この世界が一冊の本なら。
きっとその表紙には、平穏と安定が描かれていて。
その裏表紙は、覆われるべき諍いの種と、流される血で濡れていて。
今立っているこの場所は、そこの間をつなぐもの。
どちらとも隣り合わせの、僕たちだけの現実。
言うなればそこはきっと、世界の背表紙。
#0x0D Upon the spine-cover of the world (1/3)
夜の帳が、街を覆ってゆく。
下界を彩る灯は、上天の星明りすら塗りつぶしながら、眩いばかりの煌めきを放っている。
それは人の手になる文明の光だ。暗闇の底、無限遠点の彼方へと続くが如くの極彩色は、黒のベルベットの上にばら撒かれた宝石よりも、なお心をとらえ、強く目を惹く。
こんな時でさえなければ、どれほどに美しい景色だったか。
「しっかし、『参謀』なんて大仰な呼ばれ方をしてるからどんな奴が出てくるかと思ってたら、まぁ随分と可愛らしいツラしてんじゃねぇか」
嘲笑のような、それでいて感心の色を孕んだような、どこまでも軽く残忍で、しかしどこか蠱惑的な声が、聞こえる。
「……僕はこれでも二十三だ」
「ほぉ? 随分と若作りだな。まぁ世の中、若く見える方が色々得だ。悪くないんじゃねぇの?」
ゆったりとした足取りで、彼は僕へと近づいてくる。僕もまたエレベーターから降りて、展望台の中央へと歩き出した。
「それにしても、随分と重装備で来たもんだなぁ? オマエが持ってるその鞄、そりゃあのアランリコリスのやつだろ?」
次いで発された言葉は、明確な嘲りの色を帯びていた。彼の自然体さと、そこから出る言葉の一つ一つが、この緊迫した状況にはあまりに不釣り合いに聞こえて仕方がない。
しかし彼もまた、武器を持っている。彼の得物、特徴的な意匠のリボルバー銃だ。未だ構える素振りはないが、それでもそこがもはや死の間合いであることに、変わりはなかった。
足を止めて久しい彼の程近く、ガラス張りの吹き抜けが覗く手すりのすぐ側にまで進み出て、そして向き直る。正面にその男の姿を納めて、僕は問いかけた。
「真島」
「ん?」
深く息を吸って、ただ一つ問う。
「僕をここに誘い出して。目的は何だ」
僕のその声に、目の前の男は、真島は、酷薄な笑みを浮かべた。
#0x0D Upon the spine-cover of the world
「まずは、ご挨拶、ってな?」
投げかけられた言葉に、反射的にリコリスのサッチェルバッグを構えることができたのは、きっと運がよかったのだろう。
追いかけてきた強烈で致命的な予感が身を焦がし、目の前の男が掲げる銃の、その銃口の光が視界の中に煌めく。
直後に、衝撃が襲った。体の真芯を突き抜ける重さが、僕の足を乱す。くぐもった呻き声が漏れた。同時に耳を聾した轟音の正体を、銃声であると識る。
撃たれた。撃たれたのだ。掲げた鞄が防いだとはいえ、そこで転ばなかったのはほとんど意地に等しい。そして、転んだら命はないという凄まじいまでの強迫観念が、僕を地面へと縫い付けたと言ってもよかった。
それほどの気安さで、まさしく挨拶のように人に銃を向けてその引き金を引くことができるのが、今僕の目の前にいる男ということだ。改めて、己の置かれた状況の深刻さを思い知らされた。
警戒しつつ、鞄をどける。戻った視野の中に覗いた真島は、笑みすらも浮かべていた。
ほぉ? と声が聞こえる。響きに滲んだ、小さな驚きを感じ取った。自らの不意打ちになんとか反応してみせた僕が、些か予想外だったのだろうか。
「随分と良い反射神経だなぁ、『参謀』? その防弾チョッキをオシャカにしてやれると思ったんだが、なかなかどうして」
いずれにせよ、まさに今の瞬間に人を撃った男のものとは思えない、気負いのない軽薄な声色だった。
まかり間違っても、己が撃った相手にかけるべき言葉もなければ、調子でもなかった。
わかってはいるが、あまりに
乱れた呼吸を整えて、真島に向かって敢えて笑ってみせる。
「いきなり、とは、やってくれるじゃないか」
「刺激的な挨拶だったろ?」
じゃれ合いだろうとでも言いたげな態度だった。
いや、まさしく真島にとっては「じゃれあい」に相違なかったのだろう。用は済んだとばかりに、手に持つ銃を懐に仕舞った。
動けぬままの僕を流し目に見て、口の端を歪めるように真島は嗤う。
「ま、まずは話をしようぜ」
そして何の気なしといった風情で言ってのけて、真島はその場にどっかりと座り込んだ。
「冗談。一時間後に起爆する爆弾が仕掛けられた場所で、悠長にそんなことを」
「お? んじゃ続きをやってもいいんだぜ?」
懐に納まったはずの銃が、するりと突きつけられる。酷薄な声だった。咄嗟に鞄を構えつつ横に跳ぶが、しかし銃声は響かない。
嘲弄するが如くの失笑の音と共に、目の前で銃が下ろされた。見れば真島はどうにも面白がっているような、不真面目な顔つきだった。
いや、愚弄しているのだろう。他でもなく、僕のことを。
「前に出て暴れることが仕事の俺と、頭を使うことが仕事のオマエ。俺の土俵でばかり戦わせるのは、どうにも
それが証拠に、真島は今の今まで余裕な、超然とした態度を崩していない。盤面の支配者が己であることを、強く自覚している振る舞いだった。
腹が立つことこの上ないが、確かに事実ではある。このまま何度もこうされていては、僕の身が持ちそうもない。
ここは、大人しく従うよりないだろう。考えて僕もまた、彼の正面に立膝をつく。
「……用件は何だ」
「まあそう急ぐなよ」
それを見てか、真島が今一度銃を懐に納める。そこで空咳を一つして、またその口が開かれた。
「なあオマエ、どうやって俺のやることを嗅ぎつけたんだ?」
僕と真島の間の奇妙ともいうべき
「やること?」
「惚けんなよ。最初はあれだ、地下鉄」
ああ、と声が漏れた。
答えに一瞬だけ躊躇するも、すぐに無意味な行動だと悟る。今ここで黙秘を貫くことに価値はなく、故に僕は諦め気味に息を吐いて、投げやりに声を発した。
「……いや、まあ常識だろ、あれは。閉所で効果的なのは、爆発物か、毒ガス、あとは火付けもか。そう相場が決まってる。テロ対策の基本のキだろう。そうじゃないか?」
――むしろ気づかなかったDAがおかしいんだよ。
続けた言葉には明白な皮肉を込めていたし、真島もそれについては正しく汲み取ったらしい。
ハッ、と鼻で笑って、我が意を得たりと声を張った。
「そりゃそーだ! 確かに気づかない方がおかしいわな!」
揶揄の響きすら含めた、痛烈なまでの喝破だった。そのまま調子よく、陽気なまでの振る舞いでこちらに視線を合わせてくる。
覗いた目つきは、剣呑としていた。
気づけば真島の纏う雰囲気が、脈絡もなく入れ替わっている。
刺すような攻撃性すら帯びて、続く言葉を紡ぐ声は、今までのどれよりも低かった。
「そうだ。ヤツらはおかしい。自分たちが丹精込めた造りモンの平和に毒されて、こんな簡単な治安対策すらも忘れてやがる」
――とんだ平和ボケもあったもんだなぁ?
