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「ああ、大丈夫だ」
「おっけーです。
リコリコ総出のハワイ旅行も、早いもので五日目になった。二日目から営業を始めたこの「喫茶リコリコ・ハワイ支店」も、営業開始四日目にしてそこそこ客の入りが多くなってきている。
人出の多いワイキキビーチに店を構えているからというのもあるが、クルミのSNS上での宣伝活動や、喫茶リコリコ本店では提供していないエスプレッソ系のメニューの拡充も、そこには大きく作用していた。
「しかしまあ、シアトル系コーヒーショップの流行には抗いがたいですね、売れ線を見るに」
五人ほど並んでいた行列を捌いて、しばしの静けさが訪れる。気の抜けたついでにこぼれ出た僕の言に、ひたすらにエスプレッソマシンと格闘していたミカさんがその手を止めて、こちらを向いた。
「そう、だな。私としては、シティローストのドリップコーヒーもいいものだと思うんだが」
丁度そこに、メニュー表を背負ってその辺りをうろうろしていたクルミがやってきた。僕たちの話を聞きつけたのか、カウンターからこちらをずいと覗いてくる。
「まあ流行りには乗っておくのがいいさ。ボクのマーケット調査もバカにならなかったろ?」
「そりゃな。結構ジャパニーズスイーツのメニューも売れてるし」
クルミの言葉には、賛意しかなかった。
彼女はこの地での営業の前に、リコリコから持って行くべきメニューと変えるべきメニューの仕分けも含めた「営業戦略」なるものを立てていた。接客そのものについてはともかくとして、この店の収益への貢献という意味では、彼女も強い当事者意識をもっているらしい。
それに曰く、ハワイの文化というのは日本も含めたありとあらゆる国のものが混ざり合って構成されているが、それでもアメリカ的な流行は西海岸の影響がどうしても強いのだという。そしてその文脈の中では団子やどら焼きのような日本の甘味は「ヘルシー」なものだと思われているようで、故に僕たちの日本で提供しているメニューは端的に言えばこの地でもウケる、と言うのがクルミの見立てだった。事実としてこの五日間、結構な頻度でコーヒーや、或は緑茶と一緒にそういった甘味の注文が入って、この店の売り上げに大きく貢献していた。
まあ尤も、その中にはハワイに来た日本人観光客が和風喫茶の物珍しさに色々と頼んでいく分も多々含まれてはいるが、それだって立派な売り上げであることには変わりない。
ともかくそのあたりのことを思い出してか、ミカさんが微かに笑みを浮かべて口を開いた。
「まあ、売り上げが立つことは、悪いことではないだろう。千束も楽しそうに接客しているよ」
「そうですね。……まあ、今日はあの子は一日非番ですが」
僕もまた、彼の言葉に笑ってそう返したわけだが――その中、ミカさんの言に対応せんと付け足した言葉の通り、今日の千束は丸々一日がオフとなっている。そろそろシフトの交代時刻の午後二時が近いが、恐らく今日の前半枠が非番となっているたきなさんと一緒に、どこかに遊びにでも出かけているのだろう、未だここに彼女の影はない。
ちなみに明日は日本でのリコリコと同じく、定休日の曜日だ。つまり千束は奇しくも二日連続での休日となっていた。
「それで、千束とはどうなんだ」
と、少しばかり変わり始めた話の矛先に、クルミが目敏く食いついた。
たきなさんに関してはよくわからないが、最低でもクルミはこういったことが気になるような性質はしていなかったはずなのに、何が彼女をそこまで駆り立てるのか。何か心境の変化でもあったのだろうか。
ただまあいずれにせよ、答えとしては率直なところを言うしかなかった。今までがそうだったように。
「どうって……まだ店開いて四日目だぞ。身の周りを固めるので精一杯だわ」
