世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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Apdx.03-06 (1/2)

 僕たちがリコリス棟の正面玄関にやってきたとき、千束はそこにはまだいなかった。

 たきなさんの今の装いは、ここに来る前とは変わっている。つまり、彼女は臙脂色の装い(ファースト制服)へと着替えを済ませていた。従前の紺地(セカンド)の制服も既に返却を終えていて、あとは残りの一人を待つばかりの体勢にあるといえよう。

 時刻は午後三時に近いが、彼女の作業はまだ続いているらしい。或は今年も更新最終日でギリギリ滑り込んだから、何か文句の一つでも言われているのだろうか。

 

 改めて、この場所全体を見回す。ここに来るたびに思わせられるところではあるのだが、顔認証を組み込んだ厳重な入退館管理と、内容物確認のための手荷物に対するX線検査装置まで取り入れられた保安検査システムは、はっきり言って本庁(我々)のそれよりも大掛かりだ。

 そこはかとなくではあるが、データセンターを想起させるものがある。このホールの寒々しい照明にリノリウムの床材も、そういう印象を強く僕に抱かせた。

 尤も、ここに住まうリコリスたちにとってみれば、これにはそんな特別な感慨など持ちはしないだろうけれど。

 

 僕とたきなさんの間に、いずれにせよ会話はない。恐らく互いに何となく、千束を待つ方に意識が向いているのだろう。

 果たしてそこから十分ほどが経って、僕たちの待ち人がようやっと現れた。

 ――ひえぇ、もうこんな時間!

 そんなことを独り言ちながらも、曲がり角の向こうから小走りでやってくる。その姿は次第に近づいてきて、途中、顔がふいにこちらへと向けられた。

 

「千束」

 

 呼びかけながら、手を挙げる。何の気なしに眺めていだのだろう、そこからたっぷり一拍の後に僕たちの存在に気づいた千束が、その顔を輝かせながらも一気に駆け込んできた。

 

「あ、隼矢さんお待たせ! って……」

 

 そこでようやく、僕の隣のたきなさんの存在に意識が向いたらしい。そちらへと目をやって――そして彼女の装いにか、感嘆とも驚愕ともつかぬ声をあげた。

 

「たきなぁ!!」

「え、ちょっ……!?」

 

 そのまま、たきなさんに飛びつく。発された困惑の声をよそに、千束は矢継ぎ早に問いを浴びせかけた。

 

「ファーストなれたんだねぇ! おめでとう!」

「……どうも」

「リコリス棟の子たちには? 挨拶できた?」

「はい、一応は」

「そっかそっかぁ! いやぁ、ほんとにファーストだなぁ……」

 

 満面の笑みで、うんうんと頷く。そしてそのまま、彼女の周りを一周、ぐるりを回った。

 

「しかし、たきながファースト服着るとこうなるのかぁ……」

 

 そして正面に戻って、頬に手を当てる。しげしげというか、じろじろというか、そういう目つきでくまなくその立ち姿を見回した。

 

「何か?」

 

 当然に、その目線を受けたたきなさんはやや当惑気味だ。ただそれにも、千束は答えるそぶりはない。

 相変わらずたきなさんの上からその目を動かすこともなく、そしてその首が、少しだけ傾げられた。

 

 それはやや不躾な態度にも思えたが、僕には何となく、千束の思うところが理解できていた。

 たきなさんがこの服を着て僕の前に現れた時、最も初めに懐いた印象というのは、()()()だったのだ。彼女には失礼極まるから、その態度を表に出すことはしなかったけれど。

 

 敢えて弁解しよう。たきなさんは、見目麗しい少女だ。それは間違いない。菫の虹彩は澄んだ輝きを放ち、腰まで伸びる黒髪は艶めいていて、透き通る白い肌と端正な相貌は、幼さを宿しつつも怜悧な美しさをその内に宿している。

 ただ如何せん、彼女が身に纏うものの色としてはどうしても()()()()()()()のだ。これに関しては習慣の問題もあるかもしれないが、ともかくも僕にとってはそうだったし、そしてそれは千束にとっても、なのだろう。

 

「いや、新鮮だなぁって。だってほら、私たちにとっちゃたきなの色といや紺色(セカンド)だったんだし、ずっと。今まで」

「ああ……」

 

 長い思案の末に口を開いて、やはりというか、そう返した千束の言葉に、たきなさんは得心がいったように頷く。

 そして自らの袖を摘みつつ、僕たちに問いかけた。

 

「……似合い、ませんか?」

 

