もうきっと、言葉はいらない。
ただ一つ願うことは。
どうか僕の手を取って、この先全ての時を紡いで。
どうかどうか、幸せに。いつまでも、どこまでも。
EOS: End of Sequence。系列の終わりを示す符号。主に自然言語処理の文脈で用いられる。
[EOS] Let me dance with you (1/2)
「紆余曲折」の一言では到底片付けられないほどのあれこれの末に、僕はどうにか、実に一か月半ぶりに喫茶リコリコに帰ってきた。くることができた。
正直なところ、僕個人の心情のみを語るのであれば、今この場にいることそれ自体にはとりたてて懐かしさを覚えるというほどでもない。郷愁が寂しさの裏返しであるとするならば、僕が意識を取り戻してからの四週間の日々において、みんなうちの誰かが――それは主に千束とクルミだったが――側にいてくれたことは、間違いなくそれを打ち消す大きな力となっていた。見舞いであったり付き添いであったり、態様は様々なれど、いずれにせよ僕にとってそれは、あのひと月にも及ぶ入院生活の中での何よりの心の支えだった。支えであり続けていたのだ。
故にと言うべきか、それよりも今僕の胸中には、寧ろ途轍もなく大きな安堵感こそがあった。この場が無事であったことも、この場に帰ってこれたことも、その全てが僕にとっては何を擲ってでも手にしたかった未来の、その一頁であったから、なのだろうと思う。
そして店のみんなもそんな僕のことを慮ってか、退院と帰還について大いに祝してくれた。とりわけ千束は、僕の無事をまるで我がことのように喜んでくれていた。
と、そこまでであればめでたしめでたしであるのだが、物語のようにここで何もかもが終わってくれるわけではない。僕には、僕たちには、これから生きるべき日常がある。
その中、つまり今後の僕のリコリコの中での身の振り方については、早速ミカさんから注文がついた。具体的には、僕はしばらくの間ホールスタッフとして表で働くことを禁じられた。
「最低でも、二週間の昏睡状態によって落ちてしまった体力と筋力が元の水準まで戻らないことには話にならない」。そう彼は言った。それはリコリコ全員の総意だとも。てっきり退院して復帰したからには、次の日からでも働くものだとばかり思いこんでいたが、出鼻を挫かれた形だ。
ただ少し考えてみれば、それは当たり前のことだとも言えた。
彼の言う通り、僕のリハビリはあくまで日常の最低限の運動機能が回復したところで終わっている。何かを持って運ぶであるとか、長時間立ったままの姿勢で接客をするとか、そういった負荷のかかる肉体労働ができるところにまではまだ僕の筋力は戻っていない。つまりいくら意欲があろうが、身体がついていかなければ意味がないのだ。
例えば僕が客席に料理を運んでいる最中に、それを落としたりなどしたら、どうなるか。店としてはそれは金銭的な損失だし、客にも迷惑をかけることになる。店主としてのミカさんの、或はほかのみんなの判断は正しい。我儘は言えなかった。
ならば、他になにかできることはないか。そう思惟を巡らしたその時、僕は思い至ってしまった。
公安からは、傷病休暇で暇を貰っていて、何の仕事も振られていない。
リコリコの「裏向き」の任務については、僕と言うよりは千束の問題、つまり心臓の経過観察で大事を取りたいというミカさんの意向で、しばらくお休み。
リコリコの喫茶店としての仕事は、たった今ミカさんに止められた。
つまり今の僕は、役立たずなのだ。やるべきことも、やれることも、何もない。
だったら、そもそも今の僕はこの店にいても仕方がないと考えるのが、自然の成り行きというものだ。そう考えて僕はミカさんに、「なら家で大人しくしています」と申し出た。
そしてそれを聞きつけた時の千束との一件は、しばらく忘れられそうにない。
退院して、リコリコに戻ってきたその日のことだ。昼下がりの客足が遠のいたタイミングを見計らって、僕は次の日からの予定を詰めようとしてミカさんに相談を持ち掛けた。
そしてその時に彼の方から言われたのが、ホールスタッフとしての勤務禁止令だった。つまり僕はその時早々に、しばらく自分がリコリコですることは何もないと知らされたわけだ。
