ミカさんに向かって切った啖呵を、断じて嘘にはしない。軒先で交わしたその誓いは、明日必ず果たしてみせる。
それを強く心に思い定めて、しかし僕は結局そのあとすぐに、一足早く帰宅の途に就くことになった。
次の日に向けての準備は、その多くがあの店にいながらにしてはできないものだったからだ。
思うところは、正直ある。店からの去り際に見た、ホールの中、カウンターに一人座ったままの千束の後ろ姿に対しても、後ろ髪を引かれるものがないとは決して言えはしない。
あの柔らかな白熱灯の灯りに照らされて佇む彼女の、手に持つアルバムに目を落とすその横顔に懐いた焦燥の念は、今もなお胸中に強く渦巻いている。
あそこで千束に、僕ができることはまだあるのではないかと、そう自問する声もまた、確かに心に響いていた。
それでもその傍らで、頭の中の冷静な部分が、内から僕に告げる。
今日の己にはあの場所でやれることなど、やるべきことなど何一つない。
千束のことも、たきなさんのことも、そしてリコリコのことも。
或は己の職責である、真島にまつわることにしても、その全てを掌から零したくないのなら、感傷よりも優先すべきことが、そこにはあるはずだろう、と。
それは、誰よりも僕自身がよく理解していた。時間は有限で、理屈は単純で、そこに感情を差し挟む余地は、きっとないのだろう。
だから僕はただ黙したまま、ミカさんにあとを頼む形でリコリコを後にした。
その逸る気持ちは心の奥底にぐっとしまい込んで、そこに燻る火種はきっと明日のための糧になるのだと、そう信じた。
果たしてその日の深夜、家へと戻っていた僕に、たきなさんからの連絡が舞い込んだ。
用件は分かり切っている。しかしそれよりもまず僕は、その連絡があった事実に彼女の無事を悟って、そして安堵した。
「DAという組織」の、「リコリスという立場」は、リコリコのスタッフとは根本的に違うのだ。そのことの指し示す意味を、僕はいつかの北押上駅の顛末の中でいやと言うほど認識していた。忘れたことなど一度としてなかった。
故にこそ、まさしく今たきなさんから報告のメッセージが送られてきたという事実は、僕にとってはその中身と比しても勝るとも劣らぬほどの意味を持っていた。たきなさん個人からしたら何と言うことはないのかもしれないが、それでもである。
斯くして僕は、届いたものの詳細に目を通すより前に、まずは一頻り胸を撫で下ろした。
そして今一度気を取り直してから、いよいよ内容を検めていく。
しかし――その頭の数行を読むなり、僕は思わず小さく溜息をついていた。
当然、それはメッセージの中身によるものだ。
つまるところ、やはりというか、今回の作戦は成功とはいえなかったらしい。
……いや、この際遠慮は無用だろう。
有り体に言って、彼らは失敗した。
曰く、アジトと思われる空きコンテナ船に、自分を含めた多数のリコリスで
正直なところ、その何気ない報告書然としたフレーズに、僕は肝が冷えていた。薄ら寒さすらも、覚えていた。
何となれば、それはまさしくこの間僕が危惧していたもの、そのものずばりであったからだ。
例えばの話、もし当のコンテナ船に爆発物の類でも仕掛けられていたら、彼女は今頃どうなっていたことかと、それを反射的に考えざるを得なかった。果たしてリコリスたちは、たきなさんも含めて、無事で済んだであろうかと。
そして同時に、こんな作戦指示をたきなさん達に出してきたDAのある種の
つまり彼女たちリコリスは、彼らDAという組織全体からみれば、所詮は代替可能な部品でしかないのだ。その程度にしか彼女たちのことを思っていないから、こんな不用心な動員の仕方ができるのだと、そう思えてならなかった。
だから結局のところリコリスの犠牲など、DA全体からすれば文字通り書類の上の
そういうものの考え方を、彼らは是としてきたのだ。まさしく、今の今まで。
静かな憤りが、胸中に拡がっていく。そのついでに、一つの推論もまた頭を過った。
即ち、普段の千束が彼らの言うことをろくに聞かないのも、こういう作戦運用の方針に原因があるのではないだろうか、ということだ。今更の話ではあるが、兎も角もしそれが正しいというのなら、彼女のDAに対するあの傍若無人とも言える態度は、正直宜なるかなとしか言いようがない。そう、鼻白む自分もいた。
そこまで考えて、それ以上の愚痴のようなものが頭を支配しかけたところで、僕は小さく頭を横に振った。
――いや、そうじゃないだろう。
呼吸を一つ、気を落ち着ける。こんなことでいちいち頭に血を上らせてはダメだろうと。
つまり当然のことながら、彼女の報告は、まだ続きがあった。いや、寧ろ彼女からすればここからが報告の本題なのだろう。
書いてあることは、大きく二つだった。
まず一つ目として、たきなさんは今回の突入作戦の中で映像通話越しに真島に対して吉松の行方を尋ねたようだが、彼はそれにはぐらかすばかりで何一つ確かなことは言わなかったらしい。
つまりこれはどちらかと言えばあまりよくない報せなのだが、しかしそれと同時に、そのとき彼と相対したたきなさんとしては、真島と言う男は恐らく吉松に関する何らかの情報を持っていると、そんな印象を強く懐いたのだという。当然、あくまでもたきなさんの主観の上ではあるが。
そしてもう一つが、これからの真島一味の計画を入手したことだった。
