世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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「さよなら、幼き日々」。

あの輝かしくも懐かしい日々は、いつまでもこの胸にあって。
それはきっと今までの、生きる力になっていたけど。
それは新しい世界には、きっと持って行けないものだから。
だから今その全てに、さよならを言うことにしたんだ。



#0x0C Farewell, my childhood (原作十二話)
#0x0C Farewell, my childhood (1/2)


 戦いは、未だ続いている。

 

 一定の距離を保って牽制をひたすら繰り返し、引き撃ちに徹しながら千束は逃げ回っている。

 当然にそれは僕の指示だ。終わりが分かっている遅滞戦術ほど、気が楽なものはない。あからさまな遅延行為を続けて、相手が痺れを切らして強引に攻め手を作ろうとしてくれるのであればそれはそれで結構と、千束はもはや自分からリスクを取るつもりなど何一つないようだった。展望デッキに何か所かある陥没した地面の手前でも、千束は綺麗に真島と交錯し、徹底的に距離を取っている。

 対する真島も、音響定位の精度では中距離以遠を保ち続ける千束に対して取れる手立てはないらしい。端的に言えば攻めあぐねていて、結果としてここ暫くのところお互いに有効な打撃を与えることなく、戦局は膠着していた。

 それを片目で見ながら、たきなさんと連絡を取る。

 まずキャットウォークを使って途中までは進み、道中にて千束の置いていったポンプアクションライフルを拾ってもらう。今度は敵影がないということもあって、件のライフルを持って動いていても危険は少ないだろう。

 当然、勿体ないからという理由もある。しかしそれ以上に、かのライフルには明確な使い道を想定していた。

 つまり、最終的に展望台に突入する時に必要になるのだ。僕はたきなさんに対して、シャッターと窓ガラスを破壊して外からの侵入を目指すことを指示した。

 事態は急を要する。千束と同じルートでの侵入は時間もかかるし、そもそもシャッターによって光源の一切が絶たれている今、特に暗視装備のないたきなさんにとっては寧ろ展望台に直接乗り込む方が容易いという事情もあった。

 

 斯くて五分後、たきなさんが展望デッキの外に肉薄した辺りで、千束に指示を出す。

 

「たきなさんがもう少しで来れる。交戦位置を限局できる? 銃弾で穴が空いてるあたり」

『それはまあ、大丈夫。……っと!』

 

 発砲音。するりと避けて、彼女はこちらの指定する交戦位置に移動し始めた。

 

「一分と少し、ショートレンジになるけど耐えて。真島の方を光の当たる場所に置こう。こっちが暗い所にいる方が戦いやすい」

『なるほど』

 

 千束の声に頷いて、たきなさんへも指示を送った。

 現在の交戦位置から離れた、シャッターに穴が空いていない場所に、ライフルを使って大き目の穴を空けてから侵入する。侵入口は外からの光を大きく取り込んでいて、しかしその光の届かない、少し離れた場所にたきなさんが伏せた。

 

 その一切が終わった、大体一分後。

 何度かヒヤリとさせられる展開があったが、どうにか真島の猛攻をいなしていた千束に指示を出す。これで大詰めだ。

 

「千束、もう大丈夫。たきなさんが援護に入った。今の交戦位置と反対方向に全力で逃走。真島を誘引して」

『よっしゃきた!』

 

 脱兎の如く、千束が逃走を始める。後ろからは真島の追いかけてくる音が聞こえた。遅滞戦術で以て散々に挑発してきて、一瞬だけショートレンジに引きつけたと思えば、また逃げられる。真島からしてみればこれ以上にイラつくことはないだろう。その狙うところを疑うこともなく、面白いようにヤツは引っかかった。或は自分の優位性を疑ってなどいないのかもしれないが。

 兎も角、そこからしばらくして、前方に光源が見えた。たきなさんが空けた穴だ。その近く、暗視装置が一つの人影を映し出した。伏せて、光源の方向にライフルを構えている。当然、それはたきなさんその人だった。指示通りの待ち伏せを徹底してくれているらしい。頼もしい限りだ。

 

 千束が逃げて真島が追う、その構図が続く。足音を聞く限り、千束と真島との距離は少しずつ縮まっているようだが、しかし問題はない。

 

