意識の彼岸で、僕を呼ぶ声がした。
瞼の向こうに、明るさを覚える。誘われるように、意識が浮上した。
堪えきれなくなって開いた目に、眩いばかりの光が刺さる。境界線を失い、ぼやけ切った視覚がまず認識したのは、ただ一面に広がる白、それだけだった。
幾度かの瞬きの末、ようやく己が網膜の中に像が結ばれる。
トラバーチン模様の天井が、そこにあった。いつも自室で見上げる景色と違うことに一瞬の疑念を抱いて、しかしすぐに理解する。
今横たわっているここは、病院のベッドだ。
耳を澄ませば、小さくも規則的な電子音が聞こえてきた。恐らくは、僕のバイタルチェックをしている機器からのものだろう。
沈み込むような静寂が支配する空間に、空調の稼働音と、その小さな電子音だけが揺蕩う。見える視界の全ては、寂寥感すらも覚える真白の世界だ。
顔をわずかに横へとずらして、左の方を見た。レースのカーテンが窓を覆って、外の景色は分からない。しかし光はそこからも射し込んで、この部屋を明るく照らしていた。
朝か、或は昼か。時間はいつ頃だろう。
いや、そもそもあの日あの場所から、一体どれほどの時が過ぎているのか。
ぼんやりと、そんなことを考えた。
意識を手放す前の、最後の情景が脳裏に浮かぶ。
混濁し、鈍化する認識の中、寒さも痛みも、明るさも暗さも、全てが溶けあい交じり合って、底のない闇へと消え去ってゆく。
視覚は散り、聴覚は塗りつぶされて、世界は彩度を失う。剥落する自我と、沈んでゆく知覚の淵で、いつか感じた花の匂いだけが、最後に残った。
それは決定的で致命的な欠落を伴った、終焉へと向かう記憶だ。
だからこそ、振り降ろされたはずの死神の鎌から逃れた今を、清らかな白に覆われた五感を、より鮮明に自覚する。
つまり、僕は生きている。助かったのだ。
千束の、たきなさんの、或は二人を呼んでくれたクルミの――否、全員のおかげで。
心中に広がるのは、安堵にも似た情動だった。ここにある確かな己の存在を、満腔を以て実感するが如くに、震える喉でただ息をつく。
しかしその行いは、僕があの時自らの両手に握っていた拳銃の、引き絞るには痛みすら覚えるほどに重い引鉄の感触を、否応なしに呼び起こすものだった。
硝煙の匂いすらも、纏わりついているように錯覚する。反射的に目を瞑っても、代わりに網膜の裏に強く焼き付いたままのあの夜の情景が、砕け散る硝子の煌きと共に闇の中へとゆっくり墜ちてゆく一人の男の姿が鮮やかに蘇るばかりで、この身を覆う幻を振り払う助けになどなりはしない。
即ち今の僕の五感を冒しているのは、未だ追い出すことも、忘れることさえも叶わない、克明なまでの記憶の射影に他ならなかった。
いや、「未だ」というのは正しくない。世界が刻んだ時の如何は別にして、僕の主観においてそれはほんのついさっきのことに相違ないのだ。
僕が自ら生き残るために一人の男を殺したのは、真島を殺したのは、「遠い日の過ち」などでは断じてない。どこまでも厳然とここにある、この瞬間における確固たる事実だった。
自らの選択を、齎した結果を、今一度顧みる。
確かに、彼がこの半年以上に亘って続けてきた暴挙を、許すことなどできようはずがない。相容れることのない正義を持つ、野放しにしておくわけにはいかない相手でもあった。
だからあの時僕が手を下したことで、この国でこれから流れるべき血の、或は涙の量というものは、きっと少なくなるのだろう。減りはするのだろう。
それでも、僕は思う。以て己の行いの免罪符になど、していい筈もないだろうと。僕が負った咎は、寧ろ故にこそ重いのではないかと。
僕はあの時、「必ず生きて帰る」と約して、「そのためにはこうするより道はないのだ」と、他でもない自らの意思によって握る銃の引鉄に指をかけて、そして引いた。
真島をあの場所から落とせば、彼の命の助かるはずもないことを分かっていて、僕はなお撃つことを選んだのだ。如何な大義を後付けしようが、やったことは何も変わらない。
そうだ。理屈と膏薬はどこにでも、どこからでもつくけれども、結局己の死にたくない一心で人を殺めたという「結果」を、なかったことにはできない。
ならばそれは僕があの場で否定したはずの、我欲による暴力の行使と何が違うのか。やれ「正当防衛」だ、やれ「急迫不正の侵害」だなどと、脳内に去来する「法の許し」の数々も、慰めになどなるものか。
僕が「一人の人間の命を奪った」事実は消えず、また薄れることもないというのに。
だからあの時僕は、超えてはならないはずの一線を、間違いなく超えてしまったのだ。
今日の僕は、あの日より前の僕にはもう戻れない。心の底に重く深く刻まれていたのは、喪失感にも似た罪悪感だった。
そこで、ふと思い立つ。顎を引いて、目線を己の身体に向けた。
視線の先、僕の右腕は肩の部分が包帯でぐるぐる巻きに固定されている。もう一方、左腕の方には点滴が繋がれていた。
なるほど、道理でさっきから右腕が動かないわけだ。ただ右腕自体の感覚がないわけではない以上、不可逆的な欠損というわけではないのだろう。
大方骨折か、或は脱臼か、そんなところだろうか。そう思って、少しだけ安堵する。
固定されていない左腕を、布団から外に出す。そのままに掌を、顔の上に翳して、ぼんやりと眺めた。
あの展望台の上で感じた全てが、この手にはまだ残ったままだ。引鉄の軋む金属の感触も、腕ごと貫くようなリコイルを受けた鈍い痛みもまた、ずっとここには刻まれている。
決して、夢ではない。幻でもない。ただどこまでも、逃れ得ぬ冷たさを帯びた現実であることを、否応なしに思い知らされた。
ならば今の僕は、どれほどまでに罪深いのだろう。何となれば僕はあの時、よりにもよって千束の目の前でその一部始終を見せたのだ。
あれほどまでに誰かの命を奪うことを、人死にを嫌うあの子の目と鼻の先で、僕は確かに人を一人、殺してしまったのだ。
