8:流れ三味線、はぐれ弾き
年季の入った木製シャッターをがたつかせながら巻き上げて、テラス席まで入り込んだ落ち葉や砂を掃いていく。ぴかぴかに拭き上げた丸テーブルには真っ白なテーブルクロスを引いて、コーラルの摘んだ花を飾った一輪挿しを置いていく。窓から差し込む日差しを浴びて輝いているような食堂の床を眺めてひとつ頷くと、満を持してチョークを手にした俺は玄関横に立てたメニューボードに向き直った。
さて、新メニューの魚菜薬膳はおすすめの一番上に書くとして、ついでに魚の絵でも描いておこうか?少しでもお客さんの目に留まった方が注文が増えるかもだしな。日替わりメニューのプチデザートはスノーフローズンと完熟果実のプリンで選べるようにしたけど、それぞれ限定何食かはしっかり強調しておかないと。注文を受けたのに品切れだったなんて笑えないし、こっちでも小まめに残数は把握しなくっちゃな。甘酸っぱいベリーソースや砕いたナッツでの仕上げはコーラルやリビエルにも教えてあるし、セットの飲み物に追加したアイスコーヒーやアイスティーは十分仕込んでおいた。一気に注文が立て込んでも何とかなるとは思うけど……肝心要のお客さんの反応はさあどうなるか。
ちょっとの不安と大きな期待に胸をそわつせながらチョークの先を滑らせるうち、自然とさっきまでのことを思い出す。朝の鍛錬ついでに、こないだ約束した稽古をコーラルに付けてやったのだ。竜の姿の時は武器なんて持てないから当然だけど、これまで身ひとつで戦っていたコーラルが初めて興味を示したのが武具だったのはある意味、ちょうどよかった。リーチのある剣や槍と違って、直接手足に付けて振るう武具は身体の延長としての感覚を掴みやすい。基本の型と動作さえ覚えれば後はどうとでも応用が利くし、もっと本格的な技を覚えたいって時にはその道の専門家であるセイロンもいる。初めてだしまずは様子見、念のためセイロンにも立ち会ってもらって軽く動きを見るだけのつもりだったんだけど……少しばかり熱が入りすぎてしまったのは否めない。
「二人とも、ちょっと頑張り過ぎちゃったみたいだね?コーラルちゃんはもう少し休んでいようか」
裏庭の木陰に広がる草地の上、ナチねぇの膝に頭を預けて仰向けに転がったコーラルは完全にバテていた。うん、と掠れた声で返す間もその胸は忙しなく上下してるし、汗で濡れた前髪は額に張り付いてしまっている。さすがは御子殿、見上げた根性よとセイロンは満足げにうんうん頷いていたけど、立ち会っていたのがもしリビエルだったなら血相を変えてコーラルを心配したり俺に文句を言っていたところだろう。
「悪い、コーラル。初日だってのに飛ばし過ぎちまったな……」
草を食んでいたガゼルにまで横目で見られてバツの悪さを覚えながら傍にしゃがみこんだ俺だけど、内心感心もしていた。
ひょっとしてこれまでも、俺やセイロンの動きを目で追っていたんだろうか?遺産の力で継承したのは竜としての身体能力だけのはずだけど、コーラルの立ち回りは中々様になっていた。対峙する俺から決して目を離さず、籠手を付けた腕の勢いに振り回されるこもとなく、時々カウンター気味に鋭い一打を繰り出してくる。もちろんまだまだ実戦で通じるレベルじゃないし、セイロンのような攻防一体の動きには程遠いけれど、気迫さえ感じるその真剣な面持ちを前にしたらつい、本気で向き合いたくなってしまったのだ。
「ううん……少しでも早く、強くなりたいから。だから、また……稽古、付けてもらってもいい?」
それだから、俺を見上げたコーラルがかすかな笑みを滲ませた時、間髪入れずにもちろんと笑い返していた。どうしてそんなに早く強くなりたいのか、なんてわざわざ聞かなくたって想像は付く。だけどどんな気持ちからの目的であれ、コーラルが少しでも俺を頼ってくれるのなら親としてその期待に応えたい。積み重ねた努力と鍛錬は絶対に裏切らないんだって、出来る限り方法で伝えてやりたい。そしてこれ以上、コーラルに余計な心配を掛けなくて済むように……
「……うっし、出来たっ!」
まずは本業にしっかり励んで、日々の生活くらいは安定させなくっちゃな!
文字の埋まりきったメニューボードからチョークを離して、満足の行く出来映えに大きく頷く。そうして意気込み十分に店を開けたはいいけれど。
「中々、上手くはいかねえもんだなぁ……」
僅か半日後、昼食後の休憩がてら部屋で帳簿を付けていた俺は、ペンを片手に力ない溜め息を落としていた。
別に、お客さんの反応が思ったより良くなかったとかじゃない。ランチタイムは盛況そのもの、コーラルたちの手伝いがあって何とか捌き切れたくらいの繁盛ぶりだった。初日の物珍しさもあってだろうけど魚菜薬膳は売切れ御免、スノーフローズンと完熟果実のプリンは単品で欲しいって声まで聞こえたし、間違いなく好調な滑り出しだったはずだ。だから俺の頭を悩ませているのはもっと別なこと、宿屋や料理の評判とは関係のない、コーラルや御使いたちの抱える事情そのものについてだった。
「それにしたって分かんないのはさ、どうしてあいつらマナ集めなんてことをしていたのかしらね?」
毎度のごとく朝食を食べに来ていたリシェルがふと思い出したように呟いた声が発端だった。最近じゃ何もなくとも朝のうちに一度、皆が食堂に集まるようになっている。先に食事を済ませていたセイロンたちはいなかったけど、何となく緩んだ空気の中にはミント姉ちゃんや兄貴の姿もあって、リシェルの疑問を受けてそれぞれ首を傾げたり顔を見合わせている様子が見えた。
「そういえば……どうしてなんでしょう?」
「コーラルを捕まえるために必要だったのかな?」
お茶を注いでいた手を止めて頬に人差し指を当てるポムニットさんの傍ら、うーん、とルシアンも不思議そうに首を捻る。そこに答えをくれたのは予想外の声だった。
「いや、むしろ御子様を捕らえられないから、あのようなことをする必要が生じたのだ」
神妙な顔をしたアロエリに続いて、セイロン、リビエルも廊下から食堂に入ってくる。どういうことだと疑問符を浮かべる俺たちの顔を見渡してナチねぇの傍にいるコーラルを見つけると、セイロンは一度目を伏せてから顔を上げた。
「……それを説明するには、ラウスブルグとはどのようなものか話をせねばならぬだろうな」
既に結論は決まっているような断固とした声を受けて、それでリビエルも腹を括ったんだろうか。無言で同意を示すアロエリや真剣な面持ちのセイロンを横目で見ると、眼鏡の横に片手を添えて意を決したように口を開いた。
「ラウスブルグとは、人間たちの言葉で言い換えたなら呼吸する城、という意味に当たるの」
「なんで城が息なんかしたりするんだ?」
「言葉の綾ですわよ、真に受けないでくださいます?」
思わずと言った様子でこぼした兄貴がぴしゃりと返されて、すみません、と見るからに小さくなる。けれど、それでいくらか緊張が解れたところもあったんだろう。セイロンが声を上げて笑うと一気に場の空気が和らいだ。
「無論、城が呼吸しているのではないぞ。呼吸をしているのは城を覆うように育った、ラウスの命樹だ」
「育った、ってことは、それって木なの?」
「ただの木ではない。ラウスの命樹はメイトルパでも特別な樹木で、妖精たちと深い関わりを持つんだ」
穏やかな声に促されるようにルシアンが尋ねれば、アロエリが緩く首を振って静かに答える。今度それに反応したのはミント姉ちゃんだ。
「それって、もしかして妖精樹のことじゃありませんか?」
「知ってんのか?ミント姉ちゃん」
驚きの声を上げてしまえば、皆の視線の先でミント姉ちゃんはおっとりと頷いた。
「うん、お師匠さまから聞いたことがあるの。幻獣界に暮らしている妖精の一部は他種族と関わることを嫌って、妖精郷という名の閉じた世界を作ってその中で暮らしている。それを支えてるのが妖精樹と呼ばれる特別な木なんだ、って」
「そのとおりですわ。妖精樹……ラウスの命樹はマナを宿すことで外界から隔絶された特別な空間を生む力を秘めているの」
ああ、そういう仕組みなわけか……深い納得を覚えつつも顔には出さないようにしながら話の先に耳を傾ければ、説明を引き継いだセイロンとルシアンの遣り取りが聞こえてきた。
「当然だが容易く出来ることではない。妖精や竜のような古き秘法を知る存在にのみ可能な技だ」
「じゃあ隠れ里っていうのはもしかして……ラウスの命樹の力を使って隠れてたからってこと?」
「ああ、そうとも。ラウスブルグは先代である守護竜の魔力によって隠され、守られてきたのだよ」
静かに話を聞いていたコーラルも今や、食い入るようにセイロンを見つめている。厳かな声で明かされた事実に皆もそれぞれ驚愕なり納得なりの表情を浮かべているけれど……しかし、なるほどな?段々読めてきたぞ。
「その守護竜ってのがいなくなっちまったってことはつまり、隠れ里を維持することが出来なくなるってことだ。コーラルを狙うのもマナを集めていたのも全部そのためだったってワケだな、うんうん……あいでっ!?」
「なに一人で分かったような顔してんのよっ?」
と、いきなり後頭部をすっ叩かれて声を上げてしまうが、リシェルはさも当然とばかりに俺を半眼で睨んでいる。別におかしなことは言ってないつもりだが、一体なんで拳が飛んできたのか。そんな不満と疑問を眼差しに込めて突き返したけれど、バッカねぇ、とすかさず飛んできた呆れ声に俺は目を見張ってしまった。
「そもそも、ただ隠れ里を維持したいだけなら力づくで守護竜を屈服させる必要なんてないじゃないの!」
