世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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#0x02 Party for deaf-mutes (2/2)

 想定する逃走ルートは、かなりの遠回りだ。

 まずは東京駅から出発し、日本橋から首都高一号線の下道、国道四号に入り、一路北へと向かう。その後梅島陸橋の辺りで環七に入り、北綾瀬の駐車場に乗り換えを名目で呼び出した錦木さんと井ノ上さんと合流する。追手側の動きによって多少進み方に前後はあるが、ここまでが前半戦における基本のルートとなる。

 そして合流した後は、妨害がなければ川の手通りを南下し、堀切五丁目の交差点を右折して平和橋通りに入って、小菅ICから首都高中央環状線に乗る。その後葛西臨海公園の辺りで一度降り、車を乗り換える。それさえ済んでしまえば、首都高湾岸線で羽田空港まで到達、表向きの任務は達成だ。

 とはいえまんまとこのルートで逃げ遂せてしまった場合、偽装死の演出は困難を極めることになる。どこかで妨害が入ることを期待することになるだろう。

 尤も、今回の依頼において一切の邪魔が入らない可能性などほぼゼロだ。そこについて現状深く考える必要は、あまりない。

 

 因みに現状の想定では、車の乗り換えを行う葛西臨海公園周辺で、偶発的戦闘にかこつけて着ぐるみの「ウォールナット」には「死んで」もらうことになっていた。

 しかし情勢は流動的だ。こうと決まった筋書き通りに進んでくれるようなものではない。そういうわけで、どこで戦闘に入ってもうまく射線に割り込んで「死ねる」ようにと、「ウォールナット」――中原さんとは何度か打ち合わせを実施していた。

 ならばあとは彼女の演技力次第である。そこはもはや、祈るしかなかった。

 

 現在前方を進むウォールナットたちの車は、その後方四十メートルほどから大型のバンに執拗に追跡されている。現状はお互い法定速度を守っているが、どこかのタイミングで撒かないことにはおちおち合流のために停車することも難しい。一度脇道に逸れ、右折四回で元の通りに戻る間に、僕の車を追跡者との間に割り込ませることにする。念のためとして、この車は窓ガラスやタイヤも含めた防弾加工を施されている。安心して盾になれるというものだ。自動運転を一時停止し、ハンドルを握る。第一幕が始まった。

 あちらの車が右折する予定の二つ前の交差点から脇道に入る。事前に収集してある信号スケジュールから、追跡者との間でドンピシャで信号が変わるタイミングはすでに伝達済みだ。こちらが脇道に入って三十秒ほどで、首尾よく交差点を右折できたことを知らされた。

 信号待ちをすること、二分弱。目の前を一台の白い軽自動車が通った。ウォールナットたちの車だ。そしてその直後に、対面の信号が赤に変わる。追跡者たちの白いバンが交差点に進入する頃には、信号待ちをしていたこちら側の信号が青になった。

 しかし当然、追手がご丁寧に赤信号を遵守するわけがない。無理やり交差点内部に侵入しようと、やや速度を落としながら突っ込んでくる。

 

「そうはさせるかよ、っと!」

 

 クラクションを一発。右折のためにのろのろと交差点に進入しつつ、追手の車にこちらの車体を割り込ませながらの牽制だ。さすがに事故を起こしては追跡に支障が出ると見たか、追手の車は左に大きくハンドルを切って急停止する。それを尻目に、僕の車は悠々と道を右折、追手の車との間に割り込むことに成功した。厭味ったらしく二度軽いクラクションを鳴らしながら、彼らを置いて走り去る。第一関門は、これで突破だ。

 

 

 それからは、はるか後方に置き去られた追手が追跡を諦めたようで、ウォールナットたちは比較的スムーズに北綾瀬までたどり着いた。無事リコリス二人組と合流し、走り出した車を確認して、改めて僕はラップトップの画面に目を落とした。ここからが、第二幕の始まりとなる。

