世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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「もう一度の、はじめまして」。



#0x01 First Encounter, Again (原作第一話)
#0x01 First Encounter, Again (1/2)


 東京は、夜の似合う街だと云う。

 忙しなく通りを行き交うタクシーと、終電に駆け込むべく駅ビルに吸い込まれる人々。盛り場に賑やかに響き渡る、宴の声。

 人工光に彩られ、喧噪と雑踏が支配するこの場所は、眠ることを忘れたような活発さで、いつの日も夜を明かしてゆく。

 

 それでも。

 僕が一番好きなこの街の景色は、夜明け前の一瞬。

 紫色に照らされたビルの外壁、その向こうに霞んだ陽の光をかすかに反射する、檸檬色の窓ガラス。

 はるか遠く聞こえるトラックのエンジン音と、朝を告げる鳥の声。そのほかの全てが静まり返る、それは始まりの時間。

 その時、この巨大なる都市が動き出す直前にだけ見えるほんの刹那の静寂こそが、僕にとっては何よりも美しく。

 

 朝起きて、カーテンを開いて。マンションの自室から静かに外の景色を見下ろして。

 僕たちの世界は、僕たちの国は、僕たちの街は、こんなにも穏やかだ。

 十年前に起きた惨禍の傷跡を、「平和の象徴」にまで昇華した僕たちの在り方こそが、この日常を保っているのならば。

 それはどれほど素晴らしいことだろうか――なんて。

 

 

 

 さあ、今日も。

 ――一日が、始まる。

 

 

 

#0x01 First Encounter, Again

 

 

 

 時節は春、四月初旬の朝のことだった。

 ここのところ季節外れの暖かさが漂うばかりのこの街も、未だ陽が中天に架かるには些かほどに早い午前のひとときに限っては、相応の肌寒い空気が辺りを覆っているように感じられる。

 

 至る所に見える桜の木々は自らの纏う薄紅の花弁を満開にしていて、たまに吹く風がそれを散らしてゆくさまに、時を飾る彩りの一欠片を思う。

 街はどこまでも、いつも通りに穏やかなる表情を見せるばかりで、平らかでありふれた日常を内包したまま、ただそこにあった。

 

 斯くなる風景の中を、()は今独り歩いている。

 平日の朝ということもあってか、行き交う人々は気忙しく己の向かう先へと歩を進めていて、時節の趣に浸る余裕のある者などいないに等しい。

 見える景色とは裏腹に、巷は静けさとは遠く離れた空気感に覆われている。しかしこれもまた、確かな日常の一頁であることには変わりがない。

 

 個別の意思の集合が、秩序を作り出す。有機体のようなこの大きな街の中にあって、僕も等しくその一員だ。

 つまるところ今の僕もまた、自らの目的のもとに雑踏をくぐり抜けてひたすらに先を急ぐ、大衆の中の一人と評されるべき存在であった。

 

 

 

 理由と経緯は、今から一時間と少し前に遡る。

 そのとき僕の姿は街の中ではなく、とある遮音設備付きの面談室にあった。

 いつものビル、いつもの階、いつもの居室の一角で、しかし始業の時間と比して一時間も前の呼び出しをかけてきたその相手は、僕のことを斯くも大仰な空間の中へと案内した。

 フロアには二人のほかに誰もおらず、また暫く来る気配もない。それでもなおその場所を選んだ理由は、まさに彼――僕の()()が持ち掛けてきた話の性質に起因するものだった。

 

 そしてそれは、僕たちとは浅からぬ関係にあり、またある種因縁の相手とも言える()()()()()に関わる話でもあった。

 

 

 

 僕がその組織の――つまりDirect Attackのことについて識ったのは、一体いつのことであったか。

 最低でも、()()に籍を置くようになってからであるのは間違いない。尚且つそこからは、あまり時を置かずのことであったはずだ。

 

 彼らは、専ら自らのことを「DA」と略して称する。僕たちもまた彼らのことをそう呼ぶが、兎も角彼らはとある一つの目的をもって今もなお活動している。

 

 即ち、偏にこの国を平和たらしむること。

 中でもかの組織は、この国に起こりうるありとあらゆる凶悪犯罪の芽を、芽吹くより()に摘むことを至上のものと捉えていた。

 彼らはそのために、「政府公認でありながらも、政府の監督外に存在する機密組織」として、今もなおこの国の影で、しかし公然と活動を続けている。

 

 その成果は、絶大であると言ってもよい。

 この街の、そして国の治安は、他に類を見ないほどの安定を見せている。とりわけあの忌まわしき「電波塔事件」以来の、ここ十年ほどの間においては顕著にそうだと言えるだろう。

