時が進むのは早いもので、気づけば五月の連休はすっかり来し方の存在となっていた。たきなさんとの訓練は五週目を迎え、リコリコのほうにもDAからの依頼や報告がいくつか舞い込み始めている。モラトリアムはいつまでも続かず、僕たちは僕たちの日常に戻るべき時を迎えていた。
今日は週末、金曜日である。果たして僕はいつもの通り、千束の家を訪れていた。
今までお目にかかったことはないが、聞く限りにおいてはどうにも彼女は都内に「拠点」とも呼ぶべき居住地を複数箇所持っていて、必要に応じて使い分けているらしい。
ただ実状を客観的に見れば、自ら「一号」と呼ぶこの一見して何の変哲もないマンションの一室こそが、彼女にとっての自宅であると表するのが妥当だろう。僕は彼女がそれ以外の居住地に一瞬ではあっても逗留しているところを、ついぞ見たことがなかった。
インターホンを押して来訪を知らせ、
ここは千束の改造によって、メゾネットとも呼ぶべきものになっている。
その上層部分、つまり今僕のいる場所だが、ここには本当に
いっそ清々しいほどのカモフラージュだが、同時にこれはハニーポットとしての機能をも見込んでのものだという。つまり侵入者が千束の存在を見込んでここへと押し入って、しかし出迎えた単なる空室に面食らっているあいだに、気づかれないように迎撃態勢を整えて、そして一気呵成に追い返すという寸法だ。
見舞われた相手側からすれば、全く生活実態のない空間に誘い込まれた上、急にどこかから「湧いてきた」相手に訳も分からない間に叩き出されることになる。なれば彼らがそれを経験して思うのは、「この場所はただのダミーだから襲っても無意味である」という徒労感に違いない。
まさにそれこそが、千束の狙いだ。「人死にを出すことなく、この場所に近づく悪意の存在を可能な限り減らす」。そういう構想のもとに作られたこの拠点は、彼女の思想をよく表しているのではないかと僕は思っている。
兎も角、今の僕にとってこちらの部屋は特に用があるものではない。赴くべきは千束の生活空間であって、つまりここの
リビング前の廊下の突き当たりにある隠し扉を開けて、その奥の梯子を下る。進んだ先に現れるのは、上層のものと
つまり彼女が住んでいるのはまさにここで、上層の空虚ぶりからはまるで信じられないほどに生活感に溢れている空間になっていた。
もう随分と慣れたものだが、このセーフハウスに始めてお邪魔したとき、その周到な構造に随分と驚かされたことを覚えている。上下の部屋が図面の上では等しいものだと俄には考えられないほど、それぞれが与える印象には開きがあったのだ。
「ねぇ、今日の夕ご飯はぁ、なんだと思う?」
オープンキッチンの中、上機嫌な様子で料理をしながらも、カウンターの向こうにいる千束が僕に話しかけてくる。
時間は夜の九時を回っていた。夕食にしてはやや遅めの時間だが、リコリコの営業終わりからここに来ている以上、仕方がない面もあるだろう。
千束の家に泊まるのはこの週末で都合五度目になるが、その中でも金曜の夕食だけは、千束は頑ななまでに僕をキッチンに立ち入らせないようにしていた。土日の家事は分担に近く、夕食は共に台所に立っているのにも関わらず、だ。
それはきっとこだわりなのだろうと思わされる。週末の始まり、ここに僕を招き入れた最初の夜は、家主としてそれを歓迎する特別な時間にしたい。そういう思惑が、なんとなく窺えた。
そんな千束の心構えは、彼女が作る料理の献立にも表れていた。
「この前は……ジャンバラヤだったか。その前はガパオライスとトムヤムクン。……いや、ごめん。わかんないや」
「しょーがないなぁ……じゃ、もうちょっとだから楽しみにしててよ」
キッチン越しに見る姿にも、発される声にも、今日もまたどこまでも楽しそうな色が宿っている。
元々千束は料理に常に楽しみを求める性質だ。だから昼の賄いにしろ、少し前のハワイでの夕食にしろ、常にチャレンジングでエンタメ性の高いラインナップを意識していた。それでも毎週の土日にまでそれを求めていてはいずれアイディアも尽きるし、そもそも食材の買い溜めが利かない自炊は著しくコスト効率が悪い。そういうこともあって、週末の二日の朝や夜の食事は早々にオーソドックスな家庭料理になっていた。
だからというか、その代わりにこの金曜の夕飯は、溜まった鬱憤を晴らすかのように毎度毎度国籍が迷子になりそうなほどのバラエティに富んだ献立になっていた。
ヨーロッパかと思えば東南アジア、そこからいきなりの中東、王道の中華料理を出したと思えば今度は地中海料理と、よくもまあ毎度毎度色々と思いつくものだと思わせられる。しかもその全てが文句なしに美味しいというのだから、千束の引き出しの多さと何でもこなす能力の高さは抜きん出たものだと評するよりなかった。当然に、その料理の腕もである。
そこから二十分と経たないうちに、出来上がった料理が食卓へとやってきた。
鍋の中、何かが煮込まれている。微かな酸味を感じる匂いだ。でもそれは酢というよりは、ヨーグルトか、或はサワークリームによるものか。いずれにせよ、乳酸菌の酸味を想起させる香りだった。
じゃーん、という声と共に、鍋の蓋が開けられる。その中には、全体的に茶色みを帯びた煮込み料理が入っていた。合間に覗く具材は、牛肉とマッシュルームだろうか。玉ねぎも煮崩されて入っているように見える。
それだけ列挙すればともすればハッシュドビーフにも思えるが、しかしそれにしてはソースが同じ茶色にしても白みが強い。僕にとってこれは、あまり馴染みの深くない料理だった。
ただその正体が何にせよ、懐いた感想は単純だ。
「美味しそうな匂いだね」
「だろー?」
