タレイアを笑わせる   作:くものい

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9-2:再会、そして・・・

 宿場町トレイユの朝は早い。食堂の仕入れがあるから俺もそこそこ早起きな方だけど、まだ暗いうちに町を発つ人も少なくないし、門前の広場なんかはそれこそ空が白み始める頃には大勢の人で賑わっている。兄貴が毎朝早くから見回りに出るのも納得というものだ。そして、召喚獣失踪事件が解決した安堵と高揚感の中でナベを囲んだ夕飯から一夜明けて今日、スバルたちも例にもれず朝早くにトレイユの町を旅立っていった。

「いやぁ、すっかり世話になっちまったな!また近くに立ち寄ったら顔を出させてもらうぜ。それまでお互い、元気でな!」

 最初から最後まで豪放磊落そのものなスバルだったけど、やっぱり召喚獣だけの旅っていうのは何かと気苦労が絶えないらしい。今回の迷子騒ぎで遅れが出るような旅でもないけど、色々と行きたい場所や寄りたい場所もあるし、ただでさえトラブルに巻き込まれがちな道中だから……なるべく人気のないうちに距離を稼ぐようにしてるんだとか。そんなことを大して気落ちした様子もなく、ちょっとした笑い話でもするように教えてくれたパナシェの顔を思い出して、強かなもんだよなぁと頬を緩めてしまいながら俺は大きく振り続けていた手を下ろした。三人とも何度もこっちを振り返っては満面の笑みで手を振ってくれるもんだから、それに応えて手を振り返していた俺の方もすっかり身体が温まっちまっている。でも、胸の辺りまでこんなにぽかぽかしてるのはきっと別の理由だな?

 笑顔の形から中々戻ってくれない頬をぐにぐにと指で揉み解している間にもまたひとつ思い出し笑いがこぼれて、活気の出てきた大通りを歩きながら昨日のことをつい振り返ってしまう。マルルゥご所望のナベを作ると決めた後も、スバルたちはあれこれ手伝いを買って出てくれた。島で何度もナベを囲んでいたというだけあって何を任せても手慣れた様子だったけど、これには正直本当に助かった。事件の後始末やらでナチねぇや兄貴は俄かに忙しくなってしまったし、ナベ自体は決して手の掛かる料理じゃないとはいえ、これだけ大所帯の腹を満たす分ともなれば具材の用意をするだけでも一苦労だ。おまけに大盛況だった昼のおかげで備蓄もまるきり底を尽いている。ミント姉ちゃん家での野菜の収穫や宿屋への運搬から始めなきゃいけないところだったから、その申し出を受けた時には有難くって後光が差して見えたくらいだ。

「気にすんなって!これはあくまで今回の礼っていうか、せめてもの気持ちってやつさ。それに、こういうのは一緒にやった方が楽しいだろ?」

 久々に引っ張り出した荷車にしこたま野菜を積んで宿屋まで運んできた後、今度は俺に指示を仰ぎながら食材の下拵えまで始めてくれた頼もしい姿にいよいよ感謝と申し訳なさが堪え切れなくなって、せめて宿代でも値引きしようか……?なんてこっそり提案したんだけど。それに返ってきた言葉もコレだ。仮にもお客さんだってのに頼りすぎだよな、と有難さと心苦しさの板挟みになっていた俺だけど、あんまりあっけらかんとしたスバルの笑い顔を前にしたら思わず吹き出すように笑ってしまった。でも、確かに言うとおりだよな?厚意で力を貸してくれた相手に金で礼をするなんて違うだろうし、ここは料理人らしく口に合いそうな弁当でもこしらえてやった方がお互い気持ちがいいはずだ。

 そう思考を切り替えて道中食べやすいおにぎり弁当なんかを作ってやったら、オウキーニの握ったやつみてえ、と知り合いらしい料理人の名前を上げるほどはしゃいてくれたのは素直に嬉しかったんだけどさ。……多分、さらにそのお礼ってわけなんだろうな。弁当を渡してから出発までの短い時間で井戸の水汲みやら俺の手合わせの相手やら、お礼のお礼をされる形になっちまったおかしさに口元をむずつかせてしまいながら、よし、と俺は気合を入れ直した。

 せっかくだ。いったん帳簿を取りに宿に寄ったら、今日はこのまま少し早めの定期報告に向かってしまおう。昨日大量に運んだ野菜の余りで今日の仕込み分は十分賄えるし、給水タンクの水だってなみなみ満たされている。普段よりベッドに入るのは遅かったけど不思議と眠気もないし、目も頭もばっちり冴えているって感じだ。この調子ならテイラーさんへの定期報告を済ませてからでも昼の仕込みには間に合うだろう。唯一、気掛かりなことがあるとすれば、テイラーさんにしてみれば朝食後すぐの訪問になるだろうことだけど……あの人も仕事熱心だからな。仕事絡みの相談や報告じゃこれまでも邪険にされたことはなかったし、きっと驚くことはあっても怒られることはないはずだ。何より、今回は正直言ってかなり自信がある。オーナーにもきっと喜んで貰える結果のはず……!

 ちょっと前までは憂鬱なばかりの定期報告だったのに、善は急げと駆け出した気持ちに釣られて早足から駆け足に、気が付いた時には夢中になって走っている。オーナーがくれる言葉がイヤミや皮肉、お叱りの小言だけじゃないってことはもう知ってるし、悪くない結果を出せたならちゃんと評価してくれる人だってことも分かってる。それに、昨日の夕飯での遣り取りが俺にとってすごく嬉しいものになったせいもあるだろう。主役のナベだけじゃない、箸休めの小鉢やついにお披露目した新作料理まで手放しの称賛を受けた昨夜のことを思い返すたび、くすぐったいような照れ臭いようなむずむずした気持ちが込み上げてくる。見えない手に背中を押されているみたいに、心も足もどんどん軽くなっていくのが分かる。朝っぱらから息を切らしてお屋敷の門を潜ったことで掃除中だったポムニットさんの目を丸くさせてしまったことには申し訳なさを覚えつつ、乱れた息を整えて豪奢な階段を上り始めた間もずっと、頭の中では皆の嬉しそうな表情や弾んだ声が繰り返し流れていた。

 

「ん~~……!このおナベ、すっごくおいしいですぅ~!!」

「本当にすごいや、野菜の味が活きてるね」

 皆が協力してくれたのもあっていつもの夕飯時にはナベの支度も整ったけど、待望のナベを味わったマルルゥたちの反応は本当に気持ちのいいものだった。土鍋の蓋を開けて白い湯気を浴びた時点でわっとこぼれた歓声はもちろん、取り皿によそった分を一口食べるなり頬を押さえて絶賛したマルルゥの笑顔も、思わずといったように息を呑んで箸先の具材をまじまじと見つめ直したパナシェの反応も、作り手としては堪らなく胸の空く思いがしたものだ。

 とはいっても、今回俺がしたのなんて大したことじゃない。昆布やキノコから出汁を取ったり、ショウユや酒にショウガの絞り汁や柑橘の汁を合わせてタレを作ったり、箸休めになる料理をいくつか用意しただけだ。とびっきりのナベを作るのに手を抜いたつもりはないけど、これだけうまいナベが出来上がったのは滋味に溢れた野菜あってこそ、主役はあくまでミント姉ちゃんの野菜たちだ。前にアルバに出した小鉢から着想を得た春雷炒めにしたって、その畑で採れた野菜をしっかり使ってる。強火で一気に炒めた青菜を粗く砕いた固い実やピリッと辛いスパイスで味付けした春雷炒めはその爽やかな刺激が箸休めに打ってつけだけど、同じようにテーブルに並ぶ料理のどれもにミント姉ちゃんが丹精込めて育てた野菜が入っていることに皆も気付いたんだろう。ナベに向いていた賛辞の声は次第にミント姉ちゃん自身にも向けられ始めた。菜園入り口のアーチに咲いた薔薇のつぼみに似たスカートが捲れる勢いで、すっごくすっごいのですよ、とマルルゥが拳を上下に振って力説したのを皮切りに、セイロンやリビエル、アルバたちもミント姉ちゃんの作る野菜の出来や普段の行動を取り上げて口々に褒めそやしていく。

「だってさ?ミント姉ちゃん」

「えへへ、こんなに褒められると照れちゃうな……」

 いつもは白い頬を恥じらいに染めてはにかみ笑いをこぼしているミント姉ちゃんだけど、もっと得意げになってもいいところなのに謙虚なもんだよな。けど、もっと絆が深まりますようにって願いを込めてナベを囲み始めたスバルの島の人たちの気持ちも、何だか分かってきた気がする。こうやってうまいナベを一緒につついていると自然と会話が弾んで、心の距離も縮まっていく感じがするもんな?

 これまでは知らなかった相手のことを知れるかもしれない、これまでも仲の良かった相手のことをもっと好きになれるかもしれない、そんなせっかくの機会を逃すのは間違いなく損ってもんだろう。三人揃ったことで肩の力が抜けたのか、見るからに寛いだ様子でセイロンたちと話していたスバルも俺と同じように考えていたらしい。自分の分の取り皿を持って向かいの席に移動してみれば、まだ戻ってきていないナチねぇやイオス、シンゲンや兄貴たちとも早く話がしてみたいなんて言いながら、酒も入って少し緩んだ口調で気前よく雑談に応じてくれた。

「そんなわけでさ、初めのうちは財布をスラれても全然気付かなくって、何度も無一文になっちまってさ。いやぁ、いま思えばアレが噂に聞く社会の荒波ってやつだったんだろうなぁ……」

「おいおい、そんなしみじみ懐かしむような話か……?」

 ざっくり話を聞いた限りでも相当長い旅のようだし、途中で路銀が尽きてしまう恐れだとかはなかったんだろうか?昼間、その事情を聞いた時から気になっていたことを思い切って尋ねてみればしみじみした調子の声が返ってきたけど、これにはちょっと眉を寄せてしまった俺だ。久々にうまいメシが食えたからってだけで島に伝わる海鮮ナベのレシピを教えてくれたり、スバルがつくづく豪快な奴だってことは短い付き合いでも十二分に知れたけど……日頃からこんな大盤振る舞いだったんじゃ、一蓮托生で旅をしていたパナシェたちはかなり苦労してたんじゃ……?

「まあ、お金がなくなったなら稼げばいいだけだしね。帝都みたいな都会ならともかく、この見た目でも案外働き場所には困らないんだ」

「冒険者とか日雇いの人間に交じってするような仕事は大抵荒事だし、そうなると身元がはっきりしてるかよりも腕っぷしの有る無しが重視されるしな?」

 そろりと隣にいたパナシェの反応を窺ってしまったけど、長らく相棒をしているだけあってそんなスバルの調子にも慣れっこなのか。微笑みながらあっさりと頷き返されたことに胸を撫で下ろしつつ、俺は半端な笑みで相槌を打った。なるほどな……ちょっと驚いたというか意外だったけど、よくよく考えなくとも二人とも俺とは比べ物にならないほど旅慣れてるし、ぱっと思い付くようなトラブルは解決済みってわけか。上手いこと働き口にありつけるなら素寒貧になったってそこまで身構えるような問題でもない……と言っていいかは迷うとこだけど、ひとまず納得は出来る。

「まあ、それならいいけどさ。でもちゃんと賃金は払って貰えてるんだよな?」

 余計な気を回してしまったと少しばかり反省しつつ、ほっとしたついでに聞いた俺だったけど。

「おう!めちゃくちゃぼったくられるけどな!」

「全然ダメじゃねえかよ!?」

 おいおいおい!やっぱり不安的中してるじゃないか!?

 うっかり変なところに入りそうになった野菜を無理やり飲み込んで突っ込んだけど、屈託なく笑って答えたスバルはちっとも調子を崩さない。そうかぁ?と気負いなく笑って、すっかり狼狽えちまってる俺にさらなる爆弾発言をぽんぽん投げ落としていく。

「別にそれくらい可愛いもんだぜ?久々に宿に泊まれたと思ったらメシに睡眠薬を盛られてて、うっかり売り飛ばされそうになったこともあったしな?目が覚めたら全身、パナシェと一緒にぐるぐる巻きにされててさぁ」

「ああ、あったねぇ。そんなこと」

「いやだから、それってどう考えても笑い事じゃねえって……!!」

 どう考えても穏やかな話じゃないってのにパナシェも懐かしそうに目を細めながら相槌を打って、二人で旅の思い出話に花を咲かせているといった様子だ。その場に漂う空気も和やかなものでしかなくて、慌てふためいているこっちの方がおかしいんじゃないかって気にすらなってくる。いやでも、決して平和とも安全とも言い切れない世の中、町の外に一歩でも出れば危険と隣り合わせになるのは否定できない事実だけど、外の人間のことを知ってこれからの付き合い方を考えるために旅に出てきたスバルたちがそういう目に遭ってたっていうのは……ちょっと、大分拙いんじゃないか!?

 動転しながら百面相をしてしまったけど、そんな俺の心配に気付いてかどうか。喉の奥でちょっと笑ったスバルは湯呑に残った酒をぐいと流し込むと、ゆったりした口ぶりで宥めるように言ってのけた。

「でも世界は広いし、色んな人がいるもんだろ?悪い奴もいれば良い奴だっている。そんなの人間も召喚獣も変わんねーさ。それに俺はこのとおり勘がいいし、パナシェはとびきり鼻がいい。よっぽどの大事に至る前に大抵さくっと解決して、ハイ一丁終わり、ってな?」

「そうそう。大変な目にはたくさん遭ったけど、おかげで取り返しのつかない事態にはなっていないしね?」

 はたしてここは二人の度量の広さに感心すべきなのか、楽観が過ぎると呆れるべきなのか……反応に困って続ける言葉を迷ってしまいながら、それでも何か口を開こうとしたところだ。ふと顔を見合わせたスバルとパナシェが、心底嬉しかったことでも振り返るように浮かべる表情を和らげて、でも、と呟いた。

「たまにさ……本当にたまにだけど、1バームも取り分を誤魔化かさないで俺たちに寄越してくる人間だっているんだぜ?ガキ相手にちょろまかすほど落ちぶれてねえよ、なんて怒ったような顔しながら山分けの額をそのまま押し付けてきたりさ」

「そういう人に当たると、何だか嬉しくなっちゃうんだよね。ああ、やっぱり旅に出るって決めてよかったなぁ、って」

 そういう人間もこの世界には当たり前にいるんだって、知ることが出来て良かったって思えて。

 大切に仕舞っていた思い出を懐かしむように眼差しも声色も穏やかに和らげて、だから旅に出てよかったと言い切ったスバルとパナシェを目の前にしたら、なんだろう。それまでの焦りも動揺も引っ込んじまうような衝撃と一緒に、じんわりと胸の奥に暖かいものが滲み出すような感覚があった。

 悪い奴もいれば良い奴もいるってのはそのとおりだ。だけど、二人が旅に出てからの出来事で言えばきっと、良い奴よりも悪い奴の方が、いいことよりも悪いことの方が多かったはずだ。それでもスバルたちはまだ俺たちのことを、この世界の人間のことを信じようとしてくれている。同じ世界に暮らす隣人としてこの先付き合っていくことを、まだまだ諦めないでくれているんだ。何度期待を裏切られても、何度悪意を突き返されても、一緒にこの世界を歩いていこうとしてくれている……そんなスバルたちの期待や好意に対して応えられるような生き方を、今の俺はちゃんと出来てるって言えるのかな……?

