世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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Apdx.01-04

 ハワイに来て、二週間余りが経った。

 これまでにあった二度の定休日は、片時も無駄にしてはならぬとばかりにあるとあらゆるオアフ島のレジャーで埋め尽くされていた。そしてそんな中でも記憶に強く残るのは、やはり海のことだ。この南国の島の海には不思議な魔力でも宿っているのか、基本的にあまり外には出たがらないクルミも、或は真面目と実直が服を着て歩いているようなたきなさんでさえも、浜辺では普段の姿からは想像もできないような表情と振る舞いを見せていた。

 ならば、況や千束においてをや、だろう。彼女は都度その全力を以てレジャーに勤しみ、誰よりも率先して飛び込んで、どこまでも楽しそうに笑っていた。彼女自身がどう思っているかは知らないが、それでもその姿を見られるという今の時間そのものが、やはり僕にはどうしてもかけがえのないものに感じられて仕方がなかった。

 

 そういえば、と思い返す。その二度の定休日、海に出向く彼女の装いはいずれも、恐らく日本から持ってきたであろう水着だった。

 サーモンピンクのトップスに黒のボトムスを合わせた、恐らくはスポーツビキニ*1だ。それはデザインよりも実用性を重視していて、どこまでも海を楽しみ尽くすことを主眼に置いた彼女らしい選択だと思わされる。

 ちなみに日本からは水着を持ってきていなかったはずのたきなさんだが、最初の定休日にはどこから調達したのかわからない全身タイプのウェットスーツを身に纏って僕たちの前に現れた。あまりに()()過ぎて少し笑ってしまいそうになったが、それでもそれは確かにマリンレジャーにおける最適解には相違ない。そっちはそっちで、遊ぶことにも本気で当たろうという意気込みすら感じられた。

 ただ何であれ、ハワイ初日にわざわざ僕に選ばせた件の水着については、千束にせよたきなさんにせよ、未だお披露目とはなっていない。僕のいまいちあやふやな記憶がそれでも確かならば、彼女はいつか僕にそれを着た姿を見せると言っていたはずだが、最低でもその時は未だやってきていなかった。

 

 そしてその二回の休日を経て、そろそろハワイ滞在も後半戦に入ろうとしている。あと二回残っている定休日については、恐らく千束がどうしてもやりたいと言って聞かなかったスカイダイビングや、オアフ島ではない離島のレジャーに使うことになるだろう。

 ミカさんとしては、ハワイ島のコナ・コーヒーをどうしても現地で堪能したいらしい。あとできれば生豆を仕入れたいとも言っていた。植物検疫を通す面倒を押してでも手に入れたいだけの何かが、彼の中にはきっとあるのだろう。

 僕としてもキラウェア火山を現地で見てみたい欲求は強く、ハワイ島に出向く予定の次の定休日が、早くも楽しみになっていたりした。

 

 

 

 そこまで回顧した辺りで、やはりというか、僕の頭には一つ大きな宿()()について思いが至る。千束との関係を、どう定めるかについてだ。

 結局十日ほど前に千束と話した一件以来、相変わらず僕の中であの話、つまり千束とどう向き合っていくかについては何の結論も出せていない。彼女はといえばそれ以降何も言ってこないし、相変わらず以前と比べれば少しばかり詰まった距離感だけはそのままに、僕はその自分にとって心地よい関係のぬるま湯に浸っているばかりだった。それはある意味で千束に甘えていると言えなくもなかったが、ただ自分から何かを働きかけるには、僕の中の踏ん切りというものがついていなかった。情けない話ではあるけれど。

 

 それでも一度だけ、ドキリとしたことはあった。前回の定休日の前日、つまり四日前のことだ。

 丁度その日は一日中シフトが入っていて、それは千束もまた同じだった。シフト上どうしても求められる時以外にはキッチンエリアから動くことのないミカさん以外で、接客に問題がなく英語が十分に話せるのは、基本的には僕と千束、そしてたきなさんの三人だけだ。そういうことで、たきなさんとクルミが非番で、僕と千束がフードトラックに詰めていたときのことだった。

 基本的にフードトラックの中の人間に絡みに来る客というのはいないか、いるとしても非常に少ない。言ってしまえばファストフードのレジ打ちに対して雑談を試みる人間がいないのと同じことだ。ただその時、たまたま客の入りが少ないタイミングだったことも手伝ってか、応対していた客が注文以外のやり取りを、僕に求めてきた。

 

Here is the green tea,(これ緑茶で、) and here is the sweet dumplings.(これお団子ね。) Enjoy!(ごゆっくり!)