率直に口にすれば、千束の得意げな声が返ってくる。そちらに目を向ければ、彼女はダイニングテーブルの向こうで腰に手を当ててふんぞり返っていた。
思わず、頬が緩む自分がいた。
ともあれ、夕食の準備は着々と整えられていく。別皿に盛り付けられたカットサラダに、スープ皿に注がれたコーンポタージュが並んで、そして件のメインディッシュは大きな平皿の上、炊いたご飯と一緒にあけられた。「本場は素揚げのジャガイモを付け合わせにするんだけどね」と千束は笑ったが、これとて食欲をそそるものであるのに変わりはない。
それを二人協力して進めていけば、用意が済むのはすぐのことだった。セッティングが終わったテーブルを二人囲んで、互いに手を合わせる。
――いただきます。そう唱和する声が、部屋に響いた。
まずは千束肝煎りのメインディッシュから手をつけるのが、料理を作ってもらった側としての誠意だろう。さながらカレーの如くに、そのソースと牛肉を白飯の上に載せて、ひとつ口へと運んだ。
その瞬間、味蕾を刺激したのは酸味だった。一瞬ヨーグルトのようにも思えたが、やはりこれはサワークリームによるものだろう。そしてそのあとから、煮崩された玉ねぎの甘味と、ブイヨンの旨味がやってくる。どうやら牛肉にも随分とこだわったらしく、その身は軟らかくもはっきりと、自らの存在を主張していた。
「――美味しい。やっぱ千束って、料理上手だよね」
「いやぁ……褒めてもお代わりぐらいしか出せませんよぉ?」
冗談めかして言う千束は、それでも満面の笑みを浮かべる。そのまま自らもメインディッシュに一口手をつけて、うんうん、と大きく頷いた。
「たしかにうまくやれたな、これ。さっすが私」
ぼそりとそう自賛する彼女の姿に、何故だか胸の中が温かくなった。
と、そこで一つの
結局、この料理はなんなのだろうか。美味しければなんでもいいと言えばそうなのだが、千束に謎かけされたままのこれが宙ぶらりんというのもなんだからと、問うてみることにした。尤も、千束の方はすっかり忘れているかもしれないが。
「で、これどこのなんていう料理なの? 中東系とか?」
一瞬だけその首を傾げて、しかし彼女はすぐに横に振る。頬張ったそれを咀嚼して、呑み込んで、ついでに水を飲んでから口を開いた。
「違う違う。これはね、ロシア料理。『ビーフストロガノフ』って言うんだ」
ビーフ、ストロガノフ。口の中でその言葉を反芻する。
「なんか、ハッシュドビーフにサワークリーム足した、みたいな料理かな、とかちょっと思っちゃったよ。いやすごく美味しいんだけど」
「んー……まあ近いかな。ハッシュドビーフはデミグラスがベースだけど、これはそうじゃない。牛肉、小麦粉、玉ねぎにマッシュルーム、あとビーフのブイヨン。場合によっては白ワインを足して、そんで仕上げにサワークリームを入れるって感じ。結構簡単だよ?」
何でもないような口ぶりだが、しかしどう見てもこの食卓にあるものは随分な手間をかけて拵えられていたし、その材料だって決して安くはなかったはずだ。毎度こうも腕に縒りをかけて多彩な料理を作ってくれる千束には、頭が下がる思いだった。
それでも僕がそれをストレートに表現したところで、「好きでやっているのだ」と、彼女は笑って言うのだろうけれども。
「いや、そうでも。ほんと、凄く美味しいよ。ありがと」
だから僕はシンプルにそれだけ口にして、あとは食べるにつとめることにした。
正面に座る千束は頬杖をついてこちらを見ていて、どこか満足そうな、或は幸せそうな、そんな表情を浮かべていた。
夕食は雑談を交えながら和やかに進んで、僕たちはあっという間に用意された鍋を平らげてしまった。それだけ千束の料理が素晴らしいものだったということだろう。
それが終われば、もう寝る時間が近いのが常だ。二人交互に手早く入浴を済ませて、その湯冷ましがてらにリビングのソファに並んで座りながら、また他愛もない話をする。それが金曜の夜の、僕たちのいつものルーティーンになっていた。
今日も今日とてその最中、千束がふいに訊ねてきた。
「そういえばさ。最近、ちょっと身体つき変わってきてない?」
いい機会だからとでも言いたげな様子だ。改めてといった風情でじろじろとこちらを見て、おもむろに頷く。
「やっぱそうだ。筋肉がつき始めてる」
少しばかり怪訝そうな顔つきだった。
理由はあまりに明白だ。たきなさんとの体力練成の成果が、千束から見ればわかる形で出てきたということだろう。
カリキュラムも中盤を迎え、内容にも変化が出てきていた。最初の三週間は心肺機能の強化に充てられていた故に、それが体系の変化に結実することはあまりなかったのだろうが、ここ二週間弱はその重点が筋力トレーニングに移りつつある。自分ではあまり意識できるものではないのだが、彼女からすれば変化は歴然ということらしい。
その観察眼は、リコリスとして自分の身体のメンテナンスは欠かさない故に身についたものなのだろうか。いずれにせよ、さすがの慧眼だといえた。
「わかるものなんだね、そういうの」
「そりゃわからいでか。リコリスよ私、これでも」
ただ僕の感嘆の情がどうであれ、当の千束の方からすれば、現状ははっきり言って「怪しい」のだろう。
目の前からはじっとりとした目線が向けられている。「訳を言え」。そう言外に彼女は僕に伝えてきていた。
宜なるかな、ではある。僕は元々そこまで身体を動かすことが好きではないし、それどころか生来の出不精もあって「もやし」の謗りを免れ得ないような人間だった。この辺りはクルミと大差ない。それが急に運動に目覚め始めたような振る舞いで、体形まで変わり始めているとなれば、疑問を持つなという方が無理な話だろう。
