明くる日、僕は念のため少しばかり早めに家を出た。それもあってか、待ち合わせ場所として指定していた錦糸町駅北口のバスロータリーに着いたのは朝十時二十分、本来の待ち合わせ時刻の十分ほど前だった。
誘った方が遅刻するなど目も当てられない。早く来るに越したことはないと、僕は一人千束さんを待つことにした。
立ち止まって気分が落ち着くと、周囲のことが見えてくる。気温は少し前に比べれば大分寒くなっていて、そういうつもりで道行く人の格好を眺めれば、いつの間にかすっかり秋めいていたことに気づかされた。
頭の中で、今日の行程を確認する。ほぼ衝動的な決意によって計画された今回の千束さんとのお出かけは、しかし明確に一つの目的を持ったものでもあった。
彼女の生活範囲ではない、城北、城西地区を中心に案内をしていく。そしてそれは、僕が喫茶リコリコに至るまでの足跡を彼女にどうしても知ってもらいたいという、我欲の発露でもあった。
そこから少しの時が経ち、集合時間五分前の、朝十時二十五分。遅刻癖が深刻な千束さんが、しかし時間の五分前に僕の前に現れた。遠くから手を振って、そしてこちらへと歩いてくる。
「おはよっ。ちょっと待たせちゃったね」
そちらの方へ視線を向ければ、今日の彼女の出で立ちが目を惹いた。
白のタートルネックにダークブラウンのカーディガン、そして彼女には珍しく、マキシ丈のワインレッドのプリーツスカートを身に着けている。まさにそれは秋らしい取り合わせでありつつも、しかし僕にとって彼女のカジュアルな装いはパンツルックばかりだったから、どうにも新鮮なものにも映った。
「いや、そこまでは。自分から誘ったし、待たせるわけにはいかなくてさ」
発した言葉に、内心苦笑いする。我ながら気の利かない受け答えだ。彼女の珍しい姿に、少しばかり意識が引っ張られていただろうか。いやそれとも、昨日リコリコの連中にデートだなんだと言われたせいで、変に意識してしまっているのか。
僕のその様子をどこか不思議そうに眺めていた千束さんは、そこでいきなり吹き出した。
「……なんだよ」
「いやぁ、いやごめんごめん。ちょっと、あまりに普段の隼矢さんと違い過ぎて、おかしくなっちゃってさ」
堪えきれないとばかりに笑顔を浮かべた千束さんが、そのまま僕の隣に立つ。そして背中をぽん、と一つ叩いた。
「いつも通りで行こうぜ、隼矢さん! ……今日は、よろしくね?」
そして茶目っ気たっぷりにそう言いつつ、僕の顔を覗き込んできた。
それはどこまでも自然な、いつも通りの千束さんのあり方だった。それを見ていると、僕も肩ひじを張ってもしょうがないと、いつの間にか体のこわばりが取れていることに気づいた。
「そうだね、よろしく。……それと、千束さん」
なあに、と振り返った彼女に、意趣返しの一言を探す。
「いつもどおり、よく似合ってるよ、服」
「……それほどでもある!」
錦糸町から、御茶ノ水駅へ。そこから丸の内線に乗り換えて、一駅。
僕たちの第一の目的地は、本郷三丁目の駅近くにある。地上に出て本郷通り沿いを歩くと、それはすぐに見えてきた。大きく聳え立つ、朱塗りの歴史的な構えの門だ。
「ほおぉぉ……これが聞きしに勝る『赤門』ですかぁ……」
千束さんが、小さく横で感嘆の声を上げた。
そう、それはつまり
今回の僕のプランのメインラインは、僕がリコリコの一員となるまでの足跡を、逆順に辿っていくこと。そしてその第一歩が、二年ほど前まで僕が在学していたこの場所だった。
「じゃあ、隼矢さんって東大生だったんだ?」
一般開放中の赤門をくぐってキャンパス内に入りつつ、横を歩く千束さんが僕にそう問いかけてきた。
「まあ、そうなんだけど。でも東大生だったのは実質三年ぐらいのもんだし、本郷に限っては一年ぐらいしか通ってないんだよね。ま、卒業扱いにはなってるんだけど」