Thank you!(ありがと!) …Ah, wait?(あ、待って?)

 

 緑茶と団子のセットを出して、手を振りつつ離れようとした僕を、その客が呼び止める。ビキニの上にパーカーを纏った、見た目としては二十代後半の白人の女性だ。

 基本的にこういうところに欧米人の女性が一人で来ることはない。つまり彼女の連れ合いは恐らくどこかにはいるのだろうが、それでも今目の前にいるのはその人だけではあった。

 

Huh? Anything else?(ん? 何か?)

Ah… no, but…(あ、いや、その……) yep, are ya from here?(そう、キミってここの人?)

 

 ともかく。追加の注文か、あるいは質問か。そう思って訊き返したところ、思いがけない言葉が飛んできた。

 

Eh? …Nah(え? ……ううん)

No? Then where are ya from?(違うの? じゃ、どこから来たの?)

 

 随分とぐいぐい来る客だ。店員の出身地を聞いてどうしたいのだろうか。まあ、今は他に客の姿はないし、その問いに答えるのはやぶさかでもないが。

 

Ah… from Japan, tho(あー……日本、だけど)

Japan? Wow!(日本? へぇ!)

 

 その女性はややオーバーに驚くような仕草をしてから、更に問いかけてきた。

 

If so, why do ya work here?(なら、なんでここで働いてるの?)

Umm… what should I say…(うーん、なんて言うか……) Ah, yep, a kind of working-holiday.(そうだ、ワーキングホリデー、的な?)

"Working-holiday"? In Hawaii?(『ワーキングホリデー』? ハワイで?) Awesome! Quite good!(すっご! めっちゃいいね!)

 

 僕の答えに手を叩いて、彼女はその手を僕の隣の方へと向けた。

 

Is she also?(それ、あの子も?)

 

 その先を見る。僕の背面側のカウンターで別の客に接客をしている千束の姿が、そこにはあった。

 

…Well, yeah, kind of.(……まあ、そんなもん、かな)

 

 千束の方を見遣って答えた僕に、目の前の彼女は少しばかり笑みを深くして、問うてくる。

 

Ya steady?(キミのいい人?)

 

 思わず吹き出しそうになった。さすがにセクハラに近いんじゃないのか、これは、とも思う。

 しかしそれに何か言葉を投げ返そうとした瞬間に、背後から声がした。

 

Yes, he's my boyfriend!(そだよ! 私のボーイフレンド!)

 

 手が肩に回される。千束だった。いつからこちらのやり取りを聞いていたのか。ともかく僕にとってその言葉は本当に不意打ちで、明白に自分の心拍数が上がったことを自覚する。そんな僕たちの様子にか、目の前の女性は一瞬だけ目を見開いて、しかしうんうんとばかりに頷いた。

 

Oh, nice! God bless you!(あら素敵! お幸せにね!)

 

 そしてその祝福に、僕の隣の千束が片目をつぶった。

 

Thank you so much! God bless you too!(どーもありがと! そっちこそね!)

 

 

 

 結局僕たちとその彼女とのやり取りはそこで終わったが、ともかくその一件は自分にとってエポックメイキングというか、それなり以上の衝撃を持った出来事だった。

 あの女性の問いに向けた、千束の言葉が思い出される。僕のことを、「ボーイフレンド」だと、確かに彼女はそう言った。それはある種方便だったのかもしれないけれど、でも彼女の口からそれが出てきたこと自体、僕にとっては相応の重みを以て受け止めるべきことだった。

 ああいうときすぐに口をついて出てくるような言葉に、完全な嘘というものはない。普通はそうだ。ならば千束にとっての僕というのは、多少なりとも()()いった感情を向けるに値する存在であると映っている、のだろうか。

 そしてもし仮にそうなのだとすれば、今の僕はそれに対して何一つ応えることも、報いることもできていない。それを自ら謗る気持ちが俄に膨れ上がって、それでも僕の内心は、彼女をして侵しがたい存在なのだと全力で主張していた。()()いう気持ちを向けることなど、羞ずべきことなのだと。

 それは二律背反の情動に他ならない。だからだろうか、その日からどこかそのことがずっと頭の隅にあって、それがどうにも後ろめたかった。

 そのままそれを引きずって、今この時まで至っている。

 

