在りし日の彼女の憧憬は、ここに崩れ去ろうとしている。
でもそれは、決して今でなくても、よかったはずだった。
その夜。リコリコの閉店作業が終わり、時刻は八時を回っていた。
照明が落とされた薄暗いホールの中で、僕たちはその時を待つ。カモフラージュされた世間話でひたすらに場を繋いでいたところに、ミカさんがバックヤードから出てきた。
「悪いが、私は用事で外出する。戸締りを頼むよ」
「あ、それじゃあ駐車場の方までお見送りします」
そう言い残して店から出ようとする彼に、僕は見送りを申し出た。ミカさんが十分に店舗から離れたことを店の外で視認する必要があったからだ。それはこういう尾行や監視任務における常套手段の一つでもあった。
「いいのかい? じゃ、頼むよ」
ミカさんは疑うことなく僕の提案を受け入れた。少しばかりの罪悪感が去来するが、背に腹は代えられない。僕は杖をつきながらも歩くミカさんを伴って、一度店から外へ出た。
そして彼と日々の雑談を交わしながら、店の裏手の駐車場まで歩く。当然裏手なのでそこまでの時間はかからず、駐車場に辿り着いたミカさんは、社用の赤いSUVではない、彼自身の私物である黒いセダンに乗り込んで、そしてエンジンをかけた。
動き出した車に一頻りのお辞儀を終えたあと、僕は足早に店に戻る。
「ミカさんは車で出て行った。もう大丈夫」
店に入って開口一番そう言うや、女性陣は慌しく準備を始めた。
そこから、いくらかの時が経過した。
「よし、準備できたよ」
そんな声をこちらにかけつつも、更衣室で着替えを済ませた千束さんがしずしずと言った趣でホールに戻ってきた。今回は彼女が最も着るのに時間がかかる恰好をすることになっていたから、準備としてはこれで最後になる。
纏うのは、真紅のイブニングドレスだ。流石にオペラグローブまで完備したスタイルではないものの、フォーマルな用途に合わせて誂えられたそれはその格式に相応しく、胸元と背中が大胆に露出するタイプのものだった。
加えて彼女はその服装に相応のドレスコードを守るべく、髪の毛をシニヨンにまとめている。たったそれだけのことで、今の千束さんは普段の彼女とは全く違った印象を周囲に与えているように、僕には感じられた。
実際に着こむ前に一連の服装を見させられた時にはいくらなんでも気合が入りすぎだろうと思ったものだったが、しかしその出で立ちを改めて眺めれば、彼女は香り立つような色気をその身に纏いつつも貴婦人の如き風格を十分に備えている。これほどの服装であっても服に着られないというのは、ある種の才能なのではないかとすら思わせられた。
「どーよ、隼矢さん」
しかしそうやってドヤ顔をして胸を張る姿を見させられては、それも形なしだ。僕は思わず苦笑していた。
「似合ってるよ、すごく似合ってる。……だけどその恰好なら、もうちょっと淑やかにいこう」
僕の小言に、彼女はわかっていますとばかりに澄ました顔をする。そのまま僕の装いを見回して、神妙な面持ちで頷いていた。
「なんか、隼矢さんのスーツ姿って、新鮮」
そして彼女はそんな風に感慨を述べた。
言われた僕が今身に着けているのは、青みがかった光沢を持つスリーピースのダブルスーツだ。髪はオールバックにして、紺色の蝶ネクタイを締めている。こういった場所に訪問するために仕立ててあるオーダーメイド品で、ある種僕の一張羅でもあった。滅多に着ることはないが。
「確かに、そうですね……」
横からたきなさんが、千束さんに同調する。そういう彼女の装いは、青を基調としたカクテルドレスだった。服装のランクとしては大体僕のスーツと同格程度と言える。これに関しては千束さんが気合を入れすぎているとしか言いようがないのだが、まあそれはご愛敬だろう。
とはいえ彼女は本来の予定ではバーの中に入ることはない。千束さん側になにがしかの問題が起こった場合の予備プランとして、千束さんの代わりに僕と一緒に内部に潜入する役回りとして相応の格好をしているだけだ。
