20240804一部修正
2:この子どこの子、迷子の子?
「ん……っ、ふぁあ……っ」
目が覚めた。けれどいつものようにすっきりした目覚めじゃない。昨日アレだけ派手に暴れたせいかまだ眠気が残っていて、俺は首を大きく回しながら背中を起こした。ぼきっといい音が身体の内側で響き渡って、疲れが抜けきってないことを実感する。でもま、冷たい水で顔を洗えば目も覚めるだろう。そう結論付けてベッドから足を下ろそうとした俺は、ふと隣の膨らみに気づいた。子供一人が寝ているようなでかい膨らみが丸まっている。なんだろうと深く考えるでもなく掛け布を剥ぎ取ったそこで、あんぐり口が開いた。
「むにゃ……」
「な、ななっ……!?」
白に近い金の髪に青みの強い角と尻尾が生えた十歳前後の子供が唐突に俺のベッドに出現した、という事態に俺の頭はこれっぽっちもついていけない。ついていけずに、とりあえず。
「こいつは一体だれなんだよっ!?」
驚愕のまま叫んだところで、うるさかったのか子供がごろりと寝返りを打つ。そしてちょうど口元に当たった俺の腕に、思いっきり噛み付いたのだった。
「いっでぇぇぇええええええ!!!」
朝から響き渡った俺の声は町主催の大声大会があればぶっちぎりで優勝しただろう凄まじさだった。転がり出るように部屋を出て井戸まで駆け抜けた俺は何度も冷たい水を腕に浴びせ掛ける。何事も早めの処置が肝心なのだ。無心になって繰り返しているうち大分赤みが引いてきてくれた。
「あんにゃろう!人の腕をハムみたくかじりやがって!ういででで……っ」
ようやく落ち着きはしたが、くっきり残った歯形を見るといやでも強烈な痛みを思い出してしまう。視界に入らないよう目を逸らした俺は朝から全力疾走で喉が渇いたことに気づいて、ちびちび水を飲んだ。そうしているうち、見回りのグラッドの兄貴がおーいと手を振って近寄ってくる。
「こらこら、朝っぱらから何を愉快に騒いでるんだよ?」
「あ、兄貴」
なんだか真面目な顔をして見下ろしてきた兄貴は威厳たっぷりに腕を組んで口を開いた。
「いくらお前ん家が町から離れた場所にあるからってな、あんな大声を上げたらさすがに迷惑になるぞ。分かってんのか?」
なるほど、もっともな意見だ。しかし俺にももっともな理由がある。それを主張しようと一通り語ったところで兄貴が下した判断は、寝ぼけてた、の一言だった。
「それに、竜の子供を拾ってきたなんてどう考えても夢の話じゃないか?」
「ホントだって!?疑うんなら連れてきたっていいぞ!」
昨日の活躍をまるごと否定されて悔しい思いのままに訴えてみるが、見回りの仕事が残っているから夢の話はまた後でな、と全く信じてない様子で兄貴は笑い去ってしまう。あんまりあっさり夢の話と決め付けられて、ぽかーんと突っ立っていた俺の肩がぽんと叩かれた。
「おはよう、ライ君。さっき凄い声だったけどどうしたの?」
白いシャツに灰水色のローブを羽織ったシンプルな格好のナチねぇは今までガゼルの世話をしてたのか、袖口に青草がついている。軽く膝を折って目線を合わせてくれているナチねぇの目は優しく微笑んでいて、俺の言葉を待ってくれている。いつものナチねぇだ。そう分かっているのに、何だか不安めいた気持ちになった俺はもごもごと言葉を探して口ごもった。
「あ、いや、いま兄貴に話したんだけどさ、起きたらベッドに見たことない子供が寝てたんだよ」
「子供?昨日、竜の子と一緒に寝たんだよね?」
「そのはずなんだけどさ。俺の見た夢だったのかな……」
ナチねぇにまで夢だと断定されたらいやだな。勝手に項垂れそうになって予防線を張ってしまう俺の前で、んー、と口元に手を当てて何か考えていたナチねぇがにっこりと笑いかけてきた。
「とりあえず、ライ君の部屋に確かめに行っておくよ。子供がいたら色々対処を考えないといけないし、ね」
「信じてくれるんだ?」
「ライ君の言うことだもん。まずは信じてみないと」
ほわりとした微笑みが直撃する。誇張抜きに呼吸が止まるのが分かった。やっぱナチねぇがいるといないとじゃ、俺の精神状態は雲泥の差だ。自分で確かめるのは何かイヤだったこともあってナチねぇに確認を頼んだ俺はその間、ミント姉ちゃんのところに野菜を貰いに行ってくることにした。
「いってらっしゃい」
穏やかに手を振って見送ってくれるナチねぇの姿に口元が緩んでしまうけれど、そんなの仕方が無いってもんだろう?
