一夜が明ける。次の日がやってきた。昨日までとは何もかも勝手が違う、新しい
少し遅めの朝九時にセットしたアラームで起きた僕は、昨日と同じようにリビングに据えてあるデスクトップの前に腰を据えた。
――さて、どうなったか。できれば捗々しい結果が出ていればいいが。
そんな気持ちで点けたモニタの上には、果たして仕掛けていたスクレイピングと解析の結果がまとめられ、レポートとして生成されていた。
分析エンジンはどうやら、収集されたデータの中から着目すべき価値のある何かを見つけ出すことができたらしい。それが、この出力からは読み取れた。
取り敢えず、第一関門は突破できたと言ってよいだろう。心中で安堵交じりに、小さくガッツポーズを取った。
ただそれも一瞬のこと、改めて気合を入れ直す。
なんとなれば現状の結果はあくまで、「スタートラインに立てた」という以上のものではないからだ。その中身を調べ、意味を見出し、次のアクションに繋げることができるかどうかは、もたらされたアウトプットの何たるかと、僕自身の腕にかかっている。
そういうわけで僕が始めに取り掛かったのは、得られた結果の全体像を俯瞰することだった。
レポートによれば、今回収集された莫大な、それこそ一千万オーダーのソースデータの中で、システムが関連度について閾値を越えたと示しているものは実に二万五千件を上回っている。
当然、人力でこれを調べていては時間がいくらあっても足りない。よってそこからもう一つ手を加える。
まずはDAの報告書から、その本文や添付資料などのテキストデータ・映像データを抽出してそれぞれ特徴ベクトル化し、スクレイピングによって収集された各データを同様の手法で特徴化したものとのコサイン類似度を測る。その上位百件ほどのデータを対象にまた同様のコサイン類似度判定で関連データを抽出、これを再帰的に繰り返して、最終的には中心にDAのレポートを据えた形の、情報の依存関係を含めたデータのツリー構造を構築する。無秩序なデータの集積に上位下位と関連度の概念を持ち込んで、人力での解析を容易にすることが狙いだった。
当然に、その処理も実行するのはマシンだ。特徴ベクトルの算出には既存のモデルを使えばいい以上、困難なタスクというわけでもない。朝食を片手にその終わりを待てば、大体三十分ほどで結果が出てきた。
それによれば、列挙されているデータの中で有意に高関連度を示した情報は五十件ほど存在している。そしてそこに共通するラベルには、移動手段としての「白いバン」や、地理的情報としての「押上」、といったものが挙がっていた。
DAの報告書に記述されていた武器の取引現場と、地理としては照合できている。つまり彼らは場所に関しては正確な予測をしてみせたというわけだ。最低でも、観測事実からは高確度でそう推測できる。
ならば何が問題だったのか。その答えは、絞り込まれたレコードのタイムスタンプにあった。
即ちそれは、DAが想定していた取引時間の二十七時間前、十五時間前、そして
つまりこれは、DAが武器取引の時間に関して欺瞞情報を掴まされていたということを示している。それも三時間前ともなれば、さしもの彼らとてどうにもならないだろう。
兎も角、絡繰りは分かった。ならばあとは本丸だろう。
つまり、「実際の時間に何が起こっていたか」。その手掛かりは、今回の解析作業の中で最も関連性が高くスコアされたデータに存在した。
それは、あるSNSにおける一つの投稿だった。さらに正確に言えば、それが伴っている一枚の写真だ。
一見する限りにおいては、何の変哲もないカップルの自撮りである。これに高類似度判定を下した分析エンジンに一瞬だけ疑念を抱いたが、画像のパッチデータ上に顕著に記録された類似度のデータと、該当のパッチデータ部分を拡大した画像を見て、僕はその理由を完全に理解した。同時に、この画像を投稿したとみられる人物に心底同情した。
