20240804一部修正
5:今はもう、戻れない場所
セイロンが持っていたのは、守護竜の牙という遺産だった。その受け継ぎの儀式が宿屋の裏手で開かれたのは、何事も早いほうが言いという意見の元、セイロンと合流した次の日の早朝のことだった。
「守護竜の牙の内に宿りし力よ……後継者たる御子へと、その大いなる遺産を受け継がせたまえ!」
きらりと牙が輝きを増し、それに比例してコーラルもどんどん眩しい光を纏っていき。目を開けてみれば、小さい竜の姿に戻ってしまったコーラルがそこにいた。
「おいおい、最初の姿に戻っちまったぞ?」
俺たちの驚きを代弁する兄貴に、ミント姉ちゃんが不思議そうな顔をして言葉を付け加える。
「でも、魔力の強さは以前より大きなものになってますよ」
リシェルやナチねぇといった魔力の大小を察知できる面子が興味津々にコーラルを見つめ、コーラルがくすぐったそうに身を震わせる。その様子に笑みを浮かべながらセイロンが口を開いた。
「我が託されし力は竜としての身体能力を司るものなのだよ」
「そして、私が託されたのはマナの制御に関する力。先代は、このように自身の能力を分割して特別に遺されたの……生まれたばかりの御子様が、短期間で成竜となれるように」
そこでふっと顔色を暗くするリビエルに代わり、セイロンが淡々と続ける。
「……追ってとの戦いで、不覚をとらぬようにな」
「なるほどな……」
竜の姿でもコーラルは俺たちの話を理解しているのだろう。複雑そうに俯いて鳴き声の一つも上げやしない。黙り込んでしまった俺の隣で空気を読まずに明るい声を上げたのは、やっぱりというかなんというかリシェルだった。
「けど、竜ってのは便利なものねぇ。あたしらみたいに勉強とか訓練をしなくたって、こうやって親から子に直に力を渡すことができるなんてさ」
「貴方が思ってるほど、簡単にできることじゃないですわよ」
「え?」
どこか冷たい口調で言い放ったリビエルに、リシェルはきょとんとした声を上げる。セイロンが難しげな表情のまま、静かに言った。
「この能力の継承術は、死の間際の竜が残る命を振り絞って初めて可能となる、まさに最後の手段といえる方法なのだよ」
兄貴やルシアンまでもが驚きに目を見開き、予想がついていたらしいミント姉ちゃんやナチねぇはどこか沈痛そうな表情を浮かべている。
「加えて、能力を継ぐ御子の魂にも負担を掛けざるを得ない。本来の姿に戻ったのは、その負担を少しでも軽減するためですわ。身体が適応するまではしばらく……人の姿には戻れないでしょうね」
「いくら竜って言っても、やっぱり無茶には違いないんだね」
しみじみと呟くルシアンの声にリシェルは黙り込み、俺もやっぱり何も言えずにコーラルへと目を落とした。思えば、生まれたばっかりのこいつに無理しかさせてない。何も悪いことをしてないってのに、どうしてこういう目に遭う奴が出てきちまうんだろう。
「なぁに、心配は無用!適応さえ終わったらまた変化も出来よう。更に竜本来の姿での戦い方も新たに身についておるはず」
沈んだ空気を払拭するように明るい声できびきびと言ったセイロンに驚いたのは俺だった。ということは……思わず、念押しを込めて尋ね返してしまう。
「それって……人としての姿と竜としての姿を使い分けながら戦えるってことか?」
「うむ。そういうことだ。あっはっはっは!」
闊達に笑ってみせるセイロンに、竜の姿での戦い方ってどんなのかしらね、とリシェルが一気にわくわくした様子になる。もしかして炎とか吐いたりするんだろうか?こんなちびっこい身体で?
一体どんなふうになってしまうのか、もんもんと考え込みつつコーラルを見つめていれば、ぽんと俺の肩に手が置かれた。
「ほら、ライ君。とりあえずはコーラルちゃんを休ませてあげて、それから色々考えましょう?」
「あ、そうだな」
お馴染みの会議場所、食堂へと皆で移動しながらナチねぇの背中を見た俺は、そういえばまだ二人きりで話せてないな、と今更ながらに気づくのだった。
「コーラルちゃんはベッドに寝かしつけてきましたよ」
「ありがとなポムニットさん」
一応、先に朝食を済ませておいてよかった。ポムニットさんが言うにはオヤスミ三秒といった様子だったらしいから、目を覚ます頃にはきっと腹を空かせているだろう。コーラルが起きたら何か好物でも作ってやるとするか、うん。
内心そんなことを決めたところで、俺は足を組んで椅子に腰掛けるセイロンへと振り向いた。
「そんじゃ話の続きなんだけど……」
「我らが一体何者を敵に回しているか、だったな」
話が早くて助かる。リビエルの時は警戒まみれで上から目線も強かったが、セイロンは古株なのかさくさくと話を進めてくれそうな感じだ。しっかり頷き返した俺と同じく、ミント姉ちゃんも控えめながら強く主張した。
「話しにくい事情があることは承知しています。ですけど、事の経緯が曖昧なままじゃ良い方法も浮かびませんから」
「うむ、もっともな話だ」
ぱしんと扇子を畳むセイロンは、どうやら話をする気があるらしい。ナチねぇや兄貴がちらりと目配せしあって、それではとばかりに咳払いをした兄貴がこれまでの疑問を口にした。
「俺たちが今までに戦った相手はそれぞれこう名乗っていた。剣の軍団、そして鋼の軍団と。あいつらと貴方を追いかけていた連中は同じ一味なのか?」
「ああ、その通りだ。剣の軍団も鋼の軍団も、それぞれ敵集団の一部隊でしかないのだよ。姫と呼ばれている少女を頭目としたな」
あっさりと認められてしまえば、改めて敵の規模を突きつけられる。ポムニットさんが、あぁ、とか細い声を上げながらへなへな机にもたれかかるのが視界を掠めた。しかし姫、か……ゲックとか言うじいさんもそんなこと言ってたな。大して遠くもない記憶を漁り返しているとリシェルが不機嫌そうに眉をしかめる。
「その姫ってのが諸悪の根源なワケね」
「いや、そこまでは我にも分からん」
首を振るセイロンにリシェルがぱちぱちと瞬いた。
「わかんないってどういうことよ?」
「実際に一団を率いていたのは姫ではなく、クラストフと名乗る青年だったのだ」
「クラストフ!?」
クラストフという言葉に過敏に反応したのは、ミント姉ちゃんとナチねぇだった。勢いよく席を立った二人の声が重なって、ミント姉ちゃんとナチねぇが恥ずかしそうにそそくさと座りなおす。目を点にして俺たちが見つめる先、少しばかり赤らんだ頬のミント姉ちゃんが気を取り直すようにこほんと咳払いをして口を開いた。
「えっと、もしかしてそれって家名ですか?」
「たしか、そのはずだが?」
うわぁ、と嫌そうな声をもらすナチねぇと一転して難しい表情を浮かべるミント姉ちゃんに、俺は疑問符を浮かべて尋ねる。
「ミント姉ちゃんもナチねぇも、何か知ってるのか?」
「うん。クラストフ家は魔獣調教師という異名で呼ばれている、無色の派閥に属する召喚師なの」
「なんだって!?」
無色の派閥なんて物騒なやつらが関係してるってのか?思いがけない展開に動揺と狼狽が一気に広がる中、ポムニットさんが縋るような目をしてミント姉ちゃんを見つめた。
「で、でも、この前の話しじゃ無色の派閥は関係していないと……!」
「ええ、確かに。無色の派閥の活動報告は無かったわ。けど、派閥を形成する個々それぞれの働きは蒼の派閥でも完全に把握することはとても不可能なのよ。ごめんなさい……」
申し訳なさに深くその目を伏せるミント姉ちゃんに、ナチねぇと兄貴が躊躇いなくフォローの言葉を投げ掛ける。
「無色の派閥は一度解体されましたから、残存勢力が入り乱れて混沌とした状態です。外部のこちらで把握し切れないのは当然ですよ」
「そうですよ、ミントさんが責任を感じる必要はありませんよ!」
少しは気が楽になったのか小さく笑みを見せてくれたミント姉ちゃんの様子に安心しながら、俺はきっぱりと言い切った。
「なんにせよ、これで敵の正体がはっきりと分かったんだ。剣の軍団だろうが鋼の軍団だろうが、大本のクラストフってヤツをぶっちめりゃあ、それで終わりさ」
「お腹一杯食べれば眠くなるってくらい単純ですわね。そう簡単に行くのなら、私達だけでも事足りていますわ」
「ぐ……」
自信満々に言い切っただけあって、心底呆れた口調の言葉がぐさりと突き刺さる。思わず口ごもる俺に、これだからアンタって……という視線がリシェルから注がれるが、さすがに何も言い返せない……うぐぐ。
「なんにせよ、今はまず他の御使いと合流するのが先決であろうな」
リビエルと俺との漫才めいた遣り取りに笑いをこぼしたセイロンが結論をまとめ、ルシアンが神妙な顔つきでそれに頷いた。
「結局のところ、現状維持ってことだね」
「皆、警戒を怠らないように注意していこう」
兄貴の言葉に深々と頷きつつ、早く御使いが集結しますように、と俺は真剣に祈りを捧げている。獣の軍団とやらが出てくる前に集結してくれるんなら本当、言うことなしなんだけどなぁ。
「そうそう童よ、これはお主に預けて置こう」
皆がそれぞれの用事に席を立つ中、セイロンが思い出したように懐から守護竜の牙を取り出す。つるりと硬質な手触りの牙は手のひらに収まるかどうかの大きさがあって、慎重な手つきで受け取って礼を言った俺へと、セイロンは声を低めて囁いた。
「それともう一つ、運よくおぬしらはまだ出会ってはおらぬが……獣の軍団には注意することだ。剣の軍団や鋼の軍団と並ぶ第三の軍団だが、亜人や魔獣のみで構成された凶暴さでは比類なき連中なのだ。ことに獣皇なる者の破壊力としぶとさは尋常のものではない。まともに戦うことは避けるべき相手だな」
「獣皇ね……おぼえておくよ」
「名前からして随分な強敵のようだなぁ……」
うへぇと兄貴がぼやき、出来たらこのまま会わないで済ませたいです、とポムニットさんが身震いする。確かに、獣相手ではミント姉ちゃんやナチねぇの得意とするメイトルパ系の術の効果も半減するだろう。そのことを頭の片隅に書き留めながら、俺はセイロンを見上げて言った。
「それと、こっちも言っておきたいことがあるんだけどさ」
「ふむ、言ってみたまえ」
真面目な声に、俺も出来る限りの真剣な表情と声を意識する。
「童、って呼ぶのは止めてくれよな。俺にはライって名前があるんだし」
「おお。すまんすまん、それは失礼した。では、おぬしはこの店の主人ということであるから以後は店主と呼ぼう。あっはっは!」
童と呼ばれるのはガキだって言われているみたいで、正直言って据わりが悪い。特に、ナチねぇにこれ以上子ども扱いされることは出来るだけ避けたいがための切実な訴えだったけれど、どうも曲解されて受け入れられたようだ。さすがは変わり者だぜ、名前で呼ぶって発想は無いのな……はぁ、と肩を落としながら仕方なしに妥協する俺の前で、セイロンは高らかな笑い声を上げ続けていた。
さて、コーラルの目が覚めるまでぼーっとしているわけにもいかない。宿屋の業務に食材の仕入れ、部屋の掃除にとやることは山ほどあるわけだし、何でもいいから早くナチねぇと二人だけで話をしたかったこともあって、俺は早速掃除がてらに紫雲の間を覗くことにした。
「なぁ、リビエル。シーツ替えに来たんだけどさ」
残念ながらナチねぇの姿は見当たらない。内心溜め息をこぼしながらシーツを求めて手を出した俺に、リビエルは何故か、にっこりと微笑みを返した。
「あら、ちょうどいいところにきて下さいましたわ」
「は?」
見た目ぴったりの可愛い笑みを浮かべたリビエルなんて俺にとっては嫌な予感しか感じない。無意識に後ずさってしまえばがっしりと腕を掴まれた。にこやかな笑みを浮かべたまま、リビエルは柔らかな声を紡ぐ。
「御子様の教育係として、保護者でもある貴方に是非とも言っておきたいことが山ほどありますの」