僕から目を逸らしながら、しまいに彼はそう吐き捨ててみせた。
まるで義憤に駆られているかのような、どこか熱っぽい振る舞いだった。
思わず鼻白む自分がいた。湧き上がる苛立ちに、思考が乱される。
今論じているのが誰の起こした擾乱についてか、忘れているはずもないだろうに。知らぬふりで全部棚に上げて、よくもまあぬけぬけと言えたものだ。
胸中に渦巻く憤懣が、そのまま口をつく。押し留める間もなく、言葉となって出ていってしまった。
「……やったのはお前らだろうに」
響きには、裡に抱える敵意がはっきり含まれている。しかしそれを聞いた真島の振る舞いは、再び僕の意表を突いた。
「そりゃオマエ、それが俺の仕事だからな!」
前触れなく、またも空気が変わる。こちらの反駁に怒気を発することすらなく、ただ真島はその言を笑い飛ばして、飄々と嘯いてみせた。
――これではまるで分裂症ではないか。
ここまでのやり取りの中、真島という男の為人に対して懐いた僕の心象は、その一言に集約されていた。
いや、ただの感慨などではない。齎したのは、強烈な警鐘だった。脳裏にガンガンと鳴り響く幻聴は、焦燥すらも惹起する。
無邪気に人に銃を向ける残虐性が、薄気味悪いほどの気安さが、矛盾なく同居しているのが真島という存在であるのならば、この男にとってきっとその二つは、シームレスに入れ替わりうる同一の根源に根差すものなのだろう。
いずれにせよ真島の振る舞いには、いつかの夏から燻り続ける怒りより、寧ろ圧倒的なまでの警戒が先に立っていた。
この男と対峙し続けている現状自体が、死線そのものなのだ。明日の朝食の話をしながら流れで銃を抜いてきても全くおかしくないその在り方を前にして、心の余裕が削れていくのを自覚する。
抗いがたい恐怖だった。張り詰めた緊張感が、視野すらも狭くさせるような錯覚をも懐く。
逃げ出せるのならば、一秒たりとてこの男の前にはいたくない。それほどの圧迫感を覚えていた。
しかしなんにせよ、今の僕にそれは望むべくもない。そしてそうであるならば、取れる道はひとつしかなかった。
――心を強く持つことだ。恐怖心を殺すことだ。そう、己に言い聞かせる。小さく頭を振った。
覚えているだろう。分かっているだろう。忘れられないはずだろう。初めて邂逅したあの夏の夜から、この男が何をやってきたか。千束に、なにをやったかも。
そんな男を前にして、臆しているばかりではいられないだろう、と。
「ま、それはいい。じゃ、次だ」
しかし僕のその内心など、当然真島には関わりのないことだ。或はそんな僕のことを見透かしていたのかもしれない。
それでもこちらの在り方など歯牙にもかけずに、何の気なしといった風情のまま、次の問いが発された。ちらりと目線が向けられる。若草色の虹彩が、じっとこちらを射抜いていた。
「オマエ、気づいてただろ、俺の『耳』のこと。……いつ気づいた」
試すような物言いに、そして目線だった。
何のことか。そんなとぼけ方を許してくれそうな雰囲気ではない。
無論、真島が何を訊こうとしているのかは認識している。つまりはついさっきの、電波塔での一件のことだ。
真島があの時どれほど本気で、千束のことを仕留めようとしていたのかは分からない。ただいずれにせよあの場所は本来、真島の完全に支配する空間であるはずだった。なにもなければ、千束は文字通りの嬲り者になっていてもおかしくはなかったのだ。
それでも結果は、全く違っていた。千束はあの完全なる暗所で戦闘能力を失うこともなく、対する真島は撃退された。
真島は今、その立役者は僕なのだと考えている。或は断定していると言うのが正しいのかもしれない。
あの電波塔の戦いの中、千束自身が口を滑らせてしまったことが、彼の中では絶対的な根拠となっているのだろう。
「それを知って、どうするんだ」
しかし僕の方からすれば、狙いの全く見えてこない問いだった。
知られて困るというほどのことではない。ただ、意図がまるで理解できなかった。
まさか、「事実を知りたいだけ」というわけでもあるまい。いくら何でも、「電波塔の戦いに敗れた原因と目する僕に、直接自らの敗因を問う」ことだけのためにここまで大掛かりな真似をしでかすとは、さすがに思えなかった。と言うより、もはや思いたくなかった。
「ンなツレナイこと言うなよ」
戸惑い気味に、どこか掠れ声で問い返した僕に対して、真島のほうはあくまでも自然体だ。怒りを発することもない。
ただただフランクに、片足を投げ出すような無防備な座り方で、僕ににやりと笑いかけた。
「オマエは俺のこと、よく知ってんだろ? それなのに俺だけオマエのことよく知らないなんて、
気安さすら思える態度だった。しかし放たれる言葉は、どうにも上滑りして聞こえる。わざとらしい、と言うべきだろうか。
発される言葉は、見せる振る舞いは、真にこの男の本心を示しているのか、或は単に、僕のことを嘲っているだけなのか。どちらでもあり、どちらでもないのかもしれない。
いや、この際どうでもよい。いずれにせよ今の僕がこの男の問いに答えざるを得ないことには、変わりがない。無暗に挑発して激発させるリスクなど、抱えたくはなかった。
「……まあ、そうだな」
「だろ? ほら、話せって」
促されるままに、諦めに一つ息をついて、経緯を話すべく口を開いた。
「直接的には、千束……お前の言うアランリコリスが襲われた時だ。あの時は連続襲撃事件の真っ最中だったから、警戒のためにドローンをつけていたんだ。レーザーを使った目潰しは、もしもの時の備えだったし、切り札だった」
ほぉ、という声が聞こえた。見ればどこか感心した風な面持ちで、真島が相槌を打っている。
一度言葉を切れば、すぐさま無言で促された。目線をこちらに向けたまま、顎をしゃくってくる。
逆らうことなく、言葉を継いだ。
「……だからお前にあれを照射したとき、もう少し足止めができると思っていたんだ、僕は。でもお前あの時すぐに、目を瞑りながらドローンに銃を向けただろ。それで、『こいつ目が見えなくても戦えるんじゃないか』って。そしたらまあ、対策ぐらいはするだろ、普通は」
「なるほど、道理で」
そこまで聞いた真島は、頭に手をやって天を見上げた。
「目ざといなぁ、オマエ。やっぱ頭いい奴は目の付け所が違うってか」
無邪気な賞賛の言葉だった。出てきた言葉も、その声色も、確かにこちらのことを買うような、そんな心情に裏打ちされているように思える。
尤も、だからなんだという話でもあった。この真島との会話の中で、僕の置かれている「苦境」が何か好転するわけでもない。
「誉めても何も出ないぞ。代わりに爆弾を止めてくれるってなら、考えなくもないが」
「そりゃ無理な相談だ」
現状への苛立ち含みに吐き出したある種の
しかし――その直後に、真島は再び面持ちを鋭いものにした。この場を支配する空気が、確かに変わった。
前置きはここで終わりだと、そう言うことなのかもしれない。ここからが真に問うべきものなのだと。
「なあ、『参謀』」
声のトーンが、一段落ちた。座った姿勢のまま、ゆらりと右の腕が動く。
「
――オマエなんだろ? 潰したのは、と。
掲げられていく右手が握られて、人差し指だけがすっと、僕の方へと突き付けられた。
伏し目がちだった真島の表情が、不意に歪む。
上目遣いに覗く目からは、無形のプレッシャーが放たれていた。
サッチェルバッグを握る手に、力が籠る。なるほど、いよいよ本題というわけだ。
「そうだとしたら、なんだ」
混ぜっ返すような僕の答えに、彼の口が笑みを模る。しかしその鋭い目つきだけは、全く変わることがない。
「まあその
