狭い通路の中、軽いステップの音が聞こえる。こちらの死角、四つ角の左からだ。散々に
手に持つ銃には
息を潜めて、一、二――
「よっ!」
鉢合わせるように屈んだ姿勢から立ち上がり、左から突っ込んできた「敵」――たきなさんの照準がこちらに合わないうちに、その右手に向けて把手から振り下ろす。
「ッ!」
鋭く息を呑む音。半身になって、咄嗟に手が引かれた。まんまと躱されたが、しかしそれは
その捨て身の姿勢が奏功したか、正面からその衝撃を受け止める形になったたきなさんがバランスを崩す。いくら体幹が強かろうが、正面からぶつかってしまえば男女の体重差を覆すのは難しい。そしてその手から
ならばあとは押し倒せば制圧できるか。一瞬だけ都合のいい想像が頭を過ったが、しかしそう現実は甘くない。一歩踏み出すために右脚に重心を移したその瞬間に、気づけば僕の右腕の袖が掴まれていた。たまらずたたらを踏んだどころを大きく引き込まれて、右腕が取られる。
その手つきは流れるようなしなやかさだった。あっという間に手首を返される。鋭い痛みが走った。
――関節を極められたら終わりだ。過去の経験が、強烈な危機感になる。それに衝き動かされ、痛みをこらえながらも彼女が僕の背後に回るその直前、ギリギリのタイミングで肘打ちを決めた。
彼我の体重差で無理矢理に肘を鳩尾にめり込ませ、更に後ろ側に無理やり押し込んで、身体ごと壁にぶち当てる。苦しげな声が向こうから漏れて、ようやっと緩んだその手から逃れた。
しかしそのやり取りのさなか、持っていた僕の銃は奪われていて、当然にそれは相手の手の中にあった。
そしてそのままの姿勢、こちらが体勢を立て直す前、彼女がその照準を定める。
それは本来なら、不可避のタイミングだ。勝負は決まった、はずだった。
「――ぇっ?」
しかし指に力が籠めても、それは何の反応も示さない。気の抜けたような声が、こちらに届いた。
無論、故障などではない。寧ろその機能は十全に働いている。何となればそれには、
当然にそれは僕の狙いのうちだ。奪われることを織り込んで、それを利用せんとするのが今回のプランだった。故にほんの刹那の間、予定外の事態に逸れた注意は予てより狙っていた千載一遇の好機となる。それを全力で咎めるべく、強く地を蹴り、チャージをかけた。
「ぐぅッ!?」
たきなさんに肉薄して、全身全霊のヤクザキックを見舞う。助走つきのそれはかなりの威力で、モロに鳩尾に受けた彼女は苦悶の声をあげながら吹き飛んでいく。その背中を、後頭部をしたたかに壁に打ち付けて、地面へと倒れた。
「……ごめん」
これは戦闘訓練だ。しかも
しかしやはりそうは言っていられない。一瞬の交錯の中、たきなさんが取り落としたM&Pを拾って、立ち上がる時間が惜しいとそのまま照準を合わせた。
そしてそれとほぼ同時、彼女もどうにか姿勢を立て直して、こちらに向き直らんとしていた。
破裂音。それは僕の方からだ。立て直されるより前、機先を制さんと二射を見舞う。一発が彼女の制服を掠めたものの、もう一方は屈むことで避けられた。
これで仕留められれば重畳だったが、やはり望むべくもない。しかし、それでよかった。何となれば僕の最優先目的は生き延びることで、相手を打倒することではないのだから。
ともあれ、今の彼女にこちらを追う余裕はない。ジグザグに飛び退って、程近くの部屋のドアを開け放つ。
彼女がこちらに向かって銃を向ける頃には、僕は難なく部屋の向こうへと身を潜めていた。
扉一枚を挟んで、互いに牽制の姿勢となる。もはやどちらとも動かず、動けない。
事態は膠着し、しかしそれは僕にとって自らの勝利が近いことを意味していた。
それから十秒と経たないうち、キルハウス内に設置されたスピーカーから鳴るブザー音がこの空間の全てに響き渡る。
それは戦闘開始後、二十五分が経過したことの合図だった。
残響がこのキルハウスから消え去り、そこからしばらくの静寂のあとに、たきなさんが銃を下ろしながら姿を見せる。僕もそれを視認して、部屋の中から外に出た。
部屋の真ん中、互いに向き合って、深く一礼をする。
斯くして僕は当初の計画における最終的な生存時間の目標を達成した。訓練開始から十二週目、それは本来の調練計画に比して、一週間ほど前倒してでのことだった。
「なんか、最後はちょっとごめん。女の子のお腹蹴るのって、人でなしだと思わないでもなかったんだけど……」
キルハウスの外、テーブルを挟んで向かい合って座る。目的はもちろん、今回の訓練――CQB耐久演習のフィードバックにあった。
その話の焦点はやはりというか、終了間際の攻防についてになる。その中でどうしても抱えていた罪悪感を言葉にすれば、たきなさんは真剣な表情で首を左右に振った。
「いえ、そういう躊躇はなくすべきです。実戦において相手が女性だからと取る手段を制限するのは、死に直結するので。……ですから、気にしないで構わないんですよ」
「いやまあ、分かってるんだけどね。でもたきなさんの、仲間のお腹を蹴るって、どうなのかなって」
それでも煮え切らない僕のことを、彼女はどこか呆れたような目で見てくる。
「いや、だったら私も相当隼矢さんを痛めつけてますよね? 腕を捻りあげる、鳩尾を殴る、投げる、引き倒す……そもそも、
訓練って、そういうものでしょう。そう、にべもなく言い捨てた。
「まあ、言われてみりゃそうなんだけど……」
理屈は分かる。けれど、どうにも納得は出来なかった。
そんな僕の様子を見てのものか、大きいため息が聞こえた。