 作動させている低出力対空レーダーは、先ほどから一つの異物を捉えていた。ウォールナットの車の後方二十五メートル程度を、ごく小型の飛行物が追尾している。向こう側の「技術者」の使役する、監視用のドローンだろう。あるいは何らか妨害を行うための中継器としての役割も持たせているかもしれない。暗号化回線を開く。

 

「報告だ、ウォールナット。後方二十五メートル、ドローンと思しき飛行物体」

『――了解した。ロボ太だな、恐らく』

 

 ロボ太。聞いたことがあるような、ないような。僕の記憶が確かならば、最近腕を上げてきたスクリプトキディ上がりのクラッカーで、CTFの大会でも最近は上位ランクに食い込むことが増えてきた、ような気がする。だからきっと記憶の片隅にあるのだろう。

 ただ今は、それを想起するよりも先に、伝えるべきことがある。

 

「妨害を受けるかもしれない。あるいは操縦管制を乗っ取られる危険があるが、どうする?」

『はいはーい、私たちで撃ち落とすのはどうでしょーか!』

 

 そこに唐突に、声が割り込む。錦木さんだ。相変わらずの元気さで、こちらに一つ提案をしてきた。

 それに答えようとして、ふと考える。向こうが操縦管制の乗っ取りを図る場合、あり得る可能性は二つ。一つは意図的なクラッシュを起こし、乗員諸共対象を葬り去る。そしてもう一つは、追手が潜伏しているキルゾーンに誘引する。このどちらかだ。場合によっては、一つ目を本命として、二つ目をサブプランにする二段構えの可能性もあるだろう。

 

「そうだな……」

 

 ――乗ってやるのも、手か。事故狙いの制御奪取の目論見なら、頃合いを見て制御を奪い返す。そしてセキュリティリスクのある車からの乗り換えにかこつけ、誘引されたキルゾーンの真っただ中で下車し、「運悪く」戦闘に突入、「ウォールナット」にはそこでご退場願う。錦木さんと井ノ上さんの戦闘能力を当てにする形にはなってしまうが、それはもともとの計画でも変わらない。ある程度状況を想定しやすい分、落としどころも探りやすいだろう。考えて、返事を口にした。

 

「いや、しばらくはそのままで頼めるかな」

『えー何でぇ? ちゃちゃっと落としちゃえばいいのに、あんなの』

「下手に撃ち落としちゃうと、敵の動きが読めなくなる。捕捉できない予備のドローンとかね。対象がこの車に注力してくれるなら、こちらからも状況を管理しやすい。そうは思わない?」

 

 我ながらよく口が回るものだ。ちょっと考えれば疑念を抱きそうなものだが、勢いで封殺する。

 

『まあ、そういえなくもない……かも』

『決まったな。……じゃあ、手筈通りに頼むぞ、ラスカル』

「そっちこそ、抜かるなよ、ウォールナット。……通信終わり」

 

 通信を切る。それと同時に、ウォールナットたちの車のメンテナンスNICへとVPN越しにSSH接続を行った。

 敵のドローンが前を走るあの白いバンに干渉できるとすれば、それはほぼ確実に操縦管制用のオープンNIC越しとなる。一応申し訳程度のファイアウォールは設置されているが、スタンドアロンではない自動操縦システムのOSのセキュリティにはどうしても穴があるからだ。VICS周りや交通標識ビーコンのプッシュ型通信のために開けておくポートと、通信プロトコル上のセキュリティ脆弱性をついた制御乗っ取り攻撃は、攻撃側に相当以上の腕を要求されはするが、それ自体を完全に防ぎきるのは難しい。

 というわけで、向こうさんが攻撃を成功させるより前にあらかじめ特権アクセスを取得しておき、制御が奪われたのちの頃合いを見て自動操縦システムのNICを切断、その後はARPスプーフィング攻撃で相手の攻撃先をこちらが用意したハニーポットに誘導する。攻撃自体の無力化は、それで完了だ。残りは追手のバンのVICS受信情報から逆探知した測位情報をもとに、向こうが用意したキルゾーンに向かって手動で車を走らせる。そのあとは、チームリコリスの二人を信じることになるだろう。

