世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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 千束と初めて寝室を共にした日から、僕の心情には明確な変化が起きていた。

 或は、「吹っ切れた」、とでも表現すべきだろうか。錦木千束という少女を僕の中でどのように位置づけるべきか、迷い続けていた心の裡に、ようやくにして一つの道筋のようなものを見つけ出せたと、僕は自認していた。

 

 内心の変容は、行動に結実する。この二週間における千束への接し方からも、きっとそれは見て取れただろう。

 一歩を踏み出す。歩み寄る。決心の一つの形は、「台所」に立ち現れていた。

 

 ハワイ滞在中の僕たちの夕飯は、リコリコの昼のまかないと同じように、持ち回りの当番制が基本となっている*1

 ただ当然に、日々の食事と店でのまかないとは事情がはっきり違う。量を用意する必要のある夕食ということもあって、キッチンには大体二、三人で当たるのが慣例だった。持ち回りというのはあくまで誰がその日の料理を主導するかについての話であって、結局のところミカさんはほぼ常に厨房の主であったし、また彼の補佐には結構な割合でたきなさんがついていた。

 

 そして僕は、それでも敢えてその場所――ミカさんとたきなさんの「城」とも呼ぶべきキッチンに、週に二度、立つことを決めた。

 一つは義務であるところの、即ち自分が献立担当の日だ。しかしもう一日、千束が当番を任されている日の晩も、僕は自ら進んでその場所に詰めていた。

 千束の横で、彼女の料理を手伝うことを、僕は自ら選んだのだ。初めて彼女と同じベッドで夜を過ごした、「約束」をしたあの日からのことだった。

 

 

 

 そんな彼女との夕食の準備は、文字通り献立を決めるところから始まる。

 これはハワイに着いて最初の当番からそうであったが、千束は献立を考えるに当たって、やはりリコリコでのまかないと似たような志向*2を持っていた。つまり彼女のチャレンジ精神が存分に発揮されていて、更に言えばハワイに来たからということもあってか、彼女はロコ料理やハワイ伝統料理のようなこの場に合ったメニューを献立の中に取り入れることを望んだ。

 そしてこれが、なかなかに曲者であった。

 

 ロコ料理に関してだけならば、基本的にはあまり困難はない。ロコ料理はハワイにやってきた移民たちの料理を起源としているのだが、その中核をなすのは実のところ()()()()()()()()()()である。つまり調理法や食材に至るまで、日本でのやり方をある程度は踏襲できるのだ。

 しかしハワイの伝統料理となると、事情はまるで異なる。ポリネシアの系譜を色濃く継ぐそれは、日本の食文化とはあまりに勝手が違っていた。

 主食一つとっても、両者の相違は顕著だろう。ハワイの原住民が主食とするのは「タロイモ」という里芋の近縁種なのだが、彼らハワイ人はそれを主に()()()()()にして食べている。

 里芋と聞けば煮っ転がしにするぐらいである僕たち日本人からすれば、あまりに異様な食べ方だ。そもそも芋を主食と捉えないわけだから、文化としてあまりに隔たりが大きい。

 と言うわけで、「さすがにこれを他の皆に主食として出すわけにはいかない」と普通に米を炊くことにはなるわけたが、しかしその他にも、バナナやタロイモの葉っぱに包んで蒸し焼きにした肉であるとか、豚を丸一頭丸焼きにするであるとか、僕たちからすれば珍奇というか、扱いに困る料理は数多くある。

 献立を決めるところから、というのはそういうことなのだ。彼女が「やりたい」と出してきた料理の案から、実現可能なものをまず取捨選択する必要があった。

 

 そして僕がやることを決めたのは、まさしくそこから千束に寄り添うことだった。

 二人してああでもないこうでもないと、意見を出しながら献立を決め、それを基に買い出しに出掛けて、終われば同じキッチンに立つ。千束と同室になってからあった二度の機会、僕と彼女はそうやって協力して夕食を作って、みんなに振る舞った。

 

 千束との距離を、自ら縮める。今までやろうともしなかった選択だった。それでも自ら率先して、誰よりも側に近づいて、僕は千束のことを、能動的に理解したいと考えた。

 故にこそ、まさしくこれまで当の千束が僕に対して試みていたことのように、遅ればせながらも千束の懐へと歩み寄ることを、歩調を合わせることを、僕は心に定めたのだ。

 

 

 

 そしてもう一つが、夜、寝室でのことだった。

 こちらはまあ、そう大した話ではない。無論()()()()話でもない。

 結局千束と同じ部屋になった最初の日の一件以来、どこか自分の心の中に、一つの芯が入ったような気がしていた。だからだろうか、同じベッドに入っても心は平然としていて、彼女が不意に抱きついてきても戸惑うこともなく、抱きしめ返す余裕すらもあった。

 とは言え、初日にあったように千束が布団の中で僕に肉体的な接触を多く求めてくることはそう多くはなく、どちらかと言えば彼女は話をこそしたがった。

 それは本当に取り留めのない話だった。その日楽しかったこととか、明日何をしたいかとか、その程度のことだ。

 たきなさんに対しては、それに加えて彼女曰くの「恋バナ」もしようとしたらしいが、それはすげなく拒まれてしまったらしい。そんな泣き言も聞いた。

 

 しかしその中でも、千束はどういうわけか、僕の昔の話をせがんだ。具体的には、高校生から学生時代の話だ。ハロウィンのすぐあと、千束を誘った街歩きのときのように、「僕についての話を聞きたいのだ」と、彼女は言った。

 だから求められるままに、記憶を辿りながらもいくつかのことを話した。

 高校時代、あまり楽しくはなかった受験勉強のあれこれも、その期間のさなか、たまの息抜きにと時折行っていたゲーセンでハマった対戦ゲームの話もした。一度間違えて制服のままゲーセンに入ってしまったせいで、自分の制服に煙草の臭いがついて学校で喫煙騒ぎを起こしてしまったなどという、努めて忘れていたはずの失敗談も、気づかぬうちに口から出てきていた。

 そこから進んだ、大学時代のことも話題に上った。研究室の連中とやった色んな馬鹿騒ぎも、二回目のセキュリティコンテストに向けてチームメイト全員で勉強会をしたときのこともそうだ。