DAの報告書に添付されていた、武器取引現場の写真を今一度呼び出す。それとこの画像とを比較すれば、その共通点は一目瞭然だった。
そこには同じような色、意匠の服を纏う人物の姿が映っている。加えて、何らかの武器を納めているであろう木箱も据えられていた。
間違いない。本当の武器取引の現場が、この写真には綺麗に切り取られている。当該の画像はその投稿とともにすでにSNS上からは削除されているが、前後の投稿を見る限りにおいては、何らかの脅迫メッセージが彼女のもとに送られていたらしい。この画像を投稿したSNSアカウントの持ち主――おそらく女性だ――はタチの悪いストーカーに目をつけられたと考えているようだが、事態はなお悪かった。
彼女のSNSアカウントを追跡すると、この件で警察へと相談に行った形跡がみられる。無防備にも画像に残されていたEXIF情報から、彼女の相談を受けたと思われる警察署を割り出して……そして僕はとうとう天を仰いだ。
――
この家の近所であり、そして喫茶リコリコの常連客である、阿部さんの勤務先でもあった。
そこから大体三十分ほど経った昼下がり、僕は得た手掛かりについて確認すべく、押上警察署の刑事課の窓口まで足を運んでいた。
正面からのアポなし訪問であるからにして律儀に番号札を持って自分の番を待っていれば、日中と言うこともあってか大した待ち時間もなく、受付が僕の番号を呼ぶ。
呼び出されるままにやってきたカウンターで来客として阿部さんに用がある旨を告げると、やや怪訝な顔をした受付の女性が「少々お待ちください」とだけ言い残して奥へと引っ込んでいった。
そしてそこから程なくして、彼女が一人の男性を連れ立って現れた。壮年から老年に掛かろうかという年頃のやや恰幅の良いその立ち姿は、まさしく阿部さんのものだった。こちらが会釈をすると、彼はやや驚きつつも声を弾ませた。
「おお、真弓さんじゃないですか、店の外で会うのは初めてですな」
何か用ですか、とこちらを促す彼を横目に、受付の女性に会釈しつつ目配せをすると、彼女は一つ礼をして元のカウンターへと戻って行った。その始終を確認したのち、僕は阿部さんに向き直る。奥の方に目線を向ければ、彼も少しばかり眉をひそめながら、僕をお手洗い周辺の人目のつかない場所へと案内した。
「それで、」
何の用か、と。そう切り出そうとしたであろう彼を手で制止して、僕は手に持った「証票」を提示する。目の前の彼が、ひゅっ、と息を呑んだ。
「……奥でお話をお聞きします」
押し殺した声で、彼は言葉を継いだ。
二人連れ立って、バックオフィスに設けられたミーティング室へと場を移す。
そしてそのどこか薄暗い、防音処理のされた空間で、僕は一つの画像を彼に示した。
「最近、この画像の女性から何か相談を受けませんでしたか」
その問いに、阿部さんは目を瞑った。
「二日ほど前、ウチの生安でストーカー被害に関する相談を受けました。ええ、その画像の女性です。名前は篠原沙保里さん」
「篠原さん……なるほど」
「生憎と証拠が掴めない状態ではウチの部署では取り扱いが難しくてですね、相談を受けるだけ受けて帰ってもらわざるを得なかったんですが……この女性が、何か」
その問いに、呼吸を一つだけ。訝しげにこちらを見る彼に、意を決して言葉を返した。
「ストーカー被害、ではありません。この画像に映り込んでしまっているものは……」
――G事案か、或はそれに類似する組織犯罪につながる証拠の可能性が高いです。
阿部さんが、大きく目を見開いた。
「守秘に該当する項目なので、詳細を話すことはできません。しかし彼女が何者かに追跡を受けているのだとすれば……」
「武器を持っている可能性が高い、『実力行使』の危険がある、と?」
「そういうことになります」
既にSNSを通してデータが世界中に拡散されている以上、それがどれだけの意味を持つかは定かではない。現に自分がこうして事態を把握している時点で、彼らは