言い逃れもできない、取り返しのつかないことを、僕はしてしまっていた。
ならばこれより先、どんな顔をしてあの子に向き合えばいいのだろう。
今更に過ぎる悔悟の情がたちまちのうちに胸中を支配して、しかしその時部屋の右隅で、小さな音がした。
ノックの音。
ドアが、スライドする音。
後に続く、足音。
それがそこで、不意に止まる。
「――っ」
息を呑む音が、ここからも聞こえた。駆け寄ってくる。わずかに顔を右へと向けて、そこに覗いた「誰か」の顔を見た。
白んだ金糸、紅の髪紐。琥珀色の、大きな瞳。
「――……」
口を開けども、何も出てこない。長らく言葉を発する機会がなかったかのような、掠れて、音をなしていない息が、そこからはただ漏れるばかりだった。
――千束、ごめん。
言いたかったのは、ただその一言だけだったのに。
僕の視線の先、ベッドのフレームを掴んで、千束がこちらを見下ろしている。
そして彼女の右目から、一筋涙が零れたのが見えた。
僕の横たわるこの病室には今、店の面々が勢揃いしている。千束はもちろん、たきなさんも、クルミも、ミカさんもミズキさんも、文字通りの全員が。
あの後千束はすぐさま踵を返して、走るように外へと出て行った。みんなを呼びに行ったのだろうか、そこから三十分も経っていないのに、もう彼らは誰一人欠けることなくここに集まっていた。
それを見ながら、なんとか動くようになった口を開いて、言葉を発する。
「これは、皆さん、お揃いで」
結果出てきたのは、そんなつまらない台詞だった。
生きていることに、助けてくれたことに対する感謝を伝えようとしたのに。そうでなくても、謝罪の言葉を口にできればよかったのに。
随分と陳腐で、失礼な発言が出てしまったものだ。しかし後悔しても、もう遅かった。
「……元気そう、では、ないな」
対して真っ先に口を開いたのは、ミカさんだった。
「それは、まあ。手ひどく、やられました、もので。……そうだ、今日、は、何月、何日、ですか」
「十一月二十四日だ。お前が延空木で死にかけてから、ちょうど二週間だな」
発した問いに、クルミが答える。やはりというか、ひどく不機嫌そうな顔だった。
――しかし、そうか。二週間か。随分と長く寝込んでいたんだな、僕は。
そう、経った時間の長さについて思いを馳せたと同時、僕ははたと気がついた。「ならば僕たちには、重大な問題がまだ一つ、残っているのではないか」、と。
擡げた懸念の促すままに、問いかける。
「そう、か。――クルミ」
「なんだ」
「千束の、心臓。移植は、無事に、終わったか」
訊ねた僕を一瞬だけ睨んで、それでもクルミは答えようと、口を開いた。
「ああ、それなら――」
「――いい加減にしてよッ!!」
そこに、鋭い声が割り込んだ。
クルミの言葉が遮られる。誰かが猛然と、速足で近づいてきた。千束だ。
ついさっきと同じくベッドのフレームを強く握って、しかし今度は身を乗り出すように、僕のことを覗きこんできた。
「今は私のことなんてどうでもいい! 隼矢さん、みんなあなたが心配だからここにいるんだ! それを、どうして……ッ!」
真っ直ぐ僕を見て、発された声色には赫々たる怒気を孕んでいる。
「千束……」
「私だって! 私、だって……!」
しかし、続いた言葉はそこで力を失った。瞳が揺れて、目許が潤む。
「私に、『生きろ』って言ったのは、あなただったのに……っ」
顔が、伏せられた。さらりと下りた彼女の髪に隠されて、表情は見えなくなる。
それでも彼女の顔の下、布団に一滴落ちた水が、僕にすべてを悟らせた。
そうだ、間違っていた。言うべき順番も、何もかも。そもそもにして、それは僕が最初に言おうとしたことだったのに。
「……ごめん。ごめんね、千束。みんなも」
彼女から目線を外して、ほかのみんなへと目をやる。
ミズキさんは、呆れたような目で僕を見ている。たきなさんは、やはりというか、どこか怒りを抱えているようにも見えた。
それでもみんなが浮かべる表情には、どこか安堵が見え隠れしているような、そんな気がした。
「ごめん、なさい。心配を、かけました」
言ってから、千束の方に目線を戻す。いやいやと首を振っている彼女に、それでも呼びかけた。
「千束。――こっちを、向いて」
びくりと肩を震わせて、彼女が顔を上げる。こちらを向いた千束の、充血して赤く染まった目を、真っ直ぐに見据えた。
「ありがとう。君の、おかげで、たきなさんの、おかげで、僕は、生きてる。生きて、帰ってこれた。だから――本当に、ありがとう」
姿勢をそのままに、感謝の念を、ただ口にする。
彼女はそれに息を一つ、呑み込んで――そして、僕の胸元に飛びついた。目線の下、呼吸で上下する布団が、強く握られる。嗚咽が聞こえた。
「……ごめんね。本当に、ごめん」
取り縋るように僕に身体を、顔を押し付けて、彼女は押し殺したような声を上げ続けている。
そんな千束に手を添えるのは、今の僕にはどうしても憚られた。その頭にも、肩にも、背中にさえも。
だから僕は彼女をただ見下ろして、そう呟いた。それだけを呟いた。
斯くしてその日、その目覚めは、染み入るほどの静けさに迎えられてのものとなった。
抱えた痛みや後悔もそのまま、心の底に沈む感傷の行き場も見つからず、名残惜しげにこの部屋から立ち去っていく千束にかける言葉を、結局僕は最後まで見つけることができなかった。
しかし、である。病院という施設には、凡そそういった「情緒」の類を勘案してくれる者など存在していない。
はっきり言おう。以降の僕は、全く以てそれどころではなくなってしまったのだ。というより、「『地獄』以外に表現の方法がない」とした方が、寧ろ正しいだろうか。
即ち――次の日からの僕を待ち受けていたのは、果てしない
始まりは目覚めたその日の夜のこと、僕が昏睡状態から回復したことを知らされた担当医が、例日の回診のついでにと僕に対する治療計画を話してくれた時に遡る。