しかしそうであっても、たきなさんの初々しくもそのすらりとした肢体と仕立てられたドレスはよくマッチしていて、彼女の魅力が存分に引き立てられていた。二人ともどこで調達したのか全く分からないが、大したものだと感心させられる。
「でも、かっこいいよ! よく似合ってる!」
その言葉に視線を千束さんに戻すと、彼女は親指を立ててウインクをしていた。
彼女たちの言葉が世辞ではないのなら、当初は新調したものの完全に服に着られているとしか思えなかったこの装いが、回数をこなすことでようやくこなれてきた、と言ったところなのだろう。
「……それは、どうも」
嬉しくないと言えば、嘘になる。少しばかりの面映ゆさと共に、千束さんに礼を返した。
「……もういい?」
そしてそこに、横から声がかかった。いつもの私服姿のミズキさんが、じとっとした目つきでこちらを見ていた。歯が浮くような褒め合いに、食傷気味と言ったところだろうか。少々バツが悪くなり、頭を掻いた。
「すみません、お待たせして。もう大丈夫です」
「んじゃ、行くか」
僕の言葉に、クルミがカウンター席から飛び降りる。当然にいつもの私服姿のままだが、しかし今回は彼女も現場入りするらしい。現場とは言いつつもその実、ホテル近くに車を停めて、その中でミズキさんやたきなさんと一緒にいるだけではあるが。
ともかくもそういうことで、ミカさんを除いた僕達リコリコ一行は、千束さんの意思のもと、彼の追跡作戦に挑むことになった。
ミカさんの車を多少の回り道や別ルートなどでカムフラージュしながらも追跡すること暫く、僕たちの車は目的のバーがあるホテルの駐車場に無事入る。そして僕と千束さんは、そのままそのホテルの最上階へと向かった。
建物としては中層程度の高さを持つこのホテルの最上階は、夜景を一望できるほどの展望スペースを備えているわけではないが、しかし最高級のホテルとしての風格を備えて僕たちを奥へと誘う。
隠匿されたバーの入口がある区画までたどり着いたときには、千束さんは高揚した気分を抑えきれなくなっているようにも見えた。いつの間にか被っていた、顔隠しの意味も持った鍔広のパーティーハットの下で、千束さんは目を輝かせながらそこかしこを見渡していた。
「うはー、ここ雰囲気やっば……」
そんな呟きが、僕にも聞こえてくる。
「こういうところ、あんまり来ないもの?」
「まあ、そりゃあ……隼矢さんはなんかいつも通りだね」
「そりゃ、こういうところにちょくちょく行くのも仕事の一つだったし……ほら」
そしてそろそろ入口へ着く辺りで、僕は足を止めて右脇を開いた。はて、と首を傾げる千束さんに、僕は開いた脇を指さして、促した。
「僕たちこういう格好だし……お嬢様、お手を」
そのあたりで意図を理解したのだろう。千束さんがおずおずと言った感じで腕を絡ませてくる。
「ああ、そこまで深くなくていいよ、僕の腕に手をかける感じで……そうそう、そんな感じ」
そのまま少しだけ位置の調整をして、そして再び歩を進めた。
入口は秘匿されているだけあって、一見して入場の仕方が全く分からない。たださすがに一度入った経験もあって、入場の手順は覚えていた。
意味深げに設置されているドアの横、ただの壁にしか思えない場所に手を当てる。するとすぐさま、登録されている僕の静脈パターンを読み取ったそこがガコン、と奥へ引っ込み、パスコードの入力端末が現れた。すげー、と感嘆している千束さんを他所に、こちらも登録済みの暗証番号を打ち込む。すると小気味よいビープ音のあと、横に設置されているスライドドアが重々しい音を立てて開いた。
「よし。……千束さん、用意はいい?」
「うん! さ、ミッション……スタート!」
彼女の小さな掛け声とともに、僕たちは店内へ一歩を踏み出した。
「いらっしゃいませ、お客様。恐れ入りますが、お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
受付の男性が、一礼の後、入ってきた僕達に誰何する。