ということで返した僕のその答えに、しかしクルミが大きく溜め息をついた。お前さあ、と呆れ混じりの文句を投げて、何か言葉を継ぐべく、しばし口ごもる。
「……いやまあ、まだ先は長いんだが。……あ、客だ」
そして結局二の句を継ぐことを諦めたのか、丁度そこまで言ったあたりで、数人からなる団体がこちらのトラックを視界に捉えて歩み寄ってきた。
それは僕にとって渡りに船とも言えるのだろう。去ってゆくクルミを尻目に、笑顔で彼らに話しかけた。
「
そこから大体三十分ほど経った頃、少女二人が連れ立ってリコリコのフードトラックにやってきた。千束とたきなさんだ。
「みんな、お疲れい! 千束が来たぞー!」
輝く笑顔を振りまいて、まずは千束がカウンター前に陣取る。
その出で立ちに目を向ければ、彼女はライムグリーンのTシャツを裾結びにして、白い綿のホットパンツを穿いていた。自らの健康的な肢体と均整の取れたスタイルを惜しげもなく披露するその姿には、相変わらず自身の魅力を表現する方法をとてもよく心得ていると感心すらさせられる。
「お疲れ様です。シフト交代の時間だと思うのですが、大丈夫でしょうか?」
それに続くように、千束の隣にたきなさんがやってきた。彼女の格好はと見てみれば、先日千束が選んだTシャツとサロペットの組み合わせを身に着けている。たしか今日が初卸だったはずだが、こちらもとてもよく似合っていた。千束の目利きは、やはりさすがのものだと思わされる。
そんな二人の姿を一通り目に入れて、僕はその問いに首肯した。
「……そうだね、交代のタイミングだ。ミズキさんにキッチン入ってもらって、たきなさんは接客お願い。僕は上がります」
そしてその僕の言葉にたきなさんは目礼で以て返し、運転席に座っているミズキさんを呼びに前の方へと歩き去って行く。
その後ろ姿を一頻り目で追いかけてから、千束は僕の方に視線を戻した。
「そっか、隼矢さん上がりだもんね。んじゃさ、私に付き合ってよ、これから」
どうかな? と首をかしげて、こちらを覗きこんでくる。
それは僕にとって、願ってもない誘いだ。トラックの中の様子をちらとだけ見てから、千束に小さく頷いた。
「もちろん。ちょっと待ってね」
それからそう時をおかず、たきなさんに接客を引き継ぎ終えた僕は、千束に誘われる形でワイキキビーチへと出た。お互い海に出れる恰好をしているわけではないからと、海水浴客を横目に見ながらも、カラカウア通り沿いにゆっくりと歩く。
「調べたんだよね、おいしいハンバーガー屋さんがあるって。たきなはあんまり興味持ってくれなかったけど、隼矢さんとなら行けるかなって。どう?」
その道すがら、千束がそう言って僕を誘った。てっきり彼女はたきなさんと昼食を済ませたとばかり思っていたのだが、どうにも違ったらしい。
「喜んで。だけどたきなさんはどうして?」
「いや、『わざわざハワイまで来てハンバーガー、食べますか?』だってさ。まあ、そうかもしんないけど」
むすっとした顔をして、僕の問いに答える。思わず、苦笑いが漏れていた。
「まあ、たきなさんらしいね、それは。……で、どこなの?」
訊くと、千束はすっと指を伸ばし、視線の向こう、奥の方を指した。
「結構向こう側。動物園がある辺りだって」
「確かに、結構遠いな……まあ、二人でぶらぶらするのも悪くないけどね」
彼女の指のさす方を見て、そこに懐く率直な感慨を口にする。目線を戻して水を向ければ、千束はそう? と声のトーンを一つ上げた。
表情に、笑みの色が灯る。こちらを見ていた目線が、正面を向いた。
「じゃ、ゆっくり行きますか」
そして彼女はその言葉の通りに、その歩を少しだけ緩めた。
そのままただひたすらに、僕たちは二人でゆっくりと通りを歩く。
暫く互いに何も言わない時間が続いたところで、千束の方から切り出してきた。
「隼矢さん、楽しめてる? ハワイ」
そう言って、こちらを向く。そちらに目を向ければ、彼女は少しばかり真剣な目つきをしていた。