「あ!?」
言われてみればそのとおりだ。敵の大本であるクラストフの奴らがどんな謳い文句で同胞だった連中を焚き付けたのかは知らないが、少なくともラウスブルグをただ隠れ里として使いたいだけならそこまでの強硬手段に出る意味は無い。そんな目的ならコーラルの親である先代の守護竜が自ら死を選ぶような真似をしたとも思えないし、となると敵の本当の狙いはコーラルを捕まえることでもラウスブルグを隠すことでもなく、その先の……もっと別の何かだったってことになる。そしてそこには。
「逆に言えば、力づくに出ることさえ厭わぬほどの利益があった。そう考えるのが自然だ」
「……そのとおりだ」
深刻な表情で呟いた兄貴にセイロンが肯定を示した。と思った途端にアロエリの鋭い制止が掛かるも、セイロンは構わず先を続けた。
「ラウスブルグにはそうした価値がある。だが、それについて今ここで語ることは我らには出来んのだ」
「……なんでだよ?」
お前たちは部外者だから、と見えない境界線を急に明らかにされた気分になる。けれど反射的に食って掛からずに済んだのはたまたまだ。この期に及んで一体何を黙っているつもりなのか、むっとしてしまうのは止められなかったけれど、思い返せばこいつらは何かを決めたり打ち明けようとするたびに御使い同士での相談を挟んできた。それを裏付けるようにアロエリやリビエルまで、御使いである自分たちにとっても秘中の秘に当たるんだとか、守護竜の許しがなければ語ってはいけないことなんだとか、口々に訴えてくるけど、その守護竜ってのがもう……。
さすがにその先はコーラルもいる場で口にするのは躊躇われて口ごもっていれば、深い息をひとつ、セイロンが視線ごと項垂れるのが見えた。
「無論、先代なき今それが叶わぬことは理解しておる。されど……少なくとも御使い全員の同意が得られなければ話すことは出来ぬ。すまぬが曲げて理解して欲しい」
セイロンのその頼みに、結局、俺は何も答えなかった。答えられなかった、って言うのが正しいだろうか。上手い返しが思い付かなかったのもあるし、口を開いたら思ってもいない言葉をぶつけてしまいそうだったのもある。多分、納得のいかない表情を浮かべていたんだろう俺に薄い苦笑を浮かべて、すまぬな、とセイロンは独り言ちるようにもう一度繰り返した。
「あれはむしろ、私たちを気遣っての言葉かもしれませんよ?」
ミント姉ちゃんや兄貴もやっぱり不満に思うのは止められなかったみたいだけど、ナチねぇなんかは特に気にした様子もなく皆を宥める側に回っていた。
「莫大な価値のある情報というのは知ってしまうだけで身の危険に晒される、災厄のような一面もありますから」
知ってしまえば知る前には戻れませんし、と呟いていたナチねぇがどんな表情を浮かべていたかまでは分からないけど、意外なことにリシェルもナチねぇと同じ側の考えだったらしい。口ではなんだかんだ言いつつも、リシェルは自分が利益の追求を主とする金の派閥の召喚師って立場にあることをよく理解している。隠し事をされるのは不満だけど、それが当然の反応だってことも分かるから、一方的に腹を立てたり文句を言うことも出来ない。そんな葛藤が滲んだ仏頂面で黙り込んでいたのを思い返しながら、でもなぁ、と俺はうだうだと繰り返してしまう。
セイロンの言い分も分からないわけじゃない。仲間ってだけで無条件で秘密を曝け出せるような間柄じゃないのはお互い様だし、どこかで見えない線引きをしていることには前々から気付いていた。だけど、ここまで一緒に戦ってきたのにそれはないんじゃねーかって不満に思ってしまう気持ちも本物だ。さすがに事情の全部を打ち明けろなんて横暴な主張をする気はないけど、今後もコーラルを守っていくことを考えるとさすがに、もう少しくらいは情報が欲しい。ただ、無理強いをしてまで聞き出すような真似はしたくねーし……いや、本当どうしたもんかね……?
考えれば考えるほどもやもやが広がるばかりで、塞いだ気分と行き場のない感情に自然と唇はへの字を描いてしまう。大仰に肩を落として溜め息なんか吐いていたせいだろう、うっかりノックの音を聞き逃しそうになった俺は慌てて声を張り上げた。
「どうぞ!……って、アルバ?」
「ごめん、もしかして邪魔だったかな?」
「いや?それよりも足の具合はどうなんだ?」
申し訳なさそうな顔をして廊下から覗いているアルバにすぐさま笑みを取り繕って返す。ただでさえ怪我をしているアルバに心配掛けるわけにはいかねーしな。
「うん、おかげさまで骨の方はちゃんとくっついたみたいだ。あとは落ちた体力を取り戻さなくちゃね」
ミント姉ちゃんが殊更目を光らせているおかげだろう、あれからアルバが無茶をする機会はなかったらしい。その甲斐あってこの短期間でとは思えないほどの回復力を見せているのは聞いていたけれど、朗らかな笑みのアルバを見ていると何だかほっとしちまうな。けど、それが本題ってわけでもなさそうなのに中々続きを口にしないアルバに怪訝に思ったところだった。
「……あのさ、イオス副隊長と話した時からずっと思ってたんだけど。随分と大変なことになってるみたいだよな、君たちの事情って?」
ああ、と俺は何とも言えずに曖昧な笑みを浮かべた。あの時のアルバには余計なことを気にせず休んで欲しかったから、イオスもミント姉ちゃんも、もちろん俺もウチの状況を詳しく説明しなかったんだけど。まあ、どこからどう見たって異常すぎるもんな……アルバが勘付くのも無理はない。否定するでもなく言葉を濁していると、不意にその凜々しい眉を顰めてアルバは俺を見つめてきた。
「その、辛くないかい?ただでさえ一人でお店を切り盛りしてるだけでも凄いのに、沢山の厄介ごとを抱えてさ。君は辛いとか思ったりしないのかい?」
「そうでもねえって、これぐらい別にどうってことないさ。過ぎたことに文句を言ったって状況は変わらねーしな。それにたとえ今が最悪だって思っても次の瞬間が最良になるかもしれねーし」
不意打ちの気遣いに一瞬呆けちまったけど、軽く笑って返す。まあ、さらに最悪になっちまうこともあるんだけど、人生なんてそんなことの繰り返しだって気付いちまえば、先のことであれこれ思い悩むのなんて馬鹿馬鹿しくなっちまったのもあるし。それに、アルバはひとつ勘違いをしている。
「あと、別に一人きりで頑張ってるわけじゃないしさ?店の責任を負っているのは確かに俺だけど、嬉しいことや大変なことを一緒に分かち合ってくれる……家族だっているし」
「ああ、あの人は君にとってそういうひとなんだね」
おいらにとってのリプレ母さんみたいな、と小さく呟いたアルバに、照れ隠しではないけれど頬をかきながら俺は言葉を締め括った。
「瞬間瞬間、全力で悔いのないように生きる。それが俺のモットーって言うのかな。だから今のこの状況だって大変かもしれねえけど、不満だとかはねえよ」
全力で妥協せずに楽しむ、ってのがクソ親父のよく言っていた言葉だけど、そのまま受け売りってのも癪だからいつだか自分で決め直した言葉だ。いつ何があるかも分からない人生なら、少しでも後悔がないように生きていきたい。そんな一心で決めたモットーを告げたところでひょっこりとアルバの後ろから顔を覗かせる影があった。コーラルだ。
「町に行く約束……やめに、なったの?」
「あっ、悪い!?」
待ちくたびれ、と不貞腐れたように頬をかすかに膨らませたコーラルに慌てて返しながら壁時計を見上げてみれば、ちょっと立ち話をしていただけのつもりが思いのほか時計の針が進んでいる。今日のランチタイムでは散々戦力として頼らせてもらったってのに、悪いことしちまったな。書きかけの帳簿を閉じて背もたれの上着と財布を引っ掴めば、おかしそうに俺たちの遣り取りを見ていたアルバが一歩下がって道を空けてくれた。
「ごめん、おいらが引き留めちゃってたんだ。二人とも、いってらっしゃい」
「おう、それじゃアルバ、また後でな!」
微笑ましそうな笑みを浮かべて見送ってくれるアルバに手をひらつかせながら返して、俺はコーラルと一緒に階段を下っていく。今日はディナータイムもあるからあまりゆっくりは出来ないけど、それでもこんなに良い天気なのだ。せっかくだから門前の広場の方まで足を延ばそうかと話しながらの足取りは、いつの間にか弾むようなものへと変わっていた。
「そういや午前は何してたんだ?」
「セイロンのお手伝い。野菜とか果物の皮、いっぱい剥いて、それから……シズクたちにおやつをあげたり?」
「ああ、こないだナチねぇと作ってたやつか」
昼下がりの日差しはぽかぽか温かくって気持ちがいい。溜め池を過ぎる頃には日向ぼっこでもしている気分で、ぶらぶら大通りを歩きながら俺はコーラルと他愛もない話をした。
召喚獣向けの料理を作れないか、あれこれ試行錯誤を繰り返してどうにかレシピを完成させたのはついこの間のことだ。レシピさえ出来上がっちまえば作るのはそう難しいもんじゃない。天地全象チョコやスライミーグミなんかは今じゃナチねぇの方がずっと作り慣れてて、その様子を見ていたコーラルも最近じゃ食材を切ったり混ぜたりの手伝いを買って出ているらしい。ガゼルは苦い棒が好きみたい、と淡々と話す声もどこか弾んでいるように聞こえて、今度簡単なデザートでも教えてやるって約束したことをふと思い出す。野菜の皮むきやデザートの仕上げを教えた時も思ったけれど、もしかしてコーラルは料理に興味があるのかもな?