 

 

 その今日だが、僕は一日中非番だ。そしてそれと同時に、ルームメイトの入れ替えの日でもあった。今夜からこの旅行の最終日まで、僕は千束と同じ部屋で寝起きをするということだ。

 つまり僕はそろそろ、この内なる問いに対してなにがしかの答えを出すことを求められていた。だというのに、僕はそれへの答えの端緒すらも掴めていなかった。

 実に情けないばかりだが、とにもかくにもやることはやらねばならない。たきなさんとポジションを交換すべく、午前中の非番の時間を活かしてこれまでの自室から自分の荷物をせっせと千束の部屋めがけて運び出していた。

 たきなさんについては、恐らく今日の後枠が非番になるからそのあたりで作業をすることになるだろうが、とりあえずはと言うことで自分の分の着替え一揃いを、向こうの部屋のベッドに並べていく。余所行きの羽織ものの類もまた、そちら側のクローゼットに仕舞うことにした。

 そして最終的に空っぽになった「元・僕の部屋」での最後の仕事として、ベッドに布団のシーツ、そして枕カバーを引っぺがして、洗濯機へと突っ込む。流石に二週間分の野郎の寝汗を吸い込んだシーツの上でたきなさんに寝起きさせるわけにはいかないからだ。

 

 そうやって諸々の作業を済ませていけば、あっという間に昼飯時になっていた。

 昼食については、ミカさんが僕のために作り置きしてくれている。予め午前中は家で作業すると伝えていたからだろう。彼への感謝を胸に、それに手をつけた。

 

 

 

 一人で食べるご飯の時間というのは、誰かと一緒のそれよりも、明らかに早く終わってしまうものだ。誰とも語らうことなく、黙々と食が進むからだろう。事実、用意されたものをすっかり食べ終えてリビングの時計を見ても、時刻は未だ十二時半を示していた。

 このコテージの中、僕は今独りぼっちだった。尤もそれを苦痛と思う性分でもない。これが或は千束ならば今からでも外に出て遊ぼうと考えるのだろうけれども、今の僕にはどうにも外出する気が起こらなかった。

 それもまた性分だ、というのは間違いなくある。クルミにせよ僕にせよ、そもそもギークという生物は出不精なものだ。まあクルミの場合はあまりに極端だが、そうでなくても基本的にはアウトドアの活動を嗜好するわけではない。

 ただそれ以上に、僕にとってはやはりここ数日の懸案が己の心の中に刺さったままなのが大きかった。誰かと一緒なら忘れられるそれも、一人では表に出てきてしまう故に、どうにも動くのが億劫だったのだ。

 

 何かする気も起きず、リビングのソファの上に、何とはなしに寝転がった。

 このコテージは別荘地の中に建っていて、一帯の中央には運河が走っている。リビングのガラス張りの窓から外に視線を向ければ、中庭の向こうにその静かな流れが垣間見えた。

 今日の風はどこまでも穏やかに吹いていて、庭の植え込みが奏でる葉擦れの音が、ほんの微かに耳に届いていた。

 

 或はその音にか、もしくは昼食を摂ったことによるものだろうか。ソファに横になったままの僕に、突如眠気が襲ってくる。

 それも悪くないかな、と思った。一人ここにいて、どうせ特にやることもないのだ。ここで寝入ってしまって困るとすれば、今日の夜に寝つきが悪くなることぐらいだろうが、どのみちその時には千束と一緒のベッドになるから、寝られるかどうかは自信がない。

 寝てしまおう、それがいい。眠気によって乱されていく思考のなか、そんな自己弁護で自堕落と逃避を誤魔化しながら、強烈なまでの睡魔の引力に逆らうことなく目を瞑った。

 

 

 

 僕の主観でその次に覚えたのは、一つの違和感だった。意識が落ちる前に感じていたソファのスプリングとは決定的に異質な感触が、後頭部から伝わる。どこか柔らかく、そして暖かさすらも同居しているように思えた。

 その感覚にようやっと意識が浮上し始めたと同時、今度は額に何かが当てられたのが分かった。手のひらだ、と直感的に感じ取る。しかしそれを以てなお、僕は己の眠気を完全には振り払いきれず、怠惰に微睡むばかりの重い瞼は、依然として開かない。

 

 それでもそこから幾ばくか経って、閉ざされた視界の向こう、額に当てられていた手がゆっくりと動かされる感触を覚えた。

 

 ――これはもしや、頭を撫でられている?