「どうして?」
首を傾げた彼女に、歩きながらも答える。
もともと僕は公務員になるつもりで、東大文科一類を志望し、そして合格した。今の仕事の原動力である情報技術関連のスキルは、それよりも以前から趣味の範疇で習得し磨いてきたものであって、それを大学での学びにするつもりは、当初は全くなかったのだ。
ところが、だ。大学二年の夏、一般枠で参加した情報セキュリティに関する国内のコンテストでなまじ優勝してしまったがために、僕はこの大学のある教授から目をつけられた。情報理工系の研究室を持っていて、かなり国内では、或は世界においても有名な御仁だった。
そしてその年の進振りで、僕はその教授に誘われるがままに理学部情報科学科への進級を決めることになる。その頃には法学部系の講義への熱意が少しずつ薄れていたところだったから、僕にとってはある意味渡りに船だったことも事実ではあった。
「へー……その頃から隼矢さんって優秀だったんだねぇ」
そのあたりまでで、一度話を切る。一年以上前のこととはいえ、身体は覚えているものだ。僕の足はひとりでに、古巣である理学部系の大学棟が集中する方面へと歩を進めていた。
そしてそこまでの話を聞いて、千束さんが感心したような口ぶりで相槌を返してくる。
「まあ、好きこそもののなんとやら、だよ。大したもんじゃない」
半ば自嘲気味に笑って答える。そして話をつづけた。
それからのことだ。学部三年、情報科学系の講義を受けつつ、僕を誘ってくれた教授のゼミに野良で参加して、或は研究室に入り浸るような日々を過ごしていたある時のこと。
この国の情報組織一般を統括する内閣情報調査室から、教授の研究室に一つのスカウトが舞い込んできた。
優秀な情報セキュリティ人材の卵を、青田買いのような形で早期雇用することはできないか、という打診だ。
後で聞いた話によれば、当時内調をはじめとする国内の情報組織は、DAという外部の秘匿組織に対してその情報収集能力や解析力で大きく水をあけられていることに危機感を持っていたらしい。そこで日本の若く、また優秀なセキュリティ人材を早くから発掘し、場合によっては省庁の内部で教育することで即戦力としてのサイバー戦やセキュリティのエキスパートを養成し、内部に抱えようと考えた、という。
国内外の様々な企業や研究機関、それに学会と太いパイプのあるこの研究室に彼らの手が伸ばされるのは当然のことで、故に僕が彼らに「発見」されるのもまた必然だった。
その年の夏、僕は研究室のチームメンバーとして去年と同じ情報セキュリティコンテストに参加し、そしてまた優勝した。
今度は独力ではないチームとしての協力による勝利ではあったものの、それでもなお二年連続の「偉業」――と彼らは言った――は十分に注目に値するものだったらしい。秋学期が始まる頃には、彼らは研究室を通り越して僕に直接接触してくるようになってきていた。
条件は三つだ。まず一つ、学内に籍を置きつつ、大学四年からまず内調のOJTを受け、情報戦について習熟すること。次に、それの終わった大学四年の秋ごろに、自衛隊の情報本部にて信号解析・暗号解析についての教練を受けること。最後に、その両方で所定の成績を修めること。それを満たしさえすれば、今の大学の卒業単位としてこれを認定し、また情報組織のキャリア職としての入省を許可する。そう、彼らは言った。
「ま、結論から言えば僕はそれを受けたんだ。で、ここには三年生までしかいなかったわけ。……あぁ」
そこまでずっと無意識に進めていた歩を、止める。その話が終わったタイミングで、僕たちは正門前の銀杏並木通りに出てきていた。右を向けばそこには、当時飽きるほどに見慣れた建物が、安田講堂がその威容を誇っている。
隣を見ると、千束さんが目を輝かせてそれを見ていた。