 

 堀切五丁目の交差点を右折した辺りで、さっそく反応があった。tcpdumpが、自動操縦用ポートへの不審なパケットの流入を検知する。程なくして、ダミーで設置していたいくつかの監視用プロセスがキルされた。攻撃の始まりだ。

 錦木さんたちの目をかいくぐるため、クルミ相手にのみ開いているテキストベースのチャットツールにメッセージを打ち込んだ。

 

"攻撃始まったぞ"

"把握している"

 

 クルミからはすぐさまの返信があった。程なく、前を走る車に異変が起きる。

 強引な車線変更だった。小菅ICから首都高に乗り込むはずだった進路が捻じ曲げられ、下道を通るルートに乗せられる。更にアクセルをべた踏み状態で、猛烈な加速を開始した。

 やはり最初は事故狙いで来たか。そう思いつつ、先ほどから開けっ放しにしている音声チャンネルから俄に聞こえ始めた錦木さんの騒ぎ声に、思わず頬が緩む。こんな時でも随分と楽しそうだ。いや或はあれで真剣なのかもしれないが。

 

"そちらから制御を取り戻すことはできるか?"

"いや、難しそうだ。数ミリ秒ごとに特権を自動的に回復するプロセスがカーネルレベルで動いてる。物理的か論理的に回線を落とすしか対処のしようがない"

 

 同時にメッセージを送ったクルミからは、案の定の返答が来る。やはり事前の準備がなければ、如何なウォールナットとてこの場所からのすぐの対処は難しいか。

 

"あっちの攻撃用プロセスのメモリ番地を置換して、制御プログラムへの割り込みを実行することはできる。ただ時間がかかるうえに、処理の完了と同時に向こうからの干渉を完全にカットする手段が必要だ"

 

 しかしそんなこちら側の沈黙に何を思ったか、やや長文での対処法が返ってきた。これは、ムキになってるのか? いずれにせよ、指摘するのは野暮だろう。

 

"いや、それはいい。しばらく泳がせたあと、こちらで対処する"

"分かった"

"しかしそんな状況からでも対策を出してくるか。さすがは天下のウォールナット様だな"

 

 最後にそう、茶化してメッセージを送ってみれば。

 

"ウォールナットじゃない、クルミだ"

 

 しばしの沈黙の後に、そうとだけ、返信があった。

 

 

 車は首都高中央環状線の下道、つまり新荒川葛西堤防線をひたすら南下し続けている。時間帯が時間帯だからか他に車の姿はほとんどなく、事故をを起こすために派手な蛇行を繰り返すそぶりも今のところはない。予想される展開は、本来の目的地である葛西臨海公園の周辺、荒川の河口辺りで東京湾に車ごと突っ込む。そのあたりか。

 ならば好都合だ。こちらの本来の予定に、組み込ませてもらうとしようか。

 通りが首都高と袂を分かつ地点、上平井橋を渡りきったあたりで、僕は仕掛けた。

 まずは事前に掌握しておいた特権アカウントからオープンNICを切断する。それと同時に攻撃元ドローンのソースIPに対して偽のARP情報を送り付けるプログラムを手元のラップトップで起動、ハニーポットへのアクセスの誘引を試みた。

 そこからしばらくののち、手元で起動しているwiresharkがあちらさん(攻撃者)からのアクセスを確認したタイミングでNICを再度起動すれば、手当て自体は終了だ。クルミ宛にメッセージを送る。

 

"掃除は終わった。後はそっちから落ちてるプロセス立ち上げてくれ"

"了解。さすがの手際だな、隼矢"

"お誉めにあずかり恐悦至極"

 

