世界の背表紙で、君と踊ろう   作:厳冬蜜柑

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2023/9/7 三度目の大改訂。
番外編3は全体的にプロットありきで話の進め方が強引すぎたので、反省です。



Apdx.03-06 (2/2) [EOF]

 打ちっぱなしのコンクリートが作り出す無機質な世界の中で、ただ一人銃を執る。

 音のない空間にあっては己の足音すら大きく響いて、ここから始まる激動の予兆をも、否応なしに感じさせられる。

 

 訓練所のキルハウスの中で、僕は自らが選んだ初期配置へと歩を進めていた。

 対手となる人間――たきなさんもまた恐らくはこの空間のどこかに身を潜めていて、しかしこちらからはその位置を窺うことはできない。気配すらもなかった。

 不気味なほどの静けさが、全体に張り詰めていた。

 

『よぅし、二人とも位置についたね。んじゃ、早速始めますか!』

 

 スピーカーから、()()()()が響く。こちらの心構えとは裏腹の、まったく朗らかな声色だった。

 彼女の役割は、監視役と進行役である。外の監視ブースから中の様子を俯瞰しつつ、今回のセッションの判定と()()を行うことを、千束は自ら買って出た。

 

 果たして彼女はその調子のまま、元気よくカウントダウンを始める。五からスタートして、容赦なく減っていくカウントに、次第に神経が研ぎ澄まされていく感覚も懐いた。そして――

 

『二、一! ――状況開始!』

 

 短く告げるその声とともに、僕と、そして恐らくたきなさんは弾かれたように走り始めた。

 

 

 

 千束とたきなさんが、今ここで互いの関係をまた新たなものにした。きっかけは間違いなく僕の不義理によるもので、ともすれば二人の間に隙間風さえ吹かせてしまっていたかもしれない危うい状況ではあったが、結果としてそれが転じて良い方向に落着できたという事実自体は、僕にとって間違いなく救いだった。

 

 ただ、その事実を以て「めでたしめでたし」でこの場がすっかり片付いてくれるわけでは、全くない。

 なぜなら今けりがついたのはあくまでたきなさんと千束との間の話でしかないからだ。むしろ今回の話の本題は、ここからだと言えた。

 

「――で、だ」

 

 仕切り直しとばかりに僕の方へと身体を向けて、千束は質し始める。声色は固く、やはり自らの咎を糾弾されるのは避け得ないだろうと、一人覚悟した。

 しかしどうやら、彼女が言いたいのはそういうことではなかったらしい。

 

 ――どのぐらいできるようになった。

 

 次いで発されたのは、そんな一言だった。顔は真剣そのもので、そこにはいかなる私情もないように映る。戦力評価を下す者としての、()()()()()()()()()()()()の視座に立って、千束は今僕に訊ねようとしている。

 つまりそれは、今現在における僕の戦闘技能がどれほどのものに達したのかという、シンプルな問いに他ならなかった。

 

 口で言うのは容易い。たきなさんもまたこれまでの教導の記録を文書として持っているし、内容も完璧に覚えている。この辺りはさすがだとしか言いようがなかったが、しかしそうであってもそれを以て千束が真に納得するのかというと、やはり違う。

 百聞は一見に如かずなのだ。そして己の目で見たものこそを何よりの真実と考える千束の性質からも、次の展開は必然だった。

 

 試しにやって見せてよ、私の前で。

 彼女のその鶴の一声によって、僕とたきなさんによるCQB耐久演習一セッション分の実施が決まった。

 まあ、そうでなくてももともと一回ぐらいはやっておこうと準備をしていたわけで、それはある種願ったりかなったりの展開ではあったと言えようが。

 

 

 

 閉所戦闘の実戦形式で行われるこの耐久演習は、基本的には序盤、中盤、そして終盤の三段階に分かれて進行する。

 「そんなものはよろずの勝負事に通底する概念だろう」と言われてしまえば返す言葉もないのだが、僕にとっては非常に意味のある気づきだった。事実それを意識した動きをするようになってから、このセッションにおける僕の生存時間は飛躍的に向上していたのだ。

 

 開始の掛け声がかかると同時、僕は何よりもまず()()()()()を取りに行った。

 この序盤戦において重視するべきは位置関係の把握と動線の確保であり、中でもとりわけ「優位な場所を確保すること」が最も価値のある行動となる。因果関係という意味では寧ろ逆だろうが、サバゲーの序盤戦術とも軌を一にするところがあった。

