もう戻れない。でも、戻る必要なんて、初めからなかった。
強かに殴られ、千束さんがよろめく。そしてたたらを踏んだところに、更にもう一発が突き刺さる。
やりたい放題にいたぶられ続ける彼女の姿を目にして、僕は自分の頭が急速にクールダウンしていっていることを自覚した。
「――ミズキさん」
「何?」
「たきなさんを、ここで降ろしてください」
声すらも、冷えていく。
「は? なんで?」
「千束さんが、逆撃を受けてます。……不意打ちです、抵抗できていない」
隣で、たきなさんが息を呑んだ。
「あっちの方も人数としてはまだ一人ですし、そいつは銃を手放しているので、状況的にはまだ猶予があります。たきなさんは側面支援で、千束さんに相対している男と追ってくる車に乗った他の連中の足止めをお願いします」
自分がここまで低く、硬い声を出せるとは、と。そんな、他人事のような驚きを懐いていた。
「……わかった。たきな、頼んだ」
減速して、車が停まった。ミズキさんに促され、たきなさんが車を降りる。宵闇に消えていく彼女を見送って、車は再び動き出した。
カメラに映る千束さんは、まだひたすらに殴られ続けていた。見るに、ギリギリで正中線への打撃は避けられているようだが、それでももはや足元はおぼつかず、ノックアウトされるのは時間の問題のように見える。そして男は、面白いように無抵抗で殴られるがままの千束さんを、まるでいたぶることに楽しみでも見出しているような執拗さで、あちらこちらから殴りつけていた。
一発、男の拳が千束さんの身体にめり込む毎に。
一歩、千束さんがのけ反り、その足がふらつくごとに。
身体すら冷えていく。視野が狭まっていく。耳鳴りが、止まらない。
監視ドローンを自動制御に切り替えて、僕は千束さんの上空を哨戒飛行させていた攻撃ドローンに、制御を移した。
男にクロスレンジで殴られている間は、彼女の援護はできない。しかしいつか彼は千束さんを弄ぶのに飽きて、始末しようとするはずだ。そのために、投げ捨てた銃を拾う。その瞬間こそが、その瞬間だけが、狙い目だ。
『おし、ドローン到着……っ、まずい、千束が!』
そのタイミングで、クルミのドローンが現着する。飛ばしてきてくれたのだろう、こちらの車が現場入りするよりも、それは早かった。
「把握してる」
『隼矢……?』
「把握していると言った。……あいつは、僕がどうにかする。絶対に」
見れば、追いかけていた襲撃犯たちの車が、まるでリングのように千束さんと男を取り囲んでいる。車から降り、男たちが囃し立てる。千束さんが痛めつけられている光景を、まるで見世物のように。
――ああ、だめだ。耐えきれそうにない。視界が明度を失って、自らの鼓動が、嫌に大きく鳴り響いている。
「クルミ。たきなさんを側面支援に向かわせてるから、オペレートを頼む。僕は今、千束さんしか見ていない」
『……わかった』
それだけ言い捨てて、攻撃ドローンの照準を男へと定めた。
殴って、殴って、殴って。散々に嬲られ、抵抗力を失った千束さんの体が、とうとう男の拳で宙を舞う。吹き飛んで、強かに頭を芝生に叩きつけられて、その身がだらりと倒れ伏した。それを視認した男が、無造作に投げ捨てられていた拳銃に、手を伸ばす。
そしてそこに、距離が生まれた。目線が、千束さんから切れた。
故に、それはまさしく絶好の機会だった。
大音声のブザーが、夜の公園に甲高く鳴り響く。それを聞いた男が、反射的にその音の出元、僕が操るドローンの方向を向いた。
刹那映ったその容貌を、今一度目に焼き付ける。
やはりそれは、さっきちらとだけ見えた姿と相違ない。黒い全身コートに、緑色の髪。酷薄さを内包した目つきもそうだ。
その姿が、地下鉄駅の監視カメラ映像の記憶と、重なる。
「やっぱり、お前なんだな。……許さない」
噛みしめるように口にして、真っ直ぐにそれを見据えて、そして僕は攻撃ドローンのトリガーを、引いた。
男が、目を塞ぐ。それにも構うことなく、トリガーを引き続けた。
ドローンからの初撃の正体は、大出力の半導体レーザーだ。全盲でもなければ、いかなる人間であっても目に突然直接照射されるレーザー光線には怯む。それが生理的反応だからだ。男もまた例外ではなく、その隙に僕はドローンを彼の懐に潜り込ませた。