「でさ、竜って何を食べるんだ?」
「野菜中心だと思うけど基本的には人間と変わらないと思うよ。喜ぶものを上げるといいんじゃないかな」
野菜を貰うついでに聞いてみれば、ミント姉ちゃんはあっさり答えてくれた。俺だけじゃなくナチねぇも竜の子を確認したことがミント姉ちゃんに信じさせる大きな要因になったらしい。やっぱり、子供と大人の説得力の差というのはでかい。
「とにかく、一度連れてきてくれるかな?それか、私から出向こうか?町の人に見られちゃったら騒ぎになりそうだし」
詳しい対処をするには実物を見て判断しないといけないもんな。出来るだけ早めに教えてほしいし、遅くても明日にはチビを見てもらおう。
ミント姉ちゃんの申し出に有難く頷いて俺はその場を後にすることにした。いつもなら野菜畑の上できらきら羽を光らせてる蝶を見ながら休憩したりするけれど、これからのことを考えるとのんびりしてはいられない。野菜の詰まった布袋を抱えた俺は脇目も振らず、宿屋への道を戻るのだった。
「おっそぉーい!」
そうして息せきって走ってきたと言うのに、ドアを開ければ早速ブーイングが飛んできた。いつやって来たのか、カウンター席に座ったリシェルが腕組みをして俺を睨んでいる。隣にはルシアンが座って、二人の前には何か飲み物の入ったカップが置かれていた。つまり、ナチねぇが何か出したんだろう。こいつら一体何時から来てたんだ?そんな疑問が顔に出てしまえば、リシェルはぷぅと頬を膨らませた。
「全く、どれだけ人を待たせるつもり?」
「だから来てるのはお前の勝手だろうに……ったく」
厨房の勝手口側に野菜の詰まった袋をどさりと置いて手を払いながら立ち上がれば、背中に声が投げかけられた。
「ぶつぶつ言わないの。ほら、さっさとあの子のご飯作ってあげなくっちゃ!」
「ほら、ここで寝てるんだ。さっき一度起きたんだけど、水を飲んだらまた寝ちゃったみたい」
え、と思いながらルシアンの前にある籠を覗き込めば、チビが気持ち良さそうに寝ている。
「ライ君の部屋を確認したけど、この子が寝ているだけでしたよ。……私が見た限りでは子供の姿はなかったの」
後半は小声で囁いたナチねぇは申し訳無さそうに眉尻を下げて俺を見つめるけれど、それなら俺が見たのは夢か……うん、夢だったんだろう。
「そっか、わかった。じゃあアレは夢だったんだろうさ、多分」
「何の話よ……?あ、起きた。おはよ、おチビちゃん」
怪訝そうに顰められたリシェルの表情が目を覚ましたチビの様子に満面の笑みへと変わった。なんだっけな、こういうの。七変化っていうのか?親指の腹でチビの喉辺りをくすぐりだした様子を何となしに眺めていると、急にリシェルが振り返って声を張り上げた。
「ほらっ、早く!ご飯作ってあげなさいってば!」
「へいへい」
くすくすと笑い声を上げるナチねぇと場所を交換した俺は早速包丁を手に取り、竜の子が喜ぶだろう特製メニューについて思い巡らせる。とりあえず食べやすそうな野菜中心で作ってみるかな?そうして手早く料理を作り上げた十数分後、けぷっ、と赤ん坊がするゲップに似た音が響いていた。
「お腹いっぱいになったかしら?」
しっかし、ちっこいのによく食べるもんだなぁ。少し多めの量にしてみたけれど、あっという間に食い尽くしてしまった竜の子は膨らんだ腹を抱えるように丸くなった。満足するまで食って眠くなったのか、蔓草で編んだバスケットの中でうとうとし始めている。今にも眠りに落ちそうなその様子を見て、両手で頬杖を突いたルシアンがにこにこと笑った。
「育ち盛りなんだろうね、いっぱい食べて早くおっきくならないとね」
「そうね、広場にある門くらいの大きさは欲しいところだわ」
リシェルがまた突拍子もない事を言い出して俺は慌てて口を挟む。
「おいおい、そんなにでかくなったら面倒みられねえって!?」
「宿屋も破産しちゃうものね」
少し離れた椅子に座ってお気に入りのスライム、シズクを撫でながらナチねぇが呟いた一言はあまりに恐ろしいものだった。そんなになったら破産どころか宿屋自体押し潰されてしまいそうだ、物理的に。
「つーかマジメな話、こいつのこと、この先どうするんだよ?」
「どうするって……」
何を言いたいのか分からないのか、リシェルが眉をひそめて俺を見る。ルシアンはどこか不安そうな目で、ナチねぇは口出しする気は無いのか穏やかに微笑んでいる。基本的にはやりたいようにやらせる、というのがナチねぇの主義らしいので、今回も主導権は俺たちに預けてくれるつもりなんだろう。だから意識的にナチねぇを視界から外して俺は言った。
「面倒見るのがイヤで言ってるんじゃないぞ。ただ、先のことまで俺たちがちゃんと考えてやらないと。なにせこいつはまだ生まれたての赤ん坊だからな」
意味が分かっていないチビだけが能天気にぴぃと鳴く。
「だったら、あんたはどうすればいいって思うのよ?」
「わかんねぇよ、けど、このままじゃマズいってことだけは確かだと思うんだ」
薄々そのことは感じ取っていたのだろう。リシェルは黙り、ルシアンも控えめに同意する。じゃあマズい事態にならないようにするにはどうすればいいか、それが本題だったのだが第三者の声が乱入したのはその時だった。
「おじゃまいたしまーす♪」
明るく楽しげな声。ポムニットさんがドアの向こう側にいる!