 そして今、千束が大きく空いた、いやたきなさんが大きく開けた壁の穴の前を通った。そこで半身になった千束の視線の先、目を瞑りながら音を探って追いかけてきていたであろう真島が光に瞼を刺激されたか、怪訝そうにその目を開く。しかしそれと同時、もはや目と鼻の先の距離にいる千束の姿を見据えて、好機とばかりに掴みかかろうと跳び上がった。

 

 その刹那、真島の姿は光に照らされ、その影がくっきりと浮かび上がる。故にそれは、これ以上ないほどに絶好のバックアタックのタイミングだ。

 つまりこの時を以て、真島には()()()()()()()()()()()()

 

「ここだ!」

 

 僕の言葉に、千束が足を止め、完全に向き直って銃を構える。

 そこに、銃声が轟いた。千束のではない、それは後ろからのものだ。押し殺した呻き声と共に、真島の表情が歪む。そのまま立て続けに放たれた音に打ちのめされ、空中で姿勢を崩した真島の身体がそのまま床へと投げ出された。そこへ更に追撃にと、今度は千束が撃つ。至近距離から、胸に一発。鳩尾に一発。

 

『クッッソが……ッ!!』

 

 そしてこちらを見上げた眉間に、止めとばかりに二発。その悪態を最後に、真島は沈黙した。

 直後、グラップルガンの稼働音がこのだだ広い展望台の空間の中で響き渡る。それは真島をぐるぐる巻きに拘束して、彼を完全に無力化させるに至った。

 

 深呼吸の音がした。千束だろう。そして僕と彼女が見ている暗視装置の向こう側から、一つの人影が光の中へと現れる。果たしてそれは、たきなさんだった。

 彼女がその光のただ中で、ふいに立ち止まる。その手を、ゆっくりと挙げた。招かれるがごとくに千束は歩み寄って、その姿は少しずつ大きくなっていく。

 そして二人の距離がゼロになったその刹那、彼女たちを除いて動く者のいなくなったこの空間に、ハイタッチの乾いた高い音が響き渡った。

 

 

 

#0x0C Farewell, my childhood

 

 

 

 回廊の全てを覆っていたシャッターが、少しずつ開いていく。

 それは無論、自動ではない。この展望台の採光システムを司るものは、案外と近くにあった。それ、つまりエレベーターホールの入り口そばに鎮座していた制御盤とたきなさんとの数分にわたる格闘の末に、今この場所は今再び明るさを取り戻そうとしていた。

 

 たきなさんが、すっくと立ちあがる。差し込み始めた陽光が彼女のシルエットを浮き上がらせて、その中彼女は自らの右耳へとそっと己の手を当てるのが見えた。そしてそこから数秒ほどの時すらもおかず、彼女はその手を千束へ向かって伸ばした。

 見ればそこに載っていたのは、一基のインカムだった。それはDAから支給され、その作戦指示を受けるための、リコリスの必需品に他ならない。故に千束の前に立つ彼女のその振る舞いは、まさしく今この時における、DAとの決別の意思を示していた。

 そしてその代わりとして、千束のサッチェルバッグの中にあった予備のインカムを、彼女はその耳へと付け直す。その回線の先にいるのは、言わずもがな僕だった。

 

「たきなさん、聞こえる?」

『はい、感度良好です。ナビゲート、感謝します』

 

 たきなさんが、僕の呼びかけに答える。相変わらずの怜悧な声だった。

 

「最高のタイミングの援護だった。正直千束一人じゃキツかったんだ」

『あ、言ったな隼矢さん! ……ま、でもそれは本当。ありがとね、たきな』

 

 千束の言葉にたきなさんは相好を崩したが、しかしすぐに真顔に戻った。次の要件があるはずだと、単刀直入に訊ねてくる。

 

『吉松はどこです?』

『ヨシさん、ここにいたんだけど逃げちゃった』

 

 千束がエレベーターホール跡の方に目をやり、指をさす。あの時千束が目にしたであろう、横倒しになった椅子とほどけたロープは、そのままの姿でそこにあった。

 

「吉松はそこまでフィジカルエリートじゃないはずだ。千束とかたきなさんみたいに、独力でここまで上がってこれるはずがないし、下に逃げられるとも思えない」

『ならば、上と言うことですか』

 

 僕の推測に、たきなさんが返す。

 

「そうだね。つまりここの上、第二展望台にいると考えていいと思う」

『なるほど……』

 

 思案顔で、彼女が顎に手を当てる。しかし千束の行動は早かった。視点が、動き始めた。

 