 一気に静まり返った胸中で自問自答してしまったけれど、その辺りで遅れていた面々が続々と顔を出し始めた。テイラーさんへの報告や農場主への説明でかなり神経を使ったんだろう、ナチねぇも兄貴も見るからにくたびれている様子だったけど、労りや歓迎の声に誘われるままそれぞれ近くに腰を下ろした後は笑顔が浮かんでくるのも早い。取り皿やグラスを遣り取りする音や、早速話し掛けようとするのを誰かが窘める声や快く応じる声が続いて暫くすると、それまでも賑やかだった食堂がいよいよランチタイム並みの喧騒で満ちていく。満場一致で今日一番の功労者であるリビエルがワイングラス片手に何か持論をぶち始めている隣、お代わりもありますよ、なんて楽しげに追加のボトルを並べていたナチねぇも気が付けば上機嫌にグラスを揺らしている。実はこんなものもありまして、と同じようにほくそ笑みながら清酒の瓶を取り出していたシンゲンの近く、湯呑やお猪口を手にした面々が集まって酒と料理の相性を熱心に語り合っている。召喚獣とか人間とかの関係なしにこの場にいる皆が皆、ナベを囲んでの交流を心から楽しんでくれているのが一目で分かる。

 スバルたちとの話の後だったから、余計にかもしれない。目の前に広がる光景が何だか無性に嬉しくって、気持ちがぐんぐん上向いていくのが分かって……その勢いに乗ってこっそり席を立った俺は、厨房を覗きに行ってすぐ取って返すと大きく息を吸って声を張り上げた。

「なぁ、皆。まだ腹に余裕はあるよな?よかったらひとつ、ミント姉ちゃんの野菜を使った新作を味わっていってくれないか?」

「新作……?それって前においらに作ってくれたようなやつかい?」

 真っ先に反応を返してくれたアルバに不敵な笑みを投げ返せば、一層その目を輝かせて楽しみでならないとばかりに破顔する。その様子に興味を惹かれてだろう、好奇心に満ちたマルルゥやパナシェたちの視線も次々にこっちを向いた。一体どんな料理なんだろうって皆の期待と関心がひしひしと伝わってくるけれど、緊張や不安なんてこれっぽっちも感じない。それだけの工夫と熱意を込めて作り上げた自信作だって断言できるし、それはこれから誰に食べて貰うんだとしても変わらない。花の妖精であるマルルゥ、緑豊かなメイトルパを故郷に持つパナシェにアロエリ、植物の研究が大好きで今日の料理に使った野菜も全部育ててくれたミント姉ちゃん……畑や野菜に一家言ある顔ぶれがこれだけ揃っているのだ。新作のお披露目にこれ以上お誂え向きの場もないだろうと笑みを深めて皿を並べ始めれば、もしかして、と目を丸くするミント姉ちゃんが見えたけど、それには笑いながらの目配せをひとつ。

「ミント姉ちゃんの畑で採れた野菜が主役のフルコース、その試作品さ。さぁ、どうぞ召し上がれ!」

 ずらりとテーブルに並んだ料理を興味津々といった様子で覗き込む皆へと、俺は胸を張って自信いっぱいの新作、野菜のフルコースを紹介した。

 さて、グルメじいさんに学んだところ、コース料理ってのは一般的に7品目、前菜・スープ・魚料理・口直しのソルベ・肉料理・デザート・コーヒーか紅茶を選ぶカフェで構成されるものらしい。格式の高いものだと10品目を越えたりもするそうだけど、俺のフルコースはあくまでウチを訪れるお客さん向けのものだ。魚料理と肉料理のどっちも野菜料理にすることやお客さんの腹具合だとかを考えると、ソルベを除いた6品目……料理としては5皿くらいが無難だろうと踏んだんだけど、肝心の料理自体に妥協したつもりは一切なかった。

 まず、前菜はクリーンサラダにも使う彩り野菜のマリネサラダだ。薄っぺらな葉野菜だって味わい深いミント姉ちゃん自慢の野菜だから手を加えるのは最低限でいい。後に控えた料理のために食欲をそそる味と盛り付けになるよう細心の注意を払ったその皿が片付いたら、お次はスープだ。野菜とミルクの旨味がたっぷり溶け込んだ安らぎポタージュは、作り方こそ単純だけど真似するのは至難の業だろう自信がある。野菜クズから取った出汁をスープに使うのは前からだけど、このスープにはなんと両手の指を越える数の野菜から取った出汁を使うのだ。乾物にしてしまえば野菜の皮や切れ端だってその日のうちに捨てる必要はない。何種類もの野菜が持つ旨味と風味が溶け込んだポタージュの味わいは味見をした俺自身驚くものになったけど、続く料理も決して引けを取らない出来のはずだ。魚料理と肉料理の代わりなのもあってインパクトのある見た目になったそのひとつ目は、軽く干した皮付きの根菜や芋を香草と一緒にじっくりオーブンで焼き上げたいろいろ野菜のロースト。半干しにして水分を飛ばした野菜のグリルは味も香りも強くなって、塩だけで十分旨味が感じられる。ふたつ目の方は、下茹でしたダイコンをフライパンでこんがり焼き目が付くまで熱したダイコンステーキのクレソン添え。こっちはハチミツやショウユを合わせたソースを掛けて食べるんだけど、食感も味わいも野菜とは思えない満足感を覚えること間違いなしの一品だ。そして最後のデザートには、新鮮な赤い野菜の甘みと色合いと活かしたジェラートを用意してある。ミント姉ちゃんの野菜はどれもえぐみや苦味と無縁だから、こっちはその良さを引き出してやるだけでいい。主食のパンもしっとりした食感になるよう二種類の芋を練り込んだ特別製で、別添えの干しトマトのオイル漬けを乗せれば至福のひと時を過ごせること請け合いだ。

 ……ナチねぇやグルメじいさんに相談しては試作品作りに取り込んで、何度も改良を重ねてきた、今の俺に出来る全力を注ぎ込んだ料理が皆にはどう受け取って貰えるのか。美味しいって笑顔や言葉を引き出せるような味になっているのか。不安はなくても気になって仕方ない気持ちは抑えきれなくて、そわそわ様子を窺ってしまったけれど、それはほんの僅かな時間に過ぎなかった。

「おお、これはこれは……いったん天日に干して旨味の凝縮した野菜を焼き上げたか?我の教えた技をよくもまあここまで……」

「使っているのは塩だけ、なのか?なのにこうも力強く豊かな風味、優しくも奥深い味わい……ここにあるものすべて、本当にあの畑の野菜で作られているんだな……」

 しみじみと感慨深そうに溜め息をこぼしながらセイロンが、驚きを隠せないように何度も言葉を途切れさせながらアロエリが、その表情や言葉で教えてくれた反応こそが皆の感想を代表していた。ほうといくつも重なった溜め息に弾かれるように顔を上げた先、そこには満面の笑みを浮かべながら、あるいは深く目を閉じて噛み締めるように、もしくは勢いよく親指を立てて大きく頷いてみせながら、美味しいって返してくれている皆の姿があって。それを目の当たりにした瞬間、嬉しいなんて言葉じゃ到底収まり切らない気持ちが勢いよく込み上げてきて思わず、拳を強く握り締めていた。

 俺の作った料理で美味しいって喜んでくれる顔を見るのは、嬉しい。それが腕によりを掛けた料理だったならなおさら、達成感に高揚感、満足感に幸福感だとかの明るい気持ちで胸がいっぱいになる。自分の手でそれだけの料理が作れたんだって誇らしさと清々しさが混ざった最高の気分になるけど、いま、皆からこれだけの美味しいを引き出せたのは俺一人の力じゃない。俺ならもっと凄い料理人になれるって期待して信じてくれたナチねぇやセイロン、グルメじいさんたちのおかげだ。皆から教わった知識や技術の積み重ねがあったからこれだけの物が作れた。皆がいてくれたから作ることが出来たのが、この野菜のフルコースなんだ。

 そのことが何だか言葉にならないくらい嬉しくてたまらなくって、頬が痛いくらいに緩みを帯びていく。

「ね。凄い料理人でしょう、ライ君?」

 ワイングラス片手にふわふわ笑いながら得意げな顔をしたナチねぇがイオス相手に同意を求めて、期待どおりの反応が返ってきたことに満足そうに息を緩めているのが見えた。ほろ酔い加減を少し上回って笑い上戸の気配が出ている様子だけど、イオスもそれはお見通しだったのか。ナチねぇが目を止めたワインボトルを一瞬早く取り上げて、不満げな視線を送るナチねぇにはそ知らぬ顔で自分のグラスに手酌で残りを注いでいる。兄貴やシンゲンたちも大分酒が回ってきたんだろう、感動しきりといった様子でフォークや箸を動かすたびに大仰なほどの誉め言葉を並べているのを横目に見つつ、満を持してとばかり俺はミント姉ちゃんに声を掛けた。

「それで、どうかな?ミント姉ちゃん」

「うん、どれもすっごく美味しいよ!野菜の美味しさがこんなに伝わってくる素敵な料理を、本当にフルコースで作れちゃうなんて……さっすがライ君だね?」

 声を弾ませて振り仰いだミント姉ちゃんの顔には満面の笑みが輝いていて、その手元の皿ではダイコンステーキが早くも最後の一切れになっていて。料理の発案者からも花丸満点のゴーサインを貰えたら、その場でガッツポーズを決めるには十分すぎる理由だった。

 

 思い出すだけでやる気が漲ってしまう遣り取りを振り返りながら扉をノックしたけれど、そんな弾んだ気持ちが顔に出てたんだろうか。いつになく早い訪問を驚くように少し目を見張ったテイラーさんだけど、俺の様子を見てふっと眉を和らげると仕事の手を止め、執務机の近くに来るように目顔で指し示してきた。

「おお……自分から顔を見せるとは感心だな?丁度いい、現在の店の評判を報告して貰うとしようか」

 今回も嬉しい報告をしてくれるのだろうな、なんて話す前から圧を掛けてくるのは変わらずでも、前までと違ってその眼差しにはちょっぴり期待が滲んでいるように見える。それだけで浮かれそうになる気持ちを抑えて勢いよく帳簿を差し出した俺だったけど、ページを捲るにつれてどんどん明るい驚きに染まっていく顔を見ていたらむずつく口元を堪え切ることは出来なかった。

「……どうやら、前回の結果はマグレではなかったらしいな?」

「へへへ……」

 感心したような声色でお褒めの言葉まで掛けられて頬だけじゃなく声まで緩んでしまう。けれど。

「しかし、この程度で満足して貰っては話にもならんぞ。目標はあくまでミュランスの星に輝くことなのだ!」

 すぐさま眉を険しく吊り上げたオーナーから叱咤激励が飛んできて、身も心も一気に引き締まった。そうだ、オーナーの言うとおりだ。まだまだこんなところで満足しちゃいられない。食堂の利用客がこれだけ増えていれば今後の泊まり客になる可能性だってあるし、店の評判を高く持っていけば星集めの近道にもなるはずだ。今よりもっと目指せる上があるのにここで満足するなんて早すぎる!

「はい、頑張ります!」

 びしっと背筋を正して大真面目に返事をすれば、うむ、よろしい、とオーナーは満足げに頷いた。そして気難しげな面持ちのまま、厳かに今回の援助を告げてくる。

「では、さらなる奮起を期待して今回もまた援助をしてやろう。気を緩めずに一層、仕事に励むのだぞ?」

 支援金30000バームに、召喚獣のペットフードを作るための空き缶、それから店頭でも大分いい値段のする防具や武器。オーナーからの期待が込められた品をいくつも受け取って部屋を後にしたのだけれど……階段を下りて、扉を潜って、屋敷の敷地を抜ける頃になってもまだ、胸の辺りがふつふつと熱を持っているような興奮冷めやらない思いだった。だって今回の援助はこれまでと明らかに違う。アカネ姉ちゃんのところで払った分もまるまる補填されるほどの大金に、物騒な騒ぎの真っ只中にある現状、喉から手が出るほど欲しかった高品質の武器に防具……これ以上望む気にもならないくらいの好待遇だ。どこまでこっちの事情に勘付かれてるんだろうって肝を冷やしたりもしたけど、オーナーが今の俺に付けた評価はこれだけの援助も惜しくないほどで、ここまでの頑張りもこれからの働きもちゃんと見てくれるつもりだってことが伝わってきて……

 クソ親父の息子でも、親に置いていかれた子供でもない。忘れじの面影亭を任せた一人の人間として、贔屓も色眼鏡も抜きに、ただ俺の働きぶりだけを見て評価しようとしてくれている。

 それが実感として感じられてしまってからずっと、胸の辺りが変に熱い。心臓がやたらと波打っているような、どうにも落ち着かない心地がする。なのに決して不快ってわけじゃなく、もう少し浸っていたいような気分でもあって、その正体をはっきりさせたいようなしたくないような妙な心地だったんだけど……結局、それは大して長続きすることなく終わってしまった。帰りがけに立ち寄ったセクター先生の私塾前で、とんでもない話を聞いてしまったからだ。

「け、結婚っ!?」

 一瞬前までの気分も吹き飛ぶような衝撃と共に裏返った声を上げてしまった俺に、その言葉を放った張本人であるリシェルは至って涼しい顔だった。まるで動じることなく、いや、俺の驚きように呆れた色すら浮かべて、当然のように言い返してくる。

「何よ。二人とも子供じゃないんだし、大アリでしょ?」

 セクター先生とミント姉ちゃんは付き合ったりするつもりはないのか、結婚だとかは考えていないのか。

 二人の仲が良さそうだからって、世間話のついでのように当の先生へと唐突が過ぎる話を振ったリシェルはまったくの自然体だった。他人の色恋沙汰に興味本位で首を突っ込んでるのを隠す素振りもなければ、そのことについての遠慮や躊躇いを覚えるような気配もない。どんな相手だろうが臆さずぐいぐい突っ込んでいくのがリシェルだけど、それに慣れ切っている俺としても今回ばかりはさすがに度肝を抜かれてしまった。

 だって、結婚……結婚だろ?恋人云々もすっ飛ばしていきなりゴールの話だなんて、さすがに踏み込み過ぎじゃないか?それにリシェル視点だとそう見えるのかもだけど、先生がミント姉ちゃんをどう思っているかについては判断に迷うところだ。ミント姉ちゃんと話してる時の先生はいつにも増して柔らかい物腰と眼差しだけど、遠慮とも躊躇いとも言い切れない薄い膜のような距離を感じる気もするし……?

「はは、それは彼女に失礼ですよ。彼女と私では年が離れすぎです」

 内心ハラハラしながら様子を窺っていたのもあって、期待に満ちた目のリシェルを笑って一蹴した先生に思わずほっと息をこぼしてしまう。でも、うう……そっか……。やっぱり一番に上がる理由は年の差なのか……。自分のことでもないのに何だか流れ弾でも食らったような気分で、不服そうに唸っているリシェルをつい応援したい衝動に駆られてしまう。

「えーっ、そんなの関係ないじゃん!愛があれば海だって真っ二つになるって前に読んだ恋愛小説にも書いてあったもん!」

「お話と現実をごっちゃにしてはいけないよ、リシェルくん」

 やんわり窘められてなお負けじと粘るリシェルだけど、でも、それも長くは続かなかった。

「それに……私はね、家庭を持とうとは思ってないんだよ。こういう身体だからね?」

 穏やかな声での一言は、だけど俺たち相手には覿面に効果を発揮した。こうやって立ち話なんかしていると忘れがちだけど、先生は怪我の後遺症で足が悪い。日常生活を送るだけで誰かの助けが必要になる不自由な身の上だ。そのくらい大した問題じゃないって言うのは簡単だけど、優しくて思慮深い先生だ。自分の身体の不便さを誰より痛感してるのに、まさかそれで誰かの人生を縛ることになる結婚なんて選択肢、選ぶはずがなかった。

「ゴメン。俺たち、面白半分に騒いじゃって」

「別に気にしてないさ。でも場合によっては、言葉は簡単に人の心を傷つけてしまうんだ。それだけは決して忘れないようにね?」

 度の過ぎた悪戯を叱られる小さな子供みたいにしゅんとしてしまったけれど、そんな俺やリシェル相手にも先生は最後まで優しかった。でも、一度沈んだ気持ちはそう簡単には浮かんでこない。項垂れた顔を上げることすら躊躇ってしまうような申し訳なさに罪悪感、それ以外にも結婚出来ない理由のひとつに年の差を上げた先生の言葉があって……我ながら小さいことを気にしているとは思いつつも、落ち込んでしまう気持ちが止められない。そしてそれは何となしに覗いた駐在所で一層加速していった。

「お前もだけど、ナチさんも大変だったよなぁ」

 召喚獣失踪事件の報告書をまとめていた兄貴のこぼした一言にどう返したものか、反応に困っていると、書きかけの報告書から顔を上げて兄貴は小さく苦笑した。机に広げられた紙にはナチねぇお手製の資料も混ざってるみたいで、見覚えのある字で綴られた時系列順の失踪報告やギムレたちの拠点の概略図、それに推論や補足をメモした付箋なんかが見え隠れしている。事件解決のために兄貴たちが早いうちから足並みを揃えていたのは知ってたけど、こういった後始末でも融通を利かせ合っていたらしい。おかげで色々助かったけどさ、と俺の推測を裏付けるように眉を下げて笑ってから、兄貴は少し目を細めた。

「少し心配してたんだよ。あのひとってお前のためとなるとちょっとの無理は押して動いちまうだろ?今回の事件の調査もだが、セイロンにシンゲン、アルバにスバルって、このところ一気に男が増えたけど大丈夫なのかなって」

「……兄貴も、心配してくれてたのか?」

「まあ、そりゃな」

 この町の平穏を守る駐在軍人だぞ、とわざとらしく胸を張ってみせた兄貴にお礼を言いつつ、確かに、と思う。ナチねぇは俺のことになると無茶が無茶じゃなくなってしまう。それくらい大丈夫だよ、と笑って誤魔化して大抵のことは呑み込んでしまうのだ。俺のことを大事な家族だと……守るべき相手だと思っているナチねぇにとって、俺に頼ったり甘えたりっていう選択肢はずっと後ろの方に位置しているらしい。それでも何かに付けて俺を頼りにしてくれていたのは単に、大人の男が駄目だっていう制約があったせいだ。それがあったから俺が一番ナチねぇの傍にいて、色んなことに目を光らせていたんだけど……最近はそれも事情が変わってきた。

「それなんだけどさ、皆の接し方が良かったからか、男を相手にした時の反応がずっとマシになってきたみたいなんだ。それこそ初対面とかでもない限りは普通に相手出来るんじゃないかって、本人談」

 セイロンやシンゲンみたいな距離感の見極めが上手い奴らとの交流を重ねるうちに自然と慣れてきたんだろう、これまで根深く残っていた男への恐怖や警戒心みたいなものが一気に緩和されたらしい。中でもイオスとの再会が大きかったのは間違いないだろうけど、ナンパ野郎の件しかり、周りの皆がナチねぇのことを心配して気に掛けてくれてるってことを本当の意味で理解出来たのもあるんだろう。何かあったとしても、きっと助けてくれる誰かがいる。それを心から信じられるようになったから、ナチねぇの中で誰かを頼るって選択肢が形を持った。一人じゃないって心強さや安心感に繋がって、一人で何とかしなきゃって強迫観念めいた思いが和らいで、それだからこないだのナンパ野郎にも強く言い返すことが出来た。俺やコーラルの姿が近くにあったのも励みになったと微笑んでいたことを合わせて告げると、兄貴はぱっと表情を明るくした。

「そうなのか?よかったじゃないか!お前もこれで心配事が減るなぁ」

「うん……そう、だよな?」

 我が事のように喜んでくれる兄貴に曖昧に笑い返して、それとなく目を逸らす。そう、兄貴の言うとおりだ。相手が男ってだけで身構えずにはいられないことを、ナチねぇ自身が一番気にしていた。知り合いでも仲間でも一線を引いた接し方しか出来ないことを、何かと俺に面倒を掛けてしまうことを、ナチねぇが誰より心苦しく引け目に思っていることを俺もよく知っていた。それでいけば考えるまでもなく歓迎すべき変化のはずなのに、どうしてだろう、素直に喜べない。もう俺が気を張っていなくても大丈夫なんだって思ったら、それだけで鳩尾の辺りがぎゅうと捻じれるような感じがした。

 俺が大人の男じゃなかったから、ナチねぇとすんなり仲良くなれた。俺がナチねぇより年下だったから、ああも優しく親身に接して貰えた。ただの他人から家族になることが、他の誰をも差し置いてナチねぇに頼りにして貰うことが出来た。だけど、ナチねぇが他の男相手にも普通に接することが出来るようになったなら……俺がいる意味なんてあるんだろうか?ナチねぇの力になるとか助けになるとか以前に、守ってやるべき子供みたいに思われている俺が、本当の意味で頼りにして貰えるなんてこと……この先有り得るんだろうか?