山ほど、を強調して言い切ったリビエルは依然にこにこと笑みを浮かべたまま、声は至って優しいものだが。それが意味することはつまり、お説教と言うことだ!マジで勘弁してくれよ……
「ほら、そこに座って?」
既に逃げ腰になっている俺の腕を乱暴に引っ張って、空いた椅子に押しつけるようにして座らせたリビエルはこほんと一つ咳払いをした。これはもう、逃げられないな……ナチねぇを探してここに足を運んだ時点で間違いだったようだ。絶望に項垂れる俺の前、眼鏡の縁にすちゃりと手を当てたリビエルが水を得た魚のように説教を開始する姿が、ひたすらに恨めしかった。
「……ですからして、保護者である貴方がお手本を……」
「わ、分かった!分かったからさ、リビエル、俺まだやることあるから今日はこのへんでカンベンしてくれって?」
長々と続くお説教に耐えた時間は一時間にも満たなかっただろうけど、俺は開いた手を前へと突き出して縋るような笑みを浮かべてみせた。いや、こんな調子じゃ本当にやることの一つも終わらないうちに日が暮れちまう。それは勘弁して欲しいと切実に訴えたわけだったが、それに対してリビエルが返したのは眉を吊り上げ鋭い声を張り上げると言う、何とも無慈悲なもので。
「まだ、話は半分も終わってません!」
「いぃっ!?」
驚愕する俺にリビエルは気合十分とばかり再び口を開く。やばい、これは一層長引くことになりかねない。
「いいですか?そもそも貴方の立場は」
「今日のところはその辺にしといてあげてよ?」
諦めがよぎった俺の耳に救いの声が届いたのは、その時だった。
「る、ルシアン……」
「そうはいきませんわ!これはとても大事なお話なんですのよ」
開けっ放しだった扉から入ってきたルシアンは苦笑を浮かべて、噛み付くリビエルを宥めに掛かる。
「いくら大事な話でもいっぺんに聞くのには無理があるってば。折角話したって、それが反映されなきゃ意味が無いでしょ?」
「それは……まぁ、そうですけど……」
口ごもるリビエルと、説得に精を出すルシアンに気付かれないよう、俺は回収したシーツをこっそりと掴み直した。音を立てないよう忍び足で部屋を出て、着実に距離を取っていく。部屋から見えないくらい遠くの廊下まで来たところで安堵に胸を撫で下ろした俺は、はるか後方で響いたルシアンの裏返ったような悲鳴を聞きながら固く胸に誓うのだった。わりぃ、ルシアン……お前の犠牲は無駄にしないからな……
けれど、宿屋を一通り見て回ってもナチねぇの姿は見つからず、俺はがっくりと肩を落とした。すっかり出遅れちまったから、ミント姉ちゃんのところかガゼルの散歩か、はたまた買い物にでも出かけてしまったんだろう。自分のタイミングの悪さに息を吐くと、洗濯の終わったシーツやらを抱えてとぼとぼと裏庭に出る。不幸中の幸いなのはこの天気の良さだけだ。これなら直ぐにでも乾いてくれるだろう。ぽかぽか陽気に少しばかり気を取り直したところで、視界の端に映った寂れた建物に俺は眉根を寄せた。
「あー……ついでに、倉庫の掃除でもしとくか?」
釣り竿を探しにこないだ踏み入ったばかりのそこは、実のところ散らかり放題に散らかっている。どう片付けるべきか考えるだに億劫で何となしに避けていたけれど、いつかは向き合わなきゃならないことだ。意を決して物置小屋に足を踏み入れてみると、ある意味では想像どおり、そして正しくは記憶どおり、箱に袋に様々なものが乱雑に積み重ねられている。あぁ、一気にやる気が失せちまったな……けどこれを放置して後々面倒な目に遭うのは自分だし、仕方が無い。せめて崩れかかった棚だけでも整理しようと、俺はぐっと伸び上がる。
「ちょっとぐらいは片付けて、って……のわぁあ~っ!」
指先が触れた途端、それまで保っていた奇跡のバランスが崩れたのか。雪崩のように降り注ぐ大量の荷物に俺はカエルのようにひっくり返った。埃の舞う床に頭を打ちつけ、鍋やら箱やらの金属音まで鳴り響いたのだからアザだって出来たはずだ。何とか身を起こしながら腹をさすれば鍋の取っ手がめり込んだのか、鈍い痛みが走った。
「いってぇ……うぅ。慣れないことするんじゃなかった……ん?」
気晴らしになるかと思って始めた掃除だと言うのに、幸先が悪すぎる。全身の埃を払って立ち上がり、溜め息交じりに外へ出ようとしたところだった。今の雪崩で落ちてきたのか、茶色い革表紙の分厚い日記帳が落ちている。何気なしに拾い上げるも、間髪入れずに俺は思いっきり顔をしかめた。
「んだよ……やっぱ、あのクソ野郎の日記か」
適当にめくろうとしてもページは固く貼り付けられたように、うんともすんとも言わない。どうせ、またおかしな方法で封印とかしてんだろうな。埃にまみれていた物は再び埃の中へ、後ろも見ずに投げ捨てながら俺は外へと足を運ぶ。戦闘の役に立つことでも書いてあれば少しは使えたっつーのに。とことん使えないどこかのクソ野郎へと、俺は何百回目の溜め息を吐きだした。
「そういえばさぁ、姉ちゃんの畑で取れる野菜ってすごくうまいけど見てくれとかはあんま良くないよな」
「なるだけ自然のままに育ててるからだよ。売り物としての野菜は見た目が悪いと商品の価値が薄れるから、虫除けの薬を与えたり色艶のよくなる肥料をたっぷり与えるの」
そのままの足で向かった先はミント姉ちゃんの菜園だった。昼までに食材の仕込みを終わらせとかないと、てんてこまいになっちまう。根菜を掘り起こす作業を手伝ってもらいながら気になってたことを尋ねれば、泥で汚れた頬を袖口で拭いながらミント姉ちゃんは答えてくれた。土を払い落とした野菜の瑞々しい白さに満足げに微笑んでから俺へと寄越してくる手付きは慣れたもので、随分前にダイコンって呼ぶのだと聞いたその野菜を受け取って袋に仕舞い込んでいると、姉ちゃんは腰を伸ばして立ち上がるところだった。
「でも、それは野菜に不自然な環境を与えることなんだよね。当然、野菜のうまみも自然本来の風味とは違ってきちゃうの」
「へぇ……」
「私の畑の野菜は商売のために育ててるものじゃないからね。無農薬に天然の肥料。虫食いとかもあるけれど、そのかわり」
「栄養もたっぷりでおいしいってわけだ。ナチねぇもよく言ってるぜ、ミント姉ちゃんの野菜は格別だって」
葉野菜ですら味わい深いのはミント姉ちゃんのとこだけだって、サラダを食べるたびにナチねぇは口にする。虫食いがあるのは、虫も食べたくなるほど美味しいってことなんだよ。嬉しそうに綻んだ顔を思い出しながら言えばミント姉ちゃんは誇らしげに胸を張り、それから急に慌てふためいた。
「そういうこと……ってえぇっ!?ナチさんもそう言ってくれたの?わわ、どうしよう、嬉しい……!」
「姉ちゃん落ち着いてくれー。ナチねぇが姉ちゃんのこと誉めるなんていつものことだろ?」
「話がお野菜のことなら別格で嬉しいの!」
わぁわぁと赤らんだ頬に手を当てて嬉しそうなミント姉ちゃんの姿に、本当にナチねぇが好きなんだなぁと思う。女同士の友情って奴には割り込めるはずもないので俺は苦笑するしかないけれど、ちょっとだけミント姉ちゃんが羨ましいかもな。だけど、一通り喜びを表現し終えた姉ちゃんは少し表情を曇らせた。首を傾げる俺に困り顔のまま、おっとりと答える。
「だけど、中々野菜の美味しさって伝わらないのよねぇ。お肉やお魚と比べるとちょっと扱いが悪い気がするよ」
「確かに、そうかもな」
男性客はこぞって肉や魚を食べたがるし、野菜を好んで注文するのは女性客が殆どだ。どうせならもっと大勢の人に食べて欲しいから、俺も姉ちゃんと一緒になって頭を捻ってみた。しっかし、野菜だけのメインを作っても単品じゃあ目を引かないしなぁ。あっ、と弾んだ声が響いたのは俺が悩みあぐねて口をへの字にした時だった。
「……そうだ、ライ君!ねぇねぇ、お店で野菜のフルコースを作ってみない?」
「野菜のフルコース?」
呆気に取られて繰り返せば、ミント姉ちゃんは興奮に目を輝かせながら頷いた。いつのまにかその両手は胸の前で意気込み満々に握り締められている。
「ちょっと珍しいし、健康にもいいし、女性のお客さんとかは喜ぶかもしれないよ?」
「野菜尽くしで……コースか……」
ふむ。顎に手を当てて俺は考え込む。確かに面白そうっちゃ面白そうだ。素材のことならミント姉ちゃんやナチねぇに相談できるし、ナチねぇが得意な料理だって思い返せば野菜中心のものが多かった。シルターン風とか言っていたけど、あれならメインからデザートまで野菜尽くしで何とかなるかもしれない。算段が立ってくるにつれて次第に乗り気になり始めた俺を見てか、姉ちゃんもはしゃいだ笑みを浮かべる。
「言いだしっぺとして、私もきっちり協力するから!」
「よっしゃ!じゃあ、後でナチねぇにも聞いてみるから、待っててくれよな!」
野菜だけのフルコース。俺の力量が問われる料理になるだろうけれど、だからこそ考えるのも作るのも面白くなるのは間違いなさそうだ!
「……ま、その前にテイラーさんとこ行ってこなきゃいけないんだけどさ」
仕入れた野菜を勝手口の裏手に置いたところでそんな呟きがこぼれちまったけど、いや、と俺は俯きかけた顔を勢いよく振り上げた。いつも叱られてばかりの場所に行くのに気が重くなるのは確かだが、今回ばかりはそれだけじゃない。なんて言ったって、あれから星集めは順調なんだ。見てろよ、オーナー……!
己を奮い立たせれば、ふつふつと闘志が込み上げてきて思わず右手を握り締める。ナチねぇがいる場所も多分オーナーのところだろうし、そう思えば足取りも軽くなると言うもので。屋敷へと続く坂道を駆け下りていく俺の顔には、きっと挑戦的な笑みが浮かんでいた。
「やった……あのオーナーに、まだ不満はあるようだったけど認められた……っ!」
あのオーナーに、と何度目かの言葉を胸に繰り返しながら、俺はしみじみと噛み締めるように言った。興奮冷めやらない思いでトレイユの街並みを歩きつつ、つい目を向けてしまうのは懐に抱える空き缶だ。オーナーからの評価を受けたその結果、援助として貰ったのが空き缶だった時はなんの嫌がらせかと思ったけど、何でも召喚獣を育成するペットフードを作るに当たって必要なものらしい。市販で買えばバカ高い、かなりの値打ちがあるものだと聞いて俺は認識を改めた。一見空き缶に過ぎなくとも、これはオーナーから俺への評価が詰まった、途方もなく価値あるものなのだ。
そんな風に考えれば自然と頬が緩んでしまう。隣を歩くナチねぇも笑みを浮かべていて、それがたまらなく嬉しい。
「良かったね、ライ君」
ひょっとしたら俺以上に満面の笑みでぱちぱち控えめな拍手をするナチねぇは、やっぱりオーナーのところにいた。いつもは解読した文献をワイヴァーンに乗ってファナンまで届けているけれど、近々ミニスがトレイユに訪れるらしく、それまでテイラーさんが保管することになったらしい。俺が訪れた時には大体の打ち合わせが終わって退出するところだったナチねぇだけど、用事が済むまで外で待っていてくれたのだ。上機嫌な俺は、ナチねぇとそのお供に付いてきたプニムと並んで、帰り道を歩いていた。
「ふふ、本当に嬉しいなぁ。そうだ、今日の夕飯は私が腕を振るってもいいかな?ご褒美って言うには物足りないかもしれないけど」
「や!すっげぇ嬉しいって!?けど、その、さぁ……」
疑問符を浮かべるナチねぇに俺は少し口ごもる。リビエルやセイロンたちにもナチねぇの飯を食わせると言うのは俺の中でかなりの葛藤がある。とはいえ、我ながら格好の付かない……正直言って呆れられてもしょうがない理由を口にするのは今更だけど気が引けた。そろりと視線ばかりでナチねぇを見上げれば、他に何かしてほしいことがあるの、と首を傾げられてしまう。
