選び取ったのは、新たな未来。
地図すらない、それは未知の世界でも。
その中、ひたすらに進み続ける。
前へ、前へ、ただ前へ。
道は、もはや後ろになどありはしないのだから。
2023/8/29 全面改訂。
Apdx.03-01
何一つとして障害物のない虚ろなる部屋の中、ドアの傍にじっと身を屈めて、息を潜める。
今相対しているのは、たった一人の
これまで何度かの交錯をぎりぎりで凌ぎ、正面から捕捉されないように攪乱に攪乱を重ねてどうにかこの場所へ潜り込めたとはいえ、しかしこの扉の外、廊下からこちらの気配を探っているであろう
更に言えば、敵の探知能力はこちらのそれよりも優秀ときている。反射神経もそうだ。まあそれは
ならば今、お互いの聴覚のみが探知の手掛かりになっているこの時だけが、こちらから局面を動かせるほぼ唯一の機会だった。
ポケットの中から、替えのマガジンを取り出す。その中に装填された弾丸を一つだけ抜いた。手のひらに握りしめ、大きく振りかぶる。
そしてこの部屋のもう一つの扉、半開きになっているそれへと向けて、思い切りよく投擲した。投じられた弾丸は、果たして真っ直ぐに向こうの扉めがけて飛んでいく。
その瞬後、この空間の中に、軽い、乾いた金属音が響き渡った。弾丸が衝突し、そして床に落ちる音だった。
さあ、あとは二つに一つだ。敵の足音の方向を判断して、どちらに向かって歩を進めるかを判断する。音につられてその方へと歩くか。或はそれをこちらの誘導と断じて、この部屋、こちらの扉に向かって進んでくるか。
一秒経ち、二秒経つ。音は聞こえない。しかしそこから更に三秒ほどの後、微かな音がした。
足音だ。耳を澄ませれば、それは次第にこちらへと近づいてくるようにも聞こえた。
なるほど、馬鹿正直に音の発生源へとは近づいては来ないというわけか。しかしそれならそれで、やりようはある。
すり足で、扉の前から移動を始める。伏せていた扉から離れ、もう一方の扉へと歩を進めた。向こうも足音を最大限抑えての移動ならば、直線距離で短いこちらの方が先に反対の扉へと到達する。
目当ての扉に辿り着いた僕は、静かにそれを押し開きながら廊下へと出て、敵に先んずる形で再び身を潜めた。
そしてそのしばらく後、金具が鳴る音が聞こえた。先ほどまで僕が潜んでいた向こう側の扉の、そのドアノブに手がかかった。つまりあちらは今、間違いなくあの扉の前にいる。
この部屋につながる扉は、全て外からは引き戸となっている。中に入るには一度身を晒す必要があるということだ。だから狙い目はそこか、或はクイックピークの姿勢で侵入する瞬間の、入り口の縁あたりになるか。
ともあれ、敵は手練れだ。扉を開け放つ瞬間を狙うのは、難しいかもしれない。ドアノブの付近、中央やや下に向かって慎重に照準を定め、息を殺してその時を待つ。
しかし、その時は訪れない。目の前の扉は、開かなかった。そのまま十秒ほど待っても、なお。
――なにかが、おかしい。
しかしそう思った直後、強烈な危機感が身体を支配した。屈んだ姿勢のまま、全力で室内へと飛び込む。
その直後、破裂音を聞く。銃声だ。僕のさっきまでいた場所の、
敵の攻撃だった。
何故、と思うよりも先に身体が動く。それは
小柄な、黒い影だ。真っ直ぐに突っ込んでくる。瞬後に構えたこちらの銃が放った弾丸は完全に空を切り、しかしその反動を制御するよりも先にこちらの懐を射程に収められた。
強烈に、
徒手空拳の心得はない。ともかくも、仕切り直す必要がある。しかし逃げ込んだ先、もう一方の扉は締め切られていて、僕の背後にはもはや退ける場所などないことを否応なしに理解した。
果たして、着地姿勢のまま素早く身体を翻した眼前の敵はこちらの反応速度を圧倒的に上回る機敏さで再び懐へ迫り、而して僕は胸元を掴まれた。
一瞬の浮遊感ののち、衝撃が襲う。
背中を強かに床へと叩きつけられた。肺から空気が押し出され、呻き声が漏れる。手足までが痺れるように痛み、意識に一瞬だけ、空白が生まれた。
そして次の瞬間には、死の象徴、黒い銃口が、僕の胸元へと突き付けられていた。その向こう、