 ずんと重くなる胸中に引きずられて俯きそうになる顔を無理やり上げて、それでも、と見えない誰かに噛み付くように胸の中で言い返す。

 そうだとしても、俺だから出来ることだってあるはずだ。子供と大人、どっちつかずな扱いを受けがちな今だって、俺自身を見て頼ってくれるひとがいる。ナチねぇにだってきっと、俺だからしてやれることがあるはずなんだ……!

 自分自身に言い聞かせるようにそう繰り返しながら、駐在所を出た俺はひたすら宿屋までの道を急いだ。これ以上、変なことを考えたくはない。隙を見せれば途端差し込んでくる、どんよりした雲のような気持ちを無心で追い払うかのように、いつの間にか俺の足取りは走るような速さに変わっていた。

 

「へぇ、午前中は釣りをしてたのか?」

「うん……いっぱい釣れたから。小さいのは逃がして、大きいのだけ取っておいたよ」

 いくら気分が落ち込んでたって構わずお客さんはやってくる。どうにかランチタイムを乗り越えて遅い昼食にありつく頃にはもやもやした気持ちだったことすら吹き飛んでいて、俺は穏やかな心地でコーラルとの会話を楽しんでいた。

 今日も今日とてホールの主戦力として活躍してくれたコーラルは、午前いっぱい水道橋公園の方で釣りをして過ごしていたらしい。水道橋公園なら裏庭の木立を抜けてすぐだし、場所によってはギリギリ結界の範囲内と言えなくもない。それに付き添いの御使いやナチねぇの他にもそこらを定位置にしているガゼルやプニム、その辺りで鍛錬をしているアルバやルシアンの目だって届く。安心して釣りに没頭できる環境だったのもあって中々の釣果だったらしく、賄いを食べ終わってもそわそわした様子で俺の仕事が終わるのを待っていたのはその報告がしたかったからのようだ。浮かべる表情は静かなままでも瞳はきらきら輝いている様子に微笑ましいものを感じていれば、実際かなりの腕前なんですよ、コーラルちゃん、とお茶のお代わりを入れながらナチねぇが微笑んだ。

「初めて釣りをしたのは、セイロンさんの乾物作りをお手伝いした日だったかな?それからちょくちょく足を伸ばしてたんですけど、ミミズにスルメ、煮干しに練り餌と少しずつ餌を試していくうちに色んな種類を釣り上げて……今じゃもう、お店に並ぶような立派なお魚だって釣っちゃうんですから」

「そいつはまた凄いじゃないか!この短期間でそこまで成長するなんて……とんでもない才能だな?」

「ふふ……」

 くすぐったそうに目を細めて肩をすぼめるコーラルだけど、あの場所でそんなサイズの魚まで釣れるなんて素直に感心してしまう。水道橋公園で釣れる魚は種類もサイズも多岐に渡るけど、食べて美味しい赤身魚や白身魚、ぷりぷりした身の魚だけじゃなく、頭がネコで下半身が魚のニャン魚やひょろっと細長い身をしたタツノオトシゴだとかのいわゆる外道って呼ばれる魚も相当に多い。釣り自体を楽しんでいるコーラルにしてみれば外道も本命もないだろうけど、だからこその無欲の勝利ってやつだろうか。これまでに釣り上げたことのある魚としてナチねぇが指折り数え上げていった中には、俺もまだ数回しか釣っていない高級魚やその一匹で料理のメインを張れるようなサイズのもやつもいて、話が進むにつれていよいよ舌を巻いてしまった。

 やり方を覚えたら自由に使っていいって釣り竿の場所は教えたけど、肝心の釣り方やコツは結局教えてやれずにいたのに、知らないうちに独学でここまで目覚ましい成長を遂げていたとはなぁ……大きいのだけ取っておいたって言ってたけど、この分だと本当にそれなり以上のサイズを期待してよさそうだ。午後はセイロン指導の下、活け締めのやり方や魚の捌き方に干し方なんかも教わるそうで、上手く出来たやつは晩のおかずに使って欲しいと嬉しいことを言ってくれるコーラルにもちろんと力強く頷き返した俺だったけど、ふと気になって尋ねた。

「なあ、コーラル。最近釣った大物だと何があるんだ?」

 コーラルの腕次第じゃ、俺もいくつか魚料理の練習をしておいた方がいいかもしれない。そう思ったのだ。大ぶりの魚はそれだけで値が張るのもあって扱う頻度は少ないけど、尾頭付きの姿焼きや一尾丸ごと使った煮込み料理なんかでしか出せない味ってのはあるからな。スバルに聞いた海鮮ナベも魚介類をたっぷり使った出汁が決め手になるものだったし、コーラルがそれだけのサイズや種類の魚を釣れるほどの腕前ならせっかくだ。次に大物を釣り上げるようなことがあれば、それを余すことなく使った、とびっきりの魚料理をこしらえてやるのもいいだろう。ナベの方はまあ、カニとかエビとか白身魚とか、ぷりぷりした魚肉を練ってすり身状にした団子とか、とにかくうまい出汁の取れそうな具材さえ揃えられたらいくらだって調整が効くけど、やっぱり大物を釣った時には大物であることを活かした料理を作ってやりたくなるのが人情ってもんだしな。

「うん……これ、見て」

 ナベの方は海賊ナベなんて名前にしたら人気が出るかな、とわくわくしながら考えていたけれど、ちらっとナチねぇと目を交わしたコーラルがどこか誇らしげに取り出したそれを見た瞬間、思わず声を上げて驚いてしまった。

「うわ、随分デカいウロコだなぁ……!」

 なにせ、コーラルの取り出したウロコはその手のひらほどもあったのだ。守護竜の遺産だっていうウロコほどじゃないが、それでも尋常じゃない大きさであることには変わりない。差し出されたそれを指先で摘まんで光に透かし見ながら感嘆の息をこぼしてしまえば、ふふん、とちょっぴり自慢げに胸を反らしたコーラルが目に入った。けれど、これは確かにその反応もよく分かる。まさかこんなデカいウロコが釣れるなんて普通、思わないしな。偶然釣ったにしてもなんて引きの強さだと感心してしまったけれど……しかし、こいつは俄然気になってきたぞ?

「こんなのが釣れるってことは、相当デカいウロコの持ち主がいるってことだよな?」

「さぞかし……食べ応えがある、かと」

 唸るようにこぼした俺に重々しく頷いたコーラルの目は、釣った魚を焼いて食べる味は格別だ、とパナシェたちの旅の話を聞いていた時と同じ、興味と憧れの色で輝いている。真顔に近い表情も真剣そのものので、その内心なんてわざわざ聞くまでもない。魚料理の美味しさと魅力に目覚めちまったコーラルはこのウロコのおかげですっかり食欲を刺激されちまってたようで、そして俺もまた、いっぱしの料理人魂をこれでもかと刺激されちまった。むくむくと湧き上がってきたやる気が胸に満ちれば、にっと口角を上げて返事をするのに迷う理由なんてない。

「うん、こいつは料理人として放っとけないぜ!よーし、俺も今度からなるだけ釣りに行ってみるからさ、どっちが先にウロコの主を釣り上げるか競争だぜ、コーラル!」

「!……望むところ」

 かすかな笑みに意気込みを滲ませて頷き返したコーラルの隣、俺たちの遣り取りを微笑ましげに眺めていたナチねぇが注ぐ眼差しを一層柔らかいものにする。その目に浮かんでいるのは大人が子供を愛おしむような慈しむような色合いだったけど、それには反発を抱くどころか不満や悔しさをちっとも感じない自分が何だか不思議な気分だった。

 それにしても、コーラルにはああ言ったけどまだやることは山積みだ。明日は食堂を休みにしてクラウレ探しに出かけることが決まってるんだし、その分も宿屋業務を片付けておくのは前提として、出来たらもう少し鍛錬だって積んでおきたい。スバルとの手合わせでも痛感したけど、やっぱり対人戦の備えって意味じゃカカシ相手の一人稽古には限界がある。自分の動きや技のおさらいにはもってこいでも、相手の視線や呼吸からその狙いを読んでの切り返し……咄嗟の判断や対応を磨くのには相手をしてくれる誰かが欠かせない。ルシアンたちがまだ稽古をしているようなら交ぜてもらおうと急ぎ足で片付けを済ませて裏庭に回った俺は、だけどそこに予想外の相手を見つけて目を見張ってしまった。

「イオス!戻ってたなら声を掛けてくれりゃよかったのに。もう昼は済ませたのかよ?」

 稽古場のカカシ近くにルシアンとアルバがいたのは予想どおりでも、そんな二人を見守るようなイオスの姿まであったからだ。調べものがあるとかで朝から出掛けていたはずなのにいつ帰ってきてたのか。軽く腕組みをした立ち姿に驚きつつも駆け寄ってみれば、きみか、と澄まし顔がこっちを向いた。昨日はそこそこ飲んでいたようなのに酔いどころか浮わついた気配の余韻もないのはさすがとしか言いようがない。

「ああ、つい先ほどね。昼は外で済ませてきたが、余計な気を遣わせてしまったならすまない」 

「いいよいいよ。それより何してたんだ?てっきり二人に稽古でも付けてるのかと思ってたけど」

 そうでもないみたいだな、と言いながら視線をやった先では、訓練用の剣を熱心に振るっているルシアンとそれを指導しているアルバの姿がある。

「えぇーいっ!」

「ああ、そんなにも力んで振る必要は無いんだよ」

 こないだ稽古を付けてやる約束をしたのもあってルシアンに声を掛けるつもりだったんだけど……この感じだと俺の出番はなさそうだな?見習いとはいえさすがは騎士様とでも言うべきか、こうして傍目に見ている分にもアルバの指示は的確で分かりやすい。論理的で実践的な指導はイオス譲りのものなのか、ひとつひとつの動きの意味をきちんと理解してなきゃ出せない具体的な指示の連続にルシアンはもう夢中といった様子だ。これまで教本頼りだったのがいきなり最高の先生が出来たからだろう、息を切らしながらも不思議そうな顔でその理由を尋ねるルシアンにアルバが穏やかな声で返す。

「ルシアンはせっかく盾の使い方を習ってるんだし、それを活かすには一撃必殺より手数で攻めていくべきだよ。相手を疲れさせて確実に仕留めるのさ」

「なるほど……」

 納得いったように頷いているルシアンだけど、アルバのやつさすがだな。あの戦法でなら相手を無傷で降参させることだって出来るし、ルシアンの優しい性格も勘定に入れた上なんだろう。そうした配慮や目の付け所は俺にはないもので感心しきりでしかないけれど……アルバ自身だって稽古をしたいところだろうに、いいのかね?

 今度は型のおさらいを始めるのか、仲良く並んで剣を構えている二人を微笑ましく眺めながらもイオスに視線を引き戻せば、そんな疑問を見透かしたような声が返ってくる。

「ああやって教えることでアルバ自身もより深い理解が進み、効率的な上達に繋がるんだ。これまで漠然と身の内にあった知識を己の言葉に置き換えて説明することで一層、動作や思考の無駄が省かれ洗練されていく……そういった意味では、やみくもに剣を振るうよりずっと有意義な時間を過ごしていると言えるな」

「はぁ、そういうものなのかよ……」

 落ち着き払った顔で淡々と答えられるとそれだけで納得しそうになるけど……言われてみれば、ルシアンに稽古を付けてやった後はいつもより身体の動きが滑らかだった気がするな。誰かに教えることで自分の中で曖昧だったりよく分かってなかった場所がはっきりして、そこの見直しが無意識にでも進むってことなら確かにアルバにとっても損はない。どっちが先にライさんから一本取れるか競争しよう、なんて弾む声のルシアンに持ち掛けられて笑顔で頷いているアルバだけど、やれやれ……こいつは俺もうかうかしてられないな?

 近い未来の挑戦者たちに目を細めてしまえば、その熱気に当てられてかどうか、奥の木陰で寝そべっていたガゼルが頭をもたげるのが見えた。気怠げなのは相変わらずでも、ルシアンたちの動きをじっと見つめる黒々とした目にはどこか興味めいた光が浮かんで見える。あいつも刺激を受けたりするんだな、と笑い交じりに言えば、そうだな、とイオスもかすかに表情を和らげて頷いたけれど。

「あのガゼル、話には聞いていたが大したものだな。決して大柄とは言えない体躯であの体力に持久力、何より良い気概をしている。少し立ち合ったついでに小技を仕込んでやったが、あの様子だとまだ伸び代がありそうだ」

「はは、何だよそれ?ガゼルのやつに稽古を付けてやったみたいな言い方じゃん。そんな冗談……」

 イオスも言うんだな、と何気なく返そうとして大真面目な顔を見つけた俺は、そのまま中途半端に声を途切れさせてしまった。え……まさか本当にか?ナチねぇの言うこと以外ろくに聞かないガゼル相手に、本気で稽古を付けたっていうのか?

 聞き間違いかと思いつつイオスとガゼルの間で忙しなく視線を行き来させてしまうけど、平然そのものといった一人と一匹の様子からはさっぱり本当のところが読み取れない。元々はぐれだったのがいつしかウチに住み着くようになったプニム同様、ガゼルのやつもナチねぇがどこかの散歩先から連れ帰ってきた元はぐれだ。当時から孤高の一匹ガゼルを貫いてたんだろう、不愛想とふてぶてしさの権化であるこいつは実際、そんじょそこらのはぐれとは一線を画した実力の持ち主ではある。それを見抜いたイオスのやつが鍛えたくなったのも分からなくはないけれど……そうなると、現状でさえ舐められている俺へとの態度は今後一体どうなってしまうのか。

「えーっと……冗談だよな?」

「さてね。ところで、僕に何か用だったんじゃないのか?」

 ぐるぐる混乱を引きずりながら聞き返してしまったものの、イオスはふっと笑って話を逸らす。肯定も否定もないその躱し方からして……ひょっとして、からかわれていただけだったのか?そう思ったらやたら焦ってしまったことへの気恥ずかしさやらバツの悪さやらが込み上げてきて唇を尖らせそうになるけれど、イオスはそれ以上何を言うでもなく細い三日月を浮かべるばかりだ。ここでしつこく食い下がったところで子供っぽいだけだろうし、仕方がない。気を取り直した俺はちょっと息を吐いてから、改めてイオスに向かって顔を上げた。

 ご指摘のとおり、わざわざ声を掛けたのは雑談のためってわけじゃない。少し気になることがあったからだ。

「いやさ……明日、タラントに戻るつもりなんだって?任務の都合もあるだろうし、文句なんかねーけどさ。ひょっとして何か、気付いたことでもあんのかなって」

 クラウレ探しで町の外に出たらそのままいったんタラントに戻るつもりだと、そんな話をナチねぇにしてるのを立ち聞きしてしまったのは偶然だ。賑やかな夕飯を終えて皆がそれぞれ風呂や自室に向かった後、替えのタオルの補充に廊下を急いでいたところで、曲がり角の向こうから立ち話をする声が聞こえてきたのだ。少し調べたいことも出来たからと静かに続けるイオスに、ご面倒をお掛けしますと苦笑を返したらしいナチねぇの声が聞こえても、その時点では大して気に留めることはなかった。カルセド峠での紅き手袋の動きの他にもまた調べものが増えたのかとか、必要とはいえこの短期間で何度も山越えをするなんて大変だよなぁとか、そんな呑気な感心や同情を覚えるくらいでしかなくって、だから自分の部屋に戻って寝る直前になってその考えが浮かんだのもたまたまだ。

 イオスは一体何に気付いて、これから何を調べるつもりなんだろう?