一度言葉を切り、投げ出したような座り方はそのままに、身体をこちらへと向ける。そのまま真島は、ただならぬ空気を身に纏うようにして、更に僕に問うた。
「なあ。――あのやり口。オマエ『国のモン』だろ」
「国のモン」。彼の言うその言葉の意味を推察することは、容易だ。
つまりは、公務員か、警官か、或は自衛官か。そういうことを訊いているのだろう。
迂遠な問いだ。焦点が見えない。
「まだるっこしい。何が言いたい」
しかし腹立ち紛れにその問い返しを放った瞬間に、
特大の危機感が、身体を衝き動かす。ほぼ無意識的に立ち上がり、飛び退って、そして鞄を構えていた。
視線の先、
「いや、よく考えりゃ訊くまでもなかったわ」
つまらなさそうに言い捨てて、真島は銃を仕舞う。都合三度目のことだった。
「リコリスどもの飼い主はあんな回りくどいことはしねぇ。どこまで根回ししたんだか知らねぇが、俺の作った盤面をぶっ壊すために
僕から目線を逸らしたまま、吹き抜けの下を覗くようにして、眼前の男は滔々と語る。全てお見通しだとでも言いたげな調子だった。
「……だとしたら、何なんだ」
真島の目線がこちらを向く。上目遣いの双眸が、三白眼の鋭い目つきが、更にすっと細められた。
「つまりは、だ」
言いながら、ゆっくりと真島が立ち上がる。
前提条件の確認は済んだ。そう言いたいのか。未だ身構えたままの僕のことを改めて見据えて、かの男はまたしてもこちらに指を突き付けた。
「オマエ、それでいいのか」
「は? どういう……」
「
それはどこまでもまっすぐに、率直に、僕の内面を抉りに来る問いかけだった。
「……それは」
言葉に詰まる自分を、自覚する。
「犯罪者風情が何を語るか」。そう言下に切り捨てることができるのなら、どれほど楽なことだっただろう。いや、或はそうすることが、公安の調査官たる「真弓隼矢」という一個人にとっては寧ろ正解であるのかもしれない。自らのこれまで積み重ねてきた凶行を棚に上げて、何を語るのだと。
しかしできなかった。反駁の言葉が、出てこなかったのだ。
はっきり言おう。僕は今の真島の言葉に、
公安の業務の中で叩き付けられた現実と、それが齎した絶望的なまでの挫折の経験が、フラッシュバックする。その時懐いたどうしようもないほど懈怠の情も、DAに対してずっと懐き続けている憤懣まで、想起させられた。
いつかの時に、千束にも、そしてクルミにも、言ったことだった。
僕の持つ斯くなる葛藤は、目の前の男からすれば容易に見透かせるものなのだろう。
我が意を得たりとばかりの表情で、真島は歌うように悠然と、自らの両腕を大きく広げつつ語り始めた。
「俺はな、今のこの国のどうしようもねぇ腐臭が気に入らねぇんだ」
僕はその演説を、語り出しを、ただ聞くことしかできない。
「平和? 安全? 安心だぁ? その裏に何があるかも知らされないまま、ただ与えられた平和の上で惰眠を貪るどうしようもない愚民どもと、その愚民を導く神様気取りのイカれた組織。一方の正義がただ押し付けられたまま、誰一人として何かを選び取る自由すらない。その平和ですらもだ」
天を仰ぐようにして、彼はここまでを一息で言い切る。
未だ何も返せないままの僕のことを流し目で見て、
「バランスが悪すぎる。そうは思わねぇか?」
真島は僕に、同調を迫っていた。
曰く、「バランス」であると。真島がその言葉を口にするのはこれで三度目だ。或は口癖なのか、それとも何か、主義主張や行動原理の一つであるのか。
しかしそのことについて質そうという気までは起こらず、僕は問われたことにだけ、ただ答えた。
「……だから、そのヴェールを剥いでやろう。お前は、そう考えたと言いたいのか」
真島が指を鳴らす。纏う空気が少しばかり色を変えた、ようにも思えた。
「物わかりのいい奴は好きだぜ。その通り、俺はこの与えられた平和に毒され切った国の連中の目を醒ましてやろうと考えたのさ。手始めに、DAとか名乗ってる狂人共の集団をズタズタにしてやろうって、なぁ?」
どこまでも上機嫌な声で、謳い上げるように語られる。
しかしそれが、急に冷めた。感情を失った顔つきで、真島は僕を睨んでくる。
気づけばその視線には、今ひとたびのただならぬ剣呑さを帯びていた。数秒前との連続を全く感じさせない情動の変化は、まさしく僕がここまでこの男に感じている危うさ、そのものだった。
「だが、それはオマエに邪魔された。中途半端な、受け入れやすい事実だけ垣間見せて、俺の本丸の狙いなんぞ誰も気にすることすらなくなった。……オマエ、何を考えてやがる」
無意識に左足を引いて身構えていた僕に向かって、昏さすらも帯びた瞳で覗きこむようにして、言葉が続けられる。
押し殺した声だ。答え次第では今すぐに殺してやるとでも言いたげだった。纏っている敵意にも似た空気は、断じて嘘偽りのものではないのだろう。よほど今回の顛末が腹に据えかねたと見える。
「さあ、答えろ」。そんなプレッシャーが、明確に押し付けられていた。
いくつもの考えが、頭に浮かぶ。
答える義理などあるのか。この状況で僕にそれを話せと促す真島の態度は、脅しにも等しいのではないか。
どうにも癪に障る。そんな奴に話すことなど、何があろうか。頭を擡げるのは、反骨心にも似た心情だった。
しかし――だからとて僕は、向けられた真島の疑問を一蹴することなどできなかった。
何となればそれは、正直「故なきことではない」のだ。DAの在りように疑問を持ち、彼らの運用するリコリスたちの悲哀を受け入れがたいものであると思っている今の僕は、ともすれば今日一日の中で随分と矛盾した行いをしていたのかもしれない。最低でも、否定しきることはできそうもない。
警戒する心理とのせめぎ合いの中、一瞬だけ目を瞑る。
ならば今日の僕は、結局何のために動いていたのか。どういう理由があって、真島の企みを打ち砕いて、DAの秩序を曲がりなりにも存続させる選択を取ることを、決めたのか。
それは僕が僕であるために、答えなければならない問いなのだろう。
確かに真島の行いは許せない。受け入れられるわけもない。しかしたとえかの男に共感できる部分が一つとしてなくとも、言の全てを悪人の
――否、そういうことではない。
僕は僕の意思として今、自らの選択の意義というものを、強く主張すべきだと考えていた。
「お前とは、違う」。真島にそのことを声を大にして言わねばならないのだと、はっきり断言しなければならないのだと、使命感にも似た情動が、己を支配していた。
呼吸を一つ、気合を入れて、口を開いた。
「真島。お前の理屈だが――一分の理もない、とは思わない」
こちらから覗く彼の目が、少しだけ開かれる。僕は一瞬だけ目を伏せて、また前を見た。
「この国の在り方は、確かに歪んでいるんだろう。健全ではないんだろう。それを頭ごなしに否定するなんて、僕には無理だ」
まっすぐ真島を見据える。相変わらず、どこか意外そうな表情をしていた。
しかし、僕の言葉には嘘はない。
「『他人に押し付けられた生き方なんぞクソくらえ』。それも、その通りだと思う。電波塔の中で、千束にお前が言ったことだけど」
そうだ。真島の語る言葉の表層だけを掬えば、僕の思想にも重なりうるものは多々あった。
自由意志こそが現代社会の個々人の不可侵なる聖域であるのなら、それを身勝手な理屈で抑圧する存在などあってはならない。
「己の意思は、己の行動は、己だけのものであるべきだ」。僕も諸手を挙げて同意できる、理想論だった。
しかし、だからこそ僕は声高に主張するのだ。
「だからと言って、お前のやり方を通していいはずがない。大義さえ掲げてしまえば、それが無道への免罪符になるなんて、僕には絶対に認められない」