意識して省みれば、僕はかなり迂闊というか、思慮が足りていなかったなと思わされるところがあった。外見の変化という不可逆的で密接不可分な要素に対して何のエクスキュースも持っていないのは、我ながら随分な話だろう。結果として今そのことについて訊かれて困っているのだから、さすがに情けないにもほどというものがあった。
当然、正直に打ち明ける選択肢など初めからない。誤魔化しに入るのは必然といえた。
行動に不自然さを持たれないように、やっていることには嘘をつかず、きっかけも嘘をつかず、そして目的だけに嘘をつく。
職場の上司との面談で指摘されたことで、体力をつけなければならないことを自覚し、トレーニングを始めた。
メニューを真剣にプランニングしてくれそうなのがたきなさんだったからと彼女に相談をすれば、果たしてメニューの作成に加えて、定休日のトレーニングまで面倒を見てくれるということになった。
そして彼女の監督のもとトレーニングを始めてから、もう五週間目に突入している。だから随分と持久力もついて、筋力も上がってきているのだろう。
言ったのは概ねそんなところだった。
「たきなに、ねぇ。……確かにたきなも、なんつーか最近定休日店来てねぇな」
僕の説明、というか弁明に、千束は口の中で小さく呟いた。
一瞬だけ僕から目線を逸らして、しかしもう一度、今度は全身をくまなく見まわしてくる。そのまま、頷いた。
「でもまあ、体力つけるのは悪いことじゃないよ、いやホント。運動不足は寿命まで縮めるからねぇ……」
そしてこちらの両肩に手を置いて、にんまりと笑った。
ついこの間まで心臓のことで限られた寿命しか持てなかった千束の口から発されたそれは、余人のものより遥かに重く感じられる。だからこそ、僕のことをそう言って気にかけてくれる今の彼女の態度に、どうしようもない申し訳なさを覚えていた。
自らの生を、いかにして永らえるか。目指すところは、どちらにせよそうなのだとしても。彼女を悲しませないためのものだというその動機に、嘘は一切なくても。
それでもその本質的なところで、彼女を欺いていることに変わりはないのだから。
「ま、頑張んな。応援してるぜ!」
「……ありがと」
かけられた激励の言葉を聞いて、更にずきりと心が痛む。それでも気取られぬようにと努めて笑みを作って、頷き返した。
夜は更け、日付が変わろうとしていた。
寝室の中、シングルベッドの上、二人並んで横になる。思えばこれにも慣れたものだった。初めてこの家にお邪魔した日のことを、ふと思い出す。
今日のように夕食と入浴を済ませて、いざ寝ようとなったときのことだ。そこにあるベッドが一人用だと知って、さすがにこればかりはと、リビングのソファで寝ると僕は千束に申し出た。
しかし彼女はその提案を聞くや、聞く耳持たぬとばかりに瞬く間に僕のことを抱え込んだ。何か言葉を発することもなく、僕にそれ以上の言葉を発することを許すことすらもない。そしてそのまま寝室の中、千束のベッドへと僕は一瞬で引きずり込まれた。あまりの早業に、自分が彼女と一緒に布団の中にいることにすらも暫く気づけなかったほどだ。
それを、つまり自分の現状を自覚した直後、ほぼ反射的に外へと脱出しようとしたものの、千束に完全にマウントを取られている状態では無駄な抵抗でしかない。
むしろそのあがきが彼女の中の嗜虐心にでも火をつけてしまったか、リコリス仕込みの制圧術で身体の自由を奪いつつも、逃がさないとばかりに僕を強く抱きかかえる彼女は、からかい交じりの、しかしどこかサディスティックな笑みを浮かべていた。その表情にどうにも心がざわついたことは、今なお強く覚えている。
それからはずっとこのままだ。千束はどうあっても、自らのベッドの上で僕と一緒に眠りたいらしい。或はもしかすれば、ハワイ旅行の間、一つの部屋、一つのベッドの上で寝起きをしていたことに味を占めた部分もあったのかもしれない。
そう考えると、去年の夏の辺りにたきなさんがここで千束と暮らしていた一時期のこととは、大分趣が違うところがあると思わされる。尤もあれは、襲撃への警戒のためにと輪番で不寝番をやっていたりしていたわけだから当然ではあるのだろうけれど。
灯りは落され、カーテンから微かに入る月明りだけが薄ぼんやりとこの部屋を照らしている。
シングルベッドは、二人で収まろうとなるとはっきり狭い。つまり自然と身を寄せ合う形になるわけで、結果として千束は今、目線の向こう、本当に目と鼻の先にいる。その柔らかな肢体もまた、僕の腕の中にすっかり納まっていた。
スタイルには大層恵まれている彼女だが、背格好に限っては女性としては平均的なものだ。しかし
それでもこうして触れ合えば、否応なく気づかされる。鍛え抜かれている彼女の肉体にも、やはり女性らしい繊細さは同居しているのだ。烏滸がましいことだと分かってはいても、僕にとって腕の中のその身体は、どこかこわれもののようにすら感じられた。
「今更だけど、さ。君も普段から筋力維持のトレーニングとか、してるわけでしょ?」
触れ合った場所の全てで、熱を交わす。互いの実存を意識しながら、そこで一つ気になったことを訊ねた。
真っ直ぐに見つめる姿勢のままに語りかければ、当の千束はきょとんとした顔をした。
「そりゃそーよ。先生も言ってるけど、『日頃の研鑽は裏切らない』って。でも何で……あ」
しかしそこで何かに気づいたか、意地悪な笑みすらも浮かべて、僕の顔を覗きこんできた。
「もしかしてぇ……千束さんの身体が気になるのかなぁ?」
言うが早いか、僕にゆるく抱きついていた彼女の腕の力が、俄に強まった。柔らかな感触が、より強く僕の方へと押し付けられる。
ほらほらぁ、などと煽るような口ぶりで、どこか悪戯な空気を隠そうともしていない。そこにははっきりとしたからかいの色があった。
千束が本格的にこういう面を僕に見せるようになったのは、ハワイから帰ってきてからのことだった。