以前に捕らえた一味の男への尋問によって得られた情報だというが、それによれば彼らは明日、新電波塔として建設が進められている
図らずも、自らの中から今ひとたび、吐息が漏れ出たことを自覚する。
そこに載った感情は、どのようなものだったのか。それを言語化することは、どうにも難しかった。
ただいずれにせよ僕は、彼女の言うその「明日」という言葉に、以前公安課の連中が言及していた「噂話」のことを思い起こしていた。
「都内での混乱」、「治安システムへのダメージ」。そんな数々のフレーズが組み合わさって、たきなさんからの情報の外縁に結びついていく。
つまり彼ら公安課が言及していた情報は、まさしく真島一味の手によって積極的に流布された公算が高くなったということだ。状況証拠の全てが、明日という日の重大さをいやと言うほどに物語っていた。
そうなれば、次なる推論へと内心の矛先が向くのはほぼ必然のことだ。
真島一味が作戦決行の日時として、わざわざ明日という日を選んだ理由は、一体どこにあるというのか。腕を組んで、思惟へと沈む。
明日という日に、何があるのか。
なんということもない、ただの普通の日――ではない。
いや、お茶を濁す必要など、ないだろう。
即ち――明日は
その会場に予定されているのは、まさしく延空木の附近だった。
無論、というより当然の帰結として、そこは明日において多数の見物客による人出を見込んでいた。
事実が、推論が、繋がって一つの絵を描き出す。それが示唆する彼ら真島一味の狙いというのは、どこまでも単純なものだ。
彼らは、その満座の観衆の中で堂々とテロを起こすことを、志向している。いや、むしろその観衆すらも巻き込もうとしているのだろう。
全く以てふざけた話だ。しかしそのことについて、どこか納得している自分もいた。
つまり真島が目論むのは、十年前の焼き直しなのだ。彼がかつて参加し、部分的な成功を収めたが最終的には鎮圧された、大規模テロ事件――旧電波塔事件の再来こそが、彼の、いや彼
同時にその気づきこそが、僕に指し示していた。
これからなすべきことは、打たなければならない手とは、果たして何なのかを。その道筋に至るまで。
それに促されるままに、僕は動き出した。
始まりは、然るべき相手への情報の共有からだった。DAが真島と対峙することを決めてからというもの、こちらとほぼ二十四時間体制で情報を融通し合っている内調へと、今回のたきなさんからの報告とそれを基にした展望について連携をかける。
それに対する反応は、もはや劇的とも言うべきものとなった。
深夜も深夜、日付が変わるかどうかという時分での連絡だったにもかかわらず、彼らはすぐさまこちらにレスポンスを返してきた。
どうやらあちらのほうも、昨日今日のDAの動きにはかなり神経を尖らせていたらしい。僕からの情報を踏まえてだろう、彼らはそのまま稟議すら上げることなくその場で、即決かつ特急での対応を確約した。
その要諦は、三つからなる。
一つ、真島一味が明日の式典で何かのアクションを起こす可能性に備えて、DAの動向如何では自衛隊の治安出動を可能にするために、事前レクを実施すること。
二つ、都民の安全上必要であると認められる場合、すべてのテレビ放送事業者に対して、全域的な避難呼びかけを政府から指示できるよう、超法規的対応の検討を進めること。
三つ、それに伴って、全国に対するテレビ放送網の管理をしている民間のテレビ中継回線の担当者*1に、明日起こる可能性のある前述の事態に備えた待機態勢を依頼すること。
どれもこれも、広域にかつ後戻りのできないインパクトをもたらす、前例のない対応だ。
しかしそれでも、明日の午前中までにはその全てを終わらせると、そう彼らは断言した。
思惑が重なる。その日、明日という一日が焦点となって、そこに全ての臨界が集中していくのは、偶然か、必然か。或はそれこそを、「運命」だとでも言うのだろうか。
――馬鹿げた話だ。そんなことをちらと思った自分を、内心で自嘲する。
そんな決定論的なありようを、僕は是としない。したくもなかった。
なんとなれば僕はただ、僕の意思でのみ動くからだ。
真島と雌雄を決すると思い定めたのも、DAと真島の諍いに必要とあらば介入することを選んだのも――そしてなにより、千束を諦念と死の畔からなんとしても引き戻すことを心に強く誓ったのだって、すべては僕の選択だ。他でもなく僕が、己の責任で、なすべきこととして、決めたものだった。
そうあるべきだし、そうありたかった。ずっと、そう思っていたのだから。
斯くして夜は更け、時は静かに過ぎていって――いよいよ、
その日、つまり明けて次の日の朝、午前も早くから喫茶リコリコに出向く僕の胸中には、ざわめきと静けさが、確かに同居していた。
それは不思議な感覚だった。今日と言う日の重さは全身に強くのしかかっていて、それでもその中に懐く使命感の如き心情が、確固たる覚悟のようなものが、冷厳なる支柱となって屹立している。
そんな内心に、声なき声が囁く。
どのみち歯車は動き始め、誰にも止められはしないのだ。ならばもはや是非はなく、その中で為すべきを為すことが、今日の僕の全てなのだと。
その音にならない言葉に支えられて、僕はとうとう喫茶リコリコの表口の前にまでやってきた。
一つ深呼吸をして、眼前に佇む出入口の扉を見遣る。そこには昨日の夜、千束が作った「閉店のお知らせ」の貼り紙が掲げられて、微かな風の流れに揺れていた。