 学祭の企画ブースに研究室の面々で参加するべく、ハッキング体験のゲームを開発した経験まで思い出された。確か公開したそれが思いの外好評を博して、学祭委員会から表彰を受けたんだったはずだ。まあそれについては、些か自慢じみているだろうか。

 

 いずれにせよ僕にとってはそういうのは所詮ただの昔語りで、面白味のない話ではないかと不安になるほどだったが、しかし千束はそんな僕の過去の話に目を輝かせて、盛んに相槌を打ちながら聞き入っていた。

 その姿に否応なしに気づかされる。千束は、それでもやはりリコリスなのだ。僕とこの子は、互いにきっと重なり合うはずもない場所で、これまで生きてきた。

 確かに、千束はDA直下のリコリスに比べれば自由だ。年パスで押上水族館に通い詰めることなど訳ないし、どうやらたきなさんとの冬のお出かけの時も、ゲーセンでレースゲームを普通にプレイしていたらしい。

 しかしそうであっても、ごく普通の学校の生徒、学生としての日常は、彼女たちからすれば対極とも呼べるほどに縁遠い。実体験としての僕のエピソードは、或はきっとその全てが、千束にとっては新鮮に映るのかもしれない。自らが送ることのなかった、そしてこれから先も経験することはない、そんな世界の話として。

 

 そしてそのお返しにと、千束もまた僕に対して自らの過去のことを話した。

 主にそれは電波塔事件のあとの話だった。ミカさんとともにDAから離れて、あの店を、リコリコを立ち上げたあたりのいざこざについて、彼女は初めて僕に語ってくれた。

 電波塔事件まわりでDAという組織はいくらかごたついたらしく、そのあおりもあって彼女はしばらく命を狙われ続けていたそうだ。その文脈の中、初めて僕は「リリベル」なる集団のことを聞いた。

 スズランの名を冠されたそれは、リコリス(彼岸花)とは対となる、DAにおけるまた一つの実働部隊なのだという。その人員もまた対照的に、孤児を出自とする男児のみで構成されていて、電波塔事件まではリコリスを凌ぐ程の権勢を誇っていた、らしい。それがあの事件をきっかけに退潮して、現在では主にリコリスに対する懲罰部隊として、その「処理」に当たるための存在になっている、と千束は言った。

 「命を狙われた」というのは、つまりその「リリベル」によってあの店が繰り返し襲撃を受けていたことを指している。随分と臨場感のある解説で、当時の自身やミカさんがやった大立ち回りを彼女は話してくれた。

 まあ当然のことだが、そういうわけでその襲撃の全てを二人は撃退し続けた。それを埒が明かないと見たDAの上の連中や、或はミカさんや楠木さんも含めた尽力もあって、その後あの店はDAの支部となり、そして今へと至る。

 しかしそれを聞くに、ミカさんはどれだけ千束のことを大事に思って、あの店を守ってきたのかと、頭が下がる思いだった。

 楠木さんについてもそうだ。僕が思い描いていたあの人のイメージと、今千束が少しの毒交じりに語ったそれとの間には、どうにもずれがあるように思う。そう考えれば、もしかすると楠木さんという女性について、僕はその一面しか見れていないのかもしれなかった。ならばいつかあの人のことを、もっと理解できるようになる日が来るのかもしれない。そんな予感もどこかに芽生えた。

 

 それにしても、と思う。なぜ今このタイミングで千束は僕にこのことを話したのだろうか。

 恐らくその辺の事情とは、本来DAの外には徹底して伏しておかねばならない情報のはずだ。それをどうして、僕に対して言おうと思ったのか。この話が出た時に、僕はそれを彼女に問うた。

 

「――なんとなく、かな」

 

 そう、千束は言った。

 なんとなく。口の中で呟いた僕に、頷いた。

 

「なんとなく、隼矢さんには知っておいてほしかった。隼矢さんが昔のことを話してくれたみたいに、私も私の今までを、知ってほしかった。私の口から、それを言いたかった。多分、そーゆーこと」

 

 どこかぶっきらぼうな語り口でそう言って、そしてその日は珍しく、彼女は僕に抱き着いてきた。背中に手を回して軽く抱きしめ返すと、もっと強い力で抱きしめられた。

 

「なんか、私のこと話せて、嬉しい。……なんでだろな」

 

 言いながら、僕の胸にぐりぐりと己の頭を擦りつけていたのが、ひどく印象に残っていた。

 

 

 

 そんな日々を過ごしながら、ハワイ滞在も四週間目に入ったあたりのこと。千束との約束の日の四日前、僕はいよいよ()()()に向けた準備を進めることにした。

 

 その日、一人だけ非番になっていた午後枠を使って、僕はホノルルに出向いて一つの買い物をした。つまりそれは、()()()()()()()だった。もともと全くそんな予定を入れてはいなかったわけで、日本からは持ってこなかったものだ。ハワイで普通に観光をする上では全く用のない、防寒具すらも含めた一式を買い込む。全て、四日後のためのものだった。

 自室のクローゼットに納まりきらなかった故に、それはしばし部屋の隅に据えられることになった。千束は少しばかり怪訝そうな顔でその袋や包みを見ていたが、しかし僕に何かを訊ねることはしなかった。或は空気を読んでくれたのかもしれない。

 ただ無論、千束以外のリコリコメンバーには、その日の午後の予定については伝えてある。というより、その日は朝帰りになるからどうしても共有をする必要があった。

 そして僕のその話に、彼らは納得してくれたし、激励もしてくれた。特にクルミが。「やっとか、お前」。そんな憎まれ口を叩きながらも、どこか安心したかのような空気すらも、彼女からは感じた。

 

 

 

 そしてその四日後――ハワイ滞在二十九日目がやってきた。

 明日、つまり最終日前日は、午前までリコリコを営業して、そして午後にフードトラックの撤収作業が予定されている。僕と千束は今日の後枠に加えて明日の前枠のシフトを外れていて、つまり今日の前枠までが「リコリコ・ハワイ支店」での勤務日となっていた。明日の前枠に関しては、今回の僕の計画のためにとミカさんが特別に空けてくれたものでもあった。

 

 千束と一緒にフードトラックから出て、足早にコテージへと戻る。そしてすぐに自室へと出向いて、キャスター付の大型ボストンバッグに必要な道具を片っ端から詰め込んでいく。その姿を後ろから見つつ、彼女は口を開いた。

 