「途中までは、悪くありませんでした。遮蔽物を利用して耐久を図る。こちらの動線を制御しつつ、逃走に使う体力を温存する。こちら側の索敵を、音を使って妨害する。さすが、いつも私たちの作戦を立案しているだけのことはあります」
腰まで及ぶ、長い黒髪。
「しかし忘れていませんか? あなたにはまだ、現場での戦闘勘というものはありません。集中しながらも同時に周囲に気を配るようなことができない以上、『当て込み』で逆撃を目論むのは危険です。
菫色の瞳に、怜悧なる美貌。
「とにかく、チェックメイトです。……生存時間、十二分四十八秒」
向けられた銃口、引鉄はあっけなく引かれ、そして僕の胸には
斯くして僕は、目の前の少女――たきなさんに
それは今日、キルハウスでの
Appendix 03. Plvs Vltra
事の起こりは、一か月半ほど前にまで遡る。ハワイでの一か月の旅行から無事帰還した僕たちリコリコ一同は、日本へと戻った二日後には店としての営業を再開させた。一月もの間店を留守にしていたこともあって、常連客たちは僕たちの帰りを心待ちにしていたらしい。帰国後の開店初日から、客の入りはいつにもまして多かった。
いつぞや購入したものの、物珍しさばかりが先行してあまり使われることのなかった接客ロボットすらも久方ぶりに動員され、そして最終手段としてクルミまでが駆り出される、それは多忙さの極みとも言えた。
そしてそれから数日後の月曜日、僕は背広へと袖を通していた。これもこれで、大概に久しぶりのことになる。
理由は単純だ。その日、僕は本庁へと呼び出されていた。それは年度初めの辞令発出を受けるためであり、そしてそれと同時に、直属上長――つまり係長との面談のためでもあった。
受ける辞令の中身など、今更言うまでもない。つまりその日が、公安という組織の公的な身分保障のもとで、僕が喫茶リコリコの一員になる初日だった。
それは確かに区切りではあるのだろう。とは言えど、それによって普段の日々の何かが劇的に変わるというわけでもない。
それよりも、今の僕には意識すべき環境の変化というものがあった。
すなわち、千束のことだ。
ハワイ旅行の最終盤、星明かりの照らす夜に、僕は自らの想いを伝えた。そしてそれは、彼女の
そんな千束から、僕はある誘いを受けていた。
――今週の金曜、泊まりに来てほしい。言うまでもなく、千束の自宅への招待だった。
いや、その捉え方は正確ではない。彼女がこれから先、毎週末の二日を二人で過ごしたいと、寧ろそれをこそ僕に望んでいることははっきりしていた。
千束は、僕とのこの先のあり方について明確な変化を求めている。いずれ迎える未来に向かうため、その階梯を登らんとしていた。
僕たちの先に待つ開けた展望を、だから彼女はきっと確信している。そして僕も、そうであるはずだった。
しかしその日、上長との面談の中で、僕は現実を知ることになる。
齎された深い悩みは、それからの僕に一つの選択と、そして決断を強いた。
すなわちそれは彼女との、千束との未来の前に横たわる、目を逸らすことなど許されない大きな課題の存在を、眼前に突きつけるものであったのだ。
本庁へと足を踏み入れるのは、凡そ一年ぶりのことだった。
居室に入ればすぐに、いつもとは少しばかり違う部屋へと僕は案内された。普段使いの面談室よりも更に秘匿性を確保すべく、防音設備の完備された部屋だ。
そしてその中、直属上長たる係長は、僕に対する二つの用件をもってこちらと相対していた。
まず一つ目の用件として、彼は手に持つ辞令を僕に手渡した。そこに書かれている内容は、内示書と変わらない。ちらとだけ確認し、受け取って、机に置く。
言うまでもなく、これは儀礼的なものだ。彼としての本題ではない。僕にとってもそうだった。
そういうわけで、それからすぐに着席を促された。その続きこそが、彼が僕をここに呼びだした本題でもあるからだろう。
お互いに腰を落ち着け、しばし歓談する。
言及するのは去年十一月、延空木での一件のことについてだった。あの中で起きた顛末も、そして結果として療養生活に入ったことも当然に彼は知っていて、それについての労をねぎらってくれた。同時に彼は、その中における僕の貢献を大いに評価した。武器取引事案に端を発し、地下鉄での擾乱を経て、延空木占拠事件によって終結した一連の事案に対する働きは、言葉を尽くしてでも賞すべきものだろうと。
