世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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2023/8/29 前話と合わせて前半部分を改訂。話の整合性を前話と合わせているので、やや流れが変わっています。



Apdx.03-02

 自宅で一度私服に着替えてからリコリコに立ち寄ったそのとき、時間が時間だったからか店の中に客の入りはなく、千束はたきなさんと一緒に外回りに行っていて、リコリスの二人はそこにいなかった。ミズキさんは相変わらずカウンターでくだを巻いていて、ミカさんは思ったより早い僕の帰りに驚きつつ、賄いを出してくれた。

 全く以てそれはいつもの風景で、それでも僕の心中は何も変わらない。この場で相談を持ち掛けようかとよほどに思ったが、どうにも踏ん切りがつかなかった。軽々に決めていいことではないように思えたからだ。

 

 故に心の中にある悩みには何の解決も与えられることはなく、はっきり言って僕はその夜、まともに眠ることなどできなかった。

 

 そしてそのまま、夜が明けた。

 眠気の残る重い頭をなんとかもたげて、リコリコにまた足を運ぶ。その日はいつもの通り、店で働くことになっていた。

 しかしその途上にあっても、ずっと僕の心の一角にはかの懸案が居座ったままだった。時間で解決する類のものでもなく、いやむしろそれが生み出すじくじくとした痛みのような焦燥は、次第にその大きさを増しているようにすらも思われた。

 

 幸いにしてこの日は、月曜日とは裏腹に客の入りが多かった。先の週末とほぼ変わらないほどの忙しさに僕は没頭して、その間だけはそれについて考えずに済んだ。DAが行った「処分」に関する報告もなく、僕はただの喫茶店の一店員でいることを許されていた。

 さしあたっての話ではあるものの、今のところのこの国は真の意味で平和なままであって、だから僕の恐れが形を持つようなことは、暫くの間はないのかもしれなかった。

 

 でもそれがいつまでも続くわけではないことは、身に沁みて分かっている。今の在りようは、ただ問題を先送りしているに過ぎない。独力では解決の糸口すらつかめないそれをいつまでも裡に抱えていても、何かが変わるはずもなかった。

 店員としての仕事にも、そのほかの()()にだって、それはいずれ差し障る。避けなければならないことだった。

 

 そう考えれば、結局僕にできること、やるべきことなど一つしかない。

 誰かに打ち明けて、相談して、助力を請う。昨日はついぞ踏ん切りがつかなかったが、そうしなければ先には進まないのは明らかだった。

 そもそもの話、自分だけでは解決できないことに他人の力を借りて当たるなぞ、当たり前のことだ。これまでの一年だって、僕はずっとそうしてきたはずだった。たとえそれが、僕一人に帰するようなあまりに卑小な問題だとしても、その本質には何の違いもあるはずがない。

 

 ただその一方で、この話はこれまでのように、 あの奥間の中で(クルミと)するべき性質のものではないだろうとも僕は考えていた。

 彼女は、クルミは、確かに今まで何度もその命の危機をくぐり抜けてきた。それでもその本質とはどこまでも()()で、誰かと共に生きることを指向などしていない。僕と同じ悩みを持ったことはきっとなく、それに与えるべき答えも、恐らくは持ち合わせていないに違いなかった。

 

 ならば自ずと、歩むべき道は定まる。共に歩むと決めた誰かが、千束だというのであれば。

 僕は内心で静かに、それを心に決めた。

 

 

 

「……それで、終業後に相談がある、とのことでしたが」

 

 いつもであれば、閉店作業を終えたこの時間、住みついているクルミを除けばこの場には誰もいないのが通例だ。

 ただ今日ばかりは違った。このがらんどうのホールの中には、僕のほかにもう一人の姿がある。

 その彼女――つまり()()()()()は、その怜悧な瞳に疑問の色を浮かべて、今も僕と見合っていた。

 

 珍しい取り合わせだというのは、間違いではない。けれども、これを話すのであれば彼女しかありえないと、そう思っていた。

 自らの立場を擲ってでも千束を救うことを選んで、そして千束の方からも「生涯の相棒だ」と言われた彼女ならば、僕が抱えるこの悩みに対する答えを何か持っているような気がしたのだ。