『千束?』

『ま、そうだってんなら早く上に行こうよ! ヨシさん待ってるよ、多分!』

 

 軽い足取りで、千束が歩き出す。見えない視界、後ろからたきなさんがそれを追う足音が聞こえた。

 

 

 

 稼働していないエレベーターではなく、また非常用階段を使って上へと登る。第二展望台は、第一展望台の百メートル上にある。そこは地上四百五十メートル、かつて健在だった時の旧電波塔において、一般の立ち入りが許可された最も高いエリアだった。

 

 程なくして千束たち二人は、一面ガラス張りの展望エリアのあるフロアへと辿り着く。その階段の上から開け放たれた鉄扉の向こうを見遣れば、一人の男性の姿があった。

 黒い背広に、亜麻色の髪が覗く。こちらに背を向けて立っていた彼だが、果たしてそれは吉松に相違なかった。

 

『ヨシさん!』

 

 声に喜色を含めて、千束は中へと駆け込んでいく。その後ろから、たきなさんも展望エリアに入った。

 かけられた声に、吉松が振り向く。その一瞬、無感動な目で千束を見据えた彼は、しかしその姿を捉えるや、表情を緩めた。その姿に、僕は思う。

 また、これだ。この()()()()()()()だ。彼の腹の裡に宿す狂気すらも映し出す瞳だ、と。

 しかしそれをおくびにも出さずに、彼は千束に穏やかな声をかける。

 

『来てくれたんだね、千束』

『だってあんな写真見たら……あ、携帯ないんだった』

 

 千束にとっては、そう(救出作戦)だろう。かたや僕やたきなさんはと言えば、ここには些か別の意味を持って臨んでいる。しかしいずれにせよ彼を助けない限り何も始まらないのは、僕たち全員の共通認識だった。

 丁度そのタイミングで、僕のスマホが鳴った。見れば、音声着信らしい。発信元は、クルミだ。

 

「もしもし」

『隼矢。たきなはそっちに行ったか?』

 

 それは確認の電話だった。対真島の援護と、吉松の救助に関する情報を、どうやらクルミが先んじて伝えてくれていたらしい。

 

「おかげさまで。真島は制圧できた。今吉松とコンタクトを取ってる」

『ならよかった。こっちはあと十五分程度で電波塔上空だ』

「わかった。待ってる」

 

 言いたいことだけ言って、そして電話が切れる。

 ならばとまた吉松と千束のやり取りに耳を傾ければ、果たして会話は少しばかり先へ進んでいた。

 

『殺して、くれたんだろう? 真島を、あの男を』

 

 千束の両肩に手を置いて、吉松が言う。カメラ越し、正面から見据える瞳は、より純化した狂気の光を湛えているようにも見えた。

 その声が、いつの日かの記憶と重なる。思い起こすのは「松下」の言葉だ。ジンを殺させようとした時の、しわがれた老人の声が、脳裏に響く。

 

 まだやるのか、あの日の続きを。そう思って呆れるが、それと同時にどこかそれに納得してしまう自分がいた。それでこそだと、嫌な信頼すらも懐いている。

 つまり彼はまだ、千束に殺しを遂げさせることを諦めていない。彼の今の振る舞いは、その態度の表れに違いなかった。

 

「たきなさん」

『なんです?』

 

 その傍ら、たきなさんはどうしているのかと思えば、どうやら千束の後ろで黙ってそれを聞いているらしい。ここからはその姿は見えないものの、僕に答えるその声はいつものそれより更に冷え切っているように思える。裡に懐く静かな怒りが、そこには感じられた。

 

「僕がたきなさんに電話をかけた時、スピーカーホンにしてくれないかな。……吉松と、話をする必要があるかもしれないから」

『……わかりました』

 

 小さな声で、彼女が返す。

 そしてそんなやり取りをしている間も、吉松と千束の会話は続いていた。

 

『ヨシさん、私は……』

『殺して、ないのか』

 

 失望の声だ。乱暴に、千束が突き放された。怒りを帯びた瞳が、彼女を射抜く。

 しかし千束はもはや、その目つきに怯むことはない。力強く言葉を紡いで、彼へと反論していた。

 

『私はね、与えられた命で誰かの命を奪いたくなんてない。たとえヨシさん、あなたに言われたのだとしても。あなたにそう、期待されたのだとしても』

『それが、私によって与えられたものだとしてもか。その命を与えたこの私が、そう期待したのだとしても。そう言いたいのか』

『そうだよ。これは私が決めたこと。ヨシさんの期待に応えられなかったのは、申し訳なく思うけど』

 

