつもそう言われたあとに相方に叩かれる箇所だ。
「あ、この写真気に入った?ならあげる」
「え?いや、気に入ってるわけじゃ…」
そうして視線を写真に再び向けると、さやかの目が見開かれた。
――そこには何も写っていなかった。
否、写真は緑溢れる木々と、その奥のダムを映しこんだもので、とても美しい風景だった。さやかの蒼い瞳が動揺で揺らめいた。
「お土産楽しみにしていてね」
そう言って、彼女は数日後、ゼミの旅行先で姿を消した。
* * *
「貴方が彼女を探しに行く理由があるの?」
黒髪の女性がため息をつきながら囁いた。ゆっくりとベッドの上で白のキャミソールを身につけていく。そのアメジストの瞳はこちらに背中を向けて旅仕度を整えている蒼い髪の女性を映し出していた。
「ねえ…」
髪を掻きあげ、ベッドから降りると黒髪の女性は蒼い髪の女性の元へと近づく。
「…理由はうまく言えないけど…」
リュックを見つめながらさやかは呟く。その目は伏し目がちで何か物憂げだ。
「放っておけないわ」
そして、黒髪の友人へと向き直った。さやかの真っ直ぐな視線を受け止める黒髪の女性。腰に手をあてて、しばしさやかを睨む。恐ろしいほどの美貌。白磁のような透明な肌に艶のある黒髪。首筋にある痣はさやかが付けたものだった。キャミソール一枚を纏った肢体にはあと数か所痣が隠れているはずだ。そうしてさやかも同様に数か所彼女に痕を残されている。
「……馬鹿ね」
そう吐き捨てるように言うと、黒髪の女性はやや乱暴にさやかのリュックを奪った。そうしてすたすたと奥まで歩き、クローゼットを開けるとリュックを放りこんだ。
「……ほむら?」
さやかは困惑した表情で黒髪の美女の背中を見つめる。背中を向けたまま、ほむらは囁いた。
「誰にでも尻尾を振るからこうなるのよ」
「…え、なんて?」
ほむらは勢いよく振り返ると、再びさやかの元へ近づいてくる。触れ合うまでほんの数センチほど近寄ると、さやかを見上げた。
「私も行くわ」
「ほむら…」
忌々しそうにさやかを睨むと、ほむらは人さし指で彼女の鳩尾を強く突く。
「貴方一人行かせたら、いつ帰ってくるかわからないわ…そうなると魔獣退治は誰がするの?」
「……ありがとう」
さやかは嬉しそうに微笑んだ。舌打ちして顔を背けるほむら。
「貴方のそういうところ…いらいらするわ」
だが、彼女はそう言いながら、白い手をさやかの首へと絡めた。挑発的な表情を浮かべながら黒髪の美女は囁く。
「……私が行くならまだ時間はあるでしょう?」
「そうね」
さやかは嬉しそうにほむらの背中へ手を回した。そうして二人は顔を重ねる。何度も角度を変えながら。
悪魔は空を飛べるのだ。
二人は夜が明けるまで、再び互いの身体に「痕」を残し続けた。
* * *
昭和初期にダムの建設に伴い消えた村は「皆神村」という。古くからの因習で、双子が生まれると姉妹なら姉が妹を、兄弟なら兄が弟を殺す儀式があった。つまりは一人に戻すという意味もあったろうが、体のいい生贄でもある。日本各地に隠された因習とは、つまりはその地を守るためのもの、維持するために行われる体のいい人払いのために発生したものも多いのだろう。それがまことしやかにまるで神話か、絶対不可侵の戒律のように語られ、その地に住む者は生まれてから死ぬまで、その地を出ようとも一生縛り続けられるのだ。それは時には呪縛となり、その人間の生死にまで影響を与える。
本当にどうしようもない話だとさやかは思った。魔獣や悪魔よりも人間の方がよっぽど――。
「さやか」
ほむらの声でさやかは我に帰る。木漏れ日の射す緑溢れる森の中、二人は「地図から消えた村」を目指していた。小鳥のさえずり、小川のせせらぎ、ここまで平和で穏やかな風景をさやかは見たことがない。視線を前に向けると、立ち止まっている黒髪の友人の後ろ姿があった。
「どうしたの?」
さやかが近寄ると、ほむらは振り返り、左手を差し出した。その足元にこの森には不自然な30㎝大の小さな石碑のようなものがあった。…双子地蔵をかたどっている。さやかの表情に緊張が走る。
「手を握ってなさい、もうすぐ…入るわ」
「うん…」
さやかは右手を伸ばし、ほむらの白い手をしっかりと握った。相方が握り返してくる感触が心強い。
「地図から消えた村」がもとより現実世界にあると二人は思っていない。あるとしたら、並行世界、あるいは異世界、もしくは誰かのとてつもない情念で作りあげられた異空間の中だ。かつて遠い昔「魔女」が作りだした異空間をさやかは思いだした。だがそれを凌駕するものかもしれない。目の前の美しい相方――ほむらの力の庇護の下でさやかも活動した方がいいというのが二人の見解だ。ほむらは目を細め、さやかを見つめる。
「離しちゃだめよ?」
そうして、からかうようにほむらは相方を「さやかちゃん」と呼んだ。
顔を赤くするさやか、歯を見せて笑うほむら。
二人はそして「地図から消えた村」へと入っていった。