しかし男の反応は速かった。僕の想定なら三秒は動きを止められると思ったところを、ソイツはすぐさま反撃体勢に移る。
「やらせるわけがないだろ」
ドローンの隅から、
そこで一瞬、逡巡した。追い打ちをかけるか否か。己の心の中に暴れるどこか暗い激情の渦は、このままこのドローンをお釈迦にしてでもこの男を切り刻んでやれと叫び続けているけれども。
ぎり、と奥歯を噛む。しかしそれはダメだ。今の敵はこの男ばかりではない。バックアップはあるとはいえ、目を、手段を失って、それが破局を齎すことだけは、絶対に避けなければいけないから。
僕は男のその様子を尻目に、歯を噛みしめながらも攻撃ドローンを上空へと退避させた。
一息ついて、心を落ち着ける。監視ドローンの方に視線を向ければ、先ほどまで立ち上がることもできず藻掻いていた千束さんが、ようやく自分の足で地面に立ったのが見えた。手元には、男に逆撃を受けた直後に手放していた彼女の得物が握られていた。
銃声。千束さんの射撃を、しかし男は見事な反応で横っ跳びに回避する。そして立ち上がり、千束さんめがけて手に持った銃を突きつけた。
戦況は、そこで膠着した。互いが互いに銃を突きつけ合い、二人はそのまま動かない。
『よし、でかしたぞ隼矢!』
クルミが快哉の声を上げた。とりあえず、千束さんの窮地それ自体は救えた、と言っていいのだろう。
油断なく画面へと目を配りながら、僕は自分の左手が皮膚を食い破らんとするほどきつく握られていたことに、そこで漸く気が付いた。
『こっちからも朗報だ! たきながそろそろ現着できる! 支援射撃はすぐ始められるが、そっちはどうだ!?』
続いて、クルミの声が車内に響く。それを聞いたミズキさんが、声を張った。
「そろそろ着くよ! 今もみじ大橋!」
その声に前を見れば、それまで上空からドローンで見ていた襲撃犯たちの車の円陣が、フロントガラスから見えるところにまで来ていた。
ならばあとは、もう一押しさえあれば、状況は動く。
そしてその時は、すぐにやってきた。
『分かった。 ……よし、たきな、撃て!』
直後、クルミの一声と同時に、カメラに映る緑髪の男の手から、拳銃が弾け飛んだ。それが誰の手によるものかは、もはや言うまでもなかった。
全てのドローンを自動制御モードに切り替え、一度ラップトップを閉じた。はやる気持ちを落ち着けて、深呼吸を一つ。そして声を張り上げて、回線の向こうのクルミに依頼を投げる。
「クルミ、あとの全体オペレートは頼んだ!」
『分かった!』
強烈な慣性がかかる。タイヤが芝生を食って、車体が大きく跳ねた。大きくカーブしながら襲撃犯たちの円陣を迂回して、千束さんの影を探す。
『千束はこっちの車を探してる! 斜め左方向に抜けろ! たきなにもポイントを伝える!』
クルミの声に目を凝らせば、林立する白いバンの向こうに、赤い服が見えた。
「分かったッ! ……こンのっ、邪魔ッ!」
ミズキさんが強く、アクセルを踏み抜いた。
途中立ち塞がる男たちには、轢殺する勢いで全速力で突っ込む。それにたまらず飛び退る彼らを尻目に、一目散に駆けて行く。
不安定な芝の上で、今一度強引なドリフトをぶちかます。足を突っ張って耐えた制動で車が止まったその時には、千束さんはすぐこちらに走り寄ってきていた。
「千束さんッ!」
扉を開けて、呼びかける。気合の叫びと共に、すぐさま彼女は飛び込んてきた。衝撃を殺すように抱き留めて、そして次へと備える。
「たきなさんは……よし、来てる!」
牽制射撃を断続的に繰り返しつつも、たきなさんもまた駆けてきた。続けざまに、飛び乗ってくる。
「全員乗ったな!? ならミズキ、出してくれ!」
「ばっちこい!」
そしてこちらが扉を閉めると同時に、ミカさんが号令を出す。
ミズキさんは威勢のいい掛け声とともに、今一度アクセルを力強く踏んだ。
『あちらさんはまだ諦めてないぞ、追ってくるつもりだ!』
走り出した直後に、クルミがそう警告してくる。
後ろからはマズルフラッシュが瞬き、吐き出され続ける弾丸が防弾性の車の鋼板を叩く音が、スコールのように響いている。