 視界の先、吉松が目を閉じた。そして背を向ける。

 

『君は、何も分かっていない。人生の役割が明確な人間ほど、恵まれた存在はない。この世界において果たすべき役割が予め分かっていることほど、幸せなものはないんだ』

 

 そして、こちらを振り向いて、噛みしめるように口にした。

 

『君には、それがある。これがどれだけ幸せなことか』

 

 苛立ち交じりの声がする。

 

「歪んだキリスト者、神の代行者気取りが、よく言ったものだな……」

 

 呟きが、漏れていた。恐らくそれは千束にも聞こえていることだろう。

 

『つまりヨシさんは、「殺すこと」が私の幸せだと、そう言いたいんだ』

『そうだとも。君はそれによって、この世界と人類全てに貢献できるのだから』

 

 世界とは、大きく出たな。そう思った傍らで、奥歯を噛みしめる音が、たきなさんから聞こえてきた。どんな形相を浮かべているのか少し気にもなったが、しかし今はそんな場合でもない。

 

『そっか……』

 

 彼のその言葉に、小さく、千束が声を漏らした。何かを納得したような、割り切ったような、そんな声色だった。

 そしてすぐに息を吸って、彼女は言葉を返す。

 

『ヨシさん、私はね。今のこの生き方が、すごく幸せなんだ。あなたのくれた時間で、精一杯、いろんな人を助けて』

 

 身体ごと向き直った吉松に、彼女は声のトーンを一つ上げた。

 

『私の今の幸せは、あなたのくれた時間が作ってくれたものなんだ。あなたのくれた時間で、私は私の生き方を選べて。そして私は私の幸せに気づけた』

 

 一歩踏み出して、そして千束は言い切った。

 

『ヨシさんの言う幸せは、私にはわからないよ。ただヨシさん、あなたが私にしてくれたように、私は誰かの役に立ちたい。最後の一瞬まで、そうでありたいんだ。それが、私の選択』

 

 それはまさしく、彼女の世界に対する誓いに他ならなかった。

 しかしそんな彼女を前に、吉松は頭に手を当てる。片目を覆って、そして残りの片目は、どうしようもなく冷え切った色をしていた。

 

『……私はそんなことのために、死にかけの人形のゼンマイを巻いたというのか』

 

 そして吐き出されたのは、心底と言った風情の失望の声だった。

 

「――ぇっ」

 

 そう、千束が呆然と漏らした声が聞こえた。

 ――死にかけの人形、だと。千束が。

 その言葉を聞いた瞬間に、僕はもはやこのやり取りに見切りをつけた。「これは無理だ。相互理解は、不可能だ」と。

 

「交渉決裂だ。たきなさん、電話を鳴らす」

 

 言うが早いか、彼女のスマホへのコールをかける。たきなさんの反応は早かった。すぐさま電話をとり、そして繋いだそれをスピーカーモードへと切り替えた。

 

『吉松。こちらからもあなたに話があります』

 

 はっと振り返る千束の目線の先、彼女はスマホを吉松の方へと向けていた。

 ならば、僕の出番だ。

 

「……声を交わすのは、二回目ですね。喫茶リコリコのホールスタッフをしています、真弓隼矢です。……いや、名乗りを間違えました」

 

 そして一呼吸おいて、吉松へと己が身分を開示する。

 

『隼矢さん……?』

「警視庁公安部外事第五課第二係、汎テロ捜査担当、捜査官の真弓隼矢です。……あなたには、いくつかの重大事件に関する嫌疑がかかっています」

 

 千束の声を無視して、僕は彼にそう宣告した。

 

 

 

『公安の捜査官が、何の用ですかな?』

「先程申し上げた通りです。あなたには国内における数件のテロ事案に関する幇助の容疑がかかっています」

 

 怪訝そうな声でこちらに要件を問う彼に、僕は努めて低い声で返す。

 

「特に、現在延空木を占拠している真島とその一味に対する様々な援助に関して、我々はあなたを強く疑っております」

 

 ほう、と吉松は声を漏らした。

 

『何か証拠は?』

「真島本人から証言を得ました。ご存じの通り、現在彼の身柄はこちらが押さえています。加えて、四月初旬の武器取引においてDAへのサイバー攻撃を依頼されたと名乗る人物からも、同様の証言を得ました」