「そうですか……」
言って、腕を組む。今更の話ではあるが、基本的に僕の給料はこの店からではなく公安から出ている。つまり僕をスタッフとして雇うための人件費については、リコリコ自体は負担していない。ただそうだとしても、全く何の戦力にもならない自分がここにいる意味など、どこにもないのは確かだ。
「でしたら、ミカさん」
「どうした?」
「いえ。……その、僕はしばらくここには来ない方がいいかもですね。お邪魔になるばかりですし」
だからそれを問うのは、僕としては至極当然の感覚だった。
どれほどリコリコが寛容な環境であっても、店に来るだけ来て奥の方でゴロゴロして、賄いだけ食って帰るなどと言う暴挙、いくら何でも許されるはずもないだろう。そもそも僕自身、そんな自分は許せそうになかった。
目の前のミカさんが、僕の言葉に頷く。頬に手を当てた。そして少しだけ考え込む素振りを見せる。
数秒の間をおいて、ミカさんはまた一度、小さく頷いた。「そうだな」、そう言った。
そうだろうなと思いつつ、僕はミカさんの次の言葉を待つ。
そこからあまり時をおかず、彼は再び口を開き、そこから何かを続けようとする。
そしてその瞬間――するりと横から伸ばされた手が、僕の左肩を掴んだ。
誰かと思って横を向いた視線の先には、赤のお仕着せに身を纏った少女が、つまり千束がいた。俯いたままの姿勢で、ただ僕の肩を掴んでいた。
珍しい姿だ。何をするにしてもまずは呼びかけてから動く彼女が、顔も上げずに一体どうしたのか。
戸惑いはしたが、それでも問うべきを問おうとする。
「千束、どうし――」
「ダメ」
しかし、発されようとしたその問いは、他でもない、彼女の言葉で遮られた。
徐に、顔が上げられる。白金の髪が目にかかって、その奥から覗いた瞳はただならぬ色を帯びていた。
瞳孔は完全に開ききっていて、僕の肩を掴む手、彼女の右手に、力が籠められていく。
おかしい。今の彼女は、何かがおかしい。纏う空気が淀んでいる。
不安定で、不均衡で、取り返しがつかなくなりそうな、そんな危うさすら覚えた。
「千束、待っ――」
「ダメ、絶対ダメ」
僕の話は、聞く気がないのか。宥めようとした台詞を踏み砕き、そのまま千束は強引に、僕の身体を自分の方へと向けさせる。そして彼女の左手もまた伸びて来て、それは僕の右肩にかかった。
こちらを見ているようで、見ていない。こんな彼女は初めてだった。
向けられる眼は、どこまでも昏い。呼吸は荒く、肩はもはや痛みすらも覚えるほどにきつく握られている。
その圧力に、剣幕に、僕はもはや何も言えなくなった。
視線だけで僕の動きを縛って、千束は二度三度と、呼吸を繰り返す。何かを堪えるように、目を閉じる。そしてそのまま、震える声が響いた。
「何でそんな、
放たれたその言葉に、僕は思わず目を見開く。
「いやだ、またそんな、私は――」
矢継ぎ早にそう声が重ねられ、そこで一度、彼女は大きく息を吸って――
「……あ、れ?」
しかしそこで、急に終わった。瞳が揺れる。鬼気迫る表情が、ふっとその輪郭を失った。
「あ、いや、その、私」
視界の先、千束が狼狽えている。潰されるかというほど強く握られていた左肩から、力を失った手がずるりと滑って、落ちていく。こちらを見るその表情には、どこか怯えすらも感じ取れた。
あちらこちらへ視線を彷徨わせ、そして一歩、二歩と後ずさる。
あまりの急転直下ぶりに、僕はまた何も言えず、見ていることしかできない。そしてその目線からも逃げるように、彼女は僕から目を逸らした。
「あ、あっ、はは……その、隼矢さん、ごめんね?」
乾いた声だった。明らかに無理矢理取り繕った笑顔で、ちらりと僕を見る。
何してんだろ、私。彼女の口の中の呟きが、ここからも聞こえた。
まさしく嵐のような出来事だった。そしてその全てが過ぎ去った今、静まり返ったこの場所で、起きたことを反芻する。
今まで一度たりとて見たことのなかった振る舞いだった。表情もそうだ。全ての余裕が消え失せ、恐怖すら内包しているように見えた。そしてそれは、今もそうなのか。