そのたった一枚の紙が齎す感慨に、思わず目を閉じる。
そうだ。これこそが今日、僕は立ち向かわなければならない
それをしかと心に刻んで、そして僕は徐に表口の扉に手をかける。そこで一度呼吸を入れて、そのまま一息に開け放った。
鳴り響いた鈴の音はどことなく、なにかの戦いの号砲のようにさえ、僕には聞こえた。
中に入ると、千束がリコリス制服を着てカウンターに座っているのがまず目に入った。
「あ、隼矢さんおはよー」
こちらを見て、ひらひらを手を振ってくる。いつものように気負いなく、それだけ見れば日常の一コマのような、さりげない態度だった。
ならば僕も、気取られるような振る舞いで当たるべきではない。胸にこみ上げたものを強引にしまい込んで、平静を意識して、千束の方へと歩み寄る。そしてとりあえず、事実だけを伝えた。
「昨日、たきなさんから連絡があって。真島はやっぱり、アジトにはいなかったって」
「そうなんだ。ま、そりゃそうだよねぇ」
彼女のその反応は、昨日の失敗については初めから織り込んでいたかのようだ。最低でも、僕にはそう見えた。
それもそうか、と思う。本拠地について嗅ぎつけられたことが分かっておいて、そこにいつまでも居座るような間の抜けた輩であれば、ここまでDAも苦労などしていないのだから。
そう考えれば、やはり千束が昨日の作戦に参加しなかった理由としては、DAの見立ての甘さ、杜撰さというものを看破していた部分も間違いなくあったのだろうと思わされた。まさにそれは、見事な洞察力と言うべきなのだろう。
「それで、今日だけど」
うん? と首を傾げた彼女に、言葉を続ける。
「あいつらは、延空木を狙ってる」
それを聞いた千束は、困ったような笑みを浮かべた。
「『電波塔よ、もう一度』って? 困ったもんだねぇ」
こりゃ私も呼ばれるわ。そしてそう呟く。
当たり前と言えば、当たり前だ。大規模テロの発生が予期できるような状況で、リコリスの最強戦力として未だに君臨している彼女がそこに呼ばれないわけがない。
そしてきっと、その命令は相当の強制力を持つことになる。昨日のようなある種の
「もし参加する場合は、渡したい装備があるから、受け取ってほしい」
「装備? なになに、なんか面白いもの?」
だからこそと言うべきか、或は僕の言葉に興味を惹かれたか、こちらに身を乗り出して訊いてくる千束を、一度手で制する。
「詳しい話は、その時にさせて。けどまずは、片付けの手伝いをするよ。延空木の式典が、始まるまではね」
僕はひとまず、そこで話を切り上げた。そしてこちらを見たままの千束を尻目に、手荷物を置きに更衣室へと足を向ける。
――兎も角、まずは昨日の手伝いの続きから始めよう。
「その時」に向けての心の準備を整えるのにも、それはうってつけに相違ないだろう。そんな心積もりも、確かに胸に懐いていた。
僕がバックヤードで片付けを進めている間、何人かの常連客たちが血相を変えて飛び込んできた。
考えることは、誰もが同じだ。あまりにも急なリコリコ閉店のお知らせに皆一様にびっくりして、そしてそれを心の底から惜しんでいた。
そんな彼ら彼女らを迎える立場の千束は、もはや片付けがどうという話ですらなく、ひたすらにその対応に追われることになっていた。
怒鳴り込んでくる人がいた。泣き落としをしかけてくる人もいた。しかしその全てが、このリコリコという店への愛着の表れであることは違いがない。
それを感じ取ったか、千束は応対に辟易しながらも、しかしどこか楽しそうで、そして歓喜の滲んだ笑みを浮かべて、次々と訪れる顔なじみの客たちと向かい合っていた。
その姿を、情景を見て、僕は静かに心中で決意を新たにする。
この現状は、間違いなく錦木千束という少女の人徳によるものなのだろう。この店を愛すべき場所であると思うその理由を、看板娘を自任する彼女に置く人々が数多いことを、僕はよく知っている。
そしてそうであるからこそ、そんな千束をこのままにしてはおけないのだ。
何となれば僕もまた、間違いなくその一人なのだから。
そんな彼女だから、それを諦めて、手放して、思い出の中に飾られるだけの存在になど、決してさせはしないのだと、そう心に決めているのだから。
店の灯りが照らす白金の髪が、挙措に合わせて弾み、湛える輝きを辺りに振りまく。
その千束の後ろ姿は、次々とやってくる常連客たちにかけていく言葉は、その声色は、僕に斯くなる思いを強く再認識させるにはあまりに十分なものだった。
一方その裏では、DAのホットラインからの連絡が矢継ぎ早に飛んできていた。
その通達に曰く、彼らは墨田区を中心とした東京都区内の広いエリアに交通規制を敷き、リコリスたちを延空木周辺に集中配備していると。
また曰く、延空木の式典開始の一時間前である午後二時前後を目途に、当の延空木への強制突入を始める予定であると。
随分と物騒な話だし、強引なやり方にも映る。それが、僕の第一印象だった。
彼らDAの信条は、本来ならば自らの行動指針にそのような「大立ち回り」を含めることを許しはしない。
ただ、影から影へ。そして闇から闇へ。
人知れず全てを終わらせて、表層の世界の平穏を取り繕い、或は保ち続けることこそが、彼らのモチベーションに他ならない。そのはずなのだ。
だから僕に言わせれば、今の彼らが意図しているその
だとするならば彼らがその脳裏に描いているものは、いるもの