「そういうところですよ、私があなたを戦いの場には向いていないって思うのは。千束とか、訓練となれば仲間だろうと嬉々として追い回しますし、容赦なく至近距離からでも弾撃ってきますからね」
言いながらその時のことでも思い起こしたのか、やや不機嫌そうな声色で彼女が続ける。見ればその唇は尖っているようにも思えた。
「というか、実戦訓練中の千束は普通に性格悪いです」
その言葉に、思わず失笑していた。きっとたきなさんも、千束には相当煮え湯を飲まされているのだろう。いつかどこかの訓練で。
「あの子らしい、かな、それは。死ぬほど負けず嫌いだし、調子乗りだもんね」
実感を持った言葉だった。その通り、あの子は確かに何かとイニシアチブを取りたがる。ボドゲ大会でも、テレビゲームでも、二人の時間、ふざけ合う時でもそうだ。
あれは性格なのだろう。でも僕にとって彼女のそれは、決して不快なものではなかった。
そうやって周りを引っ張っていく若々しいエネルギーこそが、僕があの子に惹かれた理由の一つだったのだから、それも当然だろう。
何よりそれは、鉄火場においては得難い資質に他ならない。
「でも、だからこそ味方になれば無茶苦茶頼もしい。違う?」
同意を求めるように口に出せば、たきなさんは少しばかり視線を逸らす。
「……まあ、確かに。でも、ちょくちょく先走るのを抑えるのには、苦労しますけどね」
そして視線を戻しながら、苦笑交じりにそう返してきた。
一頻り、お互いに笑い合って、しかし気づく。さすがに話が逸れ過ぎたと。それはたきなさんも同じだったか、咳払いを一つ加えて、話題を本流へと戻しにかかった。
「まあ、ともかくですが。今回最後の二セッション、どちらも規定時間、二十五分の生存を達成したのは本当に賞賛されるべきだと思います。というか、普通にすごいことですよ、これは。
彼女が口にしたそれは、本当に手放しの賞賛のように聞こえた。音を立てずに手を叩いて、しかしたきなさんはどこまでも真面目な顔をしている。
しかしそう言われて、僕もまた気づいたことを言葉にした。
「そりゃありがたい……んだけど。でもホントなの? それ。だって最初言ってなかったっけ、『三か月でつくのは、最低限の実力だけだ』、って」
まさか彼女の言う「最低限の実力」というのが、サード並みの能力を指しているわけでもあるまい。組織の中でもっとも実力は劣位と言えども、彼女たちは純然たる戦闘要員で、その実力は侮るべきではないというのは、何より僕がよく知っているのだから。
果たしてそんな僕の疑問に、たきなさんはああ、と声を上げる。そしてそのままに、その問いへの答えを示してきた。
「いえ、実際にDA内の基準表に照らせばそういうことですし、それは間違いないです。それにあくまでもサード並みというのは『生存能力』だけですからね? 格闘技術もないし、人員制圧も、拠点制圧のスキルだってない。今の隼矢さんがそれでサードとして通用するかと言えば、そんなことは全然ないわけです。いや、そもそもあなたは男性ですけど」
つまり、彼女曰くの「リコリス候補生への三年間の修練」のうち、生存能力獲得のために必要なスキルだけを抽出した教導を実施したことが今回のような結果につながったと、どうやらそういうことを言いたいらしい。
「まあそうは言っても、隼矢さん自身の吸収力とか、射撃センスが意外とあったこととか。予想外にいい方向に働いた要因はいくつかありましたけどね」
さすがですよ。そう言って、たきなさんは朗らかな笑みを浮かべる。
そう言ってもらえるのは、ありがたいことではあった。けれども改めて考えるに、やはりこの道を
自ら決めて、そしてそれを最後まで逃げずにやり通すということが、何かを成すためにどれほど大事であるか、僕にとって今回のこととはそれを否応なしに理解させるものでもあった。
「じゃあ、これからはこれを
「ええ、そうですね。いい心がけです」
「千束にも見習ってほしいですよ」などと、たきなさんがまた憎まれ口を叩く。
しかしそこでその顔つきが、不意に真剣なものへと変わった。
「それで、来週なんですけど。申し訳ないんですが、隼矢さんの教導は出来ません」
切り出されたのは、来週の予定についてだった。つまり次の定休日のことだ。
その日のことを脳内のカレンダーに浮かべれば、理由はおのずと見えてきた。
「六月最終週。……ライセンス更新か」
その頭が、上下に動いた。
「あー……それについては僕も悪かったよ。ずっと定休日付き合わせちゃってたもんね。行く時間なかったでしょ」
「いえ、まあそれもありますが、そう言うことではなく」
僕の謝罪の弁に軽く首を振って、彼女は訳を話す。
「来年度向けの話です。私は今回の更新、
ああ、たしかに。口の中でそんな呟きが漏れた。そう言われてみれば、確かにそうだ。
これはそれこそ去年の暮れの辺り、入院していた時に聞かされた話だった。来年度、年限によってリコリスを引退となる千束の代わりのリコリコの新たな番人として、たきなさんはファーストへの昇格を打診されている。
たとえそれがいくら「形式的」なものであろうとも、昇格に係る審査は実施されなければならない。役所的な性格を持つDAという組織において、規則とは斯くも絶対的なものだ。
そしてそのタイミングこそが、年一のライセンス更新の時期である今だった。来年の更新では、三か月弱の間リコリコにファーストがいなくなってしまうからだ。
