軋む廊下を二人の女性は歩き続ける。
ギイ…ギイイ…
廃墟と化した日本家屋は見ているだけで鬱屈した気持になる。西洋の朽ちた建物を見るよりも強い寂寥感を憶えるのは自分が日本人だからだろうか、と暁美ほむらはふと思う。そうして軽く首を振った。固く目を瞑り、険しい表情を浮かべているのは、今、少しだけ自分の思考が逸脱した戒めだろう。と、ほむらの背後から手が伸びて、その手が彼女の肩を掴み、ゆすった。
「なに…」
がくがく、と揺すぶられながら、ほむらは振り返った。不機嫌そうな顔を背後にぴったりと寄り添っている相方に向ける。そこには蒼い髪と蒼い瞳を持つ相方の顔があって。
「どうしたの?」
ほむらは不思議そうに尋ねた。相方のどことなく中性的な容貌にいつもと違う険しい表情が浮かんでいたからだ。
「あのさ…もう少しゆっくり歩かない?」
困ったように相方が囁いた。ほむらよりも背の高い相方は、今は心なしか背を丸め、まるで庇護を求めているかのように彼女の背中に隠れている。しばし沈黙が訪れ、ほむらがふ、と口元を緩めた。
「貴方…まさか怖いの?」
「ち、違うわよ…ただ早く歩くと廊下の板が割れそうで…」
「まあそうね…」
確かに、とほむらが足元を見つめる。二人は土足で家屋にあがっていた。歩くたびに今にも板が割れそうな軋む音が立つ。と、ほむらは何を思ったか、フフフ、と笑った。そうして訝しげな表情の蒼い髪の女性に向かって囁いた。
「でもいいの?ゆっくり歩くと見えなくていいものまで見えるわよ、さやか?」
ほむらのアメジストの瞳が妖しく輝いた。闇の中、彼女の発光する瞳と左耳のイヤリングだけが光源なのだ。さやかは目をしばたたかせてほむらの視線の先を追う。そこには古ぼけた障子があった。廊下の両脇は障子に囲まれているらしい。
「うわ…」
さやかが思わず声をあげた。破けた障子の隙間から、ほんのわずかだがろうそくの橙赤色の灯りが見えた。すでに朽ちた誰もいない村のはずなのに。ぶるっと身体が震え、無意識にさやかは目の前の黒髪の女性の華奢な背中にしがみついた。黒髪の女性が二、三度肩を震わせたのはさやかの震えが移ったからか、それとも笑いを堪えたからか、それは顔の見えないさやかにはわからなかった。
「デートならムード満点とでもいうのかしらね?」
「へ?じょ、冗談じゃないわよ、こんなムードのどこが…」
大学生になって、少しは世俗にまみれたのか、時折黒髪の美女は冗談とも本気ともつかぬ発言をする。と、さやかの視線が、さきほどの破れた障子の奥へ向けられた。橙赤色の灯りに包まれた室内に、古ぼけたしかし豪華な雛壇があった。
「ひ…」
雛壇に置かれている雛人形はすべて女性で、しかも首が無い。尋常じゃない悪意と瘴気を感じ、さやかがほむらをせかすように後ろから揺らした。
「ほ、ほむら…やっぱり…早く歩こう」
「まったく、ゆっくりと言ったり早くと言ったりわがままね」
くすくすと楽しそうに笑う黒髪の女性。
「あ、あんた怖くないの?」
「私は悪魔よ?何を怖がることがあるの?」
「そりゃ…」
「そうねえ、強いて言えば…」
人さし指を唇にあてて、優雅に目を瞑ると、ほむらは片方の目だけをあけてさやかを見つめる。
「むしろ、貴方のその過度な接触の方が怖いわ」
「はあ、し、仕方ないでしょ!あんたの力に頼るって決めたじゃない」
そう、この異世界に入る前に二人は決めていたのだ。元よりこの世界が現実のものだとは思っていない。平行世界かあるいは全く異質の世界、あるいはとてつもない情念で作りあげられた世界――だとしたら「悪魔」であるほむらの力の庇護の下でさやかも活動した方がいい。やれやれ、という風にほむらは首を振った。
「まさか、こんな村の中でも求められるなんて―」
「ちょっと!」
闇の中、顔を真っ赤にする相方を見て、悪魔はさぞ嬉しそうに笑う。そう、彼女はからかっているのだ。数か月前に「受け入れた」相方を。
「あら、そんな態度でいいの?」
「へ?」
笑みを消し、ほむらは冷たく言い放つ。
「もともとこの様な状況になったのも貴方のせいよ」
「うん、それは…そうね」
数日前、さやかの知り合いが大学のゼミ旅行で行方不明になった。
正確には知り合いといえる間柄とも言い切れないその茶髪の女性は、さやかとは学部も違う学生で。ただ非常にさやかに好意的だったのだ。
『貴方が彼女を探しに行く理由があるの?』
『理由はうまく言えないけど…放っておけないわ』
舌打ちするほむら。
『貴方のそういうところ、いらいらするわ』
そう言って、結局はほむらも捜索に加わったのだ。事実、ほむらの庇護が無ければさやかはここまで来ることはできなかった。
「……ごめんあんたに手間かけさせちゃって」