 その言葉に、千束と二人顔を見合わせた。思うところは同じだろう。

 ――まさか、たきなさんからそういうニュアンスの言葉が聞けるとは。自らの姿が他人にどう見えるかなど、彼女はこれまで気にしてもこなかったはずだろうに。

 これもまた、変化と言えるのだろうか。もしそうなのだとすれば、喜ばしいことのように思えた。

 故にそれに答えるには誠意を以て当たるべきだと、僕は直感した。

 

 改めて今のたきなさんの出で立ちを見る。

 やはり、見慣れないは見慣れない。ただしっかりと見れば、その服もまた彼女の別の側面を引き出していて、決して悪くなかった。

 

「いや、そんなことはないよ、けど……」

 

 またしばし、考える。

 ファーストの制服は、臙脂色をベースに、ワンポイントとして濃紺のリボンタイがあしらわれている。一部がレイヤードだったりと割かし凝ったデザインをしているのだが、とにかく僕や千束にとっては、「これは千束()が着ているもの」という先入観があまりに強かった。

 それもあるのか、なんとなくではあるものの、彼女の菫の双眸が、濡羽の髪が、纏うその服と連続した印象にならない。何というか、そこに小さな断絶があるような気がしていた。

 

 しかしそこで、ふと思いついた。連続した印象を持てないのであれば、持てるようにすればいい。

 千束を見る。正確には、彼女の髪の彩りになっている、()()()()()を。

 

「髪紐、か……」

 

 思わず呟く。それはある種天啓だった。

 

「え? 髪紐? どした」

 

 耳聡く聞きつけて、千束が訝しげに声を上げる。僕の方を見て、こてんと小首を傾げた。

 さすがはリコリス、鋭い五感だ。考えはまとまりきっていなかったが、訊かれたならば応えるよりない。

 

「いや、今のたきなさんの。千束の髪紐みたいなのをこう、髪にね。したら、馴染まないかなって」

 

 湧いたアイディアをどうにか言語化して、その是非を問うてみる。

 それを聞いて、彼女はしばしの沈黙のあと、両手をぱちりと合わせた。

 

「……確かに! いいねそれ!」

 

 僕の姿を正面に収め、その瞳がきらりと光る。そしてすぐさまたきなさんの方へと向いた。

 勝手に話を進めている僕たちをどこか怪訝な様子で見ていた彼女に、千束はにやりと笑う。

 

「たきな、今度いいものあげる。そしたら、ばっちり似合うと思うぜ、その服!」

 

 そう言いながら、右手の親指を立ててみせた。

 

 それとほぼ時を同じくして、一台の黒いワンボックスが表に回されてきた。

 僕たちがここへ来たときにも、駅に迎えに来ていた車だ。その中からDAの職員が降りてきて、こちらに向かって乗車を促す。

 つまりそれは、僕たちをしてそろそろこの建物からお暇する時間だということを意味していた。

 

 今の時刻は午後三時を少し回ったあたり。朝から降り続いていた雨は漸くにしてその勢いを弱め、薄れ始めた雲の切れ間からは、僅かに黄色みがかった初夏の陽の光が微かに差し込んで、天に階を作っていた。

 

 

 

 帰りは、行きの逆順だ。大月駅からまた中央本線に乗って、終点の新宿まで向かう。そこからは総武線で錦糸町まで行って、恐らくは現地解散になるだろう。それで今日のスケジュールは終わりになる。

 大月から乗り込んだ中央本線の特急の中、行きと同じく向かい合わせにしたクロスシートに三人で座る。各々の膝の上には、富士吉田駅で買った駅弁が載せられ、そして広げられていた。

 

「毎度思うけどここってさぁ、肘掛けにテーブルないんだよなぁ……」

「背もたれにはあるじゃないですか」

「いやそしたら三人で座れないし……」

 

 千束が文句を垂れている。

 確かに長距離移動を伴う特急列車の車両として、肘掛けから引き出す形のテーブルがないのは珍しいといえなくもない。弁当の箱を膝の上に乗っけて食べるのは、安定性という意味で難はあるし、なにより口に運ぶには場所が低すぎる。

 しかしそれも、僕にとっては悪くなかった。

 

「まあいいでしょ。膝の上に置いて食べる駅弁だってオツなもんだよ」

「……ま、確かにね」

 

 やり取りもそこそこに、三人ひたすらに箸を進めていく。とにかく朝からほぼ半日、全員まともな食事をとっていなかったこともあって、その空腹加減には深刻なものがあった。

 ひたすらに無言で食事が進み、それから十五分と経たず、僕たち全員は持ち込んだ駅弁を平らげてしまった。

 

 そうなると、急に手持ち無沙汰になる。何とはなしに、外を見た。

 列車の窓からは柔らかな光が差し込んでいる。昼までの雨に濡れてその青みを増した外の緑が、鮮やかなコントラストを描き出す。梅雨の雨上がり、晴れ間の景色は、初夏のものとも盛夏のものも違う趣の彩りを帯びて、僕の目には映った。