「なるほどねぇ、今日のためのものでしたか、それ」

 

 後ろを振り向いて、頷く。

 

「君も、日本から着てきた長袖の服を持ってきてほしいかな。そういう場所に行くから」

「なるほどぉ? りょーかい!」

 

 びしっと、茶目っ気を帯びた敬礼が返ってきた。

 そしてほどなくして千束が持ってきた長袖の装いもそこへと詰めて、それでひとまずの準備は終わった。ファスナーを閉じ、バッグを持って、一つ気合を入れる。

 

「じゃ、行きますか」

「おー! でも、どこに?」

 

 右手を挙げつつ訊ねてきた彼女に、片目をつぶってみせる。

 

「行ってからのお楽しみ、と言うことで」

 

 千束はその言葉に、小首をかしげながらも頷いた。

 

 

 

 帰りのタイミングの問題で、レンタカーは使えない。というわけで市バスを使って、まず最初の目的地へ出向いた。行先はホノルル、つまり()()だ。

 更にその先、国内線ターミナルへと歩を進める。さすがにそのあたりになれば千束もどこに行こうとしているか気づいたらしい。

 

「お? 島の外に出るんだ。ハワイ島?」

 

 後ろからかけられた声に、振り向いて頷いた。

 

「そう。だけど前行かなかったとこに、行こうかなって」

「なるほどぉ?」

 

 どこだろー。口の中で呟く彼女をそのまま、二人分の搭乗手続きを進める。すでに取っている予約チケットを払い出せば、出発は二十分後とあった。そして千束の言う通り、その行先はハワイ島、コナ空港だ。

 既に駐機しているその飛行機に乗り込めば、二十分などあっという間に過ぎていく。飛行機は瞬く間に離陸して、オアフ島を後にした。

 

 

 

 オアフ島からハワイ島は、一時間かからない場所にある。その西側、コナ空港へ着陸したのは、午後四時半頃のことだった。そこからすぐにレンタカーを申し込んで、時間が惜しいとばかりに出発する。

 些か振り回す形になっている千束はやや戸惑い気味だったものの、しかし僕の二人きりのドライブに関しては満更でもなかったらしい。すぐに笑顔を浮かべて、鼻歌も出ていた。

 

「ほんとはねぇ、私が運転したいんだけど」

 

 それでも、彼女は少しばかり残念そうに口にする。

 リコリスは特に任務において必要となることから、当然に乗用車の運転技能を持つ。というより中型自動車免許に相当するライセンスを、DA内部で持っている。ただそれはあくまでもDAがインフラを掌握している日本の中でのみ通用する話で、日本国の公的な運転免許証を持っているわけではない以上、国際免許を取ることもできない。故に彼女がそのドライビングテクニックを披露する機会は、最低でもハワイにおいてはなかった。

 

「まあ、しょうがないよそれは。『卒業』後の楽しみにしよう」

「そうだねぇ……」

 

 しみじみとした響きだった。頬杖をついて、彼女は外の景色を見ていた。

 

 コナ空港を出て、一路東へ進む。突き当たったところを左折して、幹線道路に乗った。一度北へ向かうそれは、しかしすぐに東へと蛇行し、そして緩やかな登坂ルートとなる。

 道の左右には見渡す限りの草原が広がり、左手にはマウナケア山が見える。いかにもアメリカの田舎道らしいその風景を見て、千束のテンションがいきなり振り切れた。

 「ひえー」だの「ひょー」だのと奇声を発しながら、窓へと齧り付く。

 

「なにこれ! ロードムービーみたい!」

 

 次いで出てきたのは、そんな映画好きの千束らしい感慨だった。

 

「……やっぱ運転しーたーいー! ねぇ隼矢さん、ちょっとだけでいいから運転席譲ってよー! ちょっとだけ、ちょっとだけだから!」

 

 そして堪えきれなくなったか、僕の方を向いてそんなことまで言い始めた。

 気持ちは、まあわかる。やりたいことを我慢しないのだって、千束の美徳だろう。けれど、残念ながらそれは無理だ。

 

「無茶言わないでよ、遵法精神こそ第一の僕たちみたいな人間に」

「だよなぁー……ちぇー……」

 

 諫めた僕に、大袈裟にため息をついてから残念そうに声を上げる。

 代わりに、せめて空気だけでも体感したいとばかりに彼女は少しだけ窓を開けて、しかし差し込んだ冷気に身を震わせて、慌ててそれを閉めた。

 

「は、なに、え、さぶっ! え? えっ!? ここハワイだよね?」

 

 止める間もなかった。その当然の帰着としか表現しようのない反応に、思わず苦笑していた。

 

「だから言ったでしょ、長袖持ってきてって。……現地に着いたら、着替えよう。一応、暖房も入れとこっか?」

「……あー、おねがーい」

 

 ねだるようなその声に片手をあげて、車内暖房のスイッチを入れた。

 

 

 

 そしてそのまま車を転がすこと一時間、ようやく僕たちの前に目的地が姿を見せる。今の時刻は午後六時十五分、空港から出て一時間半ほどが経っていた。日の入りまではあと二十分程度、辺りはいよいよ以て暗くなりはじめている。西の果ての空を見れば、雲に山吹色の光を映す太陽が次第に沈み行こうとしていた。

 

 辿り着いたその場所こそが、今日のお目当てであるところのキャンプ場――「マウナ・ケア州立公園」だった。

 ここ一帯の標高は、約二千メートルとかなり高い。ハワイであってもその高さが生み出す気温の低さは如何ともしがたく、今の気温は十三度ぐらいと、南国の島ハワイにあるまじき肌寒さだった。今回は行くことはないが、ここからマウナケアの山頂にまで登ればなんと今の時期ならその最低気温は氷点下まで落ちるというのだから、ハワイという島の気候の多様さには驚かされる。

 二人しっかり長袖のシャツやダウンジャケットを着こんで、車の外へ出る。標高の影響かどこか薄さも覚える空気はカラリと乾いていて、そしてどこまでも澄み切っているようにも感じられた。

 

「寒いけど、いい空気ー!」

 

 横でそう言って、千束が大きく息を吸う。目を瞑り、手を目いっぱいに横に広げて、そしてそのままくるりと僕の方を見た。

 

「ここまで来たってことは、やっぱりキャンプしようってこと?」

 

 鋭い。いや、さすがにここまでくれば当たり前か。彼女の問いに、頷いた。

 