かの医師が言うには、幸いにして肩と腿、両方の銃創とも重要な神経や動脈に損傷を与えるものではなかったようだ。
意識が落ちる前の血溜まりから考えて、てっきりどちらかの動脈はやられたものとばかり思っていたが、彼の言を借りるならば、「もしそうであったのなら真弓さんは既に生きていません」、ということらしい。
何でも、そもそも銃弾によって動脈を損傷した場合、よほどうまく止血処置ができなければ通常は出血性ショックによって十分以内に死に至ってしまうのだという。特に今回のような太腿の貫通銃創が原因で大腿動脈を損傷した場合は、止血自体の困難さから救命は相当に厳しく、助かる見込みはかなり低いと言わざるを得ないらしい。
ならば僕の実際のところはどうであったのかというと、大腿部の浅い部分にある比較的太い静脈*1を銃弾が貫通したことが大出血につながったようだ。それから大腿動脈に並走する深部静脈*2の一部も損傷していたと、彼は付け加えた。
このうち、特に後者に関しては、少し間違えれば大腿動脈の損傷による失血死がありえたと言うことを示している。つまり僕は文字通り、九死に一生を得ていたのだ。
ただ、負った怪我についてはそれだけでは終わらなかった。
銃弾による血管の損傷に加え、銃撃を受けた左の大腿骨がごく一部ではあるが剥離していて、右肩については亜脱臼を起こしていた、と担当医は今の僕の状況を説明した。
脱臼に関しては、恐らく最後の最後で真島を投げ飛ばした時の反動だろう。いずれにせよ完全に固定されている右肩の理由はそういうことで、だから僕の推測は部分的には当たっていたというわけだ。
兎も角そういう経緯で、僕はこの病院の救急科に担ぎ込まれたのち、輸血と静脈の吻合手術に加えて右肩の固定作業と、更に左腿についても切開の上骨片の除去を受けていた。そこへきての二週間の昏睡状態が重なったことで、今の僕の身体は自立歩行すら満足にできないほど衰えてしまっていたのである。
斯くして僕は目覚めてからというもの、つかまり立ちからの歩行訓練を反復する生活をひたすらに続けている。
リハビリ開始から一週間経った十二月頭からは、加えて右肩の固定を外しての可動域訓練も始まって、良くも悪くも自らの運動機能のこと以外に割く意識の余裕というものを、すっかり失くしてしまっていた。
ただ僕は一方で、リハビリ生活の合間を縫ってあの日からの顛末に関するいくつかの情報を得ていた。
うち殆どは、二日に一度というハイペースで見舞いに来てくれるクルミから齎されたものだ。
その中、まず何より僕が知ろうとしたのは、千束についてのことだった。
クルミが見舞いに来てくれた初日、僕は自分の体調のこともそこそこに、千束の「その後」と、現状についてを訊ねた。
見舞客に対して訊くようなことでないのは、僕とて承知している。当然にというか、彼女もあまりいい顔はしなかった。
それでも最終的にはこちらの熱意を汲んでくれたのか、クルミは千束についてのあれこれを、一つ一つ詳らかに僕に聞かせてくれた。
しかし彼女の語ったことは、またしても僕の中に重い後悔を想起させるものばかりであった。
あの日の延空木の上で、僕に対する応急処置を含めた諸々を終えたあと、千束は暫くの間
まず手始めにと、クルミはそう僕に明かした。
――あの千束が、半狂乱になった。
一聞するに、あり得ないことだった。話したのが彼女でなければ、信じることもなかっただろう。己の芯を強く持って、折れることもぶれることもないのが錦木千束という少女の強さであると、僕は疑いもせずに思っていたのだから。
しかし事実として、彼女はそうなったのだ。原因は、言うまでもなく僕にある。
広がってゆく暗澹たる気持ちを、抑えられなかった。
僕は一体どれほどに、千束のことを傷つければ気が済むのか。
あの日の軽はずみな決断と行動の結果がこれならば、僕はもはや千束に顔向けすることなどできないのではないか。
だから言ったろ、とクルミが言う。あの時の僕の軽率さへの叱責か、或は今、千束について訊ねたことを咎めているのか。
向けられる呆れ交じりの声色とは裏腹に、彼女の表情はどこか痛ましさをも内包している。
あらゆる意味で、僕は愚かだったのだ。それを自覚させられる瞬間だった。
ただ兎も角として、話には続きがある。
延空木に急ぎ乗り込んだクルミは、血溜まりに沈む死にかけの僕と、見たこともないほどに取り乱した千束の姿を目の当たりにした。
混乱しても、或はつられて恐慌状態になってもおかしくはない光景だ。しかし翻って、彼女の反応は速かった。
まず僕の方については、すぐさまやってきた――呼んでくれたのはたきなさんらしい――救急車に乗せて速やかな応急処置を進める。更に僕が事前に共有していた市ヶ谷の病床について向こう側と交渉して、千束の一日早い入院の手続きまでも済ませてくれたのだという。
斯くて彼女はそこで無事に、新しい人工心臓の移植を終えることができた。
「そこ」、と言うのは、つまり今僕が入院している
いくつか理由はあったようだが、第一には千束の精神安定を考えての決断だったのだという。今の状態で僕と互いに引き剥がそうとすれば、千束自身が手術を拒絶する可能性すらあると、クルミは危ぶんだ。
そうはさせない、どちらの命も喪わせはしないと、彼女は最後まで奮闘してくれていたのだ。途轍もなく大きな借りを、僕はクルミに対して作っていた。
返す言葉もない。言い表しようのない感謝と慙愧の念に頭を垂れて押し黙るばかりの僕に、しかしクルミはもう一つ、千束の現状について明かしてくれた。
寧ろ彼女からすればこちらこそが本題だったようだが、即ち今回千束に移植された新しい人工心臓の耐久性についての話だ。
曰く、新たな心臓の寿命はどんなに低く見積もっても、