「う、ん。まぁ、そんなとこなんだけど……まだ保留中ってことでもいいかな」
「うん、いいよ。私に出来ることなら何でもしてあげるから、ゆっくり考えてね」
咄嗟の誤魔化し文句だったけれど、微笑むナチねぇを前にした途端、どんなご褒美を強請ろうかってことに頭の中がいっぱいになってしまう。そんな考えるだけでも楽しくなる宿題を抱えてしまってたまらず笑い返した俺の足元で、プニムも楽しそうに跳ねた。大体いつでもご機嫌なプニムだけど、俺やナチねぇの気持ちをびっくりするほど汲み取るだけあって、たまに気恥ずかしくなるくらい地面や床を飛び跳ねてくれるんだよな。そんなふうに呆れる素振りをするだけで精一杯だった俺にとって宿屋までの道は遠いようで短くて、テイラーさんから聞いた町の情勢や周囲の様子を噛み砕いて説明してくれるナチねぇに夢中で頷いている内にもう、坂の入り口についてしまった。
「へぇ、こないだまでんな気配なかったのにな」
ゲックの爺さんと戦ったのはそう遠い記憶じゃない。だというのに、近頃では水車小屋周辺にまで野盗が出るようになったのだと聞いて俺は眉を顰めた。よくある野盗に加えて赤毛の小型ガゼルも姿が確認されているらしく、メイトルパの召喚獣に常々気を払っているナチねぇとしては自分の目で確認したくて気になっていたらしい。
「それに、あっちにはガゼルの散歩にも行くし。ライ君だって食材を集めに出向いたりするでしょう?だから一度様子を見に行ってこようかなって……」
「その時は俺もついてくからな。様子見にしろ討伐にしろ、ナチねぇ一人で行かせるわけにはいかねーっつの」
断固たる態度で主張する俺にナチねぇは抱え上げたプニムを胸に肩を揺らした。俺の言葉を受けて笑っているのだと気付くのはすぐで、思わず不満に唇を尖らせる。
「あのなぁ、危険だと分かっててナチねぇ一人だけ行かせるわけないだろ?」
「うん……うん、あのね、そうじゃないの。ライ君」
笑いすぎて目じりに浮かんだんだろう涙を拭って、ナチねぇが俺に目をやる。そして微笑んだ。
「ライ君に心配されるのが嬉しくて、笑っちゃったんだ」
「……か、家族なんだから当然だろっ!?」
裏返った声にナチねぇがまた笑う。
「そうだね、家族だもんね」
俺の言葉に嬉しそうな笑みを浮かべるナチねぇを見て、俺までぼっと火に照らされたように赤くなる。ちょっと前までなら、心配しなくて平気だよ、と前置きしてから承諾してくれたナチねぇだ。ひょっとしてひょっとすると、コーラルを拾ってからの一連の騒動の中で何かが変わってきているんだろうか?そう考えることはますます頬の熱を高めるばかりで、たまらず俺は顔を背けて込み上げるむずむずを押し殺すように奥歯に力を込めている。
そして、翌朝。まだ人影の見えない静かなトレイユの街を抜け、水車小屋へと続く街道を歩く俺とナチねぇの姿があった。
水車小屋周辺の様子見と、ここのところ手近で済ませがちだったガゼルの散歩を兼ねての外出だ。久々に充実した散歩を味わうガゼルも心なし嬉しそうに見えるのはきっと気のせいじゃないだろう。ナチねぇの隣で誇らしげに蹄を進める姿はいつかミニスに聞いた護衛獣という単語を連想させられて、少しだけ羨ましく思ってしまう。ナチねぇの手提げ籠で揺られているシズクに対しては嫉妬の念すら湧かないけれど。
「落ち着いたら、コーラルちゃんも一緒にお散歩したいね」
ガゼルの背を撫でるナチねぇの穏やかな眼差しの先には多分、宿に置いてきたコーラルの姿があるのだろう。コーラル、俺を父親のように慕ってくれる大切な新しい家族。今は御使いの付き添いに加えて、常に宿の敷地内に留まることで身の安全を図っているけれど、いつまでもそんな環境じゃ流石にダメだろう。だって、そんなのはあんまりにも窮屈だ。早く自由にしてやりたいけれど、それには残りの御使いをさっさと見つけて安心できる環境を作らなければいけないわけで。
はぁ、と溜め息がもれた。葛藤のまま、がしがしと頭をかき混ぜる。
「んっとに……アイツはまだ生まれたばっかなのに、ろくでもねぇもんばかり見させられて聞かせられて。世界にはもっと色々、綺麗なもんが溢れてんのによ」
「こういった光景、とかね?」
くす、と小さく笑ったらしいナチねぇの気配に俺は言葉を返す代わり、足を止めて顔を上げた。
白々と明け始めていた夜はもう、殆ど姿を隠していた。誰がどう見たって一目瞭然の朝が顔を覗かせている。眩しいくらいの朝日が山の稜線を白く縁取って、幾筋にも分かれた光の線が真っ直ぐに差し込んでくる。草原にも川面にも、あちこちに白い煌めきを散りばめながら世界を夜から朝へと塗り替えていく。数十数百の星の瞬きを集めて重ねたらきっとこんな風になるだろうか。眩しさに目を細めて耐えていると、川底がじわじわと清々しい透明さに満ちていくのが分かった。世界中が息を吹き返していく。そんな感覚に包まれながら、黙ってじっと目を細める。
「で、ライ君はこの光景が大好きなんだもんね?私も、初めて見た時すっごく驚いて、それ以上に嬉しかったな。こんなに綺麗な景色があったこと、それ以上に」
一旦言葉を切ったナチねぇが嬉しそうに、少しばかり頬を染めて微笑む。
「ライ君が、私のことを家族だって、そう思ってくれていたことが分かって」
「……バレてたか」
俺は、クソ親父を家族なんて思っていない。そもそも家族なんて俺にはいないとさえ思っていた、そんな時期もあった。だからこそ俺はきっと家族ってものに飢えている。家族だと思った相手に、俺が知る限りの一番綺麗な景色を見せてやりたいと思う程度には。大事にしたい、大切にしたいと、そう思ってしまうくらいには。
急に込み上げてきた照れくささと気まずさに、ふいと目を逸らしながら俺はわざとらしく声を張り上げて言った。
「……ま、水車小屋についたわけだしさ!とりあえず川沿いに近くを見てこうぜ?」
「そうだね。警戒は怠らないよう、気を付けていこう?」
いつも通りの柔らかい声色に頷きながら、俺は静かに思考を切り替えた。
そして、結論から言おう。野盗の痕跡はあったし、噂の小型ガゼルも発見した。けれどそれ以上の発見があるとはさすがに、想像すらしていなかったのだが。
「……なぁ、ナチねぇ」
「……うん、多分きっと。戦闘の跡だね」
見つけてしまったのは逃避すら許さない確かな痕跡。水車小屋近くの川を上流へと上った先、そこで軸の折れた矢羽を見つけたのが発端だった。街道自体にはんな物騒なもの落ちていなかったけれど、街道を挟んで林へと分け入ってすぐ、シリカの森へと続く小道には複数の足跡と戦闘の形跡が残されていた。具体的には幹に突き刺さったままの矢、鋭利な刃物で切り落とされたらしい枝葉。野盗の仕業にしてはどうにも数が多いし、違和感ばかりが滲むそれに足を止めて、ナチねぇと目と目を合わせて頷いた後は早かった。まさかまさかと嘆きながらも早急に家まで取って返し、セイロンたちを引き連れて戻ってくる羽目になったのだ。
「で!なーんでさっきから不穏な物音が聞こえるワケ!?御使いだけじゃなくって敵もいるでしょお、これ!?」
「おそらくは追っ手を撒くために森に入ったのだろうが、そうは問屋が卸さず、といったところなのだろうな。全くもって難儀な話よ、あっはっは!」
ざっかざっかと背の高い草薮をかき分けながら進むリシェルが怒鳴る横でセイロンがこれまた高らかな笑い声を返す。目指す方向から響いてくる殴打音やら獣の唸り声を背景によくこれだけ高いテンションを維持できるもんだと逆に感心するほどだ。この先にまだ合流できていない御使いがいるってことはコーラルの反応でも分かっている。なのにセイロンは悠々とした笑みを浮かべるまま、動じず焦らず山の如し、なもんだから、当然のごとくリシェルが目じりを吊り上げる。
「困ってるんならもっと急ぐ!」
「急ぐのはいいけど、リシェル!お前あんま先走んなよ!」
おてんば娘の異名は伊達じゃない。そんなん知ってたけど、こいつには注意力ってもんがないのか?召喚師のくせに先陣を駆け抜けるリシェルに、俺もまた怒鳴るように返したところで、ふと気づいた。
そう遠くない前方、木立の合間にちらちらと人影が動いている。人間にしては大柄過ぎる影がなんなのか、目を凝らせばすぐに分かった。獣人だ。そして、獣人達にじりじりと包囲網を縮められながらも奮闘している奇妙な衣装を身に着けた女性の姿こそがおそらく、御使いの一人なんだろう。
「む……あれはアロエリか?」
「アロエリ?」
「幻獣界からやってきた有翼の亜人セルファンの女戦士ですわ。弓の腕前は百発百中と言ってもいいくらいなんですけど」
尋ね返せばセイロンに代わってリビエルが答えてくれたが、その言葉尻は困った表情そのままに窄まっていき、どこか飄々とした様子のセイロンが後を引き継いだ。
「ああまで接近されたは本領を発揮するのは難しかろうな」
ふむ、とこんな時でも手離さない扇を唇にひたりと当てながらの言葉だが、お前もちっとは焦ったりしろよ!
「冷静に分析をしている場合じゃないよ!」
「仲間なら、真っ先に助けに行きなさい!」
ルシアンとリシェルの声に深く同意を返しながら剣呑な視線を横へと投げる。ぶつかった赤い目は少し笑みを浮かべてから真面目なものへと切り替わった。
「うむ、もっともだ。いくぞ、店主よ!」
「ったく、しょうがねぇなぁ!」
態度こそアレかもしれないけれど、俺たちをちゃんと仲間だと思っていることが分かる眼差しに瞬間、嬉しさが湧き上がる。腰から刀を抜き放てば一気に研ぎ澄まされる感覚に身震いをひとつ、俺はぬかるむ地面を蹴った。
「フウウウ……ッ、ホアッチャァァァッ!!」
「ブルグェェエッ!?」
奇妙な雄たけびだとは思うけれど、ストラで威力の高められた蹴りは大の大人ほどもある獣を吹っ飛ばすには十分すぎるほどの効果を発揮している。まずは道を、と手前に陣取っていた斧持ちの獣人を勢いよくなぎ倒しながら横目で見れば、どうやらアロエリの方もセイロンに気づいたらしい。鳥を模したような衣装は殆ど裸に近くて目のやり場に困るから耳だけ注意を向けてみれば、打撃音の合間に最早お馴染みとなった高らかな笑い声が響いた。
「これだけの敵を相手に一人でよくぞ頑張ったな。誉めて遣わすぞ、あっはっは!」
「ちっ、相変わらず能天気なヤツめ……」
言葉こそあれだが、安堵の滲んだ声がアロエリの本心なんだろう。
「もう、こんなあっちこっち傷だらけにしちゃって……癒すこっちの手間も考えて欲しいですわ」
「リビエル。そうか、お前も無事だったのか……」
三人の御使いが揃ったことで安心したのか、セイロンやリビエルの表情が明るいことは離れた場所にいる俺にも見て取れた。心配も晴れたっつーことで、会話は続いているようだけど戦闘に集中するべく意識を切り替える。アロエリの怪我を癒し終えるまで俺らが踏ん張っとかなきゃいけないしな。
「うおおおおぉっ!」
一刀入魂とばかりに斜めに切り裂けば分厚い毛皮の下にも怪我を負わせることが出来たようで、鮮血を滴らせながら人型の獣は後ろへ後ずさる。
「人間だと!?」
と、そこで何か不穏な声が聞こえたけど気にしない振りをして前を見据えたまま、俺は刀を握りしめた。ちょっとばかし良すぎる耳には色んな声が入ってくるんだけどこれは不可抗力というやつだ。
「貴方が言いたいことは分かるつもりですわ。でも、今は目の前の敵のことだけを考えて」
「彼らは御子殿の味方だ。不本意であろうともそれが真実なのだ。……そなた個人の感情は後回しにしておけ」
ぐっと低まったセイロンの声色にアロエリが渋々ながらに頷く気配がした。何がなんだか知らないけどよ、この場を切り抜けても嫌な予感しかしないんだが、気のせいか?