 そこで、ふと気づいた。その手前、窓ガラスに薄く反射する車内で、千束がじっとたきなさんのことを見ている。気になってそちらの方に目線を戻すと、僕の目線をまともに受けたたきなさんが、戸惑ったように横を見た。

 だがそちらの方でも、千束が未だたきなさんの方をじっと見ている。それをいきなり目にすることになった彼女は思わずといった様子で仰け反って、また僕の方を見た。物問いたげな目線だった。

 ただ僕はそれに何か答えるものを持ってはいない。黙っていれば、その後彼女は何度か僕たちの上で視線を彷徨わせて、そして最後に誰に向けてでもなく、問いを発した。

 

「……何ですか?」

 

 その声は、はっきり戸惑っている。無理もない。それには、千束が答えた。

 

「いや、一年前のこと思い出して。あの日も行きは雨で、帰りは晴れててさ。初めて私のこと、『千束』って呼んてくれたんだよなぁって」

 

 なるほど、それでたきなさんの方を気にしていたのか。内心で納得していた僕を尻目に、たきなさんも合点がいったような声をあげた。

 

「それで、隼矢さんがボドゲ会の誘いのメッセージ送ってきたんでしたよね。返信の写真、二人で撮って」

 

 ――懐かしいですね。

 それは幾分か感慨深げな声色だった。

 顧みればあの時はまだ随分と平和で、或は牧歌的ですらもあったように思う。それから始まる一連の大事件の影はまだそこにはなかった。

 しかしそれでも、たきなさんがこの場所に根付くための時間として、あの日々はきっと大事なものだった。そう、今は考えている。

 

「随分と、変わりましたね。私たち」

「そうだねぇ……」

 

 窓の外を眺めて、千束はしみじみとそう口にした。

 しかしそこで、たきなさんが首を振る。

 

「他人事みたいに言ってますけど。千束、あなたもですよ」

「ん?」

 

 千束が、彼女に向き直った。小首を傾げて、自らを指さす。

 

「私?」

「はい。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()んですから。そうじゃないですか?」

 

 たきなさんのその言葉は、どこまでも実感を伴っていた。程近くから千束のことを見てきた、彼女だからこそのその感慨だろう。しかしそれは僕にしても同じだ。同じことを、考えていた。

 

 心臓が壊されたあの日から、強く意識していたことだった。

 千束の持つ得難い信念は、その裡に抱える()()()()()から来ていた。その強さも、清らかさも、どこかに見える儚さも、彼女を成り立たせていた全ては、その場所から湧き出ていた。

 そのことに気がついて、しかし僕は否定したのだ。その諦念というものを、僕はどうしても受け入れられなかった。

 たとえそれがどれほどに得難くとも、かけがえのないものであっても、生きてそれを成せることの尊さには、優りはしないだろう。そう、信じていたからだ。

 

 そして今、千束は生きている。十年という年月も、二か月という()()()()も、その全てを踏み越えて、そして彼女は変わった。()()()()()()()()()()

 千束が、僕の方を見る。僕もまた、千束に無言で頷いた。

 

「……そう、だね。それはそう。私も変わった。そうなんだろうね」

 

 それを見てか、彼女も一つ頷き返す。そしてたきなさんの方を向いて、そう言葉を返した。

 

 そうだ。諦めを捨てた彼女は、それまでよりもほんの少しだけ我儘になった。やりたいことが増えて、出来ることも多くなったから。でもそれは僕たち全員にとって、喜ばしい変化にも思えた。

 自らを「自分本位な人間」だと規定している千束であっても、自己を世界の慮外に置いていたからか、その内実はどこまでも利他的なものだった。故に彼女は自身の思っているほど、自分のことを省みられてはいなかったのだから。

 

 

 

 この一年と少しの回顧ということもあって、どこか僕たちの間にはしみじみとした空気が流れていた。どことなくいい話だった風に場がまとまってしまって、次の話題の端緒が見つからない。

 内心それでもいいかと思い始めたところで、しかしこの沈黙は唐突に破られた。

 ぱん、と両の手を打ち付ける音がする。千束だ。そだ、と何かに気がついたかのように声を上げた。

 

「変わったといや、隼矢さんだよ!」

 

 そして、僕の方へと目を向ける。

 何のことか。そう思って首を傾げたところで、千束は腕を振りかぶり、そしてずびし、とこちらに向かってその指を突きつけた。

 否、その指先は、正しくは()()()()に向いていた。

 

「スタイルだよスタイル! え? いや本当に分からない?」

 

 信じられない、とでも言いたげな声だった。

 そこまで言われて、その挙措を見て、やっと気がつく。

 

