そもそもの話、漢方だとか薬膳料理ってのは何なのか?
ナチねぇが書いてくれた食材メモを眺めながら今更の疑問に首を傾げれば、確かに説明していなかった、と軽い苦笑に眉尻を下げてセイロンが説明してくれた。
「簡単に言ってしまえば、薬のような効果がある膳、という意味だよ」
グルメ爺さんも言っていたとおり、健全な食事は健全な肉体を育んでくれるという考えから来たものらしい。季節や体調にあった食材を食べることには薬のような効果があって、俺たちの身体を健康に保ってくれるんだとか。特別な食材をわざわざ用意する必要はなくて、その時期に採れる物、旬の食材を料理に組み込むことが大事なんだとか。それから漢方って言うのはシルターンに広く浸透している医術みたいなもんで、その薬の原料になる生薬ってもんを料理に組み合わせて作ることも珍しくないんだとか。初めて聞く話ばかりで圧倒されながらメモを取っていれば、そう構えなくっても大丈夫だよ、セイロンの話に相槌を打っていたナチねぇがくすぐるような笑みを浮かべた。
「生薬って言っても苦いお薬とは違ってね、ライ君が普段使ってるような食材にも混ざってるものだから。スパイスならスターアニス、果物ならウルフベリー……ああ、シルターン風に言うなら確か、八角とクコの実でしたっけ?」
「うむ、世界を跨げば呼び名も変わるのが自然の道理。シルターンでヒメミズハと呼ばれる魚がこちらではキュリアンの名で通っているように、その本質に変わりがないのなら何も問題あるまいよ」
細かく確認を入れなくても二人の間ではしっかり話が通じていたのに、途中途中、話を切っては懇切丁寧に噛み砕いて説明してくれたのは俺のためだ。何から何まで教えてもらってばかりの自分を少しも情けなく思わなかったと言えば嘘になるけれど、せめて二人からの気遣いを一片も無駄にすることのないよう、使えそうな知識を片っ端からメモに書き留めながら頭に叩き込んでいく。
ウルフベリーなら毎年シリカの森に採りに行ってる果物で、乾燥させて常備しているドライフルーツのひとつだ。水辺近くの日当たりのいい土手に山ほど生ってて、葉っぱの脇に棘があるからよく痛い思いをしたのを覚えている。熟した実は綺麗な朱色で、寒くなっても中々枝から落ちずに残っているから、冬場に行く時の目印として何個かは残すようにしてたっけ。スターアニスは少し甘みのある刺激的な香りのスパイスで、普段から肉料理の臭み消しだとかに重宝しているやつだ。八つの角がある星みたいな可愛い見た目もあって、デザートの香りづけに丸ごと入れるのを試したこともあったっけな。
薬草としてミント姉ちゃんにお裾分けしたやつだとか、店では滅多に見かけないから自分で取りに行っていたやつだとか、思いのほか俺の知っている食材も多く出てきたことに感動すら覚えながら鉛筆を走らせた。サンザシだとかマツの実だとかの知らない食材も確かにあったけど、薬になる食べ物がこれまでもずっと身近にあった事実が励ましになったのもあって、初めて知ることばかりだってのに少しも苦にはならなかった。むしろ、面白くてたまらなかったくらいだ。
「うん……集める必要のある食材は、ざっとこんなもんかな?」
一通り理解したところで改めて食材メモを見ながら相談した俺に、セイロンもナチねぇも楽しそうに意見を返してくれた。魚を丸ごと使った調理法なら蒸したり揚げたりがいいだろうけど、キュリアンって魚がどれだけ入荷されてるかも分からない以上、出来たら似たもので試作品を作ってから挑んだ方がいい気がする。それに、後味をさっぱりさせたり風味を変えたりするのに使える果実も準備しておくのに越したことはないだろう。そのためには水車小屋やシリカの森にも足を運んでおきたいけど、と言葉にするうちにひどく他人任せな解決策を思いついてしまって声が小さくなっていく俺を見下ろし、堪えきれないとばかり声を上げて笑ったセイロンの言葉は力強かった。
「当然、我らも手助けするに決まっている!リビエルもアロエリも、店主に力を貸すことに異存などなかろう」
「そうだよ、ライ君?アルバ君のためのお料理作りなんだし、誰かを仲間外れになんかしたら逆に怒られちゃうかもしれないよ?」
アルバのための特別料理を作るんだって皆に相談したくせ、いつの間にか俺はまた、一人で頑張ろうとしちまっていたらしい。
「とびっきりのお料理を作ってあげられるように、皆で力を合わせて頑張ろうね」
柔らかく目を細めて笑いかけてきたナチねぇと、穏やかな微笑みを口元に浮かべたセイロンの言うとおりだった。アルバのための特別料理、そのために必要になる食材を集めて欲しいのだと朝食の席で改めて頭を下げた俺に、リビエルもアロエリも、リシェルやルシアン、ミント姉ちゃんたちの誰ひとりもイヤな顔をすることなく、それどころか張り切った笑みを浮かべて頷いてくれたのだ。
必要な食材のうち、ウルフベリーやスターアニスは既に十分な量がある。試作用の白身魚や水車小屋近くに生っている酸っぱい実はリビエルとルシアンが、シリカの森にしか実らない甘い実や固い実はアロエリが見繕いに行ってくれることになり、必要な野菜はいつものようにミント姉ちゃんが出してくれることになった。ミソは前に買ったのが、キノコもまだちょっと余裕があるけれど、兄貴やポムニットさんも巡回やお使いついでに見かけたら教えてくれるらしい。リシェルやコーラルももちろん手伝いを買って出てくれたけど、何から何まで皆に頼りっぱなしで無意識に頭が下がりそうになる俺の背中を叩きながらの一言が一番効いた。
「こらっ、もっと嬉しそうな顔しなさいよ?滅多にないあんたからの頼みにみーんな、張り切っちゃってるんだから!」
当然あたしもねっ、とウインクを決めたリシェルの勢いに釣られるまま笑いをこぼしちまったけど、そのおかげで一気に気持ちを切り替えることが出来た。そうだ、皆がこんなにも協力してくれてるんだ。俺も宣言どおりにとびっきりの薬膳料理を作って、アルバのことを元気にしてやらなきゃな!
そう思えばいつもの稽古にも自然気合いが入って、木の枝に吊るした棒きれを連続で叩いたついでにカカシの頭を吹っ飛ばしながら着地を決めた俺は、くるくる回転しながら落ちてきた頭を片手で受け止めつつ景気よく啖呵を切った。
「よーし、我ながら会心の出来だぜ!悪党どもめ、いつでも掛かってきやがれっ!」
「なんで訓練……今することなの、それ?」
体さばきも技のキレもここ暫くで最高、完璧な身のこなしに堂々胸を張って笑みをこぼした俺にガゼルが呆れたような生欠伸をこぼす傍ら、その脇腹を撫でながらコーラルも似たような顔をしている。一見いつもの無表情にも見えるけど、せっかく昼時の食堂という戦場を乗り切ったのにどうしてさっさとキュリアンを買いに行かないのか、と不満を隠しきれていない仏頂面だ。午前のうちにアロエリやリビエルがしっかり目当ての食材を集めてきてくれたのもあって、一緒に買い物に出かける予定だったコーラルは気が急いて仕方ないらしい。だけど、そうは言っても準備運動ってのはどんな時でも大事だからな。最近は前よりも野盗やはぐれが出るようになった気がするし、人攫いみたいな物騒な噂も聞こえてくる。いつでも万全に動けるようにしておいて損はないはずだ、と久々に嵌めた籠手を外しながら俺はコーラルへと返した。
「お前も竜の姿の時ならともかく、その姿でもある程度は戦えた方がいいかもな?武具の扱いなら俺もこのくらいは出来るし、空いた時間にでも稽古をつけてやろうか?」
「……いいの?なら、よろしくお願いします」
セイロンがいるから、と断られるのも想像しながら話を振っただけに、目を丸くしたコーラルがすぐさま真剣な顔をして頭を下げてきたことに思わず面食らう。深々と頭を下げたままのコーラルになんて言葉を返すべきなのか。迷いながら丸みを帯びた黄色い頭を見つめるうちに照れやら嬉しさやらがじわじわ込み上げてきて……結局、俺は取って付けたように話を変えた。
「あ、あー……それとな?今回は必要ないと思うけど、ここに釣り竿を置いててさ……」
裏庭から水道橋公園側の木立に入ってすぐ、茂みをごそごそ探っていた手を止めて掴んだそれを引っ張り出す。こないだ隠しておいた、クソ親父の釣り竿だ。もし商店街に良さそうな魚が入っていなければ湖の方まで足を延ばすのも選択肢に入れてるけど、ルトマ湖で取れた魚は毎日入って来ているし、そんなことはまずないだろう。ま、念には念を入れてってやつだ。
「ここらでも魚は釣れるからさ。やり方を覚えたらお前も自由に使っていいからな?」
ただし、水辺に行く時は誰か大人と一緒だぞ、と言い含めながら釣り竿を軽く振ってみせた俺に、コーラルは目を輝かせながら大きく首を縦に振った。そういった顔をすると途端に無邪気な子供に見えるんだから、不思議なもんだよな。よっぽど釣りが楽しみになったのか、商店街へと向かう足取りもスキップでもしてるみたいなコーラルを眺めて頬を緩ませていた俺だったけど、駐在所の前まで差し掛かったところで足を止めた。入ってすぐの机のところに立っているのは兄貴とミント姉ちゃんだ。
「ですから、無秩序でありながら頻発しているという時点で、ただの逃亡とみなすには無理があると思うのですよ」
「うーむ……」
「あれ、どうしてミント姉ちゃんがここにいるんだ?」
真剣な顔をして話し込んでいる二人の様子が気になって覗いてみれば、おう、ライ、と難しい顔で唸っていた兄貴がぱっと表情を明るくさせた。
「丁度いいところに来たな。実はお前に知らせときたいことがあってな。ほれ、町外れにでっかい果樹園があるよな?」
「ああ、帝都から来たやり手の商人が経営してるんだろ?召喚獣を有効利用して効率を上げているとかなんとか……」
農場とか果樹園とか呼び方はまちまちだけど、トレイユの町から水車小屋の辺りに広がっているだだっ広い農場のことだ。主にメイトルパの亜人を労働力にしているそうだけど、その扱いはあまりいいものじゃないらしい。そうじゃなきゃ、ナチねぇがわざわざ首を突っ込んだりしなかったはずだから。
ガゼルの散歩だと言ってちょくちょく水車小屋の方まで足を運んでいるナチねぇだけど、本当はそこで働かされている召喚獣の待遇改善だとか環境向上のために農場主を訪ねてるってことは薄々気づいていた。さすがに表立って召喚獣の味方は出来ないから、農場主が納得するような言い方……まったく休みなしに働かせていれば頑丈な亜人だって弱ったり病気になってしまうから、適度な休息や栄養価の高い食事を与えた方が長持ちするし経済的ですよ、みたいな提案の仕方をしてるようだけど、そんなことしたって召喚獣の側にナチねぇの真意は伝わないだろうに。ちゃんと効果は出てるみたいで農場主からの信頼はそこそこ高いみたいだけど、ナチねぇにとってそんなのが見返りになるはずがない。ミント姉ちゃんもそれは知ってるだろうけど、今はそっちの話じゃなかったらしい。
「その果樹園からの被害届け出で分かったんだけどね、最近、立て続けに召喚獣が失踪しているらしいのよ」
失踪、とは何とも穏やかじゃない言葉だ。コーラルと揃って声を失った俺に軽く頷いて、兄貴は話を続けた。
「最初はただ逃げ出したのかとも思ったんだが、ミントさんの話だとどうも不自然な点が多くてな……」
「確かに、あそこは働いてる亜人たちにしてみたらあまりいい環境とは言えないんだけど、だからって家族を置き去りにしたまま逃げ出すとは思えないの。亜人たちにとっては血の繋がりは大切なものだし……」
「そういや、アロエリも兄さんのことをやたら気にしてたしなぁ」
血の繋がり、か……しかし、そういった意味じゃ確かに不自然だ。何か思い付いたようにコーラルが小さく息をこぼすも、重々しくミント姉ちゃんに頷き返していた兄貴が話を締め括る。
「ともかく事件性が高いことはよく分かりました。帝国の認可を得ている金の派閥以外での召喚獣の違法取引は、重大な犯罪行為ですからね。テイラー氏やナチさんにも相談して詳しく調査をしてみましょう……まあ、そんなわけでお前んちの連中にも注意するようによく言い聞かせておいてくれよ」
「うん。分かったよ」
真っすぐ兄貴の目を見て頷き返した俺はコーラルの手を引いて駐在所を後にする。そうして商店街への道を歩き始めれば、コーラルが息を吐くように声をこぼすのが聞こえた。
「……もしかして、ナチ、たまに出かけてたのって」
俺に尋ねたわけじゃないんだろう、コーラルの声に疑問の色はなかった。ああ、と納得いったような溜め息に俺はちらりと横目で振り返る。戸惑っているように揺れる瞳はいつかの俺にそっくりで、あえて多くを語らずにいれば俺の反応でますます腑に落ちてしまったらしい。なら、と小さく掠れるような声が呟いた。
「例えば、僕が……人間と一緒なのは見た目だけで、自分で戦えるし守る必要なんかないって……言ったとしても、きっと」
「ああ、そうだな。だからってお前を守ろうとするのを止めたりなんかしねーよ。ナチねぇも、俺もさ」
やりたいようにやってるだけなんだから、と言いながら、俺も小さく苦笑をこぼした。ナチねぇが俺たちにそういった話をしてくれないのは余計な不安を掛けないためだろうけど、それに不満を覚えてしまうのはどうしたって止められない。守られていることへの感謝や嬉しさはあるけれど、何も返せないと言うのも辛いものなのだ。受け取った分は返したい、せめてもの恩返しをしたい、いや、突き詰めていけばもっとずっと単純な衝動なのかもしれない。
「僕、守られてばかりだ……」
「そう言うなって。ナチねぇのあれは俺たちを抜きにしたってやってたことだと思うしさ?……でも、何も返せないってのはイヤだよな」
自分でも、自分にも何か出来ることがあるならそれを誰かにしたい、してあげたい。
引け目や負い目、義務感でも自責の念でもなく、誰かのために動ける自分でありたいと願うのはきっと悪いことじゃないはずだ。そのためにもまずは出来ることをひとつひとつ、増やして、こなしていかないとな?