「九時から予約しております、『斎藤肇』です。アテンドが一人いると事前にお伝えしておりますが、問題ございませんか」
「『斎藤肇』様ですね、少々お待ちください」
僕の名乗りを聞いて、彼は一度奥へと引っ込む。
「斎藤肇」。公安内部で使われている偽名用の名義のうちの一つだ。その元ネタは新選組の隊士にして、後に警察官に転身することとなった幕末の剣士、「斎藤一」。漢字の上だけではあるが、それを捩ったものがこれだった。
「『斎藤一』って、新撰組じゃん!」
千束さんが小声でツッコんでくる。
「知ってるんだ? まあ、漢字は捩ってあるんだけど、響きは同じだからね……あ」
話していると、受付の男性が戻ってきた。
「確認ができました。お待ちしておりました、『斎藤肇』様、お連れ様、どうぞ中へ。ご案内させていただきます」
深々と礼を一つ。入口に手を向けつつ、彼は僕たちを奥へと誘う。
「潜入成功。そっちで録音と録画、始めてくれ」
『りょーかい』
インカム越しにクルミに小声で伝えつつ、僕と千束さんは連れ立って店内へと向かった。
「ごゆっくり、お寛ぎください」
入った店内では、まず大き目のアクアリウムがひときわ目を惹く。流れているBGMも相俟って、シックで落ち着いた雰囲気を醸し出しているのは、前に来た時と同じだった。
席に着いた僕たちの前に、ウェルカムドリンクとしてスパークリングウォーターが注がれ、ウェイターが一礼をして去っていく。
「さて、それじゃミカさんを待つだけだけど……お? 意外と早い」
噂をすれば影というが、こちらが一呼吸つく暇もなく、ミカさんはバーカウンターに現れた。まあ、そういう時間を見計らってきているわけで、当然と言えば当然かもしれないが。
視線の先、彼の姿に今一度着目する。
僕にとってはミカさんというのはどこまでも和装というのがイメージにあって、だから今の彼の出で立ちは相当に奇異に映る。つまり黒のタンクトップの上に、白いジャケットという装いだ。それは一見してマフィアの親分のそれにしか思えないところではあったが、それでもその大柄な背格好と相まって恐ろしいほどに似合っているのは確かだった。
「あ、先生……うわ、なにあれめっちゃキメてんだけど」
「いや、ぶっちゃけこの場の中で一番ヤバい格好してるの君だから……」
自分のことを棚に上げて若干引いたような声を上げた千束さんに、たまらずツッコミを入れる。どこまでも今更だが、高級とはいえたかがバーのためにイブニングドレスは、正直どうなのか。何にせよ、この場にあったこじゃれた格好という意味では、ミカさんの方にはっきりと軍配が上がることは間違いがなかった。
とは言え、それはそこまで重要な話ではない。カウンターに腰を落ち着け、目を瞑りながらも静かに待ち人を待つミカさんの方を二人して眺めていれば、お相手のほうも割とすぐに現れた。
彫りの深めの顔立ちをした、壮年男性だ。灰色のワイシャツに紺色のスーツという装いで、亜麻色の髪を後ろになでつけている。
「うそ、ヨシさんじゃん……!」
その姿を目に入れるや、千束さんが驚きの声を上げた。
「ヨシさん……って、誰? DAの人?」
しかし僕はこの男性の顔を見たことがない。その上で千束さんが知っていると言うことは、DA絡みか。僕の問いに、千束さんはびっくりしたような声で反応した。
「え? 隼矢さんってヨシさんのこと知らないの!? 割と長くリコリコにいるのに……あ、でも確かに、言われてみれば」
しかしその途中で何かに納得したのか、彼女の声がトーンダウンしていく。
一人で納得されても困るのだが。そう思って問いかけると、彼女は彼について話してくれた。
彼はミカさんの旧来からの知り合いで、主に他の客のいない支度中や閉店直前、開店直後を狙って店に訪れるらしい。仕事の関係で世界中を飛び回っており、長期間に亘って店に顔を見せないことも珍しくはないという。