それまでの彼女は、僕に対してどこか遠慮にも近いものを持っていたように思える。何を理由としたものだったのかはもはや分からないが、いずれにせよ今の彼女は斯くのごとしだ。どこか甘えるように、無邪気さとわがままさが混ざったようなその態度は、かねてからたきなさんやミズキさんに見せていたものに近い。いや、ミズキさんに対しては随分毒を含んだ当たりの強さを持ってはいたが、それにしてもだ。
それは僕にとって、きっと望ましい変化だった。身構えることも繕うことも何一つ要らない間柄に、僕たちは一歩進めたのだと、そう思えたからだ。
そう思えば、彼女の今の振る舞いもどこか愛おしい。湧き出た情動のままに抱きしめ返して、首筋に顔を埋めた。
ちょちょちょ、と声が聞こえる。相変わらず攻めっ気が強いくせに、予想外の展開になると途端に受け身になる子だ。頭の片隅でそう考えながらも、言わんとするのはそこではない。
「気にならないわけじゃない、けど。……でもそれよりも。こうやってくっついてると、落ち着く。君が言った通りだ」
本心で、実感を伴った言葉だった。こうして千束の体温を感じていると、不思議と心が凪いでいく。彼女が女性として魅力的なのは間違いないが、それ以上に今この瞬間は安らぎこそが勝っていた。
温もりに、ただ身を委ねる。暫くの静寂がやってきて、そんな中ふと、僕の頭に千束の手が回された。
「……そーだろ。すごいよね、人間ってさ」
ポツリと言葉が降ってきて、さするようにその手が動く。ゆっくりと、労わるが如くの手つきだった。
お互いに何も言わず、暫くされるがままの時が過ぎてゆく。彼女の手つきはどこまでも優しくて、だからか不意に声が漏れた。
「君だからだよ。他の誰でもなく」
それは強い実感を伴った言葉だった。手が、止まった。
「そっか。……たきなは? 最近一緒にいること多いけど」
抱きしめていた手を緩め、顔を上げて千束の方を見れば、何とも言えない顔で僕のことを見ていた。
嬉しさのなかに、どこか複雑さも同居しているようにも見える、そんな表情だった。
「僕が? たきなさんと?」
千束が頷く。思わず、軽く失笑していた。
まさかこの子が、そんなことを気にするとは。これもまた彼女の中に生じた変化の一つなのかもしれないが、どうにもくすぐったさすら覚えた。
「何言って……考えたこともないよ、そんなこと」
力強く断言する。千束の手から力が抜けた。ベッドの中、少しばかり距離を取りつつ、彼女に向かって正直なところを説いていく。
「だってさ? 今の僕にとっては、あの子はぶっちゃけ『鬼畜トレーナー』だし」
本当にそうなのだ。いや、正確には
何せ今の僕に、二十代前半の男性自衛官にとって平均的な身体能力に相当する程度の水準を求めているのだ。来週いっぱいまでに達成することを求められている種々の運動テストのスコアについて家で調べた時に、その意味するところを見てぶったまげたのは記憶に新しい。
つまりたきなさんは、最低でもその程度の運動機能がなければ実戦形式の戦闘訓練をさせても意味がないと、そう言っているのだ。彼女にしてみれば、「戦闘職の平均的水準」というのはやれて当たり前の基準なんだろうけれど、それは僕にとっては相応の負荷だというのは、動かしがたい事実ではあった。
「へぇ? ずいぶんビシバシやられてんだ。しっかし、たきながねぇ……」
その辺りのことを、核心についてはぼかしながら話せば、千束は感慨深げにそんな声を上げた。
確かに彼女からすれば、たきなさんとは常に何かを教え込む対象の人間であって、彼女のほうから何かを教わるということは考えづらい面もあったのだろう。如何な相棒とはいえ、それでもいつまでも可愛い後輩でもあるのだと、そういうことなのだろうか。
「まあ、頼んだのは僕だけど。でもあの子も、親身になってくれてる。あれで結構、ものを教える才能はあるよ。僕もなんだかんだ、体力はついたしさ」
言いながら、目を瞑って思い起こす。
たきなさんにとっても、それは間違いなく一つの変化だった。或は転機とも評するべきものなのかもしれない。きっかけは僕にあるとはいえ、まさか彼女も自分が他人へ教練を行うなどという経験をするとは思っていなかっただろう。そしてその中で、たきなさんの中にあった新たな側面が、引き出されはじめている。
喫茶リコリコという場所は、そこで過ごす日々は、僕たち全てにとってそういった
「そうなんだ。……ま、私としちゃたきなと隼矢さんが仲良くしてくれるのは、嬉しいけどさ」
ぽつねんとした、千束の声がする。目を開いてそちらを見れば、彼女は視線を天井へと向けていた。虚空を見るその横顔は夜の帳に翳って、浮かべているはずの表情も窺えはしない。
会話が途切れ、沈黙が場を支配する。街を走る車の音がわずかに外に響くほかには、何の音も聞こえなくなった。
僕もまた、仰向けになる。いつものように身を寄せ合うのではなく、少し離れた距離感が今の僕たちの間にはあった。暗闇と静寂のなか、深く沈み込むような感覚すらも懐いた。
これはこれで、悪くない。また目を閉じる。そのままいずれやってくるであろう睡魔にこの身を任せんと、深く息を吐いた。
しかしそこから三十分ほどが過ぎても、何故か眠気がやってこない。
いつもと違う夜だからだろうか。この部屋にいるときは千束と抱き合うようにして眠っていることが殆どだから、身体がそれを、彼女の温もりを覚えてしまっているのかもしれない。かといって今更僕の方からアクションを起こす気にもならず、ただ冴えたままの目を持て余していた。
――一度、外に出よう。水でも飲んでぼーっとして、眠くなったら戻ってくればいいか。