「昇格審査の対象者の更新時期は、少し遅めなんです。恐らくは審査のためにかかる稼働がその時期でないと確保できないからなんでしょうが。とまあ、そういうわけで」
そこまで言って、たきなさんは僕のことを正面から捉える。
「どうせまた更新を伸ばし伸ばしにしている千束を引っ張って、来週行ってこようかな、と」
そして曖昧な笑顔を浮かべつつ、そう言葉を結んだ。手間のかかる子供を見るような、それはそんな表情だった。
「ああ……なるほど」
それもまた、千束らしい。というか確かに行っている形跡は全くないので、ほぼ確実にそうなのだろう。
実際のところ、それはある種僕にとっても好機ではあった。
「なら、僕も一緒に行っていい? その日」
「……はい?」
問いかけに、たきなさんが素っ頓狂な声を上げた。無意識にか、一瞬だけのけ反って、そして僕に詰め寄るように顔を寄せてきた。
まあ、確かに普通はそうだ。いくら多少は関係者と言えなくもない人間になったとはいえ、僕をしてDAに向かう理屈など、そうそう見つけられるものではない。
しかし、今回ばかりは違った。
「は、え? DAにですか?」
冗談だろう。そう言いたげな表情だったが、ところがどっこい僕は本気である。というのも、まさしく僕にはそこへ向かうべき理由を持っているのだ。
「そう。まあ、
ぱちり。
目を瞬かせて暫し、あぁ、と声が上がった。
たきなさんもまた、僕の言わんとすることを感づいたらしい。当然といえば当然だ。その時、彼女と千束は
つまり先週末の、
そのデブリーフィングと、それを下敷きに今後の体制に関する相談も行いたいと、DAから、というよりは楠木さんから持ち掛けられていた。
普段の報告や意見交換はテキストベースか、そうでなければビデオ会議で実施しているところなのだが、どうやら今回ばかりは厳格な秘匿性のもと、物理的な接触を伴った会議の形を取りたいらしい。そうするだけの何かが、恐らくはあるのだろう。
内容が内容と言うこともあってかアジェンダの提示すらもなく、正直何を話されるのか分かったものではないのだが、しかしここで芋を引くのは今更が過ぎる。
そういうわけで行くには行く気だったわけなのだが、それでもどうにも一人で行くのはやや気後れするというのも、一つ人情というものだった。
「……はあ。まあ、事情は分かりました」
そんな辺りのことを話せば、ややじっとりとした目線をこちらに寄越しながら、たきなさんが頷いた。
「わかるよ、ビビりだって言いたいんでしょ」
「いえ、別に」
そう口では言うが、どう考えても内心そう思っていないわけがない。
そのままどちらも何も言わず、いまいち身の置き場に困るような、そんな沈黙が流れる。
その果て、暫くの後に、はあ、とまたぞろ溜息が聞こえた。無論、たきなさんからだった。
「ともかく。そう言うことなのであれば、私としては否やはありません。ただ、先方には伝えておいてくださいね? 駅からの迎車の手配があるので」
僕が大分情けないことを言ったせいでか、母親みたいなことを彼女は言いだしていた。思わず苦笑してしまう。
「さすがにそれは、言われなくとも。社会人だよ僕は」
あっ、と声が聞こえた。視線を向ければ、たきなさんの方も少しだけ気まずそうに、頭へと手をやっている。そのまま顔を背けながら、ちらりと目線だけがこちらを向いた。
「ま、まあ。とにかく大丈夫です。では当日はよろしくお願いします」
どこかそれを早口気味に口にして、言うが早いか手を一つ叩いて立ち上がった。
「さあ、じゃあもう時間ですし、カーディオワークアウト三十分やって、シャワー浴びて帰りましょう!」
どう考えても気まずさを誤魔化したいという態度が見え見えではあったが、とはいえそれを殊更言い立てる必要も感じない。
自分としてもそろそろ切り上げ時かなと考えていたところでもあって、僕もまた同調するように席を立った。
「そうだね。そうしようか」
そこからちょうど一週間後、六月最後の定休日のことだ。
その日、時節はまさに梅雨の真っただ中だった。初夏の緑を滲ませるように、鈍色の空からは雨が降り頻っている。一年前、千束とたきなさんが二人でライセンス更新に出向いた日と、それは全く同じ空模様だった。
ただ一つ、この場に一人異物がいると言うのが、その時との明確な違いだろう。即ち、僕のことだ。
中央本線の特急列車の中、向かい合わせにしたクロスシートに、三人で座っている。たきなさんと千束が隣り合わせで、僕は千束の正面に腰を落ち着けていた。
時折窓を叩く雨粒が、外に映る景色を歪ませる。都心はもはやはるか遠く、高尾山を過ぎた辺りのこの場所は、都会のそれとは違う、森と山の深い緑色が一面に広がっている。
その様子をぼんやりと眺めていたところに、千束から声がかった。
「ごはん、食べなくていいの?」
向き直る。正面に捉えた彼女はこちらを覗きこむように、その身を乗り出していた。
「二人が食べられないところを自分だけ食事摂るのは無理だよ。申し訳ないって」
「真面目だねぇ……」
困ったような笑みを浮かべる。そこにかぶさるように、たきなさんも声を発した。
「ですが、会議は頭を使うのでは? 低血糖では能率も下がるかと思いますけど」
随分と正面切った指摘だった。真面目さでいえば、彼女だって引けを取らないだろう。
千束と二人顔を見合わせる。今度は僕の方も、少しばかりの苦笑いだったかもしれない。
「一応ね、出がけにゼリー飲料一本飲んできてるから。あとほら、追加もあるし」
そう言いつつ、いつものPCバッグの中からゼリー飲料を取り出して見せる。