恐縮しきりな僕だったが、彼はそこでにこやかだった表情を改める。
「まあ、今の君の立場でここまで重大な事案に深く関わったのは、今後のキャリアにとっては大きいだろう。……さて、本題に入ろうか」
そこで一つ呼吸をして、彼は居住まいを正した。
つられて背筋を伸ばした僕を見据えて、今一度その口が開かれる。
「去年、本来半期ごとに実施する定例面談ができなかったから、これはその分を含めた面談でもある」
そう前置いて、彼は僕に一つの事実を示した。
「辞令の通り、君は今年度から昇任となっている」
「ああ、そうだったな」、と言うのが、正直な感想だった。
言われてみればその通り、二十四歳の年度となる今年、つまり入庁三年目の四月は、所謂「キャリア」や「準キャリア」組にとっては昇進の時節だ。
これは公安警察という、ある種浮世離れしている組織においても変わることはない。任用の経緯はともかく、僕はこの職場には準キャリア相当の立場で入庁している。つまり年度始まりのこのタイミングで、僕はそれまでの巡査部長という職位から警部補という立場へ、一つのステップアップを果たしていた。
「よって君は今年、役職としては主任となる。つまりまた一つ、君は責任を負うことになるわけだ」
係長の言葉に頷く。思い起こすのは先日、一月の中旬ごろに実施された、関係各所との意識合わせのことだ。
僕はその場に、DAとの交渉の矢面に立つ人員として参加していた。その時こそ今年度の仕事を円滑に進めるための顔つなぎとしての意味合いだとばかり思っていたが、今の話から考えてみればそれは、今年度から新たな立場を得てより大いなる責任を組織に対して負う人員としての自覚を、僕に促すものでもあったのだろう。
自分に課された役割と、それがもたらすであろう重さへと思惟を巡らせる。それでも目の前に座る彼は未だこちらを真っ直ぐに見ていて、更に何か言わんとしていることも理解していた。
だから僕はそれをじっと待つ。果たして彼は今一度口を開き――そこに飛び込んできたのは、予想の遥か外にある言葉だった。
「まあ、そういうわけで、だね。これは去年できなかった話なわけだが、このタイミングで一度、確認しないとならないことがある」
一度言葉を切って、彼は身を乗り出す。気持ちほどではあるが、その声が潜められた。
それはあまりに突然のことで、僕は思わず身構える。けれどそんなものは、きっと何の意味をも齎さなかった。
そしてそこから彼が発したある一つの問いこそが、ここから僕が抱えることになる大きな悩みの、その端緒となった。
四月の街を行く人は、装いに冬と春が入り混じっている。気温はそろそろ二十度を超える日もちらほらと出始めているが、感じる温度は人それぞれ、ということなのだろうか。
されど今僕が揺られている地下鉄の中からは、外の空模様など窺えはしない。窓ガラスを見ても、そこにあるのは反射して浮かぶ自分の顔だけだ。そしてそれはただどこまでも沈んで、翳って見えた。
ついさっきまで続いていたやり取りの内容を、思い返す。
それは全く意味の分からない問いから始まった。
――
あの店は相当な女所帯なのだから、そういうことはあってもおかしくないのではないか、などと、そんな理由までつけて、確かに彼はそう問うてきた。
「あの、それって、セクハラとかには当たらないのですか?」
そう問い返した僕のことを、きっと誰も責めるまい。いくら職場の上司でも、部下のプライべートに口を出す権限など、あるはずがないのだから。
けれど僕は知らなかった。僕が今所属しているあの組織に、そんな常識などありはしない。
彼は言う。一般に警察官という身分は、保安任務を主とする以上、その活動に関する機密は厳として守られなくてはならない。特に公安のような秘匿性の高い任に当たる人物は、猶更のことだと。
そしてそれは、私人としての関係にも及ぶ。いやむしろ、本来私人として
故にこそ、警察官はその私人としての人間関係も、ある程度の秩序によって制御されなければならない。考えれば、それは当然だった。
そんな長尺の説諭の結びに、大きなため息が聞こえた。そして今一度、その口が開かれる。
初めから伝えておくべきだったな。そんな悔悟の台詞と一緒に、彼は、係長は、今一度の問いを発した。