項垂れるコーラルの背中を励ましを込めて叩いてやりながら商店街へと向かった俺たちだったけど、そこでぶつかる羽目になったのは非情すぎる現実だった。
「魚が入ってこないってなんでなんだよ!?」
唖然とするまま店先で叫んでしまったけど、もう何人何十人も俺みたいな客を相手にしてるんだろう。魚屋の兄ちゃんはほとほと困り切った顔をして肩を落とした。
「なんでだって言われてもなあ。ウチに入ってくる魚はみんなルトマ湖でとれるもんだけどな、どういうわけだか最近、入荷してこなくなっちまったんだ。すまねえな、ほんと」
疲れ切った顔色に溜め息交じりの声でそんなことを言われちまったら引き下がるしかない。とぼとぼ店を後にして顔を上げれば、同じように魚を求めに来たらしい、しょぼくれた顔のひとたちがあちこちで立ち尽くしていることに気づいた。この様子だとあるいは……イヤな予感を振り切って城門前の市場まで足を運んでみたけれど、同じ理由でまったく魚が入っていないらしい。それとなく耳をそばだてながら広場の方も歩き回ってみたけれど、お目当てのキュリアンどころか正真正銘、魚の一匹も入ってきていないと言う現実を突きつけられる結果に終わって、俺はぴたりと足を止めた。
これはまた、始める前から頓挫するにも程があると言うか……出鼻を挫かれて、おまけに思いっきり足を引っ張られた形だ。
代用品を探すべきかとコーラルが躊躇いがちに声を掛けてくるけれど、迷うことなく俺は首を横に振った。
「……まさか本当に魚の一匹も入ってきてないとは思わなかったけど、こうなったら意地だぜ……現地調達になろうが何だろうが、必ずキュリアンって魚を手に入れてやる!」
ふつふつと滾る憤りのまま、燃える瞳で何度目かの宣言を口にする。こうなりゃルトマ湖に乗り込んで、正々堂々、自分の力で魚を釣りあげてみせるっきゃない!
そうと決まればと兄貴やミント姉ちゃん、リシェルたちを訪ね回って迅速に説明を済ませた俺は、夕食の席で再び皆の前に立ち、前のめりになって叫んだ。
「明日はルトマ湖までキュリアンって魚を取りにいくから、予定がなければ付き合ってくれ!いや、なるべく絶対参加してくれよな!」
それから木立に隠していた釣り竿を取りに行って、釣った魚を入れる籠やら網やらを探しに行き、肝心な餌の準備にと慌ただしく動き始めてしまったから、後のことはもうよく分からない。準備に余念がない俺の様子をアロエリあたりが呆れたように見ていた気はするけど、その後はやり場のない気持ちをぶつけるように召喚獣向けの料理作りに没頭してしまったからイマイチ覚えていないのだ。チョコみたいな味やソーダみたいにスッキリした味、どういった味が好みなのか分からないからカウンターから応援してくるプニムを試食係に任命したけれど、遠慮もへったくれもない率直な感想を全身を使って表現してくるプニムに頭を抱えて呻き声を上げては調理台に向き合ったことしか覚えていない。自分で言うのもなんだけど、夢中になると周りが見えなくなるクセは本当にどうにかした方がいいかもな……
「妙にあくせくしていると思えば、また突拍子もないことを……」
「一度火が付くと止まりませんからね、ライ君は」
だから、町近くの偵察から帰ってきたアロエリにナチねぇが手ずからお茶を入れていたなんて気づいたはずもない。
「アロエリちゃんもせっかく集めてきた果物や香草の出番がないのはつまらないでしょう?」
「な、そんなことは……っ!」
からかうように目を細めて覗き込むナチねぇにアロエリが真っ赤になったのも、それくらい二人の距離が縮まっていたことも俺は知らない。それにしても、と思案気に片眉を跳ねたセイロンに話を振られたナチねぇが俺をちらりと見たことだって、リビエルが呆れたように溜め息を吐いたことだって。
「そのルトマ湖と言うのは近いのかね?店主の様子を見るに、そう遠くはないと思うが……」
「うーん、確かに日帰りで行ける距離ではありますけど……」
「あの調子じゃ、お昼の準備だとかも忘れていそうですわね……」
でも大丈夫ですよ、と微笑ましい物でも見るように目を細めたナチねぇが口元を緩ませながら呟いた言葉だって。
「ライ君のフォローは慣れてますし。それに、そろそろ訪ねてくれるはずですから」
その呟きに応えるように、夜分遅くに失礼します、と控えめな可愛らしい声が響いたことも、それにナチねぇがとびっきりの笑みを返したことも、何も何も、俺は知らずじまいだったのだ。
待ちに待った次の日、魚を取るための万全の装備を決めた俺は、門前の広場で今か今かと皆が揃うのを待っていた。
ルトマ湖、それはトレイユの町から日帰りで行ける距離にある大きな淡水湖のことだ。皇帝街道を進んで星見の丘より東にあるのが共同墓地ならその反対側、大道都市タラントまで続く山並みを越えた西向こうに広がっている。水道橋公園に注ぐ水だってこの湖から引かれているし意外と町には近いんだけど、真っ直ぐ目指そうとすると険しい山肌や岩壁に邪魔されることもあって、星見の丘あたりで一旦街道を外れて山道に入っていくのが一番の近道なのだ。というか、湖で取れた魚が町まで運ばれてくる道もここだから、道脇の下草はしっかり刈られてるし荷馬車の轍もくっきり残ってるしで、山道とは言ってもシリカの森と違ってきちんと整備されている。山の中腹を抜けるからそれなりに時間は掛かるものの、ちょっとしたピクニックや遠出先なんかにも選ばれがちな場所だった。
「いやはや、お天気も素晴らしく、絶好の行楽日和ですねぇ」
「こら、ポムニット。遊びじゃないのよ?」
「ああ、すみません。ですけど、このところ出かける時はいつだって戦いばかりでしたもので、つい嬉しくなってしまいまして」
おまけに雲ひとつない青空と来れば、ポムニットさんと似たり寄ったりな考えが浮かんだ奴も多いらしい。にこにこ笑ってしまう顔を隠せずにいるポムニットさんへと穏やかに頷き返しながらルシアンが声を和らげる。
「そういえば、前はよくこうやって皆でピクニックしたよね。ポムニットさんがお弁当作ってくれてさ?」
「ま、今はその役目はライなんだけどね。当然、ばっちり用意してるんでしょ?」
「はぁ?そんなワケないだろ?あくまで今回は魚を取るのが目的なんだそ。悠長に弁当なんか作ってられるかよ」
「えーっ!?」
だが、今回の目的はあくまで魚なのだ。期待たっぷりの視線を寄越してくるリシェルとルシアンに何を言ってるんだと呆れ顔を返した俺だけど、予想外の驚きようを前にたじたじになった。
「な、なんだよ?そのいかにもな落胆ぶりは……」
なにせ魚を手に入れたらナチねぇとの約束、薬膳料理作りに挑まなきゃならないんだ。アルバのため、と言うのはもちろんあるが、ナチねぇと一緒に料理をするのに燃えている俺からすれば二人の反応の方が驚きでしかない。互いに困惑していると、ふっふっふっ、と含み笑いをしたポムニットさんが大きなバスケットを取り出して輝くような笑みを浮かべた。
「まあまあ、実はこんなこともあろうかと思いまして。久しぶりにお弁当をこさえてきましたので、ご安心くださいまし!」
「ポムニットえらい!」
間髪入れずにリシェルが快哉を上げれば、おずおずといった様子でリビエルが尋ねる。
「わ、私たちの分もあるのかしら?」
「当然ですとも!ナチさんにもお願いして一緒にたっぷり、愛情を込めてお作りしましたから!」
「なっ?!」
ミントさんのお家で、と朗らかに返すポムニットさんだけど、その言葉に俺は目を剥いた。ナチねぇと一緒に、作った!?
唖然と話を聞いていれば、湖まで出かければ昼を跨ぐだろうしと話を持ち掛けたポムニットさんにナチねぇが快く応えた形らしい。釣りの準備や召喚獣用の料理作りに俺が没頭してた時に堂々玄関から訪ねていたらしいが、悪戯がバッチリ決まったような笑みを見ればこっそり頼みに来たことは明らかで。
「あらら、どうされました、ライさん?大丈夫ですよ、ライさんの分もちゃーんと準備してありますから♪」
「ぐっ……ポムニットさん……!」
今回、ナチねぇは留守番だ。書類の最終チェックに出かけるナチねぇを気遣って細かいことは聞かなかったけど、今となってはその判断が悔やまれる。悪びれもせずに笑うポムニットさんとまでは行かなくても、少しでも話をしてたらナチねぇだって、普段と違った反応のひとつやふたつ見せただろうに。そしたら俺だって気づいていたかもしれないし、一緒に弁当を作ってたかもしれないのに……ぐぐぐ、正直言って面白くない!一緒に料理をするって約束をしたのは俺の方が先だったのに……!
「まあ、いいじゃないか。息抜きの時間だってたまには必要だぜ」
「うむ、そのとおり!」
兄貴の言葉にセイロンが乗っかっているが、美味い飯に味を占めただけだろう、お前は。すっかりナチねぇの作るシルターン風料理の味を知ってしまったリビエルやアロエリも期待の隠せない表情でバスケットを見つめている。思わずジト目になる俺だったけど、それにしても、とミント姉ちゃんの物思わしげな声に視線を上げた。
「魚が取れなくなった理由が気になるわ。一体、何が起こっているのかしら?」
心底不思議そうな呟きは、多かれ少なかれ俺たちの誰もが抱いていた疑問だった。一体どうして、急に魚が取れなくなってしまったのか?町でも話は聞いたけど理由までは分からずじまいで、その時点で妙な話だとは思ったのだ。病気とか毒とかで魚が消えちまったとかならもっと緊迫感漂いそうなもんだけど、結構な大事のはずなのに何だかちょっとした困りごとみたいな雰囲気しか感じられなくて、そのくせ事情を知っている奴らははっきり理由を言うのを躊躇っている。ともあれ、湖に辿り着きさえすればその理由も分かるだろうと楽観的に足を進めた俺たちだったけど、そこには俺たちの想像をはるかに越える驚きが待っていた。
「!?」
「湖が……凍っていますわ……」
足元に静かに打ち寄せる澄んだ波も、陽射しにちらちら白い光を返す波間も、遠く向かい岸の湖畔まで鏡のように空を映していた湖面も、どれもこれもが真っ白に凍り付いて白銀の世界と化していたのだ。
呆気に取られてあんぐりと口を開いたまま立ち尽くした俺とコーラルに代わって、ズレてもいない眼鏡の位置を直すように押し上げながらリビエルが呟く。
「これでは確かに魚は取れんな。それ以前に、取ろうとする気にすらなれん」
「この湖は、こういう状態が普通なのかね?」
「んなワケねえって!?」
アロエリとセイロンが淡々とした感想を言ってくれたが、もちろんそんなわけはない。俺の知ってるルトマ湖は冬だって凍らないような温暖な湖で、釣りをしようと思えば季節を問わずに楽しめる場所だったはずだ。
「そうだよね……確かこのあたりは火山の影響もあって、冬でも完全に湖が凍ることなんてないはずなのに」
「しかし、現実として完全に凍り付いてるわけですし……」
じっとしていると息が白くなるほどの冷え込みようだけど山の方には雪ひとつなく、湖だけが見事に凍りついている。お日様の陽射しがさんさんと降り注いでいるのに頑固にも溶ける気配すらなく、ミント姉ちゃんも兄貴も困惑顔で立ち尽くしちまっている。けれど、これは大問題だ。どういった理由で湖が凍ったかは分からなくても、このままだとどうなるかくらい俺にも分かる。湖が凍ったままだと魚が取れない、魚が手に入らなければ薬膳料理の材料が揃わない、ナチねぇと一緒にアルバのための料理を作ること自体が出来なくなっちまう……そんなのは断固、認められはしない!