そして僕とは、なんとも奇妙なめぐり合わせで今まで顔を合わせることがなかったと彼女は言った。リコリコの同じ空間にいたことは数回程度あるらしいのだが、そういう時に限って僕は奥間でクルミと話したりしていた、と。
「なるほどね……え、千束さん?」
一人彼女の話に納得していると、千束さんはそそくさと退散すべく席を立とうとしていた。まだ話はこれからだろうに、どうしたのか。
「ヨシさんなら、これは確かに逢引きだ。邪魔しちゃ悪い」
問いかける間もなく、彼女はまた意味深なことを言った。男と男の会合に、逢引きという言葉を選ぶとは。しばし考えて、ああ、と得心が行った。
「つまりは
これに関しては言うだけ野暮というものだろう、僕もそう呟いた。インカムの向こうでは、クルミが呆れたように「そういうことは先に言え」とぼやいていた。
しかし、それにしても、だ。
「でも千束さん、君の今後について話す、って言ってたんだよ、彼らは。聞かなくていいの?」
退散しようと観葉植物の向こうで身を屈めた姿勢のまま、千束さんはこちらを振り向く。
「そうはいっても、これは先生のプライベートだし。よくよく考えたら、ちょっと踏み込み過ぎてたかなって、だからもういいの。帰ろ、隼矢さん」
「まあ、君がそう言うなら……」
なんとも不完全燃焼だが、彼女がそう言うのであれば僕に何か言うべき理由はない。彼女に連れ立って、僕も席を立った。
ここの出口へ至るためには、ミカさんと「ヨシさん」の座るバーカウンターの真後ろを通らなければならない。僕はそう場違いな恰好はしていないが、今の千束さんはとにかく目立つ。バレるのはまずいと、彼女は身を屈めて慎重に進む。
しかしそのさなか、急に千束さんが歩みを止めた。どうしたの、と声をかけるより前に、彼女が声を上げた。
「え、嘘……ヨシさん、なの……?」
そのまま、彼女は身を起こす。もはや周りのことは何も目に入っていない様子だ。
何を言っているのか、彼のことを「ヨシさん」だと話したのは君のはずだと、そう窘めようとした矢先に、目線の先で話す彼らの言葉が僕の耳にも入ってきた。
「――その意味を忘れたのか」
そしてそれはすなわち、
「何のために千束を救ったと思ってる」
目の前の彼、「ヨシさん」と呼ばれるその男が、
「あの『心臓』だって、アランの才能の結晶なんだぞ」
千束さんが会って、一度でいいから礼を言いたかった人であることを、指し示していた。
彼女に命と使命を与え、そして同時にその「使命」へと縛り付けた、アラン機関という組織の尖兵である、ということも。
「アラン機関……こいつが」
「ヨシさん……ヨシさんだったんだ……!」
独り言ちる僕を尻目に、千束さんが誘われるようにミカさんたちの方へと歩いていく。押し止めんと声をかけようとして、しかしもはや手遅れだと悟った。自分だけでもと慌てて身を隠し、インカム越しに車内で待機する三人へと報告を上げる。
「見ての通り事案発生だけど、もうこれはしょうがない。頃合いを見て回収するから、念のためたきなさんだけこっちに来てくれる?」
『了解しました』
たきなさんからの応答に頷き、僕は物陰から千束さんの動向に気を配る。
その向こう、歓談する彼らの背後に立ち、彼女は震える声で呼びかけた。
「ヨシさんなの……?」
肩を震わせて、二人が千束さんへと振り返る。その姿を視認した「ヨシさん」が、ミカさんの方を向いてスッ、と目を細めた。
「ミカ……」
苛立ったような、詰るような声だった。ミカさんは慌てた様子で否定して、そして千束さんに問いかけるような目線を向ける。
「ごめんなさい! 先生のメールを、うっかり見ちゃって」
「……お前だけじゃ、ないんだろう?」
そしてその言葉に、千束さんは反射的にこちらを向く。つくづく腹芸のできない子だ。さすがにこれは、出ないわけにはいかないか。
観念して、僕も彼らの前に姿を見せた。
「隼矢くん……」
「申し訳ございません、ミカさん。見ての通りの次第です」
そして疑いの目を見せるもう一人の男、「ヨシさん」に向けて、頭を下げた。