強く、そう断言した。僕の掲げる理想と根を同じくするものを、単なる名分へと堕することなど許してはおけないのだと。
それが、僕とこの男の違いなのだと。
ほぉ、と真島が呟く。続きを言ってみろと、目が語っていた。まだ言い足りないんだろうと。
無論のことだ。僕が真島を指弾すべき事柄など、掃いて棄てるほどあるのだから。
「例えば、地下鉄の件。DAが察知してその時間帯に封鎖をしたからよかったが、もし仮に一般の乗客が乗っていたとて、お前はテロをやめることはしなかった。そうだな?」
「当たり前だろ。無人の地下鉄をわざわざ狙いに行くバカがいるかよ」
にべもない答えだった。自らの選択に、疑いの一つもなかった。
それがこの男だ。真島という存在だ。罪悪感など、持とうはずもない。
まさしく、僕と決して相容れることのない理由に他ならなかった。
「……話にならない。あんなの、主義主張を説く以前の問題だろう。それとも本気で、あんな乱暴なやり方が通ると思っていたのか」
「言っただろ? それが俺の仕事だってな。まぁおかげでDAとかいうこの国のバランスを崩してるクソみてぇな連中のことが分かったんだ。俺にとっちゃ収穫だった」
得意げに口にする言葉は、僕はとってみれば正当性の一つも存在しない答えだ。
否、答えにすらなっていない。或は「それの何が悪いのか」という開き直りを以て、己の正しさを強弁しようとしているのかもしれないが、いずれにせよ致命的なまでに考え方がズレていることに変わりはない。
常識を共有しない異国人と話をしているが如くの、言葉を交わすたびに増大していく認識の乖離は、僕の中に強い苛立ちすら掻き立てていた。
「仕事だ? それはお前の手前勝手な理屈だろう。誰かの生を奪ってもいい理由になど、なるものか。そんな
「おいおい、そりゃ俺にばかり言われても困るぜ」
渦巻くフラストレーションをぶつけるが如くの糾弾さえも、まるで柳に風だった。混ぜっ返すような口調で、真島は大仰に肩を竦めてみせる。
そして勿体つけて、彼は己の理屈をぶった。
「この国の、いや現代のどこの国であっても。そこの国の人間の総意によって定められたルールこそが、唯一絶対の『正しさ』だ。その正しさによってのみ、人は人の命を奪うことを許される。それはつまり法だ。俺は確かにそれには反してる。当然、分かってはいるさ」
道理を説いてみせるが如くの口ぶりだ。
鼻白む僕をよそに、真島は滔々と言葉を続けた。
「だったらリコリスどもの親玉はなんだ。毎年三千人近い人間を、奴らは奴らの理屈だけで殺して回ってる。そこには『正しさ』なんぞ一欠片もありゃしねぇのに、ヤツらはそれを『正しい行いだ』と信じて疑ってねぇ。あれに比べりゃ俺なんて可愛いモンだろうよ」
なぁ? と、片眉を上げて僕に問う。響きからは義憤のようなものすらも窺えた。
向けられた意図は明白だ。だから己の行いは正義なのだと、自らの無道は通していいものなのだと、「絶対悪」には「必要悪」でもって対抗せねばならぬのだと、真島は自らの行いを正当化している。できると思っている。
これほどまでに、違うのだ。価値観も倫理観も。募るばかりの憤懣を抱えながらも、一人実感を深くする。
ただだからと言って、「そういうものだ」と受容できる類の理屈では、断じてあり得なかった。
「打ち消し合える『悪』なんて、この世にあるものか。DAが好き勝手やっていることと、お前がこの国でやってきたことは独立している。DAの話は、何も関係がない」
切って捨ててみせた僕の言葉に、しかし真島の声が上擦る。
「『関係ない』だぁ? 馬鹿なこと言うなよ」
それは素っ頓狂な、心底心外だといった声色だった。
敢えて惚けて見せているのか、或は本気の主張なのか。測りかねる中、まくしたてるような強弁が重ねられる。
「そもそもの話、俺が日本くんだりまでやってきたのは元はと言えばDAのせいだ。知ってんだろ? オマエも。あの噂」
「どの噂……いやまあ、想像はつくが。それで?」
「いやだから、俺はそれを暴いて欲しいっつうクライアントの依頼があったからここに来たんだよ。銃のことも、地下鉄のあれも、やったのはそれが仕事だからだ。俺がやりたかったからやったんじゃねぇよ」
第一な、と真島は人差し指を立てた。
「金稼ぎてぇだけならもっといいシノギなんて世界にゃごまんとある。オレらが
しかし、本当に饒舌だ。まるでこちらが間違っているとでも言いたげな様子の剣幕だった。どうやら僕の指弾が本当に心外だったらしい。
直前までの薄気味悪い危うさはどこか薄れて、彼の人間らしさの片鱗が、垣間見えたようにも思えた。
……いや、ダメだ。それは絆されている。
如何なる弁明をしようが、この男がしてきたことを許せはしない。起こそうとしたことについてだって同じだ。余計な感慨など持つべきではなかった。
努めて声を低く、鋭く問い質す。
「だったら何か。お前のやろうとした、やってきたものは全部、『DAがいるのが悪い』とでも言うつもりか。責任を擦り付けるつもりか」
ハッ、と真島は鼻で笑った。
「ねぇよ。するワケねぇだろ、んなダッセェこと。ただまぁ……」
言葉を切る。僕の方にすっと、自らの双眸を向けてきた。
そこに曇りはない。自分に正義があることを、全く疑っていない目線だった。
「この国だってバランスってのが必要だと思っただけさ、俺はな」
内心の顕れなのか、真島は一度居住まいを正す。
ポケットに無造作に突っ込まれていた手も気づけば外へと出されていて、見える態度にもどこか真剣さが漂い始めていた。
「地下鉄のあたりまでは、まあ仕事だ。けどな、そっから俺がこの国に居続けることを決めたのは、結局のとこ
「リコリスの子たちを襲って、四人殺したのも、そうだって言いたいのか」
「そうだぜ」
何でもないように、真島は頷く。
「リコリスどもの私物……まあスマホだけどな。あれにDAに繋がる手掛かりがあるんじゃねぇかって、俺の
俺の、ハッカー。指し示す人物は、今更問うまでもないのだろう。
「アイツらだって散々他人様を殺してきてるんだ。俺らの仲間だって随分やられた。なら殺されたって、文句は言えねぇだろうよ」
――ま、今から考えりゃ、少々「遊び過ぎた」かもしれねぇがな。
どこか茶化すように言葉を結んだ真島は、そこでふと窓の外に一瞥をくれる。
眼下に広がる街の灯りを見る眼差しはどうにも冷たく、蔑むような、憐れむような表情が横顔には浮かんでいた。
「千束は、違う」。そんな反駁は、しかし彼から発される空気の前ではきっと何の意味もなかった。
暫しそのままに、互いを結ぶ空間には静寂が横たわる。
その中で、不意に真島が肩を竦めた。僕の方へ今一度向き直って、すっと目を細める。
「なあ、『参謀』」
改めて、呼び掛けてきた。
「こりゃ俺の今までの経験だがな。……ここまでバランスが崩れ切っちまった国ってのは、もうどうしようもねぇんだ。お綺麗なやり方じゃもう戻らねぇ。気づいてんだろ? オマエも」
その問いは、僕の心中に深く突き刺さる。
DAの作り上げたこの国の治安維持システムは、施政の中枢に深く深く根を張って、もはや分離切断することは不可能に近い。彼らがいつからこの仕組みを構築してきたのかは知らないが、確かに現状はもはや、ある意味で取り返しのつかないところにまで、来てしまっている。
否定の難しい、一面の事実ではあった。
「ぶっ壊すしかねぇんだ。そりゃ暴れてるほうが好きだってのはあるぜ? けど、どのみち誰かがやるしかねぇことだったんだ。……そのはずだった」
最後、ポツリと口にした真島が、目を伏せた。
僕もまた返すに値する言葉を持たず、故にこの場は沈黙こそが支配する。
五秒か、十秒か。しわぶき一つない静寂の果てに、眼前の男の発した小さな吸気の音を、聞き分けた。