 ナチねぇのあの様子は、イオスの調べものの正体をすっかり理解しているようだった。委細承知とばかり頷きながらも申し訳なさを隠し切れない声色だったのは、自分だけじゃ到底手の回らないことに力を貸して貰う感謝や申し訳なさがあったようにしか思えない。そして、今のナチねぇがそれだけ心を砕くものなんて限られている。それなら多分、いやきっと、イオスの調べものは俺たちへの手助けに繋がるような何かのはずだ。

 だとしたらそれを知らないままでいるわけにはいかないだろうと声を落として尋ねれば、イオスはさっと周囲に視線を走らせてから、きみは、と呟くように言った。

「奴らの襲撃について、おかしいと思ったことはないか?」

「え?」

 おかしいって言われても……一体、何が?そんな疑問が顔に出てしまった俺に呆れるでもなく、真剣な顔をしたイオスは続ける。

「僕はこれまで奴らの襲撃現場に居合わせたことが二度しかない。あくまできみたちから聞いたことが殆どだ。その上で真っ先に気になったのがコレだ。……奴らはどこから来て、どこに去っているのか」

「どこからって……そりゃあ、町の外から来て、町の外に」

「町の外の、一体どこに奴らが身を隠せる場所があるというんだ?」

 ……あ。イオスの言おうとしてることがやっと見えてきた。その自覚を追い掛けるように目も口も大きく開け放ってしまった俺の前で、一層深く腕を組み直したイオスが眉間に深い皺を刻んで独り言ちるように唸る。

「最初に疑問を覚えたのは、カルセド峠で目撃された紅き手袋の動向を調べていた時だ。隠密行動では他の追随を許さないあの連中ですら、その痕跡の一切を消し去ることは不可能だ。砂地に残った足跡、岩肌や樹木に擦った武器の痕跡……誤った逃走ルートに導くためのブラフとして残すこともあれば、大した手掛かりにならないと踏んであえて残していくこともあるが、どのみち何らかの痕跡は残る。だが、きみたちが相手取っている奴らは違う。そうした手掛かりのひとつも残さず、忽然と姿を消しているとしか思えない」

 あれだけの規模の集団が何度も襲撃を仕掛けてくるのなら、と頭の中に広げた地図を眺めるように目を細めつつ、イオスは考えを口にする。その目で実際に見て取った事実だけを土台にして、確実にそうと言える範疇での筋道だった推論を立てていく。都合のいい憶測も願望も抜きにして、そこに残った可能性をただ、静かになぞる声は揺らぎない。

「どれほど簡易的なものであれ、生活拠点となる場が必要だ。負傷者の搬送に手当て、必要物資の補給に分配……これだけの期間となれば火を一切使わずに過ごすことは難しいだろう、煮炊きのための場もいるか。そういった諸々を確保するとなるとそれなりの空間が必要になる。特別な訓練を受けた軍人のみで構成された集団というわけでもなし、どれだけ目立たないようにしたところで限度がある。それを踏まえれば、近隣住民も滅多に足を運ばない墓地の奥やカルセド峠の岩壁で阻まれた一帯にその根城があると睨んでいたが、今回の一件で期せずしてその可能性も潰えた。ギムレにバレンといったか。あいつらはかなりの期間、あそこを拠点にしていたようだが、他の悪党連中の存在などまるで知らない様子だっただろう?」

「そういえば……あいつら、獣の軍団や鋼の軍団のことなんてちっとも知らないみたいだったな?大人しい召喚獣を狙ってたからって言っても、一度でも見かけることがあったら覚えてそうなもんなのに……」

 どうして今まで気が付かなかったんだろう。イオスの言うとおりだ。半月以上もの間、これだけの頻度で襲撃を繰り返している連中の拠点どころかその足取りすら噂になっていない時点で、そもそも疑問に思うべきだったのだ。あいつらは一体どうやってトレイユの町までやって来て、そしてどうやって撤収してるんだろうって。

 コーラルを狙ってくる連中に対してこっちは防戦一方、襲われたところを迎え撃つばかりだったから失念していたのは大いにあるけど、今の今までそれをちっとも疑問に思っていなかった自分に愕然としてしまう。トレイユの町は多くの旅人が訪れる宿場町だから、近隣で見かけた怪しい連中、警戒した方がよさそうな注意人物、そういった情報が出回るのもあっという間だ。客商売を営んでいる繋がりもあれば確かな筋の話から真偽不明の眉唾話まで山ほど流れてくるのに、あんな目立つ連中の話をこれっぽっちも耳にしなかった時点で明らかにおかしい。どこか森の奥や山中に巧妙に隠れてるんだとしても、イオスの言うとおり、あれだけの大所帯が誰の目にも引っ掛からないなんて有り得ない。トレイユの町の住人の他にもカルセド峠や大石橋の方からやってくる旅人、それにギムレたちみたいな荒くれものだっていれば、その痕跡や気配は何かしらの噂になって必ず流れるはずなのだ。それが一切ないなんて……あまりに不可解な現状を突き付けられて、思わず俺も唸りめいた声をこぼしてしまう。

「トレイユの町の近くにはいない……いや、そうじゃない。あの大人数を一瞬で遠くに運べるような移動手段があるか、俺たちには絶対見つからないような場所に隠れてるってことか?」

「断言は出来ないがな。普通に考えれば有り得ないことを可能とするような召還術や科学技術……そうしたものの可能性を疑って損はないだろう?どのみち本来の任務のためにそろそろ戻らなくてはならなかったところだし、タラントに戻り次第、ツテを辿って少し調べてもらうつもりだ。人の集まるあの場なら他にも何か有用な手掛かりが見つかるかもしれないしな」

 落ち着いたらまた顔を出しに来る、とこっちを気遣うように付け加えたイオスに、俺は込み上げてきた苦笑を呑んだ。こんなに助けて貰ってるのに何も返せていないと思うと頭も視線も自然下がりそうになるけれど、そんなしょぼくれた顔を見せたところで喜んでくれる相手じゃないしな。だから、強引にでも口角を上げて強気な笑みを浮かべた俺は、腰に下げた剣の柄へと触れながら頼みごとをひとつ口にする。

「なら、今のうちに稽古を付けて貰ってもいいか?ガゼルばっかりズルいだろ。自由騎士団の騎士様直々に手ほどきを受けるなんてさ?」

 カカシ相手じゃ物足りなかったんだ、とすらりと抜き放った片手剣を正面に構えて笑い掛ければ、かすかに目を見張ったイオスは堪え切れないように破顔した。なるほどな、と笑いの余韻に声を揺らしながら傍らに立て掛けていた槍へと手を伸ばすと、ひゅんと風を切って一回転した槍の石突が僅かに跳ねて、重心を低く構えたイオスの右手にいつの間にか収まっている。

「謙遜は止めてくれ、きみ相手に稽古など付けられたものか。ここは僕からも言わせて貰おう……さあ、お手合わせ願おうじゃないか!」

 鋭い穂先をこっちに向けて不敵な笑みを深めるイオスに、こっちも勝手に持ち上がる頬をそのまま、剣を握る手に力を込める。せっかくこう言ってくれてるんだ。お言葉に甘えてここはひとつ、ご自慢の槍捌きをしっかりこの目に焼き付けてさせて貰おうじゃないか!

 一人稽古じゃ逆立ちしたって得られないだろう緊張感に高揚感、胸が一気に沸き立っていくような熱の気配を感じながら、俺は勢いよく地面を蹴って飛び出している。

 

 手加減ナシでの手合わせが景気付けになったのもあってか、その後の仕事は思ったよりずっと早く片付いた。

「ふいーっ、これで夕飯の仕込みも済んだ、と。……本格的な準備を始めるのにはまだ早いよな?」

 今晩のメインを張るのはコーラルが釣ってきた魚だけど、事前の宣言どおり、下処理をしっかり済ませてくれていたこともあって思いのほか時間が余ったのだ。氷水を張ったタライに入れてあった魚はどれも活け締めになっていて傷みも臭みもなかったし、コーラルが挑戦したのだろう、少しばかり不格好な三枚下ろしも白身魚の香味グリルに仕立てる分には丁度いい。香り付けのローズマリーやタイム、塩コショウをまぶして厨房奥の冷えた棚に寝かせているその他にも、スープの具材にする野菜の皮むきや追加分のピクルスの仕込みだって済んでるし、部屋の掃除やシーツ交換だとかの宿屋業務もまるっと終わっている。自分のことは自分でやるって意識が強い奴らばかり揃っているのもあって、廊下や食堂の共有スペースくらいしか手を入れる場所が残ってなかったんだから当然ではあるんだけど……半端に余った時間を、さてどうしようか?エプロンを片手で外しつつ俺は思案を巡らせる。

 イオスとの手合わせの続きが出来たなら悩むこともなかったけど、鍛錬の成果を見るとかでルシアンとアルバ相手にまとめて稽古を付け始めたみたいだし、あの様子じゃあ夕飯まで掛かってもおかしくなさそうだ。セイロンと一緒に魚を持ってきてくれたコーラルも干物作りに戻ってしまったし、他の皆も仕事や用事があるとかで見事に出払っている。リシェルのやつも今日は部屋にこもって召喚術の勉強をしているそうで、ちょっと様子を見に行きたい気もするけれど……真面目に勉強してるところに顔を出して集中を削ぐのはよくないしな。

「姉さん、あれで結構、この間のことを気にしてるみたいなんだ。ポムニットさんを危険な目に遭わせちゃったこと、それを助けてあげられなかったこと……結局、自分は何もしてあげられなかった、って」

 イオスとの手合わせを切り上げて仕事に戻る前、今日はまた随分熱心だな、と何気なく声を掛けたルシアンからそんな話を聞いた。無色の連中が宿屋まで攻めてきたあの日のこと、もっと言えばポムニットさんが人質に取られてしまったのに何も出来なかった時のことを、リシェルはずっと引きずっているらしい。誰に言われなくても机に向かうようになったリシェルが、召喚術の教本に目を落としながら小さく呟いた背中をドアの隙間に見かけてしまったこともあって、ルシアンも決心するに至ったんだとか。召喚術の知識を少しでも増やして強くなろうとしてるリシェルのように、自分もこれまで以上に鍛錬を積んで今より少しでも強くなって、もしもこの先また……あの時と同じようなことが起きてしまっても、今度は絶対、二人を守り抜いてみせるって。

「だから僕も頑張らなきゃって、そう思って。もしもまた危険なことがあった時……今度こそ、姉さんやポムニットさんを守ってあげられる自分になりたいんだ」

 額に玉の汗を浮かべながら照れたように笑ったルシアンの息はすっかり上がっていたけど、一本芯の通った決意が滲む声はほんの少しのブレもなかった。傍目にも分かるほど奮起して稽古に取り組んでいた理由を打ち明けてくれたルシアンを前に、しっかりしてるよな、と目を細めながら内心独り言ちてしまったことを思い出す。

 誰かを守れるくらい強くなりたい、それが気持ちの優しいルシアンが剣を振るうようになった理由だった。それだって十分すぎるほど立派な理由だったけど、そこによりはっきりした目標と動機まで出来たのだ。きっとこの先、ルシアンは目を見張る勢いで強くなっていくだろう。それはリシェルだって同じだ。自分はどうすればいいのか、どうしたいと思っているのか、渦巻く胸の気持ちに向き合って一人考えて決めることが出来たやつは強くなる。脇目も振らず一心に目指す場所へと突き進んでいく姿は眩しいほどで、今の俺にはちょっとばかり目に沁みるくらいだ。……そう、とっくに心を決めていたつもりがあっさり揺らいでぐらついて、今度こそはと言い聞かせてもすぐに迷って立ち竦んで、自分の本音も分からないまま立ち往生してしまっている、そんな今の俺なんかとは本当、比べるのも烏滸がましいくらいにちゃんとしてるよな……

 でも、だからと言って無為に過ごすような時間の持ち合わせなんてない。うっかりすると際限なく沈みそうになる気持ちも思考もいったん打ち切って、エプロンを椅子の背もたれに引っ掛けた俺はひとまず勝手口から外に出た。とりあえず、ガゼルの散歩にでも行っておこう。今から干物作りを手伝うのも物置の掃除に取り組むのも半端すぎる時間だけど、商店街への買い出しついでに水車小屋の辺りまで足を伸ばすくらいの余裕はあるはずだ。ついこないだまで赤毛の小型ガゼルが出るって噂になってたし、その痕跡が残っているか探っておくのも悪くない。思い付きでしかなかったけど中々の名案に思えてきて、機嫌取り用の苦い棒をポケットに突っ込んでガゼルの手綱を引いた直後だった。

「でしたら、自分もご一緒しますよ」

 路銀稼ぎの演奏から戻ってきたところだったらしい、シンゲンと玄関先でばったり出くわしたのは。

「いいのかよ?戻ってきたばかりで疲れてるんじゃないのか?」

「お気になさらず。町の外にも出るようなら、どのみち一人歩きは危ないですしね」

 いくらご主人と言えど、とちょっと眉を下げて返されてしまえば、その親切心をわざわざ突っぱねるほど子供なわけじゃない。俺としてもシンゲンには聞きたいことがあったし丁度いい、散歩中の話相手にでもなってもらおうじゃないか。……そんな考えで一も二もなく頷いたのだったけど、そのあたりもお見通しだったんだろうな。他愛ない世間話をしながら大通りを抜けて門前の広場を出て、穏やかな陽気の街道に足を踏み入れて、せっかくだから帰りに少し農場の様子も見に行きたいとさりげなぐ言った俺に、ああ、と相槌を打ったついでのようにシンゲンはしれっと返した。

「一昨日の話の続きをご所望、ということですな?」

 どう話を切り出したものか、何度か言い淀んでしまった時点でこっちの内心はすっかり筒抜けだったらしい。にこやかな合いの手を入れられて何だか毒気が抜かれてしまうまま、俺は力ない苦笑に頬を緩めて肩を落とした。まったく、こうまで見透かされていると見栄を張るのも馬鹿馬鹿しくなってくるな……誤魔化すのは早々に諦めて、ぼやき交じりに頬をかく。

「……はぁ、バレバレかよ?格好つかねーな」

「まあまあ。ご主人が心配なさる気持ちも分かりますよ。あの方はちょっと、目を離しておくには不安の残る御仁ですし?」

 ちょっと目を細めて笑い掛けてくるシンゲンだけど、本当にどこまでお見通しなのか……その心眼に舌を巻きながら、余計に深まってしまう苦笑をそのまま、隣に向かって視線を持ち上げた。多少の気恥ずかしさやバツの悪さを覚えないでもないけれど、ここであえて隠すだけの意味もない。俺は素直な本音を口にした。

「正直に言うわ。シンゲンは何度か、ナチねぇの付き添いで農場まで行っただろ。実際、どんな感じの人なんだ?農場主のアルマンさんって人は」

 無性に気になっちまってさ、と続けた言葉のとおりだった。町外れで果樹園を経営しているアルマンさんっていうのは、男だ。たとえ知った相手でも男と二人きりになるのに抵抗があったナチねぇが、無理を押してまでアルマンさんと話をしに行っていたのは農場で働く召喚獣のためだったことを知っている。自分のモノでもない召喚獣のためにどうしてそこまで心を砕くのか、親身が過ぎるほどに動くのか。ずっと不思議ではあったし心配でもあったけれど、きっとそこにはナチねぇなりの理由や考えがあるんだろうって無理に聞くようなことはしなかった。だけど、皆でナベを囲んだ夕飯の席、不意に聞こえてきた何気ない遣り取りに疑問が抑えきれなくなってしまったのだ。

 そもそもナチねぇにとって、あの農場の召喚獣は、アルマンさんって人は、一体なんなんだろうって。

「長らく掛かった調査もこれで終わりですね。召喚獣のヒトたちも大きな怪我はしていないようでしたし」

 野菜のフルコースを出して暫くした後、場の空気が十分すぎるほど温まってあちこちで話に花が咲いている中、肩の力が抜けたように微笑んだナチねぇはゆったりと呟いた。片手にグラスを持ちながらの声は分かりやすく緩んでいて、その酔い具合や安堵も透けて見えるようだった。あっちまでお散歩に行くことも減るかな、とグラスを傾けながら独り言ちた表情も穏やかそのもので、後のことは何も心配していないといった様子だったから、それでルシアンも思い付いたままに声を弾ませて尋ねたんだろう。

「そういえば犯人のひとたち、召喚獣が行方不明になっても真剣に探す主人なんかいないって言ってたけど……農場主のアルマンさんはそうじゃなかったってことだよね。だって被害届を出したり調査を頼んだり、最初からグラッドさんやナチさんに相談してたんだもん。それってつまり、いい人だったってことだよね?」

 召喚獣は帝国においてあくまで持ち主の財産だ。盗まれたからって必ず探さなきゃいけないってわけじゃない。実際、新しいのを買ったり召喚する方がずっと早いし楽だから、ギムレが言っていたとおり早々に見切りを付けてしまう主人が殆どだ。そういった意味じゃ、アルマンさんのしたことは割と珍しい部類だ。あんなにたくさん召喚獣を所有しているのならなおのこと、さっさと買い直してそれで済ませることだって出来ただろうに……でも、それなら案外、召喚獣思いの主人だったってことだろうか?ルシアンの言葉に釣られて俺もそう思いそうになったけれど、ナチねぇの考えは別だったらしい。

「うーん……そうですねぇ。ルシアンくんの思ういい人とは少し違うかも?でも、確かに悪い人ではありませんよ」

 少なくとも私は嫌いになれない方ですね、と緩んだ笑みで続けたナチねぇに、俺もルシアンと一緒になって疑問符を浮かべてしまう。

「?それって」

「損得抜きの判断だったわけじゃない、ということですよ。短期的に見れば召喚獣の一匹や二匹、新しく買い直した方がよっぽど手早く済んだでしょうが……もし悪意を持って盗んだ第三者がまだ近くにいるのだとしたら?上手くいったからと味を占めて、今度はもっと大規模に盗みに入ろうと計画していたのなら?そんなことになってしまったら目も当てられませんよねぇ。リスクの目は早めに摘み取っておくに限る、アルマンさんはそれを優先しただけ。彼にとっては全部、必要経費に過ぎなかったというだけです」