「凍り付いていようと魚がいることには違いねーんだろ?だったら、穴をあけて釣りゃあいいだけだ!」
「ちょっとあんた、目が据わってるわよ?」
「うっさい!」
リシェルが呆れた様子で突っ込んでくるが、そんなの重々承知の上だ。半ば自棄になって釣り竿を振り上げ眉を吊り上げ、俺は仁王立ちになって怒声を放った。
「ここまで来ておいて手ぶらで帰ってたまるかよ!」
「あわわわ……」
「止めても……無駄、かと……」
慌てるルシアンや肩を落とすコーラルが視界を過ぎるが気にしちゃらんねえ。念のためにと腰に下げてきた剣の柄で凍った湖面に穴を開けるべく、大きく一歩踏み出したところだった。
「きゃはははっ♪そんなことしたってぇ、無駄ですよーだっ!」
「……誰だっ!?」
「呼ばれて飛び出てぇ、こんにちはーっ♪」
反射的に叫び返した俺の前に勢いよく飛び出てきたのは、くるくるに巻かれたピンクの髪をふたつに結った、見るからに人間離れした雰囲気の女の子だった。フリルを纏った袖口だとかは少しメイド服に似ているか……?訝しがりながら見ていると、呆気に取られたように目を見張っていたポムニットさんの顔が次第に険しくなっていく。
「な……なんなんですか、貴女は……同じメイドとしてもっと慎みを持つべきであると……!」
「お説教してもムダよ、ポムニット!あいつ、前に戦った機械人形の同型機よ!」
「なんだって!?」
けれどポムニットさんを庇うように片手を広げたリシェルが鋭く言えば、緩んだ空気もそこまでだった。兄貴の驚く声に応えるように奥の岩場からもうひとつ、見知った顔が現れる。
「制止失敗……エマージェンシー……敵と接触……。反省要求……みりねーじ……」
「うるさいなあ、アプセットねえさまは。どーせ排除するんだし気を遣わなくたっていいじゃないのぉ?」
緑頭で手にはドリルを装備した機械人形、アプセット。頭が痛そうな顔をしてミリネージを見据えているが、ゲックのじいさんの手下であるこいつがここにいるってことは。
「アプセット、お前がここにいるってことは、この湖の異変も当然、お前らの仕業だな!?」
声を荒げて問い質した俺に対して、アプセットは冷めた眼差しを突き返した。
「当然黙秘……」
「そーだよっ♪教授とミリィたちの仕業だもんねぇ♪」
がくっ、とその肩が大きく落ちたように見えたのは気のせいじゃないだろう。みりねーじ、と恨めしげに呟くアプセットには敵ながら同情を、ミリネージには呆れを隠せない眼差しを送ってしまえば、リビエルも溜め息交じりに話に入ってきた。
「相変わらず落ち着きのないことですわね、ミリネージ」
「あーっ、デコ天使っ!」
落ち着いた声色のせいだろうか、いつもと違って少し大人っぽい印象だ。と思ったのも束の間、勢いよく指差しながらのミリネージの反応にリビエルの呆れ顔がびしりと引き攣った。
「ぶ、無礼ですわっ!?」
「デコにデコって言って何が悪いのよぉ?デコ天使♪きゃははははっ♪?」
「頭に来ましたわっ!火中で爆ぜる木の実の如くバチバチと来ましたわーっ!!」
「これ、落ち着くのだリビエル」
「敵と出会った以上は見逃したりはしない……覚悟しろっ!」
楽しげに声を弾ませてからかい続けるミリネージ相手に言葉どおり、弾ける木の実のような勢いで飛び掛かろうとしたリビエルの肩を抑えてセイロンが宥めるが、その間にもアロエリはしっかり弓に矢をつがえて臨戦態勢に入っちまってる。御使いだってのにこうも血の気が多い奴らばかりなのはどうなのか。普段の俺ならそんなふうに突っ込んでいたかもしれないが、今ばかりは完全同意だ。無言で剣から抜き放った俺を見てだろう、リシェルや兄貴たちもそれぞれ呆れ交じりの顔つきに緊張と警戒を高めて得物を握りしめていく。様子を察したミリネージたちもざっと大きく手を振って、物陰に控えさせていたらしい機械兵器を呼び出した。
「イーッだ!それはこっちの台詞だよーだっ!」
「交戦必至……インターセプト……作戦開始……対象の逃亡を持って任務完了とする……」
「きゃははははっ♪みんな、まとめてぇ、やっつけまぁーす♪」
それぞれ腕をドリルや槍に変形させて構えるミリネージとアプセットを正面に見据えて、ふつふつと込み上げていた苛立ちのまま俺は大きく剣を振るう。重い風切り音を残して止まった剣を両手で構え直して、真っ白に凍った湖面に踏み込みながらの第一声は決まってる。
「っいいからとっとと、湖を元に戻しやがれっ!」
行き当たりばったりの戦いだろうが何だろうが、ここで引き下がってやる気なんて毛ほどもありはしなかった。
凍り付いた湖面には所狭しと機械兵器の姿があった。ボクスにフロット、ドリポット。いやにゴツゴツしてたり宙に浮いてたりするのは機種の違いらしいが、こないだリシェルに聞いてやっと名前が分かるようになった奴らが両手の指を越える数で押し寄せてくる。幸いだったのは戦闘中にうっかり氷が割れて落ちてしまうかも、なんて心配がいらないくらいガチガチに湖が凍っていたことだろうか。向こう側が透けて見えないほど分厚い氷を踏みしめながら、これが溶けるまでどれくらい時間が掛かるんだろう、と気の遠くなるような疑問が浮かんだのも一瞬。うっかり脱力しちまう前にそんな余計な考えは丸めて投げ捨て、代わりにこの事態の元凶への怒りを呼び覚ました俺は、素早く片手に持ち替えた剣で下から上への切り上げの一撃を放った。
「ええい!そっちばっか浮くなんてズルいだろうがっ!」
ふわふわと浮いていたフロットが斜めに傾いて落ちてくるが、斬ると言うより突きに近い衝撃を食らって体勢を崩しただけだ。すかさず反転させた剣の柄尻で強烈な殴打を叩き込む。鈍い音を立てて足元に転がったフロットから次の敵へと意識を切り替え、剣を握り直して足元の氷を蹴る。その間にも俺の耳は周囲の遣り取りを拾っている。
「でも、不幸中の幸いなのはあまり足元が滑らないことね。一気に凍り付いたのかしら、表面が荒いせいで普段の靴でも何とか動き回れてるし……」
「移動の妨げにならないのであれば、普段の戦いと大した違いはありませんからねっ!」
ミント姉ちゃんのメイトルパの術は相変わらず機械相手に効果抜群らしい。ブレイドボアの突進と鋭い牙を食らって弱ったボクスとフロットが動きを鈍らせたところに兄貴の槍がぐんと薙ぎ払われて、黒みの強い煙を上げながら二体、同時に機能停止に追い込まれる。
「本当よね。変に高いところにいられるのは困るけど、それならそれでやりようはあるし。ねえ、リビエル?」
「……ええ、そうですわね。準備はいいかしらっ!?」
「ふふーん、任せて!力を貸したげるからやっちゃいなさいっ!」
機械相手にはロレイラルの術だと効きが悪い。前にそうボヤいていたリシェルだけど、下手に強気に出れない相手の時の方がその観察眼が活きるのか。冷静かつ不敵な笑みを投げかけたリシェルに一瞬目を丸くしたリビエルが挑戦的な笑みを浮かべれば、活を入れるような声が響き渡り、ぐんと二人の魔力が重なり合って。
「行きますわよ、タケシー!ゲレレサンダー!」
魔力の波長、タイミングを合わせる協力召喚はアシスト側次第で様々な恩恵があるらしいけど、血気盛んなリシェルが息を合わせたリビエルの術は明らかに威力が上がっていた。高台の上に陣取っていたドリポットは体力全開に近かったはずだけど、頭上からの派手な雷撃を食らったことで転がるように氷上に滑り落ちていき、近くで構えていたらしいルシアンとセイロンの追撃を受けて完全に動きを止める。
「直接相手に出来ないんなら手を借りるだけってねっ♪」
高所を狙えるような術があまり手持ちになかったらしいリシェルだが、一番手前にいたドリポットを落としたことで使える手が増えたんだろう。してやったりとほくそ笑みながらの召喚で高台に呼び出されたのはロレイラルの召喚獣、ライザーだ。丸っこい見た目が愛らしい機体だが、高台に残った数体の機械兵器を相手取って一歩も引かない立ち回りを見せている。前々からナチねぇやミント姉ちゃんの呼んだ召喚獣は妙に強い気がしてたけど、どうやらその感覚で間違ってなかったらしいな。召喚師を守るためかは知らないが、能力も練度もいくらか底上げされているらしいライザーが俊敏な動きで敵を翻弄するのを横目に俺は氷上を駆け抜ける。
「お、デコ天使発見♪きゃははははっ♪また泣いちゃっても知らないからねぇ」
「むっきぃ~っ!!いい加減にしないとお仕置きですわよ!」
「べーっだ!やれるもんならやってみなーっ♪」
迫り出した氷の段差を飛び降りながら転がるように岩陰へと入れば、リビエルとミリネージの舌戦が聞こえてきた。機械兵器の奴らを大分蹴散らしたから、奥に陣取っていたミリネージやアプセットもいよいよ前線に出てきたってことだろう。すっかりリビエルに狙いを定めてきゃらきゃら笑っているミリネージはご機嫌だが、それを横で聞いているアプセットはもはや無言だ。あえて思考を止めているようにも見える。それでも背面に回り込もうとしていた俺に気づいて周囲の機械兵器たちを差し向けてくるのはさすがだが、突き出されるドリルを前進ついでに身を捻って避けた俺はドリポットの硬い装甲目掛けて躊躇なく剣を振り下ろした。落下の勢いに乗せて馬鹿力も込めたせいか、たった一撃で煙を噴き上げちまったそいつを蹴飛ばしながら距離を詰めようとすれば、器用なものだな、とボクスを蹴り飛ばしながら感心したように呟くセイロンと目が合う。
「さすがに獣人だとか暗殺者相手にはここまで余裕ねえけどさ。こいつらは一撃が大振りだから、大体は動きを見てるだけで十分避けられるんだよ。躱すにしろ見切るにしろ、受け流すにしろ反撃を狙うにしろ……」
がっ、とその隙を狙って突き出されたミリネージの槍が足元すれすれの氷を抉っていくが、目もくれないまま伸び切った柄の部分を踏みつける。うぇっ、と驚き交じりの焦った顔をするミリネージに向けて、俺はにんまりと凶悪な笑みを投げ返した。
「狙いが見え見え。戦い慣れちまった俺たち相手にそれじゃあもう、通用しないっての!」
「さあ、覚悟なさいっ!!」
問答無用で柄の部分を蹴り飛ばしてやれば、伸びる腕を槍と一体化させていたミリネージの身体も横倒しになって凍った湖面を滑っていく。サモナイト石に魔力を込めながら機を見計らっていたリビエルの声が高らかに響けば、ミリネージの甲高い悲鳴が上がるのはすぐのこと。兄貴とルシアンの二人掛かりで足止めされていたアプセットも間を置かず、ブレイドボアの容赦ない一撃を受けて氷上を高く舞うのだった。
「むっきぃーっ!なんでやられてくれないのよぉーっ!?」
「戦力差明白……イコール……当然の帰結……」
「何でもいいからとっとと湖を元に戻しやがれ!?」
成り行きで戦闘にまでもつれ込んじまったけど、とにかく勝ちは勝ちだ。ぐるぐるに縄を巻かれてもなお噛みつくように喚き立てるミリネージと、神妙な顔つきで押し黙っているアプセット。ひとまず湖畔まで移動してから問い詰めようとしたわけだったけど、こんな状況でも一人賑やかすぎるミリネージに呆れたような空気がうっすら漂い始めたところだった。諦めたように黙り込んでいたアプセットが目を閉じる。それだけなら何の違和感もない仕草だが、いくら人間に似せていてもこいつらは機械人形で、呼吸も瞬きも不要でしかないはずで……なんかこの流れ、前にも!?