 気づいたからか、急速に目が醒めていく。ゆっくりと開かれていく視覚、焦点の合わない世界は霞んで、しかし数秒の後に、次第に視線が一つに定まって、やがて像を結んだ。

 

 寝そべっている姿勢のまま、映るはずの天井を遮るように、その影は僕を見下ろしていた。

 

「――あ、起きた」

 

 千束だ。右の手を僕の額に添えながら、こちらを覗きこんでいる。

 

「……ちさ、と……?」

 

 寝起き故にか、掠れた声が出た。

 ――どうしてここにいるのだろう。いやそもそもこの位置関係はなんなのか。そう問おうとして、しかし気づく。

 胸部にだろうか押し上げられた服の向こう、彼女の顔が横から覗く今の体勢が、後頭部に感じる温もりが、伸ばされた手が、一つの事実を示していた。

 

 つまり僕は今、千束に膝枕をされている、のか。

 

「おはよう……でも、なんで」

「うん、おはよ。……でも何でって、隼矢さん寝てたし。ちょっと、やってみたくてさ」

 

 そんな、主語も述語も抜けている僕の問いを、しかし千束は正しく理解して、そして答えた。

 やってみたかったから。そんな理由で、今僕は彼女の膝に頭を載せているのか。

 

「……ごめん。起きるよ」

 

 意識が完全に覚醒したことで、急に申し訳なさが芽生えた。感情のままに、慌てて自らの身を起こそうとする。

 しかしそれは当の千束自身によって押し止められた。具体的には、額に当てられたままの手が、起きようとする僕の身体の動きを阻んでいた。

 

「ちょいちょい! ……もうちょっとこのままでいいじゃん」

 

 少しばかり強めの語気で、僕を抑えにくる。逆らうことなく身体から力を抜けば、呼応するように千束もまた手の力を抜いた。そしてまた、ゆっくりと僕の頭を撫で始めた。

 

 

 

 微かな環境音のみを背景に、互いに姿勢を変えることもなく、しかしそのさなか、千束がポツリと呟いた。

 

「いい天気だねー。しかも静か」

 

 撫でられる手に誘われるままに瞑っていた目を、今一度開く。彼女は外を見ていて、表情を窺い知ることはできなかった。

 

「……そう、だね。穏やかというか」

 

 賛意を示した僕の方を、今一度千束が覗きこんでくる。琥珀色の視線が、真っ直ぐにこちらを射抜いた。

 

「ね。……ほんと、最初の日も言ったけど、ありがと。こんないい場所に一か月もいれるなんて、夢みたいだ」

 

 そう言って微笑んで、視線を逸らして前を向く。

 

「ずっとこんな場所で暮らすのも、悪くないかなって思っちゃう。もちろん日本も、東京も好きだけど」

 

 歌うように言葉を紡ぎながら、千束は僕の頭を撫でるのを止めた。そして彼女の手が、今度は頬にかかる。

 

「千束?」

 

 その振る舞いが気になって声をかけてみるも、言葉は返ってこない。視線は外され、掌は僕の頬に添えられたまま、動く気配もなかった。

 

 

 

「……ねえ、隼矢さん」

 

 そこからしばらく続いた静寂のあと、今度はあちらから呼びかけてきた。首を傾げて見上げる僕に視線を落として、千束は何か言葉を重ねようと、口を開く。

 しかし、そこから声が発されることはなかった。ふるふると首が振られ、一度彼女は顔を上げる。

 

「……何でもない」

 

 窺い知れぬ表情に呟きだけが落ちてきて、しかしそのまたすぐに、千束は思い出したようにこちらを向いた。

 

「そだ、これからだけど」

 

 見上げたままの僕と、再び視線がぶつかる。双眸に光が宿って、きらりと輝いて見えた。

 

「たきなも、一緒にシフト上がったから戻ってきてて。今多分荷物整理中なんだけどさ。終わったら、三人で海に行こうよ。ここから西の方に行ったとこ、綺麗な場所なんだけどあんま人がいないらしくて」

 

 どうかな。そう、静かな口ぶりで訊ねてくる。

 

「いいけど、今何時?」

「あー……二時半ぐらい、かな。たきなは多分、あと二十分もしたら片付け終わると思う」

 