全固体リチウムイオン電池によってバッテリーそのものの寿命が延びたことに加えて、高容量化と高効率化によって充電サイクルが劇的に長くなったことで、パワーサプライ周りの耐久性が人工心臓の部品そのものの耐用年数を上回ったことが主な理由なのだという。何でも一度充電すれば基本的にはその後一年再充電の必要がないというのだから、驚きと言うよりない。
何にせよ、次に心臓の寿命が来る頃には再生医療による彼女自身の心臓の移植を行えるようにもなっているだろう。
つまり千束はもはや、自らの心臓によるタイムリミットから事実上解放されたのだ。その点だけは、間違いなく救いだった。
知ったのは、そればかりではない。クルミや店のみんなが見舞いに来てくれる度に、自身がここで目覚めるに至るまでのそれぞれの歩みを、僕は知ることになった。
例えば、たきなさんのことについてもその一つだ。
DAの指示を途中で無視する形で真島と戦う千束の援護に出向いた彼女は、また「独断専行による命令違反」の烙印を押されかけた。ただ真島が旧電波塔にいたことで、DAの第一目標である真島の制圧を実現した功績と、最終的には相殺されることになったらしい。それはあの時点において、延空木にリコリスは
しかし、たきなさんはなんとそれを蹴った。彼女は喫茶リコリコ所属のまま、千束とこれからの生活を送る日々を選んだと言うことだ。
とはいえもともとリコリスの現役期間は十八歳までで、千束の今の年齢から考えれば、喫茶リコリコが千束の存在によってDA支部として成立するのもほぼ同じぐらいが限度となる。彼女の一学年――という言い方が正しいかはさておき――下のたきなさんはその後の一年をどうするつもりなのかと言えば、これも驚くことに千束の引退に合わせて一年間だけファーストの制服を着ることになった。
それは喫茶リコリコの支部機能の維持のために必要なファースト一人以上の在籍という条件を満たすための形式的な措置で、つまり彼女はリコリスとしての現役期間全てを喫茶リコリコの一メンバーとして過ごすことを選んだということに他ならない。或は、その先に亘っても。
彼女の中の価値観が、千束という一人の少女によって変わった。これはその象徴的な出来事だと言えた。
ミズキさんに関しては、特に語ることはない。
実のところ、リコリコ閉店の日の彼女は割と本気で曰くの「バンクーバーのイケメン」に会いに行くつもりだったらしい。
しかし結局クルミに引っ張られてリコリコに戻って、あとはずっといつも通り、今の今まで相も変わらず酒をかっくらってばかりだ、と。
一度見舞いのために僕の病室を訪れたミズキさんが自ら、不貞腐れた様子でそんなことを語ってくれた。
どこまでが嘘でどこからが本当なのかは今一つはっきりしないが、いずれにせよ彼女が今回の顛末の前後において何一つ変わらなかったことだけは確かだ。
彼女はぶれることなく彼女らしくあって、それは僕にとっては間違いなく大きな安心をもたらしてくれるものだった。
そして残るはクルミと、ミカさんの二人について。
ミカさんは僕と別れてからすぐに旧電波塔に向かい、そして僕の連絡した内容の通りに、第二展望台で吉松を発見した。ただひとつ気になるのが、吉松と一緒に拘束されていたはずの戦闘員の女性が、ミカさんが電波塔の第二展望台に行ったタイミングではその姿を消していたことだ。最低でもミカさんは、そう言っていた、らしい。
つまりあの女性はたきなさんによる拘束をどうにかして抜け出したのだ。やり口は全くの不明だが、ミカさんの言うことが正しいのだとすれば、それが事実なのだとしか言えなかった。
ただ、それならそれで、更なる疑問が生まれる。つまり、なぜ吉松は自分が使役する女性に自らの拘束を解除させなかったのだろうか、ということだ。あの場所からでは逃げきれないと思ったのか、或は女性には別の任務を与えたか。
そこまで考えたところで、僕は一つの仮説に思い至った。即ち、あの時旧電波塔で拘束されていたはずの真島がどういうわけだか延空木にいた理由だ。
推理としては、こうだ。吉松は恐らく、あの女性を使って真島の拘束を解かせた。自らの拘束を解除させるよりも前に。その理由を推察するのはあまりに困難だが、それはもしかしたら僕に対する吉松のささやかな意趣返しだったのかもしれない。彼の計画を台無しにした、僕への。いや、さすがにそれは自意識過剰だろうか。
まあなんにせよ、ミカさんは第二展望台に一人放置されていた吉松のことを確保して、殺すことなく僕たちに、公安に引き渡した。その事実だけあれば、僕にとっては十分ではあった。
一方のクルミは、あの後僕が設置したバックドアを使って、延空木の電波送信設備の制御回復、攻撃元としてのロボ太のアクセス元の割り出しとカウンターハックによる所在地の特定、そしてDAの中央管制サーバーである「ラジアータ」の機能回復と、まさに八面六臂の活躍をしたという。物理バックドアさえあれば僕も延空木のシステム復旧ぐらいはできただろうが、あとの二つは神業だ。どういう理屈でそれを実現しているのか、理解に苦しむ。そしてその後も譫言のように僕のことを呟き続ける千束を宥め、そこへきて僕の緊急搬送や千束の入院手続きと、とにかく彼女がいないことには、現状どうにか大団円を迎えられそうなリコリコの現状はなかったと言ってよかった。
そういったこともあって、僕は無事退院した暁には、彼女に何か食事を奢ると約束した。その際、金に糸目はつけないとも。
それ聞いた彼女は、かなり悪い顔で笑った。言ったそばから少しだけ後悔したが、しかしまあそこまでの無体は働かないだろう。あれで彼女は限度は弁えられる人なのだ。
而して最後は、僕自身のことだ。
目覚めてから、丁度二週間が経った、この日。
連日の習慣通り、二時間の歩行訓練を、午前と午後の二回、計四時間行う。これでも意識の回復がまだ早く、深刻な運動障害に至る前だったこともあって、歩行器付きという条件はあるものの、ある程度スムーズな歩様で歩くことができるようにはなっていた。