「人情深さからではなく、損得勘定からだったと。なるほどなるほど、自分も腑に落ちました」

 お猪口片手に耳を傾けていたシンゲンはからっと笑って頷いてみせたけれど、俺やルシアンはちょっと呆気に取られるような思いだった。なんていうか、物の見方や行動に出る理由が俺たちのそれとかけ離れすぎていて、がっかりしたり腹を立てたりするような気にもなれない。どう反応したものかまごつく俺たちの様子を見て取って、そういうものなんですよ、とナチねぇは眉を下げて困ったように笑ったけれど、その眼差しにはアルマンさんがそういう人だっていう信頼めいた確信が滲んで見えて。これまで農場で働く召喚獣の待遇改善とか環境向上のためだけにアルマンさんに会いに行ってると思っていたけど、ひょっとしたら違うのかも、と思ったのだ。

「単純に気になっちまってさ。アルマンさんと話をするのはてっきり農場で働かされてる召喚獣のためだけって思ってたけど、あの感じだとそんな苦手にしてるってわけでもなさそうだし。ただ、それだと今度はどんな気持ちで召喚獣の方に肩入れしてるんだろうって」

「不思議になってしまったと。そうですねぇ、そこについては……動機の所在を外ではなく内に見れば分かるかと」

「内側に?」

 どういう意味かとオウム返しに尋ねてしまった俺に軽く笑って、まずは質問に答えましょうか、とシンゲンは視線の先を空へと投げた。自分も大したことは知りませんがね、と断りを入れて、ぶらぶらと足取りは緩やかなまま、その目で見た農場主のアルマンさんを語っていく。その声はまるで子守歌みたいに穏やかで、吟遊詩人の面目躍如といった語り口には思わず聞き惚れてしまうほどだった。

「憎まれっ子世に憚るとは言いますが、いやぁ、中々敵の多そうな方でしたね。あからさまに値踏みするような目をこちらに向けてきますが、使えるかどうかで判断するのは人間相手ですら変わらないんですから。ああまで合理で動くとなればいっそ清々しいほどですな?」

 そういった意味ではさほど悪くない主人では、とちょっと笑って付け足したのは完全な皮肉というわけでもないらしい。アルマンさんという人はいくらか人間不信の気があるのか、それが客相手でなければ貼り付けていた笑みをごっそりと消して冷めた目で一瞥するような、ある意味では人にも召喚獣にも平等すぎるほど不愛想で冷淡でとっつきにくい感じの人らしかった。

 やり手の商人だという前評判に偽りなし、赤みの強い金髪に神経質な目付きをした痩身の男で、上昇志向の強い自信家を絵に描いたような人物だそうけど、少なくともナチねぇに対して悪感情を持っていないことは確からしい。農場経営のためのより効率的で経済的な手法……ナチねぇからすれば召喚獣の扱いを少しでも良くするために提案してきたあれこれが実際に効果を上げたことも大きいんだろうけど、ろくに話したことのないシンゲンから見てもナチねぇと話している時のアルマンさんはいくらか和らいだ表情に見えたんだとか。とはいえ、あのナチねぇをしていい人とは少し違うかも、なんて言われてしまうような人だ。普段は一体どんな話をしているのかと前から疑問だったけれど、どうも実態は殆どアルマンさんの愚痴と自慢話ばかり、ナチねぇはひたすら聞き役に徹しているようだなんて聞かされた時には思わず憤慨に声を荒げてしまった。

「なんだよそれ、ナチねぇがわざわざ町の外まで出向いて行ってるのに、それこそ時間の無駄じゃねーかよ!」

「まあまあ、ああいう性格の方だとろくに他人と話すこともないんでしょう。中身もクソもない話というのは否定しませんが」

 ナチねぇもナチねぇで喫緊の課題がなければ大人しくアルマンさんの話に付き合ってしまうのも事態に拍車を掛けているようだ。農場で働かされている亜人たちが切実に困っている話があれば別だけれど、そもそも今の亜人たちにとって農場の居心地はそこまで悪いものでもないらしい。雨風凌げる住居に飢えることのない食事、それがあるだけ外よりマシだなんて声が聞こえてくるくらいには環境が改善されたのもあって、表立って反抗的な態度をとる奴も少なくなってるんだとか。でもそのせいで輪を掛けてナチねぇが無駄話に付き合う羽目になってるってのにはどうにも納得いかない。延々と続く益体もない話にうんうんと穏やかに相槌を打って、一切の否定を挟むことなく耳を傾けて、その表情や仕草、態度に至るまで寄り添うように話を聞いているだけだなんて……さすがに奇特が過ぎるだろ。それが回り回って農場の召喚獣たちのためになるんだとしても、一体どうしてそこまでするのかと、さすがのシンゲンも気になるあまりに昨日、農場からの帰り道に尋ねてしまったんだと言う。

「見上げた行いだとは思いますが、他人様の召喚獣のためにそこまで気を配る必要などないのでは?」

 そんなふうに冗談めかして話を振ったシンゲンに、そうですよねぇ、と素直に頷きながらもナチねぇは苦笑交じりに答えたんだとか。

「なので本当、自己満足でしかないんです。召喚獣のためとかアルマンさんのためとかじゃなく、ただ、私がそうせずにはいられなかったっていうだけで。……アルマンさんもね?がむしゃらに頑張り続けてきたせいで、本当に欲しかったものが何か、少し見失っちゃってるだけなんですよ。あの人のお話を聞く中でいつかあの人自身がそれに気づいて……本当の望みを思い出してくれればいいなって、そう願ってるんです」

 ガゼルの手綱を引きながら気恥ずかしそうに目を伏せて微笑んだナチねぇに、シンゲンはそれ以上の問答を諦めたらしい。農場で働かされてる召喚獣への同情だとか憐れみだとか、農場主であるアルマンさんへの気遣いだとか打算だとか、そういったものを理由にしてナチねぇは動いていたわけじゃない。誰かへの好意とか嫌悪とか、ナチねぇの優しさの本質はそういったところにはなくて、自分がどうしたいかっていう心に従った結果でしかないんだと分かってしまったから、それ以上続く言葉がなくなってしまったらしい。ああ、これは好んで貧乏くじを引く人間だ、と。どうしようもない呆れの中でそんな直感まで降ってきたら自然と俺の顔が思い浮かんだのだと、困り笑いに表情を崩しながらシンゲンは言った。

「まったく自己完結の優しさが過ぎると言いますか……それで割を食うことを何も恐れちゃいないんですから、ご主人がやきもきするのも分かるというものです。ですのでまあ、自分もまだ暫くは注意して見ておこうかと」

「悪いな。そうしてくれると助かるよ……」

 最後は気遣うような笑みを投げ掛けてきたシンゲンに眉を下げての苦笑を浮かべ、ふと思う。いちいち先回りして話を通したり手を打っておかなくても、今はこれだけナチねぇの事情や人柄を理解して気遣ってくれる人たちがいるんだ。ならやっぱり、俺が変に気張ったりしゃしゃり出るような真似しなくたって、ナチねぇはもう大丈夫なんじゃないか?いざって時に頼りにくい子供の俺なんかより気心知れた大人同士の方が何かとやりやすいはずだし、無理にナチねぇの傍に居座ろうとするだけその迷惑になるんじゃないか?だとしたら……今の俺がやってることって何だろう。ナチねぇが俺じゃない誰かを気に掛けることも、俺じゃない誰かと仲良くなって嬉しそうにしてることにも……本音では喜びきれていない自分なんかがその傍にいて、本当にいいのかな。それでも俺だからしてやれることもあるはずだって、自分に都合のいい願望に縋り付くように主張して、現実から目を逸らしてるだけじゃないんだろうか……?

 いちいち誰かと比べてしまう自分に嫌気が差して、隣のシンゲンのことも気にせずにその場で大きく頭を振った。ガゼルまで横目でこっちを見てきたのを感じるけど、気付かなかった振りをして街道の先へと視線を投げる。そうでもしなきゃもやもやした気持ち以上のイヤな何かを見つけてしまいそうで、睨み付けるように前だけを見つめて口を引き結んだ。それこそ、自分の本心に見て見ぬ振りをしてるだけなんじゃって心のどこかで思いつつも、その時の俺は意固地になって否定することしか出来なかったんだ。

 

 ともあれ翌朝、予定どおり門前の広場に集合した俺たちは気合いを入れてクラウレ探しに出発した。

 相変わらず聞き込みの成果はゼロ、これといってめぼしい手掛かりや痕跡も見付けられていないけど、今回はまるきり当てがないってわけでもない。例えばイオスから聞いた、紅き手袋の連中がカルセド峠の方で出没してるって話だ。

「こないだ俺たちを襲ってきたのと同じ連中かどうかは分からねえけどさ、あんな物騒な連中がワケもなくうろついてるとは思えないだろ?何か目的があって……例えば、何かを探したり追っかけてるところを目撃されたってふうには考えられないか?」

「まさか、兄者を狙って……!?」

「なるほど、筋は通るな」

 どうやって探すつもりかというルシアンの疑問に答えたらアロエリやセイロンからも納得めいた反応が返ってきたけど、当てにしているのはそれだけじゃない。街道入り口まで歩いてきたところで足を止めた俺は、すぐ後ろを付いてきていたコーラルをおもむろに振り返った。先に話は通してあるけど、やっぱり大役をこなすことへの気負いがあるんだろうな。どことなく緊張した面持ちのコーラルの背中に手を添えて、にっと口角を上げながら皆へと向かって自信満々に笑い掛ける。

「それに、細かい場所だとかはコーラルに教えて貰えばいい。リビエルもセイロンも、よくよく考えたら全部こいつが見つけてただろ?」

 俺が何より当てにしたのは他でもない、コーラルだ。二人を見つけた時のコーラルは決して当てずっぽうといった様子じゃなく、何か確信を持って動いているようだった。そのことを思い出したのだ。

「そういえば匂いがどうとか言ってたよね」

 思い出したようにミント姉ちゃんが呟けば、匂い、ときょとんとした顔のポムニットさんとシンゲンがそれぞれ繰り返して、近くにいたリビエルやセイロンへと顔を寄せてその鼻をひくつかせた。

「くんくん……別に匂ってはない気がしますが……」

「くんくん……そうですよね……?」

「当たり前じゃない、ニオイってのは例えなんだから。この子が感じたのは多分魔力のことよ」

 いきなり匂いを嗅がれたセイロンが当惑したように眉を寄せて、リビエルも呆れ顔を浮かべたけれど、二人に代わって呆れたっぷりの言葉を言い放ったのはリシェルだ。それでもまだ不思議そうな顔をしているポムニットさんたちの様子を見て取ってだろう、気を取り直したように眼鏡の縁にすちゃりと手を添えたリビエルがリシェルの言葉を引き取って説明を続ける。

「私たち御使いは先代の遺産を所持しておりましたの。御子様はそこから放たれる魔力を感じて、それに反応なされた」

「そう……懐かしいカンジ、したから……」

「御子様は卵の時、ずっと先代様に抱かれていました。そこから注がれる魔力の波動を覚えておられたのでしょう」

 リビエルの言葉でその時のことを思い出したんだろう、コーラルが少しだけ微笑みながら頷けば、アロエリも懐かしむように目を細めて呟いた。でも、そうか……コーラルにとって懐かしくて安心する匂いを辿った先にいたから、初対面のはずのリビエルをあんなふうに心配したり、御使いの皆をすぐに味方だって信頼して心を開いていたんだな。顔も見れずじまいで終わっちまった親の名残を少しでも感じられるのがはたしていいことなのかどうなのか、それを考えると何とも言えない気分になっちまうけど、とにかくこれで決定だ。

「さあ、御子殿。本来の姿に戻って下さい。その方が魔力を感じ取る力は強くなる」

 セイロンに促されるまま竜の姿になったコーラルが目を閉じて、何か探るような素振りしたのはほんの少しの間だった。はっとしたように目を開けるなり、ぴぎぃ、と興奮したような鳴き声を上げて、しきりにカルセド峠の方向を指し示す。

「見つけたのか!?」

「ピィッ、ピィッ♪」

 驚く兄貴に何度も頷くように声を弾ませてるし、この様子を見るにまず間違いないだろう。

「よっしゃ、急ぐぞ!」

 読みが当たった高揚感や得意げな気持ちがなかったとは言わないけど、これまでまるで足取りの掴めなかったクラウレをついに見つけられるかもしれない。そう思ったら居ても立ってもいられない気持ちの方が強くって、峠どころかまだ星見の丘さえ見えていないのに急かすような声を掛けてしまったけど、どうやら気持ちは皆同じだったらしい。コーラルの背中を追い掛ける足取りは次第に早まっていって、カルセド峠特有のごつごつした岩肌や赤茶けた地面が見えてきた頃にはそれぞれすっかり息を切らしたり額に汗を滲ませていたけど、浮かぶ表情はどれも期待を隠し切れないものに変わっていた。

 コーラルの親である先代の信頼が最も厚かった御使いの長、クラウレ。そのクラウレに託された最後の遺産、先代の記憶の継承さえ済んでしまえばコーラルはめでたく成竜になって、俺たちが守ってやる必要もないくらい強くなる。にっちもさっちもいかなくなったこの状況にどでかい風穴を開けてくれるどころか、俺たちが散々悩まされてきた問題の数々がまるっと解決するのだ。そんなの、気が急いちまっても仕方がないってもんだろう。

 だけど、ここから先はさすがに慎重にいかなきゃな。顎を伝う汗を軽く拭って、俺は目の前に広がる険阻な道のりと奇形の断崖に改めて目をやった。旅の難所のひとつに数えられるだけあって、ここの地形は非常に起伏があるものだ。高低差はもちろん不安定な足場も多いからあちこち手摺り代わりのロープや足場の補助になる杭が打ち込まれてるし、乾燥した空気は容赦なく喉や目から水分を奪い去っていく。トレイユからタラントに向かう時は必ずここを通らなきゃいけないんだけど、この険しい道のりこそが旧街道を使う人を減らしてる最大の要因かもしれない。踏み板が何枚か抜けても未だ現役らしい吊り橋を見かけて渇いた苦笑がこぼれたけれど、それも束の間、どこからともなく聞こえてきた激しい剣戟の音に俺たちの顔色は一瞬で変わった。

「あそこっ、見て下さいっ!?」

 不穏な音の出所を探して忙しなく目を走らせる俺たちの中、一番にそれを見つけたポムニットさんが鋭く声を張り上げた。ぴんと伸ばされた人差し指の先を追えば、荒々しい岩肌の合間に掛かった吊り橋の途中、アロエリに似た格好をした長身の男が何人もの暗殺者を相手に一人戦っている。吊り橋の両端から挟撃する形で襲い掛かってくる相手に槍一本でよく凌いでいるけれど、多勢に無勢なのは言うまでもない状況だ。

「兄者っ!?このおっ!!」

 驚愕も一瞬、俄かに気色ばんだアロエリが弓を手に高く飛び上がるなり、敵の連中目掛けて次々と矢を放った。狙い鋭く放たれた矢は速射とは思えない精度で暗殺者の爪や腕、その足元を射抜いていく。濁った悲鳴を上げながら大きく後退った暗殺者同様、驚いたように視線を揺らしたクラウレがアロエリを目に入れて息を呑むのが見えた。

「アロエリ……、アロエリなのか……!?」

 多分、そんなことを言ったんだろうな。遠目に見えた口の動きからの想像でしかないけど、クラウレも暗殺者連中もいきなり乱入してきた俺たちに動揺してすっかり足を止めてしまってる。俺たちがこんなこところまで足を延ばすと思ってなかったんだろうけど、願ってもないチャンスだ。普通に戦えば厄介極まりない暗殺者連中に出来た絶好の機会、こいつを逃す手はない。クラウレの援護や事情の説明はアロエリたち御使いの皆にひとまず任せて、俺たちは連中が態勢を立て直してしまう前に全力でぶちのめしちまおう!

 そう意気込みながら敵に突っ込んで行ったのは俺だけじゃなかったはずだ。なんせここでクラウレを守り抜ければ形勢逆転、御使いが全員揃えばコーラルの遺産の継承も無事に済んで、今度一気に苦しくなるのは敵の方になる。だからこそちょっとやそっとじゃ引いてくれないだろうと、長丁場になるのも覚悟の上で挑んだわけだったんだけど……

「さっさと立ち去らねえと問答無用で黙らせちまうぞ!?」

 しゃあしゃあとやかましく喚きながら攻撃を仕掛けてくる連中に業を煮やして怒鳴り付けた直後だった。敵がぴたりと動きを止め、それに疑念を感じる間もなく、急に波が引くように背中を返して逃げ出していったのだ。

「……って、本当に逃げた!?」

 驚きのあまり大剣を握る手も止めて叫ぶアルバの横で、俺も中途半端に剣を構えたまま、よく似た困惑顔で立ち尽くしてしまっていた。少しでも奴らの士気を挫いてやろうと放った言葉だけど、まさかあんな脅し文句を素直に聞いたってのか?こっちが優勢だったのは確かだけど、クラウレのこともコーラルのこともそれであっさり諦めて逃走を選ぶだなんて……そんなこと、有り得るんだろうか?