「ほんとにあるんだ、ここ……うわぁ……東大だぁ……」
まるで観光地でも見たかのような反応だった。しかしその気持ちは、分からないでもない。僕も高校生、受験生の頃は、そんな純粋な憧れでこの光景を見ていたような、そんな記憶もある。
そして悲しいかな、彼女には戸籍がない故にこういった高等教育機関で何かを学ぶと言うことはできない。最低でも、今はそうだ。
しかしそうであるにしても、彼女をして無学な少女であると謗ることは、誰にもできはしないだろう。
「まあでも、ここに通ってる連中の最低でも半分ぐらいよりは、千束さんの方が色々とできることが多いと思うけどね」
「そうかなぁ……?」
僕の言葉に彼女は訝しむが、実際客観的に見てDAのリコリスに対する教育は効率的でかつ効果的だ。一般教養、義務教育相当の知識に加え、危険物取扱に関する必須技能や通り一遍の乗り物の操縦技術、それに数か国語にも及ぶ語学スキルなど、彼女たちの身に着けているものは世間一般の大学生など鼻で笑えるほど高い水準にある。その中でもファーストともなれば、その種々の素質は折り紙付きだ。
「そうだよ。君はもっと誇っていい」
「そう? まあ……隼矢さんが、そう言うなら」
曖昧な表情で、彼女は頷いた。
とまれ、ここまで歩いてくるころには、時刻も十一時半。そろそろ昼のことを考えてもよい頃合いではあった。ボケっとした顔で安田講堂を見上げている千束さんに、水を向ける。
「そろそろ昼なんだけど、どこか行きたいところある?」
「行きたいところ? ここの中ってこと?」
彼女の問いに、頷く。
「東大って中に結構いろいろレストラン入ってるんだよ。ほら」
そう言って、構内のレストランのリストを示す。
千束さんはうんうんと唸った挙句、最終的にはイタリアンレストランを選んだ。彼女らしい選択だった。
腹を満たした僕たちは、早速にキャンパスから出た。これ以上長居する理由は特になかったし、夕方には解散するスケジュールである以上次の場所に早く出向きたい事情もあったからだ。
目的地へ向かうべく、本郷三丁目でまた丸ノ内線に乗り込み、今度は終点まで揺られる。降りたのは池袋駅だ。
「ブクロじゃーん! あんまり来たことないんだよねぇ、ここ!」
池袋駅東口。西武百貨店の辺りから外に出たところで、千束さんは目を輝かせながら僕にそう言った。
「リコリスとしての任務とかで、あったりはしないんだ」
「んー、多分来たことはあるんだと思うんだけど、仕事で来た時のことなんてあんまり記憶に残んないんだよねー、これが」
困ったもんだ、と。そうバツの悪そうな笑顔を浮かべた千束さんに、思わず頬が緩んでしまった。
「……なんだよぉ」
少しばかり拗ねた様子でこちらを小突いてくる千束さんにごめんごめんと謝りながら、目的地へと歩を進める。
池袋は、僕の中高生時代の記憶と共にある街だ。この辺りにある中高一貫校に通って、僕は思春期を過ごした。だから僕にとって中高生の時の遊び場の記憶は、常にこの池袋という町と共にあった。それを、彼女に見せたかったのだ。
60階通り*1を奥へと歩く。やはり昼過ぎと言うこともあってか、この池袋の目抜き通りを通る人の波はすさまじく、ともすれば千束さんとははぐれてしまいそうになる。何度か人の波に押し流されそうになったところで、彼女は僕の腕をむんずと掴んで、道の脇へと僕を引っ張った。
何をするのかと少しばかりの当惑を隠せていないだろう僕のことを、その物陰の中、彼女は見上げる。
そして僕に向かって、手を差し出した。
「え? 千束さん、これは」
「だから、手。はぐれちゃ困るでしょ、この人出で」
更なる戸惑いに沈む僕の問いに、何でもないような口調で彼女が答える。
しかしそこで、彼女はやにわにからかい交じりの笑顔を浮かべた。どうやら僕の心中がバレたらしい。
「つまり、つなごうと?」