そしてそんな僕の傍らには今、一人ずっと寄り添ってくれる人がいる。
「調子いぃねぇ! もう随分すいすい動くようになったんじゃない?」
そろそろ掴まらないで歩けるっしょこれ! などと、いつぞやのしおらしさは既にどこかに消え去ったようなハイトーンの声が、フロアに響く。
その存在は、この地獄としか評しようのないリハビリの日々の中で、確かな僕の心の支えとしてずっと側にいた。
つまりこのリハビリ活動の伴走者として、千束は毎日僕のいる病棟を訪れてくれていた。
毎日お見舞いにやって来ている、というわけではない。千束もまた、未だ入院中の身だ。つまり彼女は今、人工心臓置換術の後の経過観察期の中にある。期間としては一か月と少し、つまり十二月の半ばまで、彼女もまたこの病院のお世話になることが決まっていた。
そしてただの経過観察で暇を持て余していた彼女は、その暇つぶしがてらに僕のリハビリに付き合っている。そういうことだった。
午前のリハビリが終わった後、すでに点滴による栄養補給が必要な身でもない僕たちは、普通に昼食をとることになる。その会場であるところの食堂へと移動するにあたって、今日まで使うようにと言われている車椅子は、相も変わらず千束が押すと言って聞かなかった。どうやら人の車椅子を押すのが楽しいらしい。そういえば「松下」の時もそうだったな、などと、つまらないことを思い出していた。
そうしてやってきた病院内食堂だが、僕たちは自分の好きなメニューを頼めるわけではない。結局のところ入院患者は入院患者らしく給食を食べなさいということで、選択の余地なく什器から渡された食事を、僕たちは粛々と机へと運んだ。
二人そろって、手を合わせる。病院食を千束と二人で食べ始めて一週間と少しが経ったが、こういう場所で「いただきます」などと唱和してから食事に手をつけるのは、本当に久しぶりのことだった。それこそ、小学校辺りが最後だろうかと、妙な郷愁すらも懐いたことを覚えている。
そして当の食事だが、これがなかなかどうして侮れない。現に前に座る彼女もまた、満更でもなさそうな顔で箸を動かしている。DAやリコリコが提供する贅沢な食で舌が肥えている彼女をしてもそうだというなら、随分と僕たちは食に恵まれているのではないかと思ってしまう。
と、そんなとこまで考えたところで、我に返った。そして千束には訊くべきことがあったことを思い出す。
「千束」
「なぁに?」
「その後、心臓の方は大丈夫そう?」
僕の問いに、箸を持ったまま目をぱちくりとさせた彼女は、ああ、と今何かに気づいたかのような素っ頓狂な声を上げた。
「心臓、心臓ね。そういや手術受けたんだったわ、私。そうじゃなきゃここにいなかったわ」
「つまり、何の違和感もないと」
僕の問いに、頷く。
「そりゃもう。正直『なんでまだここにいなきゃいけないんだよー』って感じ。経過観察っていうけど、長すぎじゃない? これちょっと」
口を尖らせて、千束は僕に言う。
「何かあってからでは遅いでしょ。心臓はそれだけリスクだよ。最後の最後、ここまでうまくやれてきたんだから」
そう反駁した僕の言葉に、彼女はうへぇ、と声を上げた。
「隼矢さんもお医者さんみたいなこと言うじゃん」
「それだけ心配してるんだ、みんな。僕だって」
「あんなに私を心配させといて? 言えた身分なんですかねぇ?」
彼女の言葉に、今度は僕が、言葉に詰まる。
「それ、は……大変申し訳なく、思っております、はい」
あの日の彼女の顔が、また脳裡に浮かぶ。思わずしぼんでしまった僕の声に、しかし彼女は笑った。
「じょーだんだよ、冗談。ありがとね、隼矢さん」
それに、と付け加えて、彼女は片目をつぶった。
「私は隼矢さんのリハビリ手伝えて、今んとこ結構楽しいよ?」
なぜか僕は、それに言葉を返せなかった。
食堂前で千束と別れ、割り当てられている病室に戻る。回復期のリハビリを残すのみの僕だが、しかし未だに個室を与えられていた。これもクルミの差配なのだろうか。つらつらと思いつつドアを開けると、中には先客がいた。
「邪魔してるぞー」
気だるげな声が聞こえて、そしてこちらに向かって振られる手が目に入る。それこそその声の主は、クルミだった。
「あれ? クルミ昨日も来てたよな」
「お前忘れたのかよ……これだよこれ」
二日に一度の見舞いのはずだが。そう思って問うた声に、クルミは呆れたような口ぶりで一つの鞄を掲げた。それはまさしく僕のもの、私物のラップトップが入ったケースだった。
「ああ……そうか、そうだったな」
「大丈夫かお前」
「失礼な。……でも助かった」
礼を言いつつ、ベッドの傍に車椅子を寄せる。
そう。すっかり忘れていたものの、僕の近況に関する情報の整理と、DAや公安側からの連絡を流石にそろそろ確認しないとまずいということで、クルミに頼んで僕のラップトップを運んできてもらっていた。リコリコに置いてきたままだったからだ。
相変わらず自力の作業が難しいので、ベッドサイドの机へのキッティングはクルミに頼むことになったが、ともかく使えるようになったそのラップトップを開いて、まずはメールや業務チャットを確認することにした。
「お前入院しててもそういうの気になるのな」
「勤め人の性だよこれは。そういうもんさ」
茶々を入れてくるクルミを適当にいなしながら、どれどれとメッセージを確認する。
あの日から四週間ほどの時が経ったせいか、恐ろしいほどにスタックされている未読のメッセージリストを捌いていけば、僕の現状に関する連絡や報告が、いくつも出てきた。
その始めに目についたのは、僕の職場である公安からの連絡事項だった。
まず彼らが言うには、僕は今回の件において二つの大きな功績を挙げたらしい。
その第一は、延空木占拠事件に関する、迅速な対応と解決を成したことだという。都民の、或は国民の混乱を最小限に留め、事態を収拾せしめたと、そう評価されていた。