 つい最近のニュースとして、前年度までの犯罪認知件数の統計でこの国が八年連続での最小をマークしたと発表されたことは記憶に新しい。

 「世界で最も安全で、そして平和な国」。それが内外におけるこの国の、特に近年における評価だった。

 

 素晴らしいことだ。治安などいいに越したことはない。それは万人の同意するところだろう。

 ただ――それでもはっきり言って、現状は()()()()()()()()()()()ている。体感的な治安もそれに同調しているという現実がなければ、統計値の改竄すらも合理性をもって疑わねばならなくなるほどの、あまりに低い数字がグラフの上には顕れていた。

 「強固な銃規制」という現実も、「道徳性」という共同幻想も、或は「国民性」などという神話の域に至るまで、多くの国民が斯くの如き()()を持って日々を生きているとはいえ、そこにある作為の臭いを消し去るまでには至らない。

 

 ともすれば、それは「歪み」だ。否、この国はまさしく自らの中に、一つの歪みを抱えていた。

 何をかなど、問うまでもない。つまりは彼らDAの存在、そのものである。

 

 「犯罪の芽を、それが芽吹く前に摘む」。言葉にすれば結構なことであるが、そのために彼らが一体何をしているのかについて、僕はこの仕事の中で数多くの伝聞を得てきた。そしてときに、実態をこの目で見ることすらもあった。

 

 曰く、犯罪の発生を未然に防ぐため、予防拘禁はおろか予防的「排除」を含めた保全処分が認められている。

 曰く、その組織の構成員のうち、実働部隊は「リコリス」と呼称され、それは幼少期より外界から隔絶した環境で養成された十代以下の少女のみで構成されている。

 曰く、彼女たちは身寄りのない孤児を出自としており、戸籍すらも保持していない。基本的人権を、国によって保障されていない。

 エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ。

 

 それに対して何を思ったかなど、いちいち言葉にすべきだとも思えない。

 しかしそれでも端的に言うのであれば――正気を疑った。

 この組織についてだけではない、その存在を暗黙のうちに許している、日本という国そのものに対してもだ。

 

 法治の原則は、どこへと消えたのか。罪刑法定主義は、子どもの人権を語る政治家たちの、官僚たちの目には、何が見えているのか。

 或は見ないふりをしているのか。それとも、「そうするしかないのだ」とでも言うのだろうか、と。

 

 当然の批判だろう。ただ卑小なる我が身が何を言おうと、どう思おうと、彼らの今やっていることは、この国で起きていることは、動かすことのできない現実だった。

 かの組織と「我々」との間に、情報連携という名の()()()()()()()が存在していることもである。

 

 今回の事案は、そんなDAの活動に密接に関連する出来事だった。

 

 

 

 一週間ほど前のことだ。建前上協定関係にあるDAに対して出向中の「こちら側」の人員が、一つの報告を持って帰ってきた。

 それに曰く、近日中に「G事案」、つまりテロ組織とのつながりを疑われる大規模な武器取引がある可能性が高い、らしい。ご丁寧に取引現場の候補地付きで送られてきたその情報は、出元が出元であるが故にこの部署の人間にとって頭痛の種となった。

 この告知をDA側がわざわざしてくることの意義が、意義だからである。つまり彼らは僕たちに対して、以てシンプルな「要求」を突き付けていた。

 

 ――手を出すな。そして彼らに対して我々が下す「保全処分」について、一切の口を挟むな。

 これは畢竟、そういう含みを持った通達だった。

 

 協定関係、と銘打ってはいるが、実情はそんなものである。彼らはこちら側のことを「崇高なる保安活動に無駄な口を挟む邪魔者」としか思っていないし、僕たちは僕たちで彼らのやり方に内心忸怩たる思いを抱え続けているばかりだ。

 というより、そもそもの現実としてこちらには彼らの活動を表立って掣肘できる権限などない。能力もである。よって今回もまた、僕たちはその情報と共に「連絡」されてきた彼らの「保全処分」の予定を受けて、その日その場所で起こることについては「経過観察」と称して黙って見ているよりほかに方法はなかった。

 

 そして、かかる経緯の末にDAが行った「処分」の結果こそが、まさに今僕に対して示されようとしているものの中身であった。

 

 

 

 始業前の節電対策にと、外光のみを光源とした薄暗い部屋の中で、対面する男性――僕の属している()の長たる人物だ――が、一つの書類をこちらに差し出す。

 受け取って、しかし内容を検めようとするよりも一歩先に、それを渡してきた張本人が声を発した。

 

「まあ、約めて言うならば――」

 

 一度言葉を切って、小さく口を歪める。

 光源の少なさ故か、色濃く影が落ちて見える彼の顔つきは、真剣そのものだ。しかしそこに少しだけ、嘲りの色を含んでいるようにも感じられた。

 僕に対してのものではないことは明らかだ。なればその向き先は、一つしかありえない。

 