「そりゃ当然。……どうして、そんなことを?」
少しばかり面食らってそう返せば、千束は僕から目線を逸らして前を向いた。
「いや、ここ最近隼矢さんはずっとあのトラックにかかり切りで、全然遊べてなかったじゃん。私とたきなばっかり楽しんでる感じで。……二人の時間も、取れなかったし」
ぽつりぽつりといった風情で言葉を重ねる彼女の声の中には、申し訳なさの他にも少しばかりの不満の響きが見え隠れしている。
「……だって僕は大人だ、責任ある立場だよ。あそこが安定軌道に乗るまでは、働くのが義務ってもんだろう? そんなこと言ったらミカさんなんて、定休日以外は働き詰めなわけだし、これからも」
だからか、僕のその返答に少しばかりの苛立ちすらも籠った声色で「そうじゃなくて」と言い返してくる。足を止めて、こちらの方を向いた。
「隼矢さんがそう言ってくれるのは嬉しいけどさ。でもそれ、楽しいのは隼矢さんじゃないじゃん」
詰るような、苛立ちを内包した口調だ。しかしその直後に、その語気は急速に弱くなった。
「……いや、おんぶにだっこの私が言えたことじゃないか」
ごめん。そう小さな声で言い足して、千束は黙ってしまう。
しかし僕の方こそ、千束にそんな表情をさせてしまうのは、本意ではなかった。
「いやまあ、それも今日まででしょ。実際今僕は君とこうやって二人で過ごせてるし、明日は初めてのハワイの定休日だし。そんな顔しないでよ」
一歩歩み寄って、千束の肩に手を置く。一瞬だけその身を震わせて僕の方を見上げた千束が、数秒の沈黙のあとに、ふっとその表情を緩めた。
「……そっか。ま、そうだよね」
私らしくなかったかぁ、と努めて声を張り上げた彼女が、自らの肩に置かれた僕の手をするりと取る。
「え、ちょっ……」
そしてそのまま、僕の手の指を自らの指と絡ませた。慌て気味の声を上げてしまった僕に、千束はいたずらっぽく笑ってみせる。
「ま、いいじゃんこのぐらいは。……さ、行こ」
そして力強く僕のことを引っ張って、彼女はまた歩き始めた。
事程左様に、あのクリスマスの日から、千束の僕に対するスキンシップが俄に増えてきているような気は確かにしていた。話すにしても、一緒に作業をするにしても、気づけば彼女はそれまでよりも二歩ほど近い距離にいる。今のこれも、きっとその一つなのだろう。
嬉しいか嬉しくないかで言えば、それは間違いなく嬉しい。でもそこには戸惑いも確かにあった。
クルミの言葉が、また頭に響く。
――千束とのこと、考えておけ、か。
隣で上機嫌に鼻歌を唄う千束を見つつ、しかし今の僕にとってその問題は、どうにも未だ割り切れない困難を抱えたままにそこにあるばかりだった。
そしてそのまま二十分もすれば、目的地には着いてしまう。
ワイキキのリゾートホテルの一角。その一階部分にあるハンバーガーショップこそが、千束が先程言っていた「おいしいハンバーガー屋さん」らしい。ここだここだ、と口の中で小さく言って、彼女は僕の方を振り向く。
「じゃ、ちょっと遅めのお昼ご飯にしよっか」
ね、と小首を傾げた彼女に、僕は無言で頷いた。
僕にとってアメリカは、幾分の
大学時代、この国にはゼミの連中と一緒に何度か旅行する機会があった。ただというか、当然にというか、それは遊びのためではない。主にITセキュリティ関連の学会に出るためで、故にだいたいが西海岸――カリフォルニアか、或はラスベガス辺りがその目的地となっていた。一方で東海岸にはあまり縁もなく、そして当然にこの地、ハワイも僕にとっては初めての場所だ。
それでもやはりアメリカの食と言えば、そのどこにあってもハンバーガーを措いて他にはないだろう。そしてこの地でそれを口にするごとに、僕は常々実感することがあった。
そしてそれは、今僕の体面に座っている少女にとっても同じだったらしい。
――おいしーい!