その中、言われた言葉がもう一度頭を過って、僕はようやく気づいた。
きっかけは、恐らく僕とミカさんのやりとりだ。「ここにはしばらく来ないほうがいいか」という僕の言葉を、千束はどういう思いで聞いたのか。
そんなつもりはなかった、などというのはただの釈明でしかない。彼女には何の意味もない。いや、僕はそもそも何も考えてなどいなかった。
そして僕にとっては
否応なく、認識させられた。
あの日の、延空木の上の出来事は、その記憶は、今も千束のことを苛んでいるのではないか。
僕があの時犯したミスは、それがもたらした結果は、彼女にそれほどの傷を刻んでしまったのではないか。それだけのことを、僕はしてしまったのではないか、と。
だとするならば、僕の今の言葉はどれほど不用意で、無神経極まるものだったのか。今更ながらに悔いる。
してしまったことは、なかったことにはできない。千束の傷を抉った僕の過ちは、もう取り返せない。ならせめて、今僕のやるべきことをしなければ。千束のために。
呼吸を一回。目を瞑って、開いた。
「ミカさん、やっぱりさっきの話はなしで。……大丈夫、ですか?」
ミカさんの方へと目線を向けて、再び問う。それと同時、視界の端で千束が身動ぎをする姿を捉えた。「隼矢さん」、そんな小さな呟きをも拾った。
そんな彼女をちらと見たあと、彼は僕に向かって口を開く。
「……そうしてやってくれ」
その言葉に、僕は頷いた。
正面に向き直る。千束の方、更に奥を見れば、座敷席の方からこちらを覗いていたクルミとたきなさんが僕にじっとりとした視線を向けているのがわかった。
――分からず屋が。言外にそう詰られているような気がして、僕はそちらの方にも小さく頭を下げた。
そんなことがあったからにはと、その日から僕は連日リコリコに足を運んでいた。とはいえ仕事に関しては何も与えられていないわけで、主に奥間でぼーっとしているばかりだったが。
そしてこちらから見ている限りにおいて、店での千束の振る舞いは普段と変わらないように見えた。元気に声を上げ、客には笑顔と愛嬌を振りまいている。
僕のいる奥間にやってくる頻度だけは、気持ち多いようには思ったけれど。しかしそれ以外はなんの変哲もない穏やかな日々が、そこからは続いた。
そして、今日。退院してから二日が経って、日付は十二月の二十四日。
キリスト教最大の祝祭にして、日本においてはもっぱら恋人たちのための一日――つまり、クリスマスイブ。
喫茶リコリコもまたこの日への準備は怠りなかったようで、いつもの和風喫茶の趣はどこへやら、すっかり装いをクリスマスのそれへと変えて、客をもてなす準備を整えていた。
[EOS] Let me dance with you
一面を赤と緑の装飾で彩り、外構には電飾があしらわれ、そしてどこから手に入れたのか、本格的なクリスマスツリーも店内に設えられている。そのまさに「クリスマスムード」としか表現しようのない店内の雰囲気の醸成には、リコリコの看板娘を自称する千束や、他のホールスタッフもまた一役買っていた。
すなわち。
その鋭敏な嗅覚で以て全てを察し、奥間の押し入れから梃子でも動かなくなったクルミ以外の女性スタッフ、つまり千束とたきなさん、そしてミズキさんの三人は、どこからか調達したワンピース様のサンタ衣装で給仕に出ていた。それはご丁寧にも、それぞれ自らのお仕着せのカラーである、赤青緑に染められている。
喫茶店としての品位に関わるということで、その裾は膝下、脛の半ばぐらいの長さでまとめられてはいたにせよ、いつもとはまた全く趣の違った華やかさで、彼女たちは店内を彩っていた。
その様子を、奥間からずっと眺める。偶に僕の無聊を慰めようとしてかクルミが降りて来て、そしてボドゲで僕をボコってまた押し入れに戻っていくのだが、まあそれは些細なことではあった。
ただその時間も、決して退屈と言うばかりではなかった。
ここから見えるホールの景色は、ただの日常の一コマだ。しかしその他愛のない時間こそ、僕が、いや僕たちが大体八か月もの間戦い続けた結果として得られた、確かな果実に他ならなかった。ぼんやりとそれを眺めているだけでも、達成感と多幸感が、僕の胸の中にはじんわりと広がる。ともすれば、泣いてしまいそうなほどに。