今回の「相談」に至る経緯を想起する。SNS上でご丁寧にも直通の脅迫メッセージを送るというその手段一つからしても、彼らは良くも悪くも「素人」なのだと思われる。リスクとリターンがまるで釣り合っていないからだ。
そういうわけでこの脅迫メッセージの「実行犯」は、仮令武器取引の当事者ではあっても、この事件全体の中核に座する人物であるとは考えづらい。
しかしそれは、この女性の身にこれから降りかかるであろう危険の軽重とはまるで関係のない話だ。僕は再び口を開く。
「ウチの部署としては、彼らの身柄の確保と取り調べは急務です。この女性の身の安全のためにも。この街と、そしてこの国のためにも。なので……何か、他に情報をお持ちではないですか?」
問いかけに、阿部さんは額に手を当てた。そして暫しの逡巡と沈黙の後に、声を上げる。それは絞り出すような声色だった。
「他の情報、というものではないですが……この女性のことを話したんです。その、つい一時間ほど前に」
「誰に?」
「その……」
問い返した言葉に今一度逡巡する素振りを見せる彼を、辛抱強く待つ。一秒、二秒。五秒ほどして、彼はこちらに向き直った。
そして、恐らくは決心と共に放たれた言葉の、その響きを耳にして――
「
――時間が、止まった気がした。
「……え? 錦木千束さん……って、リコリコの?」
「その……はい」
「……どういうことですか、それは」
どうしようもなく掠れた声だった。半ば詰問のように問い返し、思わず目の前の彼を睨むように見てしまう。ばつが悪そうな顔で、彼は言葉を返した。
「本当に、ただのストーカー被害だと思ったんです。ほら、リコリコ……というか千束さんってちょくちょくお悩み相談みたいなお仕事しているでしょう? それで、気休めでもいいから、その女性の話し相手にでもなってくれたらって、そう思いまして」
「だからって、生安の管轄の仕事を勝手に持ち掛けたんですか……何の相談もなしに?」
「……面目ない」
俯きがちに彼は答える。気が付くと僕は右脚で貧乏ゆすりを始めていた。ああ、苛立っているんだな、自分は。他人事のようにそう感じた。
「他にこのことを知っている人は」
「……その」
「まだ何か?」
「いえ、千束さんが新しいリコリコの店員を連れて来ましてね、その時……ですから、その子にも」
「新しい店員」。口調の感じからしても、女性だろう。
「こんな時でなければ、楽しい話でしたが……名前や容姿の特徴は?」
「名前は、『井ノ上たきな』さん。千束さんとほぼ同じ年頃です。ストレートの黒髪の、可愛らしい子でした」
「なるほど……彼女たちは、何か」
「こちらが案内した待ち合わせ場所で、篠原さんと落ち合うと言っていました。ただもう……」
「面会時間は過ぎている、と?」
「……はい」
悄然とした表情で、彼は頷いた。
思わず腕を組んでいた。状況は、僕が想定しているよりもなお悪いかもしれない。それを意識したからだ。
つまりは、こうだ。
ただ話を聞いて、はいさようなら、ならばいい。でも僕の知っている錦木さんは、どこまでも優しい子だ。何かの拍子で、相談者の女性と行動を共にしようと言い出さないとも限らない。
そういう危なっかしいところも、普段なら彼女の魅力と言えただろう。それでも今回だけは、そればかりでは済まされない。
――錦木さんが、危ない。
そしてそうだというのならば、僕が取るべき方策は一つだ。ここで彼を、阿部さんを糾弾したところで、事態は好転などしないのだから。意を決して、口を開いた。
「取り敢えずですが、守秘義務のこともありますし、阿部さんのことにつきましてはどこにも報告はしません」
ですが、と言葉を継ぐ。
「依頼者の、篠原さんの居住地情報などお持ちでしたら、いただけますか。こちらで対処します」