――今度こそ、守り切るのだ、と。あの惨禍を二度と繰り返してはなるものかと。そんな、声なき声を聞く。
そしてそのためも、今日起きる、起きたことの全てを力づくでも消し去ってみせようと、そう思っているかもしれない。他の誰にも、知らせないままに。
気持ちは、理解できる。DAの在りようが彼らにその道を取らせることも、或は考慮の中に入ってはいた。
しかしそれでも今回に限っては、彼らの目論見はすでに破綻している。
……否、それは正しくない。
DAからすれば、それは裏切り行為なのかもしれない。いや、一面においては間違いなくそうなのだろう。
しかし僕は、それが今の局面における最適解であることを、一つも疑っていなかった。
DAのことの進め方に直感的に懐いた危機感が、僕に内調への逐次の情報連携という行動を取らせていたのだ。
その危機感の言語化は、そう難しいことではなかった。
端的に言えば、DAは無理をしている。不可能に近いことを強行しようとしている。そう僕は考えていた。
これは言うまでもないことだろうが、こうも大がかりになった事態を、そもそも全て隠し通そうというのは固より無理な話なのだ。
横車を押そうとしても、必ずどこかにひずみが生まれる。そして実のところ、そのひずみこそが真島たちが手ぐすね引いて待っている事態なのではないかと、僕は直感していた。
つまりこの、ある種「劇場型」とも言えうべきテロを企てている真島一味が、その遍くを秘密裏に処理しようと目論むDAのやりようを前にして、ただ黙って指を咥えて見ているばかりとは、とても思えないのだ。彼らにそんなフリーハンドを、与えるはずがない。
DAに無理な動きを強いて、そして生まれた隙をついて、彼らは何らかの狙いを果たそうとしている。或はそれこそが、真島たちの本懐とも言うべき何かなのかもしれない。そんな直感が、僕の頭の中にはずっと居座っていた。
そういう意味では、彼らDAは図らずも真島の土俵に上げられてしまっている。真島一派が作り、そして整えた土俵の上で、DAは奴らに勝負を挑もうとしている。
それが、僕が考える現状の構図だったのだ。
だからこそ僕は、自らが考え、内調が用意したこの「政府による暴力装置」の存在が、いつかどこかのタイミングで切り札として機能するかもしれないと、そう考えていた。
即ち、彼ら内調との合意事項は、二つであった。
その一つは、基本的には、DAの動きを阻害しないようにすること。
そしてもう一つ――万が一の事態に発展したとき、
DAと真島、その双方が考えもしない場所から入る、それは強烈な奇襲攻撃とも言うべきものだ。そして同時に、DAという謎の保安組織のやりたいようにやられている日本という国の治安維持システムそのものに、メスを入れるきっかけにすらもなりうる。
それは僕や内調、それに公安まで含めた「僕たちの側」の共通認識であり――そして同時に、
誰もが妥協を許さず、事態は加速度的に拡大を続けている。それぞれの思惑が絡み合い、局面は臨界点に達しようとしていた。故に時間は、もうあまり残されていない。
そろそろ、動き始めるべき頃合いだった。
今日こそが正念場と定めたのならば、僕もまた己の為すべきことを、果たさなければならないから。僕のもう一つの戦いを、始めなければならないから。
千束に
刻限は、いよいよ以ってすぐそこにまで近づいていた。
午後も二時過ぎになれば、リコリコ閉店の報を聞きつけて店に駆け込んでくる常連たちの姿もようやく見えなくなってくる。
激動とも呼ぶべき時は過ぎて、この場には久方ぶりの静寂が戻ってきていた。
宴の後が如くのこのホールの中、千束ははっきり疲れたような、しかしどことなく満足げな表情でカウンターに突っ伏している。そしてそれをミカさんが、カウンターの向こうから穏やかな表情で見つめていた。
その場を満たすのはどこか弛緩したような空気だ。ならば今こそ、僕は僕の
そう一念発起して、僕は千束に声をかけるべく彼女の側へと足を踏み出さんとした。
しかしそんな僕を見てのことだろうか、それにワンテンポ先んずるような形で、ミカさんが千束へ話しかけた。
――曰く、見せたいものがある、と。
そんな言葉で千束のことを
この店の地下は、基本的には弾薬庫となっている。主にそれは千束やたきなさん、或は時折狙撃手としての任に当たるミカさんの、
そのほかには射撃場も備え付けられているが、ともかく総じてあの場所は、些か以上に物騒な「物置」とも言うべき空間だった。そんなところで彼らは十分もの間なにやらごそごそと作業をして、その末に何かを持って戻ってきた。
一見して、横辺の長い桐の箱だ。武器の類を入れておくにしては、やや華奢な印象を抱かせる。彼らのそれを抱える手つきの丁重さも、僕のその認識を補強していた。
僕が黙して見守る中、二人は座敷の卓袱台の上に、それを静かに据えた。
一瞬の静寂がやってくる。三人黙したまま、見慣れぬその箱に視線を注いでいた。
そのまま、一呼吸か、二呼吸か。たっぷりその程度の時間を置いて、ミカさんが千束に声をかけた。
「お前のだ、開けてみろ」
そう促された千束が座敷席、箱の前へとしずしずと歩み寄り、そして座った。徐に両の腕を広げて箱の隅に手をかけ、ゆっくりと持ち上げていく。
木と木の擦れ合う乾いた音が響いて、しかし程なくしてすんなりと取り払われた箱の蓋を脇に一度置いてから、千束がその中身を覗きこんだ。
僕もまたそちらへと目線を向けて――飛び込んできた