それだけで、どうやらたきなさんとしては納得したらしい。一つ二つ頷いて、それきり黙り込んだ。
再び沈黙が場を支配する。線路の継ぎ目を跨ぐ度に奏でられる、電車の紡ぐ軽快なリズムだけが、この場の唯一の音だった。
三人こうして何も言わない時間が続けば、真っ先に耐え切れなくなった千束が何か言い始めるものだとばかり思っていたが、しかし彼女は手許に目線を落としていて、言葉を発することもない。何か、思うところでもあるのだろうか。
しかしこのまま黙ってばかりでは、朝早くから駅に集まっていたこともあって、どうにも眠くなってくる。
まあ、それもいいか。そう思って、ふらりと訪れた睡魔に逆らわずに目を閉じようとしたところを、声が遮った。
「しっかし、たきなもファーストかぁ……」
その呟きの主は、やはりというべきか千束だった。自らの纏う臙脂の制服の裾を摘んでしみじみと眺めながら、漏れたそれは感慨深げな響きを伴っていた。
「どうか、しましたか?」
「え? いや別に、どう、って話でもないんだけどさ」
そう言って、窓の方を向く。
「もう、一年以上経ったんだよなって。たきなと会ってから」
「……その節は、どうも」
恐縮したような声だった。思い起こしているのは、ちょうど一年前の、ライセンス更新のあたりのことだろうか。
あの時は僕も大層な醜態を晒したような気がするが、まあそれは彼女たちにはあまり関わりのないことだ。
「いやぁ、そんな畏まらなくたって。いつも言ってるでしょ? 会えてよかったって。今だってそれはおんなじだよ」
千束がたきなさんへ向き直る。そしてその右肩に左手を置いた。そのままゆるゆると揺する。
それをされるがまま、たきなさんの方もまた、千束を正面に捉えた。
「私もそうですよ。千束と会えて、よかった。あの店に、リコリコに来れてよかった」
穏やかな表情だった。それはいつぞやのトレーニングの休憩中に、彼女が言ったことと同じだった。
「あの場所に、ずっといたい」。そう言いながら浮かべたあの時のたきなさんの表情が、ふと脳裏を過る。
その声を受けて、千束が固まった。正面からストレートにぶつけられたたきなさんの言葉に面食らったか。
しかしすぐに、こちらからでもはっきりとわかる形で、彼女はその目を輝かせた。
「そっか……そっかぁ!!」
そして、ひっしとたきなさんに抱きつく。たきなさんが面食らったように目を白黒させた。
「ちょっ……千束」
「嬉しいよ、嬉しい! たきな! ほんとに嬉しい!」
その胸元、千束は頭をぐりぐりと押し付けている。
前に二人がこの電車で本部に向かった時、たきなさんは「DAに戻る」ことこそを第一の目的としていた。リコリコに何か愛着を持っているということは、きっとなかった。
それでも今は違う。彼女は自らの意思で、あの店にとどまることを望んでいる。あの場所が末永く続くことを、願っている。
千束にとってそれは、この上なく嬉しいことだろう。今の振る舞いは、それに対するはちきれんばかりの喜びの表れに相違ない。
それに中てられたか、僕からも言葉が零れていた。
「だから、ファーストになる。そしてあの店を守る。できればもっとずっと先、たきなさんがリコリスじゃなくなっても」
二人がこちらを振り向く。少しだけ驚きを宿した顔つきだった。
それでも、言葉は止めない。僕もまた、自らのあの店に抱える心情を、口にしたいと思っていた。
「たきなさんだけじゃない、僕だって。あの場所は、もうここにいる誰にとってもなくてはならないんだ。だって、君がいるから。君が作った場所だから。……前も、言ったと思うけど」
こちらを向いた千束の瞳が揺れる。
しかし対照的に、たきなさんはその隣で大きく頷いていた。
「そういうことです、千束。だから。……残り少しの間では、ありますけど。それでも私はあの服を着ることにしたんです。千束、あなたとお揃いの服を」
そう言って、千束に向かって笑みかける。一年前から考えれば、それは信じられないほどの変化だった。
井ノ上たきなという少女が、こうまでも慈しみ深い笑顔を浮かべている。それを引き出した千束は、或はあの店は、やはりどうにもかけがえのないものなのだ。僕にはそう思わずにはいられなかった。
前回とは違って、大月駅で一度降りてから、ローカル線*1へと乗り換える。
そこから暫く、降りたのは富士山のふもと、富士吉田駅*2だった。どうやら彼女たちは前回も、いや都度都度この場所からライセンス更新へと向かっているらしい。勝手知ったる足取りで、僕に先んじて足を進めていく。
そしてそのまま駅の出口のすぐ外、ロータリーに付けていた迎えのワンボックスに全員で乗り込めば、音もなくそれは走り出す。
而してDAの本部は、それから程近くの場所にあった。
「直接お会いするのは……前が二月の頭頃でしたし、五か月ぐらい前ですか。いや、お久しぶりです」
「ええ、こちらこそ。ご足労いただきましてありがとうございます」
この執務室兼応接室にやってくるのは、これで都合三度目となっただろうか。互いに応接机を挟んで、お辞儀を交わす。
過去二度の邂逅を経て、僕と、楠木さんと、そして楠木さんの秘書の方の三人は、それなりに相互理解が進んだ。最低でも僕は、そう思っている。
しかし今日に限っては、この場にはそれだけではない、
特徴的な口髭をたくわえた、老年の男性だ。その身に着ける紫色のスーツと黄色いネクタイが、目に珍しい。
「ああ、ご紹介が遅れました。……こちら、
「お初にお目にかかります。警視庁公安部外事第五課第二係、真弓隼矢と申します」