 変わった。確かにそうだ。でもそれは連想ゲームの類だろう。今までやれ価値観だやれ内面だと、ものの考え方というか、形而上の話をしていたはずなのに、いきなり話が物理的な方向へと変わっているではないか。

 普通至らない発想だと思うばかりだったが、しかしこれはこれで千束らしいのかもしれない。内心苦笑いではあったけれど。

 

「千束……」

 

 同じことを思ったのか、たきなさんも呆れ声を上げる。

 

「いや確かにそうですけど、いまそういう話じゃなかったですよね?」

「そうだけどさ! でもたきな、ほらこうやって見たら、めっちゃ変わってるでしょ隼矢さん! なんつーかこう、細いは細いんだけど、でもしっかりしてきた感じで!」

 

 対する千束は、言いながらもどんどんエキサイトしていく。そして僕の方へと身を乗り出してきた。

 

「いやぁ、鍛えましたなぁ! 私んとこいるとき以外は毎日やってたんだっけ?」

「まあ、そうだけど」

 

 もはや話題は完全にそちらへと変えられてしまっている。未だ若干ついていけていないままにとりあえずと返した僕にも、彼女は上機嫌に何度も頷いた。

 

「いいねぇ……いやぁ、ホントよくここまで身体作ったよ。たきなもやるなぁ!」

 

 たきなさんに向き直って、千束がその肩をぽんぽんと叩く。それは純粋な賞賛と、労いの言葉には違いなかった。

 しかし当のたきなさんは、はっきり浮かない顔をしている。さもありなん、だろう。というより、これに関しては僕の責めに帰すべきところが多かった。

 千束はあくまで、たきなさんが僕のトレーニングを監修している、というところまでしか認識していない。僕が話しているのはそこまでだからだ。

 ただ実際にしているのは、()()なのだ。彼女はそのために、僕の調()()()()まで組んで、そして遂行してくれている。それは僕が頼んだからに他ならない。

 

 つまり僕たちはこの期に及んでなお、千束のことを騙しているのだ。

 いや、たきなさんは悪くない。そうさせたのは、あくまで僕なのだから。それでも、恐らく彼女ははそのことを割り切れてなどいなかった。

 

「……それは、どうも」

 

 当然に、返る言葉はいまいち歯切れが悪い。それを聞いて少しばかり怪訝そうに首を傾げた千束だったが、そこで何かに気づいたか、ぽん、と膝を叩いた。

 

「そだ。そういや今日もお店の定休日だし、二人はトレーニングの日だったか、ホントなら」

 

 そう一人納得してからしばしの後、いいことを思いついたとばかりに、僕たちに一つの提案を投げつけてきた。

 

「んー……どうせだし、帰ったら()()()()()()()、トレーニング。たきなの指導めっちゃうまいって隼矢さんが褒めてたんだ、だから前から気になってて」

 

 反射的に、奥歯を噛み締めていた。右手もまた握られて、それを悟られぬように腰へと当てた。

 

「ね、いいでしょ?」

 

 そう言って、無邪気に千束は首を傾げる。

 

 それは、いつの日か来てもおかしくない瞬間ではあった。

 つまり、彼女はとうとう僕たちの秘している領域に足を踏み入れてきた。そういうことを、意味していた。

 

 

 

 たきなさんと二人、顔を見合わせる。彼女は首を横に振った。誤魔化すべきだと、その目が強く訴えている。

 しかしこの期に及んでそうすることが正しいとは、僕にはあまり思えなかった。どのみち次の定休日には一定のカリキュラムが終わって、そしてそのぐらいのタイミングで千束には訳を話すことは決めていたはずだった。既成事実を作ってから、結果を伴ってから、それでもその時は誠心誠意謝る。最低でも僕はそうするつもりではあった。

 

 これがもっと前に感づかれかけたのであれば、誤魔化す意味もあっただろう。しかし残りもうそこまで時間がないところで、ここで千束にこのことをだまくらかして、一週間やそこら経って今度は「実は騙していたんです」とばかりに本当のことを打ち明けようというのは、不誠実極まりない行いではないのか。

 既に彼女にやっていることを考えれば、そんなのは五十歩百歩だろうと言われれば、それに何か反論することは難しいのは確かだ。それでもなお、僕はそう思わずにはいられなかった。

 

 一人、目を閉じる。千束のためだと言いつつも、ここまで三か月弱に亘って彼女に嘘を言い続けた、自分の不義理を顧みた。

 それは正道には悖る行いで、だからその報いはどこかで必ず受けねばならない。その覚悟は初めからしていて、そしてそれが今になった。きっとそれだけのことなのだ。

 何より僕は、この行いにたきなさんすらも巻き込んでいる。その責任も取ろうというのに、それをいつまでも先延ばしになどできるはずもなかった。

 