それならいつか厨房に並んで立つことだってあるかもしれないと想像しながら、何となしに呟く。
「それにしても結構食うのな、あいつら」
コーラルもおやつって呼ぶくらいだ。俺の作ったレシピは市販の召喚獣向けフードに比べて嗜好品の気が強い。だからガゼルたちも三者三様の好みを示したんだろうけど、その言葉で何か思い出すことがあったのか、コーラルはぎゅっと眉根を寄せて渋い顔をした。むむむ、と今にも唸り出しそうな難しい顔つきはリビエルのお説教前のそれにちょっと似ている。
「おやつをあげるの、プニムはもうダメ。なんだか身体……前より丸くなってきた気がするし」
「あー、あいつはかなりの食いしん坊だからな……」
言われてみれば、動きひとつ取っても大分重量感が増した気がする。持ち前のふさふさな毛並みもあって見た目はそれほど変わっちゃないが、あのふくよかさと毛艶の良さではぐれ召喚獣だと思うひとはまずいないだろう。甘いチョコを無心でがっついていたプニムと噛み締めるようにグミの苦みを味わっていたシズクの対照的な姿を脳裏に描いたのは同時だったのか、何とも言えない沈黙が場に落ちた。
「……今度の新作にさ、シルドの実や芋を練り込んだ甘いパイを考えてたんだけど。やっぱ、キノコや肉を具材にしたやつにしようかな」
「うん……賛成。焼き立ての良い匂いがしたら、絶対……嗅ぎつけてきちゃうかと」
真剣な表情を浮かべて見つめ合う俺とコーラルだったけど、数秒も経たないうちに噴き出すように笑ってしまう。すっかり肩の力も抜けてあれこれ話しながら色んな店の軒先を覗いて回ったけれど、楽しい時間が過ぎるのはいつだってあっという間だ。何か掘り出し物はないか、面白そうなものはないか、大通り沿いの商店街から門前の広場の店まで競い合うように見て回ったけれど、そろそろ切り上げようかと来た道を戻り始めた矢先だった。
「ちゃんとはぐれずについてきてるか?コーラル」
いつの間にか随分と人出が増えている。タラントに滞在している大商隊の連中でも立ち寄ったんだろうか、露店市が開かれているわけでもないのに滅多にない混みようだ。こうなると下手に手を繋いで歩く方がよほど危ない。それならと時々後ろ歩きになってコーラルを確認しながら歩くことにした俺だったけど、どうもそこからして判断を間違ったらしい。
「心配無用、むしろ忠告。前方不注意は……ああ、手遅れ」
困ったような顔をしてコーラルが呟いた。と思った瞬間、がつんと音が反響する勢いで何かにぶつかった。ちょうど振り向こうとした瞬間だったこともあって、身構えるどころか受け身すら取れずに転んでしまう。おかげで強かに打った膝や手のひらがじんじんした痛みを訴えてくるけれど……そんなのより何かにぶつかった頭の方がよっぽど痛い!何だか物凄く固いものにぶつかったみたいだけど、一体何にぶつかったって言うんだ?
「すみません……大丈夫ですか?」
強烈な疑問と痛みに後頭部を撫でさすりながら身体を起こしたけど、心配そうに尋ねる声が降ってきたことに俺は急いで返事を口にした。
「いや、謝るのはこっちの方だって!」
「ごめんなさい、そそっかしい保護者で」
片手を横に振りつつ返した俺の隣、すまなそうな顔をしたコーラルがぺこりと頭を下げて言う。う、言ってくれるじゃないか、コーラル……だがこればっかりはコーラルの言うことが正しい。数日ぶりの強烈な衝撃と痛みを味わうことになっちまったけど、今回不注意だったのは完全にこっちの方だ。申し訳なさにしおれながら顔を上げれば、大人しめのメイド服みたいな格好の女性が僅かに眉を下げて俺を見ていた。
「私なら問題なしです、耐久性には結構自信ありですから。……むしろ、そちらのお怪我の具合が気になります。コブになってますよ?」
「うわ……参ったな、こりゃ」
言われて初めて気付いたけれど、ちょっと手を離した隙にでっかいタンコブになっちまってる。でもまあ俺の身体だし、数日もしないうちに勝手に治っているだろう。そう思って、よければ手当てでも、と親切に申し出てくれた女性にやんわり断りを入れようとしたところだ。くわっと、気迫すら感じる勢いで目を見開いた女性がいきなり声を荒げて主張した。
「素人判断は危険です!万が一、脳に異常があったりでもしたら大変なんですよ!?看護師の立場として見過ごすわけにはまいりません、この場で断固治療いたします!問答無用です!」
「この場でって……通りの真ん中じゃマズいだろ!?」
言うなり石畳に膝を突いて、肩掛けの鞄から治療器具らしいものを次々と取り出そうとする。その極端な変貌ぶりに呆気に取られてしまいつつも大いに慌てて俺は声を張り上げた。こんな人混みで治療だなんて周囲の迷惑どころじゃない騒ぎになってしまう。どうにか考え直して貰わないと、と焦って止めに入ったけど、幸いだったのはその女性のマイペースぶりが想像の斜め上をいっていたところだろうか。
「ふむ、それも一理ありますね。ならば、どこか適当な場所まで案内してください」
あっさり承諾してくれたことに狐につままれた気分になりながら宿屋まで戻ってきたものの、更に仰天することになったのはその女性、クノンと名乗った姉ちゃんがまさか人間じゃなかったことだ。
「早速診察です。脳の内部をスキャンして異常がないか、確認いたします。…………完了です。ふむ、特に異常はありませんね」
「あ……あんた、機械人形だったの!?」
クノンの行動は何から何まで早かった。勝手知ったる他人の家とばかりお茶をしていたリシェルやアロエリへの挨拶もそこそこに、何でもないような顔をして俺へと向き直るなり、スキャンだと言ってその胸の辺りから突如光を放ったのだ。眩しい光と同時にぱしゃりと軽い音が響いたけれど、その一瞬、機械兵器の動力部分みたいなのや複雑に交差した配線が胸の隙間から覗いてすぐ閉まる。いきなりのことに困惑していたリシェルたちにもその様子が見えたらしい。混乱しきった声を上げたリシェルに振り返ったクノンは、緩やかに膝を折って片足を下げながらのお辞儀をした。
「その呼称で呼ばれることに些か抵抗がありますが、事実はそうです。私は従軍看護用として開発された看護用機械人形、フラーゼンです」
「もしや貴様、鋼の軍団の刺客かっ!?」
俄に殺気立って立ち上がるアロエリだけど、それにしちゃクノンの様子はあまりに穏やかすぎるだろ。片手を横に突き出してどうどうと宥めながら俺は二人の間に割り込んだ。
「落ち着けって、機械人形だからって敵と決めつけるのは乱暴すぎだぜ?」
「そうね……あの三姉妹たちと比べてみてもこの子の完成度はちょっとレベルが違う気がするわ。実際、あたしもすっかり人間だと思ってたワケだし」
「そう仰っていただけるのなら嬉しいです。人間らしさを学ぶことが今の私の願いなのですから」
しげしげとクノンを眺めながら呟いたリシェルに嬉しそうに微笑むクノンだけど、その自然な表情の変化はどう見たって人間そのものだ。それでちょっと興味が湧いたってのもある。せっかく知り合ったついで、クノンのことを色々教えてもらいたくなったのだ。差し障りのない程度でいいからと頼んだ俺にクノンはこれまた快諾してくれたんだけど……
「でもその前に治療を……湿布を貼ってテープで止めて、仕上げに痛み止めの注射でばっちり安心です」
「いや、注射は……ちょっと、待って!待ってくれぇっ!?」
それがどれだけ強烈な注射だったかはあえて語らないが、痛み止めの注射の方が断然痛いってのは何かが大いに間違っている気がするぜ。
ともあれ、クノンが語ってくれた身の上話はそこに居合わせた全員が目を丸くするくらい驚きの連続だった。クノンの主人、つまりマスターに当たるのはアルディラさんって女のひとで、リィンバウムに召喚された時からこれまでずっと一緒に過ごしていたらしい。なのにどうして一人で行動していたのかと言えば、知人の頼みを受けてある村まで往診に行くためなんだとか。その村の住人は殆どが召喚獣ばかりらしくって、人間の医者よりも機械人形であるクノンの方が適任だろうという指名もあってはるばる旅をしているそうで、トレイユの町に訪れていたのもここで迎えの者と落ち合う約束をしているからということらしい。
人間そっくりの機械人形とは言え、召喚獣なのに人間の医者以上に信頼されているクノンの実力。主人がいなきゃはぐれ扱いされるのが当然の帝国じゃちょっと考えられない、住人の殆どが召喚獣ばかりだというその村。そんな村の設立に関わっていると同時、聖王国からも帝国からも遠く遠く離れた孤島で暮らしているのだというクノンやそのマスターとも交流があって、召喚獣だから人間だからという色眼鏡抜きに相手を見ているらしい謎の人物。
「もしかして、聖王国に出来たっていうあの村のことかも。金の派閥の議長の肝いりで作られたとかいう……」
リシェルの呟きにどこか誇らしげに微笑んで、優雅な一礼を残して去って行ったクノンだけど、その後ろ姿もやっぱり人間にしか見えなくて。
「世界は広いもんだな……」
しみじみと呟いてしまった俺の後ろでも、はぁ、といくつもの感嘆の溜め息が響いていた。
それにしても酷い目に遭ったもんだ。まだ痛みの余韻が響く後頭部をさすりながら勝手口から出た俺は、厨房裏手に据え付けてある給水タンクを覗き込んで首を傾げた。あれ、思ったより残ってるな……?