「セイロンの言ってた獣の軍団ってのはこいつらのようだな」
一回りも体格差のある獣人の膝下を穂先で切り裂きながら兄貴が舌打ちする。真剣な目をして杖を握り締めたミント姉ちゃんが言葉を続けた。
「気をつけて!もう分かってると思うけど、魔獣や亜人は人間より力が強いから!」
「無理に押すようなことだけはしないで下さいね?十分距離をとって、囲まれないよう注意して!」
ナチねぇも杖を握りしめながら俺たち、子供一同に視線を投げかける。悔しいけれど、その視線の意味はよく理解できるものだったから俺は黙って刀を斜めに振るった。獣人の力は強大だ。大人なら何とか対抗できるかもしれないけれど、子供の力じゃまず同じ土俵に立てっこない。勝負になるならない以前の話だ。俺は、違うかもしれないけれど……そのことを隠している以上は、ただの子供と同じだ。
「手当の準備はいつでも出来ていますからねぇ!」
背後の少し小高くなった丘でポムニットさんが手を振り叫べば、その足元でシズクが伸び上がるように身を振った。きっと頑張れって意味だろう。大人の皆から向けられる気遣いは嬉しかったけれど、俺は素直に頷けない気持ちが込み上げるのを感じるままに吐き捨てる。
「へっ、それならやられる前にやるだけだぜ……かかってきやがれ!」
怒号を放ち、眼光鋭く睨み据える。唸り声を上げてかかってくる相手が人間だろうが獣だろうが召喚獣だろうが、負けるつもりはなかった。
シリカの森は湿地帯に近い。あちこちに点在する水場や鬱蒼と茂る緑のおかげで森の恵みは深いけれど、それと同じくらい危険も満ちている。なんたって視界は悪いし足場は不安定だし、はぐれと化した召喚獣もうようよ。おまけに一度迷ったら中々抜け出せない深い森のおかげで普通の人間ならまず来ないと断言できる、そんな場所だ。そういう意味で言えばここがこんなに賑わったのは初めてかもしんねぇな、と頭の隅で思ってしまうのは普段、俺が果物やら魚やらを狙って足を運んでいた普通じゃないニンゲンだからだろう。斧・槍・爪・弓を持った巨体の獣人に、宿屋で世話してるガゼルとは違った気配の魔獣たち。真ん中に水場があるから四方を挟まれることは回避できたけれど、左右を囲む敵影の多さにこれはちょっと賑やかが過ぎるんじゃないかと呆れ半ば、俺は小声で提案することにした。
「とりあえず、左方のヤツらを潰してから右方に回らねぇか?」
ひそひそ声で言ってみれば一部不満がありつつも合意を得られて、おかげで何とか大きな怪我を負うこともなく戦って来られた。けれど……指揮官と思わしきフードを被った召喚師が二人、ここからは遠い向こう岸に見えるのがどうにも気掛かりだ。あいつらを撃破するまでは気が抜けねえな、と額に滲む汗を袖で拭った俺だったけれど、派手な雷が落ちたことに知らず目を見張る。
「あんまり、痛めつけたくはないけど……そうも言ってられませんもんね」
「ナチさん、素敵です……!」
しゅうしゅうと湯気を立てる焦げ茶に染まった魔獣は確か、さっきまでルシアンの剣技に足止めされていた奴だったはずだ。メイトルパとサプレスの耐性持ちな魔獣ばかりだった気がするけれど、ひょっとして俺の気のせいだったのだろうか?ばちばちっと派手な火花を散らすサモナイト石を片手に微笑むナチねぇを見上げて、ミント姉ちゃんはきゅんとした表情を浮かべていて、背後で八面六臂の活躍をしている兄貴に至ってはいつものごとく視界にさえ入っていない。
「召喚術の発動まで僕が守るから!姉さんもナチさんも、安心して詠唱に集中して下さい!」
「うん、ありがとう。ルシアン君」
そんな和気藹々とした会話を背中に拾いつつ血でぬめった刀を振るう最中、なぜか一瞬、兄貴に自分の姿がダブったのは気のせいだと思いたい。
「やれやれ、どうにか追っ払えたな」
刀だけでは対処しきれず、最後には予備の剣まで使う羽目になってしまったが、これでひとまず落ち着いた。軽く刀を振って鞘へと仕舞った俺は、まだ一度も声を交わしていないアロエリを振り返って顔を上げた。友好的とは思えない視線がずっと投げられているから、本当は気が進まないんだけどな……心の中で自分を鼓舞してから思い切って口を開く。
「アロエリ、だっけか。とにかく無事でなによりだぜ」
「……別に。人間に身を案じてもらってもオレは嬉しくない」
やっぱりな。戦闘中にもそんなこと言ってたし。だよなぁ、と溜め息交じりに頭をかく俺を押しのけて口を挟んだのはリシェルだった。
「ちょっと、あんた!?助けてもらっといて随分な態度ね!」
「やかましいぞ、小娘」
「こむ……っ!?」
つんとした態度はリシェルに対しても同様で、あんまりな言葉に口をパクパクさせるリシェルへとアロエリはこれみよがしに鼻を鳴らす。
「小さなくちばしでぴぃぴぃ囀るのは貴様の勝手だがな、独りよがりの善意を押し付けてくるな。オレには迷惑だ」
「くっ、ぐぎぎいいいっ……!」
「ね、姉さん!落ち着いて!」
アロエリの言うことはよくよく考えてみれば筋が通っていないんだが、気づいているのは俺とナチねぇ、セイロンくらいだろうか。他の皆もアロエリの言い草に驚き、目を丸くしてしまっている。あんまりな展開に理解が追いついてないんだろう。そんな俺たち、人間勢を相手にするのも面倒だとばかり、アロエリはリビエルを振り返って言った。
「リビエル。御子様は何処におられる?」
「え、あ……ほら、こちらですわ」
アロエリのつっけんどんな態度に、これまた意外なことだがリビエルまで戸惑っているようだ。自分の時もかなり人間を見下していたのに不思議なもんだが、変わるもんだなぁ。しみじみそんなことを思いながら見ていると、後方で待機していたポムニットさんの腕の中から飛び出てきたコーラルに対してアロエリが素早く膝を突いた。
「遅くなってしまって申しわけございません、御子様。御使いが一人、アロエリ、ここに参上致しました。こたびの災難、未然に防ぐこと叶わず真に申しわけ……」
と、それを遮ったのは悠然と事態を見守っていたセイロンだった。口元に当てていた扇子でアロエリの肩を叩くと緩やかに首を横に振る。
「これこれ、アロエリ。そういった話は後でゆっくりとしよう。とりあえずは腰を落ち着けられる場に向かおうではないか」
そうやって指し示したのは、戦闘終了後の血や毛が飛び散る水面や草むらだ。自分たちで作り出しておいてなんだが、こんな嫌な空気漂う薄暗い森の中で長話をされるより移動してからの方がずっといい。視線でセイロンを応援する俺たちの目の前、無事に祈りは通じ、半ば強引な形でアロエリはセイロンの主張に押し流されることとなった。案内してやろうと言いながらずるずる腕を引っ張っていくセイロンの後ろ姿に安堵交じりの溜め息がこぼれ落ちるが、しっかし、向かう場所って……あえてスルーしといたけれど、要するに俺んちだろ?
「もはや、断りも無くあんたの家が溜まり場になってるわねー……」
「慣れたよ、流石に」
おかげでナチねぇと一緒に過ごす時間がどんどん減っていることは事実なだけに、勝手に曇っちまう瞳はどうしようもなかったけれど。俺は曖昧に力なく笑ってみせた。
そうして街道まで出てきたわけだが、俺の予想通りアロエリの態度は変わらないまま、不穏な雰囲気を存分に振りまいてくれちまっていた。ああ、いい加減胃が痛い。セイロンが相手をしてくれているからいいけれど、そろそろ誰か場を代表して尋ねるべきだろう。つっても代表は自動的に俺になるわけなんだが、と腹を括って俺は出来るだけ自然な素振りで問いかけた。
「けど、なんでアイツあからさまに喧嘩を売ってきたんだ?」
居心地悪そうにしているリビエルには悪いが、なるべく不思議そうな顔で尋ねてみる。ぎくりと強張った反応を見せたリビエルは少しの躊躇いの後、おずおずと口を開いた。
「人間のことが、大嫌いだからですわ。……彼女たちの祖先は人間の都合で労働力として召喚されてきた。あまりに酷い扱いに耐えかね逃げ出して、今に至っているの」
あぁ、と嘆息のような息がもれた。ナチねぇが目を伏せたのが分かった。俺も口ごもってしまったところで、ルシアンがきょとんとした目をした。
「つまり、はぐれ召喚獣の子孫だってこと?」
「貴方たちの考え方で言えば、そうですわね」
肯定するリビエルの声を聞きたくなかった。はぐれ召喚獣という言葉で知り合った相手を括ってしまえば、俺はどうやって自分自身を認めればいいのだろう。普段、わざと考えないようにしている世界の常識を突き付けられて咄嗟に目を逸らしたくなる俺の前、暗い面持ちのままリビエルが顔を上げた。
「けど、私たちからすれば気の毒な被害者ですわ。ラウスブルグとは、そうした者達が守護竜の庇護の元に、人間と関わらないで隠れ住んでいた場所。彼女にしてみればこの状況は不本意でしかないでしょうね。関わりたくない人間と、関わらざるを得ないのですから……」
「……理解は出来たぜ」
それでも、俺は口を開いた。
「けど、だからって、はいそうですかって納得はできねぇよ」
え、と驚きに目を丸くするリビエルに思い切って向き直る。俺の言葉をどう受け取ったものか、戸惑っている菫色の目に真っ直ぐ向き直ると、人間と召喚獣の込み入った話じゃない、現状において一番大事な話だけを意図的に選んで俺は口にした。
「コーラルのことを守るためには、力を合わせなきゃダメだ。俺たちだけでもお前たちだけでも、多分、守りきれない」
「ライ……」
リシェルか兄貴かが呟いた。一拍遅れで、そうですよぉ、と場違いに明るい声と手を打つ音が響いた。
「ええ、そうですとも!ライさんの言うとおりですよ。召喚獣とか人間とか、そんなこと気にして仲間割れしていたら……コーラルちゃんが可哀想ですよ!」
「……ですわね」
沈んだ雰囲気を吹き飛ばそうとでも言うかのようにいきなり力説し始めたポムニットさん。その笑顔と俺の顔とを見比べていたリビエルが、小さく笑みを浮かべて頷いた。どこか明るさの滲んだ笑みに、けれどふっと影が差す。
「……でも、アロエリたちが人間に抱いている敵意はとても根深いものよ。ことに、彼女は一途に思いつめる性分ですし。簡単に割り切ることは出来ないでしょうね……」
またもや黙ってしまったリビエルに掛ける言葉を見つけられた奴はいなかった。そして宿に向かう道中ずっと、気まずい空気を振り払うことも出来なかったのだ。
「……拾った、だと?」
「ああ、そうさ。たまたまこいつを拾っちまったから俺たちはこの一件に関わってきたんだ」
同意するように鳴き声を上げるコーラルを見下ろし、それでもアロエリは訝しげに俺を見やった。
「……信じられん。それだけの理由でわざわざ俺たちの戦いに関わるとは、かえって不自然だ」
そう言われたって事実を話してるだけだっつーのによ。兄貴たちもどう対処すれば分からず、ほとほと困り果てている。場所は宿屋の一階、今やお馴染みの集合場所となった食堂だ。俺たちと距離を取るように壁際に立つアロエリ同様、俺も椅子に座らないまま向き合って話していた。場に漂う剣呑な空気を察知してか、大人組の半数近くは立ったまま話の動向を伺っている。心なしかいつもより近い距離に腰かけているナチねぇも、背中は背もたれから起こしていた。
「あんたねぇ、人間のこと一体なんだと思ってんの」
「敵以外の何物でもない」
苛立ちを隠す様子もなく噛み付いたリシェルへと間髪入れずに返した言葉も疑心と敵意に満ちたもので、本当……相手するのが面倒になってきたな。同じ御使いのリビエルやセイロンもあまりに刺々しいアロエリの言葉に眉をひそめている。
「人間というものは傲慢で欲深くて油断がならない。俺たちはずっとそう教わってきたんだ」
教わったことと現実が異なったら教わったことを優先するんだな、へぇへぇ。静かにイライラを貯めている俺に気づいたのか、小さく鳴いて頭を擦り寄せてくるコーラルがいじらしい。親指の腹で撫でてやっていると、それでも、とルシアンが控えめながらに主張した。
「それは、貴方たちの立場が特別なものだったせいで……」
「この世界の同胞たちの多くは、その特別な立場とやらにある。都合よく使われている、道具同様の立場に、な」
「あ……」
息を呑み黙ってしまったルシアンにアロエリは大きく首を横に振る。
「否定するなら試しに尋ねてみるといい。きっと、俺と同じ考えを持つ仲間たちがたくさんいるはずだ」
そういえばコーラルも言っていた。つながれるのも、命令されるのも、もううんざりだって。そう言っていたから助けたんだと、あの時言っていた。それはきっとコーラルの言うとおり間違ったことじゃなくて、間違っているのはむしろ、この世界の仕組みの方で。けれどずっとずっと昔から間違ったやり方を正しいものとして継続してきちまったから、こうやって歪みや憎悪が吹き上がる。
でもな、と誰へともなく俺は胸の中で呟いた。今するべき話はそこじゃねぇだろうが。
「そうかもな……。けど、それとこれとは話が別じゃねぇか?」
「なんだと?」
怒気をはらんだ声に、俺は静かに口に開く。
「アンタがどう思おうが関係無しに、俺たちはコーラルのことを助けてやりたいって思ってるんだ。理屈なんかじゃない。そうしたいって思ったからやってんだよ、それだけなんだ」
「信じるも信じないも、結局は本人次第と言うことになるわけか。試されておるのはそなた自身だぞ、アロエリ」
援護射撃とばかりにセイロンが続ける。悔しそうに歯噛みするもののアロエリは黙り、セイロンは扇をぱちんと閉じた。ひとまず、これで落ち着いてくれたか。だけど、そう思ったのは早計でしかなかったらしい。
「関わるだけの理由がどうしても必要だと言うのでしたなら、少なくとも、ライにはそれがありますわよ」
アロエリを説得するつもりで吐き出したんだろうリビエルの言葉が皆の注目を集めた。
「理由だと?」
「ほう。それは初耳だな」
興味しんしんに問い返すセイロンから俺に顔を向け、リビエルは話してもいいのかと首を傾げる。まぁ大したことでもねーし、黙ってて意味があるとは思えない。そのはずだったから何の気負いもなく、俺は首を縦に振ったのだ。
「先代が亡くなった時、私たちを逃がすために戦ってくれた冒険者。彼は、あの男の息子よ」
「!?」
時が止まった。そう錯覚するような不自然な静寂が場に満ちた。セイロンもアロエリも息を呑み、俺を凝視している。訳が分からないまま、俺は詳しい事情を説明しようと口を開いた。
「詳しい事情を聞いたわけじゃねーけどさ、クソ野郎が関わってる以上、知らんぷりも出来ねぇんだよ」
「その話は……本当なのか……?」
「え、ええ。そうですけど」
「……そうか」
ゆらり、と弓軸を支えに足元を保っていたアロエリが低く、声を絞り出す。
「ならば」
「あ、アロエリ?」
ざわざわと急激に雰囲気が変わっていくアロエリに、リビエルが困惑交じりに声を揺らした。ポムニットさんと同じテーブルに腰かけていたナチねぇが何かに気づいたように立ち上がるのと、アロエリが懐から取り出した短剣を俺に向かって振りかざすのは、完全に、同時だった。
「償いはっ、貴様の命でして貰うっ!!」
「!?!」
突然の出来事。まさか、仲間になるだろう相手に刃物を向けられるなんて誰が予想するもんか!
すっかり気を抜いちまってた俺の体は強烈な殺気に飲まれて動かない。アロエリとの距離は僅か五歩分、一呼吸もあれば詰められてしまう距離しかないっつーのに、頭も凍り付いたように回らない。目の前の光景が流れていく様子を眺めるばかりの俺の前で、鈍色の刀身が午後の日差しを鋭く反射した。ヤバい。曇りひとつない短剣がいやにゆっくりした動きで、心臓目がけて真っ直ぐに、振り下ろされる!?