「わかりました。……お手数を、おかけします」
阿部さんは恐縮しきりな様子で言いつつ、一度部屋から出ていった。篠原さんの個人情報について、データベースから引っ張ってくるのだろう。
彼の姿がこの部屋から消えたことを見届けてから、一人思惟に沈むべく僕は目を瞑った。ごつん、と握った右手を額に当てながら。
既に篠原さん――
そこへきて錦木さんと井ノ上さんという、完全な第三者までもが危険に晒される可能性まで出てきてしまっている。つまり時間はもう、あまり残されていないと見た方がよい。
故に勝負は、今夜だ。まずはマル対の住所から割り出した帰宅経路上に人員を配置する。その上、できれば直接自分が接触して彼女に危険を告げる。或はしばらくの間行動を共にする必要があるかもしれない。交際相手がいるとのことのようだし、その男性としばらくの間の同居を提案するのもありか。
最悪、そのタイミングですでに追手が迫っている可能性だってある。その場合は、実力をもって排除することになるか。
だとすれば配置する人員は「市ヶ谷」経由で調達するのが望ましいだろう。やや権限の濫用のきらいはあるが、背に腹は代えられないとしたところだった。
そこまで検討を進めて、しかし、と思い直す。考えてもみれば、愚直にも身柄を直接狙ってくれるのであれば逆にありがたいと言えるかもしれない。こちらから強襲し、向こうの身柄を確保する。取り調べればなにがしかの情報を引き出せる可能性はありそうだし、その展開に持ち込めれば、短期決戦でこの事態を収束にまで持って行けるのだから。
と、そんなことを考えていたところで、阿部さんが部屋に戻ってくる。入ってきた足取りもそのまま、彼はマル対――篠原さんの個人情報が記された書類を差し出してきた。小さな礼とともにそれを受け取ると、あるいは縋るような目で、彼は言葉を口にした。
「今回はこちらの不手際で、このような事態になってしまって……申し訳ありません。ですがどうか、千束さんとたきなさんを……頼みます」
「……必ずや」
街を赤く染めていた夕焼けが、その紫色の残照を伴って去ってゆく。四月上旬の気温は、日が暮れると一気に冷えるものだ。今日の最高気温は二十三度も半ばと五月にも匹敵するほどの暖かさだったが、街にはもうその余韻はない。
押上警察署を退出して、三時間ほどが経った。
ここまでの間、一度自宅に戻るついでに念のためと喫茶リコリコを経由してはみたものの、案の定と言うか「
錦木さん、或は新人の井ノ上さんに直接のコンタクトを取るのは難しい。当初の予定通りに進めるしかなかった。
まず押さえておかなければならないのは、マル対の現在地と、そして動向の情報である。
そのために僕は、マル対の持つ携帯電話の情報を阿部さんから融通してもらっていた。
それは直接の連絡に使うというよりは、寧ろIMEIの照会による端末の特定と、それによるGPS情報のトラックのためのものだった。
こちら側の行動を起こすに当たって、というよりは自宅に戻ってすぐの時点で、既にGPSトラッキング自体は始めている。
それが指し示すマル対の動きを見るに、どうやら彼女は街の喫茶店などを転々としつつ、そろそろ帰宅の途に就くべく自宅方向へ歩き出しているらしい。
足取りを踏まえるに、おそらく錦木さんたちも一緒にいる可能性は高い。懸念が当たってしまった形ではある。或はこのタイミングで彼女たちとは別れたかもしれないが、それでもとにかく、好機は好機だった。
すでに配備している「市ヶ谷」の人員に連絡を取る。対象の自宅周辺を遠巻きに潜伏してもらい、追跡者がいる場合は速やかに対処、確保を試みる。自分もそろそろ直接出向くときだろうか。自宅を後に、現場へと急行した。
小走りに進むこと十五分程度、GPS情報から彼女の目指す先を割り出し、その進行方向の五百メートルほど前方のT字路の奥に僕は陣取った。