「当たり前じゃん! あ、もしかして隼矢さん、余計なこと考えてるでしょ」
やらしーんだ、などと言って、からかいの態度を隠すこともしなくなった彼女に、僕はきっとむくれた顔をしていたことだろう。
無言で、手を掴む。
「あ、ちょちょちょ、ごめんて隼矢さん!」
そのまま強引に彼女を通りの中に引っ張れば、彼女はいたずらが見つかった子供のような顔で、そんな風に謝ってきた。
そして、お互いに笑い合う。
握った彼女の手は、いつかの雨の日、臙脂の傘の下で握られたその時と同じように、暖かかった。
「ほぉぉ……ここが、あの有名な」
第二の目的地。その前に立って、千束さんはまた驚きの声を上げた。
「この前押上水族館に連れて来てくれたでしょ。だからお返しに、ここはどうかなって」
僕の言葉に、彼女はぐっと親指を立てた。
「ナイスチョイスだよ、隼矢さん!」
僕たちがいるここは、池袋のランドマークである60階建て高層ビルに併設された、複合商業施設の中にある屋内型の水族館だった。日本初の屋上設置型の都市型水族館で、名前は国際水族館*2という。つまるところ千束さんのホームグラウンドである、押上水族館の先達ともいえる存在だ。
早速と言った調子で中へと入ろうとする千束さんを慌てて押しとどめ、まずは入場券を買う。押上水族館に年間パスポートで通い詰めている弊害が、見事に出ていた。
そして入った館内でまず向かったのは、何年か前に大規模なリニューアル工事を実施した、この水族館の目玉展示の一つ。
辿り着いたそこは青い光に照らされた水槽が一面に立ち並び、その中では無数のクラゲが泳いでいる。今やどの水族館でも一大展示コンテンツとしての市民権を得た、クラゲ水槽だ。
「たきなさんがここにいたら、またあの時みたいに言うんだろうかね、『クラゲがこの形になった合理的理由はあるんでしょうか』って」
その言葉に、千束さんが不意打ちでも受けたかのように吹き出した。やめてよ隼矢さん、思い出しちゃうじゃん、と僕の背中をバシバシ叩く。地味に痛かった。
そんなやり取りこそ冒頭にあったものの、そこからは二人黙って、ゆらゆらと漂うクラゲをただ眺めていた。
「……青色って、やっぱり落ち着くんだよね。静けさというか、深さというか」
そうすることしばらく、気づけば僕からはそんな言葉が出ていた。千束さんがこちらを向く。
「千束さんは、赤だよね、テーマカラーというか」
「つまり私は騒々しくて落ち着きがないと申すか」
「いや、そうは言ってないけど……」
ちょっと地雷を踏んだか。千束さんのジト目を躱して、僕は続ける。
「でも、千束さんもこういう静かな場所が好きなんだなって。押上水族館の時に話を聞いてさ、ちょっと嬉しかったんだよ。僕と同じだって」
「そっか。……私も、嬉しかったよ、隼矢さん」
僕から視線を逸らして、彼女も言う。しかしそれは、水族館が云々という話とはどこか違った響きを持っているように思えた。少し黙って待っていると、彼女は言葉を続けた。
「DAからのスカウトの話。隼矢さんが『自分には向いてない』って言ったでしょ。あの時、リコリスが助かったことが嬉しかったって」
言われて、ああ、と思い至る。二ヶ月ぐらい前の、あの話か、と。
「あれね、本当に嬉しかったんだ。私と全く同じことを考えて、『使い捨ての道具』みたいな扱いのリコリスのことで、あんなに嬉しそうな顔をする人なんだって。私の考えを認めてくれる人が、ここにもいたんだって」
訥々と語るその声が、ほんの少しだけ水気すらも帯びているように感じる。その調子に胸を衝かれて顔を向ければ、彼女の方も僕を真っ直ぐに見据えていて、そしてあの時と同じ、花咲くような笑みを浮かべていた。
千束さんは、尚も僕に言う。
「でもね、私が嬉しかったのは。隼矢さん、
思わず、目を見開く。他でもない、僕が?