テーブルについて、受け取ったハンバーガーを一口食べるなり、千束は思わずと言った趣でそんな叫びを発した。
気持ちはよくわかる。日本でよく見るような、ファストフードのハンバーガーとは根本的に別の食べ物なのだ。
「こういうの食べちゃうと、日本のハンバーガーじゃ物足りなくなっちゃうかも」
素朴な感想を言いながらも、彼女はまさに満面の笑みを浮かべていた。その手に持つハンバーガーを見れば、アメリカらしい雄大なサイズ感のバンズから、両手で押さえてもなおはみ出てしまうほどに山盛りのトッピングと、肉汁溢れるパティが覗いている。
無邪気にそれにかぶりついて、己の手や口元をベタベタに汚しながらも、しかし千束は本当に幸せそうな表情をしていた。
その対面、僕は今までの経験からこの類のハンバーガーを手で持って食べるのはあまりに無謀だと思って、フォークとナイフで都度切り分けていたが、持る感想は同じだ。
「そうだねぇ。日本でも最近は本場仕込みのハンバーガー屋が増えてきた感はあるけど、やっぱり現地のは別格だよ、何度食べても」
しみじみ言って、頷く。現地の空気感も当然にあるものの、やはりここでしかできない経験、ここでしか食すことのできない味覚というのはどうしてもある。それを今、僕たちは強烈に実感していた。
「そうと言えば、明日は昼も夜もロコ料理なんでしょ?」
僕の問いに、ナプキンで口と手を拭いつつも千束が答える。
「ま、そうだねぇ」
そして、明日の予定を指折り始めた。
「午前はまずバナナボートでしょ? 終わったらそのままワイキキの方でロコモコ、食事の後の午後は北の方に行ってバギー体験して、おやつ代わりにカフクでガーリックシュリンプを食べて……」
「随分詰め込んでるんだな、明日」
折られる指がどんどん増える。しかも聞く感じでは、かなりオアフ島を大きく移動するようだ。
思わず、遮るように言ってしまった。その声に千束が顔を上げて、こちらを見た。
「だって、定休日は四回しかないんだよ? みんなで一緒にやりたいことはまだまだあるし、これぐらいやんなきゃ」
そして思いのほか強い口調で力説する。
確かに言われてみれば、シフトの空き時間が作るバラバラの自由時間は、個人でやりたいことのために取っておきたいものかもしれない。或は定休日にみんなで体験したレジャーの中から、もう一度やってみたくなったことを再体験するような時間としても使えるようにしたいのだろうか。
「まあ、言われてみれば、確かに」
確かにそうなれば、通り一遍のハワイアンレジャーはこの四度の定休日に詰め込めるだけ詰め込むのが賢いやり方か。そう思い直して頷いた僕に、千束は我が意を得たりとばかりに人差し指を立てて、片目をつぶった。
「でしょ? ――だから今日は、二人でゆっくりしようよ。ね?」
そんな風に小首をかしげて念を押して、しかしすぐに手に持つハンバーガーにかぶりつく。
「んー! やっぱうまーっ!!」
そう言いながらも満面の笑みを浮かべた彼女に、僕は少しばかりの苦笑で以て返した。
ダイヤモンドヘッドへのトレッキングやハナウマ湾でのシュノーケリング、或はハワイ島にコミューターで移動してキラウェア火山の見物と、その辺りのメジャーな観光先はほぼ間違いなくこの先の定休日で回ることになる。ならばと僕たちは、それとは少しばかり趣の違う静かな場所に行くことにした。
市バスでハワイ・カイに戻って、そこからはまた歩く。
向かう先は、とある植物園だった。僕たちの滞在するコテージよりもさらに東、ダイヤモンドヘッドとはまた別の山の火口跡に作られたそこは、乾燥地の環境の植生を再現した、アフリカや中南米の荒野のような環境を主たる展示物としているらしい。
入って暫くは、バオバブの木やメキシコヤシ、はたまたハワイらしくブーゲンビリアやプルメリアの花が咲いている木々のエリアが続く。植物園と言うよりはさながら自然公園のような景観だが、そこを抜けた更に先に、僕たちの目当てとする風景が広がっていた。