楠木さんに促され、その男性に向けて一礼をしながら名刺を差し出す。
その彼は僕の様子を一瞥した後、軽く答礼しつつ口を開いた。
「これはこれは、どうもご丁寧に。それでは、こちらも失礼して」
そして、彼は名乗った。
「治安維持組織『Direct Attack』、
「
この数か月のうちに初めて知ったその名前と、その意味するところが、反芻される。
曰く、少年の孤児を集めた、DAのもう一つの実行部隊。
また曰く、リコリスに対する懲罰部隊にして、幼少期の千束に何度もその魔の手を伸ばした、彼女にとってかつて最大の脅威であり続けた、組織。
そして目の前の彼は、まさしくそれを動かすことのできる立場にいる。
こわばりかけた身体を、何度か抑えつけた。気取られるな。警戒されるなと。呼吸を一つ、顔を上げた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
僕を見る虎杖さんの目は、楠木さんとはまた違った鋭さを孕んでいる。明確に、僕のことを値踏みしていた。そういう目線だった。
而してその数瞬後、向き合う彼、虎杖さんが軽く頷いて腰掛ける。それを合図に、全員が各々の席につくに至った。
話し合いの最初、口火を切ったのは虎杖さんだった。
「先週の『銃器回収業務』のことですが……楠木くん、その後リコリスとして回収できた銃器はいくつになった」
「件の作戦において回収した銃器は計百五十三、その後当該団体の関連組織への『強行突入』によって追加で四十二挺が回収できています」
そうか。短く言って、虎杖さんは顎に手を当てる。
「そのことですが。あの作戦では未摘発だった闇バイトネットワークのうちいくつかを、件の組織とのつながりで摘発できましてですね。その中のいくらかが『タタキ』を計画して、銃器を保有していました。流通元は無論、
「素晴らしい。……と言うことは、二百三十挺ですかな」
彼の言葉に、頷いた。
「あの時点で散逸、未発見だった銃器の総数は二百四十七挺。つまり残りは十七挺、ですか」
楠木さんが、前かがみになっていた姿勢を正す。
「虎杖司令。本件、リリベルに動きは?」
「いや、知っているだろう楠木くん。現状の我々は、よほどのことがないと動かない。大規模組織犯罪の兆候もない以上、未だ我々の出る幕はないよ。……ただし」
そこで虎杖さんは、改めて僕の方に身体を向けた。
「真弓さん、でしたかな。今回の作戦立案と遂行、なかなかの手際であったと聞き及んでおります。事実として散逸していた銃器の九割を一度で回収できた。これは目覚ましい成果でありましょう」
「痛み入ります」
「ですが」
顎に当てていた手を外す。そして応接机に指をあてて、トントンと一定のリズムを刻んで叩き始めた。
「リコリスの姿を目撃した可能性のある人間、これを捕縛で留めたのはいかがなものか。姿すらも知られてはならないのが我々なのですぞ。見られたのならば、
――違いますかな。
それは明白に、糾弾の声だった。しかし落ち度を、というよりは、DA側の事情を斟酌しなかったことそのものに対する注文にも思えた。
ただ、これをいずれ問われることになるとは内部でも考えられていた。現時点でそれを具体的に誰かから詰められるとまでは想定していなかったし、よりにもよってリリベルの司令が出張ってくることなど完全に考慮外ではあったが、それでもいつどのタイミングでもDAとしては問題視してきそうなポイントではあったからだ。
故に僕はこれに対する答えを既に用意している。自信を持って、口を開いた。
「それについては、配慮できたものと自負しております。当該作戦におけるリコリスの任務としては、固より非殺傷任務を主としている支部『喫茶リコリコ』の二名の外は、原則正面作戦としては用いておりませんでした。ですので露見のリスクはほぼないと愚考しますが」
それに、と言葉を継ぐ。
「銃器の回収それ自体については、DAさん側にお任せしていたはずです。非殺傷による制圧を実行したのだとすれば、それはリコリスとしての現場判断であるかと」
そこまで言い切って、虎杖さんを真っ直ぐに見た。
僕のその答えに何かを返すこともなく、彼はこちらから目線を逸らして楠木さんの方を見る。どうなんだ、と目で問うていた。
「確かに、真弓さんのおっしゃる通りではあります。現場で回収した銃器のうち、八割以上は事務所内部からの発見ですが、これは当該事務所に潜入したリコリスが無血で搬出したものです」
それに、彼女は答える。それは僕にとっては少しばかり意外なものだった。あの楠木さんが、DAの司令が、僕の側に立って援護の論陣を張るとは。
「そうか。ならばまあ、問題はあるまい。……しかしですな、真弓さん。忘れていただいては困るのです」
それを聞いて、虎杖さんとしては納得はしたらしい。しかし僕の方を再度向いて、彼はなおも僕に注文を付ける。
「リコリスにせよ、リリベルにせよ。我々の本分は、『国の治安を守ること』でして。そしてそのためには、我々はその存在を知られてはならない。あらゆる場所、あらゆる時、あらゆる意味において。処分すべきを処分しないのは、その根幹を揺るがす行為として、我々DAとしてはこれを認めるわけには参りません」
つまり、今回の作戦は
もっと徹底して目撃者を
そしてそういう形で、我々の志向を掣肘しようとしている。まさしくそれは政治と言えなくもなかった。嫌な意味において。
「お分かりいただけますかな?」