そこに広がるのは、
「着物……?」
僕と千束の声が、重なった。
――待て、待ってくれ。
内心に俄に焦りが生まれた。
どうして。信じられない。この人は、なんということを。
「お前の、晴れ着だ」
ミカさんが言う。そうだ、それは振袖だ。
なぜ今、それをここに引っ張り出したのか。言うまでもない、千束に着せるためだ。
それの意味するところは、僕には分かる。分かってしまう。
そうだ。
――彼女はもう、生きて成人する時を迎えることができなくなったから。
――この振袖を使う時が来ないというのならば、せめて今、そんな彼女の餞に、着させてやりたいのだ、と。
頭に、血が上った。
「待って、下さいよ」
思わず、声が出ていた。自分でもわかる、掠れた声だった。
「まさかこれを、千束に着てもらうなんて、言うつもりじゃありませんよね」
ミカさんを見据えて、そして千束の方を見る。
それは問いかけであっても、確信に等しい。
「……そのつもりだったが」
故に彼がそう口にした瞬間、気づけば僕は彼に掴みかかっていた。両襟を、手で掴んで揺すった。
「言ったでしょう! 僕はまだ諦めてない! 何で来年まで待てないんです!? 千束は、千束はまだ……ッ!」
「もういいよ。もういいって、隼矢さん」
そして言い募る僕の後ろから、声がする。千束だった。
「言ったでしょ。私のためにみんなの時間を奪っても、しょうがないって。もともと生きれてもこれぐらいだったって。だからそれ、着させてよ」
先生も、そうして欲しいんだから。
いつもの調子で、彼女は言う。いつもの、達観した、頼もしげな声で。
はっとして、僕はミカさんを見た。
彼もまた、僕を見ていた。真剣な眼差しで、見つめていた。
襟を掴んでいた両の手から、力が抜ける。支えを失って、重力に従うように、ずるずると垂れ落ちていく。
気づいたのだ。彼の思惑を読み違えていたことに。
これを持ってきたのは、彼女のためであっても、しかし彼女だけのためではない。
僕のためだ。僕に覚悟を、決めさせるためだ。きっかけを、作るためだ。
手を下ろして、千束を見る。彼女もまた、こちらを見返した。いつもの笑顔のままに。
しかし、僕は知っている。
その超然とした態度と、全てを理解し包み込むような笑みは、諦めからくるものなのだと。
今から僕が戦わねばならない、
「……話をしよう、千束」
だから僕はそう一言だけ発した。
それはまさしく、宣戦布告だった。
「『私のために、みんなの時間を奪いたくない』、だっけ」
「うん、そうだよ」
声色一つ変えることなく、彼女は答える。
尊い信念だ。しかし同時に、それは覆さなければならぬ前提でもあった。
首を振る。そして、言葉をぶつけた。
「でもそれは違う。違うんだ、千束。時間を奪っているなんて決めつけて、それは
強い言葉だ。自分でも思う。今まで僕が彼女にかけてきたものとは、似ても似つかない。
だからこちらを見る千束のその表情だって、どこか怪訝そうな色を帯びていた。
宜なるかな、だろう。彼女からすれば、僕がこんな言い方ではっきりと自らの言うことを否定するなど、きっと想定すらもしていなかったはずだ。
「傲慢って言ったって……だって事実じゃん」
その証左にか、返ってきた声にはどこか戸惑いの響きがある。ただそうであっても、もはや僕の心は動かなかった。
決意を固く、意志を強く持つ。腹に力を入れて、一息に言い切った。反駁した。
「事実なんかじゃない。僕も、クルミも、たきなさんだってそうだ。君を助けたいと思ったのは、自分の意思なんだよ。生きていてほしいと、
分からないとは、言わせない。目にそんな意思すら込めて、まっすぐに千束を見据えた。
つまりそれが、まずは端緒だった。伝えなければならない僕たちの前提だった。何日か前の雨の日に、この店のカウンターにて至った、千束を除いたリコリコの人々の総意だった。
ただ、それが彼女の心中に何かの響きを齎すとは、齎せるとは、僕は思っていなかった。その
たっぷりの沈黙を経て、そして彼女は案の定、僕の言葉に首を振った。
「だとしたら、それはダメなことなんだ」
穏やかな声だった。優しい、平らかな声だった。言い含めるような、声だった。
しかし僕にとってそれは、どうしようもないほどの頑なさの表れにすら思えた。
「隼矢さんも、みんなも。私をそうやって助けてくれようとしてるのなら、それはとってもありがたいことだと思う。でもね」
息継ぎを一つ、まっすぐに僕を見て、続ける。
「私はもともと、
目を閉じる。口元に浮かべる笑みは、過去を愛おしむ故に自然と出たものだろうか。
胸元で祈るように手を合わせ、千束は指を組む。天窓から舞い降りる光が、柔らかにその姿を照らした。浮き上がるその輪郭は、清らかさすらも孕んでいる。
――ねえ、隼矢さん。
唇が開いて、言葉が落ちてきた。
「私とお別れするのを惜しんでくれるのは、本当にうれしい。私との時間を、隼矢さんが大事にしてくれてるってことでしょ? ……だけど、それでも、お別れの時は、いつか必ずやってくる。隼矢さん、あなたにだって」
歌うように軽やかに、慈愛に満ちた声色で、彼女は紡ぎ続ける。まるで僕が、聞き分けのない子供にでもなったような、そんな気分にさせられた。
「私は、それがちょっと早くなっただけ。だから、最後は笑ってよ。私を、笑って送り出して。最後まで、楽しくやろうよ。そうでしょう?」
――ね?