チビを見られたら面倒な事態になるのは間違いない。声もなく慌てふためく俺たちを見かねたのかナチねぇが立ち上がり、チビの入ったバスケットを抱えて二階への階段を上り始めた。その後ろをするすると付いていくシズクも落ち着き払った様子だったけど、半ばパニックの俺たちは目を白黒させていたはずだ。
「しばらく私はこの子と上にいますから、みんな、頑張ってくださいね?」
その背中が見えなくなるのとポムニットさんが室内に入ってくるのは、ほぼ同時だった。
「ああ、やっぱりここにいましたか……ってどうしたんです?なにやら汗だくになってますけど?」
「な、なんでもないよっ!あははははっ!」
「わかってるわよ、お屋敷に戻れって言うんでしょ?」
不自然なルシアンの様子にフォローを入れるべく、リシェルがわざとらしい反抗の態度を見せる。
「わかっているのなら最初から大人しくしててくださいまし」
その甲斐あって、むっと眉を吊り上げたポムニットさんからは不信感がどこかに行ってしまったようだ。リシェル、グッジョブ。
「そんなの無理ね。ポムニットだって知ってるでしょ?」
「開き直らないで下さいっ!えうぅっ……」
あまりにお芝居が過ぎたのか泣き出してしまったポムニットさんをルシアンが宥め、ようやく落ち着いた彼女から聞かされた言葉は……やはりと言うべきか、真っ逆さまに俺の気分を急降下させるものだった。午後に屋敷まで来い。テイラーさんからの伝言は簡潔だったが、十中八九、店の利益がどうたらこうたらって話に違いない。実際、繁盛してるとは言いがたいし文句を言われてもしょうがないが……
「はぁ……」
「ん、どうしたのライ君?」
ポムニットさんもリシェルたちも立ち去った後の食堂で大きな溜め息をこぼした俺に、二階から降りてきたナチねぇが不思議そうに首をかしげる。ナチねぇを支えながら立派に宿屋を運営できるようになるのは一体いつになるんだろう。先は果てしなく遠いようだ。
そして午後を迎えた以上、行かねばなるまい、イヤミを言われるのが分かってても自分から行かねばならないのだ。いっそ無視したいけど……そしたら余計に大変なことになるしな。玄関前で顔を叩いて気合いを入れるも、そのたびに気持ちがぐにゃりと折れてしまって俺はひっきりなしに溜め息をこぼしていた。往生際が悪いかもしれないが、どうしたって気が重いものは重いのだ。
「ライ君……ごめんね」
「ナチねぇは何も気にしなくていいから!宿屋を任されてるのは俺なんだしさ」
見かねて声を掛けてきたナチねぇに慌てて手を振って気にしないように言えば、物憂げな微笑みが返ってくる。ナチねぇはテイラーさんというか、金の派閥のお偉いさんに匿われる形でこの町にいる。だからあまり金の派閥関係者に反抗するのは望ましくない、ってのは俺でも分かる道理だ。本当はテイラーさんに俺の保護者として物申したい時もあるようだけど、そういう事情もあって基本的に黙っていることしか出来ないらしく、そんな自分を不甲斐無く思っている様子があった。
「ナチねぇがそんな風に思ってくれてるだけで充分満足だって。じゃ、行ってくるからチビを頼むな!」
チビがじたばた手足を動かして俺についてこようと必死なのが気になったけど、これ以上押し問答をして妙な空気になっても困るしな。気を取り直して家を飛び出た俺は、さっさと嫌なことは終わらせるべく町並みを駆け抜けていった。
それでだ。結論から言えば、話と言うのはやっぱり宿屋の収益についてのことだった。赤字じゃなくても収支がぴったりでは意味が無い、というもっともなご指摘は重々理解できるけど、じゃどうすりゃいいんだよと、不満が顔に出ていた俺に提案されたのが「ミュランスの星」だ。どうやら帝国全土の観光名所や名店を独自の格付けで評価している本らしく、これに載ることが出来ればきっと泊り客も増えて利益も上がるだろうという算段らしい。で、この本に載るにはお客さんからの評価である「星」をとにかく集めればいいのだとか。内装・料理・接客態度、俺の工夫やる気が反映されていく仕組みってわけだ。
何から始めればいいかも分からないけれど、とにかくやってやろう!