「先生みたいに、昔から私のことを知っている人じゃない。ミズキみたいに、DAに嫌気が差して辞めたような人でもない。DAとは何の関わりもなくて、悪く言えば部外者で、私とは遠い世界の人だったはずの、あなたが」
そこまで言って、しかし次の瞬間、そうじゃないと首を振る。
「……いいや、そういうことじゃないんだ。理由なんてなくて、ただ隼矢さん、あなたがそう言ってくれたことが、それだけで、嬉しかったんだ。なんでか分かんないけど、でもそれは本当」
そして今度こそとばかりに言い切った、その真剣な目つきが僕を射抜く。言葉が、出なかった。
「そう……なんだ。それは、どうも」
それでも何か言わなければと、そこからようやくひねり出した僕の声は、吐息交じりのひどく掠れたものだった。
「……なんだよぉもぉ! そんなタジタジになんてなんなくたっていいってほら! 次行くよ!」
そんな僕を見かねた千束さんがそう言って、僕を次の展示水槽へと引っ張っていく。僕と彼女の手は、自然に繋がれていた。
その後は、ただ二人時を忘れて水族館の鑑賞に興じる。
それは例えば、メイン水槽で定時に行われる餌やり展示に千束さんが目を輝かせて貼り付いたり。
また或は、トンネル状になった水槽を通りながら空を飛ぶように泳ぐペンギンを見れる名物展示で、千束さんが子供もかくやと言った勢いで大はしゃぎしていたり。
それ以外だと、水族館としては珍しいペリカンの群れの展示で、彼らが集団で狩りをする様子を、何とも言えない表情で見つめていたり。
ここまで全力で水族館を楽しんでくれるなら、この場所に連れてきた甲斐もあったものだと、僕は彼女に引っ張られつづけながらも満足感を覚えていた。
気づけば、水族館の中で三時間も過ごしていた。時刻は四時を過ぎるところで、それはそろそろここを発たねばならないタイミングだった。
千束さんを促し、外へ出る。
足早に池袋駅へと戻って、最後の目的地へと向かう。埼京線で一度新宿に出て、中央線で一駅。
降りた場所は、中野駅だ。
「ここは……」
駅から降りて、北口から外へ出る。そこで辺りを見回したあと、千束さんが僕に問うた。
それもそうだろう。ここは池袋や新宿のような分かりやすい繁華街ではない、言ってしまえば何でもない町だ。東京の中のよくある町で、特段観光のためのなにかがあるわけでもない。
それでも、僕は彼女をここに連れてくる必要があった。今日の最後の目的地は、ここでなければいけなかった。
「中野。さすがに来たことはないよね、千束さんも」
曖昧な顔で、彼女は頷く。一呼吸おいて、僕は千束さんに明かした。
「僕の、生まれた街なんだ」
千束さんが、息を呑む。
「隼矢さんの……」
ここは、僕が生まれ育った場所。僕の実家のある街だった。
北口隣接のアーケード商店街*3を、奥へと進む。
住民の不断の努力によってだろうか、未だ一定の活気を保ち続けているこの場所を、二人並んで歩いていく。幼少のみぎりにあっては日常の一部だったここも、今の僕にとっては時たまの帰省以外では立ち寄ることのない空間ではあった。
それでもその中一歩歩を進めるごとに、当時の空気を思い出す。
今よりもずっと低い視点から、見上げていた天井のことを。
太陽を模った、アーケード内の表札を。
そして昔と比べれば、少しばかり入れ替わったようにも思う、店の並びも。
噛みしめるように歩く僕の横、千束さんもまた神妙な顔で、辺りを見回していた。
「いい雰囲気だね」
アーケードを覆う屋根を見上げながら、不意に千束さんが言う。
「賑やかだけど、穏やかで。騒がしいのに、静かでさ。ゆっくり時間が流れる感じがする。こういうところで、育ったんだね」
顔を下ろし、一瞬だけ床に目を落として、そしてこちらを向いて笑った。
「ちょっと、羨ましいかも。私は結局リコリスだから、子供のころの記憶って、リコリス棟だけなんだよね」
遠い目をして、彼女は語る。その言葉に、僕は自分を恥じた。