見渡す限りの荒野のなか、青々としたサボテンがまばらに天へと伸びている。ところどころの地面にはタマサボテンの姿も見えた。
誘われるようにその只中へと進み出て、千束がぐるりと周囲を見回す。たちまちのうちにその瞳を輝かせて、そして歓声を上げた。
「すっげー! 西部劇みたいじゃんここ!」
言われてみれば、その通りかもしれない。千束の方から視線を外して、今立っているこの場所と一人向き合ってみる。
開拓時代のアメリカ西部を思わせる荒涼感を宿した大地に、時折やや強い風が吹きつける。それはこの季節柄か、或は場所故だろうか。そしてそれが巻き上げる砂煙の向こうにサボテンの鮮やかな緑色が滲んで、その存在感を主張していた。
確かにそれは、ある種ステロタイプのような西部劇の舞台そのものだ。改めて千束に向き直って、頷いた。
でしょ? と彼女は笑って、そしてその手に指鉄砲を形作る。
「うーん……こういうとこ来ちゃうと、早撃ちとかやってみたくなるなぁ!」
それを何とも堂に入った構えで虚空へ向けながら、彼女はおどけてそう言った。
「『荒野の用心棒』みたいな?」
「そうそう! よく知ってんなぁ隼矢さん!」
ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、千束は僕の左肩をバシバシと叩く。
「もしかして、洋画好き?」
「うーん……いや、そこそこかな。だけどあれは有名だから、いろんな意味で*2。まあ僕はどっちかと言えばSFかなぁ、見るにしても」
「なるほどねぇ……」
そう言いながら、腕を組む。しかしその後出てきた言葉は、少しばかり残念そうな声色を伴っていた。
「でもまぁ、今回は銃、持ってきてないんだよねぇ」
右手を所在なげにさまよわせて、その末に千束は頭を掻いた。
つまり今回のハワイ旅行にあたっては、千束にせよたきなさんにせよ、そして当然にミカさんも、火器類の一切を持ってきてはいないのだ。
尤もそれは当然の話ではあった。ミカさんはまた別かもしれないが、最低でも千束とたきなさんのリコリス二人組は、自らの身分を保証する組織、つまるところDAの存在をその拠り所として、普段銃火器を携行しているし、できている。つまりその庇護下から離れる今この場所に於いて、彼女たちがそう言ったものを持つことははっきり許されないわけだ。今の彼女たちは単なる十代後半の少女に過ぎず、
そういうわけで、「喫茶リコリコ・ハワイ支店」というのははっきりただの喫茶店だ。日本でのように、裏稼業の隠れ蓑としての役割などありはしなかった。
――いや、それだけではない。そもそもの話として、今の千束とたきなさんはそれまでの二人と決定的に
「まあ、今の君たちの旅券は真っ当なものだし。『騒ぎ』は起こせないよ」
「真っ当な旅券」という言葉の裏には、一つの重大な事実がある。
旅券の発行には、
「そっか……そうだよね」
事実として、彼女はそんな感慨深げな呟きを漏らした。
「そうだよ。今私、戸籍を持ってるんだ。……たきなも」
それは、強い実感を帯びた声の色だった。
彼女たちリコリスは、戸籍を持たない。それはその存在を知っている者たちにとっては共通了解ともいえる事実だ。千束やたきなさんとて当然にして例外ではない。いや、なかった。
何となれば、彼女たちのそもそもの出自は孤児か、そうでなくても国がその出生を認識していない子供たちなのだ。故に彼女たちには戸籍が初めからないか、場合によってはあろうことかDAによって
そう考えてみれば、今の彼女は現役のリコリスとしてはあまりにも異常だ。旅券を得るためという大義名分がそこにあるのだとしても、戸籍を持ったリコリスなどよくDAが許可したものだと、今更ながらに思う。
「そういえばリコリスって、引退したらどうなるの? 戸籍はどのみちそのときもらえるんだろう、って思ってたんだけど」
そこでふと気になったことを訊いてみた。それは千束の今の、そして先の身の振り方にも関わってくる話だ。
つまり彼女は、リコリスとしてのキャリアでいえば晩年に近い。それどころかミカさんの話が確かなら、千束にとっては来年度がリコリスとしての最後の年になるはずだ。