「追う必要はない」

 訳が分からないまま、それでも咄嗟に後を追おうとした兄貴や新しい矢を番えかけたアロエリを止めたのは静かな声だった。訝しげに眉を上げたイオスや静かに口を結んだシンゲンの視線が向かう先、皆の困惑と警戒を払拭するようにゆっくりと口を開いたクラウレが朗々とした声を響かせる。

「連中は悟ったのだ。御使いが全員揃ったこの時点で、自分たちだけでは勝ち目がなくなったということをな」

 有無を言わさないその響きに兄貴やリシェルが目を見張り、アロエリが希望に満ちた表情を輝かせた。

「それじゃあ……」

「ああ、安心しろ。アロエリ。最後の遺産である守護竜の瞳は無事に守り抜いた」

 そういって握り締められていたクラウレの手が開かれると、丸みを帯びた水晶のような物が姿を現した。きらりとお日様の光を返すそれを見つめて、俺も呆然と呟いている。

「これが……最後の遺産……」

 これを継承すればコーラルは一人前の守護竜になる。敵から守ってやる必要もなくなって、親代わりを務めていた俺も晴れてお役御免、コーラルは新たな守護竜としてセイロンたち御使いを統べるラウスブルグの主となるのだ。

 なのに……どうしてだろう。その日が来るのをずっと待ち望んでいたはずなのに、何だか急に胸が苦しくなって思わず黙り込んでしまう。そんな俺の隣、竜の姿のコーラルもつぶらな瞳で遺産を見つめてじっと押し黙っている。

「さあ、新たな守護竜よ。一刻も早く継承の儀式を行いましょう。早くこちらへ」

 地面に膝を突いて恭しくコーラルに手を差し伸べるクラウレの姿は完成された一枚の絵のようで、だけどそこで予想外の事態が起きた。

「ピギッ!」

「お、おい……コーラル……?」

 拒絶するような鋭い一声を上げるなり、コーラルが俺の背中に隠れちまったのだ。

「ピギィッ!ピギィィッ!」

「守護竜殿……」

 何かを必死に言い募るように鳴き続けるコーラルにクラウレが呆気に取られたように呟いて、我に返った俺は慌ててコーラルに向き直った。

「こら!ワガママ言ってる場合じゃねえだろ!?本当どうしたんだよ、いつものお前らしくないぞ?」

「ピギイィィッ!」

 声を荒げて叱っても優しく宥めすかしてみてもコーラルは聞く耳もない。必死に首を横に振るばかりだ。最後の遺産を継承して大人になることがそんなに怖いんだろうか?確かに急な話だったし、心の準備が追い付かないのかもしれないけど、それにしたってここまでの嫌がりようは何だか変だ。リビエルやアロエリを見つけた時には自分から飛び付いていってたのに、初めての場所で緊張してるのか、クラウレにはまだ近付こうとする素振りもないし……

 無理に背中から押し出すような気にもなれず、どうしたものかと困り眉で口を噤んでしまった俺に助け船をくれたのは、少し離れたところでイオスと一緒に周囲の様子を窺っていたナチねぇだった。

「ひとまず敵が去ったといっても、決して安全な場所とは言えませんし。コーラルちゃんが不安になってしまうのも無理はないかもです。遺産の継承中はただでさえ無防備になるんですし……ねぇ、リビエルちゃん?セイロンさん?」

 あくまで提案といった調子のそれに、事の成り行きを見守っていたセイロンとリビエルが軽く目を交わし合った。そうして口々に同意の言葉を告げてくる。

「うむ、少しばかり性急すぎたようだな」

「こうもとんとん拍子に行くとは私も思っていませんでしたもの。心の準備をする時間だって、必要ですわよ」

 だよね、とルシアンも神妙な顔で頷いて、言葉少なにコーラルを見つめていたリシェルも小さく首を縦に振る。ならば、と三味線を景気よくかき鳴らして今度、場違いに明るい声を上げたのはシンゲンだった。

「ここはひとつ、いったん宿に戻るのがよろしいのでは?敵が追撃を諦めたのなら時間の余裕もあるでしょうし、かまいませんよね?」

 人当たりのいい笑みを浮かべて皆を順繰りに見渡して、最後は軽い調子で尋ねたシンゲンにクラウレも鷹揚に頷き返す。

「ああ、構わん。少しばかり俺も焦っていたようだ」

 言うと、身体ごとコーラルに向き直って深々と頭を下げる、その動きも淀みない。

「お詫びいたします、守護竜殿よ」

 些細な仕草や動作ひとつ取っても無駄なく洗練されているクラウレを前に、だけどコーラルが頷き返すことは結局、なかった。

 

 そうして町まで戻ってきたけれど、互いに事情を説明し合いながらなのもあって、行きより随分短い道中だった気がする。まずは初めにこっちのこと、コーラルを守ることになった切っ掛けや経緯、力を貸してくれている皆のことをざっくりと掻い摘んで話した。帝国軍人とか騎士とか、細かい身分までは知らなくても見るからに戦う者って格好をしたグラッドの兄貴やイオスを目にしたクラウレが少し不思議そうな顔をしていたからな。懸念や警戒まで滲ませる様子はなかったけれど、まずはこっちの事情を話して安心して貰うのが先だろうってなったわけだ。ただ、正確に言えばイオスの説明については省かせて貰った。その理由は単純だ。カルセド峠での交戦が一段落した後、たまたま戦いの場に居合わせただけの旅人として、イオスはそのままタラントに去っていったからだ。

「行き掛かり上、仕方なく手を貸しただけだ。僕はこのまま失礼させて貰うよ」

 トレイユの町で暮らす俺たち、そこで駐在軍人をしてる兄貴や派閥から出向してるミント姉ちゃんと違って、イオスは本来まったくの部外者だ。任務ついでに俺たちの手助けをしてくれているけど、まさか遠く離れた聖王国の自由騎士団の人間にまで詳しい事情が知られているとなれば、御使いの長であるクラウレとしてはさすがに不安を覚えるかもしれない。だからもし、今日の探索でクラウレが見つかって御使いが無事揃ったならばその辺りの話に伏せたままにしないか、とイオスから事前の提案があったのだ。セイロンたちからも異論はなかったし、実際、こうして御使いは揃ったわけだしな。他に共有しておきたい話も山ほどあるし、イオスのことはひとまず一時的に手を貸してくれた人間ということにして、これまでのことを駆け足気味に話してたんだけど。

「じゃあ、あんたたちがこの町に集まることに決めたのは」

「ああ、そうするように店主の父君に言われたからだったのだよ」

「聞いてませんわよ、そんなこと!?」

 あれよあれよという間に思ってもみなかった話が出てきて呆気に取られる俺より早く、怒り心頭とばかり声を発したのはリビエルだ。その剣幕にぽかんとしてしまったリシェルや俺を置き去りに猛然と食って掛かる背中からは怒気が立ち上って見えるほどで、そう怒るなリビエル、とセイロンを庇うクラウレの声も届いているかすら怪しい。でも正直、その反応はもっともだ。結果から言えばトレイユの町に一番乗りだったリビエルだけど、合流場所なんてそんな大事な話を知っているのがセイロンとクラウレだけだったなんて、なぁ?先代守護竜が自害を望んでクソ親父がそれに手を貸した、最期の場面に立ち会ったのが二人だけだったからには仕方ないのかもしれないけど……

 リビエルの憤慨っぷりに口を挟む気にもなれず眺めるばかりになっていた俺だけど、気がつけば眉を寄せてしまっていた。にしてもやっぱり、こうして言葉にして言われるたびに少しばかり来るものがある……どういった事情であれ先代守護竜の首を、コーラルの親の首をはねたのはクソ親父、なんだよな。

「あれは先代が望んだことだ。お前の父が持つ魔剣でなくば先代の望みは叶わなかったろう。でなければ先代は囚えられ、敵の目的に利用されていたはず……むしろ感謝すべきだ」

 そう思うだけで胸がずんと沈み込むような居た堪れない気持ちになってしまうけど、本当だったら誰よりそれを許せないはずのクラウレに気遣うような言葉まで掛けられて、俺はただむっつりと口を引き結んだ。合流からずっと、どっしり根を張った大木のような落ち着きを見せているクラウレだけど、さすがにその胸中まで穏やかだとはとても思えない。ここで馬鹿正直に胸を撫で下ろすのは無神経が過ぎるというか、少なくとも正しい反応じゃないと思うし、それに……まだ懸念は残っている。

「皆さん、難しいお顔はその辺にして。おチビさん、ずっとしょんぼりしたままじゃないですか?」

 難しい顔をして押し黙ってしまった俺だけど、はいはい、と重い空気をかき散らすように手を鳴らしたポムニットさんの声にはっとして顔を上げた。そうだ、いま一番大事なのはコーラルだ。ここまで黙って付いてきていたコーラルだけど、皆の視線が集まったことでぴゃっと上着の裾から背中に飛び込んできたあたり……まだ不安でいっぱいみたいだな。ならまずは少しでも安心できる場所、宿屋の敷地に入っちまうのが最優先だろう。今なら結界だって張ってあるし、留守番中だったプニムやシズクのやつもいる。今か今かと俺たちの帰りを、あるいはおやつを待ち構えているだろう姿を思い浮かべたのは同じだったのか、小さい頭を背中に擦り付けてきたその気配に、俺は無理にでも気持ちを切り替えた。そして。

「さ、まずはゆっくり休んでくれよ。追われっぱなしで疲れてるだろうしさ」

 宿屋前の坂道を上りきって、あと一歩も進めば敷地に入るといったところで足を止め、すぐ後ろのクラウレへと振り返った。精一杯の笑顔に口角を上げて歓迎するように両手を開いてやれば、ふっと息を吐くように笑ったクラウレが目を伏せる。

「お心遣い、感謝……」

 感じ入ったように頭を下げながら一歩、落ち着いた足取りで進んだその時だ。初めて耳にする奇妙で不快な異音が辺り一面に響き渡ったのは。

「護りの結界が反応してますわ!?」

「まさかあいつら、退いた振りをして尾けてきたのか!?」

 怒号と混乱の声が飛び交う中、コーラルを中心に円陣を組むんだ、と誰かが叫ぶ。一斉に臨戦態勢に入った皆が、コーラルを背にする形でそれぞれ武器を構えた。バネが急激に伸び縮みを繰り返しているような異音が響く中、どこかにいるはずの悪意を持った敵を警戒して、皆の浮かべる表情はどんどん険しさを増していく。辺りの様子を窺うように上着の裾から出てきたコーラルも、ぴぃ、と不安げに小さく鳴いた。そのか細い鳴き声を拾ってか、鋭い視線を走らせていたクラウレが少しずつ、後退るようにしてコーラルへの距離を詰めていく。

「心配は無用です、守護竜殿よ。御使いの長の名にかけて俺が貴方を守って見せましょう。そう……何の心配も……」

 注意して耳をそばだててなきゃ聞き逃していただろう囁き声で、怯えるコーラルを宥めるような言葉を紡ぎながら、少しずつ、少しずつ、にじり寄って行ったクラウレの手がコーラルに触れようとした瞬間。

「けりゃああああっ!!」

 地面を抉り取るような強烈な踏み込みと共に、一気に肉薄したシンゲンの刀がその手を切り落とした。そう、錯覚してしまうような気迫で繰り出された一刀は、けれど寸でのところで阻まれたらしい。頭で考えるより早く、おそらくは反射で槍の柄を引き上げたんだろう。必中に見えた一撃をどうにか防いだクラウレが、それでも衝撃を殺し切れずに大きく体勢を崩しながら後退ったところに、今度は固く握り締められたプニムの拳が飛んだ。

「ぷにっ、ぷにぷにぃっ!」

「なっ!?」

「来い、コーラルっ!」

 驚愕も露な表情で無理やり身体を捻るようにして避けたクラウレだけど、その足元にいつの間にか接近していたシズクが畳み掛けるように触手を振るう。動揺に声を揺らしながらも何とか避けた様子だけど、それには構わず声を張ってコーラルに呼び掛ければ、それで全部理解したんだろう。今まさに襲われているクラウレの方には目もくれず、俺へと向かって一目散に飛んでくる。その小さな身体を片手で引き寄せて背中に匿った俺もまた、腰の剣を勢いよく抜き放ってクラウレへと向き直れば、突然の攻防劇に呆気に取られていたリシェルたちもやっと我に返ったらしい。

「ちょっとライ!シンゲンも!あんたたち、何やってんのよ!?」

「クラウレさんは僕たちの味方だよ!?」

 俄かに色めき立って動揺と困惑の声を向けてくるけれど、厳しい表情を崩すことなく俺は返した。

「さあ、そいつはどうだろうな……なあ、シンゲン!お前の考えを皆にも教えてくれないか?」

 事態の理解が追い付かないのか、アロエリは呆然と立ち尽くしたまま、リビエルも目を白黒させるばかりで声のひとつも出ていない。セイロンは難しい顔で押し黙っているけれど、多分……俺たちと同じ考えに辿り着いちまったんだろうな。それならなおさら、ここで引き下がるわけにはいかない。横目で顎をしゃくるようにして言えば、いつでも居合を繰り出せるよう重心を低く構えたシンゲンが吐息だけで笑ったらしい気配がした。

「ではお言葉に甘えまして……皆さま方は、ほんの少しも疑問に思われませんでしたか?先ほどの戦いぶり、初め遠くから拝見させて頂きましたが、まるで約束組手のように鮮やかすぎやしませんでしたか?」

 はっと息を呑んだのは兄貴だろうか、ルシアンだろうか、それともアルバだろうか。やけにあっさりと敵が逃げていったあの時の妙な違和感を思い出したんだろう、静まり返った空間に場違いなほど穏やかなシンゲンの声が響く。

「それにこの方が宿に入ろうとした途端に結界は反応した。悪意を持つものが近付けば警告を発するということでしたが、尾けられている気配がないか、先日の一件もあって誰より警戒していたのは御使いの皆さんご自身でしたでしょう?となれば……疑って掛かるのは当然かと」

 静かな笑みを口元に湛えたまま、眼光鋭くクラウレを見据えて考えを語ったシンゲンが最後、不敵な笑みに口角を持ち上げた。途端に膨れ上がった場の緊張と警戒に耐えきれなかったんだろう、アロエリが戦慄く声で必死に否定を口にする。

「ば……馬鹿なっ!?兄者は御使いの長なんだぞっ!?セルファン族の誇り高き戦士を侮辱するつもりかっ!?」

「でしたら周囲の様子を調べてみましょうか。索敵の得意な子に頼めばすぐに結果は出ますし。そして誰もいないのに反応が収まらないようであれば……答えは明白ですよね?」

「それともうひとつ。プニムのやつはさ、いつもご機嫌で人懐っこくって……初対面だろうとお構いなしに笑顔で飛び付いていくようなやつなんだ。それがいきなりあんな真似をして、シズクもそれを止めなかった……俺としちゃあもうその時点で、無条件に信じるわけにはいかねえよ」

 身内を疑いたくない気持ちはよく分かる。けれど、俺もナチねぇも追及の手を一切緩めることなく畳み掛けた。プニムは人の気持ちに敏い。心の機微を汲み取るのが上手いというか、その上でやたら人懐っこくて甘えただから、知らない相手でも物怖じせず興味のままに近付いていってしまう。だからその姿をテラス席に見つけた時、咄嗟にプニムの反応を窺った。こっちに気付いたプニムがいつものように飛び付いてくるか、クラウレ相手にも愛嬌を振りまいてみせるか、それとも……。その反応次第では、と固唾を飲んだのはほんの僅か、俺の抱いた懸念は当たってしまった。ぴたりと動きを止めたプニムが瞬きもせず食い入るようにクラウレを見つめてきた反応だけで十分すぎるくらいだったけど、いきなり本気の拳を振り上げて飛び掛かってきたそれを止めることなく、シズクまで迷わず追随したのだ。それが俺の信頼する身内の出した答えだったからにはもはや疑う余地もない。結界が反応した悪意の持ち主というのは、きっと……

 皆も同じ考えに至ったんだろう、姿の見えない敵を警戒するための布陣はいつの間にかクラウレの包囲網へと変わり始めて、じり、とその輪が狭まるにつれ、肌がピリつくような空気が増していく。息も詰まる緊迫感の中、なぜか抗弁のひとつもせずに黙り込んでいるクラウレの様子に不審を覚え始めたところだった。

「ははは!……そうだな、その男の言うとおりだ」

 乾いた破裂音のような笑い声が突如として響き渡った。その出所がクラウレだと気付いた俺たちがそれぞれ動揺や困惑を浮かべる前、クラウレはあっさりと肯定の言葉を口にする。

「油断させてから目的を果たすつもりだったが、まさか護りの結界が張られていた上、こうも抜け目ないやつまでいるとはな…………些か慢心していたようだっ!!」

「きゃあっ!?」

 けれど、それも振りでしかなかったんだろう。言うなり周囲一帯を吹き飛ばすような勢いでクラウレは槍を振るった。予備動作もなしに振るわれたとは思えない速度と威力で繰り出された槍の柄がアロエリを強かに打ち払う。身構えもしていなかったアロエリが悲鳴と共によろめけば、その先にコーラルとリビエルがいたからだろう、さらに包囲の穴を広げるべく大きな弧を描いた槍を手元に引き直すのが見えたけれど。

「そうはさせるかっ!」

 飛び込むように割って入って、カウンター気味に振り抜いた剣で殴打に近い一撃をくれてやる。勢いが完全に乗る前の槍の軌道を半ば強引にズラしてやれば、盤石に見えたその体勢も僅かに崩れたんだろう。くっ、と歯噛みしながら軸足を引いたクラウレへとすかさずシンゲンが追撃の一太刀を浴びせれば、それでやっと観念したように大きく飛び退って距離を取った。その間に兄貴やアルバ、ナチねぇがコーラルの周りをすっかり固めたのを見て取ってだろう。苦々しげに表情を歪めたクラウレが背中の翼を勢いよく開いてその場高くに飛び上がる。

「親子揃ってつくづく忌々しいニンゲンめ……その首、いずれ必ず串刺しにしてくれる!」

「兄者っ!?」

 悪党さながらの捨て台詞を吐き捨てるなり、翼を大きくはためかせてどこぞへと飛び去って行く。その姿を唯一の身内であるアロエリがただ見送るなんて出来なかったのはある意味、当然だった。

「待て、アロエリ!?」

 セイロンの制止の声も届かない。無我夢中といった様子で翼を広げた次の瞬間には天高く飛び上がって、遠ざかる背中を追って脇目も振らず空を駆けていく。その方角にあるのはちょうど俺たちが引き返してきたばかりのカルセド峠だけど、クラウレのやつは一体どうしてこんな暴挙に出たのか。本来なら何を差し置いても守るべきコーラルに対して、結界が反応するほどの悪意なんて持つことになったのか。

「いったい、何がどうなったワケ!?」

「分かりませんわよ、私たちにもっ!?」

 混乱に怒鳴り合うリシェルとリビエルの声が何より現状を表していたけれど、ひとつ、確かなことがある。

「確実に言えることはひとつだけ。クラウレが我らを謀ったという事実だ」

 苦渋の表情で呟いたセイロンに、そんな、とショックを受けたように声を失うルシアンが見えたけど、そうだとしてもだ。このまま二人を追い掛けないことには何も分からないし始まらない。

「とにかく、放っておくわけにはいかないよ!?」

 混乱と動揺に呑まれる皆を叱咤するように声を張り上げたアルバに続いて、そのとおりだと俺もまた皆に向かって呼び掛けた。

「事情がどうとかいうのは後回しにすりゃあいい。今はまず、あいつらを急いでとっ捕まえるんだ!」

 その先にどんな事実が待っていようと、とにかく今は出来ることをするしかない。次々と真剣な表情に切り替わっていく皆と視線を交わしたら後はもう、出来る限りの全力で二人を追い掛けるだけだった。

 

 しっかし、翼のある連中をただの人間が追い掛けるってのはさすがにキツイものがある……!