 意識するのは、一つ所に留まらないことだ。確保したい拠点の周囲を固めつつも絶えず移動し、また攪乱も忘れてはならない。これのうち一つでも忘れた瞬間に、未だ姿見えぬ麗しき暗殺者(たきなさん)はその牙を剥き、僕は一瞬で噛み殺される。何度も通ってきた道だった。

 牽制と暗闘を交えながらも互いの攻防の軸となるエリアを確定させていく。どこか地味な、しかし神経をすり減らすやり取りをどうにか潜り抜けた辺りで、いよいよにしてコンタクトが起こることになる。

 中盤戦の、始まりだ。

 

 

 

 動と静、待機と索敵と遭遇的戦闘が、間断なく続いている。

 新鮮さを担保するためか、この訓練施設の中のキルハウスは最低でも週に一度、レイアウトが変わるようになっている。

 今週の間取りは、三か所の大部屋と八か所の小部屋によって構成されていた。比較的小部屋が多く、見晴らしの良くない空間設計と言えるだろう。

 

 中盤における駆け引きの内実は、単純なものだ。こちらが大部屋とその周辺の回廊を拠点として逃げ回ろうとし、たきなさんはそれを小部屋の方に押し込めて仕留めようとする。動線と障害物の把握を序盤に済ませておく意味はまさしくここにあって、それこそが今回の状況設定における攻防の肝でもあった。

 

 斯くの如き前提を踏まえて、現況を俯瞰する。

 広い空間を十分に使っての逃げ切り勝ちを狙うのがこちら側のタクティクスなわけだが、故に運動量も必然的に相応のものだ。たきなさんによる念入りな体力錬成なしには、こうした戦い方は取れなかったであろうことは間違いない。

 取れる戦術に幅が生まれるのも、持久力を持つことの大きな意味となる。たきなさんがいつかの戦術講義で口にしたことが、身に沁みて分かる展開だった。

 

 一方、そこから更に粒度を上げ、個々の戦闘における方針ともなれば、それはもはやこれまでの積み重ねと、得てきた教訓をどう活かすかが物を言う世界だ。

 反射神経と俊敏性で大きく水をあけられている僕は、自ら武器と自負するトップスピードで距離を取り、要所で待ち伏せ、彼我の体格の違いによる体重差と、男女差が生み出すほんの僅かの――ほんの僅かなのだ!――筋力差を活かしたヒットアンドアウェイをひたすら繰り返すことで、己の生存圏を確保し続ける戦い方に徹していた。

 大事なのは長々と見合わないことと、懐に入られた時にまともに組み合わないことだ。接触が避けられないときには可能な限り一瞬の交錯で強引に怯ませて、また距離をとる。

 消極的ではあるのだろうが、同時に僕にとっては最適解だった。今まで何十回何百回とたきなさんに「殺され」続けた中で学んだ、真髄と言ってもよかった。

 しかしそれは最適解であるがゆえに、対リコリス――というよりは「対たきなさん用戦術」として過剰適応されてしまっているきらいは、なくもない。他の人間、例えばあの忌まわしき記憶の中の真島のような存在を相手取るとなると、細部においては当然に、別のアプローチを考える必要が出てくるだろう。

 基礎の部分は培われたとしても、その辺りの謂わば「応用部分」をどう研鑽していくべきかは、将来の課題となって今も残っていた。

 

 ともあれ、今は今だ。別のことに意識を割く余裕などなく、一つの気の緩みさえも許されない展開が、ずっと続いている。

 いつどこから狙われるか、相手の位置取りはどこか、何を考えてどこに向けて動線を確保しようとしているか、こちらはするべきか。全てに対して思考を止めてはならない。銃を向け合い、弾を撃ち合うその一瞬においてもそうだ。

 「考えることを止めてはならない」。「一挙一動全てに意味を持たせろ」。何もかも、今僕の対面にいるたきなさんが、文字通り叩き込んできた教訓だった。

 

 

 

 或はだからこそ、僕は気づいたのかもしれない。

 

 最初は、ほんの小さなものだった。しかしコンタクトが始まってから直ぐに、僕ははっきりとその違和感を認識した。

 ――おかしい。なんだか、たきなさんの動きが()()()()()()

 いや、鈍いというのは正しくない。正確には、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 「どのタイミングでどの通路から現れるか」。

 「接敵のタイミングでどこを狙いに撃ってくるか」。

 

 その辺りの思考が、尽くたきなさんの行動に先んじていた。

 