そんなことを考えて、ベッドから出るべくゆっくりと身体をずらしていく。横の千束は今も静かで、恐らく寝ているだろうから。
布団の外、外気に触れた腕に空調の冷気が当たって、ほんの少しの肌寒さすらも覚えた。床に足をつけて、いよいよ以て身を起こす。
しかしそこで、身動ぎの音がした。その瞬後、左の袖が引かれる感触がする。そこに、声が聞こえた。
「――どこ、いくの」
小さく、ボソリとした呟きだった。
思わぬことに身体が震える。起こしてしまったか。いや、最初から起きていたのか。姿勢はそのままに、声の聞こえるほう、振り返って千束を見た。
思わず、息を呑む。
彼女の纏う空気が、はっきりと変わっていた。
ざわめいている。どこか不安定で張り詰めていて、そこにはある種の危うさまで感じた。つい今しがたまでは、平らかに凪いだ穏やかさすらも、その身に宿していたというのに。
「千束――」
掠れきった呟きが、口から漏れた。
ゆらりと、彼女の身体がこちら側へ倒れる。顔は俯いていて窺えず、袖を掴んだ手はそのままに、反対側の腕もまた、当て所を失ったような頼りなさで僕の方へと伸びてきた。
そんな挙措に、否応なしに理解させられる。――ああ、
やはりというか、
僕と同じように、千束も眠れなかったのだろう。そしてきっとそのさなか、
千束は俯いたまま、何も言わない。それでも伸ばした腕が、どこかおずおずとこちらに触れてきた。袖から、腕へ。つまんでいたものを握って、力は少しずつ強まっていく。
そこに痛みすら覚え始めたその瞬間、
ベッドの縁に腰かけていたはずの僕の身体はその一瞬でベッドに舞い戻り、気づけば千束の腕の中に閉じ込められていた。
苦しいほどの圧力を覚える。耳元に顔が近づいてくる。その末、本当に触れるほどの距離で、声を聞いた。
「……ごめんね。でも、
吐息が耳にかかる。彼女の熱を感じた。吹きこまれた声はどこか濡れていて、身体の芯すらも痺れるように錯覚する。寒気にも似たむず痒い感覚が、全身を支配した。思わず身を震わせた僕のことを逃がすまいと、抱き竦める腕の力がさらに強くなる。ぎり、と音が鳴ったような気さえした。
締め落とす気かと錯覚するほどの力強さで以て僕を抱えたまま、彼女はごろりと転がった。視界がぐるりと巡る。自身を天に、僕を地へと。
思わず視線を横へと向けた。反対のベッドの端が近い。そちら側は壁に接しているから落ちる危険こそないが、このままもう一度ごろんと行くと千束の頭が壁にぶつかる。
反射的に、身体に力が入った。せめて二人ともベッドの中心に行かなくては。千束が危ないかもしれないと、そう思ったからだ。
しかし僕のその行動を自らへの抵抗だとでも思ったか、夏物の寝巻、薄衣の向こうから、背中を擽るように一撫でされた。
それだけで、背筋が粟立つ。突っ張っていた力ががくんと抜けて、できた意識の間隙に追い打ちをかけるように、千束はまたも耳元に唇を寄せた。
「だめだって。……大人しくして」
くちづけるほどに近い。いや、もはや耳朶に触れている。吐息交じりの囁きが、また僕を貫いた。
――自分の「武器」の使い方を、本当によくわかっている。いや、
身体を動かす気力ごと奪われて、だらりと力が抜けた。腕の檻に身を委ねるばかりになった僕のことを、そのまま優しげな手つきで以てベッドに沈めながら、彼女は両の腕を取る。そして柔らかな、しかし有無を言わさぬ力強さで以て、顔の横、枕元へと押し付けた。
両の手足を抑えられて、身動きが取れない。そんなこちらの様子を視界におさめて千束はようやく満足したか、徐にその身を起こした。
目線の先、僕に跨って覆い被さる千束の、その白金の髪はこちらに向かってはらりと垂れていて、少しだけ荒くなった呼吸に合わせて揺れる毛先が、時折頬を撫でる。それ越しに見える、窓の外のほんのわずかな明かりを受けて煌めく琥珀の瞳が、上目遣いに僕のことを射抜いていた。
光の加減だろうか、覗く双眸はどこか紅い色を帯びて、目に焼き付いた。
今の千束は、不安定だ。それを意識したのは、いつのころからだったか。
退院して店に戻った日のことは、間違いなく端緒として、或は萌芽として僕の頭の中に刻まれている。
ハワイのときは、その兆候はなりを潜めていたように思われた。彼女の中で日本のことはひとまず棚上げ出来ていたから、なのだろうか。それでもかの地にいた間、クルミからは千束の精神状態について何度も警告されていたのは確かだ。
そして――彼女が
彼女が今浮かべている表情は、天真爛漫な太陽の如き笑顔でもなく、人の心に寄り添う慈愛の微笑みでもない。
何かを堪えるような顔だった。裡に抱える激情を、衝動を、必死に押さえつけているような、そんな面持ちだった。
情念の色を湛えながら、しかし同時に
見上げた先、千束が僕の目線から逃げるように俯いた。その相貌は前髪に遮られて、見えなくなる。
それでも僕の身体を、腕を、ベッドの上に縛り付けている両手から、真意はきっと漏れ出ていた。微かな痛みを覚える圧力の中に、彼女の身体の震えすらも感じ取った。
千束は
それは今の彼女の中にある、根源的な欲求の発露なのだと思う。つまり僕のことを束縛したいのだ。或は支配したいのかもしれない。そこには少しばかりの情欲も、確かに含まれてはいるのだろう。
でも僕は、そのことについて千束を咎めたりなど決してしない。できはしない。彼女の行動の源泉にあるものが何なのか、身に沁みて判っているのだから。
だから今、己の胸の中、暴れ出して止まらないその恐怖と、千束は必死に戦っている。
僕がずっと目の届くところにいれば、自らの支配の下にありさえすれば、そんなことは二度と起こらないはずだと、そうやって自らの気をどうにか紛らわせているのだ。
それを詰ることなどできようものか。そもそもその原因を作り出したのは、他でもない僕だというのに。