 問い返した僕の意図を汲んでか、彼女はたきなさんの現況を答えた。

 

「じゃあ、出かけるのは三時過ぎぐらいか」

 

 頷いて、いよいよ僕は身を起こす。海に出るのだとすれば、僕にもまた準備がいる。千束もそうだ。確かにいつまでも浸っていたい時間ではあったけれど、そう言ってはいられないだろう。彼女も同じことを考えたか、今回ばかりは僕の動きを留めることはしなかった。

 それでも耳の端、あっ、と名残惜しそうな声が、微かに聞こえて――しかし僕はそれに、敢えて聞こえないふりをした。

 

「さ、準備しようか」

「……そう、だね」

 

 ソファへと座り直し、千束に向かって声をかければ、彼女は隣に座った姿勢のままにこちらを向いて、そして頷いた。

 

 

 

 その三十分後、午後三時を少し過ぎたあたりに、僕と千束、そして確かに「元・僕の部屋」で作業していたたきなさんの三人は揃ってコテージを出た。

 そんな僕たちは、服装自体はそのままに、しかし海に出るための水着を下着代わりに内に着こんでいる。千束やたきなさんはそこに加えて、浮き輪やビーチボールの類を入れたビニール製の袋を別に提げていた。

 

 聞けば、現地には一応簡易的なシャワールームはあるようだが、ロッカーはないらしい。上に着ている洋服の類は、あらかじめ仕舞う場所を用意する必要がある。

 というわけで僕たちが更衣室兼移動の足にするのは、レンタカーだった。普段のビーチへの「通勤」には市バスを使うからという理由で、基本このレンタカーは休日専用だ。そういうわけで駐車場に置かれたままのそれに全員で乗り込んで、そして目的のビーチへと出向く。

 

 コテージの前の通りを南に行って、ハイウェイに乗ってから西へとひた走る。十分もしない内に、目当てのビーチパークが見えてきた。

 それはリゾートホテルのプライベートビーチに隣接した、地元民御用達の静かなビーチだった。ダイヤモンドヘッドを挟んで反対側にあるワイキキビーチとは全く違った趣で、しかし喧噪から離れ、人の生み出す澱みのないこの海は、ともすればワイキキよりも美しいのだという。

 

「よくこんなとこ見つけられたね」

 

 ビーチパークの駐車場に車を停めて、スマホをはじめとした電子機器の類を助手席前の収納に仕舞いつつ、僕は千束に水を向ける。実際、事前のビーチの下調べではこの場所はリストアップされていなかった。

 

「そりゃもう、探したので。もっと褒めてくれてもいいんじゃよ?」

 

 振り返った視線の先、ふんぞり返るように腕を組んで、千束が言う。随分と得意げな声色だった。

 

「……『クルミが』、の間違いでしょう。まあ、千束が頼んだのは確かですが」

 

 しかし彼女の隣、たきなさんがややジトっとした目線で千束に言う。「つまらない見栄を張るな」と、顔に書いてあった。

 対する千束も、えへ、とばかりに頭に手を当てる。らしい振る舞いだった。

 

「いやぁ、まそうなんだけどぉ……でも最後選んだのは私だよ?」

「いや、そうではあるんですが……」

 

 深い溜息が聞こえる。しかしそこで首を振って、たきなさんは前を向いた。

 こちらに目線を併せて、訊ねてくる。

 

「まあ、いいです。……それで、結局洋服はここで脱ぐんですか?」

「うん、そうだね。確認だけど、下は水着なんだよね?」

 

 僕の確認に、二人が頷いた。

 よかった。これで下着から水着にここで着替えるなどと言った日には、僕はどこかに逃亡しなければならないところだった。とりあえずその必要はなさそうで、ひとまずは息をつく。

 

「じゃあまあ、先に僕は出てるから」

 

 言いながらTシャツを脱いで助手席に抛りつつ、扉を開けて外に出た。

 下は水着のままでやってきているから、僕の方はこれで準備ができている。

 そしてさすがに水着姿になるためとはいえ、千束とたきなさんが洋服を脱ぐところをまじまじと見つめるわけにもいかないわけで、一足先に出た車の外で待つことにする。努めて車内へは視線を送らないようにして。

 

 そのまま、一分は経たないぐらいだったろうか。後部座席の扉が開いて、そして閉じる音がした。

 

「おまたせ」

 