だとするのならば彼女にとって、いや僕にとっても、その先のことをそろそろ気にしなければならない頃合いだと言えた。
そうやって考えてみれば、僕はその辺りの事情について、今まであまり深入りしてはこなかったのだと気づかされる。ただ漠然と、戸籍を与えられて一般社会に復帰するのだとしか考えていなくて、だから千束の今回の措置だって、もともと一年先に付与される戸籍を前倒しにしただけとしか思っていなかったのだ。何とも間抜けな話だが。
しかし今の千束の口ぶりからは、もっと別の、深い何かが透けて見える。
その証左にか、千束は僕の問いにしばらくの間答えなかった。そしてそのまま荒野の中を二人歩くこと一分ほど、彼女はようやっとその口を開く。
そこから出てきたものは、はっきり僕の想定の埒外にあった。
そしてできればそれは、事実であってほしくはない言葉だった。
「ファーストとかセカンドは、まあそう。戸籍をもらって、殆どがDAの本部に行く。秘密を色々知ってるからね、外には出せないんだ」
――だけど。
立ち止まって僕の方を向いて、そして力なく首を振る。
「サードの子たちは、違う。大体は、海外の情報組織に
思わず、息を呑んだ。
孤児を集めて洗脳じみた教育をして、その時点で大概だろうと思っていたのに。
「まあ大体サードってさ、もともと使い捨てで。引退するころには半分ぐらいになっちゃってるんだ。それでも最後まで生き延びた子は、そのまま外国の情報機関に行って、大体はDAとのパイプ役になる。そうやっていろんな国の『裏』とつながっておけば、DAは今のやり方をずっと続けられるから」
気づけば僕は、隣に立つ彼女の反対側、左の掌を強く握っていた。
「育ててくれた恩もあるし、それが国の、『日本のため』だって信じてる。『卒業』するサードの子たちは、みんな笑顔で出ていくんだ」
そしてそう、千束は言葉を結ぶ。目を逸らして、前を向いた。
今の彼女の話を聞いてから考えれば、それについて思い当たる節はないでもなかった。
今回のリコリスの海外派遣の提案について、僕はもともとDA側がかなり難色を示すと思っていた。DAの組織としての閉鎖性もそうだし、そもそも戸籍を
そうやって臨んだ、彼ら――というより楠木さんとの話し合いの場のことを、また思い出す。
確かに、物理的な圧力すら感じる張り詰めた雰囲気に僕は一人勝手に気圧されていた。しかしそれでも、彼女は僕が思っていたよりはあっさりとその案を受け入れた。千束やたきなさんに対する戸籍の付与にしても、彼らの従来のやり方を大きく枉げることであったはずなのに。
だからその日、交渉が妥結したタイミングで懐いた安堵感の裏で、僕は少しばかり拍子抜けしていたこともまた事実だった。
今から考えれば、それはきっと明白なサインだった。看過すべきものではなかったのかもしれない。あの時のDA側の態度のことには少しばかりの引っかかりを覚えていて、それでも気にしてもしょうがないとだろう今まで忘れていたけれど。
しかしそれに対する解は、今の千束の話を補助線にすることで自ずと見えてくる。つまり、こうだ。
彼女の話から考えれば、もともとDAという組織は各国が裏に抱えている様々な情報組織とのパイプを強固に持っている。それは主に、元リコリスの女性たちが作るネットワークによってのものだ。故にその活動が国内に限定されているのはあくまでも慣習的な部分が大きく、或は彼らもどこかのタイミングでその活動域を海外へと拡げるタイミングを探っていたのかもしれない。だからこそ僕の提案を、もしかすれば彼らは奇貨としたのか。
もしそうだと言うのならば、DAという組織は未だに、自らの擁するリコリスという存在について何か考えを改めたわけではないのだろう。彼女たちは未だ、その未来でさえも、彼らの軛から解き放たれることを許されはしない。たとえかの組織が、今回の事件や僕たちの話を受けてその考え方に多少の変化を受容したとて、それは彼らのマインドセットに大きな変革があったことなど、意味してはいなかった。