「つまり、いるんだね? あそこに。君と、その……交際関係にある、女性が」
否、これはもはや事実の確認に過ぎない。
だから僕はそれに、ただ頷いた。そうせざるを得なかった。
錦糸町駅に近づきつつある地下鉄の車両の中で、僕はまたため息をついていた。
思えば、随分と滑稽な話だ。
はっきり言おう。僕は警察官としての自覚に欠けていた。主観的にどう思っていようが、客観的に現状を見れば、それが事実というものだ。
それを弁疏することは、確かにできる。つまり、そもそもにして僕の任用ルートとは、必ずしも警察ないし公安への所属を主眼に据えたものではないのだ。どちらかと言えば内調が主導となって進められていて、僕の現行の配属は正直なところ結果論だった。言い換えれば僕のキャリアパスというのは、省庁による縦割りが当たり前の日本の行政組織の在りようを打破する嚆矢として期待されていたわけだ。最低でも、当時学生だった僕に声をかけに来た内調の人間は、確かそのようなことを言っていたはずだった。
故に僕は、確かに「準キャリア」としてこの組織に配属されているものの、それでも本来
しかし、だ。そうであったとして、それが一体なんだというのか。そんな言い逃れで現状がなかったことになるのであれば、誰も苦労などしないだろう。
そしてその不覚悟の代償は、或は
それでも、僕は幸運だった。今僕が共に生きることを選んだ少女の、千束の身代が
リコリスとは、僕たちにとって見ればその出自が最もクリアな存在だ。元々が身寄りのない孤児である彼女たちは、しかしその背景も半生も、いやその存在ごと「漂白」されて、「彼岸花」の肩書を与えられる。結果的にその身元保証人になっているDAという組織は、自らの厳しい管理体制によって、彼女たちの純粋さを何よりも証明しているわけだ。その道から逸した存在を、決して許しはしないが故に。
そういう意味では千束はその身に少しの危うさを抱えてはいるのだろうが、しかしそんなことは
公安警察官と、DAのリコリスという組み合わせに尋常ではない奇異さを覚えはしようが、最低でも内々の監査基準において、僕の申告には問題はない。そう、上長はその場で結論づけた。
とはいえ、そこには多少の恩情もあったのだろう。その代わりだろうか、彼は僕に一つの忠言をした。
――これからDAとの交渉や協力の矢面に立つ君が、リコリスと
それはそんな言葉だった。つまり、身の振り方に気をつけろと言うことだ。意味することは、さすがに分かる。
錦糸町駅の外に出る。時刻は未だ十二時になるかどうかというところだった。
当然と言えば当然だ。面談には二時間も三時間もかからない。退庁したのが十一時ごろだったことを思えば、これでも随分とゆっくりした行程だった。
まずは家に帰って、それからどうするのがよいだろうか。一度着替えはするけれど、そのあと僕は果たして、リコリコに行くべきなのだろうか。どうにも悩ましかった。
進む足は、はっきり鈍っていた。後ろめたさや申し訳なさ、先行きへの不安に、ざわつく胸が抑えられない。
何かから逃げるように辺りを見回せば、行く道の右手に桜並木が見えた。錦糸公園だ。そろそろ満開を超えたその花弁は風に散って、空に吹雪を作っている。
それに思わず目を奪われて、気づけば僕はふらふらと、そちらの方に歩を進めていた。
中へ入って、手頃なベンチに腰を下ろす。眼前には一面の桜を望み、足元の芝生の緑と交ざり合うその薄紅色が、どこか酷く目に沁みた。
世はなべてこともなし。子供の無邪気な笑い声さえも、遠くに聞こえる。その光景をぼんやりと眺めながら、また一人、思惟へと沈んでいく。
それまでの話は、どこまでも過去への懺悔だった。僕の無思慮が齎した不始末の話でしかない。でも、僕はそうであっても、今の自分の選択を決してなかったことにはできなかった。したくなかった。
理由など、問われるまでもない。あの日あの夜延空木の上で切った啖呵も、そこに至る決意だって、全ては千束と出会って、その希うところを、志を同じくしたが故に持てたものなのだ。
故にその地続きにある彼女との「誓い」は、絶対に棄てられなかった。それを棄ててしまうのは、僕の今までの歩みそのものを否定するに等しかったから。