「本当よ、これに懲りたらもう誰かれ構わず尻尾を振らないことね」
「私別に…」
闇の中見つめ合う二人。しばらくの沈黙の後、口を開いたのはさやかだった。
「……わかったわよ、尻尾なんて振らない、無いけどさ」
「お利口さんね」
素っ気なく囁くと、ほむらは前を向いた。本当に嬉しい時、彼女は感情を露わにしない。代わりに下げた左手を催促するように二、三度揺らす。さやかは黙ってその手を強く握った。
* * * * * *
「皆神村」――昭和初期、○県の山林地方にあったこの村はダムの建設で消えた。現在、その周辺には数軒の民家しか残っていないが、風光明媚な地として、今では知る人ぞ知る避暑地となっている。だが、過去にその森を訪れて神隠しにあった者が数名いたことから、「地図から消えた村」ともいわれ、若者の間では心霊スポットとしても知られている。
『手を離しちゃだめよ?』
ほむらの手を握り、木漏れ日の射す緑溢れる森の「境界線」を踏み越えたさやかが見たものは、深い闇と、それに覆われた森だった。
『なにこれ…』
さきほどまでの青い空とはうってかわったモノクロの世界に、さやかはただ動揺する。
『落ち着きなさい』
凛とした相方の声が力強い。さやかは相方に手を引かれながら、目を凝らし周囲を見渡す。森の中には鳥居があった。一瞬、白い着物の女が見えたがすぐに消え、代わりに紅い蝶が一羽空に舞った。
『紅い蝶…』
さやかは思わず呟いた。
『追うわよ』
ほむらがさやかの手を引っ張った。二人は駆けだす。しばらくして、森から抜けた。
『うわ…』
『すごいわね』
そこは小高い丘だった。その下には、闇に覆われた朽ちた日本家屋が数軒。そして橙赤色の光りを放つ灯篭。ある種幻想的ともいえる風景に、しばし二人は見惚れる。
『魔女の結界とは…また趣が違うわね』
『ええ、見事だわ』
褒めたたえるほむらを一瞬不思議そうにさやかは見つめた。だが肩をすくめて、すぐに相方に同意する。
『まあ、確かに「リアル」だわ』
そう呟いて、さやかは左手の方向に視線を向ける。暗くてよく見えないが、吊り橋の様なものがある。その奥は…微かな灯篭の光りで墓地だと判明した。
『とりあえず下に降りましょう』
丘から日本家屋へと繋がる石段を見つめ、ほむらが囁いた。そうして二人はゆっくりと石段を下り、朽ちた家屋へ向かった。
『うわ、広いわね…』
玄関を開けたさやかが思わず呟いた。中には土間廊下があり、その奥には暖簾がかかっている。廊下の左手には、囲炉裏の間と大座敷、仏間とかなり広い。その朽ちた家屋はかつて名士の家であったのだろう、「御屋敷」と言う方がしっくりとくるとさやかは思った。
『……さやか』
艶のある声でほむらが囁いた。さやかがその美しい顔に視線を向けると、美貌の主は暖簾を凝視していた。
『何か見えるの?』
『……何か来るわ』
さやかがほむらの言葉に反応して、左手をかざす、と、その手をほむらが抑えた。
『「剣」は出さなくていいわ』
『え、でも…』
『とりあえず進みましょう』
――それから数分後、あの白い着物の女と二人は邂逅し、戦ったのだ。
* * * * *
「…あの雛壇、不気味だったわね」
手を繋ぎながら、さやかはほむらに囁いた。
「そうね…かなりの悪意を感じるわ」
「あんたもそう思った?…ねえ、あれもやっぱりあの白い着物の女の仕業?」
「…そうとも言い切れないわ」
ほむらが考え深げに呟く。そうしてゆっくりと口を開いた。
「彼女が全ての元凶であることは確か…でもそれは一義的なものでしかない」
「……」
さやかはただ黙ってほむらの言葉を肯定した。そうなのだ、この村――「皆神村」は古くから双子の片割れをもう片割れが殺す因習があった。だがある日、その儀式が失敗し、村は大きな災いに飲み込まれてしまったのだという。だが、そもそも結局は誰かの犠牲の元で安穏に暮らそうとしている村が悪いのだ、とさやかは思う。
「とりあえず、貴方の「知り合い」を探すことが先決よ、行きましょう」
「うん」
ほむらの言葉に頷きながら、さやかは茶髪の女性の顔を頭に思い描く。顔が何故かうまく思い出せない。
――名前は…なんて言っただろうか?
さやかは軽く頭を抑えた。どうにも不思議だった、この村に来てから記憶が曖昧になっている。
「さやか?」
「あ、ごめん、なんだか記憶が曖昧になって―」
悲鳴が聞えた。反射的に顔をあげる二人。そうして次の瞬間、さやかが致命的な過ちを犯した。踵を返し、悲鳴の聞えた場所へと駆けだしたのだ。先ほどの怯えを微塵も感じさせない迷いのない動作に、さすがの悪魔も虚をつかれた。
「さやか!待ちなさい!」
美貌の悪魔が珍しく声をあげた。だが時は遅く、蒼い髪の相方の姿は闇に消えていた――。