「――だってのに、オマエが」
流れる空気が、激変した。
総毛立つ。脳裏に特大の警鐘が鳴り響く。思わず、身構えていた。
つまりそれは、怒気だ。否、もはや殺気だった。淀み、歪みすら錯覚するそれが、正面から立ち上る。
再び、真島が顔を上げる。僕のことを見たその目は、狂気にも似た光を孕んでいた。
「もう一度だけ、訊いてやる。……なんで、俺の邪魔をしやがった」
放たれた再びの問いは、有無を言わさぬ空気を、確かに纏っていた。
あまりに峻烈な在りさまだった。
「ぎりぎりの理性が、銃を抜く手を抑えているのだ」。そう言わんばかりの様相だった。
もはや猶予などない。今僕が立っているのは、文字通りの死の淵だ。現状を強烈に意識して、しかしそれとは裏腹に、頭の方ははっきりと冴えていた。
或は怒れる相手を前にしたことで、裡に燻り続ける憤りに曇っていた思考が漸くにして晴れたということなのかも、しれなかった。
故に、考える。
表面的な話であれば、もはや理由など言うまでもない。この国の中で起こる凶行を止めなければならないのは僕の職分で、且つ義務なのだ。首都で起こる決定的なカタストロフに手を拱いているなど、ありえないことだった。
しかし一方で、今日の事案に対処するだけならばいくらでも別に方法はあったのは事実だ。真島とて、僕のそんな答えに何らの価値を見出すとも思えない。
なればこそ、僕は知っている。この場所に至るまでにやってきたことの全てに、背景となる思想が、狙いが、存在しているのだと。
「千束の問題をどうにかする」という最優先課題の裏に埋もれていたその思惑を、今掘り起こす。
それはきっと、さっき答えることのできなかった問いへの、真島が突き付けた大いなる課題への「別解」に他ならぬのだと、考えた。
かの男に引きずり込まれた形で始まったこの論戦の中で、提示された絶対にも思われる論拠を打ち砕くことができる、唯一の武器であるのだと。
「……そこまで言うなら、言ってやろうじゃないか」
努めてゆっくり、口を開く。己の呼気を、声に載せた。
「僕に言わせれば――
そうだ。結局はそれが、端的な答えだった。
ギロリ、と目が向けられる。臆することなく視線をぶつけ合って、その瞳すら覗きこむように、言葉を継いだ。
「『リコリスたちの存在を、その所業を、世に広める』。お前の狙いは、すぐにわかった。……あれで、お前はどうなると思った。どうなることを期待してたんだ」
「決まってんだろ。ヤツらがこの国の連中にバレれば、親玉が出てくるのはすぐだ。あの連中がリコリスどもを使って何をやってきたかも、じきにバレる」
即答された。視線が逸れることはない。眼光は未だ鋭く、猛る内心が鎮まらぬ様子がありありと窺える。
「そうすりゃあの連中は終わりだ。違うか」
「
自らの感情の昂ぶりを隠そうともしない真島の言に、だから僕は己の反駁で以て真っ直ぐに冷や水をぶっかけた。
視線の先、一瞬だけ彼の目が見開かれたのが、ここからも窺えた。
提示された前提を、崩しに行く。DAが閉塞させたこの国の現状は、あの組織の在り方は、真島が多少の暴力を振り回したところで、変わりはしないのだと。
「DAが、あの連中が、
なあ、と呼びかけた。
「もし仮にお前の企みが成功して、リコリスを、やってきたことをこの国に広く知らしめたとして。その時、連中どうするか分かるか」
答えは、やってこない。一呼吸おいて、僕は断言した。
「そのリコリスを
そうは思わないか。無言のうちに問うも、やはり真島は何も言わない。
分からないのか。いや、分からないはずはない。なおも言い募る。
「連中はそもそも初めから、リコリスを使い捨ての道具ぐらいしか思っていない。なら、バレて使い物にならなくなったリコリスは、『捨てればいい』。奴らからすれば、それで終わりなんだ」
鼻を鳴らす音が聞こえた。そんなことは織り込み済みだとばかりの態度で、真島が口を開く。
「そんなことか。だがな『参謀』、それでもあの
「それがどうした。だったら服を変えればいい。人は忘れる生き物だし、自分の世界がとうの昔に狂っていたなんて、認めたくないものさ。そんなに、人は強くない」
しかしすかさず返した僕の答えに、不機嫌そうに息を吐いた。
――「正常性バイアス」という言葉がある。
例えば今日この日に、真島の策動の結果としてリコリスの存在が日本中に認知されたと仮定しよう。
一時の混乱は、あるかもしれない。さりとて以降の日常の中で、あの日見た制服を、少女たちの姿を見ることがなければ、やがて
斯くていつの日かそれは、「生々しい記憶」から「単なる記録」へと堕する。まさにかの「電波塔事件」の惨禍を、美談に昇華できたように。
つまりDAは、
「そうやって服を変えて、顔がバレたリコリスは片っ端から『入れ替え』る。そうすれば何もかもが元通りだ。最低でもDAの連中はそう考えるし、そうする。間違いなくな。……そして恐らく、そうなる。元通りに、なってしまう」
なおも続ける真島への指弾に、それでも答えは返ってこない。答えられないのか、答える気がないのか、そこまでは窺い知れなかった。
ただいずれにせよ、真島にとってこの論は否定できるはずのないものだと、僕は確信していた。何となれば彼もまた、そういう人間の人間としての「弱点」を活用して、今まで生き延びてきたのであろうから。逃げ延びてきたのであろうから。
だからこそ、僕は改めて呼びかける。「なあ、真島」、と。
「お前が思っているより、あの組織は強かで、ともすれば悪辣だ。僕は一年と少しの間奴らと仕事をしてきて、それを学んだ。いやというほど」
嘘偽りない、本当の感慨だった。何となればそれは、今回の事件を追うようよりも、リコリコの一員としてDAとの結びつきが強まるよりもさらに前、公安に入って程なくしてからずっと、否応なしに理解させられ続けてきた現実だったのだから。
「だからお前のやり方には
断言してみせる。真島の行いがどれほどの愚挙であるのか、どういう影響がこの国に齎されるのか、全てをぶちまけた。
「DAがそのあと、リコリスの『入れ替え』をやり遂せたとき――奴らはその『成功体験』を得る。いくらでも『入れ替え』れば、自分たちのやり方は永劫に亘って続けられると、そう確信するだろう。この国は何一つ変わらないまま、DAだけが増長する。お前のやったことが原因で」
答えはない。反応すらも示さない。ただ彼はじっと、僕のことを見ていた。
二本の足で立って、互いに互いを見合う姿勢で、張り詰めた空気の中、僕の声だけがこの展望台に響き続ける。
「それが目に見えているのに、お前のやり方なんて通せるわけがない。ただでさえそれより前に、言いたいことはいくらでもあるのに。リコリスを炙りだすためとかいって街中に銃をばらまいたことも。
図らずも、声が震えた。仮に意味があったとて、奪われる命は決して返ってこないのに、流された血に意味などないのだとすれば、それはどれほどに残酷なことであるか、と。
否、今日命を落とした人々だけではない。仮令憐みでしかないのだとしても、リコリスたち自身もまた、慮外に置かれるべき存在では断じてなかった。
そもそもにして彼女たちは出自としては孤児だ。それをDAという組織に拾われて、ずっと育てられてきた。
隔離された環境の中、自分の行いに対する是非など考える余地すら与えられなかった少女たちなのだ。たきなさんであっても、無論千束であっても、全く例外ではない。
そんな数多の命が、ほかならぬDAによって摘まれることになる。
在りようの是非は、確かにあるだろう。独善によって「悪人」たるものの命を奪ってきた下手人こそがリコリスたちであるのも、また事実だ。