漠然とした目標より具体的なゴールがある方がよっぽど気合いが入るってものだ。早速あれこれ考えながら廊下を出て屋敷の玄関口をくぐった俺の前に、リシェルがひょっこり顔を出した。
「その様子だとこってり絞られたみたいねぇ」
「僕たちに手伝えることがあったらなんでもいってね?」
労わりと励ましのこもった申し出は正直言って有り難い。が、お前たちが手伝ったらテイラーさんが不機嫌になるのは確実なんだよな。そんな内心を濁して感謝の言葉を返していた俺は、ふと二人が妙にきょろきょろしていることに気づいて眉を顰めた。なんだか、嫌な予感がする。
「ところでおチビさん見なかった?」
「は?家を出る時ナチねぇに預けてきたから家にいるんじゃないか?」
思っても見なかった流れについ尋ね返してしまえば、気まずそうにリシェルが目逸らしながら呟いた。
「……っちゃったのよ」
「なんだって?」
「出てっちゃったのよ。あの子!私たちがドア開けた瞬間、ばびゅーんって!」
「はああああああ!?」
口をあんぐり開けて呆然とする俺の横でルシアンが泣きそうな声を漏らす。
「多分ライさんを恋しがって飛び出したんだと思ったんだけど、見てないなんてどうしよう」
「ライを探しに出たはいいものの迷子になっちゃったに違いないわ。とにかく手分けして探すしかないわよ!」
こいつは拙いことになった、昨日の悪党に見つかる前に保護しないと!
その使命感に急かされるまま、俺たちは町中を急ぎ足で駆け回った。走りながら聞いた話だと、ポムニットさんは店番も兼ねてナチねぇと宿屋に待機してもらって、兄貴は一緒になって町を探してもらっているらしい。街中を探し回っても見つからずついに溜め池のほうまで来てしまったところで、両手でオヤカタを抱えたリシェルが走ってきた。
「ミントさんも事情を知ってるから、鼻の利くオヤカタを借りてきたのよ。匂いで探してくれるかもしれないし」
「なるほど!頼むぞオヤカタ!」
バスケットの底に敷いていた布を嗅がせればピンと来たのか、オヤカタはどこかを目指して一目散に走り出した。これは期待できそうだ。
「結局また、皆に迷惑掛ける大騒ぎになっちゃってるよね。なんか……悔しいな……」
そんなオヤカタの後ろを追いかけながらのリシェルの呟きは呼吸音と紛れて聞き取りづらい。
「仕方がねえよ。気持ちは分かるけどさ、強がったって俺たちはまだまだガキなんだろうな」
だけどいっそ聞き取れないほうがいいような、情けない事実を言ってるんだから、こんな状況くらいでちょうどいいんだろう。
「器用に、そつなくうまいことやるのは難しいよなあ……」
泣き言めいた呟きがこぼれちまったが、それがリシェルに届いたかは分からなかった。
しかし、しかしだ。なんと辿り着いた先が俺の家だったことに、乱れた息に肩を上下させながら俺とリシェルは唖然と互いを見つめ合っていた。まさかナチねぇたちが既に保護したのかと中を覗き込むが、そこにはポムニットさんとナチねぇがいるだけだ。
「見つかりましたか!?」
「ごめん、まだなんだ」
勢いよく立ち上がったポムニットさんに空しく首を横に振るけれど……オヤカタが間違えたのか?だけど、あんなに自信満々だったのに。首をひねる俺たちの間に兄貴の声が割り込んだのはその時だ。
「竜はまだなんだが、具合を悪くして倒れちまってる子供を見つけちまったんだ。悪いけどちょっとベッドを貸してやってくれないか?」
「ああ、それは別にいいけど……っ!?」
兄貴が抱えている子供の様子を見ようと近づいて、俺は目を見開いた。こいつ、朝の子供だ!
「ライ君、グラッドさん?その子、人間の子供ですか?」
何かに気づいたように立ち上がったナチねぇも近づいてきたところで、子供の身体が輝いた。ぴぎゅうぅ、と朝聞いたものと同じ鳴き声を上げながらどんどん小さくなっていく子供の姿は、いつしか完全な竜そのものに変わっていた。
医療知識が一番深いのはミントさんですから、ミントさんの家に移動しましょう。
そんなナチねぇの提案に一も二もなく乗った俺たちは、ミント姉ちゃんの家のリビングで手持無沙汰に座っていた。チビの具合を見るからと言って、ミント姉ちゃんとナチねぇが別室に引っ込んでから随分時間が経つ。大きな声や物音が聞こえないあたり大丈夫だと思いたいが、あいつは助かるんだろうか。
「まさかあの子が人間に変身してたなんて……」
見つかるはずも無いよね、とリシェルの呟きにルシアンが同意し、ほんとにな、と兄貴が相槌を打つのを俺は黙って聞いていた。そしてようやく、閉め切られていた扉が開く。
「ふぅ……」
「姉ちゃん、チビすけの具合は大丈夫なのか!?」
飛びつくような勢いで尋ねれば、見た人が安心するような笑みでミント姉ちゃんが答えた。
「心配要らないよ。もうだいじょうぶ」