もう一つとして、半年前の武器取引からの一連の事件における幇助ないし支援者としての、吉松シンジの身柄確保が挙げられていた。ただ彼は世界的な結社である「アラン機関」のひも付きである以上、より上のレベルからの高度な取引が仕掛けられていて、日本の司法で裁くことができるかどうかはかなり危ぶまれているらしい。とはいえ、今回の事件に関する真相であるとか、或は「真島」なる国際テロリストの為人、そして国内の数人のクラッカーの情報を引き出すことができそうなことは、僕たちの組織にとっては非常に大きな収穫ではある。そう、メッセージには書かれていた。
次に言及されているのは、その真島のことについてだった。クルミやミカさんを通して事情を把握したらしい彼らではあるが、しかし延空木から墜ちた何者かの落下死体のようなものは、なぜか回収できなかったらしい。つまり真島は生死不明、行方不明の状態にあり、よって僕があの夜にあの男を延空木から突き落とした事実ですらも、曖昧になった。
もし仮に彼が死んでいたとしても、任務中の正当防衛には確実に当たるために、法的な責任を問われることはなかっただろうとも言われたが、とにかく僕があの夜した行動はただ、延空木に単身乗り込んで電波塔の制御を取り戻し、そして仕掛けられた爆弾の時限装置を止めたこと、その二点のみとなった。最低でも、公式の記録上は。
それを知って、僕の中に去来した感情は、いったい何だったのだろうか。安堵か、あるいは別の感情か。それでも、あの男を僕が明確に殺したことが確定しなかったという事実は、僕の心の底に重く残っていたしこりを、少し軽くしてくれたような気がした。何ともあさましいことだとは、思わないでもなかったが。
ちなみに真島が仕掛けたと主張していた爆弾については、その後撤収作業中だった自衛隊の一部を急遽呼び戻し、非破壊検査による走査を行って、最終的には撤去に至ったようだ。仕掛けられていたのは、第二展望台の支持部四か所に一つずつ。TNT換算ではその全てを併せて五キロ程度だったと、文中にはある。
ただ一つ気になるのは、その爆発物の起爆装置は
もしそれが正しいのであれば、あの時真島が持っていて、そして僕が止めたあの時限装置は何に対してのものだったのか。或は計時と起爆指示を制御端末側でしていたのかもしれないが、何にせよもはやその真相は闇の中だ。
でも、それでいい。あの夜に起きたことは、あの夜の中ですべて終わったことで、今更それを追いかける意味は、僕の中にはもうなかった。
そして最後に当の僕の現状、或は今後の扱いについて。
書類上の経緯がどうであれ、僕は延空木での戦闘で決して軽くはない傷を負った。彼らはその事態を、ある程度重く見ていた。つまり本来ならば今回の一連の事案が解決したことで、「休暇」の切り上げと速やかな職場への復帰を求められるところを、傷病休暇扱いとして今年度末までの出勤を猶予されることになった。こういうところは、伊達に親方日の丸ではないという話だろうか。
ただその代わりに、安静の徹底とまでは言わずとも、
そして、問題はその休暇明けにこそあった。来年度四月頭からのことで、僕には今の時点から異動の内示が出ていた。
その内容を確認して、思わず失笑する。そのまま僕は横を向いて、ベッドサイドに座ったままのクルミめがけて呼びかけた。
「クルミ、見ろよこれ」
「お? お前それ部外秘だろ? ボクが見ていいのか」
「いいから、ほら」
呼び寄せて、今一度その内容を覗きこむ。横に立った彼女もまた、それを見て目を見開いた。
異動とはいえ、さすがに本庁へは戻ることになる、はずだ。そうとばかり思っていた僕に、その情報は
まずは業務内容だ。来年四月から二年間を目途に、僕にはうちの組織、つまり公安とDAとの連絡ないし調整役の任が与えられることになった。
これはまあ納得のいく話ではある。今回の延空木事件、公安をはじめとする国家組織側の事件へのコミットメントには、僕がDAから持ち出した情報がかなり役に立ったことは間違いがない。まあ、DA側の承諾を得ての行いではないのだが。だからこそ、恐らくそれをよりオフィシャルな関係に昇華しようと、彼らはそう考えたのだろう。そこまではいい。
問題はここからだった。常識に照らせば、その任に基づく僕の異動先は普通、DAの本部になる。なんとなれば今既にDAと公安との連絡員は存在していて、彼らはDAの本部詰めになっているからだ。そこに配されると考えるのは、至極当然のことだと言えよう。
しかしこの内示書に記されている僕の勤務予定地は、違う。
指定されたのは、DAの本部ではなく
そこまでくれば、そこから先など見なくても分かる。
「やっぱこれ、何度見ても……」
自然と言葉が漏れていた。住所の下、「拠点の名称」の欄、そこには燦然と
うーん。思わず、そう唸ってしまう。何度読み返しても違和感がひどい。何かの冗談にしか思えなかった。
つまるところの話は、こうだ。
今の僕は、あくまで書類上「休暇中」の身で、だからこそこの店に身を寄せているわけだが、それを公式の立場としてここの所属にしようと言っているのだ、彼らは。これをして広義の出向だと言い張ることはできようが、だとしても何を思ってわざわざこの場所を指定したのか、そこが分からない。
「うちの上役は何考えてこんな指示を出したんだろ」
未だ目の前の文字を信じられずそう零した僕に、隣に立つクルミが底意地の悪そうな笑顔を浮かべた。
何だよ、と言葉が出るより先に、彼女の方から声がかかる。
「でも、嬉しいんだろ?」
それはどこまでも、面白がっているような声だった。
彼女の言葉に、思わず黙り込む。どういう理屈の建付けであれ、この内示に書かれていることが本当なのであれば、それは僕は来年度からも喫茶リコリコの一員であり続けられることを意味している。絶対だと思っていた別れは、先延ばしになった。とりあえずは、二年先に。