町外れの高台って立地もあってここじゃ給水施設を使った上水道が通っていないから、井戸からの水汲みは日課だ。クソ親父が掘り当てた温泉水をパイプで引き込んでいるから風呂や洗顔だとかの生活用水には困ってないけど、料理に使う水や飲用水だとかは毎朝井戸から汲み上げた水をタンクに貯めて使っている。タンクから蛇口までは壁中を通るホースで繋がってるんだけど、今日みたいにお客さんが多かった日はどこかで補充しなきゃいけなくなるはずだ。と言うことは……と何気なく井戸の方へと目をやった俺は、庭先にしゃがみ込んでいる人影を見つけて呼び掛けた。
「何やってんだ、セイロン?」
気持ちよさそうに風にはためくシーツの近く、どこから調達したのか、乾いた小麦色のゴザが何枚も地べたに広げられている。朝のことを忘れて普通に話し掛けちまったけど、おお、店主か、と俺を振り仰いだセイロンは遠目にも機嫌よさげに返した。
「うむ、よい質問だ。見てのとおり良い天気なのでな、乾物を作っておるのだ」
乾物ってことは……干物か?シーツを取り込むついでに近くまで寄って行ってみれば、小脇に抱えたザルからせっせとキノコや野菜やらを並べる手は止めないまま、一歩横にズレて場所を空けてくれた。有り難くその場にしゃがみ込んでしげしげとゴザの上を眺めてみれば、お日様の光を浴びて水分が抜けちまったんだろう、しおしおに萎れきった野菜の切れ端がいくつも転がっている。ははぁ、コーラルが手伝ったってのはこのことか?ダイコンを細く切ったのやらキノコを薄く削いだのやら、よくよく見てみればかなりの量だ。しかし、こんなにあったら一日じゃとても使い切れなさそうだけど。
一体どうするつもりなのかと疑問に思っていれば、あまり馴染みなかったか、とキノコを並べる手を止めてセイロンは何やら納得したように頷いた。
「こうやって食物を日光にさらしておくと風味がぐっと増す上、保存にも適したものに変えられるのだよ。あちらの分は完干し……日が沈めば取り込んで、翌朝また干すといったように数日掛けて完全に水分を抜くものになるから、完成すれば一月近く持つはずだ。こちらの分はいくらか水分を残した半干しと言ってな、数日しか持たぬが生野菜のようにすぐ使えて便利なものなのだよ」
「へぇ……それじゃあっちは?前に言ってた漢方ってやつになるのか?」
コーラルが剥いたのは野菜だけじゃなく果物もあったはずだ。そう思って目だけで探してみれば案の定、ダリマの実やオニロの実の皮まで並んでいる。気になって尋ねると、セイロンは嬉しそうに目尻を下げた。
「さすがは店主、目の付け所がよい!実際、これらは干して煎じたならば薬にもなるのだよ。漢方と乾物は完全に同一ではないが思想的には近しいものがある。しかし、その観察眼に洞察力……やはり優れた料理人ゆえかな?」
「あー……ただの受け売りだよ。ナチねぇがシルターン風の料理に詳しいのは知ってるだろ?それで慣れてるってだけで、俺なんかまだ知識も経験も全然足りてないし……」
手放しで褒められるとどうにも背中がむず痒くなっちまう。照れ臭くって決まりが悪いだけで決してイヤなわけじゃないんだけど、どう返したらいいか分からなくて対応に困ってしまって……腰が引けてしまうのだ。それに、今回気付いたのだって本当にただの偶然だ。シルターンの食文化、料理の奥深さは半端なもんじゃないって今の俺はよく知っているけれど、ナチねぇの料理だとかで知る前の俺だったなら、セイロンの説明を聞いたって及び腰になっていたかもしれない。そんなふうにあれこれ考え始めると素直に称賛を受け取る気にはとてもなれなくて、そういえば、とわざとらしく声を張って俺は話題を切り替えた。
「勝手口のタンクに水を汲んでくれたの、セイロンだろ?ありがとな、お礼になんか食いたいもんでもあれば」
「店主よ」
切り替えようとした、んだけど、場違いに優しい声で呼び掛けられて声が詰まる。逸らしかけた視線をぎこちなく返せば、予想に反してセイロンはびっくりするぐらい優しい目をしていた。
「そう謙遜するではないよ。店主の勉強熱心さ、料理への飽くなき探究心……短い付き合いでしかないが我らもよく理解している。なに、知識も経験も後からいくらでも付いてくる!未知なるものへと興味を持ち、関心を向け、貪欲なまでに手を伸ばす……その好奇心と探究心さえ忘れなければ、店主の素晴らしい料理の腕前はますます高まるばかりだろうとも!」
「セイロン……」
次第に大きく、力強くなっていく激励の声を浴びて、思わず声がこぼれていた。弱気に丸まっていた背中を勢いよく張られたような、じんと胸が熱くなるような感覚に戸惑いながら赤い瞳を見つめ返す。どうしてそんなふうに励ましてくれるのか、嬉しいのと同じくらい困惑と戸惑いが込み上げてくるけれど、それ以上の納得を覚えている自分自身にも気付いていた。
でも、そうか……そうだよな?うまいもんを食いたいって気持ちは、たとえ世界が変わったって何ら変わらないはずだ。知識が足りないならもっと勉強すればいいし、経験が足りないならもっと研鑽を積めばいい。今の俺には分不相応な評価だって変に気後れしたり罪悪感を覚えているような暇があるなら、どんな言葉でも評価でも胸を張って受け止められるだけの自分を目指して、頑張る方がずっといい!
「……うん、そうだな。悪ぃ、セイロン!よかったら乾物についてもっと教えてくれないか?」
「もちろんいいとも。今夜にでも使えるとなればそちらのキノコになるが、まずシルターンで乾物と呼んでいるのは……」
両手で勢いよく頬を叩いて、にっと口角を吊り上げての笑みを返す。そんな俺に満足げに頷いて早速、乾いたキノコに手を伸ばしながら乾物と干物の違いやらを語り始めているセイロンの口元にも笑みが浮かんでいる。乾物を使ったシルターンでの定番レシピやら活用法やら、興味のままに質問攻めにしてしまう俺の胸にはまるで、グルメ爺さんと料理をしている時のような高揚感が溢れていた。
そんなこともあったから、夕方少し前、追加分の野菜を貰いにミント姉ちゃんの畑を訪れた俺は瑞々しい野菜を前にして真剣に考え込んでいた。
ひょっとして、この皮や根っこのところも乾物に使えたりするんだろうか……?
料理をしているとどうしたって野菜クズは付き物だ。パサパサの皮や硬すぎる芯、青菜に残った繊維の筋やワタごとくり抜く無数の種。一見捨てるしかないこうした部分からもいい出汁が取れるってのはナチねぇから教わったことで、余裕がある時はまとめて煮込んでスープストックにしてるけど、時間がない時には泣く泣くそのまま廃棄している。でも、乾物みたいに干して取っておくことが出来るなら話は変わってくるはずだ。むむむ、と悩み込んでいた俺だったけど、いつもだったら花壇の水遣りだとか農園の見回りに移っているはずのミント姉ちゃんがまだ座り込んでいることに気付いて顔を上げた。
「どうしたんだよ、ミント姉ちゃん?何か気になることでもあるのかよ?」
花壇を縁取る赤いレンガに腰掛けたミント姉ちゃんは見るからに浮かない顔をしていた。今にも溜め息をこぼしそうな物憂げな表情を見つけてしまえば話を聞かないなんて選択肢は有り得ない。仕込みは終わってないけどディナータイムは元々予約客ばかりだし、実際に味わうのも勉強になるだろうってセイロンが夕飯のおかずやスープ作りを引き受けてくれたから時間に余裕はある。声を聞きつけたリシェルやルシアンからも心配そうな視線が飛んだからだろう。それがね、とおずおずと言いにくそうに口を開いたミント姉ちゃんだったけど、その話を聞き終わる頃には俺たち三人もぽかんと口を開けてしまっていた。
「じゃあ、前に言ってた畑の上をゆらゆら飛ぶ怪しい光って……姉ちゃんの見間違いじゃなかったのかよ」
前にナチねぇとミント姉ちゃんが額を付き合わせてうんうん悩み込んでいたあの一件は、どうやらまだ解決していなかったらしい。呆気に取られて言葉を繰り返してしまう俺にミント姉ちゃんはいよいよ神妙な面持ちで頷いた。
「あれから何度か見かけることがあって、それだけなら放っておいてもよかったんだけど……くすくす笑う声とか、何か歌みたいなものまで聞こえてきて、さすがに……気味が悪くなっちゃって……」
「あわわわっ……それ、もしかしたらオバケかも……?」
「バカねぇ、ルシアン。なんでそんなものが畑に出てくんのよ?」
野菜を詰め込んだ袋を抱き締めて震え上がるルシアンに白けた顔をするリシェルだけど、この話の流れじゃそう連想しちまっても無理はない。だけどリシェルはそんなの非科学的よと言わんばかりに短く鼻を鳴らすと、びしっと人差し指を突き立てた。
「あたしの予想ではズバリ、そいつは野菜泥棒ね!オバケのフリしてこっそり野菜を盗んでるのよ!」
自信満々に主張してくれたが、残念ながらその線は限りなく薄いんだよな。こないだの調べでも畑の野菜に変わった様子はなし、妙な魔力の名残もなし、それにだ。
「泥棒なら、オヤカタが真っ先に気が付くと思うし……」
「それに、泥棒は笑ったり歌ったりしないと思うけど」
オヤカタからも威勢の良い返事が上がり、むむむ、と口を引き結んで押し黙ってしまうリシェルにルシアンがもっともな指摘をするけれど、俺には分かる。あれは絶対に藪蛇だ。怒りの矛先が向くぞ……とそれとなく距離を取った直後、八つ当たりの拳が勢いよく振り下ろされてルシアンの短い悲鳴が上がった。ともかく、と俺は話を仕切り直してミント姉ちゃんに向き直る。
「実際に見てみないことには話にならねーな。姉ちゃんさえよかったら、俺、見張りするぜ?」
「でもそれじゃあお店の方に支障が出ちゃうでしょ?それにいつ現れるかだって分からないのに寝ずの番だなんてさせられないよ」
困ったように眉尻を下げてやんわりと断ったミント姉ちゃんだけど、うーん……とは言ってもなぁ。ミント姉ちゃんの畑で取れる鮮度抜群の瑞々しい野菜たちはそんじょそこらでお目に掛かれるもんじゃないし、その美味しさもあって宿屋で出す料理の殆どに使わせてもらっている。研究で余った分を安く仕入れさせてもらうって約束だったけど、最近じゃサラダやスープの注文が増えていることもあって専属の野菜畑みたいになってきているのだ。それもこれもミント姉ちゃんが日々丹精込めて育ててくれてるからだってのに、このまま何もしないでいるのはどうにも据わりが悪い。どうしたものかと悩んでいると、あっ、と何かを思い付いたような明るい声がした。
「じゃあさ、見張りの代わりに罠を仕掛けるってのはどう?虫除けのトリモチ紙とか鈴付きの紐とかをいっぱい仕掛けるの。相手が実体のないオバケとかだったら意味はないけど、それ以外の相手なら……引っかかって、きっとびっくりするわよぉ?」
「そっか……そうすれば正体ははっきりするよね?」
にししと悪い顔をしてルシアンに笑ってみせるリシェルだけど、なるほどな……リシェルの奴、めちゃくちゃ冴えてるじゃないか!?