報告によれば、現在のマル対は一人で行動している。どうやら直前までは一人の少女――おそらくは錦木さんか、井ノ上さんだろう――を伴っていたようだが、既に別れたらしい。
そして更にもう一つ、追加の情報が共有された。
――マル対の後方二百メートル程度の位置を保って、不審な乗用車が尾行中。何らかの実力行使に出る可能性があるため、警戒を厳にすべきである、と。
それを聞いて、思案する。
ならば一人彼女がこの地点を通過するタイミングに合わせて、偶然を装って接触するのが適当だろうか。後方の乗用車は、こちらが確保を完遂したタイミングで待機する人員を使って制圧する。できる限り火器は使わず、迅速な実行が望まれるだろう。
心を落ち着けるべく、一度深呼吸をした。
こういった形の接触任務は数えるほどしかないが、臆していても仕方がない。相手は一般人で、それだけならリスクもないのだ。十分にやれるはずだと、己を鼓舞する。
時間としても、もう頃合いだ。この場所に着いてからはもう三分以上が経っていて、彼我の距離は今や二百メートルほどしかない。
最後の確認にと、T字路から顔を出す。
やや前方、こちらからその顔立ちがギリギリ窺えるほどの位置に、眼鏡をかけた栗色の髪の女性の姿があった。
間違いなくマル対だ。つまり篠原さんだった。
なら、今だ。そう思って、そこから歩き出そうと一歩を踏み出す。
しかし、そこで事態は急転し始めた。
僕がマル対に近づき始めるのとほぼ同時に、後ろから徐行しながら接近してきた乗用車が彼女の真横で停止する。
白いバンだ、とその形を認識した次の瞬間、開いたバンの扉から人の腕が生えて、そしてマル対が
息を呑む。血の気が引いた。反射的にもう一度、物陰に隠れ直す。
臍を噛んでいる自分がいた。失敗したと思った。もう少し早いタイミングで接触しなければならなかったかと、もはや手遅れな後悔が一瞬頭を過ぎる。それでも僕は、その考えを頭を振って追い出した。
それは、考えても仕方がないことだ。そして次善の策は、早急に講じねばならない。手に持ったスマホから、暗号回線越しに「市ヶ谷」の要員たちに指示を投げた。
「不審な乗用車はやはりクロ、速やかな制圧が望まれる」、まずはそれを素早く文章に起こす。
あとは最悪の場合を想定して、火器の使用も許可しなければと、その辺りまでをメッセージとして打ち込み、送信ボタンに手をかけた。
しかしその行いには何の意味もなかったことを、僕はすぐさま理解させられた。
俄に一つの人影が、停車中の白いバンの前に躍り出る。灯されたハイビームが、その姿を照らした。
眩い光の中、
それを身に纏い、まっすぐに手に持つ拳銃を車に向かって突きつける、黒い髪を腰まで伸ばした一人の少女が、
それの意味するところは、凡そ一つしかない。
「嘘、だろ……DA、リコリス……どうして」
独り言ちたのとほぼ同時、目の前のリコリスは手に持ったそれを容赦なく発砲した。
「取引した銃の所在を言いなさい!」
鋭い声が響く。消音器越しの特徴的な銃声に、フロントガラスの割れる音も立て続けに聞こえた。
そのリコリスは、装弾数の多いオートマチックを凄まじい勢いで乱射している。まるで何かに取り憑かれたように撃って撃って撃ちまくり、そのうちの二発がヘッドライトを貫いた。それまで煌々と辺りを照らしていたハイビームが俄に沈黙し、辺りは一気に暗くなる。
それだけでは終わらなかった。更に間断なく撃ち込まれ続ける弾の一つが、前輪のタイヤをも射抜く。当然にして風穴を開けられたそのタイヤはパンクして、車体は大きくそちら側へと傾いた。
そしてそこに至ってもなお、彼女は自らの持つ銃から弾丸を吐き出すことをやめようとはしない。息もつかせぬ、反撃は許さぬとばかりの、徹底した攻撃行動だった。
そんな一連の情景を半ば呆然と眺めるばかりの僕だったが、そこでようやく我に返った。
現状を振り返る。もはやこの時点で、僕が事前に想定していた計画は完全に破綻していた。