嬉しくないわけがない。あの店の中での日々は、僕にとって今や代えがたいものであって、手放さないで済むというのであれば、それに勝る喜びなどあろうはずがない。その事実の前では、確かに経緯や理由付けなど、些事なのかもしれなかった。
そして僕のその内心は、クルミにすっかり見透かされていたと言うことだ。千束のことや、リコリコでの毎日のことと、随分と彼女には相談をしていたわけで、それは当たり前のことだとも言えた。
メールに添付された、内示書のPDF。画面に表示されたままのそれをもう一度頭から見返しながら、僕は呟く。
「……そりゃ、嬉しいさ」
千束にこれを伝えたら、喜んでくれるだろうか。喜んでくれたら、いいな。ふと、そんな考えが頭を過った。
気を取り直して、更にメッセージを手繰れば、ほどなくして目当てのもの、つまりDAからのメッセージが見つかった。
差出人には、楠木さんの名前がある。直々とは、何が書いているのやら。開いて、読み進めていく。
それを見るに、どうやらDAに対して、あの日の顛末やら僕の状況やらと、逐次たきなさんが報告を上げてくれていたらしい。
彼女が見舞いに来てくれた折には、そんなことはおくびにも出さなかったのに。ただ何というか、それも
まあ、いい。気を取り直してメールへと目を落とせば、その本文冒頭には感謝と労い、そして賞賛の言葉が綴られているのが見えた。
つまりそれは、延空木の爆破を阻止したことと、手段はどうあれリコリスの露見を防いだ僕の判断と手腕に対するものだ。あまりにストレートな内容で些か気持ちが悪かったが、しかしその後に入っていたDAからの通達事項が、その絡繰りを僕に悟らせた。
まず、DAの嘱託情報員としての勧誘については、取り下げられることになった。
確かに僕の判断によってDAは大きな損害を受けることを免れたが、しかしその手段そのものはDAからすれば裏切り行為に等しい。組織外、というか国の情報組織にそのままDAの動向を横流しにするなど、今思えば随分と大胆かつ命知らずな行動をとったものだ。そしてそんなことをしでかした人間に、与えるポストはない。そういうことだろうか。
しかし更に読み進めていくと、どうも事情としてはそういう単純なことではなさそうだった。
というのも、DAは今回の僕の行動についてはその一切を不問に付すことにしたらしい。むしろ、僕の情報漏洩に係る行為については彼らの中では
そういうことで、僕の行為は無断かつ独断による情報の横流しではなく、事前の計画による、「国家機関への情報の共有」として処理される運びになった。こういうやり口は、まさにDAのお家芸、面目躍如と言えた。
しかも話はそれだけでは終わらない。つまり彼らは僕との関係の継続を望んでいた。ただしそれまで打診されていた嘱託情報員としての立場ではなく、もっと別のアプローチで、ではあったが。嘱託情報員としての勧誘の取り下げは、ここに掛かっていた。
そしてその「新たな関係」こそが、国家の情報機関との橋渡し役だと、楠木さんは言う。それは奇しくも公安側から僕に下された内示の内容と一致していて、ここにきて僕は気づいた。僕の来年四月からの配属に関するあれやこれやは、DAと公安が示し合わせた結果のものだったのだ、と。
例の内示の実情に関する答え合わせも、同じくここにあった。DAは僕のその任に当たって、自らの組織との連絡拠点として本部ではない場所を指定してきていた。つまりは支部だ。そして都内におけるDAの支部で、僕が既に関係の構築を済ませている場所など一つしかない。言うまでもなく、「喫茶リコリコ」だった。
つまり僕の来年度からの勤務地に関するあれこれは、公安側の事情ではなく、むしろDA側の事情によるものだったわけだ。そしてその理由も、何となくではあるものの察せた。ただの連絡員ではなく、明確に国家の、或は個人の意思と狙いを背負って動くことになる僕を、彼らはあまり自らの裡に深入りさせたくはないと言うことなのだろう。更に言えば、たとえ書類上はそうでなくなったのだとしても、彼らにとって僕は何を隠そう
そこまで読んで、更に一つの疑問が出てきた。そうだというのであれば、なぜわざわざ僕のような、ある種「危険人物」にこの話を持って行こうと考えたのだろうか、と。
更にいくつか入っているメッセージを読むにしたがって、その事情についても少しずつ分かってきた。
というのも、DAはどうやら少しだけ己の考えを改めることにしたらしい。つまり公安や内調など、国内の情報組織との対等な協力関係を構築した方がよいと考えるようになった。今までのような、現場の後片付けや事件の隠蔽について要求を全面的に突きつけるだけの、一方的で不健全な関係ではなく。
先の延空木占拠事件ほど大規模なテロ事案が発生することは、確かに稀だ。しかし広域犯罪やそれに類する組織犯罪の企ては、決してこの国に於いても珍しいものではない。表に出ているかはともかくとして。
そしてそう言ったものへ対処は、これまでのように自らの組織の要員の大規模動員のみによって進めるのではなく、国の情報組織、或はその統制下にある保安組織――警察や、場合によっては自衛隊――の力を積極的に借りるべきだと、彼らはそういう意見を持ち始めた。最低でも、その価値を彼らは認めた。
斯くしてそのための、将来に亘る国内の情報組織との協力のためのモデルケースとして、僕に白羽の矢が立った。今回の事案を通して、国内の種々の情報組織や保安組織との協力を取り付け、大事件を解決に導いた成功例を持つ人物として。
それが、大まかないきさつだった。
その視点からDAのこの決定を、振る舞いを俯瞰してみれば、それは僕にとっては歓迎すべき変化であるとも思える。つまり彼らのその決定は、犯罪とみるやその全てにおいて、無理矢理にでも事実関係の隠蔽を志向するあの組織のこれまでの方針からすれば、一歩だけとは言えども、画期的な、確実な変革であると言えた。