 つまりは、「そういうこと」である。

 

「――()()()()()らしいな、彼らは」

 

 果たしてその表情のままに放たれた続きの言葉が、彼らDAの、そして僕たちの置かれた状況について、端的に言い表していた。

 

 

 

 あのDAが、自らの管轄であると主張して実施したはずの「保安活動」に、失敗した。

 衝撃的なニュースだ。彼らの情報収集能力と、その情報をもとに運用する実行部隊の物量は、凡そ尋常なものではない。これまで彼らが打ち立ててきた治安に対する功績から考えれば、質も相当に担保されているはずだ。

 そんな彼らをして、「失敗した」とは一体どういうことなのか。

 

 報告書は語る。

 彼らは徹底した情報収集によって武器取引の日取りと時間帯を突き止め、その当日に現場に対して実行部隊(リコリス)の強行突入による鎮圧作戦を実行した。投入したリコリスの総数は四人ほどで、目的としては商人の身柄確保と、取引されている銃火器の押収についても目論んでいたという。

 しかしその過程において、「偶発的事象」によってリコリスと商人たちとの間で戦闘が発生し、それは商人全員の死亡という形で終結した。詳しい経緯は伏せられているが、ともかく結果として商人たちの身柄の確保に失敗したDAは、武器取引の証拠を掴むことも、また取引されたであろう火器の行方についての情報を得ることもできなくなってしまった、と。

 

 なるほど、これは確かに失敗だ。()()()と言っていい。突入したリコリスの人的被害がなかったことこそ喜ばしく、救いであると言えようが、それも任務目標という観点でのみ語るのであればなんの気休めにもならないだろう。

 彼らは何一つ掴めず、また何も達成できなかった。否、ただ一つDAは、その場において取引され、そして結果として散逸する形になった銃火器の総数に関する情報だけは入手していた。

 報告書に記されたその数字を見て、僕は思わず呻くように口に出していた。

 

「『約、千挺』……」

 

 下は拳銃から上は軽機関銃まで、大小合わさっているとはいえ銃器だけでこれほどの規模である。

 目の端で、係長の肩を竦める仕草が見えた。顔を上げてそちらに目を合わせれば、彼は困り顔でこちらのことを見ている。当然ながら、この報告書の内容についてはすでに確認済みであるらしい。

 

「ぞっとしない話だ。これだけかき集めて、何を始めるつもりなんだか」

「です、ね。というかこれ、全部使おうとしたらとんでもない量の弾薬もどこかから調達してるということですが……」

「……本当に、ぞっとしないな、それは」

 

 「G事案」などと言うが、ここまでの物量の火器があれば小中規模の集団戦闘すらも視野に入る。それを単なるテロの疑いにまで矮小化して捉えるなど、できようはずがなかった。

 本当にとんでもないしくじりをしてくれたものである。我が上長の反応は至極当然のものであると言えた。

 

 

 

 一頻りの所見を述べあって、俄に沈黙がやってくる。互いに事態を咀嚼する必要があるということか、或は僕に配慮してのものであったのかもしれない。

 ただ、その時間はそう長いものでもなかった。

 

「まあそういうわけだ。それが、君を今日この時間に呼び出したことに繋がる」

 

 目の前から発された言葉を聞いて、僕は居住まいを正す。表情も引き締めた。いよいよここからが、本題に相違ないからだ。

 

「今回の件、我々としても放っておくわけにはいかない。DAも失地を挽回しようと手は打つだろうが、こればかりはそれを傍観しているだけと言うのは通らない。我々の沽券に関わるからね」

 

 語られる単語の一つ一つに、予感が募る。

 つまるところ、こうなってしまった以上は僕たちも何か手は打たねばならないということだ。

 そしてその言葉を聞かせる相手を僕にした意味など、この時にした理由など、そう多く考えられるものでもない。

 

「よって、君には仕事を頼むことになる。……大任ではあるが、君が適任なことは間違いない。私の、そして()の総意としての、決定だ」

 

 断定口調で言い切って、一度目線が外れる。できた再びの静寂の中、二人を挟んだ机の上に、また一つの書類が用意された。

 彼はそれを手に持ち、席を立つ。促されるように立ち上がった僕を見て、頷いた。

 

 口が開く。息を吸う音が聞こえた。

 斯くして彼は掲げたそれを、()()を、こちらに向かって提示した。

 

「――()()()()()

 

 

 

 それは僕の世界にやってきた、唐突で不可逆なる変容の、始まりだった。

 

 

 

 

 

 眼前のモニタに、二つのコンソールウィンドウが描画されている。

 一つはローカルのサーバーに向けてのものだ。そしてもう一つの方では、契約しているパブリッククラウドの作業サーバーに向けて、踏み台越しのSSHセッションが開かれている。