だからこそ僕は、ただ受け入れる。彼女の心の嵐が鎮まる、その時まで。
どこまでも静かなこの部屋の中で、微かに互いの呼吸の音だけが響く。夜の闇に慣れた視界の中、月明りの青白さが、千束の姿を浮かび上がらせていた。
その顔が、ゆっくりとこちらに向けられる。何かを堪えるように一度だけその瞳を閉じて、僕を押さえつける腕に力が籠った。
荒れ狂う感情の塊が、まっすぐに叩きつけられるさますらも幻視する。押し寄せる激情の波に溺れて、それでも千束のことを正面から見据えることはやめなかった。
しばらくののちに今一度その双眸は開かれて、僕はそれを真っ直ぐに覗きこんだ。
「千束」
呼びかける。彼女の手が、小さく震えた。
縫い留められたままの右腕に、少しだけ力を入れる。一瞬だけ抵抗されたが、それもすぐに緩んだ。きっと僕の目が、思うところを何よりも語っていたのだろう。
縛めから抜け出して、そのままに右手を、頬へと寄せていく。横髪を掻き分けて肌に触れれば、滑らかな、吸い付くような感触が、その下にある熱が、手のひらに伝わってきた。
情動の奔流は未だに僕を打ちのめしていて、それに中てられた認識には、どこか夢の中にいるような薄靄がかかっている。半ばそれに浮かされるように、口を開いた。
「僕の時間は、今の時間は、君のものだよ。君だけの」
見つめ合う先、目がわずかに見開かれた。僕のことを放した左の手が、ゆるり動く。少しずつそれは近づいて、やがて僕の右頬に添えられた。
互いの頬を、掌に感じる。感覚すらも交じり合っていく。彼我の境界線がその輪郭を失って、僕は君になり、君は僕になる。そんな気さえもした。
「だから、ほら」
見下ろす表情が、和らいでいく。模った笑みは、どこか嫣然としたもののようにも思えた。
彼女の身体はゆっくりと降りてきて、その末に二人また、互いの熱を我がものとする。
腕と身体で温かさを分け合いながら、ようやくにして訪れる眠りの淵に沈んでいく自分のことを、頭のどこかで知覚した。
しかし――いよいよ以て意識を手放すその寸前、一つの思考がそれに抗うように、閃光の如く脳裏に割り込んだ。
忘れてくれるな。そう心が叫んでいる。今の僕は千束の信に背いているのだと。
そうしてでも、成したいことがあるのだ。千束が今抱えている憂いを、取り払われなければならないから。この子をいつまでも、あの日の延空木の上に囚われたままにするわけにはいかないから。
そして、僕が千束と並び立つためにどうしても必要なことなのだと、何より僕自身が強く信じているのだから。
千束を
彼女の身体を抱く腕に、少しだけ力が籠ったような、そんな気がした。
週が明けての定休日、僕はいつも通りにたきなさんとDAの訓練拠点にいた。
その中、ジム設備を使って一頻りの体力練成を済ませてから、一緒に地下へと降りる。
それはこのところ数週間、少しずつ比重が増えていっているメニューのためだった。
即ち、「射撃訓練」に「戦術講義」だ。その二つはつまり、来る戦闘訓練に向けての準備に他ならない。
その中、まずはということで、地下の射撃訓練場――たきなさん曰くのシューティングレンジに僕たち二人は陣取った。
ぞれぞれのブースに並んで立って、また同じように自らの手に持つ銃を構えていた。
断続的に、銃声が鳴り響く。それは僕のものと、たきなさんのものだ。
最初に試行するのは、足を止めての立射だった。オーソドックスな射撃姿勢には、ウィーバースタンスと、両足を開いて正面から構えるアイソセレススタンスの二種類があるが、正直構えは合理的でさえあればなんでもいいのだと、たきなさんは喝破した。
重要なのはそんな枝葉ではない。悠長に狙いをつけず、すぐに撃ってもしっかり目標に当てることだ。それこそが彼女の教えんとするところで、それは僕が警察学校の体験講習で触れたものとはあまりに違う、どこまでも実践的な考え方だった。
百聞は一見に如かずだと言って、一番初めにたきなさんがやったその一部始終は、僕からすれば全く理解ができなかった。
屈んだ姿勢、背負ったサッチェルバッグの横をスライドさせ、中のホルスターから抜き放ちながら立ち上がる。
シューティングレンジの向こう、マンターゲットに迷いなく照準を合わせて、立て続けに六射を見舞う。
それが終わるなり、そのまますぐにまた屈み直す。
まさに流れるような動きだった。一切の淀みもなく、こちらからあちらに歩いて渡るような気安さで、彼女は×印のついた赤いエリア、つまり標的の中心部を尽く撃ち抜いていた。
かねてより凄まじい射撃精度だと思っていたが、やはりこういう形で見ると尋常ではないものがある。千束をして「自分より射撃の腕は数段上」と評されるだけの技量だと、ただ感心するよりほかになかった。
それが一週間前、五回目の定休日のことだ。
それを思い出しながら、今自分が撃ったワンセットの結果を見る。彼女のようにクイックドローから実践するのは厳しすぎるので、シューティングレンジのテーブルに置いた銃を掴んで、構えてすぐさま撃つ、そのルーティーンでやってみてはいるのだが、その実はどうにも今
「いやー……なんともだなぁこれ」
一発だけ、九点の部分を射抜けてはいる。恐らくは拾ってすぐ撃った一発目だ。しかしその後はリコイルコントロールをしきれない内に次を撃ってしまっているせいもあって、着弾位置が絶望的にばらけている。それでもなんとか七点以内、つまりマンターゲットの内側に全弾叩きこめているのは、この二週間の特訓の賜物だろうか。
「いや、この期間にしては随分と上達していると思いますよ?」
背後からかけられた声に、一瞬だけ肩が震える。そちらを見遣れば、眼球保護のためのゴーグルをつけた姿のたきなさんが、僕の前にあるマンターゲットを見ながら少しばかり意外そうな表情をしていた。