彼らの在り方にも、まだほんの少しだけとはいえ変化がもたらされたのだ。そうなのだとすれば、あの日の僕の行いは決して無駄ではなかったのだろう。或はそれがこの先の未来における、DAという組織の病的なまでの閉鎖性からの脱却や、国民全体に対する深い不信感の払拭への契機になるというのであれば、猶更に。
僕が公安に入った意味が、価値が、そこにはできるというものだ。
DAのことを知った日から、僕の心の一角には常に蟠りが陣取っていて、それはずっと解けることなくそこにあり続けていた。
しかし今、昏く沈んだ靄にも似たそれが、少しだけでも薄くなったような、そんな気がした。
しかしそんな僕の内心の晴れがましさなどとはお構いなしに、地獄のリハビリは絶え間なく続いている。
その三週間目、少しだけ杖の補助に頼りつつも自立歩行ができるようになったころに、千束は無事退院となった。それは十二月十五日、師走の半ばのことだった。
待ち切れないとばかりに余所行きの私服に袖を通した彼女は、退院の間際、最後に僕の部屋を訪れた。
彼女は言う。僕の残り一週間の入院生活の折、必ず毎日一時間は見舞いに来ると。僕が退院した暁には、快気祝いも兼ねてリコリコのみんなでクリスマスパーティーをしようと。
そして最後、彼女は自身の最も言いたいであろうことを、僕に対して口にした。
「隼矢さん、あの時、電波塔に行く前さ、約束したじゃん。覚えてる?」
半身を起こしたベッドの横、ベージュのダッフルコートを片手に持って、千束が僕にそう問いかけてきた。
忘れるはずもない。それは彼女とした初めての「ケンカ」の直後、生きる理由の一つとして、彼女と交わした約束だった。
「忘れるわけないよ。振袖のことでしょ」
言いながらも肯いた僕に、嬉しそうに頷き返してくる。
そして、一つの提案を持ち掛けてきた。
「写真、隼矢さんが撮ってよ」
「僕が? ミカさんの方が適任じゃないかな、流石に」
君の、父親代わりだろうに。僕のその言葉に、しかし彼女は首を振った。
「先生がね、『隼矢くんに撮ってもらえ』って」
「ミカさんが? どういう……」
面食らった僕の問いに、千束はさあ? と無責任に言い放つ。
「わかんないけど。でも私も、そうして欲しい。隼矢さんに、撮ってほしいんだ。だって約束したの、隼矢さんとだし」
そして、「ね?」とこちらを覗きこんだ彼女を前に、僕はほんの少しだけ目を閉じた。
ミカさんの言葉を、思い返す。「千束を頼んだ」、という、その約定を。それは、こういうことも含んでいたのだろうか。
ただ何にせよ、彼の言葉を無下にするのは憚られた。そして僕自身、振袖姿の彼女をファインダー越しに覗く自分の姿を、悪くはないと思った。
だから、僕は目を開けて、そして静かに頷いた。
「……そういうことなら、喜んで」
それを聞いた彼女が、満面の笑みを浮かべた。
そこから更に一週間後の、十二月二十二日。昏睡状態だった二週間で落ちてしまった筋力の全てが戻り切ったとは言えないものの、自立歩行と日常生活の基礎的な運動機能については回復したと判断されたことで、僕は当初の予定通りに無事退院となった。
部屋付きの看護師さんや、担当医からの労いの言葉を受ける。加えて立派な花束まで貰ってしまったが、兎にも角にも僕は斯くして、病棟から出た。
リコリコのみんなには、迎えは不要だと伝えてある。それよりも店で待っていてくれた方が、ずっと嬉しいとも。
表で待っているタクシーに乗って、行先には錦糸町駅北口近くの路地をお願いする。世田谷にあるこの病院からはそこそこの距離こそあるが、それは僕の心を落ち着けるためには必要な時間だった。
四週間。意識がない状態で運ばれてきた時から考えると、六週間と少し。延空木から続く僕の戦いは、ようやく終わろうとしている。
あの日のことを、回顧する。
店の中、みんなに行ってきますと声をかけた。八時には帰ると伝えた。そう考えると、また随分と派手に遅刻をしてしまったものだ。
ただそれでも、僕は今ここにいて、こうして立って帰ってくることが許されている。それは間違いなく、みんなのおかげだった。彼らがいたからこそ、その力があったからこそ、今僕は生きている。生かされているのだ。
本当に、僕は恵まれている。心底そう思わされた、この四週間だった。
延空木の下を通り、錦糸町駅のガード下を抜けたその先、錦糸公園をさらに北に進んで、住宅地、路地へと入った。
そして、暫く。目的地のその前で、車が停まった。支払いを済ませて、外へと出る。
仰ぎ見た場所は、いつも通りの佇まいで、そこにあった。
木組みの店構えと、ステンドグラスの窓。軒先にかかった準備中の札も。リコリコ閉店のお知らせの貼り紙は、もう取り払われていた。
深呼吸を一つ。扉の前に立って、ゆっくりと開く。来客を知らせる鈴の音が、店内に高らかに響き渡った。
開いた扉の向こう、ホールにいるみんなが振り返る。
その全員に向かって今僕が言うべき言葉は、すでにこの胸の中に強く刻み込んである。
それはどこまでもありふれていて、それでいてかけがえのない、みんなとの約定を果たすための、たった一つの言葉。
「――ただいま」
駆け寄ってくる千束の姿を目の端に捉えて、思う。
帰ってきた。僕はこの店に、喫茶リコリコに。そして、みんなの許に。
これで、原作部分は終了です。
この話を書くにあたって、主人公をどれぐらい意識不明にさせておくのが自然か分からなくて色々調べてたんですが、二週間の寝たきりでも筋力は30%ぐらい落ちるらしいです。二週間寝たきりで落ちた筋力の完全な機能回復には一か月半ぐらいかかるんだとか。怖いですね。
もともとは三週間昏睡からの三週間リハビリでクリスマスまでに退院という予定で書いていたんですが、寝たきり三週間だと50%ぐらい筋力が落ちて半ば廃人になってしまうらしいので、主人公には二週間で起きてもらいました。
(12/23 11:01) 文章表現の一部修正