 そして開けている音声チャンネル越しに、錦木さんたちに声をかけた。

 

「これで手当てできたと思うけど、そっちは大丈夫?」

 返答はすぐだった。

『うん、まあ大丈夫。じゃ、そろそろあれ、落としちゃっていい?』

 

 あれ、とは、ドローンのことだろう。事実上あのドローンは無効化されているに等しいが、彼女たちからしたら気持ちが悪いか。尤もあちらも、予備のドローンは恐らくどこかに確保している。ただ運転中のこの車に、もう一度とりつくことは難しいだろう。ならば、いいか。

 

「ああ、構わないよ。ただ一応だけど、やるなら迅速にお願いね」

『りょうかーい。……たきな、あれ撃てる?』

『分かりました。やってみます』

 

 そのやり取りの後しばらくして、対空レーダーから飛行物の反応が途絶した。井ノ上さんは、見事やり遂せたらしい。

 

「流石だね、井ノ上さん。さすがリコリコのスナイパー」

『……恐縮です』

 

 相変わらず澄ました声色で、井ノ上さんは短く言葉を返してきた。

 

 さて、あとは道なりに進んで、葛西臨海公園周辺で車を放棄する。そこからは、当初の予定通り進めれば、任務は完了だ。よし、と一つ頬を叩いて気合を入れる。

 ――最終幕だ。

 

 

 

 十分後。葛西水再生センターの裏手で車を放棄したウォールナット一行は、付近の様子を確認しながら対面のスーパーマーケット跡へと入り込む。やはりと言うべきか、あちらさんはこちらの動向をどこからか観察していたらしい。遥か昔に撒いたはずの追手の武装集団が、待ち伏せとばかりに辺りを取り囲んでいた。内部に突入する五人と、業務用出入口に向けて狙撃を狙う、残りの五人。理想的な配置だ。無論、こちらにとっても。

 

"業務用ゲート、狙撃手五人程度。死ぬにはうってつけだ"

"了解。ミズキのタブレットにも転送する"

 

 あとは、錦木さんと井ノ上さんが無事に切り抜けてくれることを祈るばかりだ。ミカさんに指示を仰ぎつつ行動する二人の様子を通信で横から聞きつつ、僕は無意識に指を組み、目を閉じた。

 そこから程なくして、戦闘が始まったようだ。通信越しには散発的な銃声と、その間を縫うような緊迫したやり取りが耳に入ってくる。それを聞くに、どうやら内部では防弾性なのをいいことに、クルミが入っているキャリーバッグを井ノ上さんが盾に使っているらしい。対物弾でもなければ貫けない剛性を持った素材とはいえ、中で銃撃を受け続けるクルミの心情は如何ばかりか。

 

"大丈夫だクルミ。そのお高いキャリーバッグを信じてくれ。君は死なない"

 

 ガラにもなく、そんなメッセージを送ってしまった。

 

"そりゃ分かってるさ、分かってるけど!"

 

 テキスト越しには感情は完全には伝わらないにせよ、なんとなく焦っていそうな空気を感じ取る。多分だが、今日の行程の中では一番命の危険を感じているのではないだろうか。

 兎も角、戦闘は続く。相も変わらず鳴り響くのは、男たちの呻き声に、相も変わらず断続して響き続ける銃声に、アサルトライフルのものと思しき、弾幕の音ばかり。しかし取り敢えず今のところはこちら側に被害はなく、相手は着実に一人ずつ無力化されているようだ。

 ならば、頃合いか。逆にこのまま二人が敵を制圧しきっては、「死に場所」を失うことになる。

 

"そろそろか"

"こっちもそう思っていた、ミズキにも頼んだ"

 

 それ以上の通信は、もはや不要だった。

 

 戦闘の音が止んで、暫く。目を灼くような日差しの中、廃スーパーの業務用出入口から一つの人影が出てくる。リスの着ぐるみ。ウォールナットだ。そして後ろから制止しようと前に出てくる井ノ上さんの姿が覗いた、次の瞬間。