「……戦略的撤退!!」
記憶を掘り当てた俺が声を張り上げるより早く、アプセットの全身から真っ白な閃光が迸った。おいっ、目からだけじゃなかったのかよ!?咄嗟に腕を上げて光を遮ろうとしたものの、格段に威力を上げた目くらましの光は俺の後ろにいたリシェルたちの視界までしっかり塞いでいったらしい。なんだこれは、と混乱したようなアロエリの声や、またこの手かよ、と兄貴のぼやきが聞こえるけれど、またもや同じ手に引っ掛かってしまった情けなさや悔しさやらで俺はちかちかする視界を睨み付けながら怒鳴った。
「ちっきしょー!逃げるつもりだな!?」
「あっはっはっは!ならば、追いかけるまでのことだ!」
早くも目の調子が治ったらしいセイロンが合いの手を入れてくるけど、確かに、湖の周りには隠れるようなところもないもんな。湖から湖畔まではほぼ真っ白、岩場の灰色くらいしか目立った色がないのもあって、遠くを駆けていく緑とピンクの頭はよく見える。少なくとも見失うことはなさそうだと踏んだとおり、あいつらの行方は簡単に知れた。
「奴らはこの洞窟に逃げ込んだのか」
「ああ、間違いない」
湖沿いにそびえ立つ岩肌の陰、ぽっかりと空いた洞窟が奴らの本拠地だったらしい。洞窟を抜けた先は森に繋がっているだとか、そういった抜け道があるわけじゃないのはアロエリに空から確認してもらったし、湖が凍り付いた原因もきっとこの中だろう。よーし、それなら……と腕捲りしながら黒々とした洞窟の奥を覗き込んだ俺だったけど、そこにストップを掛けたのはミント姉ちゃんだった。
「ちょっと待って、ライ君。ここが敵の本拠地なら戦いは避けられないことになると思うの。さっきの二人が私たちのことも報告しているだろうし、しっかりと準備をしておいた方がいいわ。それにナチさんにも……」
「あ、確かに魚を取るのが目的だったし、本格的な準備はしてなかったもんな。すぐ帰れるかも分かんねえし、ナチねぇにも伝えなきゃだ」
言われてみれば確かにその通りだ。せいぜいが野盗やはぐれの相手しか考えていなかったこともあって、弓矢を背負ってきたアロエリやいつもの槍を持ってきた兄貴の他は身軽な格好しかしていない。さっきの戦いはどうにかなったけど、リシェルもミント姉ちゃんも護身用に持ってきたサモナイト石しか無かったらしい。何度かぶつかってある程度は手の内を知ったと言っても、ゲックのじいさんたちを相手にそんな心許ない装備で挑めるはずないもんな。うん、と大きく頷いて振り返れば、皆もやっぱり同じ結論だったらしい。俺は迷いなく宣言を口にした。
「それじゃあ一旦戻って、準備が整い次第、突撃だ!」
深追いは避けて、準備を万端にすべくトレイユの町まで戻ってきた俺たちだったけど、その判断で大正解だったようだ。
サモナイト石を取りに行ったミント姉ちゃんやリシェルと行き違いにならないよう、ひとまず宿屋で待っていることにした俺たちを迎えてくれたのは目を丸くしたナチねぇだった。思ったより早く書類のチェックが片付いたから家に帰って昼食を取って、俺たちが戻ってきた時のおやつにでもとクッキーを焼いていたらしい。ちょうど焼き上がったばかりのクッキーのいい匂いに刺激されて誰かの腹の虫が大きく鳴いたことに、せっかく持って行ったお弁当を食べるのも忘れていたことに気づいた俺たちはそれぞれ顔を見合わせて苦笑した。それじゃあまずは腹ごしらえですね、と口元に手を当てたナチねぇに笑われてしまったけれど、異論なんて出るはずもない。
「はいどうぞ、温かいお茶ですよ」
「ほわぁ……さっきまでのことがまるで嘘みたいです……」
食堂のテーブルをくっつけて大きくして早速バスケットを開けてみれば、ポムニットさんとナチねぇが丹精込めて作ってくれた料理がぎっしり詰まっていた。唐揚げは冷めてもカリカリした食感が楽しめるように衣を工夫してるようで、タコさんウインナーや厚焼き玉子はしっかりと焼き目が付いて見た目にも美味しそうだ。プチトマトやコーンのピクルスは甘酸っぱく爽やかな味付けで、カリカリのベーコンや炒った卵、薄い葉野菜を少しずつ挟んだサンドイッチは時間が経っても水気が滲んだり崩れたりもしていない。そこに急須たっぷりの緑茶やポットいっぱいの紅茶まで出されたらポムニットさんじゃなくても気が抜けちまうってもんだろう。はぁ、とクッキーを一枚摘まんで紅茶を飲んだリビエルが満足そうに息を緩める隣では、遅れて合流したミント姉ちゃんがクッキーを摘まんで目を見張っている。
「このクッキーに練り込まれてるハーブ、ひょっとして……」
「ああ、分かります?先日頂いたハーブを生地に練り込んでみたんですよ。お茶もいいですけど、焼き立てのクッキーから香る風味も素敵ですよねぇ」
微笑みかけるナチねぇに嬉しそうに笑みこぼすミント姉ちゃんだけど、ナチねぇが呼んでいた名前だとローズマリーにアニスシード、チャービルだったかな……?地方によっていくつか呼び名のあるハーブの姿を思い浮かべながらクッキーを口に放り込んだ俺は、さくさくの食感とハーブの香ばしい風味をしっかり堪能してから飲み込んだ。クセのある食材の匂い消しやサラダの飾りばかりに使っていたハーブの新たな活用法も知れたし、このままゆっくりお茶会なんて出来たら最高だろうけど……残念ながら今はそんなことをしてる余裕はない。あのさ、と神妙な顔をしてナチねぇを見つめれば、ハシバミ色の瞳の中心に俺が映るのはすぐだった。
「ずっと机に向かいっぱなしで少し運動したかったんです。よーし、前回お休みしちゃった分も頑張っちゃうね?」
事情を把握したナチねぇの動きは早かった。テイラーさんのお屋敷から帰ってきた時点で着替えを済ませていたこともあって、サモナイト石と杖を準備すればすぐに出発できる状態だったらしい。向かう先は敵の本拠地だって言うのにすっかり乗り気になってるけど、湖を凍らせるほどの現象をどうやって起こしたのかということにも興味が尽きないらしい。
「だってあそこには活火山があるんですよ?なのにあれだけの広範囲を凍りつかせちゃうなんてすごいエネルギーですよね……一体どうやったんだろう?気になるな」
「ですよね?私もずっと気になってて……湖がここまで凍り付くまで露見しなかったことを考えるとあくまで短期間での結果。仮に召喚獣の力を借りたとしても……目的がやっぱり読めないなぁ」
「そう言われると確かに気になりますわね。火山の影響を無効化どころか受けないほどに強力な冷気を持続的に発する何かなんて、そうそう考えられませんし……」
急ぎ足でルトマ湖への道を急ぎながらもうんうん悩み始めてしまったナチねぇにミント姉ちゃん、リビエルたちの様子に、そんな場合かと呆れたような半眼を向けているアロエリだけど気持ちは分かるぜ……とにかく、と洞窟の前に到着したところで俺は咳払いをして皆の注意を引いた。
「今は奴らの企てを阻止するのが最優先だろ。皆、頼むぜ!」
準備万端、気合十分、いざ突撃!どんな展開が待っていようと対処出来るように慎重な足取りで踏み込んだ俺たちだったけど、驚愕に目を見張るのはすぐだった。
「うわっ……!?なんか、ものすごく暑いんだけど……!」
「暑いの、苦手……」
いきなり視界が開けたと思いきや、むっとするような熱気を浴びたルシアンが驚きに声を上げる。コーラルも萎れた顔をして呟くが、ゆらゆらと空気が歪むような熱風の出処へと目が行った俺は完全に言葉を失っていた。
足元のはるか下、金網越しのずっと低いところを真っ赤に焼けたどろどろが流れている。そこから噴き上げる熱気がこっちまで届いているのだ。足元を支える金網越しに真剣な顔をして目を凝らしていたリシェルが、これは溶岩流ね、と呟いた。それを肯定するように頷いたリビエルが眼鏡を押し上げながら言葉を続ける。
「別名、マグマとも言いますわ。地面の下を流れている高温のエネルギーのことですの。大まかに例えれば、大地の血液みたいなものですのよ」
「おお、なるほど!」
話についていけずに疑問符を浮かべてしまった俺やルシアンを見かねて分かりやすく例えてくれたリビエルに声を上げれば、セイロンたちと話し込んでいたミント姉ちゃんたちがこっちを振り向いた。
「一説によると、溶岩は多量のマナを含んでるとも言われているの。サモナイト原石が地中から発掘されるのも溶岩に含まれるマナが変化したからだと言う説もあるし」
「通常、こんな地表近くで見られることはまずありません。扱いは難しいですがその利用価値は計り知れないものがある……これはおそらく」
「左様。まさにこの世界を生かしている血液だと言えるであろうな」
何か続けようとしていたナチねぇがはっとした様子で顔を上げる。その視線を辿るように一斉に視線を向けた先、石造りの床や金網の橋が掛けられたアリの巣みたいな通路の向こうに現れたのは、ゲックのじいさんだった。
「出やがったな、ゲックのじいさん!」
「教授と呼びなさい、教授と!」
「機械人形三姉妹も揃ってお出迎えってことみたいですわね」
鋭く睨んで声を張ればすかさず前に出たローレットが律儀な訂正を飛ばしてくる。警戒を込めてリビエルが呟くが、ふん、と嫌味っぽく鼻を鳴らしてローレットは目を細めた。
「生憎、好き好んでご招待したわけではありません。出来の悪い妹の粗相の始末をしているだけです!」
遠目でもはっきり分かる、アレはかなり頭に来ているな。ミリネージがむっとした顔をして横から口を挟んでいるけれど、お黙りなさい、と目尻を吊り上げたローレットにぴしゃりと返されている。
「敵に見つかった上に戦って負けてさらに尾行されるだなんて、バッテン三つ分くらいの失態ですわよ!」
「そう責めるでない、ローレットよ。むしろ、いち早くワシらの計画を見抜きこの場にやってきた小僧こそを褒めるべきよ」
「……は?」
きりきりと手厳しい言葉を浴びせるローレットにミリネージは涙目だ。興奮するローレットを宥めるように声を掛けるじいさんだけど、思いがけない称賛がこっちを向いたことに俺は呆気に取られて呟いた。
「謙遜することはないぞ。溶岩に含まれるマナを抽出し人工的にサモナイト石を作り出す。そのためにワシが用意したのがこの精錬プラントよ」
「は、はあ……」
「だが、この高熱地帯でプラントを運用するためには強力な冷却装置の併設が必須であった。結果として湖が氷結してしまう異常事態が起きたわけじゃが、そこから即座にワシらの存在を察知するとはのう……」
何だか勝手にいいように誤解して説明してくれてるけど、ああ、なるほど……そういうことだったのか。やっと事情が呑み込めてきた俺と同じような顔をして皆もじいさんの話に耳を傾けているけれど、大いに勘違いしたまま話し続けるじいさんに段々呆れや同情のこもった視線が増えてきた。あらら、と他人事ながら困ったように眉尻を下げているナチねぇや、これはこれは、と敵ながら同情半分の眼差しを浮かべているセイロンを横目に、何とも言えない気持ちでじいさんを見上げてしまう。
「さすがはライよ、あの男の息子だけはあるな?」
「だからクソ親父を引き合いに出すな!?そもそも俺たちは魚が欲しくてここに来ただけだっての!」
「……なんじゃと?」
やっと誤解を解くタイミングがやってきて声を張り上げた俺だったけど、今度はじいさんの方が呆気に取られた顔をした。数秒の沈黙を挟んで深い溜め息をひとつ、やれやれとばかりに首を横に振って俺を見る。
「……小僧よ、謙遜も大概にせんと嫌味になるぞ?」
「だからホントだって!そこのやかましい機械人形が襲ってこなかったらお前らがここにいるなんてこと、考えもしなかったんだぞ?」
買い被りが過ぎるって、と正直にここに来た経緯を語ってやれば、じいさんは石のように固まった。
「軽挙妄動……びこーず……ヤブヘビ……」
「だ、だからぁっ!ミリィ、悪くなんかないもぉーんっ!?」
その後ろには諦観の面差しのアプセットが、必死になって無罪を主張し始めたミリネージの姿が見える。あはは、とリシェルでさえ苦笑いをこぼして、何て言うかもうグダグダです、とポムニットさんも呆れ顔だ。
「ねえねえ?物は相談なんだけどさぁ、このまま見なかったことにして帰ってくれないかなぁ?」