 目を開ける。覚悟は定まった。不思議そうな目でこちらを見る千束をまっすぐに見据えて、そして呼びかけた。

 

「千束」

「なぁに? え、ほんと何だよその顔」

 

 声色に当てられたか、彼女の瞳は戸惑いの色を湛えている。

 それでも、もはや心は決まっていた。揺れることなどない。ただ、ゆっくりと頷いた。

 

「――わかった。それじゃ、錦糸町駅で一旦解散したら、午後六時ぐらいに北押上駅で」

「隼矢さん!?」

 

 たきなさんが、思わずと言った拍子で驚愕の声を上げた。

 千束と二人、彼女を見る。咎めるような目線が、僕を刺した。

 けれど、いずれ同じだ。故に僕は、ただ真っ直ぐに頭を下げた。そして頼み込む。

 

「頼むよ、たきなさん」

「ですが……」

 

 顔を上げた先、彼女は千束を見て、また僕を見る。斜め下に視線を逸らして、そして最後、再び僕の方を見つめ直した。

 

「え、どったの? たきな」

「あ、いえ……隼矢さん」

 

 千束の問いかけに手を振りつつも、彼女は僕の名を呼ぶ。そこに含まれた意味は、明白だった。

 ――本当にいいんですか。

 つまりそれは、最終確認に相違なかった。

 

「……ごめん、お願いだ。付き合わせちゃうのは、申し訳ないけど」

 

 故に、それへの答えは一つしかありえない。もう一度頭を下げた僕を見て、そしてとうとうたきなさんは頷き返した。

 覚悟を決めてくれたのだ。

 

「わかり、ました。でしたら、()()は持ってきた方がいい、と言うことですね?」

 

 「アレ」。つまり、()()()()()()()のことだ。

 黙したまま頷く。それは必要な装備だった。千束には恐らく、()()することになりそうだから。

 僕の反応を見て、たきなさんもまた「わかりました」と短く答えた。

 

「……ん?」

 

 そしてそんな僕たちのやり取りを、未だ要領を得ないとばかりに小首を傾げて、千束が見ていた。

 

 

 

 午後五時過ぎに錦糸町駅で一度別れ、自宅に戻る。シムニッション弾で汚されても問題のない、()()()()()()()()へと着替えて、再度出発した。

 そして時は夕方の六時、北押上駅へとたどり着く頃には、別れ際と同じリコリスの制服姿のたきなさんと千束が僕のことを待っていた。どうやらお互い何か話すようなこともなかったらしい。二人はそのとき、ただひたすら静かだった。

 千束の方はその沈黙を苦にしてはいないようだったが、何にせよたきなさんが言葉の一つも発していないのは、その心中がきっと穏やかなものではないからなのだろう。そんな風にどこか他人事のような考察を加えて、しかしもとはといえば己のせいだろうがと、そんな自分に辟易する。僕にとっては悪い癖だった。

 しかし、そんなことを思ってここで立ち尽くしていても仕方がない。ともかく集まったと言うことで、僕たち三人は目的の場所へと歩き始めた。

 

 

 

「ここです」

 

 そこからしばらく、僕たちにとってはお馴染みの――或は千束にとってもそうかもしれないが――件の訓練施設へと辿り着く。その前で立ち止まったたきなさんに、千束は訝しそうに声をかけた。

 

「んえ? いやたきなさんや、ここDAのやつじゃん。なに、隼矢さんここでトレーニングしてんの?」

 

 事情を知らなければ、至極当たり前の疑問だろう。大方千束は、旧電波塔周辺のパーソナルジムか何かを使っているのだと思っていたに違いない。

 しかしたきなさんは、それには何も答えなかった。

 

「千束。……中に入って、話すよ」

「え? あ、うん。わかった」

 

 千束とたきなさんがまず先に立ち、DAの設備共通の顔認証システムで出入口を開錠して中へと入っていく。

 そして僕は、いつもの通り入館証をICカードリーダーにかざして、その後に続いた。

 

 たきなさんには躊躇がない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そのままスタッフ出入口に偽装された扉の先、地下に続く階段へと一直線に向かう。

 

「ここかぁ……って、うえぇ!? いや、ちょちょちょ、ジムって上にしかないでしょ、そこは……!」

 

 千束の戸惑いを含めたその問いには、目すらもくれなかった。立ち止まる千束を追い抜いて、僕もまたたきなさんについていく。

 慌てたように追いかける足音を背後に聞いて、たきなさんと二人、無言で地下へと降りて――そして地下施設の入り口に立つ頃には、彼女は何も言わなくなっていた。

 

 シューティングレンジのエリアを過ぎ、キルハウスの前、いつもフィードバックに使っている談話スペースに至って、そこでやっと僕とたきなさんは、後ろをついてくる千束へと向き直る。