そのさなか、千束が奥間にやってきた。休憩に入ったのだろうか。
「おっつかれー! ……お、隼矢さん! ここにいたんだ」
「ああ、お疲れ千束。ごめんね、何も手伝えなくて。今日忙しいのに」
手を挙げながら言う僕に、後ろ手に襖を閉めながらも、いやいやと千束は顔の前で手を振った。
「そんな、いいっていいって! 隼矢さんはゆっくり休んでくれたらいいの、頑張ってくれたんだから、今まで」
――そ、れ、よ、りぃ。
茶目っ気たっぷりにそう言いつつ、いたずらな笑みを浮かべて、彼女は自らの纏う服の裾をつまんだ。
「隼矢さん、どうよこれ」
つまりは、そのサンタ風のワンピース衣装のことだ。彼女のテーマカラーでもあり、サンタ服としてはオーソドックスな赤色に染め上げられたそれは、彼女の均整の取れた肢体をこの上なく際立たせている。
つまり有り体に言って、目のやり場に困った。今の彼女が裾をたくし上げるような形になっていることもまた、座った姿勢でそれを見上げる僕には、やや刺激が強い。気づいているんだか、いないんだか、分からないが。
「……君は本当、何を着ても似合うよね」
少しだけ彼女から目を逸らしつつそう言った僕のことを、彼女は追いかけるように覗きこんだ。わざとらしい、すっとぼけた声と一緒に。
「ん? ん~? 隼矢さんもしかして変なこと考えてるでしょ?」
にんまりとした笑みを浮かべ、なおも迫る。僕のことをからかおうとしているのが丸わかりだ。千束は一体何を考えているのか。
これ見よがしに息を吐いて、立ち上がった。
「そりゃ、僕が座ってるところに
彼女の裾を指さして指摘してやれば、数瞬の後に漸くにして気づいたか、彼女はそこからパッと手を離して、そして僕を睨むように見た。ご丁寧に、胸元すらも手で押さえて。
「……見えた?」
「見えないけど、気にするなら最初からしなきゃいいのに……」
少しばかり顔を紅潮させた千束に向き直って、ついでに意趣返しを試みる。
「まあでも、さっきのは本当。君は何着ても映えるよね。その恰好も可愛いよ」
そう言って笑みかけてやれば、千束はきょろきょろと視線を彷徨わせ始めた。いつもの余裕はどこへやら、軽いカウンターのつもりで放ったその言葉が思いの外刺さったのか、明らかに目の前の彼女は落ち着きを失っているように見える。逆にこちらが困惑しそうになったところで、千束が上目遣いに声を発した。
「……そ、それは……その、ありがと」
控えめで、しおらしい仕草と、声だった。本格的に彼女らしくない反応に、こちらまで気恥ずかしくなりそうだ。流石にこれもまた僕をからかうための彼女の策だと穿った見方まではできず、二人して押し黙る。
見合ってそのままに、時間ばかりが過ぎていく。その奇妙な沈黙の中、横から声がかかった。
「イチャつくならよそでやれ」
弾かれたように二人横を見れば、心底うんざりした顔でこちらを見るクルミがいた。ヘッドセットと一緒に耳もふさいでいたものとばかり思ったが、どうやらこちらのやり取りは聞こえていたらしい。
「イ、イチャつくって、そんなこと……」
クルミのその言葉にいよいよ以って挙動がおかしくなり始めた横の千束に一瞬目をやって、僕はクルミに向き直る。
「僕たちのことを気にする暇があるなら、手伝ってきたらどうなんだ」
「やなこった。ボクはあんなん着ないぞ」
「あんなん」とは言うまでもない。今千束が着ているこの衣装のことだろう。
「たしかトナカイの着ぐるみもあったぞ。誰も着てないが」
「それボクが着れるデカさじゃなかっただろ……」
僕の反駁に呆れた声で返したクルミは、とにかく、と前置いて、小言を垂れてきた。腹の立つことに、諭すような口調で。
「昼の間はせめて節度を持て。今日の夜、快気祝いのパーティーなんだろ? その後なら、好きにしていいから」
そしてそのまま彼女は、反論は聞かないとばかりにぴしゃりと襖を閉じてしまった。
その閉め切られた襖を見つつ、節度もクソもあるかいな、と独り言ちていると、横から腕をつつかれる。何かと思って隣を見れば、いつの間にか千束がこっちを見ていた。ジト目の、膨れ面だった。