 手元に据えられたキーボードからは断続的に乾いた音が響いて、そこからの入力によってコンソールの中身は次々と下から上へ押し流されていく。

 

 言うまでもなく、全ては僕の手によるものだ。そのさなかに、ふと視線が外へと向いた。

 

 惰性でつけたままになっている空調からの風が、半開きになったままの窓際のカーテンを揺らしている。

 外界より差し込む眩いばかりの春の陽射しは、この部屋の遍くに光を届けていた。

 

 見慣れない景色だ。そんな印象を思わず懐く。

 何日も何年も、ずっと()()()()()()()()()にも拘らず、この部屋の今の情景は僕にとってある種の新鮮さすらも内包したものだった。

 

 即ちこの場所は、「自宅のリビングの一角」である。僕は結果として、未だ昼にすらならないこの時刻にすでにここへと戻ってきていた。

 それは無論、そうすることを求められていたからに他ならない。

 

 

 

 応接室の中で手渡された()()()の辞令は、その一枚目に発令の期間における僕の対外的な扱いについてを記してあった。

 

 即ち――今度の発令において、僕はその公式の身分を「特別休暇中の人員」に位置づけられることとなる。

 任務中の各種()()については組織が保証するものの、指揮命令系統からは切り離され、また特に与えられた業務も存在していない。それが、僕の公的な立場だった。

 

 その決定に至った経緯については、続く質疑応答の中で詳らかにされた。

 

 今回の事案――「大規模銃火器散逸事案」と呼称されることが仮決めされたが、ともかくその解決に動くことは、僕たちの存在意義の面からみても義務に近い。

 取引された銃火器の流通経路や流出先をできる限り突き止めること。

 その上で、可能であれば流出したそれらによるさらなる事案の発生やリスク拡大を抑止するべく、関係所管と連携した対策を立案、必要に応じて実施すること。

 僕たちに、ひいては僕に期待されているのは、つまりはそういう役回りになる。

 

 しかしそこには問題が付き纏う。事態の発端が、DAという組織にあることだ。

 

 彼らの閉鎖性と排外主義的な態度は、もはや極まっていると言ってもよい。更に今回はあちら側の失態がそもそものきっかけとなっている以上、その挽回のためになりふり構わない態度を示すことが目に見えている。そんな中で僕たちが組織だった行動として今回の事案に介入していることが知られたら、何が起こるか分かったものではない。

 さすがにリコリスを差し向けてくるほどの常軌を逸した行いはしないだろうが、それでもリスク評価という意味では回避すべき事態だった。

 

 両者の要求は、一見して二律背反だ。しかしそれをどうにかして両立するための方法を、僕たちは、と言うよりは僕たちの()は編み出した。

 つまりそれこそが、今回の発令における僕の取り扱いだった。

 

 組織だった活動でないことを対外的に示すために、任用する人員は一人だけとし、更に一時的に組織としての統制下から外す。

 また調査の手法においては、可能な限り非接触の手段――オシント(公開情報解析)シギント(電子諜報)を含めた、情報通信技術をベースとする。

 

 全ては、いかにDAとのハレーションを低減させるかを考えての差配だった。

 物理的空間における干渉の危険性を最大限低減して、且つ万が一不運にもDA側との接触が起こってしまった場合にも、あくまでもこれは偶発的要因によるものだと、組織的な活動に端を発するものではないと弁明できるようにする。

 組織防衛と言う意味においても、任務に当たる人員の安全性を確保するためにも、最も確実なやり方だと彼らは考えたのである。

 

 

 

 ともあれ、斯くの如き方針を立てた上の人たちは、その遂行において僕に白羽の矢を立てた。

 

 この場所におけるキャリアの浅さは、DA側の警戒をすり抜けるべく逆用できるとして。

 そして僕が持っている()()()()()()()()()が、今回の条件に完全に適合しているとして。

 

 名誉なことだ、と思った。

 しかしその一方で、これは尋常な仕事にはならないという直感も懐いていた。そこには難しさもあるし、同時に危うさも常に付き纏うだろうと。

 それは上司――係長にとっても同じことであったらしい。事実彼は何度も僕に念を押してきた。「リスクは決して無視できない」と、「危険を感じたらすぐに報告するように」と、そう重ねて告げていた。

 ただそうであっても、僕の中にこの任を拝領することを敬遠する気持ちなど、寸毫たりとも存在はしなかった。

 

 何故だろう。理由を一言で説明するのは、難しいように思う。

 ただその朧気なる輪郭を言葉に直すのならば、「何かが変わる予感がしていた」、ということになるのだろう。

 

 僕個人か、僕たちという組織か、果てはこの国そのものか。

 そこまではまだ見通せず、しかしこの事案を追っていった先にある未来に、僕は漠然とした期待を抱いていたのだ。

 そんな何かを掴めるのではないかと、それは淡い願いにも、祈りも等しいものだったのかもしれないけれど。

 