リコリス二人組と半ばもみ合う形でどうにか車内での姿勢を安定させた僕は、抱え込んでいたラップトップを再び開き、そして攻撃ドローンの制御を回復させた。
姿勢制御ブレードをいくつか射出した関係で細かな制御は難しいが、最悪の場合は「カミカゼ」に使えばいい。金は命には代えられない。
車の両サイドから時折身を乗り出して、千束さんとたきなさん、それにミカさんが応戦する銃声が断続的に響き渡る。
ミズキさんはこのままでは行き止まりになる進路から、再びのドリフトでもみじ橋方面に車を切り返そうとしていた。
しかしそのさなか、鳥瞰視点で自動哨戒中の監視ドローンのカメラが、この車の進行方向から真っ直ぐに突っ込んでくる一台の車の姿を捉えた。
「ミズキさん、もみじ橋方面から一台突っ込んできます!」
「はぁッ!? ……ちっくしょ!」
程なくして、煌々と輝くヘッドライトが遠くに見える。ミズキさんも退避すべくハンドルを大きく切るが、対向の車も逃がさないとばかりにこちら側に進路を変えてきた。
「こんのぉ……ッ!」
急制動と、強烈な横滑りによる凄まじい遠心力に身体が持って行かれる。思わず呻き声が漏れた。車体後部は大きく横に振られ、こちらの横っ腹に突き刺さるように突っ込んできていた追手側の車を、ギリギリで躱す。
それはドリフトによる、芸術的な回避動作だった。後ろを振り返れば、スカされた形となったその車はそのままの勢いで真っ直ぐ走り抜け、そして真正面から広場中央付近の噴水に衝突して動きを止めた。
「っし、どんなもんよ!」
「やるじゃん、ミズキ!」
どや顔で振り返ってくるミズキさんに、千束さんが称賛の声を送った。
ならば、これでようやく離脱できそうか。
「じゃあ後は正面突破で……」
そう思ってミズキさんに声をかけようとしたところで、しかし強引にクルミが割り込んでくる。つまりまだ、試練は続いていた。
『まだだ、ヤバいので狙われてるぞ!』
慌てて哨戒ドローンの映像に目を配る。こちらの進路前方に立ち塞がった一人の男が、肩に担いだ何かでこちらに狙いをつけている。その正体を理解した瞬間に、僕は急いで制御の主体を攻撃ドローンの方に切り替えた。
「携行式ロケラン……? 無茶苦茶を!」
攻撃ドローンのモーター出力を最大にする。姿勢制御がおぼつかないが、しかし真っ直ぐに突っ込んでいくだけなら、それで十分だ。
「千束さん、たきなさん、顔引っ込めて。ミズキさん、進路そのまま。こちらで対処します」
「ッ! ……信じてるからね!」
ミズキさんはその言葉と共に、アクセルを全開にする。当然にして、男の影は急速に近づいてきた。こちらに照準を合わせたロケットランチャーの砲口までも、鮮明に見えてくる。
もう、今更回避は間に合わない。そしてその必要もない。頭はクールに、目は向かう先を真っ直ぐに見据える。そして指を、静かに前へと倒した。
「これ、絶対あとで経費で落としますからね……!」
レーザーを照射しつつ、攻撃ドローンは猛スピードで目の前の男に向かって突っ込んでいく。強烈な光をまともに視認する形になった男は手元がぶれ、そしてその勢いのままに衝突したドローンの勢いで、もんどりうって倒れる。
それとほぼ同時に発射されていたロケット弾は、全くあらぬ方向へと飛び去って行って――そして運がいいのか悪いのか、噴水に真っ直ぐ刺さった形となったままのさっきの車へと、まるで吸い込まれるように向かってゆく。
その、数瞬後。
ガソリンが生み出す爆炎が辺りの全てを茜に染めて、決定的な破壊を伴う轟音が、地響きすらも伴って、聴覚の全てを塗り潰す。
噴水に衝突して止まっていた車は、その噴水ごと巻き込む形で、ロケット弾の着弾によって爆散した。
それを背景に、僕たちを乗せたこの車は、小松川公園から離脱する。
今度こそ、ようやく、僕たちは死地を脱した。ラップトップを閉じて、そして僕は思わず、膝を抱えて突っ伏した。
斯くして、僕たちはリコリコに帰投した。全員無事で、欠けることなく。
そして表口から店内に入った僕たちをの目に飛び込んできたのは、何故かクルミが床の上に座って僕たちのことを待ち受ける姿だった。
聞けば、自分が起こしたDAに対するサイバー攻撃が今回の顛末の遠因になったことに、良心の呵責を感じているらしい。