「……隼矢さんってさぁ」
不満げな声だ。
「クルミと随分仲良くない? 前から思ってたけどさ」
その奥底に隠れた感情は、どう考えても嫉妬にしか思えない。しかしなぜ僕にそんな感情を向けるのか、いまいちわからなかった。ともかく、訊かれたならば答えるだけだ。
「そりゃ、ここに来る前からの腐れ縁みたいなものだからな。お互い顔も知らない、『ウォールナット』と『ラスカル』としてだけど。まあ、今の君とたきなさんみたいなものだよ、言ってしまえば」
僕のその釈明に、へぇそうですか、と気のない口調で返してくる。しかし一度目を瞑って首を振り、気を取り直したらしい千束は、咳ばらいを一つしてから改めて口を開いた。
「ま、いいや。今日はあと三時間ぐらいで閉めちゃって、夕方からクリパやるから。なんでもたきなが考えてくれてるみたいだよー? 企画」
「そうなんだ。……常連さんたちは?」
「普通なら一緒に参加してもらうんだけど、今日は帰ってもらうって。ま、ただのクリパじゃないからねぇ」
彼女の言葉に、頷く。そうだ。今日のパーティーは、クリスマスを祝うものである以上に、僕と千束の快気祝いを含んでいる。発案者こそ千束だが、しかし祝われる側が企画演出をするのは何か違うということで、その任はたきなさんが買って出たらしい。僕に関しては完全に自業自得の部分があって祝われるのには若干の抵抗がなくもないが、しかし千束のそれは
よし、と気合の声を一つ上げて、千束が閉めた出入口の襖に手をかける。そしてこちらを振り返って、僕に笑いかけた。
「じゃ、戻ろっと。……隼矢さん、また後でね」
そしてひらひらと手を振りながらホールに出ていく彼女を、僕も同じく手を振りながら見送る。
「……ひと眠りでもするかな」
その後誰もいなくなった部屋の中、僕は独り言ちて、座布団を枕に畳に寝転がった。
次に目を覚ました時、すっかり日は落ちていた。慌てて部屋に備えられた掛け時計を見ると、時刻は六時半過ぎを示している。それは丁度今日のリコリコの閉店時刻でもあった。
襖を開けて、外に出る。バックヤードではいつぞや買った食洗機が全力稼働中で、ホールではサンタ服を着たままのみんながあちらこちらと忙しなく動き回っている。主に机や床の清掃のようだった。
表に出てきた僕を目ざとく見つけ、千束がこちらに駆け寄ってくる。
「あ、起きたんだ隼矢さん」
「あれ、寝てたのバレてた?」
僕の言葉に、千束はしまったといった表情をした。あははー、と口に出して笑って、頭に手をやった。
「ごめーん、寝顔見ちゃった」
「……いやまあ、それは別にいいんだけどさ」
そのまま手を合わせて首を傾げた千束をあしらいつつ、奥で机を拭いているたきなさんに声をかける。
「たきなさん、レジ締めこっちでやっとくよ」
「はい? え、隼矢さん?」
僕のその声に、たきなさんがびっくりしたような顔でこちらを見た。
「いや、今の隼矢さんにお仕事を任せるわけには……」
「いやだってレジ締めだよレジ締め。力仕事でもないし」
少しばかり難色を示した彼女にひらひらと手を振りつつ、カウンター裏へと向かう。
「今日忙しそうだし、これからの準備もあるでしょ? だから僕もせめてこれくらいはってさ。多少は運動しなきゃ体力も戻らないし」
「……なら、はい。お願いします」
そして彼女のその声に頷いて、僕はレジ前に陣取った。
そしてその後、フロア清掃も終わって一頻りの準備が済んだのは、大体一時間後の夜七時半前。僕たちは仕切りを取り払った座敷席に全員で集まっていた。当然、それまでずっと奥間に陣取っていたクルミも含めてだ。
一か所に寄せられた卓袱台には、ローストターキーをはじめとしたクリスマスディナーが所狭しと並べられている。どうやらこれもまた、僕がいない間にリコリコのみんなで買い出しをしたりと準備を進めてくれていたもののようだ。この宴席の主賓の一人として僕と隣り合わせの形で座っている千束を見ると、彼女は目の前に並べられていくご馳走の山を眺めながら、声にならない声を上げて歓喜にその顔を輝かせていた。