「喫茶リコリコでホールスタッフをしております、真弓隼矢です。今日は千束さんのエスコート役で、こちらに来ておりまして」
彼は答えず、ミカさんへと目配せをする。ミカさんは首を振って、そういうことだそうだ、と呟いた。
千束さんが今まで探し続けていた人。ずっと会いたかった人。彼女の命を繋いで、彼女に時間を与えた人。一言でもいい、お礼を言いたかった、人。彼こそが、そうなのだという。
泣き出しそうな表情で、千束さんは「ヨシさん」に懇願する。少しだけでもいい、話をさせてほしいと。渋々といった様子で千束さんに話を促す彼を見て、僕は居た堪れなさすら感じた。
千束さんに外に出ていると声をかける。エレベーターホールへと出向いて、たきなさんを待つためだ。
そちらの方へと歩きながら、僕は溜息を止められなかった。
あの二人は、致命的なところですれ違っている。
二か月前の、「松下」の護衛を想起する。殺せと、それが使命だと、アランチルドレンとしての意味を考えろと、そう言い募ったあの老人の背後に誰がいたかなど、ここまで来て察せないわけがない。「ヨシさん」、あの男だ。或は変声器でも使って、直接語りかけていたのかもしれない。
つまり「アラン機関」が千束さんに見出した才能とは、その戦闘能力なのだろう。それは平たく言って、誰かを害し、そして殺めるための力だ。それを世に知らしめんがため、彼女は命を与えられた。そう生きよと、アラン機関に定められた。
しかし千束さんは、自らに命を与えた恩人の、その行動にこそ倣うべきものがあると考えた。自らに与えられた時間は、きっと誰かを救うためにあるのだと。自分が、そうされたように。
そして与えられた時間を使って、誰かの時間を奪うことだけは、してはいけないのだと。それは美徳ではあったが、一種の強迫観念にも近かった。
アラン機関の目は、とんだ節穴だ。あの子に殺しなんて向いていない。向いていないものを才能と呼ぶなど、馬鹿げている。力だけを見て人の在り様を見ないから、そういうことになるんだ。
内心で愚痴が止まらない。僕は苛立ちを抑えられなかった。そして同時に、彼らが千束さんを見出していなければ、彼女は今ここで生きていないという事実もまた、どうしようもないほどに腹立たしかった。
あのバーの中のことを、思い浮かべる。きっと今、千束さんは己の中の純粋で、透明で、最も美しい記憶と共に、「ヨシさん」と向き合っている。あの日の続きを迎えるために、無垢な笑みを浮かべながら。自らの眼前にいる男の腹の裡に何があるのか、何も知らないままに。
千束さんのその姿を見て、彼は何を思うのか。多少の罪悪感でも懐いてくれれば救いはあろうが、しかしそれは望むべくもないだろう。あれは、狂信者の類だ。才能という、神からの贈り物への盲目的な信仰心だけが、彼らの拠り所なのだから。
思惟を巡らせているうちに、いつの間にかエレベーターホールへとたどり着いていた。
黙って立って待っていれば、そこからそう時を置かずにエレベータの接近と到着を告げるランプとチャイムが鳴る。音のした方へと目を向けると、開かれた扉からはドレス姿のたきなさんが姿を見せた。
「千束は」
「中で、『ヨシさん』と話してる」
「ヨシさんと……? わかりました」
短く言葉を交わして、二人店内へと戻る。
「ヨシさんとは、何を?」
道すがら、たきなさんがそう問いかけてきた。インカム越しでは、あの男とミカさんのやり取りは聞こえないか。そう思い、訳を話す。
すなわち、あの水族館の折に彼女が言っていた、彼女にとっての命の恩人についての話に、決着がついたことを。
人工心臓を工面し、彼女の命を永らえさせた張本人が、「ヨシさん」だったのだと言うことを。
たきなさんが、息を呑んだ。
「……なるほど、それで」
「そろそろ話も一段落するころだとは思うから、千束さんを拾って帰ろう」
「わかりました」
再度入場の手続きをして、中へと入る。受付の男性には、たきなさんがアテンドの女性、つまり千束さんの知り合いであることを話して、奥へと入れてもらった。