目を開く。言って、首を傾げた。僕を見て、千束は未だ穏やかな笑みを崩していなかった。
それで僕が引き下がると、納得すると、彼女はそう思っている。そうせざるを得ないと、確信している。そういう態度だった。
そうだ。それほどまでに彼女はきっと、その理屈に宿る正しさを、疑ってなどいなかった。
彼女にとって、それこそが絶対の真理なのだ。今までも、そしてこれから先、彼女の終わりの時に至るまで。
気づけば、右手を強く握っていた。
そうだとも、僕は
彼女は、自らを偽らない。相対するものには、誠意を持って当たるのだ。だから今も、僕にその内心を開いてくれている。それは分かっている。
故に何度も何度も、誰もがここまでたどり着いて、そしてきっと跳ね返されてきた。
ミカさんだって、たきなさんだって、そして、今の僕だって、そうだった。
なぜなら、それが彼女の嘘のない気持ちの表れだと、誰もが気づいてしまうから。
だから、それでは駄目なのだ。それだけでは足りないのだ。
彼女の口から語られる、彼女の「本心」ではない、そのもう一つ奥を、探り当てなければならない。
なんと残酷な行いであろうか。そんなことを考える。彼女を今の美しい在り方のままでいさせることに比べて、それはどれほどまでに罪深いことなのかと。
けれどもそうしなければ、そこにある彼女の源泉を、諦めを踏み越えて進まなければ、僕の声は、みんなの声は、彼女には届かないのだ。
彼女を、救えないのだ。
だから、僕は進む。ここまで来て、引き返せはしない。
たきなさんにも、クルミにも、そしていま後ろにいるミカさんにだって、僕は約束したのだ。
千束を、絶対に死なせないと。その諦めを、砕いてみせると。
そして何より、僕が、僕自身が、強く願っているのだから。
憎まれても構わない。嫌われても。或はここでお別れになったとしても。
それでも千束には、目の前の少女には、ただ生きていてほしいのだと。
覚悟を決める。彼女を見据えた。ゆっくりと口を開いて、そして――
「そうやって、君は
努めて低い声で、そう彼女を
そこで初めて千束の瞳の中に、僕は狼狽の色を見た。
「逃げる? 何を、言って」
「だってそうだろう? 君は自分の理屈に引きこもって、人の言うことを理解しようともしていないじゃないか。僕だけじゃない、たきなさんだって。あの子は君を助けたいと思ったから、最後まで悩んで、それでDAに戻ったんだよ。一昨日、君はたきなさんからそれを聞いたはずだ。分からないとは言わせない。知らないとは」
千束が押し黙る。そして俯いた。
じくじくと胸が痛む。言いたくて言っているわけではない。それでももう、止まれない。止まる気もなかった。
「君の理想は尊いものだ。その心根も。だから僕は君との時間が楽しかった。得難いものだと思った。だけど」
喉が震える。呼吸を一つ、何とかそれを抑え込んだ。そして彼女の伏せられた顔を睨みつけるように、言葉をぶつけた。
「今の君は、逃げている。諦めている。戦おうともしていない。みんなの手を振り払って、一人で勝手に死のうとして、誰もそれを望んでいないのに。だから今の君の周りでは、誰も笑ってなんていないじゃないか。……そうさせたのは、君なんだぞ」
敢えて、そう詰ってみせる。彼女の理想と、現実の差を突きつけた。
彼女が望むものは、今の彼女の振る舞いからでは決して得られないのだと。
僕のことはいい。それでもせめて、クルミやたきなさんが何を思って千束に接していたのか、それに気づいてくれと、祈りすらも込めていた。
しかしそれに、彼女は答えない。
そのままの、しばらくの静寂の後に、千束はゆっくりと顔を上げた。
覗いた瞳の色に、僕は膠着していた事態が動き始めたことを理解する。
「そうだって、言うなら」
瞳孔が、開いていた。眼差しも、刺すような鋭さに溢れている。
即ち、
静かな声で、言葉が続く。
「誰が一体、そんなことを頼んだ」
一歩ずつ、近づいてくる。彼女の纏う空気に、寒気すらも覚えた。
「誰が、『生きたい』なんて言った」
重ねられる言葉には、荒れ狂うほどの憤りが滲んでいる。発される声色は、今まで聞いた彼女のそれの中で、一番に低く、硬いものだった。
或は手すらも上げられるかもしれない。心中で、覚悟する。
「頼んでもいないのに、お節介もいいところだよ、隼矢さん。……放っておいてよ」
「嫌だ」
「何でッ!?」
僕の短い拒絶の声に、大音声を以て返す。彼女はもはや、僕のことを睨みつけていた。
「さっき言ったでしょッ!? 私は、もともと
血がにじむような叫びが、渦巻く悲憤が、僕の耳を強かに打つ。
「ヨシさんには助けてもらったけど、それでもその時間はいつか終わる。……私には『約束』があるんだ。人を助ける、人のために私の時間を使うって、そう決めたんだ」
震える声で、それでもはっきりと、言葉が続く。
「逆じゃダメなんだ、みんなが私のために時間を使うなんて、絶対にダメなんだよ、それは。だってみんなの時間は、生きているみんなのものなんだから。それさえも私が奪うなんて、そんなの私には無理なんだ。無理なんだよ」