「そんなことできるワケねーだろっ!?」
「なによぉっ!?けちんぼーっ!!」
きゃんきゃん噛みついてくるミリネージだけど、この期に及んでそれは土台無理な話だ。とにかく見つけちまった以上は放っておけないし、こうなったら仕方がない。
「その機械をぶっ壊して、湖を元に戻してやる!」
「っ、ふははははっ!それでこそあの男の息子と言うものよ!だがそう簡単に出来ると思うてか?さあ、参列せよ!新たなる鋼の軍団の精鋭たちよ!」
剣を構えて言い放った俺に気を取り直したじいさんが高らかに叫んで杖を掲げると、通路の奥の方から青色に塗装された大柄な機械兵士が姿を現した。ぎょっとしたように目を剥いて驚くリビエルとリシェルが言うには、そいつは戦闘特化で機械人形よりも上位の人型破壊兵器ってもんらしいが……どのみち相手をしなきゃならないことに変わりはねえ。だけど、そいつを召喚出来るってだけで大層凄いことなんだろう。畏怖の念すら滲んだリシェルの表情にじいさんは何か堪えるような顔をして大きく首を左右に振った。
「……召喚したのではない、この手で再生したのだ。スクラップとして廃棄されていた機械たちを修復して作り上げた、それがワシの率いる鋼の軍団なのだ!」
「嘘よ、そんな、ロレイラルの機械を直しただなんて!そんな技術力なんて、簡単に身に着けられるもんじゃないわ!?」
「誰も簡単だったとは言うておらぬ……だがな、儂にはやりとげねばならぬ理由があったのだ」
そういった話になるとまったくの門外漢な俺には、何だか凄いことをしたんだな、としか思えないけど、ロレイラルの術を専門にするリシェルには凄まじさが理解できたらしい。声を詰まらせて息を呑む横顔はじいさんのやったことがどこまで人並外れた技だったのを物語っているようで、さっきまでの遣り取りに緩み掛けていた気を引き締め直す。
「アプセット、ミリネージ!ここは戦場となる、精錬したサモナイト石を運び出しておけ!ローレット、お前にはワシと共にこやつらと戦ってもらうぞ!」
「教授の仰せのままに!」
きびきびと指示を下していくじいさんの動きはとてもその年には思えない。いかん、と目を鋭くしたセイロンが声を張り上げるのと同時、兄貴が先陣を切って目の前の階段へと足を掛けた。
「逃がすかっ……わひゃあっ!?」
「グラッドさんっ!?」
けれど、いきなりぶっ放された砲弾がすぐ近くに着弾したことに転がるように距離を取る。じいさんの説明からして足元の通路も突貫工事で作ったものだろうに相当頑丈に出来ているらしい。着弾した玉がちょっと爆ぜたくらいじゃびくともしていないことに大きく胸を撫で下ろしながら、俺ははるか遠くの崖上に陣取った機械兵士をきつく睨みつけた。マグマに落っことされるような事態にならなかったのはいいとして、あの距離から砲撃が届くってのは厄介極まりない。
「追ワセナイ。教授ノ邪魔……許サナイ……」
「そうだ、グランバルド!お前の力を小僧らに見せつけてやれ!」
「ぐらん、ガンバル!」
リシェルやルシアンたちには聞こえていないだろうけど、どうやら俺だけじゃなくアロエリやセイロンたちにもその遣り取りが聞こえてしまったらしい。何だかこちらの真剣みを削いでくるような微笑ましい会話に、俺たちは示し合わせたように微妙な顔をする。だが、そうは言っても負けてやれるもんじゃねえ。遠距離砲撃なんて厄介な技を持ってるアイツが次弾を装填しちまう前にと、躊躇いなく階段を駆け上がりながら剣を引き抜く。
「機械兵士だかなんだかしらねえが上等だぜ、ぶっとばしてやる!!」
闘志だけは満々に、まずは気持ちで勝ってやると血気盛んに言い切って俺は前を睨みつけている。
足元深くを川みたいに流れているマグマのせいで息苦しいほどの熱気が溢れている上、ざっと見た感じだと通路のあちこちにも壁のように炎が噴き上がっているらしい。散々相手してきたボクス、銃や槍を装備した人型の機械兵器、おまけに真っ赤な炎の壁とはまた随分と障害物が多いことだ。機械兵器はともかくとして普通の人間じゃあんな炎の中を突っ切っていけるはずがない。どうしたもんかと眉を寄せた俺の横で、あっ、とリシェルが何か閃いたように声を上げた。
「待って、あれが教授の仕掛けたトラップだったらどこかにきっと制御装置があるはずよ!」
「なら、そいつさえぶっ壊せば……!」
近くの岩陰に隠れてもらったポムニットさんにも俺たちの遣り取りが聞こえたんだろう。もしかしてあれでは、と素早く走らせていた目を止めて指差した先には、一定の間隔で赤い明滅を繰り返しているだけの妙な機械があった。ポムニットえらい、と歓声を上げるリシェルに接近していた人型の機械兵器を剣でぶん殴りつつ、俺は目を凝らしてよくよく通路の伸び具合を確認する。通路の端っこにいくつかある制御装置を壊していくとなると……真っすぐじいさんたちを目指すには少しばかり寄り道する形になっちまうが、背に腹は代えられないか。まずはそっちへ、と足先を向けようとした俺だったけど、それを引き留めたのはナチねぇだった。
「それならライ君、あっちの分は私に任せて?少し考えがあるの」
ナチねぇの示した先にあるのは多分、ひとつ目の炎の壁を解除する制御装置だ。鉄骨を組み上げた無骨な骨組み沿いに設置してあるけど、その上方高いところにはちょうどグランバルドが陣取っている。制御装置や詰まれたドラム缶めいたものを足場にしてもとても届きそうにない高さだし、岩壁沿いにぐるりと回っていかなければじいさんに辿り着くことも出来ないだろうから、手分けする以上の意味はなさそうだけど……一体何を思いついたのか、ナチねぇの口元には楽しげな微笑みが浮かんでいる。まるで悪戯を思いついた子供みたいな笑みに瞬きを返していれば、何か案があるのかね、と意外にもセイロンが話に乗ってきた。
「はい、上手くいけばグランバルドくんは無力化出来ると思いますよ。あ、でもグラッドさんには力を貸して欲しいかも……目測だけど、あとちょっとだけ高度が足りない気もするし」
「ふむふむ。あの新たな機械兵士にローレット、それに手下の機械兵士まで長距離射撃を得手としているようであるしな。要となるあの機械兵士を落とせたならば奴らの度肝も抜けよう、そんな博打であれば我は大歓迎だとも!」
「よく分からねーけど、どのみち四か所も炎の壁が出来ちまってるんだ。罠をひとつずつ解除するってなるとそれなりに時間が掛かるし、最初に手分けするのは全然構わないぜ?」
「自分が何をすればいいかはよく分かりませんが、力になれることなら喜んで!」
セイロンと意気投合したように話しているナチねぇだけど、一人で無茶をするつもりじゃないなら止める理由もない。どんな働きを期待されてるかも分からないまま兄貴が安請け合いしてるけど、俺だってナチねぇの考えがよく分かっていないのに頷いたんだから似たようなもんだ。それでも兄貴とナチねぇだけじゃ不安があるか、とルシアンにも話を振ろうと口を開きかけて俺は耳を疑った。
「戦場では何が起きるか分からないからな……ふん、仕方ない。あの機械を壊すまでは俺も付いていってやる!」
「ありがとう、アロエリちゃん。上手く行ったらすぐライ君たちと合流出来るはずだから、期待していてね?」
あのアロエリが、自分から!?セイロンの後ろでそわそわと翼を動かしているのには気づいてたけど、こほんと咳払いをしてナチねぇへの同行を宣言したアロエリは本気らしい。ナチねぇも屈託ない笑みを返しているし、セイロンも満足げに頷いているし、俺の知らないところで一体何があったんだ……!?すっかり距離が縮まっている様子のアロエリとナチねぇを見比べて混乱している間にも、よし、とナチねぇは張り切った顔で杖を握ってしまう。
「それじゃ移動する前に。この炎の向こうぐらいなら届くだろうし……ミントさん、リシェルちゃん、リビエルちゃん!」
「はーい、準備は出来てますよ!」
「まったく、ライもだけど案外血の気が多いのよねぇ」
「それを言うのが貴方なこと以外は一言一句、同意しますわ」
俺がぶん殴って転がした機械兵士がいたスペースに踏み込んだナチねぇが高らかに呼びかければ、何をする気か分からないけど期待が隠せないと言った顔つきで皆が魔力の波長とタイミング、そして息を合わせていく。重なる魔力の色合いに密度がぐんと増していき、そこに混ざれなかったことへの少しの羨ましさを覚える間にも、ナチねぇの練り上げた魔力が虚空に門を開いた。
「サモン、氷魔コバルディア!魔氷葬崩刃!」
呼び出されたのは小柄な姿の悪魔の戦士、コバルディア。いつも厨房奥にある金属製の箱にたっぷり氷を満たしてくれる、ナチねぇお気に入りの召喚獣だ。そいつが意気込み十分に握る鉾を掲げたと思ったら……びしっ、とガラスが割れるような鋭い音が響き渡り、マグマの熱気が渦巻いていたはずの一帯に凍えるような冷気が吹き渡った。中範囲に降り注いだのは魔力で生み出された蒼氷の数々で、鉄版にさえ突き刺さり容易く引き裂いている切っ先は触れた個所から機械兵士にも霜を降らせちまっている。一瞬吹き飛んだように見えた炎の壁は勢いを弱めながらも復活しちまったけど、壁の向こうにいた機械兵士は可動域ごと凍らされちまったのか、身じろぎすら出来ていないようだ。普段氷を出すのに使ってる術が、実戦だとこんなにも恐ろしいものだったとは……
「これで罠を解除してもいきなり集中砲火されることはないはずだよ。氷が溶けちゃう前に急いで装置を壊しちゃうね!」
コバルディアにいつもどおり感謝の言葉を告げたナチねぇが迷いない手つきで別のサモナイト石を取り出し、走り出しながら呼び出したのはサプレスの召喚獣、もっちりと丸いフォルムに帽子を被ったポワソだ。翼をはためかせるアロエリと競争でもするように制御装置に向かって飛んでいき、ナチねぇと兄貴もその背中を追って駆けていく。前回休んだ分も頑張るとは言ってたけど、こうまで張り切る姿を見せられちゃ……俺たちだって負けちゃいられねえよな!
「危ない、リビエルちゃん!」
俄然意気込んだのは俺だけじゃなかったようで、ひとつ目の炎の壁を越えてすぐに降ってきた砲撃をブロックしたルシアンの声は揺らぎなかった。咄嗟に庇われたリビエルが息を呑むくらい上手く衝撃を流しきると、すぐに二つ目の炎の壁へと意識を向ける。降り注ぐ砲撃や銃弾をセイロンは笑い交じりに見切っているし、ポムニットさんの声援を受けてリシェルも案外器用に避けている。
「ひゃあ〜っ!お嬢様っそこは動かないのが正解ですっ!?」
「ああもう、ちゃんと聞いてるってばっ!集中が切れるっ!?」
後方支援を頼むって確かに言ったけど、やっぱりポムニットさんって本当に目がいいよな。岩陰から顔を出しては皿のように目を見張ってリシェルを狙う銃弾への注意を叫んでいる。怪我でもしたらすぐ飛び出すつもりなんだろうけど、何だかんだでリシェルも召喚師離れした身の軽さ、あるいはおてんばさが幸いして精々掠り傷しか受けてない。
しかし、これまで相手取っていたのはいかにも機械って見た目の奴らだったけど、銃やら槍やらを装備した人型の機械兵士が出てきただけあって、攻撃の繰り出される位置や高さ、タイミングさえもこれまでとはまるで違っている。変化した敵の攻撃に目まぐるしい攻防が続く戦場、忘れた頃に降ってくる厄介な砲撃はじりじりと精神を削っていって、やっと三つ目の炎の壁を越えたところで俺の眉尻は高く跳ね上がった。今度の制御装置がある場所はなんと岩壁沿いの真下、ローレットに銃弾の雨を降り注がれること間違いなしの位置だ。
「何とかならないかしら……、っ!?」
難しい顔をしたミント姉ちゃんが油断なく片手銃を構えるローレットの姿に息を落とそうとした、そこでばっと振り返る。驚愕に染まった瞳はひとつ目の炎の壁があった場所より遠く、ナチねぇたちが向かった制御装置の方向に向いている。その勢いに釣られて咄嗟に目を向けた俺も息を止めていた。鉄骨の骨組み沿いに召喚された大の大人ほどもある巨像の拳を踏み台代わりに立っている人影。そんな不安定な場所で召喚術の詠唱なんてしているのは、ナチねぇだ!