「ライ君っ!?」
致命傷を避けようと無意識に腕を掲げようとしたその瞬間、なにか柔らかいものに突き飛ばされた。横から割り込んだ何かの正体を把握するより早く、思考が追いつかないまま背後のカウンターに背中からぶちあたった。強かに背中を打った衝撃に肺から空気がこぼれ出る。けれど、刺されるよりはずっとマシな程度の痛みでしかない。そう、どこか安堵を感じながら顔を上げて俺は固まった。
「あ、ああ……?」
呆然とした声は誰のものなのか。アロエリのものなのか。一瞬、分からなかった。目を見開いて固まったまま、動けない。
「……っつ」
ぱた、と水滴の落ちるような音に目がようやく目が動く。喉が震える。ぱた、ぱたた、と静かに勢いを増していく音源がどこか、視線で追って焦点を合わせて。俺は、跳ね起きた。
さっきまで俺に向けられていたはずの短剣はナチねぇに突き刺さっている。俺の、俺だけの、たった一人の家族に。ナチねぇに!!
「てっ、めぇええええええぇぇぇええ!?!」
「ぐぁっ!?」
「ナチねぇっ!?」
何も考えられなかった。無我夢中で突っ込めばアロエリは簡単に吹っ飛んだ。だけど、そんなことどうでもいい。左腕を押さえてしゃがみこんじまったナチねぇの傍に膝をついて傷口を覗き込む。左腕、その細い二の腕に刀身の半分近くが埋まっていた。これじゃあ迂闊には抜けない。知らないうちに噛み締めていた唇からは血の味がする。
「×××?」
額に汗をにじませたナチねぇが、少し困ったような目で俺を見た。こんな時なのに微笑んでいるような口元がゆっくり動いたけれど、何を言っているのか俺には聞こえない。
「×××?×ぇ、ねぇライ君、聞こえてる?」
焦った表情をしたミント姉ちゃんが膝をついて患部を窺い、サモナイト石を握りしめる。その後ろではセイロンがアロエリを怒鳴りつけ、ポムニットさんはてきぱきと救急箱から包帯やガーゼを取り出している。ナチねぇの唇がまた、今度はどこか怪訝そうに動いた。けれど、やっぱり俺には分からない。何か言っているのは分かる。けれど、何を言っているのかわからない。疑問に思った途端、答えが胸に落ちる。
んな余裕、ねぇからだ。
「なぜですの!?どうしてそこまでこの人を憎むの!?」
「仇だからだ………っ、オレはこの目で見た。先代様の首をはねた張本人はこいつの父親だっ!!」
悲痛な表情で訴えるリビエル。それをかき消すような勢いで叫ぶ、アロエリの声。
「うそっ、そんな、だって……っ」
「事実だ。リビエル。だが、あれにはやむを得ぬ事情があって……」
ぎゃあぎゃあうるせえな。
ナチねぇの隣に屈みこんでいた体をゆっくりと起こす。足元でみしりと音がした。
「聞きたくないっ!どんな理由であろうとコイツの父親が先代を殺したんだぞ!?先代さえご存命ならラウスブルグも守れたはずだ……何もかも、みんな貴様の父親によって壊されたんだ!そんな男の息子の言葉など」
「それが、なんだってんだ」
腹の底から絞り出した声は思ったより随分低く響いた。力の制御が効いてないのかもしれない。みし、みし、と悲鳴のように床板が軋む。視線を上げる。兄貴とセイロンに羽交い絞めにされるまま喚き散らしていたアロエリが、ぴたりと黙った。
「クソ親父がお前らの大事なモン壊しちまった、だから息子である俺も同じように壊してやる。ああ、それはいいさ。アレの尻拭いにはもう慣れた。だからいいさ、なんでもいい、けどなぁ……」
「お前、ナチねぇを殺そうとしたな?」
一歩、踏み出す。まだ腰から外していなかった刀に右手を掛けたのは無意識だった。
「店主!」
「切っ先が少しズレてたら、ナチねぇは死んでた。分かるよな?セルファンの戦士さまなんだもんな」
セイロンがアロエリを庇うように前に立ち塞がった。掬い上げるように睨みつければ、セイロンもまた、赤い瞳孔を細めて俺を見下ろしてくる。
「この件は完全に我らの落ち度だ。すまなかった……しかし、店主よ」
なんだとばかり無言で睨み返せば、セイロンはふと困ったような笑みを口元に滲ませた。
「お主がすべきことはまず、彼女の言葉を聞くこと、ではないのかな?」
「ライ君……本当に、大丈夫だから、ね?落ち着いて?」
泣き出しそうに揺れる声と背中を包み込む温もりに、俺はようやく冷静さの切れ端を掴む。ああ、なんのことはない。俺はまた大切な人を泣かすだけの、子供をやらかしたわけだった。
「暫く頭を冷やした方がよいだろう、先ほどのようなことになっても適わぬしな」
何があったのかの説明はまず、落ち着きを取り戻してからだとセイロンは言った。最もな正論だ。俺がみっともねえ醜態を晒したことに深く沈んでいる間に、アロエリはどこぞへと飛び去ってしまったらしい。すぐにリビエルが追ったそうだが、そこはやはり日々空を飛びまわっていた杵柄、あっという間に見失ってしまったとのことだった。
「ライさん!とりあえず臨時休業日ってことにしときましたけど、よろしかったですか?」
「あ、ああ。サンキュ、ポムニットさん。そっか、仕事のことすら吹っ飛んでたのか、俺……」
目が合えばぱたぱたと駆けてきたポムニットさんに軽く頭をかいて礼を言う。いいんですよぉ、と胸の前で手を振るポムニットさんは、ちゃんとした大人の人だった。
「ところでぇ?ナチさんとのお話はもうお済みになりましたか?」
しかし、そんな印象は一瞬で覆る。悪そうな笑みを瞳にきらめかせたポムニットさんが、ずずいと俺の耳元に口を寄せた。
「随分強引に引っ張って行っちゃうもんですから、皆様すこーし驚いていらっしゃいましたよ?私としては微笑ましい光景でしたけれど♪」
背中を打ち付けた時に怪我をしなかったか、ポムニットさんが俺を診てくれている間にナチねぇは大人たちと何か話し合っていたらしい。ミント姉ちゃんにセイレーヌの回復召喚術を掛けてもらったとは言っても失われた血は戻ってこない。それなのに今後のことなんかを悠長に相談してるナチねぇに苛立って、半ば無理やり部屋へと連行してしまったのだから、思い返せばどうにも恥ずかしい。
「う、ぐ、ぐ……いっ、いや!?ナチねぇは俺の家族みたいなもんだし!慌てたっておかしかないだろ」
「ふぅーん……まぁ、その気持ちは分からなくもないですしね。そういうことにして置きましょうか」
「なんだよ、そういうことって!つうかなんだよその笑顔ぉ!?」
それ以上のことなんてないのに、ポムニットさんは清々しいほどの笑顔のままだ。両手を口元に当てて、うふふ、なんて可愛い声で笑っても流石に誤魔化されるわけがない。焦って声が上擦ったり引っくり返ったりしている俺の様子を楽しんでいることは火を見るより明らかだ。悔しいけれどっ……ろくに言い返せない自分が情けない!
「……ルシアンが同じ目にあったらポムニットさんだって慌てるくせに……」
なんていう言葉は、鉄壁のメイドスマイルとやらで潰される。
「メイドですから当然です」
まるで納得いかない回答に俺はぐぅと唸るばかりだった。
からかわれ疲れた足で溜め池へ続く道を降りていけば、ちょうどいいことに兄貴とミント姉ちゃんの姿が見えた。
「おっ。その様子だと、お前はすっかり落ち着いたみたいだな?」
池のほとりに突っ立っていた兄貴がどこか力無い笑みを向けてくる。俺は慌てて兄貴の前まで駆け寄ったところで頭を下げた。
「まあ、一応だけどな……それより、さっきはゴ」
「あー!いい、いい!謝んなって。さっきのはマジでヤバイ事態だったからな。ちっとばかり度が過ぎた気はするが、お前が怒ったのも当然だろうよ」
「だから気にしないで。アロエリさんが言った、件の話は別にしても……ライ君のとった態度。あれがやりすぎだったとは思わないよ」
けれど、手をひらひらさせて笑い飛ばした兄貴の隣ではミント姉ちゃんも困ったように微笑んでいる。その様子に下げかけた頭を上げて口を閉じた俺は、やっぱり口を開け直して溜め池の対岸へと目をやった。
「……それでも、やっぱゴメン。俺、迷惑かけてばっかだなぁ」
「迷惑じゃなくて心配っつーんだぞ、それは。ま!けどここに来た理由ってのはそっちじゃないだろ?」
さすが帝国軍人。すっかり見通されていることに頬をかいて、俺は息を吸いこんだ。それなら、と意識して思考を切り替える。
「じゃあ本題。アロエリの言ってた話、兄貴たちはどう思う?」
最初から、俺が何の目的でやって来たのか気づいてたんだろう。兄貴もミント姉ちゃんも特に驚くことはなかった。代わりに、一緒になって向こう岸を眺めていた兄貴が槍の柄を掴み損ねたようにずるずるとしゃがみこんで、はぁ、と大きく息を吐く。ミント姉ちゃんは口元に柔らかい曲線を描いたまま、俺を振り返っていた。
「やっぱりか……お前、そっちの方ももう落ち着いたみたいだな?」
「?詳しい話を聞かなきゃなんともいえないし」
「そういう強いところはさすがだよね。ナチさんもね、言ってたよ。……それに比べると、私はダメだなぁ。今はまだ面と向かってアロエリさんと話す勇気が出てこないよ」
「ミントさんに限ったことじゃありませんよ。あそこまで正面から拒絶されたら、誰でも腰が引けますって」
顔を見合わせて息の合った溜め息をこぼす二人に、俺の唇は勝手に笑みの形を作っていく。大人だ大人だと見上げてばかりだった二人の気弱な姿が新鮮で、何だか面白かったのかもしれない。付け加えて言うのなら、俺はそんな大人の一人であるナチねぇと話し合いを済ませた後だ。余裕だとかゆとりだとかを持って話に挑む土台は出来てたわけで、そう思うと比べるのもアレな感じだな?
「だよな……アイツの敵意って誰か一人に対してのものっていうより人間すべてに向けられたものだからなぁ。そのとばっちりをオレとナチねぇは、まともに受けちまったワケだ」
うんうんと他人事のように頷いてみせれば、緩んじまった口元に気づいたんだろう、兄貴がたしなめるように声を尖らせる。
「笑いごとじゃないだろ。お前もナチさんも、そのせいで死にかけたんだぞ?」
「でも、無事だったじゃんか。兄貴やミント姉ちゃん、皆のおかげで」
「まあ、そりゃそうだが。けどなぁ……」
性格なんだろうな。やきもきしている兄貴はこんな時だっていうのに俺のことを心配していて、それが何だか無性に笑えて、自然と気楽な笑みが浮かんだ。
「心配すんなって。多分、なんとかなるさ」
頭の後ろで手を組んで思い出すのは、あの時のアロエリの顔色に声だった。俺も激昂していたから気づかなかったけれど、あの時のアロエリは動揺と怯えをそのまんま瞳に映し出していた。それなら多分、大丈夫だろう。誰かを傷つけたことで自分まで傷ついちまうような奴に、そうそう悪い奴はいない。
「アイツだって、頭に血がのぼりすぎていただけなんだろうし。冷静になれば話も聞いてくれるって。じゃなきゃ御使いなんてやってられるはずがないもんな」
「むむむ……」
唸る兄貴に俺は悠々と笑ってみせる。これも希望的観測、楽観的推測に過ぎないのかもしれないが、けれど、それでもアロエリが悪い奴じゃあないってことを信じたい。そうじゃないと、コーラルのこともナチねぇの言葉も疑うことになっちまうのだから。あれは運が悪かっただけ、ただの事故だったって俺を宥めきったナチねぇにまた、顔向けできないことになっちまう。
「ふふふっ、確かにその通りかもね?」
「ミントさん……」
穏やかな風に髪を遊ばせながらミント姉ちゃんはふっと目を細めて空を見上げた。
「過去の経緯とかはあるだろうけど、でも私たちと彼女はまだ、知り合ったばかりなんだもんね。これからいくらでも分かり合うことだってできるはずだよ」
視線を俺に合わせて、ね、と目元を緩ませるミント姉ちゃんに俺は嬉しくなって破顔する。
「ああ、そうだよ!」
「まったく……お前はホントに大した奴だよ……」
兄貴が苦笑交じりに呟く。話を聞く準備ができれば、後はセイロンへと声を掛けに行くだけだった。
「そういえば、さっきの件は事故だったってことでいいんだな?一応、聞いときたくってさ」
「ああ、彼女の厚意に甘える形となって申し訳ないが……本題に入るためにも、今は遺恨なき態度で話に臨みたいのでな。甘えさせてもらう。すまない」
目を伏せるセイロンに、いいんですよ、と微笑みを見せるナチねぇは一見、いつも通りの姿だった。血が付いたシャツは替えたし、包帯を巻いた患部は服の下に隠れて見えない。白地のシャツに予備のベージュのローブを羽織った外見はまるきり普段通りで、だけどその顔色はうっすらと白い。シズクを膝に乗せて腰かけているナチねぇの傍にきっちりミント姉ちゃんが控えているのも、つまりそういうことだった。何か起こった時にすかさず回復系召喚術をかけられるように、だ。
「それよりも、ライ君」
「ああ。……セイロン、本当のことなのか?クソ親父が先代の守護竜の命を……」
ナチねぇに促されて俺は真っ直ぐセイロンに向き合った。それでもつっかえつっかえになってしまった言葉の先は、真剣な目をしたセイロンに引き取られた。
「ああ、事実だ」
きっぱりと返された言葉に足元がぐらつきそうになる。けれど、セイロンは続ける。
「しかし、それは先代自身が望まれた結果なのだよ」
「え?」
それは……一体、どういうことだ?予想外の返しに呆けた俺へと向かって、セイロンは静かに頷きながら言った。
「自害を望んだのだ。先代の守護竜は」
全体を見渡したセイロンが、ゆっくり言い含めるように告げた一言。その意味が咄嗟に理解できなかったのは俺だけじゃなかったらしい。セイロンは全体をぐるりと見渡して言った。
「お主の父親は請われて介錯を勤めたに過ぎぬ。そこに悪意はない。その場に立ち会った我が保証しよう」
つまり、クソ親父はコーラルの親を殺したわけじゃなかった、ってことか?