いや、それどころの話ではない。DAと任務においてバッティングを起こすなど、状況のまずさとしては一、二を争うほどに危機的だ。
つまり僕は現状、相当に危険な立ち位置にいる。それを自覚せざるを得なかった。
昨日の朝、面談室の中で受けたアドバイスを反芻する。
「DAとの衝突はまずもって避けなければならない。できれば接触自体もない方が無難だ」。
言われるまでもないことである。組織にとっても、僕にとってもそうだった。
というより、そもそもDAのリコリスなど基本的には関わりたくもない人種だ。下手に彼女たちの任務を妨害すると、「消される」のはこちらということにすらなりかねない。そういう横暴の権化のような存在が、即ちリコリスであった。
そうだとも。それは、重々承知している。分かってはいるのだ。
それを分かった上で、それでもなお僕は今――正直なところ
目の前に現れた今回の事案に対する極めて大きな手掛かりをみすみすDAに明け渡すような形で諦めることが、このまま撤収することが正しいとは、とても思えなかったのだ。
なぜならこれは、本当に千載一遇なのだから。というより、「唯一のチャンス」かもしれないのだ。これを逃して、さらに別の切り口からこの事案を追跡し直すようなことができるとは、僕には到底思えなかった。
どうすればいい。この場の正解はなんだ。焦りすら心を支配する。
ただ取り敢えず、今の状況では動けないことだけは間違いない。「市ヶ谷」の助っ人には一時待機を要請し、自分はT字路の陰で息を潜め続けることにした。
再び、通りの方へと目を向ける。当然だがリコリスの少女は僕の存在など認識してもいない。ただひたすらに件の白いバンのみを標的に見据えて、容赦ない鉛玉の雨を降らせている。
が、そこでどうやらようやっと一頻りの弾を吐き出し切っらしい。彼女のオートマチックからマガジンが排出され、しかし地面に落ちるそれには目もくれず、流れるような手つきで以て背負う鞄から次のマガジンを取り出して、手に持つ銃へと装着した。
そこから改めて眼前の車に向けてそれを構える。引鉄に指をかけ、さらなる攻撃を加えようとした。
そしてその瞬間――更に一人の人影が、今度はリコリスの方を物陰へと引きずり込んだ。
あまりの展開に、理解が追いつかない。ただ僕の見間違いでさえなければ、それもまた少女だった。明るい髪色をボブカットにして、赤い制服を身に纏っていた。恐らくは、また一人のリコリスだろう。青いリコリスの上官だろうか。
話の内容は聞き取れないが、なにやら言い争う声も聞こえる。方針の違いでもあったか。或はマル対の扱いについて、彼女たち二人の間で何か認識の齟齬でもあったのかもしれない。
とにかく、攻撃は止んだ。ただ事態は予断を全く許さない。
乗用車の方から、マル対を人質にしたと、お決まりのセリフが聞こえてくる。しかしリコリス達の次のアクションが読めない。マル対の護衛が任務ならばよい。しかし諸共の処分を織り込んでいたならば――。
パァン、と、乾いた銃声がそこで思考に割り込んだ。消音器を外したその音が、甲高く街に響く。
慌てて再び通りの向こうに顔を覗かせると、いつの間にか車の外に出ていた男たちがたじろぐ姿が見えた。そしてそれを読んでいたかのように、また一つの人影が、今一度車の前へと躍り出る。
果たしてそれはもう一人の少女、赤い制服のリコリスだった。
数分前に沈黙したハイビームの残照は暫くのあいだ僕の目を曇らせていたが、ここに来てようやく、視界が宵闇に慣れる。
それと同時、そのリコリス後ろ姿がはっきりと目に入った。
即ちそれは、
「やあ、取引したいんだけ――どっ」
そして耳に入るは、どこまでも
思わず目を疑い、耳を疑う。それでも僕は自らを偽れはしなかった。
だって、見間違えるわけがない。聞き違えるはずもない。
「は? 何で……錦木、さん……?」