 その音を聞き分けてからしばらく、背後から声がかかった。千束だ。

 故にもういいだろうと思って、振り向く。

 

 

 

 思わず、呼吸を忘れた。

 

 それは、初日の買い物の中で僕が選ばされた――いや、選んだものだった。

 

 

 

 まず見たのはたきなさんのほうだ。彼女はあの日、僕が外出着のためにと選んだアロハシャツと似たような、白地にボタニカル柄のフリルビキニ*2を身に着けている。かなりフリル部分を広く取っているそれは、ビキニタイプの水着でありながらも色気ではなく可憐さが前面に出ていた。やはりたきなさんにはその方が合うだろうと思った僕と、そして千束の判断には、間違いはなかった。

 

 そして千束の方にも目を配る。あの時彼女がいくつか示してきた水着の候補の中から僕が選んだのは、カナリアイエローの布を捩じったような意匠の、バンドゥビキニだった。肩紐もついているタイプのそれは、彼女が提示した選択肢の中では、たしか一番布面積が大きいものだったはずだ。

 下にはミントグリーンを基調とした、シースルータイプのパレオまで巻いていて、つまり全体的にかなり露出の抑制された出で立ちのはず、なのだが。

 透き通る程に白い肌に、太陽の光を受けて輝く白金の髪、こう見ると改めて認識させられる恵まれたスタイルまでも、その全てを余すところなく目に入れると、やはりどうしても気恥ずかしさが勝ってしまう。

 けれど、いずれにせよ僕の選択に間違いはなかった。千束のその恰好は、それほどまでに僕には魅力的に映ったということだ。

 

「……どう、かな」

 

 どこかおずおずとした口調と声色で、千束が僕に訊ねてきた。

 忘れていた呼吸すらも取り戻すように、大きく息を吸う。そして彼女の目を真っ直ぐに見据えて、口を開いた。

 

「似合ってるよ、とっても。……たきなさんも」

 

 少しばかり早くなっている心拍を落ち着けるべく更に深呼吸をして、改めて続ける。

 

「なんというか……ごめんね? 自分が選んだって思うと、どうにも恥ずかしくて、さ」

 

 それはどうにも言い訳がましい物言いではあったが、しかし目の前の千束は笑って頷いた。

 

「ま、たしかにしょーがないよね。でもしっかり見てくれて、『いい』って言ってくれたし、許しちゃる」

 

 ね、とたきなさんの方を見れば、彼女もまた首肯する。

 

「はい。でもまあ、私はいいんですが、千束のことはもっと見てやってほしいですけどね」

 

 しかしそう、思わせぶりな目つきで僕を見てきた。

 

「……善処するよ」

 

 彼女の物言いには、僕としても頷かざるを得ない。詰まりながらも、そう答えた。

 有無を言わせぬ圧力が、今のたきなさんにはあった。

 

 

 

 その後は、三人で海辺に行って、一頻りの海水浴と洒落込んだ。尤も、最初に一度三人で海に入ったぐらいで、僕は基本的には波打ち際の手前で大人しくしていたけれど。

 しかし元気が有り余っている千束はたきなさんを連れて、そこそこ水深があるところまで走っては水を掛け合ったり、あるいは膨らませたビーチボールをはたき合ったりと、ずっと精力的に動き回っている。

 

 彼女たちのはしゃぐ声が、真っ直ぐにここまで届いた。その背景に響き続ける波の打ち寄せる音もまた、絶え間なく鼓膜を揺らす。目の前、海は見渡す限りどこまでも澄んでいて、日差しも夏ほどは強くなく、穏やかに照りつけていた。

 

 そんな中、昼過ぎのことがふと頭を過る。僕に膝枕をしながらも千束が口にした言葉が、フラッシュバックした。

 ――こんな時間が永遠に続いてくれればいいのに。

 それはまさに今懐いている感情に他ならなかった。なぜなら今この瞬間は、ハワイにいる間は、たきなさんにしても千束にしても、ただのハイティーンの少女なのだ。

 彼女たちの両肩に重責が掛かることもなく、命がけの任務だって、ここにおいては無縁のものだ。それがどれほどかけがえのないものかと、思わずにはいられない。

 でもそれは、どこまで行っても現実逃避なのだろう。千束のあれだってある種戯言のようなもので、彼女は自らの責務を放り出すようなことはしない人間だ。

 自分の人生を自分の手で選び取ると決めたのならば、生ずる責任もまた自分自身で取らなければならない。千束がそれを忘れるような性質(たち)でないことは、僕のよく知るところだった。