 今そこにいる彼女の立ち姿を見て、僕は心の中にあった懼れを自覚せざるを得なかった。

 ここにやってくるまでその様子を見ようとしなかったのは、或は見れなかっただけなのかもしれない、と。

 

 やや伏し目がちの相貌からは、表情の全てが抜け落ちていた。何の感情も読み取れないし、何を考えているかも分からない。当然にして、何一つとして言葉を発する素振りもなかった。

 つまり、さすがにもう察しがついているのだ。僕たちが、本当はここで何をしていたのか。

 

「千束」

 

 呼びかける。彼女はただ黙って、僕の言葉を聞いていた。

 

「ごめん。ただの『トレーニング』っていうのは、嘘だった。トレーニングしてたこと自体は、ホントだったんだけど」

 

 そこまで言っても、何も返してはこない。恐らくは僕が決定的なことを口にするまでは、ずっとそのままのつもりなのだろう。

 

「僕が鍛えてたのは、()()()()なんだ。戦うための、生き残るための力が、必要だと思ったから」

 

 目線が、地面を向く。つられて視線を少し下に向ければ、彼女の右手が握られているのが見えた。そこに見える小さな震えが、込められた力の強さを僕に意識させる。

 

「黙ってたのは、隠してたのは、本当に悪いとは思ってる。だけど、言えなかったんだ。始めたのは、四月すぐぐらいだったから」

 

 予断ではあったのだろう。しかし僕がこの道をとるならば、それが正しい選択だったのだとは、今でも信じている。

 千束にとって、延空木のことというのは未だ忘れ得ぬ記憶なのだ。四月のころなど猶更の話だった。未だ続く()()の出始めで、千束は自らの衝動の吐き出し方にすらも戸惑っていた。話になど、なるはずがない。

 

「あの時の千束には、言えなかった。せめてある程度形になって、僕に最低限、自分を守れるだけの力がついてから言おうと思ってたんだ。だから」

 

 故にそうやって断じた今の僕にできることなど、この頭を下げ、許しを乞うことぐらいしかなかった。

 それすらも、烏滸がましいことかもしれなかったけれども。

 

「――ごめん。本当に、ごめん。君に隠して、黙ってて。騙してて」

 

 彼女が何かを言うまで、僕は頭を上げるつもりはなかった。けれども言葉は降ってこず、ただ無言の時間だけが過ぎている。

 千束がどんな気持ちで、表情でいるのか、窺い知ることもできはしない。ただそこから少しの間を経て、ポツリとした呟きを拾った。

 

「そっか。そうなんだ」

 

 顔を上げる。千束は、未だ俯いたままだった。こちらに顔を向けることなく、そしてまた口を開く。

 

「やるなぁ、隼矢さん。私にここまで隠し通すとは」

 

 彼女は、首を振る。そしてその顔を上げた。

 騙されたことを、怒っている。そうとばかり思っていたけれど、しかしその実は違った。

 

 その顔を見て、思わず息すら忘れる。

 彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()。いや、それは正しい。事実僕は、千束を裏切ったのだ。たきなさんすらも、巻き込む形で。

 

「ねえ」

 

 震える唇が、音を紡ぐ。僕は何も言えなかった。

 

「ねえ、隼矢さん。私は、もうあなたには()()()()()()はさせたくなかった。それは、知ってるでしょ。……いや、知ってたから黙ってたんだもんね。聞くまでもないか」

 

 言葉が刺さる。痛みを内包した声だった。しかし千束はそれだけでは収まらない。たきなさんの方を向いて、さらに呼び掛けた。

 

「たきなも。前私話したよね、次こんなことがあったらって。……何で止めなかった」

 

 その言葉につられて、僕もたきなさんの方を見る。

 これは、よくない展開だった。僕のせいで、千束とたきなさんの関係が悪化するなど、そんなのは本意ではない。ただでさえ、たきなさんには迷惑をかけたというのに。

 

「いや違うんだ。それは、無理やり僕がたきなさんを――」

 

 慌てて彼女に責任はないことを弁解しようとした僕を、しかし横から伸びる手が制した。

 誰のものか。言うまでもない、()()()()()()()()

 

 口を真一文字に結んで、一度俯く。

 そして今一度顔を上げ、千束の方を真っ直ぐに見据えて、彼女は口を開いた。

 

「千束。これは私が決めたことです」

「いやたきなさん、何を――!」

 

 何を言うのか。思わず上げた抗議の声も、こちらを向いた強い眼光に黙らされた。

 すぐさま目線を戻し、続きを口にする。

 

「隼矢さんに自衛のための力を持ってもらうことが最も合理的だと、()()()()()()()です。だから止めなかった」

「……どういうことだよ、それ」

 