 故に今日、僕は彼女を呼び止めた。閉店作業のあと、少し話がしたい、と。

 

 

 

 多少、話が長くなる。そう言ってカウンターに彼女を誘い、横並びに二人腰掛ける。そして続きを目で促した彼女に、僕は抱える懸案について洗いざらい話した。

 それは昨日の面談の中でのやり取りから始まった。その中で自覚させられた己の思い違いを、まずは懺悔する。

 しかしそれは前座に過ぎない。彼女からすれば僕たちの組織(公安)のガバナンスにまつわることなど、必要な情報でもないだろう。尤も、彼女は多少は興味深そうに、そしてどこか共感すらも持って、僕のその辺りの事情に頷いてはいたけれど。

 そしてそこから、僕はあの時に引き出された焦燥を、そしてその源泉であるどうしようもないほどの恐怖までも、その何もかもをぶちまけた。いつかの延空木の幻影と、そこに懐いた痛みさえも、隠すことなく。

 

 明け透けに過ぎただろうか。情けない弱音だっただろうか。その全てが終わったあと、たきなさんは目を瞑って、しばし俯いた。

 互いに何も言えず、時だけが過ぎる。それからどれほどが経ったか、彼女がつと顔を上げた。

 

「……なるほど。あなたの言うことは、少しは分かります」

 

 そう言って、しかしその目線は僕と合わない。

 

「私も、結局千束には守られてばっかりです。私はセカンドで、千束はファースト。そういうこともあるでしょうが……でもそれ以上に、千束はあまりにも()()

 

 それは物理的なものだけを指しているのではないだろう。固より、僕と彼女は同じところを見ている。同じ思いを抱えているのだ。それぐらいのことは分かった。

 自嘲気味に首を振って、息を吐く。そして、たきなさんは僕を目を合わせた。

 

「ですが、隼矢さん。あなたは、私とは違うでしょう」

 

 その目が、どこか咎めるように眇められる。

 

「この間の延空木の話なら、あれは、隼矢さんが無策のままに一人であそこに行ったから起きたことです。そうではありませんか?」

「それは――」

 

 それは、確かにそうだった。しかしそれだけではないのだ。そう反論しようとするも、たきなさんのほうが一歩早く言葉を継いだ。

 

「私は。いえ、千束もですが。あの時のことに関しては、正直まだ怒っていますよ。二度とあんなことはさせない、絶対に。……千束が、言ったんです。もし次あんなことをあなたがしようとしたときには、『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』、って」

 

 喉の奥で、呻きが漏れた。それは間違いなく悔悟によるものだっただろう。向けられた視線には、怒りの色すらも見える。

 あの千束に、僕はそこまで言わせたのだ。そういう精神状態に、させてしまったのだ。

 確かにあの時はそれしかないと思ったし、それはともすれば不可抗力だったのかもしれなくとも、千束をそうしてしまった責任は間違いなく僕にある。退院の日から始まって、今もなおどこか感じる千束の「不安定さ」を生み出したのは、まぎれもなく僕だった。

 

 それでも、どうしても引き下がれなかった。なぜなら今の彼女の怒りと僕の焦りは、表裏一体のものだから。

 僕だって、もう二度とあんなことは起こしたくない。けれどそれを選ぶ権利は、今の僕にはないのだ。

 何の力も持たない、今の僕には。

 

「それは、本当にごめん。僕が間違ってたし、反省もしてる。……だけど」

 

 目を伏せながらそこまで言って、そして顔を上げる。相変わらずの鋭い目つきで、たきなさんは僕を見ていた。

 

「絶対なんか、ないんだ。何かがあった時、僕はあの子の『弱み』になってしまう。例えば千束が孤立するか、僕が孤立するか。()()の最中ならそんな状況、いくらでもあるわけで」

 

 分かるだろう、と問う。それでも、彼女は首を振った。

 