「そーゆーこと♪」
感嘆に息を呑む俺と喜色に声を弾ませるルシアンの眼差しを受けて鼻高々に胸を張ったリシェルが、ぶいっとピースサインを決めた。
ともかく、これで方針は決まりだ。夕方になったら罠を仕掛けて、朝を迎えたら一旦外すってことで数日様子を見てみよう。そう提案した俺たちに、面倒掛けちゃってごめんねとミント姉ちゃんは恐縮しきりだったけど、こういうのは得意分野だしな。いつだか悪戯三人組として知れ渡っていた頃を思い出して半笑いを浮かべてしまえば、リシェルも何とも言えない笑みに口元を緩めているのが見えた。まあ、その気持ちは分からなくもない。正攻法でぶつかるのもいいけど、こうやって賢く頭を使っての絡め手がハマった時の爽快感はたまらないもんがあるんだよな。
「グラッドさんにもお願いして、夜の見回りの時には注意してもらった方がいいかもね」
「ああ、それがいいな。姉ちゃんの畑の一大事は俺にとっても一大事だ、一日も早く畑に平和を取り戻すぞっ!」
三人揃って顔を見合わせ、握った拳を高々と掲げておーっと声を張り上げる。気合いたっぷりに初日の罠を仕掛ける俺たちの顔には楽しげな笑みが浮かんでいた。
一夜明けて、朝。
いつもどおりに食堂の掃除や朝食作りをこなした後、臨時休業の札を掛けた俺はグルメ爺さんの家に向かってとっとと町への坂道を下っていた。
気合いは十分、体調もバッチリ、負ける気なんかひとつもしない。今回課題に出されたのは「ふつふつと血が滾るような料理」で最初から肉を使うことは決めていたけど、裏庭での稽古中にふっとアイディアが降ってきてからは早かった。血が滾るっていうくらいだ。万人受けする鶏肉だとかじゃなくて、どうせならシリカの森の奥でしか取れないような珍しい肉や獣肉を使うってのはどうだろう?しっかり熟成させて旨みを引き出した後はこんがりと焼き上げて、そこに絞り掛ける柑橘系の実も目が覚めるくらい酸っぱいのから香り高いのまで何種類かブレンドして、野性味溢れる味わいの料理に仕立て上げる。それが一番、今回のお題に沿っているんじゃないだろうか?
そこまで思い付いたら後はもう食材を集めて調理に取りかかるだけだった。完成形の味も香りも頭の中には出来上がってるのだ。一番旨みを引き出せる熟成期間や柑橘系の汁の比率に少し悩みはしたけれど、おかげで最高の出来に仕上がった自信がある。緩やかな傾斜が付いた大通りを駆け下りるうちに自然と頬が緩んでいって、むずむず動きそうになる唇を噛み締めながら俺は昨晩のことを思い出した。
「すげえ、こんなに味が変わるのかよ……」
夕飯にセイロンが作ってくれた干し野菜とキノコのスープは、正直言って想像をはるかに超える味だった。具材もレシピも至ってシンプル、ぬるま湯に漬けて戻した数種類のキノコに青菜、そこにショウガと味付けの塩や酒をいくらか加えて熱を通しただけなのに、透き通ったスープを一口飲んで俺は堪らず唸ってしまった。
なんだろう、すごく調和の取れた味がする。あっさりしてるのに深い味がするというか、干しキノコの旨味や出汁がたっぷり溶け込んだスープに青菜の甘みやショウガの風味、少しの塩気がこれ以上なく馴染んでいるのが分かる。一旦水分を抜いてから戻したせいだろう、あんなに縮んでいたのが嘘みたいに膨らんだキノコはもちもちした弾力があって、僅かに歯触りを残した青菜との食感の違いも楽しい。ミント姉ちゃんの畑で取れた野菜と合わせたらスープだけで立派なメインを張れてしまいそうだ。
もしかして薬味に入れたショウガも生薬ってもんなのかなとか、あんなに萎れきってたのに本当にすぐ戻るんだなとか、スープでもこんなに味がするなら半干しにした野菜を焼いたらどんな味になるんだろうとか。ぽかぽかとお腹の底から温まっていく心地よさに浸りながらもその秘密を探るのに夢中になって、他にもおかずがあるのにスープを掬う手がどうにも止まらない。乾物の知識や技を教えてくれたセイロンに何度目かの感謝を抱いていれば、嬉しそうな声が聞こえてきた。
「さすがセイロンさん、とっても美味しいです。リィンバウムにいながら本場シルターンの味を頂けるなんて、何だか贅沢ですね」
「あっはっは!我のはあくまで手習いだがね。だからこそ店主がこの技法を会得した暁を思えば胸が躍るところはあるが……?」
ちらりと視線を寄越した気配に続いて、あぁ、と納得したようにナチねぇの声が綻んだ。微笑ましそうな視線を感じて気恥ずかしさを覚えなくはないけれど、料理のことになるといっつもこうなんだよな……周りのことを忘れてすぐ熱中してしまうのは我ながら子供っぽいとは思うけど、今更誤魔化すのも格好が悪い。実際、セイロンが教えてくれるのに甘えて乾物のことを聞きまくっていた姿はバレちまってるんだしな。それにだ。
「シルターンに伝わる料理法だからといってリィンバウムの者には秘匿すべき、などと狭量なことを言うものはおらんよ。無論、我としても知識や技術の伝承を惜しむつもりはない」
小皿に掬ったスープの味を見ながら感慨深そうに呟いたセイロンは元々、ラウスブルグに訪れただけの客人で、御使いをしているのも先代の守護竜に頼まれてコーラルが後継者になるまでの期限付きだったらしい。一体どうしてそこまでの恩を覚えたのかは濁されてしまったけど、その時にラウスブルグの住民に色々親身になって教えてもらうことがあったから、成り行きで知り合っただけの俺にも親切に教えてくれる気になったみたいだ。そんな偶然と好意の連鎖でシルターンに伝わる料理を知ったからには、俺も俺に出来るだけの全力で学んで吸収しなきゃ失礼ってもんだろう。
ナチねぇにグルメ爺さんにセイロンに、初めは縁もゆかりもなかった相手からの親切心や厚意を受けてどんどん料理の知識や技術が深まっていく。次は何を知ることが出来るんだろう、とんなことが出来るようになるんだろう。まだまだ料理人として成長出来る、もっともっとうまい料理が作れるようになる。そう思うだけでわくわく胸が弾んで堪らないのに、体裁まで気にしている余裕なんてない。
「楽しみだなぁ……どんな凄い料理人になっちゃうんだろ?」
ライ君、と。期待と興味に弾んだそんな囁き声までおまけに拾ってしまえば、俄然張り切っちまうのも仕方がないってもんだろう。鼓膜の奥に呼び起こした声に耳が火照るのを感じて、足を止めた俺は大きく頭を振った。うん……浮かれすぎてまた早く着き過ぎちゃったみたいだな。とりあえずセクター先生の私塾でも覗いて時間を潰そうかと大通りを挟んだ向かい側の路地に入ろうとしたけれど、咄嗟に生け垣の影に飛び込む。
「……わざわざ届けに来て下さるなんて、本当に恐縮です」
「いいんですよ。買い物のついでに寄っただけですし。それに失礼ですけど、その身体では外出するのも大変でしょう?」
困った時はお互い様、これくらいのことはお気になさらないで、と言ってにっこり笑ったミント姉ちゃんに眉を下げた優しい笑みを浮かべたセクター先生がお礼を重ねていた。二人の話を邪魔しちゃ悪いしと物音を立てないように注意しながら二人の様子を眺めるけれど、それにしてもミント姉ちゃんもマメだよな、また野菜を届けに来てたのか……。よそから来たもの同士、二人が仲良くなったのは知ってるけど、先生は身体のこともあるし世話焼きのミント姉ちゃんが気に掛けてくれてるのは有難い限りだ。おかげで俺も安心出来るし、と感心しながら見ていたけれど、いつものように困ったような笑みを浮かべている先生の姿にふと思う。
そういや、先生自身はミント姉ちゃんのこと、どう思ってるんだろう?姉ちゃんの気遣いに感謝してるのは間違いないけど手放しで歓迎してるようには見えないし、物腰は柔らかいけど何だか、ミント姉ちゃんを前にした時の先生には薄い膜のような距離を感じるっていうか……
「……それで、今日はどうしたんだい?」
声を掛けずに立ち去るつもりだったけど、変な物思いに耽っていたせいだろうか。一人になったセクター先生が声を掛けてきたことに心臓が跳ね上がった俺はバツの悪い笑みをこぼしながら前に出た。本当に先生は勘が鋭い。やっぱ、退役しても軍人相手にはバレちまうもんなのかな?でもまあせっかくだしと最近のあらましを語ることにしたんだけど、ルトマ湖の魚が入荷しなかった原因、ゲックのじいさんの実験のことをボヤき交じりにこぼしたところで急に先生が血相を変えた。
「ゲックだって!?」
「……もしかして先生、あのじいさんのこと知ってるのか?」
声を荒げて眉を険しく吊り上げて、見たこともないような怖い顔になった先生に驚いて呟くと、はっと息を呑んで我に返った先生は歯切れ悪く否定した。
「いや……軍にいた時、多少の関わりがあったんだ。だからつい驚いてしまっただけだよ、すまなかった」