それは確かに今回の目的に相違はなかったけれども、それでもリコリスたる彼女をここまで連れてきて、
そもそも今の彼女は、もう一月ほど前とはいえども、その幼い時の記憶を踏み躙られたばかりだというのに。
「……ごめん」
「あぁぁ違うの、そういうことじゃないんだ」
思わず出た言葉に、しかし千束さんは慌てるように否定した。
「こういうところで育ったから、今の隼矢さんみたいな人ができたのかなって。思っただけ」
「僕みたいな?」
「……なんでもない!」
僕のその問いを、彼女ははぐらかす。そして一人前を向いて、少しだけ速足で先へと進んでいった。
そのまましばらく歩いていれば、アーケード街の突き当りに辿り着く。そこにあるのは「オタクの聖地」の呼び声高い、低層ながらも大規模な複合商業ビルだ。中野という街のことはよく知らなくても、このビルのことだけならば知っているという人もそこそこいる。
実は横にいる千束さんも、その手合いだったらしい。
「おお、ここが、あの」
感慨深げに、彼女が呟く。
「知ってるの?」
「まあ。……
そして意味深げな目配せで、声を潜めてそう言ってきた。
その声色に、なんとなく彼女がこの建物に懐いているイメージというものが推し量られる。思わず、苦笑いしていた。
「まあ、千束さんが思うような店もそこそこあるけど、服とかも売ってるんだよ、ここ。なんというか、不思議な場所だよ、昔からね」
入ってみる? と千束さんに問うと、またの機会に、と返してくる。
まあ、そんな日は来ないんだろうな、と。根拠はないけれども、僕はそう思った。
そのビルを横目に、左へと曲がる。その細い路地を抜けた先、通りの一つ向こうこそが、僕たちの最後の目的地だった。
地上二百六十メートルの高さから見るこの街は、やはり東京という都市圏の中にあって郊外の趣を帯びている。それはこの中野駅北口エリアが大規模な再開発の対象となった*4今になっても、あまり変わらないように感じられた。
当の再開発によって建て替えられた、駅前の複合高層ビル*5の最上階こそが、今日の僕たちにとっての最後の目的地だった。
辺り全てを見渡せる一面ガラス張りの展望デッキから、僕と千束さんの二人、ぼんやりと外を眺めて、しばらく。千束さんが、口を開いた。
「今日は、ありがとね」
そう言って、こちらを見る。
「隼矢さんと、いろいろ回れて。隼矢さんのことを、いろいろ知れて。私すっごく楽しかった」
そして、こちらに微笑んだ。
「僕の方こそ、今日は僕のわがままに付き合ってくれて、ありがとう。楽しかった」
それに応じて、しかしそれきり、互いに沈黙の時間が続く。どちらともなしに窓の方を向いて、また外の景色に目をやった。
「訊かないんだね、千束さん」
「なあに?」
そんな中、ポツリと言った言葉に、窓ガラスにかすかに映った彼女がこちらを見たのがうっすらと見えた。
「どうしていきなり、今日。僕が君を誘ったのか」
「何、訊いてほしいの?」
面白がるような声で、千束さんは言う。これでは、自意識過剰にもほどがあるか。また、己を恥じる。
「じゃあ、訊いちゃおう。……どうして私を誘ったの?」
その言葉に、隣を見る。千束さんは僕を見ていた。真剣な表情で、見ていた。
「DAから、情報共有があった。真島の居場所が、そろそろ掴めるらしくてさ」
「ほー、よかったじゃん! ……それで?」
促してくる千束さんに、言葉を継ぐべく息を入れる。
「つまり、近いうちに、真島討伐作戦が始まる。どういう形であれ、DAは武器取引事件から始まる一連の騒動を、終わらせるつもりだ」
そこまで言っても、どうやら彼女はピンと来ていないらしい。もう一つだけ、ヒントを出した。
「僕が公安からリコリコに出向している理由、覚えてる?」
「当然。武器取引事件の足取りを追って……あ」
そこで、千束さんも気づいたようだ。彼女の何か思い出したかのような表情を見て、頷きつつも続ける。