「なら、そうならないようにすればいいんです。例えば千束がいない間、私が隼矢さんの側にいれば――」

「それじゃ意味がない」

 

 発された反駁を、斬って捨てる。それはわかりやすく苦しい理屈だった。目線を逸らしたたきなさんに、追い打ちをかけた。

 

「……君は千束の相棒だろうに。僕のことを優先して、どうするっていうんだ」

 

 彼女は、答えなかった。

 

 そして僕の方も、今更ながらに考えが至っていた。

 顧みれば去年一年間のこの喫茶リコリコは、はっきり言って()()()()()()。去年の一連の事案において、ここが襲撃されるような事態に見舞われなかったのだから。

 リコリコを一つの「戦術ユニット」として見たとき、リコリスの二人組が出払ったあとのこの店は、その柔らかい下腹にも等しい。たきなさんと千束、そして本当の奥の手としてミカさんが戦えるぐらいで、それ以外の三人はまともな戦闘能力など持っていないのだ。当然と言えた。

 そしてもし僕がこの店と明確に敵対するならば、そこを衝かない手はない。あの真島にしても、彼がもしこの店の存在を認知していたら、手勢を率いてここを急襲しに来ることだって十分にあり得たのだ。いつか押上署を襲った時のように。

 

 或はたきなさんも、その事実に思いが至ったのかもしれない。互いに何も発さない沈黙の末、彼女は片頬に手を当てて溜息を吐いた。そのまま、口を開く。渋々といった風情だった。

 

「……言いたいことは、理解しました。つまりあなたは不測の事態に備えて、必要最低限の戦闘能力を獲得したい。そう考えている。と、いうことですね?」

 

 黙って頷く。まさしくそれこそが、今回の相談の主眼とするところだった。

 

「分かりました。……念のため確認ですが、店長に相談しなかった理由はなんです? あの人はDAの戦技教官でした。あなたの目的には、店長こそが合致しそうなものですが」

 

 頷き返し、続けられたのは、当然に訊ねられるべきものだった。

 僕もそれを、慮外に置いたわけではない。ただそれでも、選べなかった。

 理由は、一つだ。

 

「僕もそれは、一瞬は考えたんだ。けど……」

「けど、なんです?」

 

 言い淀んだ。なぜならそれは、ともすれば信義に悖る理由だからだ。

 それでも、嘘はつけない。疑り深げな目線を受けて、僕は観念した。

 

「……()()()()()()()()()()()()()

 

 たきなさんの目が、細められた。

 

「理由を、訊きましょうか。というか、どうしてそれが店長に頼めない理由になるんです?」

 

 一段、声が低くなる。当然の反応だった。

 一つずつその理由を、根拠を、詳らかにしていく。

 

「あの人は今、店に常駐しているから。定休日だってそうだ。だから例えば僕への教導のために店を頻繁に空けるようになれば、怪しまれる。去年、吉松とあの人が会った時だって、ああだったんだから」

 

 腕を組む。少しして、彼女は頷いた。

 

「まあ……それは確かにそうかもしれません。で? 千束に知られたくない理由は、なんです?」

 

 言い逃れは許さない。そんな目つきに、声色だった。僕としても、この期に及んでそんなものが通じるとは思っていない。

 虚心坦懐に、思うところを口にした。

 

「君がさっき言ってた通りのことだよ。僕がしようとしていることがバレたら、千束は確実に止めようとする。僕にだって分かってるんだ、それは」

 

 たきなさんが、目を瞑る。何かを堪えるような表情だった。

 ――分かっているなら、どうして。そんな内心の声さえも聞こえた。しかしそれは、ずっと言ってきたことだ。彼女も理解しているはずだった。

 

「でもどうしても、やり通さないと。銃を持った相手に襲われてもどうにか生き残れるぐらいには、戦えるように――いや、()()()()()()()ように、ならないといけなくて。理由はさっき、言ったと思うけど」

 

 彼女は何も反応しない。賛意も示さなければ、反論もしてこなかった。

 