『DAへの……』

 

 怪訝そうな声。それに思い出す。ああ、「ウォールナット」は、クルミは、この男の認識上は死んでいたのだったな、と。

 

「そうでした。そしてそのDAの攻撃を依頼された人物ですが、その後に吉松さん、あなたの手の者によって()()()()()()、とも証言してくれましたよ。当然、それについても事情をお聞かせ願いたいものですが」

『……ふむ』

「何か抗弁することはありますか?」

 

 僕の問いに、しかし吉松は首を振る。

 

『いや、ない。なかなかどうして、この国の公安も見事な仕事をするようだね』

「世辞は結構。ただ私としては、貴方に対する交渉の余地を残しています」

『……聞こうじゃないか』

 

 さあ、本題だ。吉松の言葉に、呼吸を整える。

 

「あなたの持っている、人工心臓。それを、こちらに譲っていただきたい」

 

 僕の言葉に、彼は面白そうに笑った。

 

『……なるほど、千束を救うためだね?』

「そもそもあなたが千束の心臓に手を加えなければ、このような事態にはなっていませんでしたがね。……いや、もともとの千束の心臓の寿命について知れたこと自体は、感謝しないでもないですが。ともかく、答えを聞かせていただきたい」

 

 彼は、答えない。そしてそのまま、自身の首元に手をかけた。

 ネクタイを緩め、ワイシャツのボタンを外して、開く。

 

『……っ!』

 

 少女二人の、息を呑む声が響いた。

 

『真弓さん、あなたの言う「心臓」は、残念ながら()()にあります。私を殺さなければ、手には入りませんな』

 

 見れば、痛々しい手術痕が彼の胸部を真っ直ぐに走っている。開胸手術によってそこに心臓を埋め込んだとでも言いたげな調子で、吉松はそう嘯いた。

 

『……千束』

 

 そして彼は千束へと向き直って、優しい声で告げる。

 

『そういうことだ。君が生き残りたいのなら、私を撃つしかない。私を撃って、生き延びなさい。新しい人生を、その価値を、君自身の手で勝ち取るために』

 

 言いながら、懐に手を伸ばす。出てきたのは拳銃だ。言うまでもなく実弾入りだろう。それを、彼女に差し出した。

 

『……狂ってる』

 

 たきなさんの声がする。同感だ。一人の殺人マシーンを仕立てるために、そこまでするのか、と。

 しかし、これはある種苦し紛れだ。彼の論理には欠陥がある。

 

「……騙されませんよ、吉松さん」

 

 千束の目線が、僕の声を発するスマホに流れた。見えなくなった吉松に向けて、僕は語る。

 

「精密機器の、完全置換型人工心臓。扱いには細心の注意が求められる代物です。無論それは、衛生面においても」

 

 視点が、吉松に戻る。彼は苦虫を噛み潰したような顔で、スマホの方を見ていた。

 

「それを、一度全くの他人に移植する? 寝言は寝てから言っていただきたいものですね。あなたの体の中には、心臓なぞ入っていない。あるのは、あなたの横にあるケースだ」

 

 彼は、何も言わない。

 

「沈黙は肯定と受け取りますよ。まあ、あなたがこちらの交渉に応じないというのであれば、それ相応の対応を取るまでですが。……たきなさん」

 

 僕の言葉に、たきなさんが何かを構える音がする。恐らくは、捕獲用のグラップルガンだ。千束が息を呑む音が聞こえた。

 

「ご同行、いただけますね?」

 

 その言葉に、吉松の目が細められた。そして、彼の右手が挙げられて――

 

 急激に、視界が動く。視線が上に向けられた。数度の発砲音に、風を切る何かの音。

 千束がたきなさんを庇うように動いていた。支柱付近に身を寄せて、そして視線を上げた先で、何かの影が差す。通り過ぎた目線を戻せば、その正体はすぐに分かった。

 

 全身を覆う戦闘用と思しきラバースーツに身を包んだ女性が、そこに立っていた。

 

「アイツ……!」

 

 たきなさんの声がする。彼女はどうやら、目の前のラバースーツの女性と面識があるようだ。そこまで来て、ようやく気付く。

 千束の心臓に細工をしたという、女性の看護師の話だ。戦闘に慣れた様子で、たきなさんの精密な銃撃をも躱して逃げていったと、確か彼女は言っていたはず。

 ならばもう、それはほぼ答えだった。

 