「この国を変える。僕のやり方で」。あの時、延空木の上で真島に向かって切った啖呵は、僕が思っているより猶も遥かに困難を抱えた約束だった。今更ながらに、それを自覚する。
だけど、それでも、譲れない。許せなかった。
「……嫌だ」
「え?」
思わず、言葉が漏れ出る。千束がこちらを振り返って、首を傾げた。
胸中に荒れ狂うのは、焦燥か、或は怒りか。衝き動かす感情に逆らうことなく、言い募る。
「嫌なんだ。君が……」
首を振った。言葉がまとまらない。それでも言いたいことは、伝えたいことは、確かなものとしてそこにあった。
「分かってる。外国に
千束の人生は、未来は、千束自身のものであるべきなのに。たとえDAに拾われた命だとしても、育てられたのだとしても。恩があるのだと、しても。
しかし僕の言葉を、千束はその手で遮った。
「ありがと。私のことで、そこまで言ってくれて。……でもさ、忘れてない?」
そこで言葉を切って、彼女は僕の前に回る。真正面から覗きこむようにして、その唇が今一度動いた。
「隼矢さん。
そう言って真剣な目つきでこちらを見る彼女が、もう一度こちらへと手を伸ばす。
彼女の言葉に息を呑んで、誘われるままにその手を取った僕のことを、千束はぐいっと引き寄せた。
「私も、たきなも。自分で選んだ人生を生きるよ。だから……」
そのままに、抱き寄せられる。背中に回された彼女の手の熱を、確かに感じた。
「『一緒に生きよう』って、あの日の約束。絶対に、嘘にはしないから」
言いながらも、ぎゅっと腕に力が籠る。呆然と抱きしめられるに任せていた僕に、その声はどうにも深く刺さった。
そしてそのまま、一分か、二分か。しばらくの時が過ぎて、ようやくにして彼女は僕の身体を放す。
「……さ、行こうよ。ちょっとしんみりしちゃったけど、ね」
今一度僕の右手に指を絡ませながら、千束はふわりと僕に笑ってみせた。
手を引かれて歩きながら、反芻する。
彼女の言葉と、抱きしめられた時に感じた、柔らかな圧力を。或は身体を通して伝わった、その温もりを。
結局、僕はどうしたいのだろう。クルミにも、或はたきなさんにも、ずっと言われ続けている言葉が、改めて脳裡に響く。
千束と一緒に今を生きる、そしてこれからも。それは僕の約束で、やりたいことで、決めたことだ。その言葉に悖るつもりはないし、彼女を悲しませるようなことは、絶対にしたくない。でも僕が今千束に対して持っているこの感情には、未だどうにも名前をつけられないままだ。
「性愛」か。いや、断じて違う。
「慕情」か。それもまた、違うような気がする。
ならば、或はそれをこそ「愛」だと呼ぶべきなのだろうか。いや、そうなのかもしれない。
それでも僕には、未だその生々しい語感を受け容れることが、どうしてもできずにいた。
そしてそれは、僕の頭の、心の一角をずっと支配し続けて、そして消えてはくれなかった。
二人植物園からワイキキビーチに戻って、千束と一緒に閉店前の一時間、店の応援に入った時も。
その最中に何やら話し込んでいる彼女とたきなさんの姿を認めた時でさえも。
さらにそこから夜になり、明日丸一日を使ってのレクリエーションに備えて、早めの夕食や風呂を済ませたあとになっても。
その末、一人寝室のベッドに横たわるに至っても、まだ。
「ほんと、どうしたいんだろ、僕は」
布団の中、思わず独り言ちて溜息をつく。
それがどれほど難しい問いであろうとも、ただ一つ、「千束と離れたくない、側にいたい」という願いだけは、胸を張って言えはする。しかしそれが、千束との未来の話にどうしても具象化できない。
それは人生経験の浅さ故か、それともただ、
そこまで思いを巡らせて、結局僕はそれ以上を考えることを諦めた。とりあえず、今日ばかりは。
「……寝るか」
呟いて、目を瞑った。
そして思い詰めていた割には早く訪れた睡魔に溺れながら、その最後に一つの言葉を思い起こす。
――約束、嘘にはしないから。
抱き寄せられながら耳元で囁かれたその台詞が、耳の、頭の奥で弾けて、そして消えた。