「この事件が解決したら、僕がリコリコにいる理由は、なくなる。……そろそろ、お別れかもしれないんだ」
「そ、っか……」
呟くように発された千束さんの声が、掠れて聞こえた。
「もともとはただの客だったからね。元の職場に戻っても、また客として喫茶リコリコに行って、売り上げに貢献するぐらいのことは、できると思うけど、でも」
気づけば、僕は右手を握っていた。
「君たちと――あの店の、リコリコのみんなと一緒に仕事をする間柄では、なくなる。ただの客の一人に戻るんだ」
「そんな、隼矢さんは――!」
千束さんがかぶりを振りつつも言い返そうとするのを、僕は向き直って押しとどめた。噛んで含めるように、ゆっくりと口を開く。
「そうなんだよ。そうでなくちゃいけないんだ。……だから」
そこでようやく、口に出せた。今日の僕が、どうしてこんなところにまで千束さんを引っ張ってきたのか、その理由を、目的を。
「千束さんに、どうしても覚えておいてほしかったんだ。僕がどういう生き方で、どういう育ち方をして、どういう経緯で、君たちの仲間になったのか。忘れてほしくなかったんだ。千束さん、君だけには」
隼矢さん。掠れて、もうほとんど聞こえないほどの声で、千束さんが呟く。
「有象無象の中の一人に、戻りたくなかった。なんでもいい、君の『特別』の中の一人に、なりたかったんだ」
言葉が、止まらない。激情が、僕を支配した。
「昼の話の、続きだけど。学部四年の春から、僕は国に採用された。情報戦とITセキュリティのエキスパートとして、僕は国に貢献できるんだって。それはすごく嬉しかったんだ。当たり前だよね、もともと役人になろうとしてたんだから」
彼女は、何も言わない。ただ、黙って僕の話を聞いている。
「だからさ。そりゃまあ頑張ったんだよ、国からの初期教育だって。これが終われば、本当に僕は国の役に立てるって、信じて。それで一通りの修習が終わった学部四年の一月に、僕は今の部署に採用された。つまりは公安。……でも」
目を瞑る。そうだ。あの時の無力感は、未だに忘れられない。
「そこで僕は、DAの存在を知った。国をその陰から守って、国民の平穏な暮らしの礎となっていたはずの僕たちは、その実無茶苦茶な論理を振り回して全てを『なかったこと』にしようとする、強権的で抑圧的な保安組織のやり口に、何も言えない存在だった」
だったら、僕の今までの努力は何だったのか。何のために楽しかった学生生活を一年間も早く切り上げて、この場所に来たのか。
分からなくなってしまったんだ。
そして僕は、多分諦めてしまった。惰性に、身を任せて。
「正直、僕は日々の生活も、仕事も、ずっとつまらなかった。僕たちの仕事の後ろには、DAとかいうよくわからない組織があって。やることの半分は、あの人たちが覆い隠そうと、誤魔化そうとするこの国の実態を、『なかったことにする』ための尻拭いの手伝いで」
千束さんの瞳が、かつてないほどに揺れている。
「いっそ、全部忘れてしまえばよかったって思ったんだ。大学時代に戻ってさ、好きなITセキュリティの勉強をしながら、研究室仲間と馬鹿なことやって、何にも知らないで生きてたあの時に戻れればいいのにって」
一歩、千束さんに近づく。彼女は、逃げなかった。
「でも君に会えて、それで全部が変わったんだ、あの店の中の一人になって。……毎日が、楽しくなった。ミカさんの淹れるコーヒーの匂いも、ミズキさんのちょっと下品な悪ふざけも、クルミとの悪だくみも、真面目なたきなさんをちょっとからかうのだって」
一つ一つ、思い出を指折るように挙げていく。
でもそれよりも何よりも、もっと根源的なものが、もっと大事なものがそこにはあったんだ。それを言いたくて、自らの声の残響にすらも被せるように口を開いた。
「それよりも何よりも、君がいるあの空間が。君が笑っているところが。君の仕事の、手伝いをできることが。僕にとって、何よりの幸せだったんだ」