「そっか……グラッドさんが力を貸してくれた時、確かにいつもより高いところまで術が届いた」
どうしてそんな場所で、と混乱する俺に答えをくれたのは呆然と呟いたミント姉ちゃんだった。あくまで息を合わせるだけのアシスト側と言っても召喚師じゃない人間が協力召喚をするにはコツがいる。姿勢を正して呼吸は静かに、神経を集中させて一点を見据えるイメージだと言うけど、日頃武器を扱っている人間だと自然とその構えが出るのだろう。台座近くで油断なく槍を構えていた兄貴の身体からうっすら魔力が立ち上り、ナチねぇが握るサモナイト石から溢れる紫色の光に溶け合っていく。ぱっと顔を上げたナチねぇがグランバルドより高く、はるか上方に何かを見つけたように瞳を輝かせた。追いかけるように上を見た兄貴の顔がぎょっと驚愕に引き攣る。
「力を貸してね、砂棺の王……霊王の裁き!」
おどろおどろしい雰囲気と怪しい光を引き連れて虚空に現れたのは巨大な棺桶だった。軋むように棺桶から伸びた杖が動いたと思いきや、普段ナチねぇが呼んでるタケシーとは桁違いの圧力が渦巻いていく。ぽかんと見上げるばかりのグランバルドの頭上、きぃんと耳鳴りのような音が響いた次の瞬間。
「はい、どーん!」
指揮棒のように指を振り下ろしたナチねぇが声を弾ませると同時、ずどん、と間髪入れず真っ逆さまに落ちてきた光の柱がグランバルドの巨体を撃ち抜いた。大分距離のある俺たちの足元までびりびり雷が落ちたような振動が伝わってくるんだから、あまりに計り知れない威力だ。きゅう、と力ない機械音をこぼして固まってしまったグランバルドからはぷすぷすと幾筋もの煙が立ち昇り、近くにいたリビエルも愕然と目を見開いた。
「なんて威力……まさかあれは偉大なる死霊の王!?」
「隙だらけだっ!てりゃあーっ!!」
高いところにも届くので助かるんですよ、とでも兄貴に返しているんだろう。穏やかな笑みを浮かべたナチねぇの足元から勢いよく翼を広げて最上段まで飛び上がったのはアロエリだった。視界にすら入らない階下からの召喚術でグランバルドが深手を負ったのが予想外過ぎたんだろう、動きを止めてしまったゲックのじいさんと傍に控えたドリルの機械兵士が立ち直るより早く、アロエリの弓矢が炸裂する。硬直しきったグランバルドはそれがトドメとなり、咄嗟にじいさんの盾になった機械兵士も少なくない損傷を受けて動きが鈍る。その隙を見逃さないとばかりにもう一度、瞳に力を宿らせてアロエリは素早く矢を連射した。急所に鋭い矢尻を受けた機械兵士がぎこちなく崩れ落ちるが、その表面に薄く霜が張ったあたり……もしかして、今度はコバルディアの憑依召喚を掛けていたのか!?
「な、なんじゃとっ!?」
「教授っ!!」
「コーラル、ルシアン!制御装置を!」
ナチねぇの術で攻撃力を強化されていたとなれば硬い機械兵士への猛攻も頷ける。やっと驚愕の声を上げるじいさんを援護しようと、俺たちに牽制の銃弾を撃ち込んでいたローレットまで慌てて振り返るが、その隙を見逃してやるほどお人好しじゃない。脇目も振らずに駆け出したルシアンと竜の姿のコーラルの攻撃で制御装置が動きを止めた。炎の壁が消えるが早いが、ミント姉ちゃんの呼んだブレイドボアが狭い階段を駆け抜ける。背の低い機体は宙を舞い、重量のある奴らは壁際に押し退けられ。開いた道に突っ込んだ俺やセイロン、追いついてきたルシアンが一気に親玉であるじいさんとローレット目掛けて距離を詰める。
「くっ、そう簡単にやられる私では……っ!?」
「確かに、その銃の精度は怖いけどよ。撃てなかったら意味ねぇよな!?」
悔しげに歯噛みしながら銃を突きつけてくるローレットだけど、そこまでだ。あんなに泡を食っていたのにもう立て直したのは立派なもんだが、カウンター気味に突き出した俺の剣の切っ先がその銃口を塞ぐ。動揺に一瞬、動きを止めたところに姿勢を低く飛び込んだセイロンが畳み掛けるように拳を振るった。
「ならば、せめて……っ!」
「ナチねぇ、危ないっ!?」
意を決したように詠唱を開始したじいさんの視線が巨像の拳に立ったままのナチねぇへと向かう。焦りに駆られて叫ぶけど、拳の上から降りるよりじいさんの術が完成する方が早い。甲高い粉砕音を響かせながら現れたロレイラルの召喚獣、ドリトルの姿に兄貴が焦ったような顔をしているが、ナチねぇは動かない。無防備にも立ち尽くすその頭上に高速回転するドリルの切っ先が、容赦なしのドリルハリケーンが真っ逆さまに落ちていくが。
「残念、対策済みです♪」
一度限りで召喚術を無効化する、憑依召喚。絡め手の方が得意なんですよ、と悪戯っぽく笑うナチねぇを覆っていた透明な膜がふっと溶けるように消え落ちた。アロエリに攻撃力を強化するための憑依召喚を掛けたのには気づいたけど、一体どのタイミングでそれを解除して自分に術を掛け直していたんだろう。
「歴戦の召喚師相手に小細工なしの真っ向勝負なんて、そんな怖いこと出来ませんよ。それじゃ、お返ししますね?」
言うが早いが掲げる杖に魔力を集め始めたナチねぇに応えるように、もう片手に握られたサモナイト石が眩しい光を放ち始める。不利を悟ったじいさんが術の射程圏外に下がろうと身を引くけれど、それこそが狙いだったんだろう。
「待たせたな、じいさん!いくぜ、コーラル!」
「ぴぃっ!」
ローレットを撃破してもじいさんへの距離はまだあった。距離を詰める間にもう一発くらい召喚術を打たれることも覚悟していたけど、囮を買って出てくれたナチねぇのおかげでその心配も消えた。はっとした顔で振り返るじいさんの懐へと駆け込んだ俺とコーラル、それぞれ繰り出した剣と頭突きでの連携技が余さずじいさんに叩き込まれていき、最後、大きく息を吸い込んだコーラルが高密度に圧縮された魔力の塊をぶっ放す。一連の攻撃をまとめて名付けて、召竜連撃!初めてのお披露目になるそれをばっちり食らったゲックのじいさんが膝を突けば、ついに勝敗の決着がつくのだった。
そうやってじいさんたちを追い詰めはしたものの、なし崩しだった始まり同様、その終わり方も何とも締まらないものになった。
今日こそ知ってることを洗いざらい吐いてもらおうと息荒く詰め寄ろうとしたそこで、狭い屋内だってのに関わらずグランバルドの奴が砲撃を炸裂させたのだ。じいさんを苛める奴らは許さないって叫んじゃいたが、四方八方容赦なく降り注いだ砲弾は敵味方お構いなしどころか人工サモナイト石のプラントや制御装置にまで向かっていき……地面に伏せたり岩陰にへばりついたりしてどうにか直撃を避けた俺たちがそろそろと顔を上げた先には、大穴の開いた制御装置の前で愕然と立ち尽くすローレットの姿があった。
「あははは……せ、制御装置に……大穴が……」
はは、と乾いた笑いに引き攣った口元から声がこぼれ落ちる。その傍ら、じいさんが米上にビキビキと青筋を立てて腹の底からの怒声を放った。
「このバカものがっ!?閉鎖空間で用いる兵装ではなかろうがっ!」
容赦ない叱責にデカい図体を縮こまらせて、デモ、ダッテ、と言い訳していたグランバルドが妙な音を立てて動きを止めるのはすぐだった。無茶苦茶したせいでオーバーヒートってのを起こしたらしく、じいさんが溜め息交じりにグランバルドを転送するよう指示を出すと、手間の掛かる末っ子ですこと、と呆れ顔のローレットも呟く。その遣り取りに何だか毒気を抜かれちまって、危うくただ見送りそうになった俺は慌ててじいさんを呼び止めた。
「逃げるのかよ!?」
「ああ、逃げるとも。成果は既に上げておるのだからな。義理は果たした!プラントは貴様にくれてやる、好きにするがいい!!」
でもまあ、そりゃ逃げるよな。いやに気前のいいことを言ってじいさんたちが姿を消した後には大穴の開いた制御装置やらプラントやらが残されて、俺たちは暫くの間、呆然と立ち尽くしていたのだ。
結局、じいさんたちの狙いは分からなかったが、そもそも俺たちがここに来たのだって凍った湖を元に戻して魚を取るためだ。冷却装置も壊れた以上、時間は掛かっても自然と氷は溶けていくはずだけど……と、うんうん唸りながら機械を見ていたリシェルの結論を聞いた時にはほっとしたの半分、勘弁してくれと頭を抱えたくなったのが半分だった。これだけの氷が溶けきるのに数時間やそこらで済むはずがない。となると、魚を取るにはやっぱり氷に穴を開けて目当てのキュリアンが釣れるまでひたすら粘らなくちゃならないということで……がっくり肩を落としかけた俺を止めたのは大丈夫とでも言いたげな微笑みを浮かべたコーラルと、岩陰にある何かを見上げたアロエリの姿だった。
「生簀だな、これは」
その視線を追った先、ぽかんと口が開いてしまったのは当然の反応だったはずだ。生簀。それが取った魚を生かしたまま保存しておくための設備だってことは知っていたけれど、岩陰に隠れるような形で収まっていたそれは信じられないくらいバカでかい水槽サイズの物だったのだ。まさか湖中の魚すべてが入っているのか、見たことが有るのも無いのも含めて色んな魚がゆったりと尾びれをくゆらせて透き通った水の中を泳いでいる。火山の中とは到底思えない光景を目の前に、湖の魚をわざわざ避難させたのかとか、一体どうして奴らがそんな真似をとか、皆があれこれ疑問を口にしていたけれけど、そんなことはもうどうでもよかった。
「まあまあ。どんな理由があってのことかは分かりませんが、お魚を取りにきたっていう最初の目的は達成できたんですし」
「ああ、必要な分だけ取って逃がしてやろうぜ」
宥めるようなナチねぇの言葉に同意を込めて大きく首を縦に振った俺は、やっと魚を手に入れた安堵と達成感に自然と笑みを浮かべるのだった。
「ライ君と一緒にお料理なんて本当いつぶりだろう。腕が鳴るなぁ」
とにもかくにも、はるばるルトマ湖まで足を延ばして手に入れた魚、キュリアンが痛まないうちにと急いで取って返した宿屋の厨房で、俺はナチねぇと一緒に早速初めての薬膳料理に向き合っていた。声を弾ませて腕まくりするナチねぇは七分袖の白いシャツに胸元まである群青のエプロンをつけて、前にミント姉ちゃんとお揃いで買ったモスグリーンのスカートを履いている。いつもはガゼルの世話とかで汚れてもいいよう黒のパンツ姿だし、本格的に料理をするから珍しく髪も高いところでまとめて項を出してるし……何だか普段と違った雰囲気でどきどきしてしまって、誤魔化すようにぶっきらぼうな言い方をしてしまう。
「俺とはともかく、今朝はポムニットさんと弁当作ってたんだろ?」
よくよく思い返してみれば、ナチねぇとポムニットさんって結構、仲がいいんだよな。兄貴やミント姉ちゃんたち、大人組は大人組で色々話をしてるのは知ってるけど、ポムニットさんへのナチねぇの態度は前からかなり親身だった。顔を合わせたばかりの頃はそうでもなかったはずだけど、ポムニットさんの方も今じゃナチねぇに少し甘えてるって言うか、気さくな感じがするって言うか……だから弁当作りなんて持ち掛けたんだろうしナチねぇも応えたんだろうけど、俺以外のお願いも聞いてるってのは何だか面白くない。いくらガキっぽい真似をしたくないと思ってても不満な気持ちは抑えきれなくて、包丁やまな板を引っ張り出していく間に自然と唇を引き結んでしまえば、ナチねぇはちょっと目を丸くしてから口元を緩ませた。
「そうだね、ポムニットさんにはライ君のこといっぱいお世話になってるし、お願い事には出来るだけ応えてあげたくって。もし、ポムニットさんから頼まれなくってもお弁当は作るつもりだったしね」
「あんま子供扱いしないでくれよ……まあ、弁当のことなんてすっぽ抜けてたのは事実だけどさ。蚊帳の外にされるのはやっぱ、面白くねえし……」
白身魚とキュリアンに手早く塩コショウを振りかけながらもぶちぶち不平がましく言ってしまう俺を見つめて、ナチねぇはなぜか微笑ましそうな顔をする。それに居心地悪さを覚える俺だけど、端から見ていたコーラルの方はさらに遠慮がない。ひょっとして、ヤキモチ、とカウンター向こうから小声でナチねぇに尋ねているのが聞こえてきて、俺はあえて何も聞こえていない振りを貫いた。せっかくだから作る様子を見ていたいと強請ってきたコーラルに許可を出したのは俺だけど、あんまり図星を突くようなら前言撤回しちまうぞ……?