そして、全員がしっかり腰を落ち着けたのと同時、時計が七時半を示す。その瞬間、誰かのスマホからアラームと思しき電子音が鳴った。懐からそれを取り出したのは、千束の対面に座るたきなさんだ。今日の催しの企画担当として、自らタイムキーパーも買って出ようと言うことらしい。
アラームを消して、スマホを仕舞す。たきなさんは居住まいを正して、周りを見回した。そして頷いて、口を開く。
「それでは皆さん集まりましたので、これから喫茶リコリコクリスマスパーティー兼、千束と隼矢さんの快気祝いパーティーを始めたいと思います! ――みなさん、拍手!」
声を張り上げるたきなさんと、拍手で応じるみんなと。隣の千束はもはや今の時点でテンションが振り切れていて、一人わーきゃーと奇声すらも上げて盛り上がっていた。
周りを見る。穏やかな笑顔を浮かべてゆっくりと手を叩くミカさんに、調子よく囃し立てながら盛り上げ役を務めるミズキさん。そして、一仕事終えたような、どこか安心したような表情で、静かに拍手を続けるクルミがいる。もちろん、音頭を取って、率先して大きな拍手を送るたきなさんも。
全員が、僕たちの復帰と壮健を祝してくれている。自ら手を叩きながらも、僕は自然と頭が下がっていた。
随分と長く続けられていた拍手が止み、そして中央の料理が取り分けられ、ノンアルコールのスパークリングワインがそれぞれのグラスに注がれる。ミズキさんはシャンパンだったが。
そして改めてと言った調子で、またたきなさんが全員に目配せをした。声を張り上げるべく、息を大きく吸って、そして――
「皆さんグラスは持ちましたね? それじゃ、行きますよ? せーの!」
――メリークリスマス!
唱和される声と、ぶつかるグラスの音を皮切りに、喫茶リコリコのクリスマスパーティーが始まった。
並べられた料理の感想を言い合いながらも、僕が病院にいる間のリコリコの毎日について聞いていく。あるいは退院直前まで続いたリハビリの辛さについて愚痴って、笑われたりもした。そんな、ひたすらに賑やかな時間が過ぎていく。
たきなさんは、体力の回復には食事を多く摂るのが一番と言って僕に山盛りの料理を取り分けてくれた。一方の千束はあれもこれもと一つずつ料理を取ってきては自らの口に運び、歓喜の声を上げ続けている。
そしていつしか場にはミカさんセレクトのクリスマスソングがかけられていて、ミズキさんはせっかくだからと高いシャンパンをパカパカ空けていた。
残るクルミはと言えば、彼女もなんだかんだとこういう場は楽しいらしい。いつの間にか見た目相応の笑顔を浮かべ、料理を頬張っていた。
そんな中で、思った。リコリコのみんなとこういう形で食卓を囲んだことは、初めてのような気がすると。
そうだ。みんな、思い思いのやりかたでこの空間を楽しんでいる。その誰もが笑顔で、そこには一片の憂いもない。
それはあの日、リコリコ閉店の報を聞いたときに、僕が何としても目指すことを決めた風景そのものだった。誰も望んでいなかったあの結末を覆して、全員で悲劇を、困難を乗り越えた。その果てで、僕たちは今ここにいる。こうしてみんなで、このリコリコという場所に集まることができている。
そのことを改めて実感するや、たちまちのうちにはち切れそうなほどの感慨が胸を満たす。
それはとても言葉にはできそうにない、情動の奔流だった。何か言おうと口を開いたら、それより先に涙すらも流れ出てしまいそうだと、思ってしまうほどの。
だからいつの間にか僕は一人、ただ黙って食事と向き合うばかりになっていた。みんなの様子をただ眺めて、それだけで満足だった。
しかしその時、たきなさんとずっと楽しげに何かを話し込んでいた千束が急に僕の肩に手を回してきた。そしてこちらをずいっと覗きこんでくる。
少しばかりそれに面食らって、僕は彼女に問うた。
「どうしたの、千束。……なんか、近くない?」
「いや、だって隼矢さんが」
「僕がなに?」
僕の問いに、一瞬だけ千束がまごつく。それでもすぐに、意を決したように口を開いた。
「……いや、急に隼矢さん黙っちゃうから、どうしたのかって思って。楽しくない?」