「そう。二人でここでキャンプして、明日帰ろうかなって。……大丈夫? 今更だけど」

 

 結局サプライズが趣旨だったと言うこともあって何の断りもなくここまで連れてきてしまったことに、今更ながら後ろめたさを懐く。

 果たしてその問いに、千束は失笑した。

 

「ほんっと今更だよそれ!」

 

 しかしすぐにその顔が、純粋な笑みに変わる。僕のそばに歩み寄って、手を握った。

 

「キャンプ、やってみたかったんだ! だから、嬉しい!」

 

 ありがとー! と、朗らかな空気を纏いながらも握った手を振って、そして彼女はそのまま奥の方へと歩き出した。

 手を繋がれたままだった僕もまたそれに引きずられるように、敷地の奥、キャンプ場エリアへと歩を進めた。

 

 

 まずはこの場所のセキュリティの人にキャンプの許可証を見せて、キャンプエリアへと入る。そして一頻りの施設の位置関係を確認した。水道やトイレは完備されていて、そしてキャンプエリアの中央には誰でも使える調理エリアまで備えられている。夕食はここで作ることになるだろうか。

 その一頻りを確認し終えると同時に、場所の確保に入った。他に何組かのキャンプ客がいる中比較的広い空きエリアを選んで、ポップアップ型テントを広げる。

 抑えつけるためのファスナーを開ききってから地面に抛れば、瞬く間に二人用テントが組み上がった。横で見ていた千束が、それに驚きの声を上げた。

 

「今こんなんあるんだ、すっげ」

「ね。自分もこれ店員さんに見せてもらったとき驚いたよ」

 

 そしてそのまま、中に寝袋を敷く。ボストンバッグの容量の問題で二枚は用意できなかったから、二人用寝袋を一つだけだ。しかしまあ、ここ二週間の同衾のことを考えれば、別に今更憚るものでもなかった。

 

 あとはテントの前、折り畳み式の布椅子を二つ広げて、携行式のかまどと網をセットすれば、それで準備は終わりだ。

 その全てを終えた僕たちは、二人互いに椅子に腰掛けて、次第に沈んでゆく太陽をただ黙って見ていた。

 しばしの沈黙が、この場を包む。

 

「いいねぇ、この風景。私好きだわ」

 

 しかしその二人の間の静寂は、不意の呟きで破られた。

 沈むように凪いでいて、それでもどこか跳ねるような声色で、千束はそこから訥々と語り始める。

 

「何というかね、夜明けと、夕焼け。太陽がこの色になる時間が、すごく好きで。東京にいるときもそう」

 

 それは、日常の何気ない美しさを謳う言葉だった。

 

「お日様が上る直前の色。静かな街。誰もいなくて、一人そんな場所に立って。あの空気が、ほんとに好きでさ」

 

 その生の中で見える景色は、そこにあるだけでかけがえがなく、素晴らしいものなのだ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 それはそんな、叫び出さんばかりの思いの発露にも感じられた。そういう生き方を、千束は今までしていたのだ。そういうものの見方を。

 だからだろうか、思わず声が出ていた。

 

「僕もだ」

「え?」

「僕もそう。研究室の連中と徹夜で論文書いたりしたときの、明け方とか。外に出ると、ビルが紫色に染まってて。夜が明けるあの一瞬だけそれが見えて、それで通りには誰もいなくて。遠くから物流のトラックのエンジン音が、ほんのちょっとだけ聞こえるんだ」

 

 言いながら、一人頷いた。

 

「僕はあんま早起きじゃないから、本当に徹夜明けにしか見れない景色なんだけど。僕もそれが、すごく好きだった。……まあ、そういう時はめっちゃ眠かったりするんだけどさ」

 

 千束の方を正面から見れば、宵闇に翳りつつある視線の向こう、彼女が笑った。

 

「――そっか。おんなじだね、私たち」

「そうだね。おんなじだ」

 

 頷き合って、また笑う。そしてとうとう日は沈み切り、宵闇が辺りを覆った。

 

「ランタン、つけてくるよ。そっちはバッグから食材を出してて。終わったらクッキングエリアに行こう」

「うん、わかった。そっちもお願いね」

 

 その声に手を振りつつ立ち上がって、テントの中と外に吊るしたランタンの電気を、それぞれ点ける。そこから戻ってくるころには、千束は僕が買い込んできた食材の類を一頻り取り出して、椅子の上に並べていた。

 

「おかえり。結構いろいろ買ったんだね。ベーコン、ソーセージ、エビとかサーモン……あ、チーズもある!」

「野菜もね。……チーズフォンデュにしようかなって思ってさ」

 

 そう言うや、千束ががばりと顔を上げた。

 

「チーズフォンデュ! いいねぇ!」

 

 満面の笑みを浮かべていた。そのまま、キャンプ場の中央へと歩き出す。

 

「じゃ、早速行こう!」

 

 おー、と。一人右手を挙げて、彼女はずんずんと進んでいった。その左手に、いくつかの食べ物のパックを持ちながら。

 

 

 

 午後八時過ぎ。二人でわーきゃーやりながらの夕食が終わって、テントの前、かまどに火を入れて、二人並んで座っている。その手に揃えて抱えるのは、コーヒーが入ったマグカップだ。

 僕たちの目の前、かまどの火の赤い色が、千束の顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 

「キャンプって、いいね。日本でも、みんなでやりたいな」

 

 ぽつりと、千束が僕に言った。見れば彼女は、じっとかまどの方を見つめている。

 

「この季節だとなかなか準備大変だし、夏とか?」

「……いいね、それ」

 

 返した僕の方を見て、親指を立てた。しかしすぐに顔を前へ向けて、コーヒーのマグカップに目線を落とす。そのまままた、口を開いた。

 

「やりたいことが、どんどん増えてくよ。出来ることも、増えて。ここだって、ハワイだってそうだった」

 

 夜の闇に当てられたか、しっとりとした声色で、そしてしみじみとした言い回しだった。そのまま手の中のコーヒーを啜って、彼女はほうっと息をつく。

 そしてまた、僕の方に目を向けた。

 

「この一年、さ。たきながリコリコにやって来て、お客さんだった隼矢さんも仲間になって。大変だったけど、結局長い目で見ればすっごく楽しかった気がする」

 