「千束の心臓を壊した『看護師』か」

『……その通りです』

「あくまでもやる気、か……」

 

 人工心臓を餌に殺しを成就させようという計画が破綻したとみるや、このやり方とは。

 

「スマホ仕舞って。僕が話す意味はもうない」

『分かりました』

 

 通話が切れる。しかしインカムの通信は生きているままだ。指示を出す。

 

「千束、君はあの女性の足止め。たきなさんは吉松を牽制しつつもスーツケースを奪うことを目標に」

『わかりました』

 

 言うが早いか、戦いの火蓋が切られた。

 不気味なほどのしなやかさで、目の前のその女性が飛び掛かる。しかし目標は千束ではなく、たきなさんの方だった。スーツケースの確保に行ったことが警戒されたか。しかしそれをみすみす見逃す千束ではない。三歩目を踏み出した瞬間に、すかさず発砲する。それを避けるべく急制動をかけた彼女が振り返り、格闘戦を挑んできた。

 向きを変えたばかりとは思えない、不自然なほど深い踏み込みでそれは迫りくる。二歩目で至近にまで近づいて、飛び上がって回し蹴り。千束は腕を交差させてそれを防いだ。受け止められたとみるや、その勢いで宙返りし、そして女性は音もなく着地した。

 そこに突如、横からの銃声。こちらに向けられていたそれを、千束は目の端に捉えていたのか半身になるだけで躱した。目線の先にいたのは吉松だ。しかしその隙に、たきなさんに女性の方が飛び掛かった。

 スーツケースに手を伸ばしかけていた彼女がそれに気づいたタイミングは一歩だけ遅く、女性の蹴りをまともに受けて窓際近くまで吹っ飛んでいく。苦悶の声が聞こえた。

 

『たきなッ!?』

 

 直後発される銃声。千束だった。追撃をかけようとした女性に非殺傷弾が命中、彼女はもんどり打って転がっていく。

 その隙に千束がたきなさんに近寄り、そして肩を担いだ。目線を前に向けたところで、吉松の姿が視界に入った。銃をこちらに向けている。

 

『――ッ!』

 

 たきなさんを抱えた状態では回避が難しい。咄嗟に防弾性のサッチェルバッグを構えた千束に向けて、立て続けに銃撃が襲い掛かった。しかしどうにか彼女はそれをいなす。

 そして彼女が鞄を退けた時、吉松はケースを抱えて逃げ出そうとしていた。

 

『逃がすかぁッ!』

『ッ! たきなやめてッ!』

 

 発砲音。出口付近にまで近づいていた吉松の姿勢が、崩れた。足止めのためとはいえ、たきなさんは吉松に実弾を当てたのか。この距離で一発命中とは流石だと言わざるを得ないが、さすがに今それを言うのは憚られた。

 

『ヨシさん!?』

 

 千束が慌てて、吉松の方へと駆けていく。

 

「たきなさん、とりあえず昏倒しているラバースーツの女性を拘束しておいて」

『……わかりました』

 

 その言葉の数瞬あと、視界の外、グラップルガンの稼働音がする。

 その間に千束はすさまじい速度で駆け、うずくまる吉松のもとに辿り着いていた。

 

『ヨシさん、大丈夫!?』

 

 彼の身体を、こちらに向ける。撃ち抜かれていたのは肩口だ。動脈が傷ついているわけではないようで、出血もそこまでは多くない。

 

『よかった、軽傷だ。……いま止血するからね』

 

 心底と言った様子で安堵の声をあげ、そして彼女は自身の持つ鞄から止血帯と包帯を取り出した。

 それを見上げて、吉松は千束に向かって口を開く。

 

『……何故、助ける』

『何故って……それが私のやり方だからだよ』

 

 その疑問に、千束は当たり前のように返した。

 

『そうか。……そうだったな』

 

 どこか寂しそうな口調で、吉松がそれを反芻する。もはや彼は無力化され、そして彼の戦力としてのラバースーツの女性も、たきなさんによって拘束されて、彼には打つ手がなくなった。

 控えめに言って、彼は詰んでいた。それを悟ったと言うことだろうか。

 

『……私にはね、ヨシさん』

 

 処置をしながら、千束が声を上げた。

 

『大事なものが、たくさんあるんだ。みんなといる時間。困っている人を助けて、言われたありがとうの言葉。救った命だって』

 

 一つ一つ愛おしむように、言葉を積み上げていく。

 