 ともかく、故に僕はどこか晴れやかな心持ちで、提示された辞令を受け取った。

 胸中には興奮が、或は歓喜の情すらも、湧き上がっているような気がしていた。

 

 

 

 

 

 それが、だいたい一時間半ほど前のことになる。そしてその始終を想起している間にも、僕の手は半ば無意識の中で動き続けていた。

 立ち上げたのは、一つのプログラム群だ。

 メインとなる自宅の母艦サーバーと、そこに付随するパブリッククラウド上のワーカーインスタンスによるスウォームで構成されるそれは、一つの目的をもって構築されている。

 

 今回の事案において、DAが事前に周到な準備を行ってから計画を実行に移したことは間違いがない。しかしそれでも結果として彼らの目論見が失敗に終わったのであれば、彼らの及びもつかぬ意思がそこには働いていたというよりない。

 ならばそれを炙り出すに最も相応しい切り札とは、この街に生きる「人々の目」を措いて他にはない。

 

 彼ら彼女らは自らの生活の中で、様々なものを目にして生きている。他愛もない風景の一ページは、その他愛のなさ故に往々にして見過ごされるものだ。

 しかしだからこそ、時にそこには意味が生まれる。誰もが捨て置き、価値を置かずにいるからこそ、無意識の中で()()()()()が映り込み得る。

 ならばそこに意味を求め、関連性を推測し、分類して精査すれば、見落としていた情報を復元することも不可能ではない。

 

 それこそが"Open Source INTelligence"、オシントの真髄というものである。

 

 つまるところこれは、「SNSデータマイニングツール」とでも称すべきものだった。

 今回の武器取引に関する情報、或は痕跡を、オープンなWeb空間から探す。その中心は種々のSNSだ。衆目の体現として、それが最も近似した存在であるからに他ならない。

 そしてそこから収集するデータは可能な限り無差別で、且つ大量であることが望ましい。それらに対して評価を与えるのはあくまで母艦サーバーの中にある解析エンジン、即ち機械学習モデルの仕事ということになる。

 

 無論、それはリソースと時間との兼ね合いだ。よって僕は今回、いくつかの簡単な絞り込み条件をツール内に設定していた。

 

 まず地理的条件として、DAからの報告書にあった武器取引現場のビルをその中心に置く。そこから同心円状に設定された評価係数が、検索対象への重みとなる。

 更に時間的条件として、DAのリコリスたちの突入時刻から過去七十二時間、つまり三日遡るまでの期間を設定した。当日の取引に至る準備を捕捉したいという狙いもさることながら、僕は今回の顛末に一つの推測を持っていたからだ。

 

 ただ、それはあくまで推測でしかない。すべては情報を収集しきったあとに明らかになることだ。無論「何も分からないことが分かった」という後ろ向きな収穫を得る可能性も大いにあるが、その時はその時である。

 必要なパラメータを揃えてコンフィギュレーションファイルを構築し、コマンドの引数に指定して、指をエンターキーにかけた。

 

「さて、どうなるか」

 

 そんな小さな呟きが、口から漏れ出る。コンソールに印字されたコマンドの文字列に、改めて確かめるように目を通した。

 不安材料は、少なくない。設定した条件が完全に的を外している可能性はゼロでなく、そうでなくても有意義なデータを拾い上げることができるかは、結局のところ賭けだ。

 だからせめて、何か手掛かりばかりは掴んでくれるようにと、僕はそんなどこか祈るような気持ちを胸に、キーを強く押し込んだ。

 

 ワーカー側のログに、たちまち文字が吐き出されはじめる。所与の条件に従ってデータのスクレイピングがスタートしたことを、それは示していた。

 

 

 

 勢いよく文字が流れ続けるコンソールウインドウを一瞥して、僕は席を立つ。

 一度コマンドをキックした以上、ここから先はマシンの仕事だ。ことが成功裡に進んだとして、結果のレポートを得られるのはどんなに早く見積もっても十二時間はあとのことになるだろう。否、今回の収集範囲を考えれば、それよりも更に時間を要することはほぼ確実と言えるかもしれない。

 

 何であれ、いずれにしてもこれ以上僕がやれることはない。PCの前に座っていても、できることはと言えば解析が上首尾に終わってくれることを祈るのが精々で、それに何ほどの意味があるとも思えない。

 今の僕は、俄に手持ち無沙汰になっていた。

 

 一息をついて、辺りを見回す。ツールの微調整とパラメーター設定周りの作業に思った以上の時間を要していたということか、いつの間にか時刻は昼を大きく回ってしまっていた。