 

 ならば僕は、千束の隣を歩くと決めた今の僕は、どうやってそれを支えていけるのだろう。彼女の生きる世界の中で、己が果たすべき役割は、どこにあるというのだろうか。

 結局、話はそこに帰着する。

 そうだ。どうにも最近、堂々巡りが激しい。そしてそれで僕が辛気臭い顔をしていたら、場の空気も悪くなりそうだというのに。

 

 ――ままならないなぁ。

 そう思ってふと顔を上げれば、千束がこちらを見ていた。手を振っている。どうやらさっきまで二人でやっていたビーチボール遊びに僕のことも誘いたいらしい。肩に担いだそれを指さしてから、大きく手招きをしてきた。

 それを見て、そのことについてこれ以上考えるのはやめることにした。今は千束とたきなさんとの時間だ。悩むのは、後でいい。

 

「今行く!」

 

 彼女のその誘いに、声を張って返す。その勢いで浜辺から立ち上がって、そして二人の待つ方へと歩を向けた。

 

 

 

 そのまま三人、遊び疲れるほどに遊んだ。いや、疲れたのは僕ぐらいで、あの二人は最後までピンピンしていたか。とにかく、その日の夜のことだ。

 

 夕食も、風呂も、部屋の片付けまでも終わって、あとは寝入るばかりとなった「新しい自室」に、僕は立っている。

 いや違う。()()()()()()()。何となればそれは同時に、千束の部屋でもあったからだ。

 

 フットライトだけが点いた部屋の中、視界の向こう、千束がパジャマ姿でベッドに腰掛けているのが見える。その姿を目に留めてから、僕は動けなくなっていた。

 千束と同じベッドに入るという事実が、異様に生々しく感じられる。約めて言えば、怖気づいていたのだろう。

 

「……どうしたの? こっち来なよ」

 

 そんな僕のことを見ながら、千束が何でもないような声色で自らの隣をポンポンと叩く。誘われるように一歩二歩と踏み出して、結局促されるままに、彼女の隣に腰を落ち着けた。

 

「なに、緊張してるの?」

 

 面白がるような声だ。今の僕の振る舞いは、そこまで分かりやすいものだろうか。

 

「……当たり前だろ」

「なんで?」

 

 横から覗きこむように、千束が首を傾げる。ベッドの端、足をプラプラと揺らしているのが見えた。

 

「それは……」

 

 それを目にして、どうにも言葉に詰まってしまった。

 千束のことをどう思っているのか、己の感情を割り切ることすらできていない自分のことを、知られたくないと思ってしまった。

 それはあまりにもお粗末な内心だ。これでは子どもなのはどっちなのだろうかと、情けなくなる。

 

 そのまま黙ってしまった僕のことを暫し無言で見ていた千束が、しかしそこで、不意に動いた。

 

「よいしょお!」

 

 それはあまりの早業だった。そんな、どこか気の抜ける掛け声と一緒に僕の左の手を取って、右から腰を抱えるように、強引にベッドの上へと投げ飛ばす。

 視界が回転して、しかしすぐに木目の天井が目に映る。うわっ、と声を上げるより先に、千束が僕に覆いかぶさるように抱き着いてきた。

 紗の向こうに、千束の熱を感じる。心地よい圧力と温かさが、そして柔らかさが、知覚の全てになった。

 

「なに、を」

「……えへへ、ほんとだ。めっちゃバクバク言ってんじゃん」

 

 からかうように、千束が言う。でもそんなことは、自分が一番よくわかっていた。

 心臓が早鐘を打っている。これまでだって千束と触れ合ったことは何度もあるはずなのに、それでも今僕の全てを満たすかのような花の薫りが、ほど近くに感じる息遣いが、どうしようもなく心をざわめかせていた。

 

 ぎゅー。わざわざ声にまで出して、千束は僕のことを強く抱きしめる。そのまま僕の胸にぐりぐりと頭を擦りつけてきた。そのどこか幼い振る舞いが、少しずつ僕の身体のこわばりを解いていく。

 

「……どうしたんだよ、千束」

「いや、幸せだなって」

 

 互いに落ち着いた辺りで、そう声をかける。返ってきたのは、そんなしみじみとした言葉だった。

 

「昨日までは、たきなと。今日からは、隼矢さんと。こうやって二人でいられるって、私にはすっごく幸せ」

 