そして、たきなさんがリコリコに「左遷」されてくることになった、その原因となったことにも。
「……ごめん、千束、たきな。ボクの軽率な行動で、二人には迷惑をかけた。……皆にも」
ほとんど土下座に近い形で、彼女は頭を下げる。千束さんはミカさんに負った傷の手当てを受けながら、そしてたきなさんは床に正座するクルミの前に立って、黙ってそれを聞いている。
クルミが謝る気になったのであれば、僕はそれについて何かを言うことはないし、言うべきでもない。あとは千束さんとたきなさんの問題だ。
二人の方に目をやる。千束さんの方は特に何かを気にしている様子ではなく、消毒液を含ませたガーゼを傷口に当てられて顔を顰めつつも、クルミにひらひらと手を振った。
「あー、いーのいーの私は。でもたきなは……」
「そうだぞー、アンタは被害者なんだから、言ったれ言ったれー!」
千束さんがたきなさんに水を向け、そしてミズキさんが後ろから囃し立てる。まあミズキさんの場合はどちらかと言えばクルミへの当てつけのような気もするが。
そして当のたきなさんは、いまいち感情の読み取れない表情でクルミのことを見下ろしていた。内心複雑なものもあるのだろう。今日のことについても、そして以前のことについても。
上目遣いにこちらを見上げるクルミの表情が、次第に焦りの色を帯びる。どうしようもない場合は、僕の方から庇い立てすることも考えようか。そんなことを思ったタイミングで、しかしたきなさんは、ふとその表情を緩めた。
「『あれ』は私の行動の結果で、クルミのせいじゃありません」
そしてクルミの方に手を差し出して、そう声をかけた。
飲み込んだのだ、彼女は。己の中に渦巻く諸々を。
それはきっとクルミのことを、仲間だと思っているからだ。そうしてもよいと思えるまでに、彼女のことを受け入れられるように、なったからだ。
「たきな……」
顔を上げ、掠れ声でそう零したクルミに、でも、とたきなさんは念を押した。
「『アイツ』は捕まえる。……最後まで協力してもらいますよ」
その言葉に、クルミは顔を輝かせた。
「――勿論だ!」
千束さんの方を見る。彼女も嬉しそうな顔で、クルミとたきなさんのやり取りを見ていた。
その後、立ち上がったクルミは、早速といった風情で僕たちに一つの情報を共有した。
それはあの時の、円陣を組んで、囃し立てる男たちの映像の、その一部だ。彼らがその名前を呼び掛けている部分を繰り返し再生しながら、クルミは得意げな顔で言った。
「『マジマさーん』。だとさ」
それはつまり、今回千束さんを襲って散々に痛めつけてくれた、あの緑髪の男の、その名前に相違ない。
「マジマ……ね」
それを知ったことが、何になるかはさておいても。
次会ったときには確実に叩きのめす。絶対に、完膚なきまでに。そう思った男の名前を知れたことは、確かに僕の精神衛生においては非常に有意義なものだと言えた。
その名前を口の中で反芻する僕を見てクルミが若干引き攣った表情を浮かべていたが、今日のところは何も言わないでおこうと、そう思うぐらいには。
その後のこと。ミズキさんとミカさんは早々に店を立ち去り、この店に居つくクルミも入浴のためにともう既に奥へと引っ込んでいた。
フロアに残された僕は一人、帳簿チェックやガス栓、窓のカギの確認を進めていく。それは当番の時のルーティーンではあったが、今日に限ってはその一連の作業は、どこかささくれ立ったままの心を落ち着かせる猶予を僕に与えてくれていた。
いつもより少しだけ時間を掛けつつもそれを終えて、いざ自分も帰ろうかとバックヤードから出る。
しかしそこには、もうこのフロアにはいなかったはずの人影があった。
「えっ、千束さん?」
「……や、やあ」
僕の目線の先、決まり悪げな表情を浮かべて、千束さんが立っていた。
「あれ、帰ったんじゃなかったの? というかその、たきなさんは? あの子も帰ったはずだよね」
「それは、そのぉ……」
僕の問いかけに、彼女は口ごもった。
まさか。僕は思い至る。言い淀むと言うことは、そういうことなのか。たきなさんを、一人で帰らせたとでもいうのか、と。
……さっき自分がどんな目に遭ったか、もう忘れたのかと。