「だから、隠し通さないとなんだ。せめてそこまでは。――あの子には不誠実な振る舞いだって、分かってるけど。それでも、どうしても」

 

 みっともない言い訳ではある。とてもではないが、褒められた行いではない。でもそれは、どこまでも本心だった。

 

 

 

 そこから更に長い沈黙が続く。僕の言ったことを、内心で咀嚼しているのだろうか。

 不安が胸中に昂じ始めたその辺りで、ようやくたきなさんが動く。溜息を一つだけついて、その目を開いた。

 

「言っておきますが」

 

 それは、硬い声だった。

 

「私も、心情としては納得してません。むしろ千束と同じです。あなたには、そのままでいてほしい。()()()()()は、私たちに任せるべきだと、思ってはいます」

 

 ですが。そう小さく添えて、首を振った。

 

「否定しきれないんです、あなたの言うことを。『()()()()()()()()()()()』。確かにそうです。排除すべきリスクだというのは、合理的な判断なんでしょう。――ですので」

 

 彼女は椅子に座ったまま、身体ごと僕に向き直った。

 

「分かりました。私には教導の経験はありませんが、協力します。私たちが養成所時代に課されていたメニューから、促成での訓練を行います。とりあえずの期間として、大体三か月を想定してください。基本は自主鍛錬になりますが、この店の定休日には私が直接指導します」

 

 そして出てきたのは、ほぼ満額回答に等しかった。彼女は手ずから、僕の面倒を見てくれる。そう、言っていた。

 

「……それは、助かる。ありがとう」

「ただし」

 

 そこで彼女は、ずいと身を乗り出した。

 

「三つ、守ってください。一つは、カリキュラム中、私の指示には必ず従うこと。あなたが言い出したことですからね。途中で投げ出すことは許しません」

 

 頷く。それは、固より覚悟していた。

 

「二つ目。カリキュラム中、私はあなたの私生活にも干渉します。具体的には食生活と、起床、就寝に関してです。円滑なトレーニングのためなので、これについても受け入れてください」

 

 そこで、ああ、と彼女は言葉を付け加えた。

 

「毎週末、千束の家に行く話は認知しています。ですのでそれ以外の時には、と言うことになりますが」

 

 それも、否やはない。むしろそう言ったところまで指導の手が入るのならば、至れり尽くせりといったところだろう。

 

「望むところだよ」

「それは何より。そして、最後。これが一番大事ですが」

 

 改めて僕の目を真っ直ぐに見遣って、ここまでで一番に真剣な声色で、彼女は僕に釘を刺す。

 

「三か月程度では、()()()()()()の調練しかできません。身につく技能も、相応のものです。私たちリコリスの戦闘能力は、素質のある人間に、最低でも三年間の修練を加えた結果のものですから。……まあ、千束に限ってはそうでもないらしいですが」

 

 そこでたきなさんが、指を立てた。

 

「つまり、本当に最低限、()()()()()。私たちが助けに来られるまで、耐え切れる。その程度の実力が、つけられるかどうかです。だからいざという時、自分から立ち向かうような行動は決して取らないこと。生き残るための行動を、何よりも優先すること。それを今ここで、約束してください。できないのであれば、むしろ下手な教練などしない方がマシです」

 

 ――いいですね?

 そう言いながら、彼女には珍しくその指を僕の方へと突き付けた。

 

 それは当然の指摘だった。三か月など、あっという間だ。しかも警察学校や自衛隊の前期課程のように、そればかりに専念できるわけもない。定休日の日を除けば、精々一日に一時間から、どんなに長くても二時間が限度となれば、その程度でつけられる実力などたかが知れているには違いなかった。

 反論は許さぬとばかりにこちらを見る彼女に、一つ頷く。

 

「分かってる。約束する。……口でこう言うだけなら、簡単なんだろうけど」

 

 それを聞いて、彼女は突きつけた指を、腕を下した。

 

「そうですね。その通りです。……ですが、いいでしょう。とりあえず分かりました。明日は定休日ですので、早速ですが集まってもらいます。朝十時、北押上駅の前に必ず来てください」