小さな呟きが、虚空に消える。
それは紛れもなく、喫茶リコリコの看板娘の、
前提だと思っていた日常の土台が、音を立てて崩れていく。
昨日あの店のカウンターで、隣に座って無邪気な笑みを浮かべていた少女が、今僕の目の前で「
信じられない。いや、信じたくなかった。だってあんな子が、組織の尖兵として殺しを重ねてその手を血で汚し続けているなどと、そんなことがあっていいはずがないのだから。
しかし僕のそんな混乱や狼狽などここにある現実には何一つ関係なく、そしてあの赤いリコリスは、錦木さんは、そこから瞬く間に事態を一変させた。
踊るようなステップで、男たちの放つ凶弾を軽やかに躱す。返す刀で至近距離から射撃を叩きこめば、宵闇に薄く煙る暗赤色が、舞って、散る。
凄まじいまでの手際で、そして戦闘技能だった。あれほどの近接距離でありながら、相手からの射撃など意にも介さずに、一対多であろうと何の関係もなく、そのすべてをねじ伏せていく。
散発的に放たれる銃声を劇伴にして、硝煙の匂いに彩られたそこは、まさしく彼女の一人舞台だった。
それは彼女がバンの裏側へと消えた後も全く変わらない。銃声に混じり男たちの呻き声ばかりが耳に入って、それが終わるや否や響いた無力化用のグラップルガンの作動音が、バンの影で繰り広げられた攻防の勝者が誰であるかを明快に示していた。
程なくしてバンの左手から再び姿を見せた彼女は運転席へと向かい――負傷した運転手の男に対し銃を構えるも、しかしそのままそれを撃つことなく、
それは不合理な行いだ。DAのリコリスとしては危険分子など排除する方がよほど正しく、情報を抜き出す相手を確保するという意味合いにおいても、おそらくバンの後ろで拘束した何人かの男さえいれば足りるはずだった。
事実、最初に接敵した車の右手側にいた男に関しては、彼女は念入りに仕留めていたはずだ。車のドア越しに五連射したあと、丁寧に至近距離から止めの一発まで撃ちこんでいたのを、僕は確かに見ていた。
しかし次の瞬間に、僕は自らの思い違いを悟った。錦木さんが運転席の男を手当てしようと自らの背負う鞄から包帯を取り出したその瞬間、死んだはずのそいつが
瞬間、閃光が走る。その出元は男の方ではなく、錦木さんだった。神業とも称すべき速さで以て彼女は銃を抜き放ち、そのまま一発を見舞う。それをまともに受けた男が、赤い煙を眉間からたなびかせながらのけぞり、そしてもんどり打って倒れた。
ここまでくれば、さしもの僕も理解する。錦木さんが放っているのは、
現に今男から立ち上った煙は、死を感じさせる血煙ではない。つまり彼女は、この場において一切の殺しをしていなかった。
彼女たちリコリスは、「無慈悲な処刑人」である。僕自身の経験からも、その定義を疑うなどありえないことだった。だから錦木さんにしても、同じリコリスであるのならばそういう存在なのだと考えていた。
しかし、違った。違ったのだ。戦闘中にも関わらず、自らと相対している、「敵」であるはずの人間の応急処置すら始めようというのだから、彼女のそれは筋金入りと見るべきだろう。
つまり錦木さんは、
交戦は終わり、今回の騒動を引き起こした男たちは錦木さん一人によって制圧された。
断続的に鳴り響いていた銃声は消え去って久しく、町は再び静謐を取り戻している。
その中で、僕が心中に懐いたのは、きっとある種の安堵だったのだろう。
錦木さんの正体がリコリスであったことへの衝撃は未だ大きく、現実を受け止め切れていないことは事実だ。
しかしそれでも、そうであっても、彼女の振る舞いが、その考えが、冷徹に鎌を振るう死神のそれではなかったということに、一片の救いのようなものを僕は感じていた。
そして今目の前で繰り広げられた一連の攻防のその過程において何らの人的被害が出なかったということも、確かに喜ばしいことなのだと考えていた。
ただ、それはあくまで僕自身の心情的な話でしかない。