 

 乾いた音、赤い飛沫、胸を押さえる、リスの着ぐるみ。奥で目を見開いた、井ノ上さん。そしてそこに続いた僅かの沈黙の、その直後。

 

 全力で掃射されたアサルトライフルの弾幕が、ウォールナットをズタズタに引き裂く。体の至るところから「赤」を撒き散らしながら、力を失った身体が、どう、と横倒しに倒れた。その隙間から、夥しい赤い液体が流れ出ていく。

 どこからどう見ても、それは「ウォールナットの死」だった。

 

 これにて、任務は完了した。後はミカさんが用意した偽装された救急車にミズキさん扮する「ウォールナット」を乗せ、現場から帰投するだけ。自分の仕事もここで終わりだ。

 

"任務終了。お疲れ様、クルミ"

"そっちこそ、見事だった。ありがとう、隼矢"

 

 ――さあ、リコリコに帰ろう。

 

 

 

「じゅ、ん、や、さぁん?」

 

 ばぁん、と。

 一足先にリコリコに戻り、一人カウンターでラップトップ向かいにデブリーフィングを行っていたところ、そんな派手に扉を開ける音とともに入ってきた錦木さんが、いやな笑顔を浮かべつつ僕に詰め寄ってきた。

 

「これはぁ、どういうことなのかなぁ~?」

 

 茶化すような、それでもどこか憤りを宿したような、それはどこかじっとりとした猫撫で声だった。

 一歩、二歩とこちらに近づいて、文字通り目と鼻の先で彼女は立ち止まった。いつもと違う謎の重圧が、僕を刺した。

 どうやら帰投中の車内で、今回の「任務」の仕掛け人について聞かされたらしい。騙される形になった彼女の怒りは尤もだろう。気圧されながらも、僕は口を開いた。

 

「――依頼主の安全のためだよ。一番スマートなやり方だと思った。僕の責任で、決定したことだ」

「だとしてもっ! ……どうして、最初に教えてくれなかったの?」

 

 一転して、拗ねたような表情を作る。

 詰るような声ではない。むしろそれは、どこか縋るような色を帯びていた。思わず僕の胸の内が、ずきりと傷んだ。

 

「だぁって、アンタ芝居下手じゃん」

 

 そこで唐突に、錦木さんの後ろから声がかかる。彼女は弾かれたように振り返った。

 僕もまたそちらに目を向ければ、そこには錦木さん以外のリコリコの面々が勢ぞろいしていた。

 今彼女に言葉を投げたのは、中原さんだろう。なにおぅ、と食って掛かろうとする錦木さんに、しかし今度は僕が声をかける。

 

「僕はそうは思わないけど……相手にバックアップ人員の技術者がついていることは、あらかじめ分かってたから。任務遂行の過程で、ちょっとでも不審な立ち居振る舞いが入る危険性は、避けたかったんだ。どこにでも監視の目がありうる。『ハッカー』を相手にするというのは、そういうことなんだ」

 

 振り返った錦木さんに、わかるでしょう? と言葉を継いだ。

 

「だから、事実を知っているのは、顔を晒さないで済む人員に限る必要があった」

 

 それは理屈だ。錦木さんにしても、反論は難しいだろう。

 だからこそ――僕はそこで頭を下げた。

 

「……でも、ごめん。ずっと黙ってて、騙すようなことをして」

 

 恐らくは錦木さんの、小さく身じろぎをする空気の揺らぎを、視界の外に感じた。

 

 申し訳ないことをしたという認識は、僕の中にずっとあったのだ。それこそこの「仕事」の前、大人組だけでブリーフィングを実施した時から、ずっとそうだった。

 何故ならこれは、騙し討ちにも等しい行いであるからだ。僕たちは彼女の根の優しさを利用して、その真実味のある反応から、「ウォールナット」の命を狙っていた者たちの疑いの目を躱すことを目論んだ。故にそれを敢えて、彼女自身には伝えなかった。