「そうか……そうだったのか……」
呆然としていた頭が動き出す。間接的にでもコーラルの不幸の元凶と結びついていなかった安堵がじわじわと胸の内に広がっていく。それと同時に、ある疑問が湧きあがった。
「でも、どうして自分から死ぬことを選んだりしたの?守護竜の力ってとてつもなく強いものなんでしょ」
「そうよそうよ!戦ってたら勝てたかもしれないのに」
ルシアンとリシェルが堪えきれずにぶつけた疑問の声に、セイロンは首を縦に振りながら目を伏せた。
「確かに、アロエリが言ったように、先代が本気で力を用いれば「ラウスブルグ」を守ることは可能であったやもしれん。だが、先代にはそれが出来ぬ理由があったのだよ」
「理由?」
すっと厳しい眼差しを持ち上げたセイロンが、低い声を吐き出す。
「争いの火種を外から持ち込んできたのはクラストフの一味だ。だが、実際に反旗を翻したのは「ラウスブルグ」で共に暮らした同胞たちだったのだよ」
「内紛ってことか!?」
鋭く叫んだ兄貴にセイロンはその目だけで頷いた。
「長きにわたって守り慈しんできた民たちに牙を向けることなど、先代には出来なかった。戦う以前に気持ちを挫かれていたのだ」
「だからって、自分から命を絶つなんて……」
「敵の目的が己の力であると、先代は知っておられたのだよ。ゆえに、それを確実に防ぐ決断をされた。命を絶ち、力の全てを形見の品に封じ込めて、後継者として眠っておられた御子殿とともに逃されたのだ」
あんまりでは、と口を挟んだミント姉ちゃんの問いにもセイロンは淀みなく答えていく。けれど、それなら、余計に気になることがある。
「なら、そこまでして止めようとした、敵の目的ってなんなんだよ?」
「そうですね。そこが一番のポイントのようですけれど……」
真剣な目をした俺とナチねぇが示し合わせたように声を上げれば、セイロンはふ、と息を吐いた。
「それは、我にも分からぬ。ただ、残された最後の一人……先代の側近を務めた御使いの長ならば、あるいは……」
「最後の一人……御使いたちの長……」
「うむ」
噛み締めるように呟いた俺へと、セイロンは力なく眉尻を下げると悲しげな笑みを浮かべた。
「アロエリも、本当は分かっておるのだ。先代が、自分の意志でお主の父親の刃を受け入れたことを。だが、納得するには彼女はあまりに若い。そなたに理不尽な怒りをぶつけねばいられぬほどにな。……すまなかった、そのような言葉で許されるものではないが……」
セイロンの謝罪を前に、俺は、何も答えなかった。謝罪を受け入れても拒絶しても、あの一件を蒸し返すことになる。俺を殺そうとしたこと、ナチねぇを殺しかけたこと。まだ記憶に新しいあの激情は、目蓋どころか脳裏にすら焼き付いてしまったあの光景は、理屈をいくらこねくり回そうが簡単に片づけられるもんじゃない。きっと、俺はアロエリのことをずっと許せないし、許す気にもなれないんだろう。
「まぁ、許すも許さないもこれから次第ってとこですけどね」
「………………は?」
そう思い詰めていた俺の頭上で軽い言葉が響いた。あっけらかんとした調子の声に、場に満ちていた息苦しい沈黙が吹き飛ぶ。息すら忘れて見上げた先には当たり前のようにナチねぇの姿があって、普段と何一つ変わらない横顔があった。唖然、驚愕、興味。それぞれ一瞬前とは様変わりした表情を浮かべた皆の視線が集まっているのに、ナチねぇは焦った様子もなく小首をかしげてみせた。
「ナ、ナチさん……?」
「あ、勿論私としては、の話ですよ。今はまだ、ライ君を殺そうとしたこと、許してません。アロエリさん自身のものですらない言葉一つで許せるほど広い心は持っていませんから」
ぽかんとした顔で呼びかけたルシアンの声は段々尻すぼみになっていく。つらつらと言いのけるナチねぇの表情は至って平生通りだけど、その内容はあんまり穏やかなもんじゃない。本心を隠しもせず述べるナチねぇを止めるべきか、耳を傾けるべきか。兄貴は目を白黒させながら考えているようだけど、ミント姉ちゃんは何かに気づいた様子でナチねぇを見た。ちょうどそのタイミングでナチねぇが笑った。
「でも、それだけで判断するのは早すぎますから」
俺がさっき、ミント姉ちゃんと話した内容だとすぐに分かった。けれど、それを言うのが実際に被害を受けたナチねぇだという点が、俺のときとは決定的に違う。
「これから先、彼女と知り合って私たちを知ってもらってその上で決めますから。許すも許さないも彼女自身を聞いて、知って、それからにしときます。だから気にしないでください?」
なのにナチねぇは言い切って、にやりと口角を上げて笑ってみせる。悪役さながらの笑みだったのに、いやに決まってる。見惚れるほどにカッコいい。
「ナチさぁん……!」
「は、あっはっは……!これはまた、なんともまぁ……!」
感動か安堵か、瞳を潤ませてナチねぇを見つめるミント姉ちゃん。気が抜けちまったのか深々と息を吐く兄貴の近くではポムニットさんがにこにこと笑っている。呵々大笑と目と口元に大きな弧を描いたセイロンも満足そうな笑い声を上げて、俺は?俺もやっぱり、勝手に綻ぶ口元をどうにも出来ないままナチねぇを見上げていた。俺の視線に気づいたナチねぇと、目が合う。
「あ、あのさ、ナチねぇ。ありが」
「た、大変ですわ!?」
けれど、息を切らして駆け込んできたリビエルの言葉に見事、俺の声はかき消される。折角和やかになった空気がまたもや一転する予感しかなかった。
あちこち砂や土埃で汚れたまま、リビエルは息せきって事の仔細をぶちまけた。
「アロエリが!御子様を連れて出て行ってしまったんです!!」
マジかよ!?信じられない思いで目を見開いた俺と同じく、皆のどよめきが部屋のあちこちから上がった。
「わ、私、必死になってとめたんですのよ!?でも、でも……っ!全然、きいて……っくれなくて……っ」
泣きそうな声で必死に言い募るリビエルは、ギリギリのところで堪えているんだろう。はっきり明言こそしていないが、この混乱っぷりを見ればアロエリがどういう態度を突き付けてきたかくらい容易に想像出来ちまう。転んだ程度じゃ付くはずのない土汚れに服の裂け目。リビエルは多分、武力行使も厭わずにアロエリを止めにかかったのだ。止めようと、したのだ。心を鼓舞して、凛々しさを纏って。きっとアロエリなら、同じ御使いならば自分の話を聞いてくれるだろうと信じて。その結果が、これだ。
「っひ……く、うぅっ……ぐすっ」
さっきまでアロエリとリビエルとがいた部屋の窓は大きく開け放たれていた。窓からの風にカーテンが揺れて、壁には飾り気のない矢が一本、真っすぐに突き刺さっている。床には細かな砂と木の葉が数枚散らばっていて、この部屋であっただろう乱闘の激しさを物語っていた。
「アロエリの奴め、軽率な……」
険しい顔つきのセイロンが舌打ちする。
「あれで敵が諦めたとは思えない……すぐに連れ戻さないと危険だわ!?」
ミント姉ちゃんが兄貴たちに切迫した眼差しを投げかける。そんな中、俺が無言の視線を注いでいた先はナチねぇだった。泣きじゃくるリビエルの横をすり抜け、壁に刺さった矢を無造作に引き抜き、じっと沈黙を保っていたその背中がおもむろに翻る。こっちに振り返ったナチねぇは、殆ど無表情に近い顔に笑みを浮かべていた。口元にうっすら浮かべた笑みの他は感情のひとつも窺えない、凪いだ水面のような微笑。他の皆がどうだかは知らないが、俺はこの笑い方を知っていた。これは間違いなく、怒ってる。
「リビエルちゃん。アロエリさんの向かった方向は分かるかな?大体で大丈夫ですから」
「えっ?へっ……?」
「アロエリさんの残した矢には彼女の臭いも魔力の痕跡も残っているから、探知が得意な子に手伝って貰おうと思って。近くまで寄らないと時間のロスになっちゃうからまず大雑把にでも距離を詰めた方がいいかな~って思ったんだけど、どうかなぁ?」
ああ、と俺は手を打った。
「あ、そうか。ワイヴァーンを呼ぶつもりだろ、ナチねぇ」
「ふふ、当たりだよ。ライ君。もう少し時間があればガゼルやポワソでも問題ないんだけど、急がないとダメだし、ね?」
「あなたたち……まさか……」
唖然とした表情のリビエルに、俺は首に手を当てたままゴキゴキと音を鳴らして回しながら返す。
「ったく……とことん手間のかかる奴だぜ。しゃあない!とっとと連れ戻しに行くとすっか!」
「あっはっはっは!単純明快でよきかな!」
「いや、そうでもないぜ?俺はアロエリに言いたいことがいい加減限界突破したからだし、ナチねぇだってそうだもんな」
愉快痛快といった笑い声を上げるセイロンにちくりと嫌味を挟みつつ、俺はナチねぇに目をやった。え、と目をぱちくりさせたリビエルに微笑みを向けたまま、ナチねぇはしっかりと頷き返す。
「ええ、本当に。ちょおっとだけ、頭に来ちゃいましたし。そのためには早く助けに行かないといけませんからね?」
そこからの準備は超特急だった。急ぎましょう、と慌てながらの号令をかけたポムニットさんがくるくる目まぐるしく動き回り、皆の準備を手伝ったり荷物の確認を進めていく。移動手段がワイヴァーンとなれば重量制限もあるわけで、持ち込める武器の数にも限りがある。普段から槍一本の兄貴ならともかく、複数の武器に慣れ親しんでいる俺は必然、取捨選択を迫られる場面と言うわけで。刀と槍……いや、やっぱり槍は置いていった方がいいか?ようやく手に馴染んできた槍と剣とを見比べて、少しでも軽い方がいいだろうと薄手の剣を握り直したところだった。
「あ、あの……」
「なんだ?」
おずおずと躊躇いがちに近づいてきたリビエルが口を開いたことに振り返りもせず返したのは、別に怒っていたからじゃない。兄貴もミント姉ちゃんも、非戦闘員のポムニットさんまで、今は持ち込む品を少しでも減らそうと忙しくしている。なにせワイヴァーンに乗るからには真実、重量オーバーがもっとも恐ろしいのだ。乗り込む順番や召喚する術者をてきぱきと決めているナチねぇとミント姉ちゃんの遣り取りを耳に拾いながら返せば、リビエルはぎゅっと胸元を掴みながら言った。
「腹を立ててたりとか、していませんの?一方的に詰られた挙句に、殺意まで向けられて……」
「そりゃムカついたさ。正直ナチねぇの件は、今だって許しちゃいない」
申し訳なく思ってるのだろうリビエルにこんなあっけらかんと返すのは少し気が引けるが、どうにも時間がない。片手間に答える申し訳なさを覚えつつも、俺は念入りに剣の持ち手を確かめる。
「けどクソ親父の件については別さ。セイロンの話で誤解だってことはちゃんとわかったし。これから先、詰られたり殺されかけたりしねえ限りは怒らねえよ」
「そう、ですの……」
「ああ、けどナチねぇはすげえ怒っちまったみてえだし。ちょっと雷ドッカーンくらいはするかもだけどな」
「え、えぇっ!?」
思いつくまま付け足せば、リビエルは目を白黒させながら引き攣った声を上げた。その新鮮な反応に満足が込み上げたついで勝手に笑いがこぼれてしまい、俺はしっかりと腰に得物を差しながら立ち上がる。よし、緩みもないし重心だって崩れちゃいない。出来る限りの準備をした確信を持って庭先へと向かおうとした俺を止めたのは、再びリビエルの声だった。
「ご、ごめんなさいっ!」
切羽詰まったような声に驚いて振り返った先、深々と頭を下げた姿に思わず面食らう。謝られるようなことは別になかったはずだけど、なんでだ?そう疑問に思ったのを察したのだろう、またもや泣き出しそうな表情をしたリビエルはぎゅっと唇を引き締めた。
「アロエリの話を聞いて、私、少しだけ貴方を疑ったわ……彼女の言うとおり、信用するべきではないのかとも思いました」
「でも……今はもう、そうじゃないんだろ?」
そんな返答は想像もしていなかったのか、リビエルは見るからにたじろいだ。でも、たじろぎながらも首を縦に振るリビエルを前にすれば、俺が返してやれるのなんて満面の笑みだけだ。
「だったら、そんなの気にすんなって!誰だってその時々で色んなことを考える。勘違いや間違いをすることだってあるさ……けどな、最後の最後で納得ができる答えが出せればいいんじゃないのか?途中の経過なんてのはわりと、どーでもいいんだよ」
まぁ、考えるだけならともかく行動に移しちまったからアロエリは問題なんだけどな。そんな内心は黙ったまま笑いかければ、リビエルは呆気にとられたように俺を見る。
「ライ……」
「ほら、急ごうぜ。早いとこ、とっととアロエリを捕まえるんだろ!」
ナチねぇかミント姉ちゃんが呼んだのだろう、ワイヴァーンの羽ばたきで舞い上がった木の葉がこっちにまで吹き込んでくる。もうお喋りしている時間はない。リビエルの手を掴んだ俺は勢いよく玄関から飛び出すと、ワイヴァーンの背中目掛けて地を蹴った。
向かう先は星見の丘から更に東にある、共同墓地だった。
皇帝街道からも外れていて昼夜を問わず人気のない場所だから、わざわざ足を運ぶ奴なんて滅多にいない。俺だって墓地として用事のある時しか来たことがない場所だ。背丈のまばらな草が生い茂る中、古めかしい灰色の墓石が点々と並んでいるせいか、昼間でも薄暗く感じてしまう。凶暴な魔獣や後ろ暗い身の上の奴らが居座ってもおかしくない場所だからこそ、その周囲を囲むように頑強なフェンスが位置していたはずだけど……獣人を相手にしては力不足だったらしい。ワイヴァーンの背中から目を凝らしていたポムニットさんが鋭く叫んだ。
「見つけましたっ!」
真っすぐに視線を定めたポムニットさんの指し示す先には、アロエリとコーラルの姿があった。より正しくはライオンを二足歩行させたような巨大な獣人に威圧されて足を止めちまったアロエリと、逃げろとでも言われたんだろう、嫌々と首を振って傍を離れずにいるコーラルの姿だ。迷いを振り切るように目つきを鋭いものへと変えたアロエリは巨大な獣人相手に一歩も退かずに立ち回っているが、そもそもが段違いの強さだ。折れ曲がったフェンスのあたりには配下だろう魔獣が隙間なく張っていて僅かな逃げ道さえ塞がれちまっている。
「獣皇だと!?よりによってこのような時に……」
眼光鋭く地上を睨みつけたセイロンが苦々しげに吐き捨てるが、事態は待ってくれたりしない。こうしている間にもアロエリは一撃、また一撃と鋭い爪を食らっていく。
「あのままじゃ二人ともすぐにやられちゃうよ!?」
「クソッ、どうすりゃいいんだっ……!?」
すぐさま助けに入ればいい、と分かっていてもまだワイヴァーンの背中に乗ったままの俺たちには何も出来ない。飛び降りるには高度がありすぎる。無理して俺だけ飛び降りたとしても、奴らに隙のひとつもないままじゃ待ち構えられてそれまでだ。一瞬でいい、奴らの気が逸れるだけの何かが必要だった。奴らが想像もしていないような、この局面をひっくり返すのに足りるだけの、何かが。
「……コーラル!いいか、よく聞け!お前がアロエリを守ってやるんだ!!」
だから、俺は思いつくまま声を張り上げた。緑の光彩を纏ったコーラルを見下ろし、腹の底から声を張ってコーラルへとぶつけてやる。別のワイヴァーンに乗り込んでいたミント姉ちゃんとリビエルが短く息を呑むのが分かった。ポムニットさんの隣で身を乗り出しているリシェルはそれだけに収まらず、片手を振り上げ抗議の声をぶつけてきた。
「なに、むちゃくちゃなこと言ってんのよっ!?」
「無茶じゃねぇっ!!」
間髪入れずに怒鳴り返しながら俺はまた下を向く。驚いたような目をして俺を見上げるコーラルに向かって、思いっきり、叫んだ!