 昼飯時もやや過ぎて、そう思って自らのことを気にすれば、確かに少しだけ何かを口に入れたい気分ではある。外に出向くか、或は自炊にするのも悪くはないだろうか。そんなことを思案する。

 

 たから、なのだろうか。そこでふと僕の頭の中に、脈絡もなく一つの()()()のことが浮かび上がってきた。

 

 

 

 それはこの家からは歩いて二十分もないほどの近さ、錦糸町駅の北側に広がる住宅街の中に、奥ゆかしくも佇んでいる。木組みの外構にどこか和洋折衷な印象を懐かせる、そんな店だ。

 

 その店――「喫茶LycoReco(リコリコ)」との出会いは、実のところ偶然の巡り合わせによるものだった。

 数か月前、週末にたまたま外出していた折に、これもまたたまたまいつもと違うルートを使って家に帰ろうとした最中、何の気なしに視線を巡らせた先で、僕はその場所を見つけた。

 何の変哲もない家々の中、突然に現れた木組みと煉瓦の趣深い外構に、やけに目を、そして興味を惹かれたのを、今でも憶えている。

 

 そのまま誘われるように入った店の中でのひとときも、僕にとっては印象深い体験の連続だった。

 

 ここの店主――マスターは壮年の黒人男性なのだが、そんな彼が纏うのが()()であったことが、まず第一に僕の意表を突いた。

 それもこの店のためのお仕着せなどではない。藤色の長着に葡萄染の羽織の組み合わせは普段着としての誂えそのものであって、事実それを身に着けた彼の立ち居振る舞いは、自らの装いを完全に日常の中に取り入れた者としての風格すらも宿していた。

 

 そんなマスターであるが、彼はここで「コーヒーと和菓子」のセットを中心としたメニューを提供している。それが第二の驚きであった。

 字面だけでは、ミスマッチにも感じられるからだ。しかしこの店においては、その取り合わせが不思議と成り立っていた。

 

 否、「不思議と」ではない。そうなるように考えて、彼はコーヒーを淹れているのだ。

 マスターの出すコーヒーは、深めのローストでやや苦みが強い。しかし決して重さはなく、寧ろ薫り高くて酸味の少ない、軽やかな口当たりが持ち味だ。きっとだからこそ、和菓子の純粋で繊細な甘さが殺されることなく引き立つのだろう。

 この域に至るまでに繰り返されたであろう試行錯誤に、僕は敬意すらも覚えた。

 

 そこから更に、今度はフロア全体へと目を向けてみれば、マスターのほかに二人いる店員――双方とも女性だった――もまた、それぞれに唐紅と萌黄が艶やかな二部式着物に身を包んで給仕をしている。

 それは色に美しく、しかし仕立ては楚々としていて、そんな彼女たちの姿もあって、僕はこの店の在り方に一貫した()()のようなものさえも見て取った。

 

 相反する要素を縒り合わせて、一つにする。和洋の境に立つが如き店構えも、マスターの出で立ちも、この店の出す「コーヒーと和菓子」という組み合わせについても、そこに通底するのはそんなコンセプトなのではないかと、直感していた。

 

 そして僕はそれを、美しいと思った。それだけでもきっと、この店を魅力的な場所だと評するには十分だっただろう。

 

 

 

 しかし――その日その場所での一つの出会いが、僕のそれまでの印象の全てを塗り潰してしまった。

 

 

 

 それは店員のうちの一人だった。年若い少女だ。歳のほどは恐らく十六、七ぐらいだろうか。

 日本人には珍しい色素の薄い白金の髪を、肩より上で短く切り揃えている。それは活発さの顕れのように、僕には見えた。琥珀色の瞳を煌めかせ、周り全てに笑顔を振りまきながら、彼女はホールの中を舞うように歩き、そして歌うように語らっていた。

 

 彼女の振る舞いは、あまりにも軽やかだった。まるでその周りだけは重力からも解き放たれているのではないかと、錯覚するほどに。だからその一挙一動が、その姿が、自分にとっては酷く新鮮で、どうしようもなく眩く映った。

 それを一言で表現するのならば、「自由」だろう。或は、それへの羨望だったのかもしれない。

 なにものにも縛られず、何事にも動じず、己の意思のままに爛漫に、闊達に、ありのままに振る舞って、それでも彼女から放たれる光は辺りを満たしている。僕のそこまで長くもない人生経験の中で、しかし彼女のような人間には、一度も会ったことがなかった。

 

 故にそれは、決して忘れ得ぬ記憶となった。

 確かにあの時、僕が見る視界の、生きる世界の中心には、彼女こそが立っていたのだ。

 

 そしてその日の帰り際、会計の後にわざわざ店先まで見送ってくれた彼女は、「錦木千束」という自らの名前を僕に教えてくれた。それは彼女に対する目の覚めるような第一印象と共に、今でも脳裏に深く刻み込まれている。