 

 たとえ必要に駆られてのことではあっても、信義には悖る行いだろう。だから僕は今下げた頭を上げることなく、そのままの姿勢でただ待っていた。彼女がいいというまで、僕は頭を上げるつもりはなかった。

 而してそこから数秒が経って、根負けしたような溜息の音と一緒に、僕の肩に手が置かれた。顔を上げると、錦木さんが困ったような表情を浮かべていた。

 

「そんな正面から謝られたらこっちもどうしていいか分かんないじゃんかぁ……ほら」

 

 そして、拳を突き出す。怪訝な顔をしていたのだろうか、僕の顔を見て、彼女は可笑しそうに笑った。

 

「あなたのおかげだよ、隼矢さん。みんな無事で、帰ってこれた」

 

 ん、と、もう一度拳を差し出してくる。おずおずと自分も握った右手を差し出せば、とん、と軽く、彼女の拳が僕の右手に添えられた。

 

「そう、か……そうだったら嬉しいな」

「ただし!」

 

 がしっ、と。差し出した僕の右手を掴んで、彼女は真剣な表情で僕に言った。

 

「一個だけ、命令」

 

 何だろうか。首を傾げた僕に、錦木さんは、ふわりと笑う。

 

「名前で、呼んで? 仲間なんだよ、私達。……いつまでも苗字じゃ、寂しいよ」

 

 それはいつもの彼女らしくない、柔らかく、湿った声だった。声にならない息が、漏れた。

 

「……ね?」

 

 上目遣いに念を押す彼女の姿に、心臓が跳ねる。

 数秒の沈黙が続いて、僕は結局、その首を縦に振った。

 

「……分かったよ。よろしく、千束さん」

「うんうんっ! 千束さんでっす!」

 

 本当に、彼女には敵わない。そう思わされたのは、もう何度目だろうか。そんなことを考えた。

 

 

 

 そこまでならば、綺麗に話が片付いたと言えるだろう。しかしこの場にはまだ、今日の一件に得心がいっていない者が残っていた。

 僕と千束さんのやり取りが終わってどこか緩んだようなこの店の空気の中、千束さんの後ろにいた井ノ上さん――たきなさんが、あの、と声を上げる。

 

「今回の任務のこともですが……やっぱり『いのちだいじに』って方針、無理がありませんか」

 

 えっ? と小さく声が漏れる。声の主が、千束さんが振り返ったその先で、たきなさんはさらに畳みかけた。

 

「今回、千束さんが敵の手当てをしているあいだに、ウォールナットさんが撃たれました。まあ作戦のうちだったみたいですが……でも、あの時きちんと二人で行動できていれば、こんなことにはならなかったはずです」

 

 相変わらず、鋭いところを突く子だ。まさしく僕は、或はミズキさんは、そこでリコリスの二人を分断することで今回の展開を実現していた。

 なるほど、聡明で有能なリコリスであることは確かなのだろう。内心でそう分析する。

 

「でもぉ、そうされたらアタシが困ったんだよねぇ」

 

 それに対しては、まずミズキさんが言葉を投げる。どこか混ぜっ返すように、茶化した口調だった。

 

「目の前で人が死ぬのをほっとけないでしょう」

 

 かたや千束さんはといえば、心底心外だとでも言いたげな表情でそう反駁した。「何を当たり前なことを」と、そんな台詞すらも言外に滲ませていた。

 

 でも、僕にはわかる。

 たきなさんが言いたいのは、そういう()()()なことではない。そんなことが知りたいわけではない。

 

「私たちリコリスは殺人が許可されていますっ! 敵の心配なんて……!」

 

 これは彼女がそもそもずっと持ち続けていた、このリコリコのやり方に対する疑念の発露なのだ。

 今回の一件が、つまりこの店の方針に限界があることの証左であると、たきなさんは分析したのだろう。

 