その言葉に、思わず自分の顔を手で触る。そうか、外からはそう見えていたか、などと内心独り言ちる。目を前に向ければ、たきなさんもこちらのことを見ていた。このパーティーの幹事として、もし僕が浮かない顔をしていたのだとすれば、責任を感じていたりするのだろうか。だとしたら、申し訳ない。
「いや、その。楽しいよ? それはホント」
千束とたきなさんを見ながら、言う。でも、と続けた。
「それより、なんていうか。……嬉しい、そう、嬉しんだ。やっと帰ってこれたんだって。みんなと一緒にこうやって食卓を囲めるんだって。誰一人欠けずに、このまま年を越して、来年だって。それが、嬉しくて」
気づけば、言葉が止まらなくなっていた。店の灯りが、目に滲む。
ああ、やっぱり。でも、自分はここまで感情の制御が利かない人間ではなかったはずなのに。あの病院で目覚めてからこちら、どうにも堪え性というものがなくなってしまったような気がしていた。
そんな僕の様子を肩を抱えた姿勢のままにじっと見ていた千束が、急に僕の手からフォークを奪い去る。
何を、と声を上げる前に、彼女は自分の皿からローストビーフを一枚、えいやと手に持つフォークに刺した。
「はいこれ」
そしてそれを、僕の口の前にずいと差し出してくる。
「え? 千束、これって」
「いいから、食え。はい、あーん」
有無を言わせぬ圧だった。言われるがままに、口を開ける。そこに、彼女の剣幕から考えれば随分と優しい手つきで、フォークが差し込まれた。
「おいしいでしょ?」
結果として彼女に手ずから食べさせられることになったそのローストビーフを咀嚼していると、そんな風に訊ねてくる。食べている最中に口を開くものでもないと黙って頷けば、よろしい、と彼女は言って、そして笑った。
「今はさ、目の前の食事とか、私たちとのお話とか、そういうことだけ考えようよ。楽しいことで頭をいっぱいにしてさ。その方が、絶対いいって」
ずっとそんな真面目なことばっか考えてたら、疲れちゃうぞ。そうやって僕を諭す彼女は、どこまでも
そこに突如、さっきと同じアラームの音が割り込んできた。またたきなさんがスマホを取り出して、アラームを切って、仕舞う。そして席を立った。
見れば、時刻は午後九時を示している。タイムキーパーと自称していたのだし、何かあるのだろうか。
「……いや、そうじゃないだろ」
そこまで考えたところで、思わず小声でツッコんでいた。
そうだ。たきなさんがまるで当たり前だとでも言いたげな挙措をしていたからつい見逃しかけたが、今たきなさんはすごいことをしていた。パーティーの最中に、情緒もへったくれもなく、自らのスマホのアラームを音付きで鳴らしたのた。タイムキープのためとはいえ。
せめてそこはバイブだろうよ、と思ったが、しかし同時にそれに対しては、たきなさんが至極当然の様子で抗弁する姿が、目に浮かぶ。
――スマホのバイブレーション機能では、もし動いているときに時間が来た場合、見落としのリスクがあります。時間を意識するのに最も合理的な手段は、音の鳴る形でアラーム機能を使うことです。
そんな彼女の澄ました表情と、落ち着き払った声まで再現できそうだった。
どうしたものかと、思わず千束を見る。すると彼女は僕の肩に手を回したままの姿勢で、こちらの方を見ていた。きょとんとした表情だった。
「ん? どうしたの」
「いや、そりゃこっちの台詞じゃわ」
問えば、すかさず問い返される。それもそうか。そう思って、訳を話した。
「いや、たきなさんのあれ」
手許でスマホのジェスチャーをして見せれば、ああ、とどこか納得した表情で、彼女はバックヤードの方へと目を遣った。つまりそれは、たきなさんの消えた方向だった。
「アラームのこと?」
「そう。いや別にいいんだけどさ。でもなんかこう、斬新?」
「あー……まあね、確かにね」
そこまで言って、僕の方へと向き直る。その表情はしかし、どこか懐かしさを覚えてのもののようにも見受けられた。
「まあでも、たきなのありゃ今に始まったことじゃないしなぁ……」
「なんか、あったの?」
僕の問いに、千束はまあ、と一つ頷く。そのまま彼女はその経緯を話した。