 緊急事態ですし、とナチねぇが率先する形で呼び出したのはお馴染みのワイヴァーンで、その背中に乗った俺たちは再びカルセド峠を目指して町の上空を飛んでいた。こないだあれだけミニスに釘を刺されたばかりだってのに……早速約束を反故にしてしまったことに途方もない申し訳なさを覚えるけれど、こうも切羽詰まった事態となればいくらか情状酌量の余地はあるはずだ。それにしたって、あまりに迷いなくサモナイト石を取り出したナチねぇには言いたいことが山ほどあるけど、それも今は後回しにするしかない。びゅうびゅうと容赦なく吹き付ける風を全身に浴びながら夢中で目を凝らしていた俺とコーラルは、同時に一点を見つめて声を張り上げた。

「ピイィッ!」

「見えたぞ、アロエリたちだ!」

 小高い岩場の上でクラウレと向かい合って何か話しているようだけど、明らかに動揺した様子のアロエリに対しクラウレの方はやけに落ち着き払って見える。何を言われたのかは知らないが……このまま黙って見過ごすわけにはいかないだろう!

「アロエリ、無事か!?」

「ライ、みんな……」

「やはり追ってきたか、ニンゲンめ」

 ある程度の高度になったところで飛び降りての着地を決めた俺やセイロンに続き、ワイヴァーンから降りたナチねぇやミント姉ちゃんたちも急いで駆け寄ってきた。それにどこかほっとしたように声を揺らしたアロエリだけど、すっと表情を消したクラウレは憎悪と敵意を隠しもしない目でこっちを睨み付けてくる。それに反射で睨み返そうとした俺だったけど、無言で前に出たセイロンが目だけで相手を射殺すような、苛烈な視線を突き返すほうが先だった。

「どういうつもりだ、クラウレよ。御使いの長として誰よりも先代の信に厚かったそなたが、なぜそれを裏切る真似をするのだ!?」

「ねえ、クラウレ?さっきのは本気じゃないんでしょう?弱みを握られたとか、操られているとか、だから……っ」

 爆発寸前の怒りを必死に堪えながら糾弾の声を放ったセイロンも、一縷の望みに縋るように弱弱しく尋ねたリビエルも、心の底にはクラウレを信じたい気持ちが……さっきの行動は理由あってのことなんだと言って欲しい気持ちがあったはずだ。そんなの俺から見ても一目瞭然でしかなかったっていうのに、冷めた目で二人を睥睨したクラウレは淡々と突き放すように言った。

「残念ながら俺は正気さ。自分の意志で行動し、こうすると決めた。後悔も迷いもない。その証拠を今ここで見せてやろう……」

 さっと片手を上げると、岩場の陰に向かって高らかに呼び掛ける。

「出てこい、新たなる俺の手駒たちよ!」

 その声に応えて音もなく姿を現したのは、何度も敵対してきた仮面の暗殺者に外道召喚師、そして獣の軍団の兵士たちだった。集団の半数近くは獣人で占められているのか、大ぶりの斧や槍を構えた巨体の兵士がここからでも垣間見える。

「いやはや、ダメ押しの答え合わせとは有り難いことですね」

「ああ、そうだな。あんたの言うとおり、こうなったら疑いようもない……間違いなくこいつは、俺たちの敵だ!」

 続々と現れる敵の姿に表情を険しくしながら、兄貴やシンゲンがそれとなく皆を庇うような位置へと動いていく。クラウレの指示が出れば一斉に襲い掛かってくるだろう敵を目前に、まだ完全には事態を飲み込めずにいたリシェルやルシアンもついに腹を括ったらしい。剣や杖を用心深く構えて臨戦態勢に入っていくけれど、皆の姿とは裏腹にアロエリの方はまだ、動揺から立ち直れてもいなかった。

「ウソだ……、そんな……」

 呆然と揺れる声すら力ない。こぼれ落ちそうなほど目を見開いてその場に立ち竦んでしまってる。セイロンもリビエルも自分の気持ちが挫けないようにするだけで精いっぱいなのか、アロエリのやつを叱りつけたり励ましたりする余裕まではないらしい。きつく唇を噛んでクラウレを睨み付けたり、涙をいっぱいに溜めて杖を握り締めたり、どうにかこの場に立っているという感じだ。だから俺は大きく息を吸い込んで、頭からアロエリを怒鳴りつけた。

「しゃきっとしやがれ、アロエリっ!今は目の前の敵をやっつけるんだ!それが戦士の務めってもんなんだろ!?」

 誰より憧れていた身内が信じられないような蛮行に及んで、それを恥じるような素振りもなく、臆面もなく敵として立ち塞がってきて……そんなの心が折れそうになって当然だ。目の前の光景を受け入れたくない気持ちも、現実を否定したい気持ちも痛いほどに分かる。だけど、無理やりでもアロエリを正気づけるために乱暴なまでの口調で俺はその横っ面を張り飛ばした。

「それとも、戦場でそんな情けない面を晒すのがセルファン族の戦士だってのか!?」

 叱咤というには手荒いやり方、荒療治が過ぎるのは百も承知だ。これが本当の意味でアロエリを思っての言葉になるかすらも分からない。セルファン族の戦士であることに並々ならない矜持を持っていたアロエリを強引に奮い立たせて、尊敬するクラウレに対峙させようとしている俺の判断はひどく残酷かもしれないし、辛く苦しい思いをさせるだけなのかもしれないけれど。まずはここを切り抜けないことには、何も分からないままで終わっちまう!

「っ……、貴様に言われなくとも、分かっているっ!」

「よっしゃ、それでこそアロエリだ」

 大きく息を呑んだアロエリの瞳に僅かばかり光が入って、きつく唇を噛みながらも急いで弓を構えようとする。その姿に軽く笑い掛けてやってから俺は無言でクラウレへと視線を投げた。つくづく回りくどい小細工なんかしやがって……同じ御使いのセイロンやリビエル、たった一人の妹であるアロエリの信頼を裏切ってまで一体何を叶えようとしているかは知らないが、どうせろくなことじゃないはずだ。皆をこれだけ傷つけて平然としている外道の面をきつく睨み上げて、俺は容赦なしの怒声を放っている。

「行くぜ、クラウレ!テメエの根性をたたき直してやるっ!!」

 

 血気盛んに啖呵を切ったはいいものの、現状としては物の見事に敵の陣中に誘い込まれてしまった形だ。最初から俺たちが追ってくるのを計算に入れていたのか、岩場のあちこちに散った敵はどれもこれも高所の利を押さえてやがる。幸いにまだ峠の入り口も入口だったから手摺り代わりのロープや足場だとかもきちんと補修されていて、ちょっとやそっとじゃ落ちないように極太のワイヤーでも通してあるのか、崖下から強風が吹き付ける吊り橋にしたって敵が何人乗ってもびくともしていない。少なくとも戦いの最中に縄を切られて谷底真っ逆さま、なんて心配はしなくてよさそうだ。しかし、対岸で構えている奴らを相手するには途中、どうしたって吹きさらしの橋を渡らなきゃいけないわけで……奥まで辿り着く前に弓矢の集中砲火を食らわせてやるって寸法なんだろうな。馬鹿デカい弓を構えた獣人の兵士を切り立った崖の上に見つけて、相変わらずの姑息さに乾いた笑いがこぼれてしまうけど。

「それくらいで止められる俺たちじゃあないけどな!」

 右手に携えた墨色の槍をひゅんと回転させた勢いのまま、吊り橋の前に固まっていた連中に猛然と突っ込みながら俺は怒鳴るように言い放った。

 弓使いに高所を押さえられているのは痛いは痛いが、だからってやりようがないわけじゃない。射程範囲のギリギリまで接近した後、一気に間合いに踏み込んじまえばこっちのもんだし、他の奴らが足止めを仕掛けてくるなら先にぶちのめせばいいだけだ。断崖の上に陣取っているからには何度か矢を射掛けられはするだろうが、正面から来るって分かってりゃ見切るにしろ構えるにしろ容易なもんだ。もしナチねぇたちに余裕があったら攻撃力を下げる憑依召喚とか、命中率ががくっと落ちる暗闇になる術を掛けて貰うつもりだけど、そうした援護がなくたって勝てる自信はある。それだけの修羅場は越えてきてるんだと思いきり踏み込みながら槍の石突で敵の鳩尾を突き上げてやれば、奥から向かって来ていた暗殺者に踏み込みざまの一撃をお見舞いしたらしいシンゲンと一瞬、背中合わせになった。

「相手は見るからに裏家業の連中です。含み毒にシビレ針、なんだってアリですから気を付けて下さい!」

「ああ、そっちもな!」

 短く言葉を交わして互いに勢いよく身を離せば、好機と見て迫ってたんだろう、一度地面に転がった暗殺者がその手の武器を大きく振り上げたところだったけど。

「そこっ!」

 残念だけど、それも見えてたぜ!一歩引いた位置から全体を見渡していたアルバの声まで飛んできて、突き出された切っ先を難なく避けた俺は返す手でその無防備になった背中に強烈な一打を叩き込んだ。今回は両手に武具を嵌めた上で手近な槍を掴んでワイヴァーンに飛び乗ったけど、どうやらこの連中相手にはこれ以上ない選択だったみたいだ。時折鋭く声を張っては敵の死角、あるいは弱点を教えてくれるアルバのおかげで景気よく急所狙いの攻撃を繰り出せているのもあって、どんどん気持ちが上向いて、感覚が研ぎ澄まされていっているのが分かる。自分で思った以上に身軽に動けている爽快感と小気味よさに自然と笑みすらこぼれるけれど、どうやらルシアンやコーラルも俺と同じか、それ以上に調子がいいらしい。

「危ないっ!」

「覚悟して……えいっ!」

 シンゲンの警告どおりなら敵の攻撃がたった一度掠るだけでも一大事になりかねない。あの一言でそこまで理解したんだろう、ルシアンはあれから驚異的なほどの確率で敵の攻撃を防ぎまくっていた。鋭い矢尻も槍の穂先も最小限の動きでブロックしては、その衝撃をすぐさま受け流して次の攻撃に備えての構えを取る。グランバルドの砲撃をブロックした時よりずっと技量が上がっているようだけど、シズクやプニムが攻撃した相手に与える毒や眠りの効果がどれほど強力でえげつないものなのか、間近でよく見て知っているのも大きいんだろうな。おかげで両隣のリシェルやリビエルが自由に召喚術を打てる状況になってるんだからその貢献度合いは相当だ。そしてそれはコーラルにだって言える。竜の姿だと格段に移動速度が上がることを活かして敵への距離を詰め、人間の姿に変身し直しては気合の籠もった拳を叩き込んで行動不能にまで追い込んでいるんだからな。無限回廊での鍛錬や稽古の成果が出始めてるんだろう、相手の隙を見計らってその背後や側面から鋭い一撃を叩き込んでいく戦法はすっかり身に付いたものらしい。凶悪な爪の一撃を俊敏に避けたコーラルがお返しとばかり懐への一打を叩き込めば、図体ばかりのデカぶつだったらしい槍持ちの獣人が大きな音を立ててひっくり返った。離れた場所から雷撃を落とせる竜の姿と、急所狙いの一撃をくれてやれる人の姿と、臨機応変に使い分けている姿があまりにも頼もしい。

「やるじゃない、ルシアン!その調子よっ!」

「御子様……なら私たちだって、負けてはいられませんわよね!?」

 声を弾ませたリシェルが術の片手間にルシアンを応援すれば、呆けたようにコーラルの活躍を眺めていたリビエルも、きっと目尻を釣り上げてセイロンへと声高な檄を飛ばす。それにほんの僅か表情を緩めたセイロンが深い呼吸をひとつ挟んで集中を高め、いわゆる気合をチャージした状況になったのを横目に見ながら、俺は邪魔者のいなくなった吊り橋を駆け抜けた。さて、これで残すは対岸で構えた連中ばかり……とはいっても幅広の道に陣取った外道召喚師に暗殺者やらと、崖上の弓使いを同時に相手取るのはさすがに分が悪い。だからまずは、動きの素早い俺とコーラルで少しでも狙いが定まらないよう攪乱してやろうと突っ込んだわけだけど。

「ぴぃっ!?」

「コーラルちゃんっ!!」

 まさか、崖上の奴らがコーラル目掛けて岩を落としてくるなんて!?矢の雨を食らうのは覚悟の上でも岩にぺしゃんこにされるのは考えてなかったからだろう。一瞬固まってしまったコーラルを庇おうと追走していたナチねぇが前に出る。そのままコーラルをぎゅっと抱え込む姿が見えて、靴底が焦げる勢いで急ブレーキを掛けた俺は考えるより早く横っ跳びに地面を蹴った。

「っ危ねぇ!」

 コーラルとナチねぇの眼前に滑り込んで、着地と同時に構えを取るなり、夢中で拳を振り抜いている。かっと焼けるような熱を持った腕輪も気にせず繰り出した拳に衝撃を覚えたのは一瞬、木っ端微塵に弾け飛んだ岩の欠片がこん、こん、と軽い音を立てて周囲に散らばっていく光景を目の前に……誰より目を見開いてしまったのは俺自身だったはずだ。うっわ……こいつはちょっと、やりすぎたかもしれない。咄嗟のこと過ぎて加減も何も利かなかった自覚は大いにあるけど、ストラの呼吸を使ったと言ってもギリギリ誤魔化せるかどうかの真似を仕出かしてしまった気がする。というか最後、腕輪から激しく軋むような音まで聞こえてきた気がするけど、大丈夫だよな……?