しかしそれでも、自らに「そうせよ」と命じ続けてきた、「親への情」にも似た無垢な信頼を寄せているはずの相手に突如裏切られて、抵抗することも許されずにただ無価値に殺されるのが末路であるなどと、それ以上の惨い不条理がこの世にあるだろうか。
それほどの業を、あの少女たちは背負わなければならないと言うのか。
……そんはなずは、ないだろう。絶対に。
「だから僕に言わせれば、お前のやり方だってまるで
長い長い口上の末に、言葉を結ぶ。
僕が今真島に突き付けたのは、徹底的な否定と、そして糾弾だった。
お前のやり方に顧みるべきところなど一つもありはしないのだと、反論の余地などありはしないだろうと、強く指弾していた。
結局僕からすれば、あらゆる意味において真島のやることなど受け入れられようはずもなかったのだ。
流れる血も、齎される惨禍も、予想できる未来も、全てがこの男のやり方を否定しなければならない確固たる理由となっていたのだから。
果たしてと言うべきか、それを聞いて暫く、真島は何も言葉を返さなかった。
しかし決して引き下がるつもりはないらしい。目を瞑った彼は、そこで徐に口を開いた。反駁してきた。
「なら、オマエのやり方なら、この国を変えられると、オマエはそう思ってんのか? あんな中途半端な誤魔化しで、何かが変わるとでも」
目を開いた彼は、刺すような眼差しでこちらを見る。発された声もまた、挑みかかるような声色だった。
「そこまで言うなら、オマエは大層ご立派な狙いがあるんだろうな」。明らかにそういった含みが、目つきと声には載せられていた。
言い逃れだとも、論点ずらしだと断ずることもできる物言いだった。「何らの価値もない、有害な行いを止めることに、それ以上の理由など必要はないだろう」と切って捨てることだって、きっと出来ただろう。
ただ僕は、そうすることを選ばなかった。一つ頷いて、言葉を紡いだ。
「しばらくは、何かが変わることはない……だろうとは思うよ、僕も」
主張を、一歩退く。確かに彼の言う通り、僕たちのやり方はこの国に劇的な変化など齎しはしないだろう。
だからとて、そこに何の意味もないわけではない。
「それでもこの日、この場所で何があったか。いや、この日この場所で、
「そうかよ。ただそれも真実からは程遠い。オマエらの都合の良い事実を伝えるなら、DAと何が違う?」
鋭い指摘だ。一面の真実でもある。「持てる者」の作為が人々の自由を、選択を狭めんとすることをして「バランスが悪い」と断じる真島ならば、僕の語る理屈に寧ろ不満はあって然るべきだろう。
無論、同じ問いは僕の中にもあった。否、今なおあり続けている。故に、答えも自然と出てきた。
「何も伝えないだろうあの連中と一緒にされるのは心外だな。僕たちは全てをなかったことはしないさ」
一度茶化すように肩を竦め、おどけるようにそう答える。
対する真島は片眉を上げ、やや不機嫌そうに目線をこちらに向けてきた。
その反応も、織り込み済みだ。一転して真剣な声色で、僕は言葉を継いだ。
「ただ真実とは劇薬だ。それを伝えることだけが、国を利するとは限らない。さっき言っただろう、その先に何があるかは」
まさしく、これまで真島に向かって言ってきたことの繰り返しだった。
「平穏のために全てをなかったことにしたいDAと、受け入れられない現実を認めないこの国の人間が暗黙のうちに『結託』して、全部は『なかったこと』になる。こんな大ごとですらそうなる、そうできるとなれば、奴らはますます調子づくだろう。そしていつかそれは、取り返しのつかない結果を生む。今は『行い』を縛るだけのものでも、いつの日かそれは『思想』にすらも及ぶ。僕は、或は僕と志を同じくする人たちは、そう思った」
なら、どうすべきか。どうすれば、その未来を回避できるのか。
「――出てきたのは、折衷案だった。僕たちは奴らに、DAに『恩を売る』ことにしたんだ」
真島の表情が、少しだけ変わる。ここから望む彼の瞳に、こちらの話に多少の興味を持ったかのような、そんな光が宿った。
「奴らとて、いくら消耗品でもリコリスの損害は惜しい。隠蔽の手間もかかる。だからこちらの主張を通しつつ、その面倒を引き受けた。文句は言わせないぞと」
――わかるだろう。
言外に趣を込めて、真島を見る。
「その恩で以て、奴らの行動を縛る。将来に向けての交渉材料にもする。そのためにお前の起こそうとした事案を、利用しようと考えた」
「つまりオマエらは、俺のやったことの上で『政治』をしたわけだ」
「そうだ」
首肯する。なるほど、言い得て妙の物言いだった。
万人の大義を折衷するのが「政治」であるのなら、僕たちが僕たちの理想として掲げるべきは、畢竟そんな「政治」の産物に他ならないのだろう。
「誰か一人の『正義』を押し付ける傲慢を、僕たちは認めない。『政治』とはつまり妥協で、そして漸進だ」
右手を掲げ、指を突き付ける。そして、きっぱりと言い放った。
「お前やDAみたいな、極端から極端に振りきったやり方を選ぶほど、僕たちは子供じゃないんだ」
完全なる理想などこの世にはなく、果てない夢を求めて全てを壊しつくす愚かさを、僕たちはとてもよく知っている。
だから僕たちは敢えて選んだのだ。固より我々のような人間にとって、それ以外の道など初めから取りようがなかったのだから。
真島が、大きく鼻を鳴らした。口の端に笑みを浮かべながら、腕を組む。
「面白れぇことを言うなぁ、オマエ」
出てきたのは、こちらを「評価」するかの如くの物言いだった。
「ただまあ、オマエたちが何を考えていたのかは、分かった。くだらない理屈をゴタゴタと並べるようならここで今すぐ殺してやろうかと思ったが、結構聞きごたえがあったぜ」
表情の中に幾許かの感心の色を含めて、鷹揚に頷いて見せてくる。
空気が緩み、向けられていた殺気も気づけば霧散していて、寧ろどこか友好的な雰囲気すらも、今の真島からは感じられた。
一方の僕は、否応なしに理解する。
つまりこの男は、ハナから対等の立場でこちらの言うことを聞くつもりなどなかったわけだ。
そうでなければ、僕の「釈明」を上から目線で評定して、結果として出てきた言い分を「面白かったから認めてやる」などと言えるはずがないのだから。
はっきり言おう。許せなかった。
仮令真島がこの場における絶対的強者で、事実として今僕の命を握っているのもまたどこまでも彼であるのだとしても、この期に及んで自らの在り方に露ほどの疑問も抱かない、反省もしない傲慢さを前にして、頭を擡げる反抗心交じりの苛立ちを、止めることなどできなかった。
右手に力が入る。気づけば、心中を一つの記憶が支配していた。
言うまでもない、あの夏の夜のことだ。
夜の闇を切り裂く無数の車のヘッドライトと、それに囲まれて只中に浮かび上がった千束の姿が、脳裏に鮮明なまでに映し出される。
それは消えることなく、現実の視界の中にすらも重なって見えた。
まさしく、未だ忘れ得ぬ悪夢だった。できれば封印してしまいたいほどの。
同時に自覚する。あの時懐いたこの男に対する烈しい憤りは、未だ心の奥底に渦巻いたまま、ずっと消えずにいるのだと。
猛り狂う胸中が、視野すらも狭める。震える唇を開いて、押し殺した声がこの場に響いた。
「何を、他人事みたいに。お前のやろうとしたことがどこまで愚かなのか、もう一回言われないと分からないのか」
制御できない怒りが、うねりとなる。何か言ってやらねば気が済まない。
理屈でもなく理性でもなく、感情の命ずるままに、僕は「余計な言葉」を口走っていた。
「いや、そこまで考えなしだから、僕に目を付けられるようなことをしたのか、お前は」
そんな、言葉を。
へぇ、と声が聞こえた。声の主は言うまでもなく真島だ。その目も、面白いとばかりに細められる。