僕たちがバーカウンターへ来るタイミングで、ちょうど千束さんと「ヨシさん」の話も一段落したらしい。去っていく彼は千束さんに、ミカさんと話し合うようにとだけ伝え、そのまま振り向かくことなく外へと歩いていく。
そして僕たちとすれ違ったその瞬間、一瞥だけして歩き去っていった彼が向けてきた視線が、僕の脳裡に焼き付く。
何の感情も浮かんでいない、無味乾燥な目つきだった。そこに僕はあのDAの司令、楠木さんと似たようなものを感じた。それはこれと定めた使命のためにすべてを犠牲にすることを厭わない目だ。自分も、他人も、そして世界でさえも。
前に目を向ければ、ミカさんもまた「ヨシさん」のことを追うべく、千束さんの許を離れようとしていた。しばらくここにいなさい、と彼女に言い残して。そして僕たちの方に黙って目礼して、出口へと消えてゆく。
千束さんの唇が、動く。ヨシさんに、お店で、また待っていますと。しかしもはやこの店からいなくなった彼にその声は届くことなく、力なくしぼんで消えてゆくばかり。
僕たちがその側に歩み寄ったとき、千束さんがこちらに向けたのは、はまるで親とはぐれた幼子のように当て所を失った、力ない目線だった。つまりそれは、僕の「ヨシさん」への淡い願いが、案の定叶うことはなかったのだと言うことを、意味していた。
「お礼は、言えたんだ」
ポツリと、そう千束さんが口火を切る。「ヨシさん」との話だろう。黙って、頷く。
「でも、受け取ってもらえなかった。認めちゃいけないんだって、それがルールなんだって」
湿った声。力なく首を振られた。
「『君はリコリスだろう』って、言われた。『アランチルドレンであることを、よく考えろ』って。私の使命が、『リコリスであること』なんだとすれば、私は……」
「もういいよ、千束さん。それ以上は、いいんだ」
それ以上を、彼女に言わせてはいけない。僕はそう思った。
「千束」
たきなさんが千束さんへと呼びかける。こちらを向いた彼女に、たきなさんは笑いかけた。
「前あなたが私に言ってくれたように、私も千束、あなたと会えたことが嬉しかった。あなたと一緒にいることが、ここで一緒の時間を過ごすことが。今はそれで、十分だと思います」
そうじゃありませんか? と。そう言って伸ばしたたきなさんの手を、千束さんは笑って握った。
「そう、だね。そう、だよね」
しかしその笑顔は、どこか力なく、ぎこちない。
「ヨシさん」を追っていたミカさんがバーに戻ってくるまで、僕たちはそのまま、誰も口を開くことはなかった。
その後、戻ってきたミカさんに千束さんを任せて、僕はたきなさんと外へ出る。
「『アラン機関』って、何なんでしょうか」
店の外、エレベーターホールを奥へと歩いて、窓際にまでたどり着く。
その前に二人経って、窓の外で更けていく夜の景色をぼんやりと眺めながら、たきなさんは僕にそう問うてきた。
「たしかに千束は、あの人たちのおかげで今もこうして生きています。でも、これでは……」
千束さんが、可哀想だ、と。そう言いたいのだろう。
想起するのは、千束さんのあの目だ。せっかく会えた、探していた彼と出会って、そしてお礼を言えたのなら、本当はもっと満ち足りた顔を、幸せそうな笑顔を浮かべていなければならなかったはずなのに。
彼女の理想は、夢は、願いは。いや、探していたものさえも、あの場所にはなかったのではないか。たきなさんの声は、きっとそんな憤りの色を帯びていた。
その通りなのだろう。僕も同じ憤りを、きっと共有している。
それでも、いやだからこそ、僕は敢えてそれを突き放すことにした。
「……どうでもいいんじゃないか、僕たちにとっては」
僕はそう言って、たきなさんを見た。
「どうでもいいって、千束は……っ!」
その言葉に反感を抱いたか、彼女は険しい表情でこちらを睨みつけんとする。しかし僕の表情にか、言葉を失った。
