ここからの時間は、楽しんだもの勝ち。
だから頭を空っぽにして、一緒に飛び込もうよ、みんなで!
Apdx.01-01
突き抜けるほどに高い天井が、その涯を見渡すことすら叶わぬほどの広さを誇るフロアを遍く覆っていた。
ここは羽田空港、国際線ターミナル。そのあまりに広大としか言いようのない空間を埋め尽くすがごとく、航空会社のチェックインカウンターが一面に、整然と並んでいる。
手許の時計に視線を落とせば、今の時刻は午後八時を示していた。外は既に夜の闇に包まれ、しかしこのフロア全体をくまなく照らす眩いまでの照明と、行き交う雑踏が作り出す喧噪、そしてそこに時折響く航空機の発着案内のアナウンスが織りなす空気感は、これから始まる非日常を強く意識させるものだ。
その中、七日分の衣料品と電子機器一式の入った特大のスーツケースが、今眼前にはあった。そこに加えて現地で使う種々の
左右を見れば、僕と同じような大荷物をスタッフに頼みつつ、手慣れた様子で発券手続きを進めている人影がある。左には大柄な黒人の男性、そして右には赤いハーフリムの眼鏡をかけた、若い女性だ。僕とほぼ同じタイミングで発券処理を済ませたその二人は、足早にカウンターから離れんとする僕の姿を認めるや、手を挙げて近づいてきた。
――つまりその二人は顔見知りにして同行者、僕がここほぼ一年に亘って身を寄せている喫茶店「リコリコ」のスタッフである、ミカさんとミズキさんだった。
そう。今僕たちリコリコ一同は、その全員で以てこの場所に、空港にやって来ていた。
「隼矢くん、お疲れい!」
僕の肩を一度だけ叩きつつ、ミズキさんが声をかけてくる。
「いやぁ、随分と大荷物になっちゃってさぁ、ほんっと大変よぉ!」
力仕事出来る男手が二人いてよかったわー、などと、顔を手で煽ぎながら早くも疲れたような声色で僕にまくし立てる彼女をちらりと見る。しかしその一方で、ミカさんもまた僕に向かってなにかもの言いたげな様子だ。そちらへと顔を向ければ、彼は口を開いて訊ねてきた。
「隼矢くん。あとのみんなはどうした?」
「ああ、えっと、今手続き中だと思いますが……」
言いながらも、彼の言う「あとのみんな」――残りの三人の方へと、視線を向ける。
見れば、彼女たちはそれぞれ一つずつの手荷物を片手に、レセプションと格闘中だった。
クルミは海外渡航の経験は豊富ではあるものの、持っている荷物の大きさに悪戦苦闘している。そして残りの二人は、そもそも
「……ちょっと、行ってきます」
あの状態の三人をそのままにしているのは、少しばかり忍びない。いやそもそもあれでは後ろの待機列の迷惑だし、何とかした方がよさそうだ。そんな思いで発した僕の提案に、彼はただ肯いて、「頼む」とだけ口にした。それに頷き返してから、僕は足早に彼女たちの許へと足を向けた。
そこから、さらにいくつかの紆余曲折を経た末、どうにかこうにか
ここから先は、もはや日本の国外に等しい。いよいよ以って未知の領域を体感することになったリコリスの二人――というよりも千束が、その踊る内心を抑えられないかのように目を輝かせながら辺りを見回していた。
そして待ち切れないとばかりに駆け出し、しかしすぐに僕たちの方へと向き直る。その目は見開かれ、口角も上がっていた。
早く来いとばかりに手招きして、そこから一転、窓の方へとまた走る。何とも落ち着きがないが、それはらしさでは間違いなくあった。
千束が今張り付いている窓の外には、暗闇の中、ボーディングブリッジの灯りが照らす飛行機が駐機している。それは僕たちがこれから乗るものに相違ない。
それを爛々と煌めく視線で見据えた彼女は、よぉし、と一人呟いてから、ビシっと音の出そうなほどの身振りで以て、外を指さした。
「待ってろー、ワイハ!」
そのまま飛び跳ねるようなスキップで、千束はまた先を急ぐ。
「……はしゃぎ過ぎです」
そしてそれを窘めつつも、たきなさんが誰よりも先んじてその影を追った。
少女二人の活力に満ちた後ろ姿を眺めつつ、クルミを含めた大人勢と一緒にゆっくりと歩く。その中、僕はこの場に至るまでの一か月の苦労に思いを馳せていた。