「またどうして。なんかしたか? オマエに。俺は」
「ふざけるな」
揶揄うような問いかけに、
声がひび割れ、掠れた。己が今置かれている状況すらも半ば置き去りにして、自らの立つ場所からこの身すらも乗り出すように、僕は真島に食ってかかっていた。
「忘れたとは言わせない。お前は、あの子を……千束を、あの時に」
低く低く押し込めて、それでも強くなる語気を隠せない。秩序だった語り口など不可能だった。
断片的な言葉だけが漏れて、意味すら不明瞭な語順で吐き出されていく。
「『あの時』ぃ? ……ああ、なるほど」
当然に真島は、暫し怪訝そうに片眉を上げる。しかしそれでも、彼もまた程なくしてぽんとその手を叩いた。思い至るところがあった、と言うことだろう。或はあの日の出来事は、この男にとっても記憶に新しいものであったということなのか。
ただ浮かべている表情は、どうにも晴れやかさとは無縁のものだ。まるで得心が行っていないとばかりに、真島はこちらの方を見た。
「つったってなぁ……怒るようなことかよ、あれが。多少ボコった程度だろ」
「お前にとってどうだったかなんて、どうでもいい。僕はあれで、心に決めた」
肩を竦めて放たれたそれは、僕と彼の間にある温度差をなにより顕著に示している。
ただいずれにせよ、真島に僕の怒りを理解してほしいなどとは思っていない。共感を求めるような相手でもない。必要すらもなかった。
ただ単に、決定事項になっただけだ。真島のやることを全部台無しにすると、ぶち壊しにしてやろうというのは、あの日の夜からの、僕の内なる決意だった。
目を瞑り、また開く。気を落ち着け、震える喉を押し殺して、真島のことを見据えた。
そして、一息に言い切る。
「『お前の思惑通りになんて何一つ進めさせはしない。全部ご破算にしてやる』ってな。……運の尽きだったな、僕を怒らせたことが」
それを聞いた真島が、目をぱちくりとさせた。
静寂が場を満たす。いまいち掴みどころのない空気が、この展望台の中に漂っていた。
その中で、沈黙を破ったのはやはり真島の方からだった。
「なるほど。それがつまり、オマエが首を突っ込んできたきっかけなワケだ」
ようやくにして得心が言ったような、そんな口ぶりだった。
僕は、ただ黙って頷く。どういう出方をかの男がするか、少しだけ冷静になった頭が、そこへと気を回すように警告していた。
そうか、そうか。真島は、そう口の中で反芻する。小さく二度三度と頷く姿は、僕の放った言葉の意味をゆっくりと咀嚼しているようにも見えた。
さあ、どう出る。場合によってはすぐにでも動けるようにと、小さく腰を落として備える。
そしてそんな僕を前にして――真島は、突如笑い始めた。
哄笑でもなければ、ましてや嘲笑でもない。もはや
僕と彼、二人しかいないこの展望台の空間で、真島の笑い声が大きく響き渡る。そのまま五秒、十秒と続いたその声の果てで、ようやく笑い終えた彼の目には、涙すら浮かんでいた。
「おっもしれぇ……! やっぱ面白ぇよ、オマエ! 最ッ高だな!」
何度も手を叩きながら、そう言ってくる。
豹変した態度に戸惑うばかりの僕に向かって、真島はきっぱりと告げてきた。
「やっぱあれだな。
いきなり何を言い出すかと思えば、飛んできたのはそんな言葉だった。
「何を……」
「いやさ。可愛いツラしてやることえげつねぇのも、ご立派な理屈を掲げてもそれを投げ捨てて私怨むき出しにしてくるところもさ。いいじゃねぇかそういうの。俺の大好物だぜ」
僕は未だ、当惑の中にいる。
それも当然だろう。何せ全く理解できないのだ。本気で言っているとも思えなかった。
今までのやり取りの中で親近感を感じさせるようなものなど、一つとしてなかったはずだ。僕にとっても、真島にとってだってそうであるはずだった。
しかしそんなこちらのことなどお構いなしに、真島はその前のめりな姿勢を崩さない。
「聞いていたのか、お前は。僕がどう思っているか、お前のことを」
「ったりめぇだろ」
またも間髪入れずに返してきた彼は、小さく己の肩を竦めた。
「ま、分かるぜ。オマエが俺のことを気に食わねぇっていうのも。けどな」
からかうように口にして、これ見よがしに一度呼吸を入れる。その足が一歩、前へと踏み出された。
こちらへと歩を進めた彼は――そこで何を思ったか、僕に右手を差し出してくる。
そして、言った。
――オマエ、俺と組まねぇか、と。
「何を、馬鹿なことを」
それがまず口をついて出てきた僕のことを、誰が責められようか。
まるで理解に苦しむ提案だった。ここまでの話の中で、真島と僕の在り方がどれほどずれているか、相容れないものなのか、互いに理解したはずだろうに。
「そもそもお前、それ千束にも言って、断られたばかりだろう」
「痛いこと突いてくるじゃねぇか。……けど俺は本気だぜ?」
こちらの言葉を気にするそぶりも見せずに、真島はまっすぐ僕の目を覗きこんできた。
「だってそうじゃねぇか。俺もオマエも、この国が『行きつくところ』まで行ってるのは分かってんだ。どうにかしねぇとヤバいことになるって、オマエも言ってただろ」
違うか? そう念を押して、彼の言葉はまだ続く。
「それをどうにかしようってんなら、結局分からせるしかねぇんだよ、『平和の意味』ってやつを。そうじゃなきゃ、それを守るコストにも価値にも、いつまで経っても気づきゃしねぇ。覚悟も決意もなく惰眠ばかりを貪って――その成れの果てが、この国の今だ。そうだろ?」
答えを、返せなかった。
そして返せなかったことこそが、恐らく真島に悟らせた。
そのことについて否定することは、僕にはできないのだと言うことを。そこに一定の正しさを、感じてしまっていることを。
「そうさせたのはヤツらだ。DAとかいう腐った連中だ。だから俺はあれを潰す。絶対に潰す。潰して、バランスを取る」
その決意の表明が、未だ差し出されたままの右手が、あり得てはならないはずの事実を僕へと伝えている。
「オマエもそう思ってるんだろ? だったら、あの連中をぶっ潰すまでなら、俺とオマエは組めるぜ。……こっちに来いよ、『参謀』」
それの名を、「誠意」と言った。真島は間違いなく、この期に及んで、僕に対して誠意を向けていた。
「評価してんだぜ、俺はオマエを。最低でもこの国の有象無象の連中とはちげぇってな。『ダメなものはダメだ』なんつう頭の固ぇ考えで、なんにも変わろうとしねぇバカどもとなんざ、比べ物にならねぇって。ああ、あと気が強ぇのもいいな」
称賛の言葉を重ねて、真島は笑う。今までのような攻撃的な、嘲弄の含みを持った笑みではない。より純粋で、ともすれば
そして彼は、一つの「約定」を口にする。
「だからさ、約束してやるよ。オマエがこっちに来るってんなら、
――暴れるのが性分の俺だ。多少の乱暴にゃ、目を瞑って欲しいがな、と。
そう言葉を結びこちらを見据える真島の眼差しは、あまりに真っすぐで、そして真剣なものだった。
つかみどころのない男だ。言葉の半分も本当かは分からない。今のその約定だって、守られるなどと信じられるはずもない。
客観的な視点に立てば、それが評価のはずだった。これほどまでに僕を買おうとする、その理由すらも分からなかった。
大義を語り、一方で働くのはただの狼藉に終始していて、だから彼の持つ「錦の御旗」は単なる方便に過ぎないと、その疑いはこれまでずっと強かった。どんな思想をこの男が語ろうが、所詮は上辺のものにすぎないだろうと、きっぱり断じることが正しいはずだった。そうできるはずだった。
しかし今、その前提が揺らいでいる。こちらに向かって手を差し出す真島の目は、自身の語る言葉が真実によるものなのだと、確かに主張していた。