もう一つの観点――つまり僕の「仕事」という視点からすれば、この状況は依然として、大変に厳しいものだった。いや、むしろ確実に悪化していた。
その理由など、言うまでもない。
今の状況というのは、「DAの尖兵たるリコリスが、武器散逸事案の重要な参考人となりうる男たちを実力で以て制圧した」、という構図である。つまり普通に考えれば、その身柄の如何を決める権利はDAこそが持つことになる。あとからのこのこと僕が出張っていってどうこうなる可能性など、ゼロに近い。
ただそれでも、彼らは僕たちにとっても貴重な「証人」だ。殆ど唯一の手掛かりと言ってもよい。たとえDAから横槍と謗られようが、むざむざと彼らを持って行かれるわけにはいかなかった。
どうにか、できないだろうか。そう自問して、そして僕はその時に、「唯一の光明」をそこに見つけた。
それこそが、
リコリスという存在は、通常は決して表には出てこない。別の身分に身を窶すようなレベルの話ではなく、任務以外のタイミングではそもそも街へとは出向かないのだ。どこを本拠としているかもよく知らないが、それは兎も角である。
しかし彼女は、錦木さんは違う。
彼女の表の顔は、喫茶店の給仕さんということになっている。錦木さん自身は「看板娘」を自称していたような気がするが、まあそれはこの際誤差だろう。
大事なのは、彼女が普通のリコリスとは決定的に違うというその一点のみだ。そしてその違いを、僕は「交渉の余地」だと考えた。
確証はない。殆ど勘に等しい。それでも、不思議と的を外している気がしなかった。
錦木さんと顔見知りであるという事実も、そして彼女が今に至るまでに見せていた振る舞い――殺しを拒絶するという態度も、或は僕のその判断を後押ししたのかもしれない。
そうなれば、もうやることは一つだ。幸いこの瞬間なら青いリコリスの方は解放されたマル対の方につきっきりで、応対する相手は錦木さんに固定できる。
動くなら、今しかない。事態を打開したいなら、何かを変えたいのなら。そう自らに言い聞かせ、勇気をもってT字路から抜け出して、僕は足音を殺して歩き始めた。
そして彼女たちをはっきりと視界に捉えたとき、解放されたマル対に抱き着かれている青いリコリスの傍らで、錦木さんはどこかに電話をかけようとしていた。
――まずい。DA側の部隊への連絡だと、いよいよ取り返しがつかなくなる。
すぐにでも止めなければと、そんな考えのもとに、僕はその場所で敢えて足を踏み鳴らした。
たん、と乾いた音が、辺りに少し大きく響く。果たして電話のほうに集中していた錦木さんが顔を上げ、反射的に手に持った銃を僕に突き付けて――そして大きく目を見開いた。
「――え」
呼気に混じった、掠れた音だった。銃口が、ゆっくりと降ろされる。その声に振り向いた青いリコリスの怪訝そうな表情が、視界の隅に映りこんだ。
「どうして、ここに……真弓、さん……?」
少しだけ震えたような声色で、彼女から当惑の問いが向けられる。
ああ、この子でも予想外の事柄に直面すればこんな顔をするのか。
そんな、新たな錦木さんの側面を見れたことに場違いながらも小さな笑みを浮かべて、僕は徐に切り出す。
「その。……ごめんね、錦木さん。何も言っていなくて。――僕は、こういう者です」
もう後戻りはできない。そしてするつもりもない。
覚悟と共に、懐から「証票」を取り出して、彼女に提示してみせた。
錦木さんが、今ひとたびその目を瞠る。息を呑む音が、ここからでも聞こえた。
――警視庁公安部外事第五課第二係(汎テロ第一)、真弓隼矢。
それが、彼女に隠していた僕の本当の身分であり、本当の仕事だった。
原作内でのDAと公安の関係性はいまいち描写がなかったので、この部分は独自設定になります。
2023/2/19 加筆
2024/2/7 加筆。アニメとの矛盾点を今更見つけたので修正。