 いろいろ苦労もあったし、迷惑もかけたけど。目を伏せながら小さく続けて、首を振る。

 

「最後だと思ってたんだ、私。この一年。前の心臓の耐久はもう限界に近くて、いつ使えなくなってもおかしくなかったし。多分リコリスとしての現役期間が終わるときが、私の『お別れ』のとき。そう思ってた」

 

 そのまま、千束はその内心を吐露し始めた。

 

「そんなときに、二人に会えて。あの店も一気に賑やかになってさ。私は最後の最後で、一番楽しい時間がやってきたんだって思った。この二人に、私は最後にそんな『楽しい時間』をあげられるんだって。それはその時の私には、これ以上ないぐらい幸せなことだったんだ」

 

 彼女の言葉に、梅雨のさなかの一日を想起する。僕がミカさんとミズキさんに励まされた日、そしてたきなさんと千束の二人が、ライセンスを更新しに行った日のことだ。

 ――たきなさんがここに来たのと同じぐらい、僕がここで店の仲間になったことを、千束は喜んでいる。

 ミカさんの言ったそれは、確かに真実だった。そこはやはり、千束の親代わりの面目躍如、と言ったところだったのだろうか。

 

「だから最後まで悔いなく過ごそうって。それが私の最後の目標になった。前の心臓がやられた時も、結局私の中は、そのことばっかりで」

 

 でも。目を伏せていた千束が、僕の方を真っ直ぐに見つめてきた。

 

「でも、今は違う。そんなんじゃ、もう満足できなくなっちゃった。もっと先の時間ができたから。私は、欲張りだから」

 

 ――そして、何より。

 

「隼矢さんが、いいって言ってくれたから。それ以上を望んでいいって、諦めるなって」

 

 言い切って、何か覚悟を決めるように、今一度息を吐いて、そして吸った。

 

「ねえ。やっぱり、私から言わせてくれないかな。隼矢さん、この先のこと」

 

 真剣な顔つきだった。決意に満ちた表情だった。二週間前のあのとき、言葉に詰まってばかりだった彼女は、もうここにはいない。

 でもそれは、僕も同じだ。遂げるべきは僕だった。そう決めたからこそ、こうして千束をここまで連れてきたからのだから。

 

「……それは、後にしよう。頃合いだから、ちょっと上を見てよ」

 

 話をそらすように、彼女に言う。怪訝そうな顔をして、しかし素直にその顔を上へと向けた。

 その目が、見開かれた。

 

「ぇ……?」

 

 小さな呟きを拾う。その両手が、胸の前で合わされた。

 

「うわ、うわぁ……! なにこれ、すっご!」

 

 そして、ひときわ大きい歓声があがる。

 僕もまた、空を見上げた。

 

 広がるのは一面の夜空だ。澄んだ空気と、街の明かりの一切がない空間が作り出す星空が、見るもの全てを埋め尽くしている。

 東京では絶対に見ることのできない景色が、そこにはあった。

 

「ここでもまだ灯りが多いから、ちょっと向こうに行こう」

 

 無心になって空を見る千束に立ち上がるよう促す。キャンピングマットと、()()()()()()を片手に、僕は少し離れた場所に向かって歩き出した。

 

 

 

 キャンプ場の外れ、本当の暗がりに近い場所で、敷いたマットの上に二人寝転がる。テントの前よりもさらに暗いこの場所からは、さっき見ることのできなかった天の川のうすぼんやりとした白さすらも、はっきりと窺えた。

 

 二人、ひたすら無言のままに夜空を眺める。

 遮るものの一つすらもない星々のテクスチャは、彼我の距離すらも惑わせる。手を伸ばせば届きそうなほど、ともすれば落ちてきそうなほど、それはすぐ近くに感じられた。

 自分の呼吸音だけしか聞こえないぐらいに、この場所は静けさに覆われている。それでも、人工光などなくても、夜の黒とはこれほどまでに明るくて、賑やかだ。大小の輝きはそれぞれに己の存在を主張して、音のないはずのここに、存在しない「光の音」すらも響かせていると錯覚する。

 「溺れそう」、そんなことすら思ってしまう。横で千束も同じようにこの景色を見上げているはずでも、その存在すらも忘れてしまいそうなほどに。

 

 そのまま五分か、或は十分ほどが経っただろうか。ともすればもっとずっとそうしていたかもしれないが、ともかくその末に、僕は口を開いた。

 

「『宇宙に最も近い場所』」

「え?」

「って呼ばれてるんだってさ。ここ」

「宇宙に?」

 

 寝そべったままの姿勢で、横を向くこともせずに、千束に話しかける。

 問い返す彼女の声に、頷いた。

 

「そう。まあ、ほんとは山の頂上のことなんだけどね。空気が乾ききってて、街の灯りはどこにもなくて。その二つが合わさって、地球で一番星空がよく見えるんだって。だからいろんな天文台とかが置いてあるんだ」

 

 へー。そんな、感心したような声が聞こえた。

 

「だから、ここにしたの? キャンプ」

「うん。一緒に、星を見たくなって」

 

 そう言って、一呼吸する。

 

「一回、野尻湖に行ったことがあるんだよ、研究室の連中と。ゼミ旅行みたいな感じで」

「野尻湖? って何県だっけ。長野?」

「そう」

 

 頷いて、続けた。

 

「ロッジに泊まったんだけどね。その時、湖畔に寝そべって見た空が、ほんとに綺麗で。こんな感じ。いや、ここの空の方が綺麗なんだけど」

 

 横を向く。千束はずっと仰向けで、星空に目を奪われていた。

 

「君は、まあDAの本部は山梨の山奥だけど。基本東京の子でしょ? だから、見たことはないんじゃないかと思ってさ」

 

 視線の先、千束が小さく頷いたのが見えた。

 

「そうねぇ、確かに。東京の夜は、空はただ真っ黒なだけだし。街の灯りビカビカだもん」

「でしょ? だから、せっかくだから一番いい星空を見てもらいたかったんだ。それでここにした」

 

 千束が、こちらを向く。星明りに微かに浮かび上がるその姿に目を凝らせば、彼女は僕の顔を正面に捉えて、そして笑ったように見えた。

 

「……やるじゃん、隼矢さん。でも、それだったらみんなで来るのもありだったかなぁ? 独り占めしちゃって、なんだか申し訳ない気分かも」

 

 ――いやまあ、すっごく嬉しいけど!