 敵の命の心配をするより先に、割り当てられた責務を完遂すべきだろう。

 自らのことを殺しにかかってきた相手の手当てに現を抜かして、護衛対象をみすみす死なせては、本末転倒も甚だしい。

 

 どれも、紛れもない正論だ。理は彼女にあると言ってもいい。

 だからこそ、現状はまずかった。たきなさんが今持っている、千束さんの、そしてリコリコの「仕事」の進め方への疑念がいつまでも解消されないと、そこには亀裂が生まれてしまうからだ。

 人間関係への悪影響も、もちろん懸念すべきことだ。しかしそれ以上に、たきなさんの中に増幅する解決されない不満が、千束さんとの間の「仕事に対する意識の持ち方」に更なる乖離を生じさせるリスクを、僕は危惧していた。

 それは今日以降の二人の「仕事」に際しての足並みを、間違いなく乱す。そしてやがては今日のような括弧つきの「失敗」ではない、()()()()()にすら至りかねない。

 

 ならば、それに対して手当てをするのは僕の仕事であるべきだった。今回の一件の筋書きを作って、彼女の、いや千束さんをも含めた動きを誘導したのは、他でもない僕なのだから。

 後始末をする責任は、他でもなく僕にある。「教育」という面においては、或はミカさんが言うべきことなのかもしれないけれど、それでも強い義務感が、僕を動かした。

 

 

 

「たきなさん」

 

 敢えて割り込むように、名前を呼ぶ。

 

「っ……なんですか、真弓さん」

 

 きっ、と睨むように、たきなさんが僕の方を向いた。

 

「今回のことだけどさ。……正直、あまり気にしないでほしい。もとから、君たちにはどうしても任務に失敗してもらう必要があった。下手にコトを巧く運ばれると困るから、ある程度ミズキさんには君たちの足を引っ張ってもらうように動いてもらったんだ」

「何を……」

 

 反駁しようとした彼女に、畳みかける。

 

「納得できない?」

 

 黙って、首が縦に振られた。そうだろうなと、一人頷いて言葉を続ける。

 

「だったら、だけど。……今回の『失敗』の原因を敢えて挙げるなら、それは『意識のずれ』だ。というより、僕は君たちのそこにつけ込んだんだ」

 

 微かな、息を呑む音が耳朶を打つ。それはたきなさんによるものか、或は千束さんのものだろうか。

 

「もう一回言うけど、どうしてもの理由だよ? これは。でもいざという時に何を優先するか、千束さんと君とでは、明確な乖離があったのは確かでさ。それは付け込むのに十分なポイントだった。咄嗟の判断とか、反射的に出る行動とか、そういうところでね」

 

 たきなさんは、押し黙ったままだ。しかし見ればその右手は固く握られていて、裡に抱える憤懣をこの上なく示していた。

 それでも、僕は言葉を止めようとは思わない。どうしてもたきなさんには、真の意味で納得してもらう必要があった。だから僕は今、努めて正論を語っていた。感情論ではない、筋の通った話を心がけていた。合理主義を地で行くような彼女には、そちらの方が適していると考えたからだ。

 

「その溝をどうしても埋めたいっていうのなら。結局、お互いを理解することから始めるべきなんだと思う。……『無理がある』って斬って捨てるばかりじゃ、何も変わらないんだよ、多分。今君がいるここは、千束さんの方針で動いてるんだから」

 

 つまりこれは、「チーム論」だった。

 リコリスは、平たく言えば「暗殺者集団」だ。故に普段の「業務」においては、個別行動を基本としている。しかしその中においても、チームプレイは、その心得は、時に必要となるものではあったはずだ。

 そういう意味では、僕が話していることは彼女にとっては釈迦に説法なのかもしれない。それでも敢えて今このことを口にする意義は、それを意識させる価値は、確かにあるはずだった。

 