だからこそ、
つまりそれは、未来についての話だった。
――君は、その子と添い遂げようとしているのか。
そのはじめ、問いの形で投げかけられたものは、その実質としてはやはりというか、確信に近い言葉だった。もしかしたら彼は僕の面持ちの中から、裡に抱える心情を見分けたのかもしれない。
頷けば、そうか、と呟く声を聞いた。
「リコリスには戸籍がないと聞くから、君たちがどういう形でその在り方を選ぶのかまでは、今は聞かないことにする。どうにかして入籍まで持って行くつもりなら、それはそれで踏まないといけない手続きがあるんだが……まあ、いい」
そう前置いて、しかしそこからが本題だった。
「リコリスが引退したあとの身分保障が、どうなっているのかは知らないが。ただ
頷く。そこまでは当然に、固より覚悟の上だった。DAを対手とすることを決めたあの時、僕はその一生をかけてでもあの組織と向き合い続けることを心に決めたのだ。仮令
「なら、いい。ただ、そうだとしても――」
けれど、それだけでは足りなかった。選んだ道の先に起こりうる可能性を、彼らと相対する上で
彼の一言が、それを僕に自覚させた。
「
それは本当はどういう意味合いのものだったのかはわからない。僕の受け止め方は、彼の言わんとしたこととは違ったのかもしれない。
でもそれが、きっかけとなった。
瞬間、延空木の上、展望デッキの記憶が舞い戻る。
一面に広がる赤色と、噎せ返るほどの死の匂いが立ちこめるただ中に、僕は身を横たえていた。燃える痛みに視界が霞んで、しかしその知覚すらも、輪郭を失ってゆく。
それを見下ろす千束が、必死に僕に呼びかけている。悲痛なまでの表情で、辺り一面にもその声は響き渡っていた。けれどそれすらも次第にぼやけ、滲んで、僕は寒さの中に、ただ墜ちていく。
その始終が、脳裏に鮮明なまでに浮かび上がった。
もう二度と、あんなことは繰り返したくない。千束を悲しませたくはない。これ以上、あの子に心の傷を刻むわけにはいかない。
けれども、それがこの先永劫に起こらない保証など、どこにもありはしない。あの組織と仕事をするその限りにおいて、彼らの振りまく血と硝煙に塗れた火の粉は、僕にもまた降りかかり得るものなのだから。
なら、今の僕では、何の力も持たない僕では、またあんなことが起きてしまったら、きっともう
いや、それで僕が斃れるだけならば、それでもまだマシな方なのかもしれない。
もし僕の無力が原因で、千束の足を引っ張ることになったら。それのせいで彼女の身に取り返しのつかないことが起きでもしたら。
それを考えるだけで、気が狂いそうだった。先に立たないのが後悔だというのであれば、それが起こってからでは、もう遅いのだ。
故にこの胸中を支配しているのは、きっと恐怖だった。そしてそれが、一つの渇望へと結実する。
――力を持たなければ。戦うためとは言わずとも、抗うための力を。
でもそれをどのようにして成すのか、それを成すのが正しいのかすらも、今の僕には判断がつかなかった。
認識が、心情が、あの面談室の中の時間から立ち戻る。気づけば僕はいつの間にか俯いていて、自らの手で顔を覆っていた。それを取り払いつつ、身を起こす。
見渡す街は相も変わらず穏やかで、憂いの一つすらも見当たらない。春の微温なる風が肌を撫でていき、揺れる桜の木の枝からは花弁が舞った。
しかしそれを目の当たりにしてもなお、僕の心には焦燥ばかりが渦巻いていて、消えることなどなかった。
――取り敢えず、帰ろう。それで、一度リコリコに寄ろう。昼時だし、ついでに賄いでも貰いに行くのがいいだろうか。そんなことを考える。
ついさっきまで行こうかどうか散々に迷っていたというのに、今は無性にあの場所が恋しい。裡に蠢く不安が、今の自分を衝き動かすものの全てだった。
座っているベンチから立ち上がる。その勢いのままに空を見上げれば、視界いっぱいのそれはどこか薄雲に霞んでいて、それでも更に奥にある蒼色を、奥ゆかしくも覗かせていた。
頭を振る。立ち止まっていても、何も始まらない。足早に公園から立ち去って、一路自宅へと歩き始めた。
胸中の焦りは未だ晴れるはずもなく、街の陽気とは裏腹に、その心象はどこまでも寒々しかった。