先月、たきなさんが真島討伐作戦のためにDAに戻ることを千束に伝えた日のことだ。二人はその前座としてお出かけを敢行したわけだが、それがたきなさんプロデュースよるものだと言うことまでは、僕は知っていた。
ただ問題なのはその先だ。今日と全く同じように、彼女は自らが立てたスケジュールをスマホのアラームで管理して、一分刻みで散々に千束のことを振り回したらしい。それが思い出されて、なんというか、懐かしかった、と。
あれはあれで楽しかったなぁ、と思い出に浸っている千束のことを見ながら、僕は正直たきなさんの将来を危ぶんだ。もし仮に彼女に意中の男性ができたとして、デートをそのレベルのスケジュール管理でやり始めるのだとすると、それはかなり相手を選ぶことになるのではないか、と。その思い出をして「楽しかった」と表することができる千束のような心の広さ、ある意味では鈍感さを持った人間を探すのは、なかなかハードルが高そうだ。尤も、余計なお節介では間違いなくあるのだが。
ただそうでなくても、処世術の一環としてスムーズなスケジュール管理のやり方ぐらいはたきなさんに教えたほうがよいのだろうか、これは。そう僕が真剣に思い始めたあたりで、当の彼女が戻ってきた。
そしてその手には、大きな箱を抱えていた。赤いリボンがかけられた、白い箱だ。それを中央の卓袱台にドンと据えて、全員の注目を一身に浴びながら彼女は言った。
「九時になったので、みんなでケーキを食べましょう」
つまりというかやはりというか、この箱の中身はクリスマスケーキらしい。
分かってはいたことだが、流れもへったくれもなく「時間が来たから」という理由でこのサイズのケーキをいきなり卓上に持ってきたたきなさんのある種
五分後。並べられていた料理がすっかり各々の胃の中へと納まり、ケーキ皿が全員の前に配られたのを確認して、たきなさんが箱を開けた。
中から出てきたのは、仕切りで分けられた二本の大きなブッシュドノエルだった。目を輝かせて覗きこむ千束に、たきなさんが手に持ったケーキナイフを渡す。首を傾げてそれを受け取る千束を正面から見つつ、彼女が言った。
「今日は千束と、隼矢さんの快気祝いなんです。ケーキにナイフを入れるのは、主賓の仕事だと聞きました。なので」
そして、僕の方にもナイフを差し出してくる。
「ケーキは二つあるので、それぞれにナイフを入れてください」
どうぞ、とたきなさんに手で促されて、僕と千束は思わず視線を見合わせた。どうしようか。いきなりだけど、息を合わせるしかないよね。そんな風に目で会話して、そのまま二人頷き合う。
斯くして千束は右手で、そして僕は左手で、それぞれ自分のナイフを持つ。そのままゆっくりと、開かれた箱の中にあるブッシュドノエルに突き入れた。
拍手が聞こえた。たきなさんだ。そしてそれにつられる形で、僕たち以外の全員からも、拍手の音が聞こえてくる。
その音に囲まれながら、なんだか急に気恥ずかしくなって千束の方を見れば、彼女もまた僕を見て、どこか恥ずかしそうに笑っていた。
リコリコのクリスマスは、まだ少しだけ続きそうだ。
喫茶リコリコのクリスマス前編。多分これ書いたのは自分が初めてじゃないだろうか。
というのも、原作アニメは11月初旬から中旬と思われる最終話Aパートから、Bパートでは翌年の3月末ぐらいに飛んでるんですよね時間が。
本作では千束は自分が心臓移植を受けることは認識したうえで病院に入ったので、逃げる理由もなく。ということで、真っ当に約一か月後の話になっています。
次回が、とりあえずこの物語としての最終回です。
(12/25 00:01) 描写が薄く感じた部分を加筆
(12/26 追記)
リコリコ公式twitterがクリパ絵を出してきましたね。
一日だけ自分の投稿が先んじた感じでしたが、サンタ帽(あるいはトナカイ帽)被ってたぐらいでリコリコ仕事着はそのままってのが公式のお出ししてきた見解のようで……ただ店内の内装は自分の思ってた通りのものが出てきたのでしめしめって感じです。
まあ、この世界では彼女たちはもうちょっとだけはっちゃけた、とでも思ってください。