「てことはアイツ、元は軍の関係者ってコトじゃないか?なのに、なんであんな悪党の仲間になってるんだよ?」
だけどそれを聞いた俺の方はますます困惑してしまう。レンドラーのおっさんにもゲックのじいさんにも何か事情がありそうだと思っていたけど、まさか軍まで関わってくるのかよ?出来たらもう少し聞かせて欲しかったところだけど、軍にいた時のことを思い出してか、貝みたいに口を噤んだ先生は俯きがちに黙り込んでしまう。見上げた先にある灰色の目は深い苦悩と躊躇いに沈んでいるようで……俺はわざと明るい声を張り上げた。
「……ま!なんにしろ敵には違いないし、ふんづかまえて理由を聞きだせばいいだけのことか。その時は先生にもまた報告するよ?」
「ああ、そうだね。気にならないわけじゃないから、新しいことが何かわかったらぜひ知らせて欲しいな」
「おう、任せとけ!」
あっけらかんと笑ってみせれば先生もほっとしたように笑ってくれて、自然と胸を撫で下ろす。セクター先生まで変なことに巻き込んじまうのは避けたいしな。とりあえずはグルメ爺さんのところに急がないと、と踵を返した俺は細い路地を駆け抜けていった。
昼を少し回った頃、グルメ爺さんの家を後にした俺は鼻歌交じりに大通りを歩いていた。
課題の結果は文句なしの合格!俺が出した「熱帯野生のステーキ」は見事に爺さんの舌を唸らせ、琴線に触れる味だったらしい。鉄板の上にどんと鎮座するステーキにナイフの先が沈んだ途端、切り口から溢れ出た肉汁がじゅうじゅうと激しく騒ぎだし、立ち上った芳醇な香りと一緒になってダメ押しのように食欲をそそる。爺さんがぴくりと眉を動かした時点で勝利を確信したも同然だったけど、溜めに溜めてからの大絶賛をこれでもかとばかり浴びせられると、やっぱ気分が上がっちまうな。筆舌に尽くし難し!!……って腹の底から絶叫する爺さんに驚いてひっくり返っちまったのが懐かしいや……
しみじみ振り返りながら少しのおかしさと心地のいい満足感を覚えたところだった。
「あ。用事……終わったの?」
「おう、コーラル。そっちは、いまが散歩の帰りか?」
聞き慣れた声に顔を向ければ、どうやら散歩ついでに商店街に立ち寄ったらしい。ガゼルの手綱を握ってナチねぇの会計待ちらしいコーラルが首を傾げていた。いそいそと近寄ってみたけれど、ガゼルの背中にある積荷もちょっとだけだし、大した用事でもなかった感じだろうか。
「お米が残り少なくなっちゃったからね。お散歩がてら買いに来ていたの」
おコメの詰まった厚手の紙袋を抱えてきたナチねぇがその予想に正解をくれたけど、その顔を見た俺はちょっと眉を寄せた。気のせいだろうか、何だか疲れているように見える。鼻息を噴き出して頭をすり寄せているガゼルも、いそいそとナチねぇに手綱を返しに行ったコーラルも、心なしナチねぇを気遣って寄り添っているようだ。まったく、と息を吐いておコメの袋を取り上げた俺は通路側を陣取りながら言った。
「そういう重いものの時は俺も連れてってくれって言ったじゃんか。そうでなくても他の連中に頼むとかさ?」
これだけ居候もいるんだから一声掛けりゃ誰か付いてきただろうに、変なところで遠慮がちなのは相変わらずだよな。ガゼルもいたから、と苦笑してその鼻先を撫でてやってるナチねぇの傍ら、ちょっと首を傾げて何やらガゼルに相槌を打っていたコーラルが俺を見た。
「ガゼル、まだ全然いけるって言ってるけど……」
「へいへい、そんじゃ次の買い出しにでも頼らせてもらうわ」
つーかコイツ、俺が野菜だとかを積む時は不満たらたらの顔してたくせ、本当は余裕だったんじゃねーか……
半眼でガゼルを見ればそ知らぬ顔をしてそっぽを向くけど、思い返せばコイツって態度だけじゃなくその体力も並外れてるんだよな。宿屋の裏手から森の方までは自由に動けるようにしてるけど、たまにひとの尻を突っついては遠くに連れてけって横暴に催促するし、共同墓地やその先のカルセド峠の方まで行ってきてもけろっとしてやがる。にしても、ナチねぇやコーラル相手には見せるその聞き分けの良さをどうして俺には発揮しないんだ……悠々と蹄を進めているガゼルを何とも言えない思いで見ていると、コーラルが小さく笑う声がした。
「笑うなよな、コーラル……」
「ふふ、ごめんなさい、でも……」
「あんまり微笑ましくって、ね?」
ナチねぇまで声を緩ませて返すから尖らせた口の行き場がなくなるけれど、少し顔色が良くなった様子にほっとする。そうして他愛もない話をしながら家までの道を歩き出したけど、こんなにゆったりした時間を過ごすのはいつぶりだろうな。互いの笑い声が重なって、和らいだ瞳がぶつかって、それでまた頬が緩んで自然と笑みがこぼれている。美味しいものをお腹いっぱい食べた時みたいな、すっかり満ち足りた気分で歩いていると町中の喧噪だって心地良い音楽にでも聞こえてくるような……いや、これは気のせいじゃないな?通りを行き交うひとたちの足音や話し声の合間、かすかに聞こえてくる音色に気付いた俺は足を止めた。
「なんなんだ?この不思議な曲は?」
音の出所を探ろうときょろきょろ辺りの様子を探ってしまうけど、不思議な音色は遠くなったり小さくなったり、どうやら風に乗って少し離れたところから聞こえてくるらしい。
「この音色……僕、好きだ……」
コーラルも目を閉じてうっとり聞き入っているけれど、その音色にはそれだけの魅力があった。馴染みのない音色なのにどこか懐かしくて、聞けば聞くほどじんわり胸に染み込んでくるような響きがあって……そういったことには疎い俺でも趣深いもんを感じてしまう。ナチねぇも心地よさそうに耳を澄ませているけれど、ひょっとして大道芸人か吟遊詩人でも来てるんだろうか?それならどこか端っこ辺りで演奏してるはず、と思い付いたのはコーラルも同じだったんだろう。集中して耳をそばだてるような真似をしたかと思うと、躊躇いなく俺とナチねぇの手を掴んで来た道を戻り出す。
「多分、あっち。……行こう?」
それだけ興味を惹かれてしまったんだろうけど、滅多になく積極的な主張をするコーラルについ笑みこぼしながら向かった先、そこにはちょっとした人集りが出来ていた。水路前の石畳に座り込んで見慣れない楽器を演奏している兄ちゃんの格好もこれまた見慣れないもので、前に見たことのある吟遊詩人と比べても妙な服装をしている。膝に抱えた楽器は三本の糸が張られた弦楽器みたいだけど、片手で握り込んだ小さいヘラみたいなのでかき鳴らすたびに信じられないほど多彩な音がこぼれて、周りの人たちも静かに耳を傾けているけれど……これは確かに、ちょっと聞き惚れる演奏かもしれないな。もっとよく聞いておこうと耳を澄ませようとしたところだった。その兄ちゃんが深々と息を吸い込み、ひどく、下手くそな歌を始めちまったのは。
「はっああぁぁーんっ♪おぉさとおぉ……、じぃまぁんのぉっ♪」
それはあまりにも……筆舌に尽くし難い歌だった。ちょっとやそこらじゃなく音程が外れて狂ってすっ飛んでいて、調子っぱずれなんて表現じゃ到底収まりきらない歌が高らかに響き渡る。どう控えめに言ったところで下手くそ、いや、聞くに堪えないその歌が強烈すぎる気付け薬になっちまったんだろう。あれだけ演奏に聴き惚れていた聴衆も一気に興ざめしちまったのか、潮が引くようにいなくなる。兄ちゃんの周囲にあった人垣もあっという間に崩れて、残っているのは顔を顰めた俺たちばかり。
「あぁっ!?なっ、なんで皆さま、散り散りにっ!?」
気持ちよさそうに歌っていた兄ちゃんも慌ててお客さんを引き留めようとするけれど、そりゃそうだろうよ……
「そりゃ散り散りにもなるってばさ……あれだけ音程の外れた歌い方されたらな」
「台無し、かと……」
コーラルと揃って白けた目を向ければ、去っていくお客さんに追い縋るように片手を伸ばして項垂れていた兄ちゃんが恐る恐るといった様子で顔を上げた。
「そ、そんなにも自分の演奏はひどいのでございますか?」
「いや、全部がダメだったってわけじゃないぜ。楽器の演奏の方は聞き応えがあったしさ。じゃなきゃあんな人だかりができるはずないだろ?つまり、歌わなけりゃ良かったってことだな」
「がーんっ!ううっ、それは非常に手厳しい……っ」
褒め言葉のところまでは気を取り直したように笑みを見せていた兄ちゃんだけど、最終的な結論を聞くなり大きく肩を落として泣き真似をする。身振り手振りがいちいち大げさだけど、それがちっとも嫌味にならないのは人柄だろうか?名前も知らない相手だってのにこうも警戒心を感じさせないのは凄いと思うんだけどなぁ。客商売に苦労する身って意味じゃ親近感を覚えたのもあって、コーラルやガゼルから呆れたような視線を向けられている兄ちゃんに俺は慰めの声を掛けた。