 ナチねぇの腕の中からきらきら目を輝かせて見上げてきているコーラルにこそばゆさを覚える一方、急激に込み上げてきた焦りと不安に冷や汗を垂らしてしまうけど、あまりのことに度肝を抜かれたのは敵も同じだったらしい。絶好の好機だというのに攻撃を仕掛けてくるどころか動きが止まってしまっている。それに真っ先に気付いたのはナチねぇだった。

「っシンゲンさん!リビエルちゃんも、今です!足場を!」

 鋭く声を張って片手のサモナイト石に勢いよく魔力を注いだナチねぇに、一拍遅れで飛び込んできたセイロンにシンゲン、そして杖を高く構えたリビエルが声を張り上げる。

「分かっていますわっ!」

「それでは手筈どおりに!」

「行くぞっ!」

 阿吽の呼吸でナチねぇが呼び出した踏み台、それを足場にしたシンゲンが一足飛びに崖上へと到達した。垂直に近い岩壁をまさか越えてくるとは思ってなかったんだろう、不意を打たれて動きの止まった弓使い相手にすかさず居合切りを食らわせたらしい気配が伝わってすぐ、今度は気合の入った掛け声と何か重量のあるものが連続して吹っ飛ぶような音が響いた。リビエルが召喚したテーブルのような踏み台を蹴って跳び上がったセイロンが、間髪入れずの追撃を食らわせたのだ。それを背中に聞きながら目の前に迫る敵の暗殺者へと牽制の槍を叩き込んで、俺は素早く視線を走らせた。……ここまでも来てもまだ動く気がないのか、いや、最初から動くつもりなんてなかったのか。手駒の連中がどれだけやられても最初に陣取った岩場から一歩も動かず、事態を静観しているクラウレを視界の端に、今度はナチねぇへと目配せをひとつ。それだけで俺の意図するところは伝わったらしい。

「リビエルちゃん、ここは任せて?……それじゃあ力を貸してね、サモン、氷魔コバルディア!魔氷葬崩刃!」

 協力召喚で威力を上げたダークブリンガーを落とす予定だったのを変更して、ナチねぇがいつものようにサプレスの召喚術を練り上げた。問答無用で敵の動きを止めてしまう強烈な冷気と蒼氷がその場を満たせば、駆け付けてきたルシアンや兄貴たちと止めを叩き込んでいくだけで事足りる。そう、あくまでこっちの手の内を探るためにけしかけただけの連中だっていうなら、必要以上にこっちの手の内を晒してやる義理なんてない。

「……ふむ、将軍たちのやり方が甘いせいだけではなかったか。なるほど、確かにこちらが手こずる程度の強さは持っているようだな」

 高みの見物を決め込んでいたクラウレがやっと口を開いた時にはもう、その場に立っている敵は他にいなかった。

「はっ、格好つけて負け惜しみか?お山の大将気取りで前線にも出てこなかったくせによく言うぜ。何ならここで白黒つけてやるからさ……さっさとそこから降りて来いよ?」

「遠慮しておこう。この戦いは貴様らの戦力を見極めるために仕掛けただけのもの。目的は達した……などと言わずとも、貴様も勘付いていたのだろう?」

 嘲笑交じりに吐き捨ててやれば引っ掛かるかと思ったけど、やっぱそう甘くはないか。無言でぶつかった視線から火花が散ったような錯覚を覚えるけれど、つまらなそうに鼻を鳴らして皮肉げな笑みを浮かべたクラウレに思わず舌打ちをこぼしてしまう。だけど、他の皆からすれば寝耳に水の話だったんだろう。今の今まで相手をしていた連中はクラウレにとってただの捨て駒、仲間ですらなかったのだと知ってそれぞれに愕然とした表情を浮かべている。

「なんて奴なの……!?」

 口々に非難の声を上げ始めたリシェルやアルバたちだけど、クラウレはそれも気に留めることなく独り言ちるように言った。

「やはり、本気で貴様たちを始末するには相応の準備がいるな。……アロエリよ、俺と一緒にこちらに来い!」

「なっ……」

 いきなり名指しで呼び掛けられたアロエリが動揺に息を呑むも、真っ直ぐに見つめたままクラウレは続ける。

「たった一人の俺の妹だ。出来れば無駄死にはさせたくない」

「だ、黙れっ!?オレは……っ」

「……まあ、すぐに答えが出せるものでもないか」

 混乱に戸惑いながらも言葉を詰まらせたアロエリに嘆息して、けれどクラウレは不敵な笑みに口角を持ち上げる。まるでアロエリが最後に出す答えなんて分かり切っているとばかり、余裕に満ちた表情でその翼を広げると、再び高々と飛び上がった。

「心変わりをしたならいつでも頼ってこい。悪いようにはしない」

 待っているぞ、と優しく妹に呼び掛ける兄のような顔をして、クラウレはくるりと背中を返した。そしてそのままどこか遠く、カルセド峠の奥に向かって飛んでいく後ろ姿を、アロエリは……追わなかった。いや、追うこと以前に立ち上がることすら出来なかったと言うべきだろうか。糸が切れたようにその場に膝から崩れ落ちてしまえば、もう耐えきれなかったんだろう。

「兄者……どうして……う、うわああぁぁぁっ!!」

 最早揃うことはなくなってしまった四人の御使いたち、未だ果たされぬままの遺言と継承の儀式……見えかけていた結末がまるで幻だったかのようにはるか遠くに霞んでいく。頼みの綱だった御使いの長、クラウレは敵の一味に変わっていて、ようやく終わりが見えたと思った騒動はいよいよ収拾がつかなくなって、完全に道標を失ってしまった俺たちはただ呆然とするばかりで。悲痛な叫びと共に涙をこぼすアロエリに掛ける言葉の持ち合わせもないまま、ただ、絶望を噛みしめるしかなかったんだ。

 

 その日の夕飯は、ひどく静かなものだった。

 なにせあんなことがあったんだ。御使いの皆は思い詰めたような表情を崩すことなく、食事もそこそこに結界の具合を確認すると言って下がってしまったし、それが終わった後もずっと部屋から出てきていない。コーラルも今回の一件で心身共にひどく疲れてしまったんだろう。人間の姿になる余力も残っていなかったのか、バスケットに深く潜り込んでプニムと重なり合うように眠ってしまっている。屋敷に帰っていったリシェルたちにしたって混乱が過ぎて虚脱状態に近かったし、正直に言えば俺たちだってそれは変わらない。ひどく疲れて、何か考えることすら億劫な、ぼんやりした心地だったけれど……食後の一服も兼ねてシンゲンに少しクラウレ回りの事情を説明するうち、いくらか落ち着いてきたようだ。クラウレが御使いの皆にとってどれだけ精神の支柱だったのか……アロエリの兄だとか御使いの長だとかのざっくりした情報しか知らされてなかったシンゲンにその辺りの話を語り終えた頃には、何だかやっと日常に戻ってきたような気分になっていた。

「しっかし、召喚術での援護や補助があるとこうもやりやすいものだとは。まさかあんな台座まで呼び出せるとは思ってもみませんでしたよ」

「ふふ、サポートは慣れてるんです。けれどあんなに上手くいったのはやっぱり、シンゲンさんやセイロンさんがこちらの呼吸に合わせてくれたからで」

「おいおい、ナチねぇ?謙遜も過ぎると嫌味だってイオスのやつに言われてただろ。そこは素直に褒められとけよ。それに、シンゲンの方だってすごかったぜ?鞘から刀を引き抜く動作なんて結局、一度も目で追えなかったくらいだし」

 照れたように胸の前で小さく手を振りながら返すナチねぇに横から口を挟んだ俺だったけど、呆れ顔を浮かべていられたのは束の間だった。そうそうご主人も、と俺の言葉に思い出したように声を弾ませたシンゲンがすっかり忘れ掛けていた話を振ってきたのだ。

「ご主人の岩をも砕く一撃、あれには惚れ惚れしましたよ。まさかストラの心得まであるとはさすがですな。そういえばあの時、手首の辺りが光ったように見えましたが……?」

「あ、あはは。見間違えじゃないか?それこそ気合が滲んじまったか、陽射しが反射しただけだと思うぜ……?」

 鋭い指摘にぎくりとしながら作り笑いを返したものの、やっぱシンゲンのやつ目敏いな……今日のはさすがにやりすぎだったんだろう、腕輪の熱も中々引いてくれなかったし色んな意味で無茶をしたことは間違いない。この腕輪が熱を持ったり軋むような音を立てるのは決まって俺が本気の力を出そうとした時だ。言ってみれば俺の馬鹿力を制御するための外付けリミッターみたいなもんで、実際、意識的に力を抑え込めるようになってからは自由に外せるようになっている。それでも何かと便利であることは確かだから付けっ放しで来たんだけど、この調子でいくと……マジで壊れちまう日も近いかもな?

 そんなぞっとしない想像をしつつ、だけどそもそも、どうしてそこまでの全力を出すような修羅場に追い込まれたんだったか。芋蔓式にそこまで思い出す羽目になった俺は、洗い物や片付けやらが一区切りついたところで自然とナチねぇの部屋に向かっていた。

「おーい、ナチねぇ?……またそんな格好でお月見かよ」

 ノックをしたら少し遠いところから声が返ってきた時点で薄々察しは付いていたけど、薄手のストールを羽織った背中をベランダに見つけて深々と息を落とせば、それが聞こえたんだろう。くすくすと笑いながら横目で振り返ったナチねぇの三つ編みは解けていて、緩やかに広がった栗茶色の髪の向こうに悪戯っぽく笑う顔があった。

「小うるさいイオスのやつがいなくなったからって気を抜き過ぎじゃないか?風邪引いたって知らないぞ」

 ご褒美のスライミーグミでも貰った後なのか、満足げに床で伸びているシズクを踏まないように足を進めてその隣まで行けば、大丈夫だよ、と軽い調子で笑いながらナチねぇはちょっと首を傾げて言った。

「ちょっとだけのつもりだったし。それにお風呂上がりは夜風を浴びるくらいで丁度いいんだよね」

 ここのお湯は湯冷めしにくいから、と続けられてしまえば店主として返す言葉もないけれど、それにしたって最近じゃ毎晩のように夜風を浴びているだろうに……むむっと眉を寄せて半眼で見据えてしまうも、ナチねぇは緩やかに笑うばかりで変わらない。木立を越えた遠くに見え隠れする街の明かりに目を細めて、とろとろとまどろむような声を綴っていく。

「月光浴っていうのかな。こうしていると何だか気分が良くなるの。心の中まで静かになるというか、落ち着くっていうか……」

「まあ……その気持ちは分からなくもないけど」

 月の光はマナがたっぷり含まれていて、サプレスの住人にとっては陽の光よりも大切な恵みになるんだって、確かリビエルも言ってたっけ。俺自身、月の光を浴びるのは好きな方だ。透明な力が身体に漲ってくるような感覚がして、眠れない夜はホットミルク片手にぼんやり月を眺めていることもある。でも、そうはいってもあんまり身体を冷やしちゃ毒だ。特にナチねぇは女の人なんだから……そう呆れ交じりに嘆息した俺をどう見て取ったのか。そうだ、とさも名案を思い付いたようにナチねぇは顔を綻ばせた。

「ライ君も今度、一緒にする?お月見を兼ねた夜のお茶会。ポムニットさんとは前にしたことがあるんだ」

「えっ、一体いつ……っていうか、なんでポムニットさんと?」

「ふふふ。保護者として情報共有は欠かせませんから」

 意味深な笑みを向けられて思わず動揺が込み上げてくるけど、いや、このままナチねぇのペースに飲まれちゃいられない。それより、と部屋を訪ねた理由を思い出した俺はこほんと咳払いをひとつ挟んで真面目な顔をした。

「さっきの戦い、コーラルを庇って岩の前に出ただろ。身体が勝手に動いたってのは分かるけどさ、そうやってこないだも無茶したばかりだよな?」

 無色の連中が宿屋まで攻めてきたあの日、皆が皆、それぞれに辛い思いをしたり無理を押したり、それを誤魔化すような振りをした。ナチねぇもその一人だ。あんな前衛めいた立ち回りをすればどれだけ足に負担が掛かるのか、最初から分かっていたくせに余裕たっぷりに振舞っていたのを思い出して知らず渋面を浮かべてしまえば、そうかなぁ、ととぼけた口調で返してくる。

「これでも結構頑丈だし。ちょっとくらいじゃ人間死んだりしないよ」

「さては反省してないな、ナチねぇ……」

 そんなに無茶した気もないし、と呑気に笑っているけどよく言うぜ。人間の命なんて呆気ない。打ち所が悪ければ転んだだけもお終いだし、雑に扱っていればなおさらのこと、思いがけない拍子に軽く吹き飛んでしまうものだ。ナチねぇだってそれはよく知っているはずなのに、その対象が自分自身になった途端、一気に扱いが変わるのだから不平等にも程がある。

「いいか?あれは十分無茶だった。それに、無茶するのと頑張るのとは違うだろ?誰かが頑張ってる姿を見たら手伝ってやりたくもなるけど、無茶してる姿なんか見せられたって辛いだけだって。……ナチねぇにとっちゃ全然大したことなかったのかもしれねえけどさ、見てるこっちは心配でハラハラしたし、不安でもやもやしたし、何より寂しかったんだぜ?あんな土壇場でも少しも頼って貰えなくってさ」

 だから、情けないのにも気恥ずかしいのにも目をつぶって俺はあえて思うままを口にした。本当は他にも言いたかったことは山ほどある。ワイヴァーンのこともあんなあっさり呼んで……あの場面じゃ仕方のないことだったって分かるけど、それで後々不利益が生じるかもしれないのはナチねぇ自身なのにどうして躊躇いなく踏み切ってしまったんだろう。もしあれが人目に付いたら、情報が出回ってしまったら、それで損をすることになるのは他でもないナチねぇなのに、どうしていつも他人のためにそこまで一生懸命になるんだろう。農場の召喚獣にもアルマンさんにも、悪事を働いたバレンの奴相手にも簡単に心を寄せて手を差し伸べようとするから、俺はいつだって不安でたまらなくなってしまう。何より大事なひとが目の前でみすみす傷つけられるかもしれない可能性を前にして、どうして心穏やかに過ごせるはずがある?

 そんな不満と不平を込めてじっと見上げた俺を驚いたように見つめ返してきたナチねぇは、少しの沈黙を挟んでから小さく笑った。

「……それをライ君が言っちゃうかぁ」

 それがあんまりおかしそうな声だったから咄嗟に何か言い返そうと口を開いた俺だったけど、視線を跳ね上げた先にあったのが思いのほか優しい目だったから……そのまま何も言えずに口を閉じた。ナチねぇが何を考えているのか、やっぱりちっとも分からない。分からないけどこれはきっと、子ども扱いされてるんだよな?

 とりあえずは日を改めて仕切り直すことにして、とおやすみの挨拶を交わして自分の部屋に戻った後も、不完全燃焼の気持ちを引きずったままだったからだろう。どうしても思考の先はナチねぇに向いてしまう。

 俺の知らないナチねぇ、俺しか知らないナチねぇ。俺だけが特別だと思っていたこと、本当は全然そうじゃなかったこと。

 例えばこれまでナチねぇとは息の合った連携が取れていると思っていたけど、それは単にナチねぇが誰かのサポートに回るのが上手かったからだと知った。アロエリやシンゲン相手にもバッチリ噛み合った援護が出来ていたのはそれだけよく相手のことを見ているからで、元々そういった立ち回りに慣れているからで、きっとそこに深く関わっているのはイオスなんだろう。無色の連中を相手取っての戦いでも二人の連携はとりわけ目を見張るものがあった。言葉にしなくても通じ合っている感じがあって、輝くハシバミ色に映るイオスの姿は眩しいほどで、全幅の信頼を互いに預け合っているのがよく分かって……すごく対等な感じがした。互いに頼って頼られて、守って守られてが出来ていて、当たり前に肩を並べて戦っていて、それがひどく眩しくて羨ましくて、妬ましいと、思ってしまったのだ。

「本当の意味じゃ、俺は……頼って貰えてないんだろうな」

 これまでずっと目を逸らそうとしてきた、見ないようにしてきたもやもやの正体に気付いて、隙間風の抜けるような笑いが勝手に口からこぼれてしまう。

 当たり前にナチねぇの役に立てる、頑張らなくても頼って貰える大人の立場がずっと羨ましかった。俺みたいな子供には出来ない当たり前を最初から持っている大人を見上げるたびに、子供でしかない自分を突き付けられて、いくら背伸びしたって届かない現実の壁を目の当たりにしたような気分になった。どんなにキツイ現実でも一人で戦ってるわけじゃない、皆が力を貸してくれている、一緒に立ち向かってくれている……それを心から嬉しいと思う反面、それだけ俺が頼りにならない存在だって言われているような気になった。情けなくて悔しくて不甲斐なくて、ああ、そうだ。俺なんかいてもいなくても変わらないんじゃないかって無力感。弱っちくてちっぽけで誰の目にも入らなかった頃の自分に逆戻りしたような、圧倒的な劣等感。

 俺が子供じゃなかったら、ナチねぇに無茶な真似をさせずに済んだんだろうか?打ち明けられない秘密や隠し事が生じることもなく、本当の意味で頼って貰うことが出来たんだろうか?

 そんなの考えるだけ意味のないことだって、ちゃんと分かっていたはずだ。それが今の俺である以上、頼りにして貰えるだけの実力を身に付けるだけ、がむしゃらに足掻いてでも出来ることを増やしていくだけだって、何度も何度も言い聞かせてきたし、実際にそう行動してきたっていう自負はある。悔しかったことも情けなかったことも全部バネにして、ひたすら前に向かって邁進するしかないんだって、そう信じて駆け抜けてきたけれど。

 ナチねぇとの間には、イオスやシンゲンみたいな大人たちとの間には、目には見えない透明で分厚い膜がある。

 見えないその境界線を越えていけるほどの価値や、意味が、俺にはあるんだって言い切れるだけの自信もないのに、このままナチねぇの隣に居座り続けていいんだろうか?今のままじゃむしろ俺のために無理を、無茶をさせてしまってるってのに……おんぶにだっこで甘えるばかりでちっとも守ってなんかやれていないのに……そんな現状に甘えるしかない自分を歯痒くもどかしく思うばかりでしかないんなら、その役に立っているって言うことさえ出来ないんなら。

「もう……俺なんかじゃ、ダメなのかな?」

 ついに無視出来なくなった弱音が口を突いて、迷いながらも走っていたペン先がぴたりと止まった。動きを忘れたペン先から滲んだインクがじわりと日誌に広がって、黒いシミを作る。

 俺だって役に立っている、ちゃんと力になっているはずだ。自分に言い聞かせるように繰り返すたび、だけど全然足りてないって声が呟く。俺だから出来ることも、俺だからしてやれることも、そんなものが本当にあるのかって疑う声ばかりが強く響く。誰かを支えるためには自分がちゃんと立っていなくちゃいけなくて、だから俺は背伸びをしてでも早く大人になりたかった。本当の大人から見たら滑稽な姿でしかなくっても、一日も早く自立した大人になってもっとちゃんと支えてやりたかった。守ってやりたかった。その力になりたかった。……その隣にいてもいいんだって、認められたくて仕方がなかった。

 だけど、今の俺がそれを出来ているかって言われたら、首を縦に振るのは難しい。無理やり頷いたところで調子に乗った思い上がりでしかないのは誰より自分が分かっている。でも、それでも……!

 ぐるぐると渦巻く葛藤から逃げ出すように天井を大きく仰いで自分の両腕で目を塞いだ。遠くに聞こえるかすかな音は雨音だろうか、虫の羽音だろうか、それとも自分の鼓動だろうか。判断の付かないそれにぼんやりと思考を傾けるにつれ、いつの間にか意識は途切れていた。

 




実はPSPが再びご臨終してしまったのでいったんここで停止します。10話以降…いつか上げられる日が来るといいなぁ…
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