「ごめんねライ君。次にお出かけする時は一緒にお弁当、作ろうね?」
「本当、約束だかんな?そうだ、その時にはお前にも何かデザートでも作ってもらうとすっかな?」
今度簡単なのを教えてやるからさ、と口角を引き上げてコーラルへと話を振れば、無表情の中に喜色を滲ませて大きく頷く。その姿はやっぱり小さな子供にしか見えなくて、昔の自分の姿を連想してしまった俺は、込み上げてくる懐かしさと奇妙なおかしさの入り混じった感慨に浸った。
子供には大きくて広すぎる厨房で、一人踏み台を引っ張り出してはうんうん唸りながら料理と格闘した頃の自分。誰かと一緒に並んで料理をすることへの慣れなさと嬉しさを持て余しながら、包丁を振るう手にも溢れるほど胸が弾んで仕方なかった頃の自分。いつの間にかすっかり居心地のいい場所に変わっていた厨房には今、俺とナチねぇ、コーラルの三人がいる。心地いい調理音と和やかな会話が満ちる空間はどことなく温かくて、嬉しいのや楽しいのがうっかり顔に出てしまったんだろうか。小さく笑い声をこぼしたナチねぇに気づいて、俺は手を動かすのを止めないまま視線だけを投げやった。
「……なんだよ?」
「ううん、何にも」
「何もないのにそんな楽しそうに笑うことないだろ?」
青々した葉野菜を洗って一枚ずつ肉厚な葉を剥いて、軽くゴミを払ったキノコは薄く削ぐように切って、ナチねぇの手も止まることなく丁寧に食材を扱っていく。それでも顔には隠し切れない笑みが浮かんでいて、魚から滲んできた水気を拭きとりながら俺がもう一度横目で見てやれば、観念したように息を吐いてナチねぇは穏やかに笑った。
「うん、楽しいし嬉しいよ。最近じゃライ君に何かしてあげられることも滅多になかったから、こんな機会が出来て本当に嬉しい。もっと甘えて欲しいなぁって思ってても、ほら、ライ君はとっても頑張り屋さんだし面倒見もいいでしょう?自分だけのことだとすぐ我慢しちゃうから」
「……ライのこと、甘やかしたいんだ?」
コーラルの呟きに、ぐつぐつとお湯が沸き始めた鍋の方を見ながらナチねぇは照れたようにはにかんだ。
「うん、私の勝手な我儘だけど。それにコーラルちゃんのこともね?小さいのに頑張ってる子は特別、応援したくなっちゃうんだ」
「これ以上甘やかされるのに慣れたらマジで困るって……」
気恥ずかしさにぼやくように返した俺と肩を竦めるナチねぇを見て、コーラルが浮かべる表情を屈託ない笑みに和らげる。まるで家族みたいな距離感で、取り留めのない会話をして、その間にも一緒に作る料理は少しずつ完成形に近付いていって。ああ、いいな、と思った。俺はきっとこうした時間が好きで、憧れがあった。ずっと、こうした時間を過ごしたくてたまらなかったんだろう。
「もう、洗わないの?まだ水は濁ってるのに……?」
「これはゴミや汚れを取るのが目的だから、うっすらお米が透けて見える程度でいいの。綺麗になるまで洗っちゃうと美味しいのも減っちゃうんだ」
おコメを研いでいるナチねぇにコーラルが不思議そうに尋ねているけれど、俺もしたことのある質問だ。たまに扱うことのある食材、おコメの炊き方は昔クソ親父にも教わったけど、おぼろげな記憶を頼りにするだけじゃグズグズだったり生煮えだったり、一人の頃はちっとも美味しく炊けなかった。
「同じ方向にぐるぐるかき混ぜるだけで大丈夫。力が強すぎたり早く回しすぎるとおコメもびっくりしちゃうから、優しくね?」
歌うように教えてくれたナチねぇは、昔も今も変わらない。鍋で炊く前に十分水を吸わせておくとふっくら炊きあがるんだとか、おコメが水を吸ったかどうかは色を見て確認するんだとか、ひとつひとつ丁寧にコーラルの疑問に答えている。笊に上げてしっかり水気を切ったおコメを鍋に移すナチねぇを見ながら、僕も出来るかな、と期待と不安の混じった声で呟いたコーラルに俺は軽く肩を揺らしてみせた。
「すぐに上手くいかなくっても何度か挑戦してみればいいんだ。大丈夫、いきなり成功出来る奴なんて滅多にいねーよ」
メインは俺が、付け合せの小鉢や汁物はナチねぇが分担して進めているおかげで話に付き合うくらいの余裕はある。今の時点で工程は約半分、アルバに出すのは丸ごと素揚げにしたキュリアンに特製のあんを掛けるやつだけど、その前に白身魚で試すから……ご飯が炊きあがって蒸らし終わる頃にちょうど完成する見込みだ。湖に向かう前にナチねぇが鶏ガラ出汁を仕込んでくれたこともあってスムーズに進んだから、後はあんかけのあんを仕込むのと、白身魚とキュリアンをそれぞれ揚げ焼きにするだけ。まだ気になることがありそうなコーラルに促すような視線を向けてやれば、おずおずとした声が返ってきた。
「……おとうさんも、最初は上手くいかなかった?」
おっと、思ってもみなかった方向に話が転がった。だけど、おとうさんなんて二人きりの時にしか言わないような呼び方までするくらい本音で尋ねてきたコーラルに向き合わないなんて選択肢はない。うーん、と記憶を掘り下げながらフライパンの温まり具合を見ていた俺は、油を多めに引いたそこに粉をまぶした半身の白身魚を滑らせながら口を開く。
「肉を焼きすぎて焦がしたり、野菜を茹ですぎて溶かしちまったり……本当に小さい頃の話だからそこまで具体的には覚えてねーけど、一発で成功した料理なんてなかったと思うぜ?」
パチパチと植物の種から絞った油が跳ねる。表面がカリカリに焼き上がったらひっくり返して、もう半分も同じようにするだけだ。おコメを炊いている鍋の火加減を見ながら、並行してあんかけのあんを煮詰めていたナチねぇが、でも、と言葉を付け加えた。
「私がライ君に会った時にはもう、すっごくお料理上手だったよ」
「またそんなこと言って。コーラル、本気にすんなよ?ナチねぇに色々教えてもらうまで、俺の料理なんて素人に毛が生えたようなもんだったんだからな」
先に炒めておいたみじん切りのタマネギをあんかけの鍋に追加しながら、そうかなぁ、とナチねぇが適当なことを言う。俺とナチねぇの顔を見比べて、どっちが本当のことを話しているのかと疑問符を浮かべるコーラルに俺はしっかり言い聞かせた。
「よく考えてみろよ?ナチねぇに会うまでは完全な自己流、経験から学んだって言えば聞こえはいいかもしれないけど、ろくに知識もないまま作ってたんだぜ?料理のことを誰かに相談出来たのも、誰かに俺のためだけの料理を作って貰えたのも初めてだったから、だから……」
本当に嬉しかったんだ、と香ばしい焼き目の付いた白身魚を見下ろしながらの声は自然と小さくなる。
ナチねぇと出会った時には確かに一通りの料理は作れるようになっていた俺だけど、それは山ほどの失敗と一人きりの時間を費やしてきたからだ。五つの時から強制的に始まった一人暮らしは否応なしに料理の腕を鍛えてくれたけど、あくまでそこらの子供に比べればの話でしかない。初めのうちはテイラーさんもちょくちょくポムニットさんやお手伝いさんを寄越して食事の用意だとかの面倒を見てくれたけど……どうにも気が引けて、たとえ自己流だろうが一人で料理を作れるようにしたのは俺の選んだ答えだった。
だって、寂しかったのだ。それまでもリシェルやルシアンが遊びに来てくれた時にはポムニットさんがおやつを作ってくれたりしたけど、あくまで俺たち三人のための料理だ。どうしたって作り慣れてるリシェルやルシアン好みの味になるのは仕方のないことで、俺自身、決して苦手な味なんかじゃなかったけど……ずっと羨ましかった。自分のために作ってもらえる料理、好みに合った味付け。そういった、皆にとっては当たり前のものを指を咥えて眺めるしか出来ない自分が惨めで情けなくって。俺は皆と違うんだって、突きつけられるような気がして。一人きりで食べる飯でもないのに何だか、寂しくてたまらなくて。そんな惨めな思いをするくらいなら一人で料理を作って一人で食べる方がずっとマシだった。
どうせならうまいもんを食いたかったってのも嘘じゃないけど、一人で過ごす膨大な時間を持て余すあまりに料理にのめり込んでいったというのがきっと正しい。どうして上手く出来なかったのか、どうしたらもっと美味くできるのか。夢中になって考えたり試してる間だけは、ひとりぼっちの寂しさなんて忘れた。一人でも何とかなるんだって、本気でそう勘違いしちまうくらいにひたすら料理に明け暮れた。
でもナチねぇに会って、俺は知った。いっぱい料理を作ってもらって、たくさんのことを教えてもらって、一人の時とは全然違う毎日を過ごしていって、まだまだ知らないことばかりなんだってことを知っていった。茹でると苦い青菜も油で炒めると甘くなるだとか、繊維が筋張って気になる野菜も酢漬けだとかにして歯触りを楽しむものに出来るだとか、そういった些細なひとつひとつも全部、ナチねぇと暮らすようになって知ったことだ。教えてもらったことだ。だからナチねぇに作って貰った料理も、教えてもらった知識の数々も、ナチねぇ自身が想像するよりずっとずっと、俺にとって大事な宝物だった。
「そんなふうに言われたら困っちゃうな……このお店の料理人はライ君だし、出しゃばるような真似はしたくないのに、また腕を振るいたくなっちゃう。今じゃライ君の方がずっと料理上手なのにね?」
「そんなことねえよ!?ナチねぇの作る料理は本当に美味いし、毎日だって食いたいくらいだし、ただ、俺が皆には内緒にしたかっただけで……」
「ふふっ、知ってる。あれだけ美味しいって言われたら疑えるはずないよ」
カリカリに焼き上がった白身魚をフライ返しに引っ掛けながらもごもごと口ごもっていれば、茹でた青菜やキノコを敷いた器を差し出しながらナチねぇは声を綻ばせた。ちょうど出来上がったあんを鍋の縁に付いた注ぎ口からゆっくり流し掛けていきながら、思い返すように目を細めるナチねぇの声には懐かしむような響きがあった。
「何を作って出しても美味しいって言ってくれるんだもん。嬉しかったけど結構困ってたんだよ、あの時?ライ君の好物が中々分からなくって」
うっ、と言葉に詰まって、あんの上からウルフベリーとアニスシードを散らし掛けていた手も止まってしまう俺にコーラルが大きく瞬く。四年前、今よりずっと子供だった頃の俺にとってナチねぇに作ってもらう料理はどれも言葉どおりの特別だった。特にシチューだとかポトフだとかの家庭料理は話にこそ聞いていても想像でしか知らなかったし、ずっと小さい頃に家族で作った料理の記憶も僅かでおぼろげなものだったから、ナチねぇに作ってもらったそれが正真正銘初めての味になることも多かった。何を食べても美味しくて、嬉しくて、食事の度に新鮮な感動と驚きに呑まれていたほどで、そのせいでナチねぇを悩ませたんだけど。
「そうなの……?でも、分かったんだ。小さかったおとうさんの、好きな物」
「よーく観察してね、一番フォークの進みが遅い料理がそうなんだって分かったんだ。それに気づくまで時間は掛かっちゃったけどね」
「意外。苦手な物じゃなくって……?」
驚いたように目を見張るコーラルと微笑ましげに語っているナチねぇに、もうここまで来たら潔く白状した方が良さそうだと観念する。皆にバレたら俺だけの特別じゃなくなっちまうかも、なんて見当違いな不安と嫉妬に駆られていたのが急に馬鹿馬鹿しいような気分になってきて、大きく項垂れついでに息を吐いて俺は呟いた。
「……勿体なくて食べ終わりたくなかったんだよ。こんなうまいもん食えるの最後かもって思ったら、なおさら惜しくなっちまってさ」
少しだけ面白くない気分は引きずっているけれど、さっきのナチねぇの言葉で不安の方はただの杞憂だったって分かった。数年来の子供っぽい独占欲はそれでも良い顔をしてないけれど、セイロンやリビエルたちにもナチねぇの料理の腕は知られるところになったんだ。それこそ今更でしかないんだしとも曇った気分は振り切って、それより、と菜箸の先であんと一緒に白身魚をほぐしたのを摘まみ上げる。
「少し味見してみたけど、いい感じだと思うんだよな。キュリアンの方は予定どおり素揚げで仕上げちまおうと思うんだけど、どう思う?」
「ちょっと待ってね……うん、これなら良さそう。お味噌汁も温め直して、和え物の方も小鉢によそっちゃおうか?」
「それじゃ、僕、様子を見てくる……それと、もうじきご飯だよって伝えてくるね」