「ねえ、まさかとは思うけど……」
「え? あ、ちょーちょちょちょちょ、ちょっと待って、そうじゃない、そうじゃないって」
飛び出したのは、自分でも驚くほどの冷たい声だった。対する彼女は慌てた様子で、両の手をぱたぱたと振った。
そういえば、彼女がよく言う口癖の割に、僕が
「たきなには、外で待ってもらってる。……その、どうしても、二人で話したかったんだ。隼矢さんと」
そして、目を逸らしつつ、彼女は言う。
思わず、僕は目を見開いた。
しばしの沈黙の後、千束さんが口を開く。
「……カッコ悪いところ、見られちゃったよね」
そう言って、頬を掻いた。未だ頑なに、千束さんは僕と目を合わせようとしない。
僕は黙ったまま、彼女の言うことに耳を傾ける。
「もうちょっとスマートにやれると思ったんだけど、さ。……正直、油断してた」
まさか、あんな手で来られるとは、と。
「あんな手?」
僕の疑問の声に、彼女は自分の目を指さした。
「目潰し、されたの。こう、非殺傷弾の弾頭のとこを口に含んでて」
まんまとやられたわー、と。そう言った彼女はしかしすぐに、違う、そうじゃなくて、と自らの言葉を打ち消すようにかぶりを振った。
「違うんだ、言いたいことはそういうことじゃなくって……その」
言うべきことが、言葉にならない。そんな様子の彼女を、辛抱強く、僕は待つ。
あー、とか、うー、とか。その口をぱくぱくとさせながら一頻りの逡巡を重ねた千束さんが、そして上目遣いに僕を見上げた。
「……ごめん、なさい。あのとき、隼矢さんの言うことをもっと真剣に聞いてれば、こんなことにはならなかった」
そして出てきたのは、謝罪の言葉だった。そのまま一つ呼吸して、そこから更に彼女は続ける。
「それと……ありがとう。あなたのおかげで、私は帰ってこれた。ここに」
彼女は言う。マジマなるあの男から延々と殴られている間、彼女はひたすら致命的な打撃を避けることに専念していた。
しかしそれでも、確実に体力は削られていく。
足は動かなくなり、身体の反応は少しずつ鈍ってゆき、そして息は上がるばかり。
「正直一瞬、もうだめかもって、思った。特に最後、思いっきりやられた時」
吹き飛ばされて無様に転がる、自分の身体を知覚した。そして霞んだ視界の先で、男が銃を拾いに行った姿も。もしあの男が拾った銃をこちらに向けたのなら、もはや動くことすらままならない今の自分では、放たれるであろう弾はもう避けられそうもないと。
「だから、あの時の、あのドローン。あいつを、マジマを、手玉に取ってた」
あれは、隼矢さんなんでしょ? 問うた彼女に、黙って頷く。
「……すごく、かっこいいって、思った。それを見たら、なんだか元気が湧いて。負けてられないって。だから、頑張れたんだ、私」
だから、ありがとうね、と。
そう言って、僕を見て、彼女ははにかむ。
その姿を見て、僕もまた、彼女に言いたかったことを思い起こした。
あの時懐いた感情の濁流を、一つずつ因数分解してゆく。その末、根底にあった一番強い情動は、今なら、いや今だからこそ、言い表すことができる。
「悔しかったんだ」
そうだ。僕はきっと、悔しかった。
こちらを向いて首を傾げる千束さんに、言葉を重ねた。
「千束さんが、あの男に、マジマに殴られたところを見た時。自分の中の何かが、裏切られたような気がした。現実を、受け入れられなかった」
一呼吸して、僕は続ける。
「僕にとっての千束さんは、いつだって『無敵のヒーロー』だった。涼しい顔で、簡単に仕事をこなして。みんなを笑顔にして。……悩み事だって」
言葉がまとまらず、ぶつ切りになって出ていく。
つまり僕は千束さんに出来ないことなんてないと、思っていたんだ。どんな状況からだって、彼女さえいれば、切り抜けられるって。今まで、ずっとそうだったから。
「勝手にそんなことを考えて、勝手に期待して。だからあの時、君があの男にいいようにやられてるところを見せられたとき、多分僕の頭の中はぐちゃぐちゃだった。君をあんな目に遭わせたアイツを、マジマを許しちゃおけないって思って。こんなことあっちゃいけないって、現実を認められなくて。そして何より――僕は多分、僕自身を許せなくなった」