 そう、慌てるように付け足して、彼女は僕の方へ手を伸ばした。右手が、握られる。

 

「まあ、いきなり思いついたことだったし。でもここじゃなくても、日本でもいい空がみられるとこはいっぱいあるから、キャンプしようよ、いつか。みんなで」

 

 その手の暖かさを感じながら、答えた。

 そうだ。今の千束には、みんなには、「いつか」がある。或はここにだって、みんなでいつか来ようと思えば来れるのだ。

 そしてその未来の中、僕は今自らの横に寝そべっている千束とのあり方を、定める。今日、ここで。

 

 

 

 一つ、二つ、深呼吸をする。もう、後戻りはできない。いや、しない。覚悟を決めた。

 左のポケットの中にある、()()()()を、取り出す。そして意を決して、声をかけた。

 

「千束。……渡したいものが、あるんだ」

 

 押し込めたような声色だった。上体を起こして、千束の方を見る。僕のその身動ぎを聞き分けてか、あちらもまたゆるゆるとその身を起こした。

 

「……なぁに」

 

 こちらを覗き見る彼女に悟られぬように、夜の闇で隠しながらも手に持つ小さな箱を開けて、その中身を取り出す。

 

「手を出して。()()()

 

 口が乾く。喉が、声が震えそうだった。でも、これが最後だから。

 小首を傾げながらも差し出された左手を取って、そして――

 

 

 

 手に持つそれを、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 己の指に伝ったであろう金属の冷たさに、びくりとその身が震えるのを、握った掌越しに感じた。さすがに千束もそこまでくれば、気づく。今自分が何をされたか。

 喉が鳴る。え、と小さな声がした。

 

「これ、は……」

 

 その音はどうしようもないほどに掠れていた。そして僕が静かに離したその左手を、彼女は顔の前に持ってゆく。

 

「え? 待って、待って隼矢さん、これ……っ」

 

 そしてまさしく自分の薬指にはまった指輪を視認した彼女が、僕の方へと身を乗り出す。その声は大きく震えていた。

 僕の方も、少しだけ千束の方へと身を寄せる。そして、切り出した。

 

「……ほんとは、しっかりしたものを買いたかったんだけど。何分急だったから、それは代替品みたいなものでさ。だけど」

 

 そう、それは安物の指輪(ダミーリング)だ。シルバーの地金にキュービックジルコニアの石で出来たそれは、半ば子供のおもちゃにも等しい。

 ミカさんに確認しておいた千束の指のサイズから選んだ()()()()で、値段も相応でしかない。それでも、持つ意味は同じだった。

 

「考えたんだ。『一緒に生きていく』。口で言うだけなら簡単で、ともすれば今とおんなじような毎日をいつまでも惰性で続けても、それで満足しちゃいそうな自分もいて」

 

 でも。そう言って、首を振る。

 

「それじゃ、ダメだって思った。去年のクリスマスの日、あそこまで言って、約束したなら。その答えを、出さなくちゃいけないって。僕にとって、君は何なのか。どういう風に、思っているのか。あの時は、ただなあなあにして、それで終わりだったけど」

 

 千束は、何も言わない。言えないのかもしれない。黙って、僕の言うことを聞いていた。

 

「男女の『好き』に、当てはめようとした。男として、一番わかりやすい感情だったから。でも違った。僕は確かに君を大事に思っているし、絶対に失いたくない。だけどそれは、そういうことじゃないとしか思えなかった」

 

 一つずつ、自分の気持ちとの答え合わせを進める。

 

「『家族愛』みたいなものか、とも思った。近いけど、でもそれも違う。ミカさんみたいに、僕は君を幼いころから知っていたわけじゃない。僕にとっての君は、どこまでも今の君で。その在り方こそを、尊いものだと思っていた」

 

 だからきっと、そういう卑近な型に嵌めようと言うことそれ自体が、そもそも間違っていたんだ。

 もっと根源的で、単純で、それでも強い情動と、正面から向き合わなければいけなかった。

 

「結局、僕の今の思いは、どこまでもシンプルだった」

 

 ――『愛してる』。

 目の前で、千束が大きく息を呑んだ。

 

「ずっとその言葉と正面から向き合うことを避けてたけど。でも、結局はそういうことだったんだ。僕は、君を、千束を、愛している。愛おしいと、思っていた。ずっと、ずっと」

 

 そこで、一度大きく息を継ぐ。最後の言葉を、伝えるために。

 

「ならば、僕は。()()()()()で、僕自身の願いを、思いを、君に伝えようと思った。それしかないと思った。だから。だから、千束」

 

 言葉を切って、近寄った。闇を超えて、彼女の顔が見える距離まで。

 伝えるべきは、あと一言だけ。目を見て、手を取って、そして僕はただ、頭を下げた。

 

「僕と、一緒になってください」

 

 

 

 沈黙が、支配する。僕は顔を上げることなく、そして千束も、何も言うことはない。

 恐らく、一分は経っていなかったのだろう。それでも、僕にとってはあまりに長い沈黙の、その果てで――

 

 

 

 僕の肩に、手が置かれた。左手が。

 

「じゅんや、さん」

 

 絞り出すような声だった。顔を上げる。

 

「――……っ、わ、たし、は」

 

 その視線の先を見る。

 千束は涙を流していた。星明りの下、零れるその雫がきらりと光った。

 左肩にも手が置かれる。一度俯いて、そしてまた、顔を上げた。

 

「わたし、も……私も、隼矢さん、あなたを……」

 

 そこで、一つ大きく息を吸う。

 

「愛して、る。私を救ってくれた、あなたを。諦めを消してくれた、あなたを。生きる力になってくれた、あなたを。だから」

 

 そして、笑った。その表情は、どこまでも美しく見えた。

 

「こちらこそ。ずっと、ずっと、一緒に、生きていきたいから。だから――ありがとう、喜んで」

 

 その、言葉と共に、僕たちは二人の距離をゼロにした。

 いや、もう濁す必要はないだろう。互いの唇を、重ねた。

 