そんな念押しの言葉に、僕は毅然と、肚に力を入れた。
それを通されては、困るからだ。
「確かにDAさんとしての懸念は理解しますし、それによって治安の不安定化を招くのは、我々としても本意ではないですが」
一つ、呼吸をする。無反応、無感動でこちらを見てくる虎杖さんのことを、正面から見据えた。
図らずも、では確かにあったが、しかしこれは一つの勝負所だった。
「今そのお話をお伺いして、我々としては寧ろお聞かせ願いたい。DAという組織は、どちらを主としているのですか? つまり、『治安を守ること』と、『仇なすものを殺すこと』」
虎杖さんが、片眉を上げた。
「『どちらも同じ』と仰られるかもしれませんが、それでもどちらが先に立つか。つまり我々は、DAさんが
――殺しを安易な逃げの手段にしていないか、と、そういう意味も、そこにはある。さすがにそれは挑発に過ぎるから、直接口には出さなかったけれども。
これは行政、統治機構の一端を担う我々と、かの組織の折り合いのためには、どうしても求められる問いではあった。今までそれをぶつけてこなかったのは、畢竟それを正面切って訊く機会がなかったというだけの話でしかない。
「……愚問ですな。『処分』とは、
たっぷりと間を測るような沈黙のあと、こちらを見据える虎杖さんは、決然とそう返してきた。
「終局的な目的たるは、この国の平穏。それは
そう結び、その冷徹な目でこちらを見据える。
しかしそういうのであれば、話は早い。否、
でしたら、と口を開いた。
「それは我々も同じです。唯一違うのは、その在り方においてデュー・プロセスを、最低でも外形的には遵守しなければならないと言うことだけ。ですから、先般の作戦なのです」
お分かりいただけるか、と、そんな視線で以て彼を見返した。
「我々はリコリスの技能の活用について、『処分』のための運用ではないところに大きくその価値を見出しました。我々の考える形での、リコリスの運用。そのあり方については、私は先の作戦によってその
そしてそれは、リコリスという人的戦力だけに限られない。
「『ラジアータ』もです。先日ラジアータのSNS監視機能をお借りして、当方のアノマリーディテクションエンジンとの連携による『危険度判定』のPoC*3を出しましたが。あれで検出した高危険度のアカウントを対象に警視庁や厚労省の部局からのアプローチングを実施したところ、顕著な成果が上がっていたはずです。……楠木さん、そうでしたよね?」
楠木さんの方へと視線を向ければ、彼女は無言で頷く。そして秘書の女性へと発言を促した。
「例の『事前抑止プロトタイプ』の実装から一か月半ほど経ちますが、前年同月比でのリコリスの出動件数は、五十六・六パーセント減となっています」
「真島の一件の影響でその前月までは前年度比での出動件数が増加傾向でしたから、確かに顕著な成果と言えるでしょう」
秘書の彼女の発言を受けて、楠木さんがそう評する。これに関しては週一の定例共有会の中で、既に出ていた話だった。
そういうわけで改めて虎杖さんの側に目を向けて、そして己の主張を述べる。
「『見られている』心理的効果はやはり大きいですし、適切なカウンセリングやホットラインへの誘導で抑止できる犯罪も多い。そういう方向にDAさんのリソースを使うことも、一つ大きな『治安維持』に寄与しうると、私は、私
虎杖さんはまた思案にか、目を逸らし、顎に手をやった。
「無論、それでは抑止につながらないような、初めから『悪意』を以てこの国の治安を乱そうとする存在がいることも承知はしております。ですのでそういった
そこで彼は、顔を上げた。ほう、と小さなつぶやきも聞こえる。
「リリベルは集団戦闘の素養を培われている組織だと、お伺いしています。もし仮に先の延空木事件のような、自衛隊の治安出動であるとか、或はそれより規模は小さくとも、機動隊の大規模運用が求められるようなG事案が起きうる場合。先手を打つ形でその抑止を担うのは、リコリスよりもリリベルが適任な場合もあるだろう、と。そう思料しております」
努めて笑顔で、僕は彼にそう説く。それは一つの「餌」でもあった。
考えれば、初めからサインはあったのだ。今回の作戦に従事したわけでもないと言うのに、リリベルの統括がわざわざこの場所に出てきたという事実からしてもそうだろう。
しかもそれでいて、彼は話し合いの中で僕のやり方にあれこれと口を挟んできた。客観的に見れば不躾この上ないわけだが、だからこそ彼の持つ狙いははっきりしている。
DA側に立っているはずの楠木さんが、その言論においていやに僕の肩を持っている現状も、その強力な傍証だった。
今回の事件は、つまりまさにきっかけなのだ。DAと我々の関係や、或はDAそのものの在り方も、これからは変化していく。いかざるを得ない。それは電波塔事件以降ずっと続いてきた、リコリス優勢の、「暗殺」主体の治安維持のやり方全般に対する一つの転機だとすら言えよう。
その中で彼は、虎杖さんは恐らく、従前より日陰者に追いやられていたリリベルという組織の復権を目論むにはいい機会だと、そう判断したのだ。それで、国家側の名代である僕に対して「配慮」を求める形で、組織間の連携の中にリリベルの居場所をねじ込もうとしていたように映る。
故にこれは、ある種彼にとっては色よい返事と言えなくはないはずだ。
どうだ、とそちらを見てみれば、果たして無表情ながらも、彼の纏う空気から重苦しさがほんの少しばかり減ったような、そんな気がした。