どっと力が抜けて俺は椅子に座り込んだ。よかったぁ、なんの病気だったの?とわぁわぁ止まらない歓声が耳の表面を過ぎていく。
「流石はミントさん、蒼の派閥の召喚師だけのことはあります!」
「グラッドさんたら、おだてないでください。それとね、病気じゃないわ。ちょっと魔力を使いすぎちゃっただけ」
「魔力を?」
こくんと頷いて、ミント姉ちゃんは隣に腰かけたナチねぇをちらっと見てから説明してくれた。
「あの竜の子は人間の姿になっていたって聞いたけれど、多分それが原因かな」
「ずっと無理して人間の姿になってたから疲れてへろへろになっちゃったんだね……」
ルシアンが苦しそうに呟いた後は、あんたを探してたのよ、俺のせいだってのかよ、といつものように俺とリシェルが喧嘩になりかける。兄貴による仲介を挟んでようやく落ち着いたが、ミント姉ちゃんが苦笑するほどヒートアップしてしまったのは恥ずかしい。
「けどね、そもそも普通の竜は人の姿に変わったりなんかしないから今回のことはしょうがないと思うわ。竜という生き物にはものすごくたくさんの系統があるんだけど、大雑把に分けると亜竜と至竜の二つになるの」
少し説明が長くなるよ、と前置きしてミント姉ちゃんは続ける。
「亜竜というのは肉体的に竜の特性を備えているもので、力や生命力の強さに空を飛んだり火や冷気を吐いたりするのがそう。普通に考える竜はこっち」
「じゃあ至竜ってのは?」
さっきからナチねぇが喋ってないことは少し気になる。目が合えば口元だけ微笑んでくれたけど、大丈夫なのだろうか。
「亜竜の特性に加え高い知能と魔力を備えているの。年老いた至竜は人間より豊富な知識を持つともいうわ。それらを駆使すれば私たち召喚師では真似できないような不思議な現象を引き起こすこともできるの。この子の変身も、至竜の力でしょうね」
そんなに凄い存在を拾ったとは思っていなかった俺たちは再度、確認するように眠るチビを覗き込んだ。こんな赤ん坊みたいなやつがそんなにすごいやつだったなんて。
「だけど、すごくてもまだ生まれたての子供。無理に力を使ったら身体のほうが付いてこれなくなっちゃう。魔力だってすぐに限界が来るわ」
「うん……」
「それで今回は疲労回復のお薬を飲ませてあげたの。けど、急激に失った魔力分はそれだけじゃ補給できなかったからナチさんに魔力を注いでもらったんだ」
「えっ!?魔力を注ぐなんてできるの?!」
リシェルの馬鹿みたいにデカイ声が耳をつんざいた。俺も気になったことだけど、それは簡単なことなのか?
「一応、やり方さえ知ってればリシェルちゃんもできると思うよ。受け渡しって技術になるんだけどね」
黙っていたナチねぇが口を開く。疲れた様子だけど、それでも優しげな声はいつものままだった。
「けど、実際にできるのは一握りの人だけですよ。魔力を注ぐっていうのは、多すぎず少なすぎず、濃すぎず薄すぎず、対象に合わせて魔力を適切にコントロールしたのを絶妙に維持した状態で行わないといけませんし。なにより魔力の波長を読み取ることに掛けては、才能の領域の話なんですよ?」
ナチねぇはやっぱりまた過小評価していただけだったのか。ミント姉ちゃんの少し怒ったような声を受けてナチねぇは困った風に笑った。
「ごめんなさい。けどね」
「けどもなにもありません。ナチさんはお野菜の知識にしろなんにしろ謙遜しちゃうんですから……」
話がずれてきた気がする。助けを求めるような視線を送られて、俺はミント姉ちゃんに声を掛けた。
「ミント姉ちゃん?」
「あっ、まだ途中だったね。お薬はあと二回もあげれば十分だと思うよ。とにかく安静にしてあげること。いいわね?」
「ああ、わかったよ。ありがとうな、ミント姉ちゃん!」
チビを受け取って外に出ようとする俺に続いてナチねぇも立ち上がろうとするが、折角です色々お話したいことがあったんです、と意気込むミント姉ちゃんに呆気なく引き戻されてしまった。リシェルたちと話すこともあるし、農園で適当に時間を潰してるか。苦笑しつつ扉をくぐりながら、これじゃ夜に怒られそうだな、なんて考えたら少し笑えてしまった。
それにしても、だ。
「今更だけどとんでもないもの拾っちまったなぁ」
後ろを黙って付いてきたリシェルがびくりと肩を震わせたのが視界の隅に映る。
「後悔してるの?」
「そうじゃねえよ、別にコイツが何であろうと俺はきっと同じことしてたと思うし」
「……だよね」
明るい表情のリシェルの方がずっとリシェルらしい。皆で笑いあったところで、でも、とルシアンが続けた。
「この子が狙われていた理由。ちょっと分かった気がするな。そんなにも凄い力を持ってるなら悪者だって欲しがるよ」
「そのことなんだけど、この子が狙われていたってこと、もう話しちゃった?」