 湿った感触を覚える。少しばかりの、涙の味もした。

 でもそれは甘さを齎すものではない。むしろこれは、約束だ。

 もう、離すつもりはない。心の距離をゼロにして、そしてこれからは生きていくんだ。そういう誓いにも等しかった。

 その姿勢のまま背中へと手を伸ばせば、彼女もまた僕の背中に腕を回した。そのまま抱きしめ合う。己の中の熱を、交換し合うように。

 何度かの息継ぎを挟んで続けられた僕たちのそれは、一分と少しの後に、ようやく幕切れを迎えた。顔を離して、千束を見つめる。

 

 そして、お互い笑い合った。

 

「……私が先に言おうと思ってたのにぃ。泣かせやがって、許さないぞ」

「ごめん。でも僕にもプライドってものがあって。絶対先に言わなきゃって。負けたくなかった」

「勝ち負けの話じゃないだろぉ……」

 

 今度は、笑い声すらも出た。目元を拭いながら、千束は今一度口を開いた。

 

「ミズキ、怒るだろうなぁ……」

「まあ、そうかも。でも祝ってくれるでしょさすがに。そこまで偏屈じゃないよあの人」

「そうかなぁ」

 

 言いながら、首を捻る。彼女は本気でミズキさんのことをそんな風に思っているのか。いや、やはりこれはじゃれつきだろう。

 しかしそれを思った次の瞬間、僕はほぼ反射的に口に出してしまっていた。

 

「それより、僕はたきなさんに申し訳なく思うんだけどね」

 

 そんな、台詞を。

 

 

 

 あっ、と思ったときには、もう遅かった。きょとんとした顔で、千束が訊ねてきた。不思議そうな声だった。

 

「たきなに? どうして」

 

 そう問われて、思わず目を瞑る。

 後悔は先に立つものではない。言ってしまったそれを、なかったことにはできはしない。彼女に、たきなさんに何の断りもなく()()を話すことは、きっと正しくはないのだろうけど。

 でももう、千束にそれを問われてしまったならば、忘れてほしいとは言えないだろう。

 静かに息を吸って、そして口にした。

 

「……だってあの子は、僕と同じだから」

「同じ? たきなと、隼矢さんが?」

 

 返してきた千束に、頷く。

 

「そうだよ。だって、君と出会って、新しい経験を、かけがえのない価値を、楽しい時間をもらって。だからこそ君のことを絶対に助け出すって思って、死なせないって思って、それで最後まで突っ走ったんだから。事件のあと、DA復帰の誘いを完全に蹴って、最後の最後までリコリコにいることにしたのだって、全部それが理由なんだから」

 

 思い返せば一年前、あの子と僕はほぼ時を同じくしてリコリコの一員になった。そしてそこから、千束のいる、千束といる毎日の中で、たきなさんが千束を見るときの目の色を、話すときの声色を、その笑顔を、僕はずっと見てきたのだ。

 そうすれば、否応なく分かる。なぜならそれは、僕自身が千束に向けている視線と、きっとどこまでも同じ色をしているのだから。

 首を振って、なおも続けた。

 

「だからね、あの時。なにかが少しでも変わっていたら。例えばたきなさんにもう少し人生経験があって、それで僕みたいなことをやれたのなら。この場所にいたのは、僕じゃなくてあの子だったかもしれない。僕とあの子の思うところは、それぐらい同じなんだ。同じなんだよ」

 

 ならばともすれば僕はあの時、ミカさんの役割を横取りしただけではなく、たきなさんに対しても抜け駆けを働いてしまったのではないか。今更ながらにそう思わされる。

 そして、また一つの事実にも気づいた。僕がずっと、千束に()()いう答えを示すのをためらい続けていた理由の中に、間違いなくたきなさんがいたことに。彼女に対して、僕のやり方はフェアではなかったのではないかと、そう心のどこかで思っていたのだ。それは罪悪感にも似ていて、だから今僕はここでこんなことを言ってしまったんだろう。まるでそれは、懺悔だった。

 

 それでも、と思い直す。

 それでも僕はあの時の選択を、後悔なんてしていない。したくない。だってあの瞬間、あの役割を果たせるのは、きっと僕しかいなかったから。

 だから当然、今この瞬間に選んだ千束との未来、その選択だって、悔いることなどありはしない。絶対に。

 

「――だけど、それも含めて。いや、だからこそ、か。今君に渡した指輪も、『約束』も。僕の責任にしたかった。さっきは『プライド』だなんて言ったけど、結局はそういうこと。だから、僕から言わせてほしかったんだ。それだけは、僕から」

 

 そうだとも。なぜなら僕が、僕自身が、それを成すと決めたのだから。

 

 

 

 そんな思いで結んだ僕の言葉に、「そっか」、と千束は呟いた。

 

「そうなんだね。そっか、たきなが。そっか」

 

 それを何度か繰り返して、そのたびに小さく頷く。

 

「――ありがと、教えてくれて。ずっと気づかないで、知らないでいたら、いつか私は絶対にたきなを傷つけてたと思う」

 

 その果てで、彼女は真剣な目つきで口にした。両肩に手を添えた姿勢のままに。

 

「でもね。それを聞いても、私は隼矢さん、あなたに向けている今の自分の気持ちは変わらないよ。私の隣は先着一名、あなただけ」

 

 だけどね。そう言って、軽く息を吸う。

 

「私は、たきなとだってずっと一緒にやっていきたい。私の、一生の相棒だ。絶対に離さないし、譲らない。だって私は、」

 

 ――やりたいこと、したいこと、最優先! 私は、わがままなのだ。

 力強く断言して、笑顔を浮かべた。

 

「そっか。そうだね。千束らしいや」

 

 その顔に、その言葉に、僕はどこか救われたような気がした。

 だからそう返した時には、僕もきっと笑顔になれていた、と思う。

 

 

 

 そのまま二人、暫く無言のまま向かい合う。

 しかしそこでやおら千束は僕の肩から手を離して、自らの左手を顔の前へとかざした。その左薬指にはまった指輪を、慈しむように撫でる。

 

「そだ。これ、さっき代替品って言ってたけど。日本に帰ったら、代替品じゃない物を買いに行くってこと?」

 

 そして、問うてきた。無論の事だ。それはあくまでこの一件の、()()()()()のための間に合わせだ。婚約指輪の類のものではない。僕の分だって、ない。

 本物は、これから日本に帰って、その後に用意することになる。

 頷いて、答えた。

 

「当然。しっかり『給料三か月分』のものを、買いに行くよ。というか行こう、一緒に」

 