ナチねぇが頬を緩ませて頷けば、慣れた仕草でカウンター席から滑り降りたコーラルが廊下の奥へと消えていく。なるべく出来立ての料理を食べさせてやりたくってミント姉ちゃんに相談した時はまさか、アルバを宿屋に一泊させる許可まで貰えるとは思わなかったけど……アルバの奴、ちゃんと部屋で大人しくしていただろうか?悶々と考えこみながら手を動かしていたらまたナチねぇが笑った気配がして、まったく、と俺は怒ったように声を尖らせる。
「ナチねぇから見たらまだまだガキかもしれねえけど、俺だって日々成長してるんだぜ?」
「うん。それも知ってる」
冗談交じりに軽口めいた言葉を返したけれど、聞こえてきた声の静けさに動きが止まった。無意識に顔を上げて振り仰いだ先、ナチねぇは手元を見つめたまま、何かを堪えるように唇を引き結んでじっと動きを止めていた。辛そうな顔じゃない。苦しそうな感じでもない。淡々とした、凪いだ湖面のような眼差しには分かりやすい感情の色は見つからなくて、思わず息を呑んだ俺に気づいたんだろうか。ふっと息を吐き出すように淡い色の唇が囁いた。
「イオス君たちとね、あんなふうに話せる時がまた来るなんて思ってもみなかった」
ぽつぽつと語りだしたナチねぇの声はまるで雨みたいだった。静かに降りしきる春の雨みたいな言葉の滴が、少しずつ、その場に染み込んでいく。
「もう、あの頃みたいな付き合いなんて出来ないって諦めてた。仕方ないって受け入れてた。偶然でもあんなふうに出会えなかったら……ううん、それでも私一人だったらきっと、話を聞いてもらうどころか向き合うことも出来なかったはず。怖くて逃げだしていたかもしれないし、目を閉じて耳を塞いで蹲るだけで精いっぱいだったかも。イオス君たちと向き合えたのは……話をすることが出来たのは、あそこにライ君がいてくれたから」
伏し目がちに言葉を綴っていたナチねぇが顔を上げる。泣きそうに緩んだ笑みに目尻が垂れて、柔らかな弧を描いた唇は震えを帯びている。嬉しくてたまらなくても身体は震えるんだってことを思い出した俺へと頷くように、こぼれるような笑みが満ちる。
「優しいのはそのまま、本当に大きくなったね。……ありがとう、ライ君。私が今、笑っていられるのはきっと、あなたのおかげだよ」
ナチねぇと家族になりたい、ずっと一緒にいたい、そうした気持ちとは別にずっと願っていたことがあった。いつか心に決めた、誰にも言うつもりのない誓いを胸の奥底に抱えていた。
ナチねぇの一番の味方でありたい。
何があっても手を差し伸べてやれるような、どんな時でも迷わず助けに飛び込めるような、そんな相手になりたかった。少しでも頼って貰える自分になりたくて、守られるだけの子供じゃイヤだった。貰ってばかりの自分じゃイヤで、少しでも支えられる存在になりたかった。どこまで行っても子供の括りでしかない俺にはそんなの無理だって、囁く声はいつも聞こえていた。だから一日でも早く、大人になりたくてたまらなかった。それでも、そんな俺を認めてくれるひとがいた。ありがとうって、ナチねぇに寄り添っていた俺のおかげだって、イオスは言ってくれた。俺がいるから今、笑っていられるんだって、ナチねぇだってそう認めてくれた。
子供であるうちは与えられるままを受け止めるしかないのかも、と前に考えたことを思い出す。けど、そうじゃなかったのかもしれない。お行儀よく分かった振りをしていても、それじゃ俺が目指す大人ってもんにはなれない。少しずつでも出来ることを増やして、がむしゃらに目の前のことに取り組んで、一歩ずつでも前に進んで行く。それがきっと一番の近道なのだと、言葉も出ずに立ち尽くすまま俺はぼんやりと考えている。
そうやって完成した料理は、思いのほか快く受け入れられた。
「うん……こう言っちゃなんだけど、想像してたよりずっと食べやすいし、おいしいよ!」
「そ、そうか?へへ……なんか照れるな」
今回アルバに作ったのはカリカリの素揚げにしたキュリアンに甘酸っぱい味付けのあんをたっぷり掛けた一品で、言ってみればキュリアンのあつあつトロトロ薬膳あんかけってやつだ。付け合わせには青菜とキノコの和え物に固い実を粗く砕いてまぶした小鉢、セイロンの扇子みたいな形に切ったダイコンと細かく切ったネギを具にした味噌汁、そして白いご飯。病み上がりのアルバを気遣ってなるべく食べやすく美味しい味付けにしてくれたのはナチねぇで、その分本来のシルターン料理の味とはズレちまってるらしいけど、こうやってフォークが淀みなく動いている様子を見てるとほっとしちまうな……料理の作り方はナチねぇやセイロン、材料集めは皆が手伝ってくれたことを伝えれば、ぽかんと口を開けたアルバはふと目尻を下げてはにかんだ。
「本当に嬉しいよ。おいらのために作ってくれたものってだけで格別においしいし、なんか懐かしいんだ。こういう気持ちのこもってる料理って」
軽く煮たシルドの実とショウガ入りの蜂蜜紅茶を食後に出していた俺に目を合わせて、アルバは心底からの感謝が滲む笑みを浮かべてみせる。
「ありがとう。ライのおかげで何だかものすごく元気になれそうな気がするよ」
それがどうにも嬉しくって気恥ずかしくって、俺は赤くなった耳を隠すように目を逸らしながら照れ笑いを返した。たかが料理ひとつで怪我が治ってしまうなんてことは有り得ないんだろうけど、それで少しでもアルバが元気になってくれればいいって、心からそう思ったんだ。
アルバのおこぼれって形になるけれど、余ったキュリアンと白身魚を使った料理はリビエルたちの夕飯に出すことにした。廊下ですれ違った時にも興味津々と言った様子で覗いてきたし、自分たちも協力した料理の出来栄えが気になって仕方なかったんだろうな。それに、皆の協力で作り上げた特別料理なのに味見のひとつもさせずに終わるなんて他の誰が許そうとこの俺が許せない。人数分きっちり追加で炊いたご飯をよそって味噌汁も注いで、アルバと同じような見た目に整えたプレートがそれぞれの目の前に並んですぐ、驚いたような声や溜め息のこぼれる音が聞こえてきた。
「……おいしい。薬膳料理って言うくらいですから多少はお薬みたいに苦いのかと思ってましたけど、奥深い味わいで、甘味と塩気に少しの酸味が効いていて……!」
「おお、これは見事!多少味付けを変えているようだが、この方がずっと若者の口には合うだろうな。あえて変化を入れたと見たが、如何かな?」
「やっぱりセイロンさんには分かっちゃいますか。ええ、なるべくこの世界で普及してるもので代用してみたんです。調子を崩している時はやっぱり食べ慣れているものの方が食も進むでしょうし……」
思いのほかいい反応が返ってきたことにくすぐったい気持ちを覚えている間にも、セイロンとナチねぇの話は楽しげに弾んでいく。アロエリも軽く目を見張った後は黙々とフォークを進めているし、リビエルも味の秘密を探るように時折箸を止めては真剣な顔をして何か呟いている。その反応がよほど気に入ったのか、横から口を出したセイロンが漢方の奥深さやらを話し始めちまってるが……食材にも身体を冷やすものや温めるものがあるだとか、食材の味や効能はそれぞれ五つに分かれるだとか、知識の天使としての好奇心と目の前の食事への興味とで板挟みになったリビエルが腹に据えかねたように声を上げるのは早かった。
「興味がないわけではありませんが、お料理は温かいうちに食べさせてくれませんこと!?」
そんな賑やかな遣り取りの間、テーブルの足元近くではプニムやシズクたちも美味そうに俺の作った料理を味わっていた。やっと味の調整が上手くいったメイトルパの召喚獣向けの料理……スライミーグミや苦い棒、天地全象チョコといった料理の中でもとりわけ気に入ったものを選んで食べているのか、シズクはゆっくりと噛みしめるようにスライミーグミばかりを延々と食べている。あれだけダメ出しをくれたプニムも今回は文句なしの合格点なのか、まるでチョコしか見えていないような勢いだ。顔を上げる余裕もないくらい夢中になってがっついている様子を見ると……へへっ、何だか嬉しくなっちまうな。後でガゼルにも差入れしてやろうと考えていると、隣で無言で箸を動かしていたコーラルが満足めいた溜め息をこぼした。随分口に合ったんだろう、目の前にある皿はどれも綺麗に片付いている。
「しかし、この味を知るのが我らだけと言うのは惜しまれる。おお、そうだ!店主よ、これに魚菜薬膳とでも名を付けてメニューに加えるのはどうだ?」
「それはいいけど……メインの食材を白身魚に変えるとしても、そう頻繁に魚を取りに行くような余裕はないしなぁ」
「なに、そこはアロエリも力となろう。遠慮などせず存分に頼るがいい!」
勝手なことを言うセイロンに初耳だったらしいアロエリが目を剥いて驚きの声を返しているが、まあ、働かざる者食うべからざるだしな……それならそれで、と頷いた俺を見てセイロンは声高らかに笑い、アロエリは何とも言えない顔をして天を仰いだ。それでもやらないとは言わないんだから、何だかんだで律儀な奴だよな。だけど、これで期せずして新メニューまで手に入ったってわけか。
「やったね、ライ君」
こっそり笑いかけてくるナチねぇに目だけで笑い返したところで、俺はふと自分の変化に気づいた。ちょっと前まではナチねぇが他のやつらと仲良くしていたり話していると気になってやきもきしてた気がするけど、今は不思議なほど落ち着いている。動じずに見守ることが出来るくらいには、俺も大人になってきたってことなのかな?ゲックのじいさんがあそこで何をしていたのかとか、それを知っているように見えるセイロンたちはどうして黙っているのかとか、色々気になることはあるけれど、そんなささやかな発見に気持ちが少し弾んでしまう。少しずつでも成長してるんだって胸を張って主張したいような、そんな気分になってる時点でまだまだ子供なんだろうけどな。
「今のライ君の作る料理を食べたら、きっとミニスも驚くだろうなぁ……ふふ、今から楽しみです」
「ああ、もうじきこの町を訪ねるとかいう……確か、リシェルと同じ金の派閥に属する召喚師、というものでしたっけ?」
「必要とあればその間、我らは姿を隠しておいた方がいいかね?」
待ち遠しそうに呟くナチねぇにリビエルとセイロンがそれぞれ反応を返すが、その必要はありませんよ、と軽く笑ってナチねぇは首を横に振る。召喚獣の立場からすれば派閥の召喚師なんて当然、警戒の対象でしかないだろうけど、今回ばかりはその心配もない相手だって断言できる。俺もナチねぇに同調するように緩い苦笑に肩を竦めてみせた。
「そういうの全然気にする相手じゃねーからさ。もう何年も前からの知り合いだけど、ちゃんと誓約を結んでるわけじゃないガゼルやプニムのことだって何も言ってこねーし、年だって俺よりひとつ上なだけだし」
「それでも金の派閥有数の実力者で、私のお仕事の専属担当者でもあるんですよ」
まるで自分のことのように誇らしげに胸を張るナチねぇに、さっきまで穏やかだったはずの胸の内にじわじわと波風が立ってくる。おかしいな、俺も少しは余裕ってもんを手に入れたはずなのに……?内心頭を捻りながら眉根を寄せてしまえば、子供だなとでも言いたげな目を俺に向けていたアロエリが念押しのように尋ねるのが見えた。
「そいつは本当に、信頼に値するニンゲンなんだな?もしも俺たちの同胞を道具のように扱う奴なら……」
「そこは大丈夫。だって彼女の一番のお友達は小さい時からずっと、幻獣界メイトルパの子ですから」
言葉もなく目を見張るアロエリにどこか嬉しそうに瞳を和らげてナチねぇが微笑んだ。それに、と続いた声には深い信頼が滲んでいる。
「ミニスはイオス君と同じ、私の大事なお友達なんです」
私には勿体ないくらいいい子なんですよ、と。
その言葉を受けてはっきり浮かび上がってきたのは余裕とも落ち着きとも程遠い感情で、何とも言えない情けなさに目を逸らしつつどうにか取り繕おうとした俺だけど。ぽんぽん、と労わるように肩を叩く感触に振り向いた先、チョコまみれの口で憐憫の眼差しを向けてきたプニムと見つめ合う。励ましとも慰めともつかない肩叩きがもう一度繰り返されたそこで、俺は無言のままプニムの耳らしき部分を持ち上げるのだった。
料理の下調べや戦闘の検証に時間取られました。こういう地道な日常描写が後できっと実を結ぶんだ。なお、こちらの話は少し良い方向への誤差が生じます。