Appendix 01. Blue in the sky, Cyan in the sea
それは、千束の一言から始まった。
時は一月末。新年の祝いに、リコリコスタッフの中だけで行われた千束のささやかな「成人式」と、そんな種々のイベントを終え、僕も以前と同じ程度には運動機能が回復した、ちょうどそのあたりのことだ。
「旅行にいきたい」
平日午後、その日はここ最近では比較的珍しく客の入りが少なく、午後五時を待たずして店を閉めることにしていた。その片付け作業の最中、彼女は座敷席の座布団をまとめながら、不意にそんなことを言った。
「旅行、ですか」
フロアのモップ掛けをしていたたきなさんが反応する。手を止め、千束の方を振り向いた。
「そう! ちょっと前までめっちゃ忙しかったじゃん? 大きい事件もあったしさぁ」
「大きい事件」。言うまでもなく、武器取引に端を発し、延空木占拠事件をもって終局を迎えた一連の大規模事案のことだ。
「アンタの心臓の話も、ね」
カウンターでいち早く晩酌の準備を始めていたミズキさんも同調するように、千束に向かって言葉を投げかけた。
彼女の言う通りだ。千束自身の心臓の話はまさにリコリコにとっては最も大きな懸案であって、だからそれが解決を見た今、ここ一月の僕たちの間にはある種「一仕事を終えた」かのような達成感と、そして弛緩した空気感が漂っていたことは事実だった。
――それもあった!
ミズキさんを指さして、千束が更に言う。
「その辺諸々片付いてしばらく余裕ができそうだし、お疲れ様の意味も含めて、みんなでどこかに遊びに行きたいなぁ……って思ったわけですよ千束さんは」
それと、隼矢さんが四月までお休みらしいしさ、などと彼女はもっともらしくも付け加えた。
そしてそのままに、どう思うよ先生、とミカさんに向けて水を向ける。相変わらずカウンター裏で、レジ締め作業中の僕の横で食器の片付け作業に勤しんでいたミカさんが、その言葉に千束の方を向いた。
「……まあ、金ならある」
そして頷きつつ、そう口にする。その顔つきからは、千束の提案そのものについては決して反対している感じではなさそうに見受けられた。
彼が言うところの「金」というのは、つまり旅行に使えるような資金的余裕のことを指している。
端的に言えば、今の喫茶リコリコの懐は、温かかった。これはここ最近の経営努力と、更に株式投資による資金運用が実を結んだことがまず大きい。現状のこの店は完全無借金経営を実現していて、そこに加えて相当程度の余剰金をも得られている。凝り性のたきなさんと、あれで律儀なクルミ、そして少しの僕の手助けも、そこには影響していた。
そしてもう一方、先の延空木事件解決に当たってDAから僕と喫茶リコリコに払われた報酬金がそこそこまとまった額だったこともまた、一つ大きな要因だった。
報酬金というよりは、報奨金というほうが正確な表現かもしれないが、いずれにせよそれは僕に向けてのものでもあったが故に、額面自体は僕も知っている。その記憶が正しければ、ここから三月いっぱいまで、二ヶ月に亘って長期間の旅行と洒落込んでも、例えば海外、グアムぐらいまでなら余裕で全員分の宿泊代を賄えるほどの金額であったことは確かだった。
とはいえそうやって振り込まれたもののうち、今回の事件の解決に至るまでに使った弾薬費の精算や、僕や千束の入院費によってその半分程度は既に消し飛んでしまっていたりする。もともとそう言った経費込みの報酬だったわけでそれは当然のことなのだが、ただそれでも一月の国内旅行でそこそこいいホテルや旅館に全員で泊まれるぐらいの残高はまだあったはずだ。それに余剰金を加えれば、千束のその願いは大抵の場合において叶えられるだろう。
そもそもこの店は、あくまで「千束の願いを叶える」ための場所だ。特に現状において設備投資の必要もないとなれば、「みんなで旅行に行きたい」というその
そういうわけで、店の空気としては、彼女の提案に乗るのはやぶさかではないというところではあった。