「信じて欲しい」と、言っていたのだ。疑うことは、どうしてもできなかった。
怒りに燃えていたはずの内心に、せめぎ合う感情が生まれる、そして次第に、自分の中で一つの決心が固まってゆく。
そうだ。
だとするのならば僕もまた、己の思うところを隠すことなく伝えねばならないのだろう、と。彼が今僕に向ける視線に宿るものの正体を、「誠意」であると思っているのならば。
それが人としての正しい在りようだと、信じているからだ。相手が誰であろうと、どれほどに相入れぬ主義を持つ者であろうと、その前提は崩したくなかった。崩せなかった。
無論、返す言葉は決まっている。彼と共に立つことなど、初めからできようはずがない。
それでもなお、僕は思っていた。ただ自らの怒りと蔑みによって、差し出された手を心のままに払い除けることだけは、決してやってはならないと。
なればこそ僕は今、これまでの刺しあいのようなやり取りを離れて、自ら望むところの遍くを、紐解いていかなければならないのだろう。
裡に抱えたまま滾っているばかりであった怒りを、鎮めていく。私情の全てを一つ一つ削ぎ落すが如くに、深呼吸を重ねる。
その末に、僕はようやく口を開いた。
「……真島」
「なんだ」
呼びかけて、少し黙る。ゆっくりと外へ視線を向けて、言葉を継いだ。
「僕はさ、結局どうあっても、この国が好きなんだ。この街が好きなんだ。好きだからこそ、ここにいる。ここで生きているんだから」
眼下に広がる夜景は、人々の生活の証だ。眠らないこの街の、象徴でもある。
そして真島に説いてみせた通りに、それは僕の街だった。いつもの街だった。
「お前だって、分かっているだろう。今日のような明日がやってくる世界の、どれほど得難いものなのか」
明日をも知れぬ世界の中で、血と硝煙に沈むような生き方をしてきたであろう真島と言う男は、それを間違いなく僕よりも知っているはずだった。実感しているはずだった。
真島の方は、見ていない。だからどういう反応を示しているかも分からない。それでもこの場所に揺蕩う空気が、彼の傾聴の姿勢を表していた。僕の言を、否定しようとはしていなかった。
「だから僕たちが生きているこの場所は、どうあったって価値があるんだ。そこに
だからこそ僕は、訥々と語り続ける。
僕が今の職を望んだ、僕自身の原点でもあるそれは、今もなお変わることなく、行動指針の一つであり続けていた。
「勿論、僕だってこのままでいいなんて思ってない。何もせずにいたら、できずにいたら、取り返しのつかなくなるときはもうそんなに遠くはないんじゃないかって、そういう危機感だってあるさ。……だけど」
そこで、視線を正面に戻す。視界の中に納まった一人の男が、真島が、静かに佇んでいる。未だ差し出している右手をそのままにして、僕の言うことにただ耳を傾けていた。傾け続けていた。
「だけど、それじゃダメなんだ。そのやり方じゃ。だってお前が壊そうとしている秩序の中には、ここに生きている人たちの今日も、当たり前にやってくるべき明日だって、含まれてるんだ。お前はそれを、惰弱だって言うんだろうけど」
息を大きく吸う。己の拠って立つところを顧みて、その根源が、言葉になった。
「それでも、僕にとっては大事なものなんだ。奪うことなんてできない。壊すことなんて」
そうだ。それこそがまさに、真島と言う男と僕との決定的な差異なのだ。彼のやり口を、絶対に認められない理由なのだ。
「だって本当に、尊いものなんだから。僕というたった一人の人間の身勝手で、消し去っていいものなんかじゃないんだ、絶対に。……そんな傲慢、許されるはずがないだろうって」
だからこそ、僕は今言わねばならない。この男に突き付けねばならない。自らの出した、たった一つの答えを。
「お前がやってきたことも、やろうとしたことも、受け入れることはどうしてもできない。意見も選択も、尊重はできない。それでも、認めはするよ。そこに、お前自身の『正義』があったことは」
それはまず、何よりも先んじて伝えるべきことだった。
そうだとも。理もなく意味もなく、人の言葉を解することもない獣にも等しいと、そうこの真島という男を断ずることは、僕は絶対にしない。
なぜなら彼には確かに、意思はあったのだから。果たすべき目的もあったのだから。この国の現状を憂う気持ちの中に、僕のそれと少しだけでも重なる何かも、含まれてはいたのだから。
「だけど――それは僕の正義とは相容れない。相容れない者と、轡を並べることは、できない」
真島を見据える。その拒絶の言葉にも、未だ右手を下すことなく、激発することもなく、彼は僕に視線を向け続けていた。
真剣な面持ちで、真摯さすらも帯びた表情で、ずっとこちらの言うことを聞き続けていた。
「でも僕は、だからこそ、責任を取る。変わることを、懼れはしない。立ち向かっていくことも」
眼差しに意思を載せる。それは同時に覚悟でもあった。
この国に横たわる宿痾を指摘して、「外科的処置」なしには決して救えはしないのだと断じた真島に、「それでも」と抗う僕自身の、決意表明にも等しかった。
そんな、己の抱える思いを言葉にしていくうちに、僕は気づく。
今回の事件の中で、どうして僕がこうまで我を通そうとしたのか。ただ現状に安穏とし、与えられた仕事の範疇で任を果たすだけのことを、よしとしなかったのか。身を支配する怠惰を、棄て去れたのか。
言うまでもない。あの子がいたからだ。千束と出会えたからだ。
彼女の考えに触れて、思いに共感したから。DAのリコリスの中にあってあの意志を持ち続けられる、徹し続けられる確固たる精神性を見て、惰性に流されていた自分を愧じたから。
だから、戦うことを決めた。一歩前に進めた。その末に今、僕はここに立っているのだと。
「僕は僕のやり方で、この国と向き合う。いつか糾されるべき不合理と、それでも僕は決着を急がない。守るべきものは守って、その上で戦う。変えてみせる。お前とは、違って」
ただそれを目の前の彼に言ってやるのは、余りに勿体なくて――だからその結果だけを、僕はこの場所で突きつけた。
それを以て、真島に対する答えの全てとした。
「……そうか」
僕の言葉に、真島は小さな呟きを残す。漸くにして、己の差し出した右手を下ろした。
そのまま彼は自らのコートの内ポケットに手を突っ込んで、何かを掴み、引き出していく。
程なくして覗いたそれの正体は、もはや言うまでもない。
「なら、仕方ねぇな」
彼は、
「オマエも持ってんだろ? 構えろよ」
右手に目をやる。確かにそこには、展望台に上がってからずっと握られたままの、僕の拳銃がある。
真島に視線を戻す。彼はもう一度、目で僕のことを促した。構えろと、そう言外に告げていた。
「言葉で決着がつかなかったのなら、あとは
バランスが悪いからな。そう呟いて、そして銃を持たない左の手で、己のスマホを取り出した。
時限爆弾の制御端末か。カウントダウンする数字は、確かに残り三十五分と少しを示していた。
その姿勢のまま、彼は言った。
「三十分。俺から逃げ回って見せろ。そしたら、爆弾を止めてやるよ」
眼前の彼が、にわかに殺気立つ。咄嗟に鞄を構えながら、僕も片手で彼に銃を向けた。向けざるを得なかった。
そして――
「さあ、ゲームスタートだ」
それから、僕は走り出す。
全ては生き残るために。
みんなのいる場所に、帰るために。
――終局は、もう、すぐそこに。
(12/21 10:04) 説明不足・論理の飛躍があったところを加筆
(12/21 12:02) 編集時に再発していた誤字を修正
12/23 題字に特殊タグ(プログラミング用フォント)適用
2024/2/1 超々大幅加筆修正