『それは全部、ヨシさんがくれたんだ。ヨシさんがくれた時間が、私に大事なものを作ってくれた』

 

 視界の先で、吉松が目を瞠った。

 

『だから、私は何度でも言うよ。――ありがとう、ヨシさん。私はあなたのおかげで、ここまで幸せに生きてこれました』

 

 言いながら、胸元に手をやる。力が籠められ、何かが砕ける音がした。そして彼女は胸の前で徐にその手を返す。握られたままの拳を、そこで開いた。

 アラン機関の贈り物たるミミズクのチャームが、彼女の掌の上に載っていた。そのチェーンを、半ばから絶たれる形で。

 

『そして、ごめんなさい。私はあなたの期待には、応えられなかった。……だから、これは返します』

 

 彼女が、己の手を伸ばす。その先には吉松の、止血帯が巻かれた右腕があった。

 そこから伸びる彼の手に、彼女の手がゆっくりと近づいてゆき――最後、千束は自らのチャームを、彼の掌の上に丁寧に置いた。

 千束は今、自らの持つアランチルドレンの証を、彼に返したのだ。彼女自身の言葉の通りに。それはきっと、過去との決別の意思表明でもあるのだろう。

 

『もう一度あなたの人工心臓で生き延びながら、あなたの期待に応えられないのは、申し訳なく思ってる。……だけどその分、私は私のやり方で、みんなのために働くよ。ヨシさん、あなたが思うより、ずっとずっとたくさんの人の助けに、なってみせる』

 

 小さくも力強い断言を残して、彼女は静かに立ち上がる。脇に転がっていた心臓の入ったケースを、左手に持って。

 そして反対の手の内にあるグラップルガンを、ゆっくりと掲げる。照準の向かう先は、もはや言うまでもなかった。

 

『だから……さよなら、私の「救世主」さん』

 

 照らされる赤い光と、何かの射出音。吉松の身体が、彼女の手から発されたワイヤーで拘束された。

 それで、終わりだ。力なく、千束の手が下ろされる。耳をすませば、かすかに彼女の鼻をすする音が聞こえたような、そんな気がした。

 

 

 

 そしてそこで、突如僕たちの意識の外から轟音が響いた。

 予想の埒外のことに一瞬ばかり身を震わせる。しかしそう時を置くことなく、音の指し示すものの何たるかを理解した。

 

 聞こえるのは回転翼のローター音だ。同時に生み出される強力な風が、この展望台の窓ガラスを激しく揺さぶっている。

 千束が外へと顔を向ける。同調している視界の中に、白く塗装されたヘリコプターが大写しになって飛び込んできた。

 少しずつ近づいてくる巨体の、小さな窓の中に目を凝らせば、ミズキさんとクルミが手を振る姿もまた見て取れた。

 

 

 

 僕は悟る。

 その光景が示すのは、シンプルな事実だった。

 

 

 

 ――宴は終わり、そして迎えがやって来た。




主人公の「生きてくれ」宣言で千束のメンタルに強力なバフがかかっているので、吉松の精神攻撃が通じませんでした。ということで、話の展開が変わりました。
それもあって、たきなは「心臓が逃げる」しませんでした、というか本作のたきなはあんまり狂犬じゃない……とはいえ吉松にはガチギレしてるわけですが。

それとこの小説では、本文の通り予備の心臓は吉松の身体ではなくケースにある設定です。

理由は二つ。

一つは劇中本文の通り、千束のために用意した心臓を(一時的にとはいえ)他人に移植するのはバイオハザード的な観点で無理がありすぎるということ。

そしてもう一つは、原作において千束に平手打ちを食らう前、千束が握る銃を自分の胸に向けさせたことです。

特に二つ目の理由は致命的で、あそこでもし千束がなんかの間違いで引鉄を引いていたら、もし吉松の中に心臓があれば、それごと壊れて全てがおじゃんでした。そんな愚は冒さないだろうということで、あれは自らの体内に心臓がないから咄嗟にやってしまった行動と解釈しています。


あとちょっと変わったところだと、たきなが若干有能化してます。
クール後半のたきなは精密射撃がウリなのに全然弾が当たってませんでしたからね、ここらで一発スナイプ決めてもらいました。

(12/19 0:17) たきなの人称間違いを修正
(12/19 10:05) 描写上の矛盾点があったので修正
12/23 題字に特殊タグ(プログラミング用フォント)適用
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