だとするのであれば、その次に求められるのは意思の具体化だ。「旅行に行きたい」という願いは分かったが、まさかどこでもよいというわけでもないだろう。千束の構想というのはどういったところにあるのか、それを訊ねようというのは当然の行いだった。
「それじゃ、具体的にどこに行きたいとかあるの?」
みんなを代表するように、訊ねてみる。冬だし、例えば温泉宿とかだろうか。問いを投げかけながらも勝手な想像でそんなことを思っていたところに、しかし彼女は全く明後日の方向から言葉を返してきた。
よくぞ聞いてくれた、とばかりに大威張りに胸を張って、そして千束は声を大にして言ってのけた。
「ずばり、ワイハだ!」
と。
誰も、何も言わない。言えない。暫くの沈黙が、店全体を支配した。僕はそもそもその一瞬において、千束が何を言ったのか理解ができなかった。
――わいは。ワイハ。……ああ、つまりハワイか。数瞬の後に、彼女の言ったことに僕は漸く気が付いた。
彼女の言うところの「ハワイ」だが、その案自体は、実のところ悪くない。
南国の島であるからにして夏こそがシーズンと思われがちではあるが、この時期も決して悪い環境ではない。とりわけ三月から四月にかけてはハワイも雨季の終わりが近づき、その過ごしやすい気候と一足早い海水浴体験を求めて、観光客が増えるハイシーズンの一つでもある。
ただ、僕たち、と言うよりも千束自身にとって、それ以前の問題がそこにはあるはずだった。
僕と同じことを思ったか、たきなさんが怪訝そうな顔で切り出した。
「千束、その……」
言い淀んで、首を振る。
「わかってると思いますけど。私たち、戸籍ないんですよ? パスポート、取れるわけないでしょう。どうやって行くんです?」
そして出てきたのは、至極当然の指摘だった。誰もが同じ疑問を、ここで懐いていた。
つまり当の千束とたきなさんは、どうやって日本から出るつもりなのか。まあわざわざ言うからには何か腹案はあるはずなのだが、それが分からない。
そこを突破して正面きって訊ねてくれたたきなさんに内心感謝を示しつつも、果たして何と答えるつもりかと思ったところで、千束はこの場にいる最後の一人、奥の座敷席でごそごそと何かをやっているクルミの方へと、おもむろに目線を向けた。
「そこはさー……ほら、クルミにちょいちょいってやってもらう感じで」
期待を込めた眼差しだった。僕の方からは奥の方の座敷席は完全な死角で見えないが、しかしごそごそとした音が止んだ辺り、恐らくクルミが千束の方を向いたのだろう。しばらくの後、声が聞こえた。
「……まあ、出来なくもないが」
その言葉に、千束が目を輝かせる。そしてたきなさんの方に向かって、口を開こうとした。ほら、とでも言いたかったのだろう。
なるほど、と一人納得する。つまり彼女はクルミの技術力で以て、国家権力の目をごまかす形で国外に出ようとしているのだろう。大方偽造旅券を作ってもらおうとか、そういった話に違いない。
しかし、納得することと、それを受け容れるかどうかはまるで別だ。というより、さすがにそればかりは聞き逃せなかった。これでも僕は、公僕なのだから。
「千束。あとクルミも。僕がいる前で堂々と戸籍の捏造とか旅券の偽造とか言わないでくれるかな」
あ、という声を聞く。僕のその言葉に、千束がぎくりとした表情でこちらに目線を向けた。僕の目は恐らく据わっていたのだろう。あははー、とお茶を濁すように乾いた笑い声を上げた。
「そーよ。それにそもそもリコリスが海外に行くってありえないでしょ普通。DAから仕事の依頼来たらどうすんのよ」
僕の言葉に同調するように、ミズキさんもまた千束めがけてツッコミを入れる。うぐ、と言葉に詰まって、千束は頭に手をやった。
「んー、やっぱりダメかぁ……行ってみたかったんだけどなぁ、ハワイ。みんなで」
そして堪えきれず、と言った様子で声を上げる。至極残念そうな声色だった。
千束が何を思ってこんなある種の
つまり、
年度替わり、今年四月からのこの店はほぼ確実に、特に裏の、DA絡みの案件によって今までよりも仕事が増えることになる。それはリコリコの中では、口には誰も出さないもののある程度共通した認識として存在していた。