「なるほど。……まあ、そのあたりが妥結点でしょうな」
その声はどこか納得の色を帯びている。
一つ頷いてから、彼は徐にこちらに向かって右手を差し出した。
「お互い我が国の治安を守る同志、共に力を合わせて参りましょう。今後とも、どうぞよしなにお頼みいたします」
こちらとしっかり目線を合わせて、笑顔すらも浮かべてみせる。それはどうにも含みのある表情にも思えたが、とりあえず今日のところはここらが潮時だろう。
僕もまた身を乗り出して、そして彼の手を握った。
「こちらこそ、そちらの実力については度々あてにさせていただくことになるだろうと考えております。今後ともよろしくお願いいたします」
握った彼の手は、少し乾き気味ではあるものの、しかし僕が思ったよりは随分と暖かかった。
虎杖さんはこの場を去り、いつも通りの三人、楠木さんと僕、そして秘書の女性がこの場に残った。
彼を部屋の出入口まで見送って、応接椅子に戻る。そこに腰を落ち着けたところで、随分とはっきりとした溜息が出てしまった。
瞬間、慌てて口を押さえた。弛んでいたのだ、楠木さんとてDA側の人間であることには変わりがないのに。
「……申し訳ない」
相変わらずの無感動さでこちらを見据える楠木さんに、頭を下げる。
しかし僕が顔を再び上げたとき、彼女はどういうわけか、ずっと鋭かった目つきを少しだけ緩ませていた。
ほとんど見ることのない表情だ。こんな顔もするのかと、内心意外に思った。
「若さですね、真弓さん」
飛んできた言葉もまた、驚くべきものだった。どこまでも堅物で、事務的事項以外何一つとして言う気がないようにしか見えなかった彼女が、こんなからかうようなことを言ってくるなんて。
思わず、声をかけてきた楠木さんのことをまじまじと見てしまう。
しかし特に何の感慨もないのか、そこで彼女はいつぞやのように、窓の外へと顔を向けた。
「虎杖司令の言う通り、我々が至上とするのは『平穏』。そのための手段は問わない。それは大義です」
そのまま、こちらに向けてちらりと目線を送ってくる。
「故に、我々はあなたに期待している。先週の事案についても、そしてラジアータの使い方に関する提案も。特に後者は、我々にない面白い視点だと感心させられました」
「それは、どうも」
軽く頭を下げれば、楠木さんもまたこちらに顔を戻しつつ、一つ頷いた。
「まあ、そちらについてはおいおいでしょう。……それよりも」
そこで、軽く居住まいを正す。話しぶりからは、何か話題を変えようとしているか。
そう考えて次の句を待っていれば、思いもよらない内容が彼女からは出てきた。
「
はあ、と随分と間の抜けた声が出てしまった。彼女たちに何かあるのかと、訝る。
「……いえ、そちらはよくて。……千束のことです」
「はあ。……彼女に、何か」
それはまた、あまりにも珍しい楠木さんの姿だった。つまり、どうにも歯切れが悪い。
「去年の暮れに起こったことについては、我々も把握しています。新たな心臓に関する顛末についても。それで、その後のことです。何か任務において支障が出たことはありますか?」
一瞬、意味がよくわからなかった。というより、楠木さんは千束のことを「千束」と呼ぶのか。そんなどうでもいいことにすらも、気を取られてしまう。
しかし、と思い直した。つまり楠木さんは、千束の身を案じてでもいるのだろうか。
「いえ、特には。その後の彼女は健康体そのものですが」
「そうですか。……我々としても、あと一年とは言え、あの戦力を
何でもないような調子で、楠木さんが言う。
しかしこれはさすがの僕にも分かった。楠木さんはあくまでもDAとしての利益のため、千束の戦力を当てにするための発言だと取り繕っているが、本意はそこにはない。
彼女は、彼女自身の意思を以て、千束の身を案じていた。
「あの、質問よろしいですか」
だからと言うこともあって、ついそんなことを口にしてしまう。目でこちらを促した彼女に、ままよと問いかけた。
「その。……楠木さんにとって、千束はどういう人間なのかな、と」
その問いに、胡乱な目つきで楠木さんがこちらを見てきた。
お互いに、何も言わない時間が過ぎる。一瞬だけその目が威圧するように細められたが、しかしそれからほどなくして、彼女は諦めたように息を吐いた。
「それを知って、どうなさるおつもりか」
「いえ、別に。ただ、気になっただけでして」
「そうですか。……まあ、いいでしょう」
軽い咳払いの後に、彼女は語る。
千束が幼いころから頭角を現していたのは、僕も知っている通りのことだ。そしてそれは心臓移植術を受ける七歳より以前からそうだった。まあそれについてもミカさんから聞かされてはいるのだが、とまれその最初についてはぼかされたものの、楠木さんは千束のことを、どうやら本当に幼少期、養成所時代から随分と気にかけていたらしい。当然にそれは、多大なる戦力となる優秀なリコリスの卵として、ではあったが。
しかし結局、千束の性質はああなわけだ。正直なところ、あれは魔性というべきものだろう。周りの人間をどうしようもないほどに惹きつけて、ともすれば狂わせる。つまり、彼女も絆されてしまったのだ。
電波塔事件のあと、千束は七歳にしてDAと袂を分かつことになった。そしてそのこともあってDAに、というよりはリリベルに公私問わず命を狙われることになる。それをDAへの協力と、喫茶リコリコの支部化と引き換えに取りやめさせたのは、ミカさんと楠木さんの二人の尽力によるものであった。