「……了解した」

「ああ、言っておきますが。手は抜きませんよ。時間は限られているので。覚悟、してくださいね」

 

 そう、茶目っ気を含めた声色で告げて、彼女は少しばかり相好を崩した。

 

 

 

 その次の日から、たきなさん監修による僕の促成調練計画がスタートした。

 まず彼女は、僕の現時点での体力を把握しようとした。朝一に北押上駅に集合して、最初にと彼女が案内したのは、DAがリコリスの日々の鍛錬のためにと、都内に何か所か設置している訓練施設だった。完全招待制のフィットネスジムに偽装しているその場所には、地上に体力練成のためのジム設備、そして地下には実戦形式の訓練を行うためのキルハウスや、簡易的な体力測定のための種々の装置が用意されている。

 DA支部である「喫茶リコリコ」の構成員として特例的にこの場への立ち入りを認められた僕は、彼女に連れられて、まずは一通りの体力測定を受けることになった。

 

 当然ながら、僕は非戦闘要員だ。任用の経緯もあって、警察学校による体力錬成課程すらも通過していない。

 普段の運動強度も、全くとして高くない。精々、自宅からリコリコへの出勤が、二十分程度の徒歩であることぐらい。

 よってその数値は、相当に覚悟のいるものだ。そう思っていたのだが。

 

「……思ったより、悪くありませんね。まあ、リコリスの標準スコアと比較すると大きすぎるほどの差はありますが」

 

 測定記録が書き出された紙面を睨みつけるように見ながら、青と白のジャージを身に纏ったたきなさんがそう僕のことを評した。

 

「まず、速力。正直驚きました。五十メートル、六秒四四、ですか。ここだけは、リコリスの平均よりもよいスコアです。……ちょっと、信じられないですが」

 

 これに関しては、昔からひそかに自慢出来るポイントでもあった。あの日、真島をして「足が速い」と言わしめたのだだけのことはある。その自負はあった。

 

「それ以外。筋力は、やはり男性と言うことですか。悪くはない数値です。ただ」

 

 そこで彼女は、正面から僕を見る。

 

「全身持久力、動体視力に瞬発力。この三点は、はっきり言ってひどい。私の予測よりは随分とマシですが、それでも基礎的な戦闘訓練のために必要な水準を満たしていないレベルです」

 

 そう。()()()()()()()()のために必要なありとあらゆる要素が、今の僕には足りていなかった。

 半ば呆れたような口調で、たきなさんは僕に宣告した。

 

「とりあえず、今日から一か月半。その間は、当初の予定通りに基礎的な体力の練成を目指します。今回の結果を踏まえてトレーニングメニューを組むので、日々必ず遵守してください。この訓練拠点は自由に使ってもらって構いません。入館証については、のちほど渡します」

 

 そして更にその翌日から、地獄ともいえる訓練が、本格的に始まった。

 

 

 

 

 

 その日は、訓練開始から丁度三週間目の節目だった。

 

「――目標タイムから、二十秒ぐらい遅延していますよ! もっとキリキリ動いてください!」

「ちょ、まって、たきなさん……!」

「待ちません。待ったら訓練にならないじゃないですか。ほら、速く!」

 

 たきなさん――たきな()()がまず重点を置いたのは、全身持久力、つまり心肺機能の向上だった。基本的に出不精の僕はまず何よりもそこが足りていないのだが、同時にそれこそが継戦能力の根幹をなすものなのだという。つまり僕が鉄火場で「生き残る」ため、一番求められる能力なわけだ。

 斯くて彼女は、基礎訓練期間の前半の期間を丸々割いてでも十分な体力練成を実施せんと、調練計画を立てていた。

 

 まず一つは自主トレーニングだ。リコリコの終業後か始業前の一時間半、シフトが入っていない木曜日は倍の三時間を使って、所定の心肺機能強化メニューをこなすようにと、渡されたカリキュラムには書かれていた。

 それはルームランナーを使ったインターバルトレーニングを中心に、いくつかの筋力トレーニングを合わせたものだ。始めたばかりの僕にとっては、はっきり言ってかなりハードなものだった。