「速射の反動制御は、やはり訓練をしないとどうにもならないですし。初弾、九点をマークできてますが、抜き打ちの最初で安定してそのあたりを撃ち抜けるのであれば、サードに上がりたての子ぐらいの射撃精度は担保出来てることになりますね。……いや、本当にすごいと思いますよ」
それはここ数週間の彼女からしたら、手放しと言ってよい賞賛の言葉だった。訓練が始まってからの彼女は、何かといえば「ノルマに足りてない」とか、「そんなものじゃまだまだ」であるとか、僕には厳しい言葉ばかりかけていたものだから、なおのこと新鮮に映る。
「それは、有難い限りだけど。……結局実戦でね、やれないことには。完全なクイックドローでもないし、これ。相手も動標的じゃないし」
「それはまあ、そうですね。ですがこの分だと、一週前倒しして来週から実戦での動きを見ていくこともできそうですよ。筋力トレーニングの成果も、思ったより出ています」
腕を組んで、神妙に頷く。しかしすぐにそれを解いて、僕の方へと掌を向けてきた。
「とにかく、一度休憩にしましょうか」
たきなさんの言葉に首肯して、僕たちはひとまず階上へと向かった。
一階、フィットネスルームの脇にあるベンチに座って、スポーツドリンクのキャップを開ける。
これはどうやらDAの支給品らしい。奥の陳列棚に無料のものが常備されていて、この施設の利用者は誰でも手にすることができる。こういうところに手間も金も惜しまないところは、DAのそう多くはない褒められるところだろうと、どこか皮肉げな感慨すら持っていた。
それで一頻り喉を潤した辺りで、たきなさんがふと話しかけてきた。
「隼矢さんって、これからどうするんですか?」
「これからって?」
隣に座る彼女を見遣る。それはどこまでも真剣な表情だった。
「いえ、千束は今年度でリコリスを引退。リコリコの支部機能は私が引き継ぎますが、それも結局一年だけですし。リコリコがDAの支部でいられるのは、そのあたりが限度です。DAとの連携要員だと言ってましたが、それでもあの場所にその立場でいられるのは、あと二年しかないんだなと、思ったので」
それは随分とはっきりした形の、将来に対する不安の発露だった。僕の将来のことを案じてくれているのも確かなのだろうが、やはり自分の二年後から先のビジョンも、あまりよくわかっていない。そんな様子にも見えた。
「……確かに僕の今の仕事は、二年で一区切りになってる。リコリコ側の都合がどう、というよりは、公安からの辞令の内容がそうなんだ。あれはDA側とのすり合わせの結果出てきてるものだから、つまりDAもリコリコを支部として維持させるのは残り二年だと思ってるんだろう。そういう意味じゃ、その次のキャリアについては僕もよくわからない。というか、決まってない、というのが正しいかな」
「そう、ですか……」
「だけどまあ、僕はどの道どうあってもDA絡みの仕事は続けることになると思うよ。それこそ千束とのことがあるっていうのもそうだし、それがなくても、僕は今の時点ですらDAにコミットしすぎてる。今更足抜け出来るとは思ってないし、するつもりもないよ」
それは事実だった。ここ最近のDAの作戦計画に対して、僕はかなり口を挟むようになってきている。
一月の会議の中で出てきた、国家側の名代としても役回りを果たすためという目的はそこにはまずあった。ただそれ以上に、そこには僕個人の思想も多分に含まれていた。
――つまり。
僕が思うに、リコリスとは
これは動かしがたい事実で、だからこそそれを何の対案もなしに糾弾することは、あまりに無責任だ。行政側の人間としても、自分たちの手落ちこそがその現状を作っているのだとすれば、DAからすれば「お前たちにだけは言われたくない」と、そう思うに違いないだろう。
しかしその一方で、この国において犯罪に手を染める人々にしても、それもまた一つの
それを「悪意」と断じて「切除」する彼らの行いは、この国の表層の治安こそ守ってはいても、あるべき国のかたちを定める何かには、なりえない。ただの誤魔化しに過ぎないし、そこに社会的合意は、やはり存在していない。仮令それを、国が秘密裏に黙認しているのだとしても。
この国の
だから彼女たちリコリスという戦力には、もっと上のレイヤー、つまりそんな社会構造それ自体を生み出している、或は治安の不安定化を目論んでいる、より根源的な「悪意」と対峙してもらいたかった。
組織の独善的な判断基準のもと、「誰かの命を奪う」という不可逆的な結果を引き起こし続けるのではないもっと別のやり方で、この国の安寧に携わってほしかったのだ。
結果、国家機関との協調路線を歩み始めたDAという組織は、その在り方に少しずつ変化が出てきている。確かに急迫した凶悪犯罪の実行を
そしてその一環として、僕は、或は僕たちは、
だから僕が今言うべき答えは、最初から定まっていた。
「後悔はしてない。たきなさんも知ってるとは思うけど。よりによってここで言うのはあれかもしれないけど、僕はこの組織のあり方を、
だけど。そう言って、たきなさんの方に目線を向ける。
「君は、そういうことでもない。リコリスでいるのは、『リコリスだから』、そういうことなんだとしたら。リコリスでなくなったときの、そのあと。君は『君のしたいこと』を、探すことになるだろう。そう、思う」
「したいこと……」
僕から目線を逸らして、中空へと迷わせて。たきなさんは思案の声を上げた。
「リコリスの仕事だけどさ。君はあれを、やりたくてやってるの?」
その言葉に、腕を組みながらも、首を傾げる。しばしののち、ゆるゆると首を横に振った。
「考えたこともないですね。隼矢さんの言う通り、『リコリスがリコリスの仕事をする』のは、当然のことでしょう?」