 

 

 

 それからというものの、僕は週末の土日のうちどちらかを件の喫茶にて過ごすようになった。

 最初こそ錦木千束という一個人に対する強烈な印象ばかりが先行していたものの、何回か通っていれば店のことをより多く、深く知るようになる。

 あの店が少数の常連客が主な客層であることはすぐに分かったし、僕もまた数回もすれば店員だけではなく、そうした他の客からも顔と名前を覚えられた。

 学生をはじめとして、漫画家や所轄と思しき警察官、果ては地廻りの親分に至るまで、少数とは言えども顔ぶれは多彩だ。そしてそんな人たちとのどこかウェットな人間関係も、あの店の一つの魅力だろうと、今の僕は思っている。

 

 

 

 そんな風に件の喫茶店のことを反芻しているうちに、僕の中に一つの思い付きが浮かび上がってきた。

 ――行ってみようか、あそこに。

 あの場所は食べ物としては和菓子しか出さない。昼飯という意味では、あまり向いてはいないかもしれない。

 ただそれでも、それを分かっていて、なぜだか無性にあの場所に足を運びたくなった。

 

 ならば、行こう。たまには和菓子とコーヒーだけの昼時があってもいいだろう。

 そう心に決めて、僕は再び部屋着からよそ行きの服に着替える。そしてそのまま、自室をあとにした。

 

 

 

 平日の日中は不定期休と聞いてはいたが、運がよかったのか、僕が足を運んだその時にかの店は営業中だった。押し戸となっている玄関扉に手をかけて押し開けば、扉に結わえられた青銅の鈴が、いつものように僕の来客を店内に告げる。

 一歩踏み出して中を見渡すと、客の姿は自分の他には誰もいなかった。視線を前へと向ければ、カウンターの中で何かの仕込みをしていたであろうマスターが、こちらに目を向けていた。

 

「いらっしゃい」

 

 気持ちばかり相好を崩して、彼は短く一言そう口にする。相変わらずというか、寡黙が様になる男だった。

 

「カウンター、いいですか?」

「……勿論だ」

 

 そう言って手でカウンター席を示す彼に会釈をしつつ、店内へと歩を進める。

 

「ご注文は」

「コーヒー、いつものブレンドと……あと団子のセットを」

「かしこまりました」

 

 席に着くや、おしぼりをこちらに渡しながら注文を訊いてきた彼に、定番のメニューを頼む。それを受けてバックヤードへと引っ込んでいくマスターを尻目に、店内へと目を向けた。

 

 寄木細工と木組みの内装で作り上げられた空間に、ステンドグラスから柔らかな外光が差し込む。午後二時を過ぎて陽射しは未だ天高くにあり、それが天窓のガラス越しに麗かに降り注いで、僕の視界を山吹色の世界へと塗り替えていた。

 自分を措いて他に誰もいない今、この店の中にはただ静けさばかりが横たわっている。それは常連の人たちの温かみを持った賑やかさとは別の顔では間違いなくあって、それでも尚確かな平らかさを以て僕を包んでいるように感じた。

 一人思惟に沈むには、またとない場所か。一つ息をついて、正面へと向き直った。

 

 カウンターについた腕に額を預けて、軽く目を瞑る。想起するのは当然に、今日拝命した仕事のこれからについてだ。

 

 千挺もの武器を、誰の目にも見られることなくまんまと調達し遂せた人物、或は組織というのが、当面の僕の相手になる。特に過去八年以上にわたって国内のありとあらゆる組織犯罪の芽を潰し続けてきたDAの目を欺いた事実は、あまりにも重い。当然、一人で正面切って戦うことはほぼ自殺行為に等しい。物理的に命が危険にさらされる可能性は、かなり高い。

 自分の「勘」ではあるが、そもそもDAは武器取引に際して偽の情報を掴まされたのだろう、と踏んでいる。

 取引相手として指定された武器商人すらもスケープゴートにした、大掛かりな欺瞞作戦である。そして本来の取引は、それより以前に既に終わっていたはずだ。スクレイピングの対象として過去七十二時間を指定した理由は、結局のところそこにあった。

 

 ただなんにせよ、恐らく直接的な証拠を収集することは不可能だろう。だからこその今の僕の作業なのだ。取引現場周辺で取られた写真や、当時の交通状況、それを「つぶやいて」いるSNSの投稿、そういったものから間接的に痕跡を見出すしかない。それは地道な作業だが、故にすべての礎となるものでもあった。

 その後は……差し当たっては、協力者だろうか。同業者から引っ張ってこれれば上々吉、それに加えて自分と同じような情報分析のスペシャリストがいれば、言うことはない。

 

 さて、どうしたものか。そこまで考えたところで、ずい、とコーヒーカップが目の前に差し出された。

 