「今のお前はもう守られるだけの存在じゃないはずだ!お前のために戦ってるそいつの想いに答えてやりたいなら……ありったけの力をふりしぼれっ!!」
俺の叫びとどちらが早いか、コーラルの目の前で獣皇の一撃がアロエリに入った。
「逃げ、て……御子、さま……」
ずるずると墓石にもたれかかるように沈んでいくアロエリの言葉が、俺の耳にも届いた。その息の根を止めようと鼻息荒く獣皇が一歩踏み出そうとした、そこに。
「ギィァッ?!」
流星のようにコーラルが獣皇の腹へとぶち当たった。驚愕と苦痛に濁った叫び声が上がるが、コーラルも鈴のような声で叫びを、いや、雄叫びを上げる。小さな身体に纏う光はいよいよ強く、激しいものへと変わっていく。驚愕、動揺、混乱、そして畏怖。光のない獣皇の目によぎる感情が目まぐるしく入れ変わり、その巨体がじり、と僅かに浮かんだように見えた。
「ギイィオオォォッ……、ギュアアアアアッッ!!」
次の瞬間、凄まじい勢いで獣皇の身体が弾け飛んだ。数メートル向こうの墓石をなぎ倒す勢いでぶち当たると、背後の魔獣を巻き込みながら派手な土埃を上げる。いつの間にか人型に戻っていたコーラルは肩で息をしながら呆然とその光景を見つめていた。たったいま獣皇を弾き飛ばした自身の力が信じられないとばかり、忙しなげに肩を上下させながら震える手のひらへと視線を落とす。小さな頭がぐらぐら揺れて見るからにきつそうだけど、それは全部コーラルが頑張ったから。頑張って、アロエリを守り切ったからだ。
「まも、るんだ……絶対に、もう……」
眼光鋭く、前を睨む。
「僕のためにもう誰も傷つけさせない!」
震える手のひらを拳の形に握り込んで言い切ったコーラルの近く、急降下したワイヴァーンから飛び降りながら俺は顔が笑ってしまうのを感じていた。よくやったな、コーラル。息子の成長を噛み締めるような、何とも言えない感慨深さを胸に着地の衝撃を受け流すと、立ち上がりざまに抜き放った刀で迫りつつあった魔獣の脚を切りつける。獣皇のもとへと駈け出そうとしていた一匹を沈めながら地面を蹴った俺の背後、次々に着地を決めていく皆の声をかすかに拾う。
「彼の言葉が御子様の力を引き出したの?」
「いや、それだけでは説明がつかぬ……」
何だか難しい声色で呟いているリビエルとセイロンの様子が気になるが、今はそんなことに構っていられる場合じゃない!
「よし!今のうちにこっちに来るんだ!あとはオレたちにまかせとけ!」
段差の向こうにいるコーラルに向けて声を張り上げながら、俺はにっと口角を引き上げた。
共同墓地は段々になっていて、下段、中段、上段といった具合に区画が分けられている。そして俺たちが今いるのが最下段。救出対象のコーラルたちは中段にいて、デカブツの獣皇は最上段まで逃げ込んだらしい。配下の魔獣を従えて見事に陣取っている。そこだけに集中しているならまだしも、魔獣やら獣人やらは全段にくまなく散りばめられているんだから、かなり厳しい状況だ。
「おいおい、ただでさえ力の強い獣人や魔獣ばかりだっつーのに、その上統率まで取れてるときちゃあ……!?」
「ああ。けど、だからこそ付け入る隙はある。よく言うだろ?頭さえ潰しちまえば……」
「!そっか、別に勝つ必要はないんだもんね!」
動揺する兄貴に俺が返せば、ルシアンがあっと声を上げた。そう、その通り。俺たちはアロエリとコーラルを救出して、ついでにあいつらを撤退させればいいわけだ。相手を全員ぶちのめす必要も、まともにぶつかりあってやる義理もねえ。
「リシェル、ミント姉ちゃん!ナチねぇもセイロンも!一番威力の強い召喚術を選んでくれ!」
「うっさい!そんなでかい声で呼ばなくたって聞こえるわよ!でもなんか思いついたみたいね!」
名付けて、親玉一本釣り作戦。コーラルたちと合流さえ出来ればこっちのもんだ。中段にばらついた奴らをナチねぇのシズクやプニム、ミント姉ちゃんのオヤカタと一緒になって片付けながらも、俺と兄貴は獣皇が降りてくるだろう真ん中の墓石前に陣取って得物を振るう。他の奴らと段違いに強いだけあって獣皇の移動範囲は尋常じゃなくずば抜けている。コーラルの体当たりで上段まで吹き飛んだといってもアイツなら自力で段差を降りてくるはずだと睨んだ俺の読みどおり、セイロンやルシアンが応援にやって来たところで重量感のある振動が響いた。獣皇が、最上段から飛び降りたのだ!
「来るぞ!散れ!!」
セイロンの声で左右に飛び退った兄貴と俺の前、視界ごと焼きつくすような爆発と閃光が一気に弾けた。大振りに腕を振り上げた獣皇が踏み出そうとした、まさにその瞬間のことだった。号令役を務めながらも赤々と燃えるサモナイト石に魔力を込めていたセイロン、そして少し離れた位置から戦況を注視していたナチねぇにミント姉ちゃん、そこにリビエルやリシェルまで一緒になって最大火力の召喚術を落っことしたんだと理解できたのは湯気のような蒸気が立ち上ってからだ。耳をつんざく轟音と足元を揺るがす地響きに転がるように距離を取った俺とルシアンは、剣を頼りによろよろと身を起こす。
「うわぁ……」
「みんな、一斉に召喚術落っことしたんだぁ……」
目玉がこぼれちまいそうなくらい見開いて墓石にもたれかかっている兄貴を笑えない。墓石の合間に挟まる形で飛び降りた獣皇を狙ったはずだったのに、召喚術の余波を食らってか、両隣に並ぶ墓石ごと割れちまってる……マジでなんつー威力だ。
「あ、あはは?タイミング合わせた方が威力が上がると思ったんだけど、ちょっと強すぎたかなー……?」
リシェルも乾いた笑いをこぼすほどの有様に、ナチねぇがおっとりと呟いた。
「大丈夫ですよ。だって壊しちゃったの、墓石じゃなくてモニュメントですから」
「そういう問題じゃないと思いますぅ……」
ポムニットさんの声も空しく、獣皇の一本釣りは見事に成功したのだった。
「……ったく、手こずらせやがって」
完全にのびちまった獣皇を足でつつきながら吐き捨てる。思ったとおり、獣皇を置き去りに獣人の群れは散り散りに逃げ去ってしまった。薄情なと憤るべきか呆れるべきか、けれどこれでようやく落ち着いて話が出来るってもんだ。一仕事終えた感すら漂っている皆の様子を眺めつつコーラルを探していた俺は、やっと見つけた黄色い頭をわしゃわしゃと乱暴に撫でながら笑いかけた。
「よくがんばったな、コーラル?」
「がんばれって……言われたから……ただ、それだけ……」
見慣れた無表情、淡白な言葉。けれどその中でも変わっていってるもんは確かにある。胸の前で拳を握りしめたコーラルはその何かを掴んでいる気がして、自然と俺の目元は緩んだ。
「そっか……けどな、ここまで頑張ってくれるとは思わなかったぜ。ありがとな?」
小さく首を縦に振ってみせるコーラルの口元も柔らかい笑みに綻んでいる。この様子なら、こいつはもう大丈夫だな?