 そして放った約束、というか誘いの言葉に、千束は一人、感慨深げに唸った。

 

「一緒に……一緒にか」

 

 反芻しながら、次第にその表情が緩んでいく。

 

「いいね。一緒に。そうだね、一緒に行こう。絶対だよ」

 

 言って、そのままもう一度、軽く僕に抱き着いた。

 

 

 

 その後、手早く寝る支度を済ませて、二人同じ寝袋の中に入る。

 そしてお互い抱きしめ合うようにして、僕たちは眠った。一つ大仕事を終えた、そんな風な満足感と達成感を、胸に懐きながら。

 

 

 

 

 

 そこから二日後、ハワイにやってきて丁度一月が経った、三月末日のこと。

 ホノルル空港、国際線ターミナルの出発ロビーに、僕たちは立っている。

 

「千束ー、もういい加減土産物屋を覗くのは切り上げなさーい? 飛行機間に合わなくなるわよー」

 

 ミズキさんが、出発エリア内部の免税店の中にいる千束へと声をかけた。

 

「わかってるってー! あとちょっと、あとちょっとだけ見たら行くから!」

 

 そちらから張り上げた声が聞こえて、ミズキさんが溜息をつく。

 

「なーんにも変わっちゃいないわね、あのガキ。あんなに見せつけるみたいに指輪とかしくさってからに」

 

 そして、流れるように悪態までついた。

 

「……なんか、すみません」

「すみませんって思ってんなら、あの子連れて来てよ。ほんと間に合わなくなりそうよこのままじゃ」

 

 更に、僕の方にまで流れ弾が飛んできた。アンタが面倒みるんでしょ、と、そんな風な目線と一緒に。

 まあ、やむなしだろう。頭を下げて、免税店から連れ戻すべくそそくさと千束の方へ足を向けた。

 

 

 

 斯くしてどうにか彼女を引っ張ってきて、千束の買い込んだ大量の土産物を全員で分けて持ちつつ、搭乗開始時刻を待つ。

 その最中、クルミが僕に声をかけてきた。

 

「どうだった、隼矢」

「どうって?」

「ハワイもそうだし、千束とのこともそうだ。来て、よかったか?」

 

 それはほとんど確認のような問いだった。しかしそれは、言うまでもないことだろう。

 もとはと言えば、千束の望みを叶えるための旅行だった。それでもそこから一月に及ぶ体験は、僕にとってもそれ自体かけがえのないものにもなっていった。

 そしてなにより、僕が僕自身の思いに決着をつけることができたのは、この場所と、そしてみんなの後押しがあったからなのだ。

 

「勿論。来てよかった。ここに来れたから、答えを出せた。クルミ、ありがとう。君のおかげでもあるんだ」

「分かってんならいい。全く、手間をかけさせてくれたよ」

 

 まあ、それも悪くはなかったが。そう言った彼女に、無言で頭を下げる。

 そしてそのタイミングで、搭乗開始のアナウンスが鳴った。仕切りが取り払われ、行列が動き始めた。

 僕たちの前、楽しそうに話し込んでいた千束とたきなさんの二人が、そろってこちらを振り向いて、手招きしてくる。

 それに頷いて、ミカさんが声を出した。

 

「――さて、帰ろうか」

 

 全員で頷いて、そして歩き始める。その最後、ボーディングブリッジに至る直前に、ふと振り返って、背後を見た。

 今日までの体験と、ここでした誓いと。その全てが胸に去来する。自然と、頭が下がっていた。

 そして言葉が、口をつく。

 

「また、来ます。いずれ、絶対」

 

 零れたそれは、本心からの台詞だった。

 またきっと、全員でここに来よう。やり残したことも、まだ多分きっとあるはず。

 だから今度そんな機会があったら、もうちょっとだけ長くいようか。いつになるかは、わからないけれど。

 

「おーい、隼矢くん。こっちだ!」

 

 背後から、ミカさんの声。立ち止まってしまっていた僕を諫めるその声に、振り返る。

 

「はい、今行きます!」

 

 こちらを見る彼の姿に声を返して、小走りでそちらの方、搭乗口へと向かった。

 

 

 

 さあ、帰ろう。あるべき場所へ。

 そして戻ろう。千束との、みんなとの、輝ける日常。新たなる日々へと。

 

 

 

 ――日本には今、春がやってきている。

*1
リコリコOD第三話参照

*2
リコリコOD第三話参照




 これでハワイ編は終わりです。

 結局第十話の展開から連綿と続いていた「責任」を、ようやっと主人公は取りました。


 それで、ハワイ編全体に対する話ですが。

 もともと書き始めた時は、マジで頭を空っぽにしてリコリコメンバーがハワイでわちゃわちゃやって、千束と主人公を適当にイチャつかせようと考えてました。章頭のポエムのように。
 でも、全く筆が動かなかったんですよね、いざ書こうとしたら。この二人がそういう空気になる絵面が全く思い浮かばなかったんです。

 何故だろうと思っていろいろ考えつつ過去投稿を見直していたら、「そういえばこいつ肝心なとこをぼかしたまんまじゃん」と気づいたわけです。原作終章部分でもそうだった。そりゃ、話のタネなんて思い浮かばないよな、と。
 というわけで、そこらへんの責任を取らせる話に急遽方針を転換することになりました。そうして出来たのがこの番外編です。

 そしてもう一つは、たきなの千束への気持ちについて。OD四話の記述を考えれば、たきな側はやはり千束に対して少なからず「そう」いう感情を持っていると考えるのが自然なので、本作ではそういう設定にしました。ただおそらくたきなもODの描写を見るに、完全に自分の気持ちを割り切れているわけではないと思っています。

 この点、原作アニメだとどうなんでしょうね。千束は恐らくアニメ終了時点ではたきなにそういう感情を向けてはいないと思います。OD的な話では、結局ひどい勘違いだったにせよ、土井のおっさんとたきなを延々とくっつけようと動いていたわけですし。まああれはアニメ四話と五話の間ぐらいの話らしいですが。
 それでも、いずれたきなに当てられてそいう考えを持つに至るのだろうか。OVAとか作ってくれないかな。

 ちなみに拙作では、主人公が百合の間に挟まる感じではなく、千束の両脇を主人公とたきなが固める、みたいなイメージです。あくまでも中心には千束がいます。

 とにかく、ここまで読んでいただきありがとうございました。
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