話したらきっとチビは取り上げられる。そう確信に近いものを抱いていたから、俺たちの誰一人としてそのことは言っていなかった。だけど。
「黙っているままでいいのか、それは気になるな。ルシアンのいうとおり、チビすけがそんなすごい存在だったら連中が諦めるはずないしな」
「ならあたしたちが守ってあげればいいじゃない!?」
「俺たちだけで守りきれるって断言できるのか?」
俺は自分の力を過大評価することの恐ろしさを知ってる。力が及ばなかった場合の結末も知っている。
「出来なかった、じゃ、すまないんだぞ!?チビすけには一生の問題なんだぞ……」
俺は当事者として経験してるから。最悪の事態は想像するよりずっと近くに潜んでいるって知っているから。拾って一日もたってないチビにだって、あんな目には遭って欲しくなかった。
「そんなことぐらいわかってるわ!?だけど……」
うるさくしてたせいかチビすけが目を覚ます。何も知らないその無垢な表情に三人とも黙り込んだところで、ふと異様な空気が周囲を包んだ。
「ようやく見つけたぞ、守護竜の子よ。そして貴様らだな、邪魔したガキどもと言うのは……」
赤と黒に縁どられた仰々しい鎧に身を包んだ髭面の男が、重々しい空気を纏いながら丘の上に現れ、こちらを見下ろしていた。
「そういうお前は昨日の悪党の仲間だな!?」
「そんなの一目で分かるじゃないの!トゲトゲの鎧にいかがわしい髭、どっからどう見たって不審人物そのものよ!」
俺の声に男が返すより早く切れのいいリシェル節が炸裂し、厳つい男の顔が遠目にも紅潮する。
「ぐぬぬぬ……っ。口の達者な小娘が、目上の者を馬鹿にするとは教育的な指導が必要と見える!」
そう言って男が片手を上げた途端、どこに隠れていたのか四方八方から似た甲冑を着込んだ兵士たちが姿を現した。うかつに動いてはあっという間にやられてしまうだろう。じりじりと狭まっていく包囲網に舌打ちをこぼせば、男は高らかに笑った。
「うははは、どうだ?ちびったか?おののいたか?身の程を知ったなら速やかに竜の子を渡すがいい!さすれば騎士として、貴様らの身の安全は保証してやろう」
圧倒的に優位な状況にある者だけが言える、傲慢不遜な物言いが俺は大嫌いだ。自分の意見だけを押し付けて、相手の意見は押し込める。そういう奴に限って立場が逆だと怒り狂うってのが笑えるけれど、今の俺は笑うどころじゃない。ぶちぶちと頭の血管が切れているような状態だった。
「……気に入らねえな。おどすだけおどして押し付けがましく譲ってる振りをする。そういう連中の言うことに、聞く耳なんか持てるかよ!」
じゃきんと剣を抜いて構える。まさかチビ探しから戦闘に移るとは思っていなかったし素振りに使う軽い剣一本しか持っていないけど、負ける気なんかしない。相手の喉下向けて切っ先を掲げれば、小生意気なガキだと思ったのか男はますます憤った。
「ぐぬぬぬっ……どこかで聞いたような減らず口を……吐いた言葉の責任は取ってもらうぞ!」
さっと何か合図を出すと同時に、右前方にいた兵士がこちらに突っ込んでくる。が、甘い。
「させるかっ!」
子供相手なら刃物を振りかざして突っ込むだけで勝てると思ったのか。刃を交差させるのも一瞬、剣を跳ね上げ空いた胴に勢いのまま蹴りを食らわせる。それだけで景気よく吹っ飛んでいく様子に情けないと思っていれば、男が感心したように頷いた。
「ほう、その動き。ただの素人ではないようだな?」
「身を守る方法だけは強引にクソ親父に仕込まれてるんだよ。ガキだからってなめんじゃねえ!」
こいつらがこの程度の実力しかないのなら、確実に勝てる。
「面白い……その生意気な鼻っ柱叩き折ってやれ!!」
礼儀も知らない大人に再教育してやるよ、と俺が吐き捨てたのを聞いた人間はいなかった。
ざっと見て8人。丘の上、小屋の近く、数名ずつ陣を張っているのに加え弓兵まで出てきているのに舌打ちする。まずは小屋の上からこちらを狙撃しようとしてるやつらをどうにかしないと。
高所の利について簡単に説明すると、リシェルが頑丈さで定評のあるゴレムを呼び出した。呼び出した先は弓兵のすぐ後ろだ。あれなら、ゴレムに任せておいてもよそさうだ。
「ぐぬぬぬ、何をやっている!剣の軍団、突撃―っ!!」
順調に甲冑の兵士たちを地に沈めていった時だった。あのおっさんの怒号が響き渡る。びりびりと肌に突き刺さるような怒号を受け、残りの兵士たちが一気に奮起してしまった。まずいな。能力的に見て召喚師のリシェル、横切りの流派であるルシアンを連れての戦いは決して不利なものじゃあないが、それでも戦闘訓練を受けただろう大の大人を複数相手にするにはとても有利と言えない状況だ。特に、怒号に奮い立った兵士たちとは裏腹にこちらは多少萎縮してしまったようだし……どうする?