「お待ちどうさん、コーヒーと団子のセットだ」

 

 顔を上げれば、マスターが相変わらずの出で立ちで、こちらに注文の品を持ってきていた。

 ありがとうございます、と会釈をしつつ、カウンターからテーブルへとそれを下す。そしてそれを口に運ぼうとコーヒーカップに手をかけた、その刹那のことだった。

 

 

 

「ん? あれー? 先生、お客さん来てるの?」

 

 

 

 意識の外から、声が聞こえた。

 フロアの奥、スタッフの出入り口から少女が顔を覗かせる。金糸の髪、琥珀の瞳が煌めいて、襷がけされた真紅と紺鼠の二部式着物が視界の隅に躍った。たたた、と軽い足音を響かせてホールに駆け込んできた彼女は、僕の姿を目に捉えると、ぱっとその表情を輝かせた。

 

「お? おー! 真弓さん! いらっしゃい、珍しいね平日に! どうしたの?」

 

 底抜けに明るい声を伴いながらもすいすいと歩み寄って、僕の隣の席に腰を下ろす。好奇心で満たされたその双眸が、虹彩が、こちらを真っ直ぐ覗きこむ。

 

 喫茶リコリコの看板娘、錦木千束が、そこにいた。

 

 

 

「お邪魔してます、錦木さん」

 

 手に持ったコーヒーを掲げながら、僕は彼女に向き直る。

 

「もー、前から言ってるでしょ、『ちさと』でいいってさー」

 

 ――もうすっかり常連さんでしょ?

 口を尖らせてそう嘯いた彼女は、しかしその瞬後には元の笑顔で言葉を継いだ。

 

「それでそれで、今日はなんでここに?」

「いや、まあ……仕事の内容が変わって、平日のオフが増えたんです」

「内容? そういや真弓さんって仕事何してるんだっけ?」

 

 つい口を滑らせたその瞬間、忽ちのうちに一歩踏み込まれた。

 「あ、下手を踏んだ」。そう後悔するも遅かった。何か繕わなければと、思惟を巡らす。

 

「……IT関係の仕事。成果さえ上げてればずっと働かなくてもいいってやつですね、今は」

「はー! 成果主義ってやつ?」

 

 かっくいー! などと、茶目っ気を込めた口調でからかい交じりに錦木さんは笑う。

 彼女のそんな、どこかするりと人の懐に入る話術や雰囲気は、「僕たち」の中にあっても()()()()()()の素養として大層重宝がられるであろうな――などと、どうにも益体もない感慨を抱きながら、僕もまた小さく笑った。

 

 

 

 そのあとも、他の客の来そうにもない貸し切り状態の店内で、錦木さんとしばし歓談した。

 

 ご近所付き合いの中で解決したお悩み相談の内容や、日々の気づき。錦糸公園の桜が、とっても綺麗に咲いていたこと。

 彼女の話題はあちらこちらに散らかりながら、でもその無軌道に跳ねまわるやり取りは、やけに耳に、心に響く。

 

 そして気づけば、この店に入ってから随分と時間が経ってしまっていた。そろそろここも、夕方の営業に向けての支度を始めるべき頃合いだ。

 

 ごちそうさまでした、と独り言ちて席を立つ。隣のカウンター席に腰掛けたままに、ずっと二人話し込んでいた彼女も、僕に合わせるように立ち上がった。

 

「それじゃ真弓さん、また今度ー」

 

 手を振りつつ、あっ、と何かに気が付いたように声を上げる。

 

「平日来れるようになったってことは、もっと来てくれたりする?」

 

 ぐい、と身を寄せて、期待の籠ったような眼差しが僕を射抜いた。

 どうにも面映ゆい。どこまでも真っ直ぐなその琥珀色の輝きに、目を合わせるのが苦しくなった。

 

「……まあ、多少は。この店の売り上げにも貢献できるかもしれません」

 

 ね、と逃げるようにマスターの方に目配せをすると、彼も苦笑交じりに手を挙げて返してきた。そのまま近づいてきた彼とレジで会計を済ませ、出口に立って、一度軽く頭を下げる。

 

 ――ありがとうございましたー。

 錦木さんのそんな見送りの声を背に受けて、店の外へと躍り出た。そろそろ日が傾いてきた街は、黄色から橙へとその色彩を移している。

 

 そのまま一人、帰りの道を歩きながら、ふと錦木さんが口にした話を思い起こす。

 ――公園の桜。花見をするにはもってこいだ、と。

 

「ちょっと寄ってから、帰るかな」

 

 ぽつりと呟く。

 ついさっきまで目と鼻の先で話していた彼女の笑顔が、今一度脳裏に浮かんだ。




2023/2/18 全面改訂。
2024/2/7 更に全面改訂。
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