見えたのは、怯えだった。
命を与えられ、時間を与えられ、しかしそれを無為にしてしまう。自らの約束に悖ることに対する、どうしようもない恐怖が、そこには表れていた。
そうか、と、僕は理解した。それが彼女の、本当の意味での原点か、と。
あの「諦め」に見えた態度も、超然とした振る舞いも。いつも崩すことのない、余裕も。
彼女は、自分を世界の異物と認識している。生きているはずのない存在による、十年間のロスタイムこそが、今なのだ。そう、彼女は自らを規定している。してしまっている。
だから、死を恐れない。別れも、また。
彼女の情動の源泉が、ようやく覗いた。そう思う。依怙地にも見えた彼女の態度と、それの裏に存在した、全ての根幹をなす「懼れ」の念が。
この期に及んで、僕たちがどれほどの努力をしていようが、彼女は自らを生き永らえさせるべきものだと、端から思っていないのだ。
だったら、教え込もう。気づいてもらわなければならない。
確かにそれは、何度目か分からない焼き直しの言葉になるのだろう。それでも今ならば、彼女の心に届くかもしれない。そうあってほしい。
沈黙を切り裂くように、口を開いた。
「君の言いたいことは、分かった。でも、僕は自分の考えを曲げる気はない。絶対に」
「……どうして」
「どうしてもこうしてもない。理由ならずっと言ってきたよ」
そうだとも。ずっとずっと、僕の拠って立つ願いの形は、変わってなどいない。
だから結局、僕のやるべきことは変わらないのだ。言うべきことも、やりたいことも、何一つ。
「――それでも僕は、生きていてほしいんだ。
問われれば、何度でも言おう。引き下がるつもりなど、微塵もなかった。
千束が、俯く。そこから顔を上げずに、問いかけてきた。
「私が、頼んでいなくても?」
「頼んでいなくても」
「私が、生きたくないって、言っても?」
「死にたいのか? 千束、君は」
僕の問いに、彼女ははっと顔を上げた。
「
「それは……」
口ごもる。……
直感する。今こそが質すべき時だった。千束の心の奥底を浚おうとするのなら、恐らくここにしか、道はなかった。
故に僕は心に定めて、一つの問いを投げかけた。
「敢えて、訊かせて。逃げないで、答えてよ。……君は、生きられるのだとすれば、生きたいのか、どうか」
答えない。
「前提条件なんてない、できるかどうかだって。使命とか、義務とかも、全部全部、忘れて」
答えない。
「君に、訊いているんだ。君の『時間』に、訊いているんじゃない。『約束』にでもない。
彼女は、答えない。
「答えてよ、お願いだから。正直に言っただろ、僕は。君に、死んでほしくない。生きていてほしいって。それが、今の僕の全てだって。……だから、君の番だ」
呆然とこちらを見ていた千束が、目を逸らした。視線の先にはミカさんがいる。助けを乞うが如くの目線を、しかし彼は首を振って拒絶した。
唇を噛みしめながら、彼女はまた一度俯く。沈黙が、場を支配した。
僕もミカさんも、千束の答えを、千束自身の答えを、待っていた。
「わかんない。わかんないんだよ、隼矢さん」
ぽつりと、呟くような言葉が落ちてきた。
ゆっくりと、顔が上げられる。見えたのは、寄る辺を失った幼子のような表情だった。
震える唇で、掠れた声で、続きが紡がれていく。
「……ううん、違う。
思わず、目を見開いていた。
「生きたい」と、今千束は確かに言ったのだ。ついさっきまで、生きることを諦めていたはずの彼女が。
「千束……」
「でもね、それと同じくらい。『そうまでして生きたくない』って、思っちゃうんだ」
しかし彼女は続けざまに、打ち消すように口にする。
どうしようもない、狂おしいほどの葛藤が、そこには見えた。
「そんなにみっともなく、生きることにしがみつきたくないって。なのに……」
息を吸っても、吐き出される呼気に音はない。なおも言葉を探そうとして、しかし見当たらないのだろう。
震える右手を抑えるように、千束は自らの腕を掴む。ぎゅっと、強く握りしめられた。
「わかんないよ……隼矢さん……」
こちらを茫然と見るその目から、一筋の涙が零れた。
少しだけ、想像してはいたことだった。それでも、その姿にどうにも心乱される自分がいることを、自覚する。
分かってはいるのだ。僕は今、彼女のことをひどく傷つけているということは。
確かに、どうしても必要なことではあった。そうしなければ、彼女の「本当」を知ることはできなかったから。
それでも悔悟の念を懐かないわけではない。大事に想う人のことを自らの手で傷つけて、喜ぶ者などいはしないだろう。
両の手を、強く握る。ならばこそ今、僕は伝えなければならない。
彼女が、分からないというのなら。生きたいという願いにかけるべき錘が、まだ足りないというのなら。
最後の一押しをするのは、僕だ。想いを告げるべきは、僕なのだ。あの時クルミがそう言ってくれたように。