「お前らっ!子供相手に一体なんのつもりだ!?」
「大丈夫、みんな!?」
一瞬迷ったところで馴染みのある声が高台から降ってきたことに見上げれば、騒ぎに気づいた兄貴とミント姉ちゃん、それにナチねぇがそれぞれ槍や杖を手に持って走ってくるのが目に入った。
「兄貴!姉ちゃん!ナチねぇも!」
「騒ぎが聞こえたから駆けつけてきたの」
「怒声や剣戟の音が聞こえてきて肝を冷やしましたよ、もう」
確かにあれだけ派手に音を響かせていたら姉ちゃんたちの耳に届かないはずが無かった。兄貴が槍を鋭く構えて甲冑の兵士を睨み据える。
「これ以上の乱暴は町の駐在兵士である自分が許さんぞ!」
「子供相手に剣なんて振り回してくれちゃって、ちょーっとお仕置きが必要みたいですね」
ふふふ、と温度のない瞳で杖を握るナチねぇが呼び出したのはサプレスのタケシーだ。一瞬のタメの後、強烈な電撃が槍兵の頭上に落ちた。
「そこだっ!はぁっ!」
電撃の衝撃で足元のよろけた兵士を兄貴の槍が貫く。太ももの辺りに傷を負った兵士は後ろに控えていた弓兵を巻き込んで転倒した。これなら、いける。計画に無かった人間が乱入したことで敵の指揮系統は混乱している。確実にダメージを与えていく中、ようやく兵士が最後の一人になった。
「姉ちゃん!」
「任せて。力を貸してね……サモン!」
メイトルパの精霊だというポックルの放った無数の木の実によって動きが止まった一瞬、俺の剣と兄貴の槍が炸裂する。防御が異様に高かった大剣兵も俺たちの同時攻撃にあえなく崩れ落ちた。
「残るは御山の大将だけですね」
ナチねぇの呟きに応えるように、俺は丘の上で不動を守る髭のおっさんを睨み上げた。
「まだやるかよ!?」
「……っく」
よもやここまで劣勢に置かれるとは考えてもいなかったらしい。悔しげに俺を見据えるおっさんは言葉もなく唇を噛み締める。
「ふん!ちびってたじろいだのはそっちみたいね!」
「姉さんってば、はしたないよ」
どこか気の抜ける会話を展開する二人に場の空気が緩む。ふ、とどこかから笑い声が聞こえた。
「ふはっ、ふははっ!ふははははは!!」
「な、なに大声で笑ってんのよ?」
いきなり呵呵大笑を体現したような笑い声を上げるおっさんに皆、訝し気な視線を送った。兄貴もミント姉ちゃんも、いや、ナチねぇはまだ冷めた視線を送ったままだ。俺は何を仕出かすか分からないおっさんの様子に剣を握る手から力を抜かずにいた。リシェルの問いにも答えず笑い続けたおっさんが、かっと目を見開いた。
「つえりゃあああっ!」
「あぶねぇっ!?」
十分に開いていた間合いを一瞬で詰める勢いで迫った大斧に、咄嗟に飛び込んだ俺はリシェルを押しのけ、剣を盾にする形でおっさんの前へと無理矢理に陣取った。突き飛ばしてしまった際に悲鳴が聞こえた気もするが今はそんなこと構っていられない。降りかかってきた尋常じゃない重さをどうにか堪え切ったものの、剣越しに伝わってくる覇気や重圧がぎりぎりと圧し掛かってくる。こいつ、手下の連中とは、強さのケタが違う……っ!?それでも負けるわけにはいかない。歯を食いしばって剣を握りしめる俺に、無言で対峙していたおっさんが口を開いた。
「そうか……やはり、そうなのか。こうして剣筋をじかに確かめてみて、確信が持てたぞ……」
驚くほど静かな声だった。と、思ったおっさんの口調は途中で怒声へと変わる。
「貴様、あの冒険者の息子だなっ!!」
ぐんと大斧にこめられる力が増すのを感じた。跳ね飛ばされる!そう判断して次に襲い来る衝撃に身構えようとするのと、目の前に激しい電撃が落ちるのはほぼ同時だった。
「ぐぅっ!?」
「ライさん!」
視界を焦がすほどの電撃を大斧に受けたおっさんがたまらず大斧から手を離す。その隙に後ろへと飛び退った俺にルシアンが気遣う声をかけてきたが、片手で制した。さっきの電撃は俺を狙ってのものじゃない。
「ありがとな、ナチねぇ。けど大丈夫だから」
「大丈夫じゃなさそうな時は邪魔しますよ」
リシェルを受け止めた体勢のまま、片手に紫色に輝くサモナイト石を握り締めたナチねぇが呼んだ電撃はさっきまで鍔迫り合いをしていた場所に焦げた地面を生み出している。どれほどの威力だったかは知らないけど魔力が枯渇していたはずなのにとんでもないことをする。
「く、この」
「テメエ。クソ親父のこと知ってるのか?」
おっさんの怒りの方向が移る前に声をかければ、改めて向き直ったおっさんは忌々しげなものを見る目で俺を見据えた。
「知らいでか!我らの計画を根本からぶち壊した張本人なのだからな!!」
「なんだとっ!?」
血の繋がりがあることを憎んでも憎み足りないクソ親父が話しに絡んできて動揺する俺に構わず、おっさんは続ける。
「我が名はレンドラー、剣の軍団を率いる将軍だ。小僧、貴様の名は?」
ここで素直に答えようが答えまいが、おそらく問題は無かっただろうが。
「……ライだよ」
俺は正直に答えた。敵ではあるがレンドラーのおっさんが情報をくれたのは事実で、俺ばかり教えないのはフェアじゃないと思ったからだ。