 ただそれは宜なるかなではある。前々からの話だが、僕の土日の予定は千束のために取っておかれている。たきなさんはそれを以て「潰れている」と評したが、ともかくその二日が使えない以上、それ以外の五日に詰め込まれる負荷は相応に多いのだと、彼女は言っていた。

 

 そして今日のような定休日はというと、それまでの自主トレの「成果」を、たきなさんが確認する場でもあった。

 

 

 

「だって、これ、ノルマ、どんだけ短く……っ」

「言ったでしょう、促成カリキュラムだと。それに、短縮不可能なノルマ設定にはしていませんよ。だから、走った走った!」

 

 桜こそとうに散っているものの、街は穏やかな風に吹かれ、隅田川は涼やかな色を水面に映して流れている。せっかくのそんな陽気だというのに僕はそれを楽しむ暇すらもなく、たきなさんに追い立てられる形で隅田川周辺のランニングコースをただひたすらに走っていた。

 後ろを走るたきなさんは顔色一つ変えることがない。憎たらしいほどに涼しい顔だ。それは彼女と僕との間の、どうしようもないほどの基礎体力の差の表れでもあった。

 しかしそんな無駄なことに、思考を割いている余裕などない。

 

 僕が今駆けているのは距離にして十五キロほどのコースだが、それを彼女は()()()で走破させようとしていた。三週間前までロクに運動をしていなかった、僕にだ。

 

 どうしようもない息苦しさに、視界が白む。それを落ち着けるために腹式呼吸を徹底しながら、たきなさんから逃げるように走り続けた。

 思わず出そうになる弱音を噛み殺して、ひたすらに足を動かして、動かして、動かし続けた。

 

 

 

 そして、その三十分後。

 

「言ったでしょう、不可能なタイムではない、と」

 

 ゴール地点となった隅田川沿いの公園の中、その芝生に倒れ込んで息も絶え絶えになっている僕に、たきなさんがそう言いながら近づいてきた。

 手にはスポーツドリンクが握られている。近くの自販機で買ってきてくれたのだろう。

 

「……喋れませんか。まあ、しょうがないですね。ほら、これ」

 

 そう言って、こちらにそのうちの一本を渡してくる。何とか上体を起こして受け取り、喉を潤す頃には、どうにか上がり切った息も落ち着いて、言葉を発することができるようになっていた。

 

「どうして、そんな余裕なんだ、たきなさん」

「当たり前でしょう。鍛えてますから」

 

 僕の恨み節に、澄まし顔のまま彼女が答えた。

 

 結果から言えば、確かに僕は十五キロもの距離を、設定された制限時間の中で走破できていた。たきなさんの厳しいタイムキーピングによるところは大きいとはいえ、それは目覚ましい結果だろう。

 というより、何かの間違いではないかとすら思ってしまう。人間はたったの三週間でここまでの持久力を手にいれられるのかと、未だに半信半疑だった。

 

「どうしましたか? ぼーっとしてますけど」

 

 座り込む僕の隣、たきなさんが三角座りの姿勢でこちらに水を向けてくる。

 

「いや……なんかちょっとびっくりしてて。三週間前、そもそも五キロ走るのに三十分ちょっとかかかってたのに」

 

 その言葉に、彼女は片方の口角だけを上げた。それは所謂、ニヒルな笑いだ。随分と珍しい表情だな、と、そんなことを思った。

 

「全身持久力、というか心肺機能は、短期間での向上が一番期待できるところですから。適切なトレーニングメニューと管理されたライフサイクルを徹底できれば、このぐらい当然です」

 

 ――まあ、これでやっと基礎の基礎、土台が作れただけですが。

 そう付け加えて正面の方を向いたたきなさんに、思わず問うていた。

 

「たきなさんは、リコリス棟ではいつもこんなことを?」

 

 す、とその目線が、再びこちらに向けられる。

 