 瞳が揺れる。それはたきなさんの言葉が、意外だったからなのか。

 

「千束の考えは分かります。そもそも隼矢さんが、『そういうこと』に巻き込まれないようにすればいい。そうすれば、こんなことなんてさせなくてもいいと」

「そうだよ。そういう風に私たちがすればいい。むしろ隼矢さんが下手に戦えるようになる方が危ない。違う?」

 

 それはあの日、最初に僕がたきなさんに相談を持ち掛けた時、彼女自身が言った念押しの一つとも通ずるものがあった。

 しかしたきなさんは、首を振った。

 

「できますか? いついかなる時も、どんな場合でも、この人をあらゆる危険から遠ざけると。本当に言い切れますか、それを」

「それは……」

 

 珍しく、あまりに珍しく、たきなさんが千束を圧している。

 それまで千束の言うことは、なんだかんだと尊重して、受容してきた――或は()()()()()()ともいうべき彼女が、いつもと全く違った様相で、千束に相対している。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「隼矢さんは、クルミとはわけが違うんです。わかるでしょう? 千束、例えばあなたの家にこの人を押し込めて、二度と外に出せないようにして、一生かけて養う。そうすれば、もしかすればもしかするかもしれませんけど」

 

 その言葉に、ゾクリとした。極論ではあっても、たきなさんにとって今の千束の不安定さというのは、そういうことをしかねないほどの危うさをも孕んでいると、そう主張しているように感じられたからだ。

 いや、それだけならまだいい方だろう。もし彼女のほうも()()()()()()()()()()()()()()()とちらとでも考えていたのだとすれば、僕があの日千束に、そして()()()()()()及ぼした影響の深刻さというのは、自ら思っていたものよりもはるかに深刻だったのかもしれないと、今更ながらに思わせられた。

 しかし僕のそんな衝撃をよそに、たきなさんはもう一度首を振って、更に続ける。

 

「ですがそれを、隼矢さんが望みますか? 千束、あなたはこの人をそうまでしてでも危険から遠ざけると、遠ざけたいと、そう言うつもりですか」

 

 険しい目つきだった。それが内包する感情は、憤りにも似た色をしている。誰に向けてのものか。僕にか、千束にか、或は自分自身になのだろうか。

 千束が、また俯いた。でも、だって。小さくそんな言葉が漏れ出てきて、けれどそれはあまりに弱々しい。

 

「……だって、隼矢さんは、私たちみたいなことをすべき人じゃない。生きるためでも、なんでも。銃なんて持って、それで誰かを傷つけるなんてこと、させていい人じゃないんだ。――嫌だ。嫌なんだよ、そんなのは。そんなことを、しなきゃいけなくなるなんて」

 

 思わず、唇を噛みしめていた。そうまで、僕のことを考えてくれている。知っていたのに、分かっていたのに。

 それでも、たきなさんと僕は、どうしてもリスクを取れなかった。

 それは冷たいまでの理屈だった。そしてその名分のもとに、千束の感情を、真心を踏み躙った。ないがしろにしたのだ。今更ながらそれを自覚する。改めてその罪悪感が、胸にじわり広がった。

 

 全員で押し黙る。それまで滔々と千束に諭していたたきなさんですらも、何も言わない。

 重苦しい時間だけが過ぎてゆく。僕の中には、この場に出すべき己の言などありはしない。そしてきっとその資格すらもなかった。

 

 永遠に続くかと思われた停滞が、しかしそこで打破される。たきなさんが、一歩踏み出した。

 何をするのかと思えば、彼女は千束の傍まで寄っていく。そして千束の目の前、目と鼻の先に立って、徐に腕を広げた。

 

 たきなさん。僕が呼びかけようとした、それにほんの少し先んじて、彼女は更に一歩を踏み出す。

 

 

 

「……ぁ」

 

 そして千束のことを、自らの腕の中へと抱き寄せた。その右手は、彼女の頭へと添えられていた。

 軽く息を吸う音が聞こえる。たきなさんが、腕の中の千束へと語り掛けた。

 

「千束。私はあなたにいろいろなことを教えられました。居場所をくれました。大事なものが、出来ました。全部全部、あなたが私にしてくれたこと。あなたが私にくれたものなんです」

 

 慈しむような声色だった。その腕に、力が籠る。二人が纏う、臙脂色の制服の擦れる音が、静かなこの部屋に響いた。

 

「だから、千束も、千束の大事なものだって。それがなくなるのは、消えてしまうのは、嫌だ」

 

 むずがるように身動ぎする千束を締め付けるように抱きしめて、たきなさんが上を向く。

 