そしてその原因のかなりの部分は、はっきり言えば僕が占めていた。
それは僕がこの場所に配属されるに至った理由とも重なっている。つまるところ、DAと
故にこそ彼女は、その仕事始めの四月までの間、彼女のリコリスとしての
そして同時に、それは彼女にとってきっと今の今まで「諦めていたこと」に違いなかった。彼女の寿命がそう遠くない未来に迫っていた、二ヶ月と少し前までは。
彼女の諦めていたこと、その見果てぬ夢というのは、本当に無邪気な願いなのだ。
――みんなで一緒に、思い出を作りたい。できれば今まで行ったことのない場所で、ならば思い切って海外がいい。
夢を見ることは誰もが持つ権利だ。それは千束にとっても同じことで、ならば「夢はでっかく、ハワイだ」などと、彼女はきっと笑っていたのだろう。
それでも、今その夢はもう届くところにまで来ている。届かせることができるようになったのだ。他でもない僕たちが、店のみんなが、千束にその未来を与えた。それ故に、そのあまりに無邪気で叶えられるはずのなかった夢は、千束にとって叶えたい願いへと変わった。変わってしまった。
たとえ一年のあとに引退を迎え、恐らく今よりは自由を得ることになる未来が見えていたとしても、しかしその時の千束は、「喫茶リコリコの看板娘、ファーストリコリスの錦木千束」ではもはやない。だから今しかないのだ。今ならば、彼女はその身分のまま、店のみんなとの思い出を作るという届かなかったはずの夢を、現実にできるのだから。
彼女がそれをどれほど自覚しているかはともかくとして、千束の願いの根底にある意思は、畢竟それだった。
ならばその思いは、尊重したい。されるべきだろう。
そもそもの話、何も僕は意地悪で旅券や戸籍の偽造を諫めたわけではない。せっかく未来を得た彼女の今後のあり方に、つまらないことで仄暗い影を落とすことは受け入れられないという、ただそれだけのことでしかなかった。
つまり別のやり方、正攻法で彼女たちが一時的にでもそれらを取得できさえすれば、僕としては問題などない。
とするならば、以前からの腹案を実行するにはよい機会だと言えた。即ち、こうだ。
「なら……DAに掛け合ってみる、というのはどうかな」
僕の言葉に、クルミ以外の全員がこちらを向いた。目を見開いた千束の姿を見て、しかしミズキさんのどこまでも怪訝そうな声が、耳に届いた。
「……アンタそれ、正気?」
向き直る。ミズキさんが目を細めて、僕の方を見ていた。それを真っ直ぐに見据えて、僕は頷く。
「いつも言ってますけど、僕は冗談でこういうことは言いませんよ」
「なら逆に何考えてんのよ? DAがリコリスをこの国の外に出すことを認めるワケないっしょ」
そして向けられた当然の問いに、待ってましたとばかりに僕は己の考えをぶち上げた。
それはリコリスという存在の価値を、大きく転回させようという挑戦的な試みだった。
リコリスの今の本業と言うのは、平たく言えば掃除屋で、悪し様に言えば暗殺者だ。しかし
つまりリコリスの戦力というのは、国内の潜在的な犯罪者の「処分」などというつまらない、陰鬱な仕事にばかり向けるのははっきり言って
ならばどうするか。
僕たちにも当然、対案はある。つまり国外で活動する情報組織の人間の護衛とか、直接的な武力行使を企てる国際テロ組織の策動を水際で食い止めるであるとか、そういった方面に彼女たちの運用の軸足を移してはどうか、というのが提案の肝だった。
彼女たちの持つ高いスキルは、そういう方向にこそ発揮されるべきだ。その方がより組織の在り方として健全だし、国益にも適う。これは来年度からの新たな業務を拝領したタイミングで、方々の情報組織――公安や、とりわけ市ヶ谷の情本――の面々と話し合いを持つ機会があった中で出てきた意見でもあった。DAとしても、彼ら曰くの「悪意の種」が国内に紛れ込む芽、そのものを摘むことができるのは決して不利益にはならず、双方に利益をもたらす提案になるはずだとも、僕たちは考えていた。