「まあ、そうですね。体力維持のため、日々の持久力練成は欠かさずにやっていました。まあ、リコリスにとって必要なのはむしろ瞬発力と動体視力です。そちらの訓練の方が、主ではありましたが」

 

 そこで一度言葉を切る。何か思い出すかのように、またその目が宙へと向けられた。

 

「ただ――私は京都からの転属組なんです。養成所も基本、京都のそれしかわからないんですよ。本部のリコリス棟にいた期間は、あまり長くなくて」

 

 それは初めて聞く話だった。

 

「京都? つまり君は、もともと関西圏の人間なんだ」

「そうですね」

「それにしては、あまりそちらの言葉は感じないけど」

 

 そうだ。関西の人間は、標準語をしゃべってはいてもどこか関西的な風情を残している人が多い。

 しかし彼女からは全くそんな空気を感じなかった。言葉遣いも、あくまで綺麗な標準語だ。

 

「まあ、そうでしょうね。何せ、あくまで京都支部に在籍していただけですし。知っているでしょう? リコリスとは、もともとどういう人間なのか」

 

 しかしその問いに対して、たきなさんはどこか冷めたような顔で、そんなことを言った。

 何のことか。一瞬内心首を傾げて、しかし唐突に気づく。

 

 リコリスは、もとはと言えば孤児だ。場合によっては出生届もなしに産み捨てられている可能性もある。つまりはその出自からして、一般社会からは完全に切り離されてしまった存在だとも言えるだろう。

 そんな彼女たちにとって、関西に生まれたことと、()西()()()()()()()()()()()()ことは、必ずしも同じではない。

 

 どうやら僕は、とんだ地雷を踏んだらしい。罪悪感が俄に心中を支配した。

 

「――ごめん。配慮が足りてなかった」

 

 首を垂れる。けれども当のたきなさんからすれば、それに何か思うところはないらしい。

 澄ました口調で、言葉が返ってきた。

 

「いえ、別に気にしてはいません。私がもともとどういう世界で暮らしていたかなんて、今の私には関係のないことですから」

 

 「今の、たきなさん」。

 DAに戻ることを拒否し、喫茶リコリコにおいて最後までリコリスとしてのキャリアを全うすることを選んだ、そんな今の彼女を形作るものがなんであるかなど、分からないはずがない。

 

「そっか。……やっぱりそれは、千束に?」

「そうです。でもそれは、あなたも同じでしょう?」

 

 こちらに向き直って、問い返してくるその声は、確信の色すらも帯びていた。

 きっかけは本意ではなかったかもしれない。けれどもあの店で、喫茶リコリコという場所で、たきなさんは一つの出会いを果たした。千束という知己を得た。

 彼女と暮らす日々の中で、一つ一つ新しいものを知っていった。生き方も、価値観もそうだ。

 そして次第に、彼女がかけがえのない存在になっていった。そういう世界を、知ったのだ。そう、その目が何より語っていた。

 

 ――やはり、僕たちは同じだ。そう思わざるを得なかった。

 

「そうじゃなかったら、こんなことはしてないさ。もっと楽な生き方を、していただろうね」

「言葉を飾りすぎです。()()()()()、の間違いでしょう。……さあ、戻りますよ」

 

 定休日の訓練、メニューはまだまだありますからね。そう、どこか楽しげに言って、彼女は立ち上がった。そして僕の方へ、手を伸ばす。

 

「……分かってるさ」

 

 歓談の時間は、これで終わりだ。それは僕にとって、またきついトレーニングが始まることを意味している。

 それは他でもない僕が望んだことではあっても、肉体的な、心理的な負荷それ自体を否定はできなかった。だからと言って投げ出そうという気は全くないとはいえども。

 ともかくも、僕は伸ばされたたきなさんの手を取って、そして立ち上がった。どうしてもげんなりといった風情は、隠せてはいなかっただろうが。

 

 

 

 その日の終わりのこと。

 DAの訓練拠点の中、シャワーを浴び終えた僕のことを、たきなさんが待ち受けていた。

 

「お疲れ様でした。取り敢えず今回までのワークアウトで、次のステップに進むための最低限の体力練成は終わりました」

 