「だから私には、これしか思い浮かばなかったんです。千束に嘘をついてでも。それでも私は、この人を鍛えようと決めました。戦い方を、教えようって。そうしなければいけないと思ったからです。それをしなかったことで、後悔するぐらいならと」

「たき、な……」

「誓ったんです。あなたからは、もう何も奪わせはしないって。絶対に、私は。千束、あなたが何と言おうと。望んでも、望まなくても。……ですから」

 

 そこまで言って、たきなさんは腕の中から千束を解き放った。三歩ほど下がって、向き合う。

 そして、頭を下げた。

 

「……ごめんなさい。私は千束の言うことは、聞けませんでした」

「僕もだ。たきなさんの意思がどうあっても、でもたきなさんを巻き込んだのは、僕なんだ。だから……本当に、ごめん」

 

 僕もまた、それに合わせるように今一度彼女に詫びる。それ以上の言葉を、今の僕は持てなかった。

 その全てが、言い訳になってしまうだろうから。

 

 

 

 千束は何も言わず、僕たちは頭を下げたまま、時だけが過ぎる。

 合わせる顔がないのだ。千束が何かを言うまで、僕たちには頭を上げる気は起きなかった。

 そこからしばらく、どこか根負けしたような声色で、言葉が降ってきた。

 

「上げてよ、顔。二人とも」

 

 顔を上げたその先、千束は苦笑していた。

 

「そんな正面から頭下げられちゃ、怒るに怒れないでしょ」

「千束……」

 

 そう零したのは、僕だったか、たきなさんだったか。

 頬をかきながら、千束は少しの間目を瞑り、そして小さく息を吐いた。

 

「でも、まあ。――成長したなぁ、たきなは」

 

 目を開き、そう言いながらもたきなさんへと顔を向ける。

 そしてつかつかとそちらに近寄って、彼女の肩に手を置いた。

 

「ありがとう。確かに私の考えは、甘かったかもしれない。言われて気づいたよ。もしかしたらいつか、私は後悔することになったかもしれないって。取り返しのつかないことになって」

 

 ぽんぽんと、両手で肩を叩きながら、千束は笑みを浮かべる。

 

「だからそんな顔しないで。胸張ってよ。私の気づかなかったことを、たきなは気づいてくれたんだ」

 

 ね? と首を傾げながら覗きこんでくるその姿を正面に、たきなさんも表情を緩めた。

 

「そう思ってもらえるなら、救われますけど」

「救われるって……大袈裟だなぁ」

 

 ――ま、とにかく。

 気を取り直すように口に出して、千束が回れ右をした。そのまま二歩ほど進んだところで、また後ろ手に組んで振り返る。たきなさんに目線を向けて、穏やかに笑んだ。

 

「本当に、たきなは変わったよ。でもそれでいい。それがいい。すごく頼もしくなった。だから……うん、そうだ」

 

 言って、向き直った。咳ばらいを一つ、千束は自らの正面、やや不安げな表情のままのたきなさんへ向かって、その親指を立ててみせる。

 そこにあったのは、さっきとは違う、輝くような満面の笑みだった。

 

「これからもずっと、よろしく! ――()()!」

 

 故に出てきたその宣言は、きっと本心からのものだったのだろう。

 先ほどまでの鬱々とした場の雰囲気を吹き飛ばすような、底抜けに明るい声と、その表情を見る。

 ――相棒。単純な二文字の言葉に載った彼女の思いの丈は、善きにつけ悪しきにつけ、今日一日に起こった出来事の末の、結実なのだろうから。

 

 そしてその意味はきっと、目の前の少女にも、たきなさんにも伝わったのだろう。

 彼女もまた、或はようやくにしてその顔に笑みを浮かべて、黙したままに千束を見返し、その末に頷いた。

 

 

 

 その姿を見て、思う。或はこの瞬間に、たきなさんは真なる意味で千束の相棒になったのかもしれないと。

 ただ千束に教えられるばかりでなく、彼女の価値観に諾々と従うだけでもない。たきなさんは己の選択を、その意思を、偽ることなく真っ直ぐに伝えて、そして千束もそんなたきなさんを受け入れた。それこそが、今なのだから。

 

 笑顔で向き合う二人の姿を、もう一度俯瞰する。同じ色の制服が示す、部下(セカンド)ではない、同僚(ファースト)としての立場もまた、ある種今の彼女たちの関係性へのメタファーのようにすらも、今の僕には思えた。

 尤も、そのきっかけが僕が持ちかけた千束への「裏切り行為」だというのは、どうにも僕にとっては決まりの悪いものではあったけれど。

 それでもこう収まってくれるのであれば、決してそれは悪いばかりのことではなかったのかもしれない。

 彼女たちから少し離れたこの位置で、僕はぼんやりそんなことを考えていた。

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