「ちょっと、隼矢さん……!」

 

 千束さんが止めに入ろうと声を上げるが、僕はそれを片手で制止する。

 

「だからね、たきなさん」

「……はい」

 

 一歩だけ、進み出る。彼女の前に立って、僕は努めて優しく言葉を紡いだ。

 

「『馬には乗ってみよ、人には添うてみよ』って。……つまり、まずは千束さんと仲良くなることを、考えてみたらどうだろう。そこから見えてくるものも、あるんじゃないかな」

 

 顔を上げ、目を見開いて、たきなさんがこちらを見る。

 

「だって、さ。分かり合うことって、とっても大事なことだよ。人間は、感情の動物なんだ。理性で人は動かない」

 

 瞳が、揺れる。握りしめられた拳から、力が抜けた。

 

「でも、まあ。そういう意味じゃ、二人は今でも結構いいコンビだけどね。……そもそも今回だって、思ったより二人がテキパキ敵を片付けるもんだから、こっちはヒヤヒヤもんだったんだよ。このままじゃ、護衛が『成功』しちゃう、って」

 

 ね、とミズキさんに目配せをすれば、彼女もまた苦笑しつつもうなずいた。

 

「そう……でしたか」

 

 ようやく眉間の険が取れたたきなさんが、そう言葉を漏らす。

 ならば、頃合いだろうか。今度は千束さんにちらりと目線を向ける。そうすれば彼女は委細承知とばかりに頷いて、そしてたきなさんの方を向いた。

 

「そうだよぉ? だから私も、たきなともーっと、仲良くしたい、ぞっ!」

 

 そのまま、横からたきなさんに向かって飛びつく。うわっ、と声を漏らしつつ、彼女は突っ込んできた千束さんの身体を受け止めた。

 横から覗いたその顔は、ちょっとだけ迷惑そうで――それでいてとても、穏やかな笑みだった。

 

 

 

 斯くして、完全にとはいかないまでも、今回の一件における蟠りは幾分か解消された。

 その後千束さんとたきなさんのコンビは夜営業のための買い出しのために店を離れ、一方の僕はバックヤードに引っ込んでいた。こちらもまた、夜営業の開店準備に向けての作業を始めるためだ。

 手始めに座布団を引き出すべく、押し入れのある奥間に向かう。無人の部屋だ、何の遠慮も要らないだろうと、何の気なしにそこへと入り、そのままの流れで押し入れの襖に手をかけた。

 

 

 

 そして僕はそれを開け放って――しかしそこに、何かがいた。

 

 いや、それはよく見ればクルミだった。押し入れの上段を占拠して、彼女は勝手にパーソナルスペースを作っていた。

 

「おお、邪魔してるぞー、隼矢」

 

 驚愕に言葉を失った僕を尻目に、彼女はなんでもないことのようにひらひらと手を振り、言葉を発する。

 

「あ、え、いや……いやいいんだけど、クルミ、君いつの間に……?」

「ああ、アイツらが表口から入る間に、ボクは勝手口から入ったのさ」

 

 ――ほら、荷物があるだろう?

 そう相変わらず飄々とした口調で宣う「天才ハッカー」様に、僕は何だか毒気を抜かれてしまった。「あ、そう」、と目をぱちぱちさせる僕に、クルミはいたずらっぽく微笑んだ。

 

「まあ、なんだ。これから暫く、ボクたちは『相棒』さ。よろしく頼むよ、隼矢」

 

 その言葉と一緒に、右手が差し出される。

 とても小さく、捻ったら簡単に折れてしまいそうなその掌は、しかしその実、世界すらも操りうる、魔法の杖だ。改めて、目の前の少女を味方につけられたことへの達成感が、自分のうちに湧きあがる。

 その気持ちをそのままに、差し出された手を握りつつ、僕も笑って、言葉を返した。

 

「――ああ、よろしく、クルミ」




2023/2/19 一部改訂
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