コーラルに合わせて中腰になっていた背中をぐっと伸ばした俺は、いつの間にか静まり返っていた空気の中心部へと視線を投げかけた。軽い破裂音のような響きは拾っていたけれど、どうやら既に本題へと切り込んでいたらしい。混乱の面持ちで頬を押さえたまま蹲っているアロエリと、それを見下ろす瞳に冷たい怒りと困惑とを宿しながら立ち尽くしているセイロン。そしてゴミでも払うかのように右手首を軽く振っているナチねぇ。
「あ、ライ君」
まるで気負った様子もなく笑いかけてくるナチねぇはとても騒動の渦中にいるようには見えなくて、俺は苦笑交じりに肩を竦めた。ナチねぇは自然体でも、皆の表情や周囲の様子を見れば何があったかなんて聞くまでもない。大方アロエリが癇癪を起して喚き散らしたんだろう。心配してくれなんて誰も頼んじゃいない、ニンゲンなんかに助けられたくなかったとか、そんなところか?ただ、それだけじゃセイロンがああも踏み込んでまで拳を繰り出そうとする姿勢になっている理由には足りなそうだし……死んだ方がマシだった、とかもかな。
「説明、いる?ポムニットさんがアロエリさんの怪我を見ようとしたら、その手を叩き落としたアロエリさんが罵詈雑言をちょこっと。それでつい、平手をかましちゃったの」
軽い調子で言っているが、セイロンがその剛腕を繰り出す前に割り込んでいったのだろうことは立ち位置からも明白だ。さっきまで惜しげもなく敵に向かって振るわれていたセイロンの拳は正確無比に急所を打ち抜いていた。いくら手加減したところであれを頬に受けていたら、今頃アロエリは地べたに勢いよく叩きつけられていただろう。結果として、いや、絶対わざとその邪魔をしたんだろうナチねぇは、にこにこと穏やかな笑みを湛えている。ああ、これは。そう勘付いちまったらもう、俺はゆるりと両手を上げていた。
「いいさ、気にせず好きにやってくれ」
降参のポーズを取った俺にナチねぇはちょっと嬉しそうに目尻を下げると、優しい顔でアロエリへと向き直った。
「ねぇ、アロエリさん?御使いの誇りがどれだけの物かは知りませんが、自棄になってコーラルちゃんを巻き込むくらいなら勝手に死んでください」
穏やかな声だった。浮かぶ表情は春の陽だまりのように優しくて、困ったように小首をかしげての眼差しも慈愛に満ちている。だから余計に衝撃だったんだろう、アロエリの喉がひゅっと引き攣った。唖然と見開かれていた瞳が震えた。リシェルや兄貴が驚愕の声を上げることもなく、リビエルやルシアンが混乱の悲鳴をこぼすこともない。あれだけの怒気を立ち上らせていたセイロンでさえ、ナチねぇの発言に驚いたように目を見張っているのが見えた。
「コーラルちゃんを危険に晒した自覚はありますか?この状況を招いたのが誰だか、ちゃんと理解出来ていますか?私たちが間に合わなかったらコーラルちゃんはどうなっていたか、少しは考えてみましたか?その上で私たちを非難するしか出来ないのなら、あなたはもう、セイロンさんやリビエルちゃんと同じ御使いじゃありません。自暴自棄に振舞って守るべき相手を危険にさらして、その責任すらも他者になすりつける……そんな愚物に身を落とすことを、あなたは良しとするんですか?」
「……っそんなの、いいわけが、ないだろう……!」
心を抉るような厳しい言葉を柔らかい語調で淡々と突き付けていくナチねぇの前、無言で座り込んでいたアロエリが思わずというように吐き出した。食いしばった唇の隙間から嗚咽がこぼれるのと見開かれたままの瞳から涙が落ちるのと、どちらが先だったかは分からない。ナチねぇの言葉に同意するかのように厳しい面差しでアロエリを見下ろしていたセイロンの眉がぴくりと跳ね上がるのが見えた。
「守れなかった……御使いなのに、オレは守れなかった。守護竜様も、里も、何一つ守ることが出来ずに……っ」
「だが、我らは生きている。生きて、御子様を守るべくここにいる。ならば何をすべきかなど、お主にもわかっているのではないか?」
「貴方だけじゃないわ。アロエリ……私だって悔しいです。情けなくてたまらない。でも、だからこそ私たちは命を粗末にしてはいけないの。先代様のご遺志を無駄にしないためにも」
地べたに膝をつき、アロエリの肩に触れたリビエルの声は毅然としていた。未来を見据えた迷いのない瞳にはアロエリも感じるものがあったのだろう。涙に濡れた頬も気にせず瞬くアロエリへと、厳しい声を投げかけたセイロンもかすかに微笑んだ。これで溜飲が下がったとばかりに肩を下げたナチねぇが悪戯っぽい目配せを寄越してくる。それに緩んだ苦笑を投げ返しながら、俺も軽く肩を竦めてみせる。
「リビエル……セイロン……」
涙を拭うことも忘れてリビエルとセイロンを見上げているアロエリはさっきまでとは違う顔つきに見えた。ポムニットさんに肩を支えられてそれを見つめるコーラルの表情もどこか和らいで見える。色々あったけど、これで何とかなった、か?
張りつめていた緊張がようやく溶けきったのだろう、詰めていた息を吐き出す音や武具を構え直す音やらで急に騒がしくなってくる。俺も肩の力を抜いて苦笑をもらそうとした先だった。さっきまで無かったはずの奇妙な音が、どこからか響いた。
「なんなんだ……この不気味な音は?」
どくん、どくん、と、次第に激しさを増していく音はいよいよ大きくなっていく。全員が気づいても止まらないその音には背筋がぞわつくような不穏さしか感じない。音の出処を探って耳を澄ませていたコーラルが目つきを鋭いものへと変えた。
「獣皇……まだ、生きてる!!」
コーラルの声に応えるように、瓦礫に埋もれていた巨体がかすかに跳ねた。まさか、息を吹き返した!?苦しげな呼吸を繰り返していた獣皇が頭をぶるりと振るって身を起こす。細かな砂や草きれが払い落とされ、ゆっくりと起き上がった獣皇の鼻先がぴくぴくと動いた。割れたモニュメントの向こう側で、暗い眼窩に黄色い光が灯る!
「グルルル…‥‥ギャルォォオオオオオ!!!!」
「バカな……まだ立てるなんて?!」
戸惑う間もなく跳ね起きて、突っ込んでくる獣皇に咄嗟に剣を引き抜き、俺は正眼に構えた。傍らにはコーラルとポムニットさん、背中にはナチねぇたち。こんなの、避けられるわけがない!
「くっ、下がれ!みんな!」
爪が間近に迫り、俺が重心を低く落とした。その時だった。
「っこれは……笛の、音色?」
どこか懐かしい響きの音色が、風もないのに緩やかに流れてくる。耳よりも頭の中に直接響くような優しい音色に驚くも、それよりも目を疑ってしまうような光景が目の前にあった。獣皇の目に宿っていた禍々しい光が、あれほど撒き散らされていた濃い狂気が、抜け落ちるように消えていく。
「グル、ルゥ……ッ」
おもむろに踵を返した獣皇が森の中へと向かって消えていく。その様子を、俺たちはただ呆然と見送った。静かな足取りで去っていくその背中が見えなくなってどれだけ経ったのか、ポムニットさんが呟いた。
「……なんか、帰っちゃったみたいですね……?」
「た、助かったぁ……」
どっと気が抜けたように座り込む兄貴の傍では気を取り直したリシェルがやにわに食って掛かっている。
「助かった、じゃないわよ!あのままほっといてもいいワケ!?ケガが治ったらまた襲ってくるわよ!?」
「その時はその時でまたぶちのめしてやればそれでいいって。今日のところはおしまいにしようぜ、くたびれちまったよ」
「もぉっ!」
混乱抜けきらないまま噛みつくリシェルは元気があっていいが、兄貴も相当お疲れだからな。助け舟を入れれば、さんきゅな、と兄貴が片手で拝んでくるのを軽く手を振って流してやる。実際、さっきのアレも半分以上本音だしな。あのまま第二ラウンドはどう考えたってキツイところがあるし、今日はさっさと帰って休むべきだろう。怒ったことで調子を取り戻したのか、ぷりぷりしながら墓地の下段へと勢いよく降りていくリシェルに苦笑しつつ、俺は振り返って手を差し出した。
「さあ、帰ろうぜ?」
コーラルは無言のまま、けれどしっかりと俺の手を掴んで頷いた。琥珀色の目が俺を見上げて少し笑った気がしたのは、ひょっとすると気のせいじゃなかったのかもしれない。
「ひゃああっ!?お嬢様お坊ちゃま!?もう夕方、旦那様とのお食事の時間ですよぉっ!?」
「げっやばっ!?これだけは出ないと口うるさいのに!!じゃ私たち帰るからっ!またねっ!」
まさかこんな大変なお出かけになるとは思わなかったからなぁ。行きはワイヴァーンだったからともかく、帰りは普通に徒歩だったので町に着く頃にはすっかり夕暮れ時を迎えていた。お日様はその殆どが山裾に沈み始めているし、町中の街灯もぽつぽつ橙色を灯し始めている。尾を引く真っ赤な夕焼けが溜め池までの道を照らす中、舌を巻くほどの駆け足で上っていくリシェルとポムニットさん、そしてルシアンの姿はすぐに見えなくなってしまった。皆が皆くたくたに疲れ切っていて歩調が緩やかだったこともあり、ポムニットさんと二人、さっきまで一番後ろで雑談交じりに歩いていたのが嘘のようだ。
「アロエリさんの気持ち、私、少し分かります。自分のせいで大切な誰かを不幸にしてしまったら……悔やんでも悔やみきれませんし、死にたいと思いますもの」
「だからって、死んだらそこで終わりだって。ただのカッコ悪くて無責任な逃げ方だよ」
自暴自棄になっていたアロエリのこと、本気で怒っていたナチねぇのこと、どこか静かな声色で語っていたポムニットさんの横顔はひどく真剣なものだった。だから余計に、ああも見事にメイドのポムニットさんへとスイッチを切り替える様子には素直に感服してしまう。あれがポムニットさんのメイド魂ってやつなんだろうな。何をさておきリシェルのメイドを務めるポムニットさんをしみじみと眺めてしまったのも束の間、夕方の巡回やら蒼の派閥への書類だとかで兄貴もミント姉ちゃんも慌ただしく解散し、そして今、宿屋に帰ってきた俺も大急ぎで夕飯作りに勤しんでいた。
「ライ君、お風呂掃除と部屋の見回りは終わったよ」
「おう!もうじき夕飯もできるからさ、それまで休んでてくれよ?」
腕の怪我なんてすっかり忘れた様子で、機嫌よさそうなナチねぇは椅子を引くとカウンター席に腰かけた。その膝にすかさず飛び乗ろうとするプニムだが、隣の椅子で伸びていたシズクのゼリー状の触手に器用に弾き飛ばされる。ナチねぇに可愛がられているブルーゼリーのシズクと元はぐれのプニムの喧嘩は珍しいことじゃあないが、ちっとは大人になれないのかね?そんなことを呆れ交じりに思いつつ、俺は熱した鉄鍋へと細切れにした赤身肉を滑らせた。そうしないと嬉しそうに微笑んでいるナチねぇの瞳にあえなく捕まってしまうと知っていたからだ。まったく、そんなとこ座ったって見えるのは俺くらいなのにさ……
「あー、セイロンはアロエリと部屋にいるんだよな?リビエルとコーラルだけでシーツとか準備出来そうだったか?」
「うん、そこは心配なさそう。コーラルちゃん、竜の姿だったときにいっぱい宿屋を探検してて、それで覚えたみたい。リビエルちゃんは勉強やさんだし」
微笑ましそうに目元を綻ばせるナチねぇは見るからにコーラルのことを可愛がっていて、それが俺としては嬉しいような寂しいような複雑な気分になる。まさかヤキモチ焼いてるわけじゃないと思いたいが……アロエリに対してあれだけ怒りを露わにしたナチねぇを見た後だからかな。ふむ、と内心首をひねりつつ俺は辛みのする香辛料の瓶を手に取った。
「だけど、ちょっと意外だったな。アロエリの奴にあんだけ怒ってたから、もっと引きずるもんかと思ったけど……」
「あはは、ミントさんやグラッドさんまで驚かせちゃったもんねぇ」
反省してます、と小さく首を竦めるナチねぇだがその顔は笑っている。大して気にしてないのがバレバレだ。いつもの優しい顔でいつもと違う物騒な言葉を口にしたことに少なくとも皆驚いたり戸惑ったりしてたようだけど、ナチねぇ自身はちっとも気にしてなかったらしい。ポムニットさんはどうしてか満足そうな顔をしてた気がするけれど。……あっ、俺のことをからかってたときと同じ顔だ!?
「でもね、後悔はしてないよ。ライ君もコーラルちゃんもとっても大事な子なんだって、アロエリさんにもあれで分かってもらえたと思うし」
今頃になって思い至ってしまった俺が無言で百面相をしていると、ナチねぇは遠くを見るような目をして囁いた。ピンときて顔を上げれば、叱られる子供のように眉尻を下げた苦笑のナチねぇと目が合う。まったく、何を考えているのかと思えば……憎まれ役を買って出たのだとようやく白状したナチねぇに、俺はゆるりと眉尻を下げて大きな溜め息を吐いた。
「お株を奪われてしまったなってセイロン、言ってたぜ?この宿屋は世話焼き揃いであるようだ、なんて俺まで笑われちまったよ」
「うう、ごめんなさい。でも本気で腹を立てたのも本当だから!許す許さないはこれからゆっくり時間をかけて考えていくつもりだし!」
あの言葉を翻す気はないのだと慌てながらも主張してくるナチねぇに堪えきれず笑ってしまう。アロエリのことを知って、知られて、それから判断するのだと繰り返すナチねぇは、はたして気が長いのか執念深いのか。そんな珍しい考え方にすっかり感化されちまってる自覚も置き去りに、俺はくつくつ肩を揺らしながら出来上がった料理を大皿へと滑らせた。
「でも、ライ君こそ本当に全然引きずってないよね?アロエリさんのこと」
オーブンで温め直したパンの様子を見に向かえば、不思議そうな声で尋ねられた。仕返しというわけではなく単純に疑問なのだろう。ナチねぇの視線を背中に感じながら俺はちょっと考え込んだ。そう見えるのは意外だったけれど、図星だ。我を失うほど怒り狂った手前、自分で言うのには少しばかり抵抗があるけれど、ナチねぇのことさえ除けば本当に俺は全然、引きずっちゃあいないのだ。
「まぁ……理不尽な境遇ってのは散々味わってきたからさ。それでいて何にもできないもどかしさとか、よく分かるし……」
現実を覆せない自分の非力さが悔しくて、当たり散らすことでしかまぎらわせない。そんな期間が長かったからよく分かる。今だってそうだ。大人になったつもりでいっちょ前の口を聞いてても、やっぱりまだまだガキでしかない俺に変えられるものは少ない。大事なひとに庇われてしまったことも、大事なひとに言葉にして支えられてしまうことも。こうやって子供であるうちは、与えられるまま、受け止めていくしかないんだろうか。
「?なぁに、ライ君?」
視線を投げやったそれだけでいつだって笑い返してくれる、俺の大事なひと。ナチねぇ。一体いつになったら俺はこのひとを守れるようになるんだろう?
「何でもないよ」
軽く笑って返しながら、熱くなったオーブンの蓋に手を掛ける。どこかで燻ぶった熱には見ない振りをして、俺は掴んだ持ち手をゆっくりと引き上げた。
自分のことはさておき他人のことでは本気で怒ってしまう、そういった善性はいいですね。