「なのでその先行事例として、リコリコのリコリス二人の海外任務のために旅券の発給を正面から交渉してみよう、とまあそういう話です」
滔々と続けた演説を結び、どうですか、とミズキさんやミカさんを見遣る。ミズキさんは胡乱な目つきで僕の方を見ていた。
「……それで、そのお題目で取ったパスポート使ってハワイに行こうってワケ?」
「まあ、そういうことですね」
澄ました調子で返した僕に、ミズキさんが溜息をつく。そして一言、捨て台詞のように言葉を吐いた。
「やっぱ、アンタ官僚だわ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
これで、趨勢は決まったと言えるだろう。この場に千束の案を退けようとする者は、もはや誰もない。
うずうずした様子でこちらを見る千束に向かって「そういうことだから」と水を向ければ、彼女はぷるぷるとその身を屈めて震わせはじめる。
そしてその末、溜めた力を吐き出すように、己が右の拳を天に向かって突き上げた。
「よっしゃ行くぞぉ! ワイハだワイハーっ!!」
そう、歓喜の雄叫びを上げながら。
それからのことだ。
まずはDAに対して、公安や防衛省からの提案としてリコリスの海外における治安活動の話を持ちかけた。そしてその一環として、リコリコのリコリス二人、つまり千束とたきなさんをそのモデルケースとするべく、国外任務を遂行できるように旅券の発給を請求しておくことも忘れない。
而してその話はすぐさま楠木さんのところまで上がったらしい。リコリスの統括責任者故にそれは当然のことで、おかげで僕はまたぞろ山梨の山奥、つまりDAの本部で彼女と「お話」をする羽目になったりした。千束曰く「堅くて息が詰まる」彼女との話し合いは確かに僕の神経をガリガリと削ってくれたが、その甲斐あって僕の提案は楠木さんに何とか認められる運びとなった。
ただそこには、一つの交換条件がくっついていた。
その「交換条件」とはつまり、先日の延空木占拠事件の前座として、市中に無差別にばら撒かれた銃器に関することだ。
実際のところ、それはDAのみならず、
しかしDAはやはりDAというか、僕たちよりももう少し、その辺りに手を広げるのが速かった。彼らが言うには、去年四月の武器取引において、取引された銃器の総数は千百五十挺前後だったのが明らかになっているという。うちブラックマーケットに流れた数は三百挺程度で、これについては既にDAが捕捉しており、近日中に対処が済むらしい。
しかしそれでもそれを差し引いた残り八百挺を更に四掛けした、つまり三百挺程度の銃火器は、彼らを以てしても未だ行方が知れないのだという。出された条件と言うのはまさにこれに関することで、その回収業務においてリコリコの二人の手を積極的に貸せば、可及的速やかに二人分の旅券を用立てると、彼女は僕に確約した。
というわけで、そこからの約一月、リコリコの裏稼業はもっぱらそれら銃器の回収業務に割り当てられることになった。
散逸した銃器のうち、かなりの部分は国内の半グレ集団や暴力団下部組織に流れていたこともあって、二人は度々にわたって結構な大立ち回りを強いられることになる。そこに少しばかり不安はないでもなかったが、いざふたを開けてみればそれは杞憂にすらもならないものだった。
千束の戦闘能力は入院前から全く色褪せていなかったし、たきなさんの精密射撃の腕に至ってはむしろ更に磨きがかかっていた。
当然そんな二人を相手にできる素人集団などいようはずもなく、彼女たちはそつなく、そして危なげなく回収任務をこなしていく。その先に待つハワイ旅行のためと、むしろ千束はいつもより随分と張り切った態度で仕事にあたっているようにすらも思えた。
それが日々のルーティンワークになってから大体二週間後、ついに彼女たちの頑張りは一つの実を結んだ。
二月の中旬あたりに、DAからの書留で二冊の旅券がリコリコに届けられたのだ。そこには確かに千束とたきなさんの個人情報が収められていて、これを以てすれば彼女たちは大手を振って国の外に出られるようになったことを、それは意味していた。書留の封筒から取り出したまっさらな旅券を胸に抱いて千束が浮かべた眩いばかりの笑顔は、今でもよく覚えている。