そう言いながら、もう一度僕の方を見る。
「だから、したいこと、と言われても。……難しいですね。でも千束にも、同じようなことを言われたような気がします、何度か。去年、リコリス棟の噴水広場でもそうでした。最近だと、ハワイでも」
「そっか……」
千束もまた、たきなさんのことを気にかけている。
曰くの、「生涯の相棒」。それが文字通り生涯に亘るのならば、千束にとってたきなさんの将来展望は、決して他人事たりえないだろう。
「
ハワイでの千束の話が確かなのであれば、引退したセカンド以上のリコリスには、そういうキャリアパスが開かれているという。ならばそれは無難な選択肢とも思えた。
なるほど、と目の前のたきなさんが頷く。
「戸籍持ってるし、その気になれば大学で勉強をするっていう手だってあるよ。リコリスの教育水準なら、高認ぐらい取れるでしょう。まあ、今更学ぶようなことがあるかは、知らないけど」
DAがそれに何を思うかは知らないけれども、戸籍という身分保障を持っているならばそこに不自由などあろうはずもない。
事程左様に、未来はいくつも、いくつでもありうる。彼女はまだ十七歳なのだから。
沈黙の中、たきなさんが考えるそぶりを見せる。しかしほどなく、首を振りながらも声を発した。
「……すみません、まだやっぱりピンときません。でも分かっていることはあるんです。一個だけですけど」
そこで覚悟を決めるかのように、一度強く目を閉じる。
そして次に開かれた時の表情は、明白な決意を宿していた。
「お店の皆さんとは、別れたくありません。もうあそこは、私の居場所で。千束だけじゃない。みんななんです。隼矢さん、あなたも」
謳うのは、それでもきっと彼女の答えだ。
「あのお店。私がリコリスじゃなくなっても。なくなってほしくない。できればずっと、あそこにいたい。……つまらない、願いかもしれませんけど」
けれど、あまり自信の持てる回答ではなかったらしい。どこか自嘲気味に言葉は結ばれて、視線も力を失ったように見える。
でも、それは心得違いだ。夢に、願いに貴賤などありはしないのだから。大きく首を横に振った。
「そんなことはないよ。願いに、つまるもつまらないもない。それだって立派な夢だ、誰も文句なんて、言わないさ」
たきなさんを正面から見据える。かけられた言葉にか、彼女は一瞬だけ目を瞠って、しかしまた少しだけ目線を逸らした。
「そう、でしょうか」
「そうだよ。もしそうだって言うなら、全員で、あそこをDAに頼らない形で存続させる方法を考える、ってのだってありだ。DAに交渉して、支部に代わる役割を与えてもらう方法だってある。――喜ぶと思うよ、千束は」
千束の名前を耳が拾ったか、どこか誘われるようにたきなさんが目を合わせてくる。
でもそれは、撒き餌などではない。常日頃から僕が思っていることだった。
「だってそうでしょ。あの場所がいつまでも続いてほしいと思っているのなら、君にとってあそこはそれほど大事だってことなんだから」
言いながら、目を瞑って思い起こす。
たきなさんが千束と二人、給仕のお仕着せに袖を通して、笑顔を浮かべながら常連と相対している、その姿を。
コーヒーの香り漂う店の中、客席の喧噪すらも、どこか揺らぎを伴ったレコードの音が包み込む、その時間を。
天窓から降り注ぐ陽光が、ステンドグラス越しの外光が、木組みの内装をその時々に染め上げる、その色を。
あの店の日常の景色が、瞼の裏に次々と浮かんでくる。僕にとってももはやかけがえのないそれは、たきなさん、彼女にとってだってそうだ。今の彼女の居場所は、あの日常の中にこそあるのだから。
それはきっと、みんな同じだった。僕も、そして千束も。
「それにさ。あそこは、
「千束の、全部……」
「『
一つ一つ、噛みしめるように言葉を紡ぐ。
目を開いた。眼前のたきなさんが、僕の方を真っ直ぐに見ている。真剣に思案するような、そんな様相をしていた。
「それを愛してくれている、大切にしてくれているなんて、嬉しくないわけがない。自分ごとそうしてくれているようなものだろうって、僕なら思うよ」
どうだろう。そう目で問いかける。たきなさんは少しだけ目を瞠って、それでもすぐにその表情を緩めた。
「……そう、ですね」
二度三度、反芻するように頷く。今一度、今度は短く思案する素振りを見せて、その末に僕の方へと向き直った。
「ありがとうございます。なんだか、ちょっと先が見えたような気もしてきました」
言いながら、その頭が下げられる。律儀な態度だった。
「それは重畳。でもまあ、あと二年だ。ゆっくり考えるのがいいよ。……まあ、それよりも今は」
「――『訓練』、ですね」
僕の意図を、たきなさんが汲む。よし、と一つだけ気合を入れて、立ち上がった。その姿勢のまま僕の方を見て、ニヤリと笑う。
「なら、戻りましょう。あと一時間と少し、キリキリ動いてもらいますよ」
そう言って、こちらへと手を伸ばした。
挑みかかるような目線だ。それを正面から受けて、僕も大きく頷いた。
「了解です、教官殿」
そして立ち上がり、冗談めかして敬礼する。その姿に少しだけたきなさんが吹き出した。
休憩入りの前、ほんの少しだけ見えた不安の色は、もうすっかり目の前の彼女からは取り払われていた。
失うことへの恐れは、いつだって心に残る。
今が幸せなら、猶更。いや、今が幸せであればあるほどに。
こんな夜は、二人の夜は、どうしてもそれが溢れて、止まらなくて。
どうしてもあなたに、私はそれをぶつけてしまうんだ。
そうすれば、その時だけは、その恐怖を誤魔化すことができるから。
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