だから、だから、だから。
「だから、どうしても。千束さんには、君には、そういう一人の男がいたと、覚えていてほしかった。忘れないでいてほしかった。……それだけなんだ」
それで、終わり。だからそれはどうしようもない、僕の醜いエゴによるものだ。自己顕示欲そのものだった。
そのまま俯いて、僕は黙り込んだ。言葉を尽くしてしまって、それ以上言えることは、もうなかったから。
何分にも感じられた、長い静寂の後で、目の前の彼女の口が、かすかに動く。伏せられた目が上げられ、声と共にこちらに届く。
それは、怒りの色を帯びていた。
「――けんな」
え、と。そう声を上げるよりも先に、千束さんは僕の肩を途轍もない力で掴んだ。
「ふざけんな、って、言ったの」
握られた肩に、痛みすらも感じる。目線の先、千束さんが言い募った。
「何、勝手に仲間を辞めるつもりなんだよ。客の一人に戻る? 有象無象の一人? なに馬鹿な事言ってんの」
「でも、実際僕は――」
「私にとってはッ!」
強引に、遮られた。
「私にとっては、隼矢さん、あなたは仲間だよ。今までも、これからも、それこそ、
掴んだ両手を引き寄せて。
僕は、千束さんに抱きしめられた。
「忘れられるわけが、ないじゃんか……」
肩に当てられた彼女の顔、その口からは、絞り出すような声色の響きが漏れて、僕の肌を、耳を震わせた。
それは理屈ではなかった。純粋で直接な感情の奔流で、だから僕はそれに何一つ答えることはできなかった。それでも彼女の口から「忘れられない」という言葉が聞けたことに安堵する自分がいて、その浅ましさに閉口する。
そしてまた、僕たちはしばらくそのままでいた。この空気の中では僕は彼女を振りほどけないし、そもそもそうする気もなかった。だからただ、千束さんを待つ。
而してゆっくりと彼女が身動ぎをして、その身体も少しずつ離れていく。
挙げられた彼女の顔を見る。その瞳はほんの少しだけ潤んでいるようにも見えた。
そして、その唇が動く。
「隼矢さん」
黙って、頷く。
「『千束』って、呼んで」
「千束さん?」
「違う。ち、さ、と」
声にならない息が、漏れた。名前を呼べと。呼び捨てで。彼女はそう言っている。
「早く」
「ぁ……ち、さと」
何とか絞り出した僕の声に、彼女は満足げに笑った。
「ここから、リコリコ店員としての最後の日まで。私のことはそう呼んで。よろしい?」
その笑顔を崩さぬままに、僕に注文を付けた。
どういう意図なのか、僕にはわからない。それでも彼女がそう言うのであれば、僕に否やなどありはしなった。
「わかったよ、千束さ――千束」
そして大きく頷いた彼女は、僕に左手を差し出した。
「じゃ、帰ろ、隼矢さん。山岸先生のとこ、送って行ってくれるんでしょ?」
ね? と首を傾げた千束さん――千束に、ただ一つ、頷く。
そして僕もその手を伸ばして、互いの手が、繋がれた。
そこからは暮れてゆく日の中、二人来た道を一心に戻る。そしてたきなさんから案内されていた山岸女史のいる診療所まで向かって、そこに彼女を送り届けた。
その別れ際、彼女は笑った。「また明日」と、そう言った。
僕もまた笑顔で、「また明日」とだけ、返した。
そうだ。ここからの二週間と少し、いつもとは少し違う、一歩進んだ関係で、彼女との思い出を作っていけるのだろう。いかなければならないのだろう。
それでも明日はきっと今日のように、二人にも、全員にも、やってくるはずだ。
僕はその時、そう信じていた。信じて、疑ってなどいなかった。
次の日の、昼。
診療所に一人残した千束の身に、何が起こったのか。
それを、知るまでは。
物語は、いよいよクライマックスへ。
ちなみに作者のかつての生活圏に中野駅周辺は確かにありましたが、そこで生まれ育った感じでもないのでもしかしたら違和感ある描写かもしれません。そうだったら申し訳ない。