「どうでもいいんだよ。彼らが何を考えて、千束さんの命を救ったかなんて。どうでもいいし、気にしてやる必要なんてない」
窓の方を向いて、続ける。
「さっき君も千束さんに言ってたじゃないか。僕たちにとって大事なのは、千束さんが今もこうして生きていること。僕たちと一緒に、リコリコで元気に動き回っていること。それだけだって」
そうでしょ? と。そう言って、もう一度たきなさんを見る。そして小さく、独り言ちた。
「責務だ、使命だ、なんて。……本当に、くだらない」
人間の可能性を狭めているのは、どっちなんだか。そう、吐き捨てる。
そのまま暫く、僕とたきなさんは、二人で窓の外を眺めていた。
そこから無言のまま、一頻りの時間が経った。
「……帰ろっか」
なんとなくの頃合いを見つつ、僕は沈黙を破ってたきなさんに声をかけた。
「千束は……?」
「千束さんは、多分ミカさんと一緒に帰るよ」
あの場でミカさんに千束さんを託したのは、そういうことだ。彼はある意味で、千束さんの親にも等しい。今あの瞬間だけは、彼こそが千束さんの側にいてやるべきで、そしてその役割は他の誰にも果たせないのだと、僕はそう直感していた。
「だから、僕たちの仕事は終わりだ。下の二人と一緒に、もう戻ろう」
未だ煮え切らない表情を浮かべるたきなさんを、もう一度促す。
「僕たちまでしみったれた雰囲気でいたら、明日千束さんに申し訳が立たないよ」
だから、ね? と。僕のその呼びかけに、彼女はようやく表情を緩めた。
「そう、ですね」
そして、僕たちは駐車場直通のエレベーターに向かって、歩き出した。
リコリコに、帰るために。
次の日。
千束さんは、昼過ぎになってもリコリコにやってはこなかった。別れ際の彼女は気丈な表情を浮かべていたが、思うところは多々あるのだろう。
安否を気遣うたきなさんの問いにも、ミカさんはゆっくりと首を振った。今日ぐらい、一人にさせてやった方がいいと、そう思ったらしい。
座敷席では、伊藤さんがいよいよスケジュール的な意味で窮地に立たされた原稿と格闘している。その隣で、阿部さんはクルミと相変わらずのボードゲームに興じていた。
「阿部さん、一昨日は大丈夫でしたか?」
近寄って、話しかける。何のことか、と首を傾げた彼は、しかしその一瞬の後に、ああ、と声を上げた。
「いえ、この通りピンピンしておりますよ。あの時は宿直の警官しかおりませんで」
そこで、俄に声を潜める。
「暫く署には行けそうにもないので、こうして昼からここにおります」
そしてそう言いつつ、悪い笑みを浮かべた。
まあ、元気そうならそれに越したことはない。追加の注文はないかを確認して、一度バックヤードに戻った。
カウンター裏で、黙々とコーヒーを淹れ続けるミカさんに話しかける。
「お疲れ様です。……千束さん、あの後どうでしたか」
こちらに振り向いた彼の顔には、少なからず悔悟の念が見え隠れしていた。
「あいつ自身は、なんともないように振る舞っていたが……結果、こうではな」
そうして、首を振った。しかしよく考えれば、悪いのはミカさんではない。
そもそものきっかけを作ったのは千束さん自身ではあるものの、僕は自分の持てる手段を使って、彼女の後押しをしたのだ。してしまったのだ。
「……余計なお節介を、してしまったかもしれません」
ご迷惑を、おかけしました、と。そう頭を下げる僕を、ミカさんは押しとどめた。
「気にしないでくれ。あれは、事故みたいなものだ。ただ……しばらくのあいだ、千束はそっとしてやった方が、いいかもしれない」
彼の言葉に、僕も頷く。いずれは飲み込まざるを得なくとも、しかし今だけは、そっとしておくべきだ、と。それは僕も同意見だった。
そしてそれと同時に、一つの思いを持った。
彼女を、アラン機関が課した使命という枷から、解放できないだろうか、と。
結局、彼女はアラン機関から「命」を与えられ、そしてそうであるが故にその「使命」は、彼女の生涯にどこまでもついて回る。それでも今の彼女に、アラン機関の期待する「使命」を果たすためだけの生涯を送らせることが、正しいものだとは思えない。思いたくなかった。