言い切って、千束さんを見据える。合った視線の向かい側で、その瞳が、かすかに揺れていた。
「きっと僕は今まで、君のことを真っ直ぐ見れていなかったんだ。勝手に君に、僕の憧れを仮託していた。それに今更気づいた自分が、許せなくて、もどかしくて、悔しくて」
だから、僕は。
「だからせめて、何とかしなくちゃいけないんだって、思ったんだ。君を、なんとしても助けるって。死なせないって。絶対に」
視界が滲む。目が、潤んだ。今更ながらに零れ出て、頬を伝うこの涙は、果たして嬉しさから来たものなのか、或は悔しさからのものなのか。
でもそんなことは、今更どうでもよかった。ただ、今抱えるこの感情を、感慨を、言葉に載せた。
「生きててよかった。帰って、これて……本当に、本当、に」
千束さんを、正視できない。今までも散々情けないところを見られているはずなのに、それでも今の自分の顔を見られることだけは、どうしようもなく嫌だった。
目を背けて、俯く。
「ごめん、千束さん。……ちょっと、顔洗ってくるよ」
これはだめだ。話にならない。
そう思って、バックヤードの手洗い所に出向くために彼女に背を向けて、一歩を踏み出した。
しかしその刹那に、肩を掴まれた。強い力だった。そのままぐい、と引き寄せられ、身体が反転する。そして――
「――え?」
知覚が、断片化する。
花の薫り。頬をくすぐる、白金の髪。背中に回された手。近くに聞こえる、彼女の吐息。
「千束さん……?」
僕は千束さんに、抱きしめられている。
それを理解するのに、十秒ほどの時間を要した。
「大丈夫」
あやすような口ぶりの、声が聞こえる。
「大丈夫、私はここにいる」
背中を、ぽんぽんと叩かれた。
「泣かないでよ。私は隼矢さんの、いつもの澄ました余裕の顔が一番好き」
抱きしめる腕の力が強くなって、そこで僕は理解する。
背中に感じる彼女の腕は、ほんの少しだけ震えていた。
「私を助けてくれたんだから、もっと、胸を張ってよ」
僕の肩に顔を埋める千束さんの少しくぐもった声が、耳に、頭に響く。
だらり垂れ下がっていた腕を、ほんの少しだけ彼女の身に添えた。
そうすれば、嫌でも気づく。いつも、その存在感からかどこまでも頼もしく見えていた彼女の肢体は、しかしこうしてみれば年頃の少女らしく繊細で、また華奢なものだった。
同時に理解する。それでもこの、決して大きくはない身体をいっぱいに使って、彼女は僕を含めたみんなのために、ずっとずっと頑張っているのだ。頑張ってきたのだ。改めて、それを実感した。
そのまま暫く、僕たちは黙ったままそうして、動かないでいた。互いに身を寄せて、その時間がいつまでも続くと錯覚してしまうほどに。
しかしそこでつと、彼女は顔を上げた。こちらを見据えて、口を開く。
「それにさ。私ひとりじゃ、間違いもする。失敗だって多い。だけど」
そこで一度言葉を切って、千束さんはぱっと、僕のことを解放した。それでも彼女は真っ直ぐに、僕の瞳を覗きこんだまま。
「先生がいて、ミズキと、たきなと、クルミと、そして隼矢さん、あなたがいて。全員で力を合わせれば、いつだって私たちは『無敵のヒーロー』なんだ」
「――千束、さん……」
掠れた声ばかりが口から洩れる僕を尻目に、彼女は一歩離れて、手を合わせて、横を向く。
「ま、とりあえず? 私もボッコボコにされたことにいたくムカついておりますので? あのマジマとかいう奴は、いつか念入りにぶっ飛ばす!」
そしてシャドーで正拳突きをしながら、そんなことを言って、こちらを向いて、また笑った。
だから、ね? と言葉を継いで、そこから彼女は尚も続ける。
「明日からも、私を助けてよ。一緒に戦おう。いつもみたいに、これからも」
励ますような声色で僕にそう乞うた千束さんは、解き放たれた姿勢のままにただ立ち尽くす僕の両肩を、一度ぽん、と軽く叩いた。
「……んじゃ、また明日」
「あ、うん……」
そしてそのままひらひらとこちらに手を振って、彼女は店から出ていく。いつもと同じ空気を纏い、いつもと同じ足取りのまま。
僕はそれを尚もただ茫然と見送るより、他にはなかった。
去っていった彼女が纏っていた、花の薫りのその残り香は、僕の鼻の奥の深い場所に、まだほんのわずかに残っていた。