そして、そこから更に二週間後の、今。
飛行機の客室の中、ナイトフライトだったこともあって落とされていた照明が点る。その光に目を刺激されて、僕はゆっくりと目を開けた。それまで沈んで茫洋としていた意識もまた、急激に浮上する。
ポケットの中からスマホを取り出し、アプリの世界時計で時刻を確認すれば、今は現地時間、朝の九時半だった。到着予定時刻の午前十時過ぎは程近く、それを証拠にこの飛行機はゆっくりとその高度を落としているように感じられた。
隣を見れば、だらしなく身体を投げ出して寝入っている千束が身動ぎをした。んん、と掠れたような声と共に、その目がゆっくりと開かれる。
「おはよう」
「……ぁ、隼矢さん」
覗きこむように、声をかける。
誘い出されるように、彼女の蕩けたような瞳が僕を捉えた。一つ、二つの瞬きの後、その視線は僕の上でどうにか固定されたらしい。むくりとその身を起こして、そして辺りを見回した。
「おはよ……いま、何時?」
「大体九時半ぐらい。あと三十分ちょっとで着くかな」
僕の答えに、そっか、と一言呟く。いまいちしゃっきりしない彼女だったが、或は僕がこれから見せる景色には、何か反応を示すだろうか。僕の右手側、閉じ切られている窓のブラインドを徐に開く。
一瞬だけその眩さに目を細めて、しかしそれに目が慣れた瞬間――僕の視界に、鮮烈な光景が飛び込んだ。
雲一つない、抜けるような青空。遠く下に見える島はギリギリにまで建物が立ち並び、しかしその先の砂浜は滑らかな海岸線を描く。
その向こう、遠浅ゆえの光の屈折か、或は珊瑚礁の石灰質によるものか、眼下に広がる南国の海は、透き通るような碧色を一面に湛えている。
写真かテレビの向こう側でしか見ることのなかった光景が、今この窓の向こうには広がっていた。
わぁ。そう、掠れ気味に上げられた、歓喜の声が聞こえる。窓の外を見る僕の隣、千束がその身を乗り出して、外の景色を覗きこんでいた。見ればその瞳はまさにキラキラと輝いていて、そしてすぐさま彼女は左の方へと向き直り、未だ睡眠中のたきなさんを起こしに掛かっていた。
「たきな、たきな起きて!」
言って、身体を揺する。
「ぅん……千束……? なん、ですか」
たきなさんから、少しばかり不機嫌そうな声が上がった。いきなり起こされたことに少しばかりの不満を覚えたか、じっとりとした視線で千束の方を見る。しかし千束は構うことなく、たきなさんの腕を引いた。
「ちょっ、千束!?」
「いいからほら、こっち!」
小声の応酬の末、千束は強引にたきなさんの身体を右へと向けさせる。
その刹那、彼女の菫色の虹彩が窓の外の青と碧を映して、きらりと光った。
「これは……」
「すごいでしょ、これ! ハワイだよ、ほんとにハワイだ!」
言いながらももう一度、千束もまた窓の外へと目をやる。齧り付くように、限界まで身体を僕の方へと伸ばしてきた。
忘我の面持ちでその風景を見つめる彼女の姿を見ながらも、僕も漸くにしてその実感が湧き始めていた。
喫茶リコリコの、ハワイ旅行。最初にして、或は最後かもしれない、それは思い出に残るべき一か月だ。
ハワイの、南国の日差しの下でいつものみんなと送る、底抜けに楽しくて幸せな時間は、もう今すぐそこにまで迫っている。
「……千束」
思わず呼びかけた僕に、目の前の彼女が振り向いた。なぁに、そう言って小首を傾げた彼女を正面から見て、深い感慨を言葉に変える。
「楽しみだね、ハワイ」
その僕の声を聞いて、千束は輝かんばかりの笑顔を浮かべた。
「――うん!」
そしてその、三十分後。僕たちリコリコメンバーは、漸くにしてハワイの地を踏む。
三月の初め、ホノルルの風は穏やかに吹いている。それは今後一月ばかりの僕たちの休息の時を、祝しているかのようにすらも思えた。
本分にある通り、拙作のリコリコメンバーは三月から一か月の間をハワイ旅行に費やすことになりました。原作においては千束が宮古島に失踪中の期間での話になっています。