「まあ、そう落ち込むなって。次からは歌わなければいいだけのことじゃん」
「それは自分に取っちゃあ死刑宣告にも等しいお言葉!吟遊詩人としての面目、丸潰れでござんす。ううう……っ」
「あ、やっぱり吟遊詩人だったんですね」
考えることは一緒だったのか、穏やかな合いの手を入れたナチねぇにぱっと顔を明るくしたシンゲンは改まった様子で居住まいを正した。べん、と抱える楽器をひとつ鳴らして名乗りを上げる。
「いかにもいかにも!……とはいえ駆け出しの身でござんすが。自分はシンゲン、鬼妖界から来た流しの弾き語りでございます」
鬼妖界ってことは、セイロンと一緒か。妙な格好をしていると思ったけど、別の世界から召喚されてきたのなら納得だ。それならその楽器も鬼妖界のものなのかと尋ねたコーラルにシンゲンは鷹揚に頷いた。
「ええ、三味線という鬼妖界では馴染みの楽器でござんすよ」
言いながらバチと呼ぶらしい、小さなヘラのようなものを動かして三味線をかき鳴らす。それだけで心地よさそうに目を閉じるコーラルは全身で音色を堪能しているといった様子で、ナチねぇもシンゲンも微笑ましそうに笑みを浮かべた。
「お前、よっぽどこの楽器の音色が気に入ったんだな」
「いやはや、お世辞でも嬉しいものですなあ……あ」
と、間抜けな音が尾を引いてシンゲンの声が不自然に途切れた。こっちの音色は俺だってよく分かる、腹の虫が鳴いた音だ。
「なんだよ、アンタ。腹減らしてんのか?」
「はは、面目ない。実はここまでの旅で手持ちの金が底を突き、困ったので……」
弾き語りをして路銀を稼ごうとしたってわけか。語られた経緯に頷き返す俺だったけど、と言うわけで、と見上げてくる期待の眼差しにはにっこりと笑顔で釘を刺す。
「まさか、今のでお金が取れると本気で思ってるのか?」
「うう……返す言葉もなし……」
がっくりと首まで落とす勢いで項垂れるシンゲンの姿に、ああ無情、とコーラルが悲しそうに呟いているけれど、世間ってのは厳しいんだ。あの出来で金を払ってちゃ財布がすっからかんになっちまうしな。でも、と目配せをした俺にかすかに口元を緩めたナチねぇがおもむろに視線の先を宙へと投げて、見えない台本でも諳んじるように呟いた。
「それでも、あんな素敵な演奏をタダで聞かせてもらっては申し訳ないですし。目の前で困っている人を見過ごすなんて、後味も悪いですし?」
「ああ。金を払うのはちょっと抵抗あるけど、メシならウチに来れば食わせてやれるぜ?その代わり、コイツにもっと三味線を聞かせてやってくれよ」
こっちの世界では滅多に聞けるもんじゃないみたいだしさ、と笑いながらコーラルを親指で指し示せば、喜色満面の笑みが返ってくるまで時間は要らなかった。
そうして帰って来るなり早速、ナチねぇとセイロン仕込みの特別料理を振る舞ってやったんだけど、シンゲンの反応はとびっきりだった。
「おおっ、これぞまさに自分が夢にまで見た真っ白いご飯……!ありがたや……五臓六腑に染み入る美味さでございます……!!」
どうにも白いご飯が恋しくて、と揉み手をしながら頼まれた時点でおコメを多めに炊くのは決めていたけど、シルターン出身だって分かった時からメニューの大半は浮かんでいた。ついこないだ完成したばかりの新メニュー、魚菜薬膳のアレンジ版だ。ぴかぴかに輝く白いご飯に青菜とトウフの味噌汁、ピリ辛な味付けにした白身魚と干しキノコに青菜の蒸し物、それから細く切った根菜とショウガを甘辛く炒めた小鉢。全体的な見た目としては地味な方だし、そんな気取った料理でもないけれど、宿屋に残っていた御使いたちとコーラル相手に一曲弾いて貰ってる間に手早く作り上げたそれをランチプレートに並べて出した時のシンゲンの顔と言ったら。まるで小さい子供みたいにきらきら目を輝かせて感嘆の溜め息と言葉をこぼすなり、箸を取っていただきますの挨拶をひとつ、一口ご飯を含んで見るからに満悦至極な表情を浮かべるもんだから俺もつい笑っちまった。本当に美味そうな顔をして食ってくれるんだから、作り手冥利に尽きるって感じだな?
リシェルやルシアンがいたらその食いっぷりに呆れて突っ込んだり感心して見入っちまってただろうけど、残念ながら来客があるからって今日は来ていない。後でテイラーさんのところに顔を出す用事はあったし、立ち寄った時にでも話のタネにしてやろうか。そんなことを考えながら眺めていると、小さなお盆に湯飲みを乗せてそろそろと運んでいたコーラルがシンゲンの横で立ち止まった。
「どうぞ……粗茶、ですが」
「おお、すみません!おっとこれは緑茶ですか?珍しいですねぇ」
「見様見真似の自家製です。なのでシルターン自治区にあるものとまではいきませんけど」
新鮮なお茶の葉を頂くことがあるので、と微笑むナチねぇはセイロンとよくコーラルに何か教えているけれど、どうやらお茶の入れ方もだったらしい。手ずから入れたお茶を嬉しそうに啜っているシンゲンの姿にほっとした様子でコーラルが息を吐いて、それを見守っていたらしいセイロンも自前の湯飲みをテーブルに置いて目を細めている。さっきの演奏とコーラルへのこの対応で、皆もすっかりシンゲンに気を許しちまったんだろう。ご馳走様でした、と手を合わせたシンゲンが深々と頭を下げるなり、様子を見るように距離を取っていたアロエリやリビエルたちまでわらわらと周囲に集まってきた。やれ三味線の腕を褒めたり、やれ一人旅の労をねぎらったり、故郷から遠くリィンバウムにやってきた同士として随分親身になっているようだけど、一番聞きたかったのはやっぱりクラウレの情報だったんだろう。そこはかとなく期待の滲んだ声で尋ねたアロエリに、だけどシンゲンは申し訳なさそうに眉を下げるばかりだった。
「クラウレさん、ですか……」
覚えのない名前でありまして、とすまなそうに返すシンゲンだけど、元よりダメ元で聞いたんだ。あまり気にされても困っちまう。いいよいいよ、と軽く片手を振った俺は話題を変えて尋ねた。
「それで、この後はどうするつもりなんだ?」
「とりあえず食事のお礼にもう一曲ぶたせてもらった後は、やはりシルターン自治区を目指して旅を続けようかと……」
ナチねぇもさっき言っていたけど、シルターン自治区というのは帝国の観光名所としても有名な、シルターン出身の召喚獣に自治権を認めている公的な居留区域のことだ。区域内ではシルターンの文化風俗に則った暮らしが行われているそうで、主人のいないシルターンのはぐれ召喚獣が目指す場所として真っ先に上がる候補でもあるらしい。シンゲンみたいに見た目が人間ならまだしも、それ以外の召喚獣の扱いなんて帝国じゃ推して知るべしだし、な。それが無難だろうと相槌を打とうとした俺だったけど、そこにおっとりと響いた声に思わずぎょっと目を見張っていた。
「ですけど、路銀はもう尽きていたんですよね?宿代は持ちますから、シンゲンさえよろしければもう二日三日、こちらに泊まっていかれませんか?」
シンゲンに出した残りだろうお茶を傾けていた手を止めて、ナチねぇが穏やかに微笑んでいる。もうじき来る予定のお友達にも演奏を聴かせて欲しいんです、とのんびりした調子で続けるナチねぇだけど、シンゲンは男だ。グラッドの兄貴やセイロンみたいに多少気心の知れた相手ならともかく、よく知らない相手に距離を詰められたり触られそうになるとその目に怯えが走るのは変わっていない。ガゼルを連れてなら町中だって出かけられるけど、逆を言えばまだそれほどなのだ。なのに一体何を言い出してるんだと、動揺のあまり声も出ずに泡を食っている俺を置き去りに、シンゲンとナチねぇの話はとんとん拍子で進んでいく。
「どのみち、日雇いのお仕事だとかで当面の路銀を稼ぐつもりだったのでは?でしたら、いかがでしょう?」
「ええ、そういった意味ではまさしく渡りに船!……ではありますが、いいんですか?そこまでお世話になっておいて演奏しか返せるものがないのは些か心苦しいものが……」
「ふふ、お察しのとおり、他に頼みたいことがあるんです。ちょっとした用心棒、あるいはその振りというか……私のお出かけに付き合って欲しいんですよね」
別途謝礼も出しますので、と含みのある笑みを浮かべたナチねぇを目にした瞬間、ピンと来た。
「それってひょっとして、召喚獣の連続失踪事件の……?」
用心棒、あるいはその振り。危険なようで危険を伴わない不思議な依頼。何より、ナチねぇがお出かけという場所。おぼろげながらに見えた俺へと頷くと、ナチねぇはリビエルたちにも微笑みかけながら答えた。
「テイラーさんやグラッドさんたちとも相談したんですけどね。事件のことでよく農場まで出向いてお話を聞いてるんですが、ほら、最近は町の周りも何かと物騒でしょう?護衛や用心棒もなしに来るのは危ないだろうって農場主のアルマンさんから言われちゃって、このままじゃ亜人のひとたちから話を聞くのも難しくなりそうだったから。それで用心棒みたいな付き添いのひとが欲しかったんです」