 言いながら渡してくるのは、次のカリキュラムだった。

 受け取って眺めれば、心肺機能強化に重点を置いていたこれまでのプログラムが、筋力トレーニングを中心としたものに振り替えられているのが見て取れた。

 

「瞬発力と、動体視力。次の三週間は、主にそちら側の錬成に当たります。心肺機能に関しては、現状の維持から緩やかな強化を目指す程度で留めることになりますね」

 

 つまり、こうだ。

 これまでの訓練が基礎体力の確保や継戦能力の向上を図るものであるならば、これからのそれは、そもそもの戦闘能力に直結する身体能力の向上を目指すものになる。

 故にそこには、射撃訓練もまたカリキュラムとして組み込まれていた。

 

「実戦形式の訓練についてはまだ先のことですが、最低でも今、あなたはスタートラインには立てました。それは素直に喜ばしいことだと思いますよ」

 

 そう言って、一度二度と頷く。そしてもうひとつ、手に持つ包みを僕へと差し出した。

 僕はそれに見覚えがあった。最初の定休日、彼女から同じものを渡されていたからだ。

 

「そして、これ。そろそろなくなるころだと思っていたので。()()()()()()()()()です」

「ああ……」

 

 思わず、呻きにも似た生返事が零れてしまう。

 つまりその中身とは、いつぞやのまかない騒動*1の中、その極北として出てきた、彼女曰くの「国産の高品質なプロテイン飲料」だった。

 

 三週間前、たきなさんが僕の食生活にも口を挟むといった時からの話だが、彼女は本当に献立レベルで僕の食に対して口出しをしてきた。具体的には、朝食と、夕食だ。

 昼食に関してはかなりの割合でリコリコの賄いである以上たきなさんが何かを言えるわけではなかったが、それ以外のところに対するコミットぶりは几帳面にもほどと言うものがあった。

 そして彼女監修の栄養管理プログラムにおいて、日に一度必ず摂取するようにと指示されていたのが、まさしくこれであるというわけだ。

 

「前回と同じで、バナナ味とチョコ味、両方を用意しています。好きな方を摂ってください。まあ、最終的にはどちらも飲んでいただくことにはなりますが」

「……ありがとう」

 

 そう言ってずいと包みを差し出してくる彼女を見ながら、僕は片手でそれを受け取った。恐らくは、曖昧な表情をしていただろうとは思うのだが。

 斯くして僕の手に渡った荷物一式を見遣り、たきなさんは一つ頷く。

 

「さあ、明日からは環境が変わりますよ。しっかり準備して、頑張っていきましょう」

 

 そしてパンと両手を合わせてから、僕の方へと身を乗り出した。

 ――逃げるなよ。そんなニュアンスを言外に感じて、僕は一つ、深く頷いた。

 望むところだ。まだ始まって間もない。というか、僕の狙いとしては、まだ始まってもいない。逃げ出すわけがないだろう。投げ出すわけも。

 

「ああ。手間はかけるけど、これからもよろしく頼むよ、たきなさん」

 

 その目を、まっすぐに見つめる。そして言い切った僕を見て、たきなさんは漸くにして、その表情を緩めた。

*1
リコリコOD第三話




 鬼教官たきな、爆誕。

 都内各地にDAの訓練施設がある、というのは独自設定です。東京常駐のリコリスのために、日々の訓練のためのこういう施設はあっていいかなと思ったので。いちいち日々の研鑽のために山梨くんだりまで行くのは厳しいだろうと。

 たきなが関西弁話さない(話せない?)のも独自設定です。
 一応、リコラジかなんかで言ってたところによれば、ト書き内部では関西弁がちょいちょい書かれてるみたいですが、それにしたって関西味が全然ないので。

 たきなが関西出身だなぁと感じたのは唯一、七話の「おうどんでも湯がきますか?」という発言ぐらいでした。関東じゃ「茹でますか?」とでも言いそうなところをああいう表現するのは、関西文化圏の人間なんだなぁ、と。
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