「覚えておくぞ、ライよ!あの男に与えられた耐えがたき屈辱の数々、いずれまとめて息子である貴様に償わせる!」
「っ……!」
親父は俺と関係ないと主張したいが、レンドラーのおっさんにはそんなこと関係ないんだろう。憂さ晴らしの対象として息子である俺に目をつけた、それだけのことだ。地面に突き刺したままだった大斧を無造作に引き抜き高笑いをしながら去っていくレンドラーの後ろ姿を、俺は何も言えずに睨んだ。
「行っちゃった……」
「やれやれ、なんとか助かったみたいだな」
呆然と呟くルシアンに兄貴が安堵のため息をこぼす。それが気に食わなかったのはリシェルだ。芝生に座り込んでいたのを飛び起きるなり声高に主張する。
「やれやれ、じゃあないでしょ!?グラッドさん!どうして捕まえてくれなかったのよ!?」
リシェルの剣幕に押されて兄貴はたじたじになっている。
「む、無茶言うなよ。俺一人だけでどうにかなるような数じゃなかったろ」
「……手下の数が多くても、頭さえ捕まえられればどうにかなったんですけどね」
それまで黙っていたナチねぇがぼそりと呟いた。
「レンドラーさんでしたっけ?あと一発、威力が最大級の電撃を食らわせられれば麻痺なりなんなり体の自由を奪えたのに。悔しいです……ライ君たちに危害を加えようとして、ミントさんの農園まで荒らして、もう、悔しくてたまりません」
「ナチさん……大丈夫ですよ、畑なんてまた作り直せばいいだけです。それにライ君も怪我なんてせずにすみましたよ」
声の抑揚こそ変わらないけどナチねぇの表情は今にも泣きそうに歪んでいて、それを目に入れた俺は不安と焦燥の入り混じった気持ちになる。真っ先にミント姉ちゃんの畑を気にする辺り、実は仲がいいミント姉ちゃんとナチねぇなのだが、つられてミント姉ちゃんまでうるりときている。
「けどっ、追い払えただけでも良しとしなくちゃ?この子も無事に守れたんだし、ね?」
沈んだ空気を打ち消すようにルシアンが明るい声を張り上げた。その腕には無事に守りきることの出来た竜の子を抱いている。ぴぎゅうと不思議そうに鳴いているチビの様子に空気が和らぐのを感じれば、それに乗っかるようにリシェルが意気揚々と声を張ってみせた。
「そうね。こっちが失ったものなんて無いわ!あっちは骨折り損のくたびれもうけよ!あたしたちの勝ちね!」
「ふふっ、そう、ですね。一人で騒いじゃってごめんなさい、皆さん」
「悔しいのは皆同じだから、気にすんなよ。それに一番責任を感じなくちゃいけないのは、ここにいる人間じゃねえし」
少し恥ずかしそうに項垂れるナチねぇに笑いかければ、兄貴とミント姉ちゃんが首を傾げるのが見えた。だから俺は、簡潔明瞭に満面の笑みで答えるのだった。
「またしてもことごとく例によって、騒動の元凶となったくせに後始末を全部俺に押し付ける馬鹿極まりないクソ親父が。いっちばん、責任を感じなくちゃならない人間なんだからさ」
夜、中々寝付けない様子のチビにホットミルクを用意してやっていると、やってきたナチねぇがおもむろに俺の隣へと腰を下ろした。
「今日はごめんね」
「え、何が?」
恥じ入るように粛々と謝られても、感謝することはあれど怒るようなことなどない俺は面食らう。
「一つ、チビちゃんが出て行くのを止められなかったこと。二つ、本当に怒りたかったのはライ君なのに私がその機会を奪っちゃったこと」
「あ、あー……んなこと気にしてたんだ?ナチねぇ」
親の責任を子供に押し付けるという内容に切れかけてたのは事実だが、そのことで切れたナチねぇに対して機会を奪われたなんて思わなかった。むしろ、俺の気持ちを理解して本気で腹を立ててくれているということに嬉しさを感じていたくらいだ。あの場でもし俺が衝動のままにブチ切れていたらきっと、後から思い出したら赤面物の言動をしていたに違いない。負け犬の遠吠えを体現する形で、罵詈雑言を叫んだりしてたかもしれない。チビについては、誰を責める気にもなってないし問題外だ。
「や、大丈夫だって。それに俺、怒ってなんかいないからさ。むしろ嬉しい」
きょとんとするナチねぇに俺は口元が緩むのを抑えきれず、困ったような笑みを浮かべた。
「俺のことを考えてくれてるから、あんなに怒ったんだろ。だから、気にしなくていいって」
俺がここで何をしようが叫ぼうが絶対にあいつには届かない。逆にあいつのやることなすこと、悪影響は巡り巡って俺に返ってくるのが不平等だし腹立たしいとは思うけど。
あいつのことで怒り続けるよりも、ここで俺のことを考えてくれる人を大事に暮らしていこうと、俺は思う。
猫の子みたいに頭を突っ込んでミルクを飲むチビを撫でながらナチねぇを見上げれば、にこりと微笑み返された。周囲の人たちを巻き込みながら確実に大きくなりつつある騒ぎが、これ以上大事になれば間違いなくナチねぇも渦中に巻き込まれてしまうだろう。親父の無責任な行動に振り回されるのは俺だけで沢山だってのによ。まったく……
いちゃいちゃはしんどい。不穏のスパイスを早くかけまくりたい。