本当に戦ってもらうわけじゃなくて、あくまでそれらしい振る舞いが出来れば十分なんです。
そういって困り笑いを浮かべるナチねぇが何を考えていたか分かった。ナチねぇ自身、農場主のその言葉を単なる気遣いとして受け取ったわけじゃないんだろう。これを機に余計な口出しをされないよう引き下がってもらおうという意図と、気に入った相手の安全に配慮してやろうという意図。どちらか片方が完全な本音だったり建て前だったならまだしも、そうでないからこそ正攻法で対応することにしたのだ。農場主からの指摘を満たすにはいつも連れているガゼルやシズクじゃあ役者が足りない。かといって兄貴やセイロンなんか連れて行けば余計に警戒されてしまう。アロエリやリビエルはその見た目からして条件に合わないし、俺も俺でどっからどう見ても子供だし……折良くこのタイミングでシンゲンに出会えたこともその判断に拍車を掛けたんだろうけど。
そこまで考えて口を結んでしまった俺同様、リビエルたちも微妙な顔をしているのが見えた。それはまあ……そうだよな。色々と世話になっている相手なのに頼みのひとつも引き受けられない身ってのは、もどかしいもんだ。
「そんなことならお安いご用で。これでも演技はそこそこ自信がありますし、精一杯用心棒の役を務めさせて頂きましょう♪」
「こちらこそ、よろしくお願いしますね。そうだ。契約成立ということで今晩のお夕飯には何か、シルターン風のデザートでも付けちゃいましょうか?」
快活な笑みを浮かべて引き受けたシンゲンにナチねぇも肩の荷が下りたように笑って、これからのことを和気藹々と話し始める。その和やかな様子に促されるようにリビエルたちも話に混ざり始めて、次第に盛り上がっていく会話で食堂が賑やかになっていく。その打ち解けた様子を横目にエプロンを脱いで厨房から出た俺は、もやもやする気持ちを抱えながらそっとカウンター前を横切った。
「ふむ、それなら白玉団子はどうかね?餅米を潰した粉がいるが、確かそこの戸棚に仕舞っておったただろう?」
「なんですの、それ?お米を潰すって、べちゃべちゃになるイメージしかありませんけど……」
甘味と見て取ったリビエルが怪訝そうな顔をしながらも食いついて、それは食べてからのお楽しみですよ、とナチねぇが楽しそうな声を返している。シンゲンやナチねぇを中心に弾んだ会話が響いていることをいいことに、俺はちょっと急いでいるふうに声を掛けた。
「あ、それじゃ俺はちょっと、テイラーさんとこに顔出してくるから」
大人じゃないと、こういった時に頼りにしてもらえない。何をどれだけ頑張ったって頼りにしてもらうこと自体、出来ない。
分かっていたことだけど悔しくて苦しくて情けないのは誤魔化せなくて、気を抜くと口からこぼれそうになる何かを無理矢理に飲み込みながら屋敷までの道をひた走る。一足飛びに大人になんてなれない。いくら努力したってどうにもならないことはある。どんなにナチねぇの力になってやりたくても、子供の自分じゃどうしようもなく手出しできない、そういった問題は必ずあって。そのたびに指を咥えて眺めるしか出来なくて。あってもなくても変わらないような言葉で気遣う以外、何もしてやれなくて。
いつになったらもっと、ちゃんと、味方になってやれるんだろう?
ふとするたび顔を覗かせる弱音と不安を振り払うように、地面を蹴りつける足に一層力を込めた俺はただひたすらに坂道を下っていった。
そうやって向かったブロンクス邸だったけど、辿り着いた正門前で俺は息を整えるのも忘れて立ち尽くしていた。
なんだか、すごいことをやってる。
屋敷前の開けた場所に立っているのはリシェルだけで、幾筋もの黒煙を上げて転がっているゴレムらしい機体の他に目に付く姿はない。けれど、リシェルが睨み付ける先を追って視線を持ち上げていけば、屋敷の天辺と同じかそれ以上の高さを優雅に飛翔する巨影が目に入る。ナチねぇも召喚していたメイトルパの飛竜、ワイヴァーンだ。
「ほら、どうしたの?このまま尻餅をついておしまい?」
からかうような声が響いて、銀鱗の眩しいワイヴァーンが空中に制止した。と思いきや、その翼をはためかせて強烈な突風を吹き付けてくる。咄嗟に腕を前に出して風を受けるけど、こんなのまともに食らったらリシェルじゃなくてもすっ転んじまう。そう思った瞬間、聞き慣れた声が響いた。
「ふふふ……そっちが止まるのを待っていただけよ!ビットガンマー、スタンビット!」
言うなりリシェルの手元から黒みを帯びた魔力が立ち上り、空中に開いた門から機界ロレイラルの召喚獣が現れる。間髪入れずにそいつが放った電撃を浴びてワイヴァーンがよろめき、その背中に乗っていた人影も驚いたように動きを止めるのが見えた。けれどリシェルは止まらない。
「動かない的ならこっちのもんよ!そこよっ、ドリトル!」
ドリルハリケーンと勝ち気に宣言する声に続いて、失速した飛竜の上空に開いた門からドリトルが真っ逆さまに飛び出した。手を休めずの猛攻ってわけか、垂直に落ちてくるドリルの先端は容赦なしに銀色の背中を狙っている。ワイヴァーンの背中に乗っている人影だってもちろん危ないのに、ふっとその口元が綻んだように見えたと同時、透き通るような白い光が勢いよく弾けた。
「甘いわね」
一呼吸の間に何かが召喚された、ようだったけど、激しい衝突音と共に舞い上がった砂埃が一切の視界を覆う。一体何が起きたのかと視界が晴れるのを待っていた俺は、地面深くに突き刺さって無意味な空転を繰り返しているドリトルの姿に目を見張っていた。
「ウソっ!?」
もがくように削岩用のドリルを回転させている姿にリシェルも困惑の声を上げているけれど、動揺から立ち直るより早く降ってきた灼熱の火球がドリトルの機体を真っ赤に焼いて、その装甲のあちこちからぷしゅーっと勢いよく白煙と火花が噴き上がる。そのまま機能停止してしまったドリトルを呆然と見つめていたリシェルだったけど、足下に転がってきた何かの欠片を拾い上げて……わなわなと震えるなり頭を抱えてその場に座り込んだ。
「はっ、はぁーっ!?反魔の水晶っ!?そんなのアリ!?」
「中々面白い手だったけど詰めが甘いわ。あれじゃあまだシルヴァーナの方が速いもの」
ずん、と振動を響かせて着地したワイヴァーンの背中から飛び降りながら手厳しい講評をする声の主に、リシェルはこの上なく悔しげな顔をしているけど何も言わない。ぐうの音も出ないほど完封されてしまって何も言えないのだろう。多分だけどリシェルが指示したドリルハリケーンが当たらなかったのは、正確にはあのワイヴァーンが速かったからじゃない。さっきの一瞬で反魔の水晶を、召喚術の威力だとかを半減させてしまうその水晶をよりによってドリトルの軌道上に召喚されてしまったせいだ。あれで召喚術としてのドリルハリケーンの威力は格段に落ちて、細かい砂塵と化した水晶で一気に視界も遮られた。攻撃する相手の姿を数秒でも見失ってしまった時点で、リシェルの負けは決まってしまったのだ。
「く……悔しい~!!次こそ絶対、あたしが勝つんだからっ!」
それでも負けん気の強さは相変わらず、人差し指を突き付けるなり屋敷の中へと駈け去って行く後ろ姿を見送った俺は、にこにこと一部始終を眺めていたポムニットさんに声を掛けた。
「……大丈夫なのか、アレ?」
「うふふ、アレで結構いい刺激になってるんですよ。今頃、旦那様の書斎に突撃して召喚術のお勉強に燃えているはずです♪」
ああやってこてんぱんにされるたび、負けず嫌いに火が付いて召喚術の勉強が一気に進むらしい。つくづくリシェルらしいというか何というか……成り行きで召喚術の模擬戦を観戦する羽目になってしまったけれど、微笑ましそうなポムニットさんの様子からして毎度のことのようだ。しみじみしてしまう俺だったけど、あら、と鈴の鳴るような声がこっちを向いたことに覚悟を決めて顔を上げる。
品のあるローブに胸元を飾るリボンタイ、膝丈のスカートに焦げ茶の編み上げブーツ。背中の中ほどまで伸ばした金色の髪はハーフアップに編み込んでまとめてあって、年季の入った赤みの強いリボンで留めている。活動的な印象と気品のあるお嬢様らしさが不思議なほど調和している相手なんて、俺はこいつしか知らない。
「随分とお久しぶりじゃない、ライ?」
「ああ。そっちも相変わらずだな、ミニス……」
メイトルパの大空を自由に飛び回る飛竜、その中でも銀に輝く鱗を持つシルヴァーナを相棒に持つ召喚師。俺のひとつ上の知り合い、かつ、ナチねぇのお友達であるミニスとの再会に、俺は引き攣った笑みを浮かべるのだった。
瞬瞬必生、私の好きな言葉です。