この辺りの事情は以前千束からも聞き及んではいたけれど、楠木さんの口から聞くと、そこにはまた違った感慨を懐く。
「まあ、その後も色々ありましたがね。……どの道今の千束は、
言い切って、彼女は窓の方へと目線を向ける。
言葉面こそ大層な憎まれ口であっても、その横顔にはやはりどうしようもないほどの愛情と愛着が、確かに含まれていた。
そのあとは、今後の我々の協力体制についての具体案へのあれこれを、一つずつ議題に上げていく。
例えば、「事前抑止プロトタイプ」の実稼働についての相談であるとか、ダークウェブの監視網への同様の機能実装に関する意識合わせであるとか、或はそれを物理アプローチに援用した、犯行予測の被疑地点を都度カバーする、
そうしたいくつかの論点に関する議論を進めていたところで、部屋のドアが控えめにノックされたのを、耳が捉えた。
これは、次の予定か。時計を見れば、確かに所定の面談時間を少しばかり超過していた。随分と議論が白熱していたらしい。
「ああ、そろそろお時間ですか。それでは、今日のところはこの辺りで。ありがとうございました」
やや慌て気味に礼をして、立ち上がろうとする。
しかし楠木さんがそれを、片手で制した。
「いえ、そのままで結構。――入れ」
鋭い声だった。僕への話し方ではない、下位の者に対する冷厳なまでの命令者の声色だった。
ゆっくりと扉が開く。一つの人影が、中へと入ってきた。それを見て、思わず目を見開く。
「失礼します。
え、と声が漏れた。たきなさんが、なぜここに。
しかし僕のそんな驚きをよそに、たきなさんはつかつかと部屋の中央、応接エリアすらも超えて、執務机の傍にまで歩いてきた。その道中、僕の方には一度だけ顔を向けて、会釈をしてきたけれど。
或は彼女は、僕がこの部屋にいることについては知っていたのだろうか。その顔からは、驚きの色は見られなかった。
それに合わせて楠木さんも立ち上がり、応接机の前、たきなさんと向き合う。
「井ノ上たきな。改めてではあるが、この度のライセンス更新において、
「はい、楠木司令」
「よろしい。ともかく、これでお前は晴れてファーストだ。ついては、これを」
彼女の横にいつの間にか立っていた秘書から、楠木さんが一つの包みを受け取る。それをそのまま、たきなさんに渡した。
こちらから見えるのは、マチ広と思しき厚手の紙袋だ。畳まれたそれの上に置かれた、ポリプロピレン製の袋の中、何かが収められている。照明に反射する包みの向こうに、
つまりそれは、
更にその上に乗っている一枚紙は、恐らくは辞令か。
「本日付の辞令と、支給品だ。したがってここから退去する際には、更衣室でそれに着替えるように。そしてその後、現在着用しているセカンド制服については直ちに返却すること。返却先は把握しているな?」
「問題ございません」
「結構。では私からは以上だ。そちらから何か質問はあるか?」
「いえ、特には」
「わかった。ならば、用件としてはこれだけだ。下がっていい。気をつけて帰るように」
きびきびとしたやり取りが続いて、その末にたきなさんのファーストとしての正式な昇格手続きが完了する。
それが終わるなり楠木さんはこちらを見て、そして僕にも告げてきた。
「お聞きの通りです。そちらからは、何か」
「いえ、僕からも何も」
「そうですか。でしたら今日は以上となりますので、そのままお帰りいただいて構いません。ご足労いただきありがとうございました」
身体ごとこちらに向いて、その頭が一度だけ下げられた。
去り際、ご丁寧にも入り口際まで見送りに来てくれた楠木さんに、たきなさんと二人そろって礼をする。
その先で扉はゆっくりと僕たちと楠木さんの間を遮ってゆき、しかし閉めきられるその直前、頭を上げて見えた視界に、彼女の表情が映り込んだ。
そこに僕は、いつもと違う色を見た。
その姿に思う。もしかしたら楠木さんも、或は僕の思い描く未来に一定の期待を持ってくれているのかもしれない。
DAの大義を成すことこそが本位だと、そればかり考えていると思っていた彼女であっても、この国の、そしてリコリスの少女たちのあり方を更に前へと進めることができるのであれば、それは望むべきことだと、そう思っているのだろうか。
いや、そうであればいい。そうあってほしい。たとえ身勝手な願望であっても、僕はそう思わずにはいられなかった。
ラジアータがSNSの監視をやってるなら、その気になれば行政サービスにも転用できるのでは? という発想。しかしその基盤が国民への監視システムである以上、ひとたび間違えると「Big brother is watching you!」になりかねない、諸刃の刃でもあります。
一応、作中で主人公が提案しているものは比較的抑制的で、実際現実世界でもSNS(=twitter)での生活困窮者の投稿に厚労省が貧困者支援サービスへの案内をリプしたり、闇バイトの募集ポストに警視庁が妨害のリプしたりしてますが、あれを機械学習エンジン使ってもっと広範囲かつ正確にやろうというぐらいのイメージです。
そして、もう一つ。リコリスの昇進(或は降格)がライセンス更新のタイミングで行われるというのは独自設定です。
ただまあ、普通に考えれば原作でもそうだろうとは思いますが。
というかこの話書いてて思ったんですけど、原作の千束、最終話のあとハワイに飛んで十二月上旬ぐらいまで帰ってこないので(喫茶リコリコ公式Twitterが劇中のタイムライン通りなのであれば)、ライセンス更新できてなくないですか? どうなってるんでしょうねあれは。