彼女の命の源。即ち、人工心臓。いかなる経緯で彼女の中にそれが埋め込まれているかは未だ知ることが叶わないが、しかし今の世界に、そして日本において、
つまりそれは、再生医療だ。彼女の細胞から、人工的な幹細胞を作り、そこから彼女の心臓を生育する。数年前までは心筋組織の一部の置換が関の山だったそれは、近年急速に発達した再生医療技術の進歩もあって、必要な金さえ用意できればまるまる一つの心臓を作り上げ、そして移植を行うことも、もはや夢物語ではなくなってきている。遅くとも数年後には、実用可能な技術として僕たちの前に現れるだろうという予測も、ある。
そしてもし仮に、遺伝的理由による心臓の機能障害で、彼女自身の心臓そのものが困難を抱えていたら。それが人工心臓を埋め込まれるに至った理由なら。
それでもまだ、手はある。
ゲノム編集技術、というものがある。CRISPR/Cas9に代表される、遺伝子の切断と結合による、遺伝病の治療技術だ。これと再生医療技術による人工臓器移植を組み合わせれば、彼女が内にいかなる問題を抱えていようと、アラン機関の技術に頼らない形でその命を永らえさせる方法は、きっと見つかるはずだ。
そうだ。彼女は、いかにアラン機関にその命を救われた存在であったとしても、それを理由にその生き方を狭められていいような存在ではない。いやそもそも、人類は誰であっても、他者にそんな風に生き方を規定される謂われなど、どこにもありはしないはずだ。
たとえいくらの時間がかかったとしても、彼女の人生は、彼女の手に取り戻されるべきものだ。その手段を探すのに、僕は手間を惜しむつもりはない。
そう一人決意を新たにしたところで、リコリコの入口の扉が、突然勢いよく開かれた。
「みなさーん! 千束が来ましたー!」
千束さんの声と、一緒に。
彼女はいつも通りの、いやいつも以上の元気と笑顔を振りまいて、ホールへと歩いてくる。原稿を仕上げる伊藤さんに絡みに行って……いやあれは伊藤さんの方から泣きつきに行った? まあ、常連に対しても、その明るさを損なうことはなかった。
弾むように歩き、陽気な声を上げる。何もいつもと変わることなどない。彼女の振る舞いは、そんな主張をしているようにすらも見える。
そしてその足取りもそのままに、彼女は更衣室へと引っ込んでいく。着替えてくるから、まってねー、と、そんなことを言いながら。
それでも何故か僕には、彼女のその立ち居振る舞いの全てが、どこかに無理を抱えたままのように見えるばかりで、だから覗き見る彼女の横顔の中、それがもはや何の翳りすらも映さないことそれ自体に、どうしようもなく心が痛んだ。
主人公という男がいるのに、たきながスーツを着ている理由はとくにないので、彼女は原作からは衣装替えと相成りました。
あと、最後らへんの、心臓移植と幹細胞関連の話。
現実の世界でも、すでにiPS細胞を使った心筋の移植に関する治験例は二件ほどあります。ただし臓器丸ごとの培養に関しては、試験管内部で立体構造を作ることが不可能なため、それ単体での臓器培養はできませんし、将来に亘っても不可能であると言われています。
しかしながら、ブタなどの動物に人のiPS細胞を注入して生育させることで、人の臓器を動物の内部に作り、それを臓器として移植する技術などがすでに提唱されており、論文も書かれています。
「現代よりやや近未来」の時代設定と思われるリコリコの二次として、本作の世界観は、これが実用化前夜の状況だと思っていただければ。
ただいずれにせよ、千束が人工心臓移植を受けた劇中十年前の医療技術の水準では、そうした再生医療技術はまだ影も形もなかったし、厳密には作中現代においても、完全に確立してはいないという設定です。
主人公はあくまで、未来の話をしています。千束が(その心臓が正常に稼働したとしても)もはや余命いくばくもないことは、現時点の彼は知りません。