 胸の中、くぐもった声で彼女は言う。

 

「たきなさんにも、こんなことを?」

「あったりまえじゃん!」

 

 僕の問いに、勢いよく顔を上げた。こちらをじっと見つめて、真剣そのものの顔つきで説いてくる。

 

「こうやってくっつき合うと、落ち着くんだ。生きてる、って感じがする」

 

 そこでにへらと相好を崩しつつ、僕の頭へと手をやった。

 

「え、ちょ、なにを――!」

 

 思わず出てしまった声に構うことなく、頭に添えられたその手を押し下げる。そして自身は上の方へと身体を伸ばした。つまりその結果、僕の顔は、頭は、千束の胸の中におさまってしまった。

 あまりのことにびくりと体を震わせた僕のことを、しかし彼女は穏やかな表情で覗きこむ。

 

「いいから」

 

 そしてどこか柔らかな手つきで、僕の頭を掻き抱いた。千束の胸が強く押し当てられて、それと同時、彼女の手で顔が横へと向けられる。胸の膨らみの向こう、正中の辺りに耳が当たった。

 そこでようやく、彼女の意図を察した。その胸の真ん中、内に収まるのは()()()()だ。前のものと同じく無拍動を謳うそれからは、確かに一切の心音が聞こえなかった。

 

「聞こえないでしょ、音。心臓の」

 

 無言で頷く。

 

「でも、そこにある。私を生かしてくれてるんだ。用意してくれたのはヨシさんだけど、でも隼矢さんが、みんなが探してきてくれたから、私はここにいられる」

 

 そのまま、背中をさすられた。

 

「あの時ヨシさんに言ったみたいに、私は今の時間をいろんな人のために使いたい。助けになりたいんだ。でもこの心臓がくれた時間は、みんながくれた時間だから……だからやっぱり、助けてくれたみんなに、まずお返しをしていきたいなって」

 

 それと。そう言って、肩をポンポンと叩いてくる。上げた視線の先、千束が真剣な目つきで僕を見ていた。

 

「隼矢さん、あなたと。ずっと一緒にいるための時間でもあるんだよ、これは。だから、私は――」

 

 そこまで言って、そこで止まった。

 一つ、二つと、深呼吸を繰り返す。しかしそれでも彼女からは、その先の言葉がなかなか出てこない。

 そんな彼女の姿を、表情を見て、否応なしに気づかされた。

 

 千束だって、迷っているのだ。そこには決められた答えなどなかった。求めているものだって。

 だから僕は、応えられていないわけではなかった。同じだったのだ。

 僕も、千束も、自らの裡に抱える感情の正体がわかっていない。ただ漠然と「一緒にいたい」という気持ちばかりが先走って、それを持て余している。

 

 そう考えれば、クリスマスのあの日以来どこか積極的になったように見えた態度は、今思えばやりたいことに真っ直ぐな彼女の直情さの発露だったのだろう。退院した日の、鬼気迫るが如きの振る舞いの延長も、未だそこにはあるのかもしれないけれども。

 

 しかしそれでも、そんな諸々を何もかもひっくるめて、今彼女は僕より先に、前へ進もうとしている。気持ちを整理して、しっかりと伝えようとしてくれている。

 でもそれを、僕はよしとしなかった。できなかった。

 

「待って、千束」

 

 さっきとは逆に、千束の肩に手を置いて、その身体を押し下げながらも僕は彼女と目線を合わせた。じっと見合えば、視線の向こうで、瞳が揺れた。

 

「それは、僕から言うべきことだと思う。……だから二週間待って。この旅行の最後、トラックの撤収作業の前の日。二人で出かけよう」

 

 そしてその場で、今この時に決めた肚を、その答えを示すのだ。

 たとえそれがクリスマスの日の焼き直しにしかならないのかもしれなくても、それを言うべきは、伝えるべきは、僕だ。

 千束の今の姿を見て、その覚悟がようやく決まったような気がした。

 

「わかった。……待ってる」

 

 長い沈黙の末、千束は僕の言葉にそう返す。静かな微笑みさえも、そこには浮かんでいた。

 

 

 

 斯くしてきっと僕たちは今、ようやくにして一つの結論へと辿り着いた。

 だからだろうか。その夜、僕はそれまで危ぶんでいたことが嘘のように、穏やかな眠りに就くことができた。

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