「生きてほしい」だけでは、きっと足りない。何度も言ったその言葉では、そんな凡百な台詞では、それがどんな切実な願いや祈りだろうと、彼女には永遠に届かない。
「だったら――」
だから僕は、千束の手を取った。止まらない涙に戸惑って、目元を頻りに拭っている、彼女の手を。
そしてその場所から、全霊の想いを言葉に載せた。
「だったら、僕のために生きてくれ」
真っ直ぐに見据えた目線の先で、彼女が息を呑んだ。
「君と会えたから、僕は毎日が楽しくなった」
一つ一つ言葉を選んで、僕は己の中の伝えるべき心情を、口にしていく。
「君と一緒に過ごせたことが、僕にとっての一番大事な思い出になった。幸せだったんだ」
もはや僕は何一つ、隠すつもりなどなかった。
それはあの日の、中野の展望台で言ったことの、焼き直しかもしれないけれども。
「だから僕はもう、元には戻れない。戻りたくないんだ」
全てをさらけ出そう。醜い内心も、独り善がりな本音でさえも。
そうだとも、僕は弱いのだ。そしてその弱さゆえに、千束を繋ぎ止めたいと、誰より強く思っているのだから。
「君がいなくなったあとの時間を、どう生きればいいのか。わからない。耐えられない。だから、お願いだ」
だから最後、そのまっすぐな願いを叩きつけて――
「生きてよ。お願いだから。生きることを、諦めないでよ」
僕は、千束のことを抱き寄せた。
驚いたように身を震わせる彼女を、その動きごと抱き竦める。
そのまま暫く、僕たちはそうしていた。彼女は、抵抗しなかった。
どれくらいの時間が経ったか。一分ほど、そうしていたか。
腕の中の千束が、身動ぎをする。顔を上げて、僕を見た。
彼女は、笑っていた。
「……しょうがないなぁ」
「千束……?」
吹っ切れたような声がする。少しだけ充血した目の奥に、戸惑うばかりの僕が映っていた。
抱きしめたままの両の手が、こちらを押しのけようと動く。逆らうことなく、僕は自らの腕に籠めていた力を緩めた。
互いの身体が離れていく。彼女は二歩ほど後ずさり、後ろを向いて、振り返った。
「わかったよ、私の負け」
困った人だ、とばかりの響きが、そこにはあった。
千束が向き直る。口元に浮かんだ笑みはそのままに、二度三度と小さく頷いた。
そして目を瞑り、どこか噛み締めるように、自らに言い聞かせるように、口にした。
「生きようって、思ってみる。生きるんだって、私は。……でもほんとに、できるんだよね?」
問われたそれに、僕はちらりとミカさんの方を見る。
視界の向こう側では、彼もまた僕の方を見ていた。
――できるのか。
――いや違う。やるんだ。そう、決めたのだから。千束からその望みを、引き出せたのならば。
無言のうちに問い合って、しかし答えは初めから己の中にあることを、僕は知っている。
故にその時間はほんのわずかのことで、僕は今一度千束に視線を合わせた。
ただ一度だけ、頷く。それを以て、誓いとした。
「絶対だ。死なせないよ、君のことは。どうあっても」
「そっか。……あ、だけどね」
言葉を切って、彼女は僕に指を突きつける。
「誰かと引き換えに、私を助けるなんてのは、なしだからね。それだけは、絶対守って」
その姿勢のままに念を押すように出てきた言葉は、僕にとっては言われるまでもないことだった。
千束の望まぬ形で、千束の望まぬ生を享受させても、彼女にとってはもはや「死んでいない」のと変わらないだろう。
そんなことは、僕もまた望んでなどいなかった。
だから今、僕は約そう。
向けられた琥珀の双眸を覗きこむように見据えて、力強く頷く。
そして、短くもきっぱりと言い切った。
「――わかってる。約束する」
果たして僕のその答えに、千束は花咲くように笑う。
見つめ合う目線が結んだ二人の世界の中、頷き返した彼女との間に、もはや言葉は必要なかった。
「リコリコのここを解決してほしかったポイントその一」のお話。
原作では千束は結局、一言も自分から「生きたい」と言っていないんですよね。なぜなら彼女はぶっちゃけ終活中だから。
でもなんだかんだたきなが頑張って、なんだかんだミカさんが吉松から心臓を奪って(スーツケースにあったかどうかは解釈分かれるでしょうが)、結果として千束は助かりました。助かってしまいました。
全部流れで進んで、彼女の意思を抜きにして、そして彼女は助かった。それ自体はよかったんですが、そこに千束自身の意思はないわけで。
終活中の人間である千束に、生き延びる意思をなんとかして発露してもらう。このプロセスは、本来的には必要だったはずのものだと考えています。
そしてこれに関しては本当はたきなかミカさんにこそ期待される役割なんですが、とはいえこの二人が千束相手に口論しかけて勝つ姿が想像できないんですよね。千束に負い目とか恩とかがある二人では、どうしても千束自身の固い意志には逆らえないので。
ということで、このどうしても足りないピースを、作者はオリ主という形で埋めることを考えました。この二次をオリ主ものにした理由の一端は、ここにあったりします。
(12/25 11:58) 表現の一部修正