 時計の針が進むごとに、二人の影が交わるごとに、想像と現実の乖離はいよいよ顕在化していく。たきなさんの攻勢を、いなしやすくなっていく。

 こちらから攻勢を取って有効打を取る、たきなさんを「殺し」にいくなどという()()()()()さえ考えなければ、いつまでも攻防を続けられるのではないかと錯覚するほどの全能感を、いつの間にか懐いていた。

 

 ぶつかって離れての回数は未だ十を数えない。遮蔽物、障害物をとことんまで使い潰す、影を踏ませない立ち回りで、僕はともすればたきなさんを()()し続けている。

 「これは僕が慣れたからなのか、それとも今日の彼女の動きそのものが、本当に鈍いのか」。戦闘行動のために集中しているはずの思考に余裕が生まれて、いつの間にかそんな無駄な推論にまで、リソースが回っていた。

 

 尤も、現状が危うい均衡であることは自覚している。コンバットの能力そのものではたきなさんに勝ち目がない僕は、彼女を寄り付かせてしまった時点で半分詰みになってしまう。張り付かれたら最後、「殺される」までどれだけ延命できるかという展開になるのははっきりしていて、そういった意味では依然これは「必死の抵抗」ではあった。

 

 ただ外形的にはたきなさんは僕の姿をまともに捉えられていないのも事実で、状況は膠着したままに、どんどんと時間ばかりが過ぎてゆく。

 前回までのセッションの流れを踏襲するならば、攻防を重ねるうちに接敵の間隔が次第に詰まり、最終的にはありとあらゆる場所から強襲するたきなさんを相手に最低でも三分程度は遅滞戦闘を強いられていたはずだった。しかし現状は、到底そこまで至っていない。

 

 果たして二十五分経過のブザーが鳴ったのは、大部屋の扉を挟んで本格的な閉所戦闘が始まるかどうかという、今までの経験で言うところの()()()()()()()のタイミングであった。

 

 

 

『そこまで、状況終了!』

 

 演習の終了を告げる、千束の声がする。

 

 張り詰めていた気を解いて、息をついた。見れば、銃を下ろしたたきなさんがゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。

 

 ――はっきり言って、これまでで一番楽なセッションだった。

 内心で思う。しかしそれを喜ばしいことと捉えるべきかを、正直なところ僕は未だに測りかねていた。

 

 

 

 斯くの如くあって、僕にとって今回の演習は、どこか不完全燃焼なものに感じられてならなかった。

 今日の内容を見て、千束はどう思うのだろう。もしかしたらたきなさんに何か文句をつけたりするかもしれない。だとしたらフォローをしないと。

 烏滸がましくもそんなことを思いながらキルハウスから出てきた僕と、そしてたきなさんを迎えた千束は、しかし開口一番、全く予想外のことを口にした。

 

「いや、正直びっくりしたわ」

 

 目が見開かれている。たきなさんを向いて、少し興奮気味な言葉が続けられた。

 

「たきな、手を抜いてたわけじゃないよね。というか、そうは見えなかったし」

「ええ、いつも通りだと自負しています」

 

 それは、たきなさんの調子を心配するような口ぶりでは全くなかった。当然に、詰るような様子も断じてありはしなかった。つまり千束は、たきなさんの動きについていつも通りだと認識しているということになる。

 彼女は今回のセッションを通して、戦場全体を俯瞰できる立場にいた。いやそもそもそれ以前に、たきなさんの戦う姿は千束が一番よく知っている。普段の()()においても、誰より間近で見ているはずなのだ。だとするならば、僕の懐いた違和感はただの勘違いだったとでもいうのだろうか。

 

「そう? なんかいつもよりちょっと調子悪く見えたんだけど。……服が新しいから、着慣れてないのかな、とか思ってて」

 

 思わず口を挟んだ僕に、千束が思わずといった様子で吹き出した。

 どうやら相当に的を外した問いかけだったらしい。こちらを向いて、顔の手前で二度三度とその手を振ってみせる。

 

「ないない。そんなんで私たちの戦力が落ちるよう雑な作りしてないから、この服」

 

 言いながら自らの服のフラップの部分を摘まんで、ひらひらとはためかせた。

 

「ですね。……というか、隼矢さんそんなこと考えてたんですか」

 

 やや呆れ気味の声で、今度はたきなさんが同調する。微かに苦笑を浮かべてから、こちらを向いた。

 小さな咳払いと共に、表情が変わる。真剣な顔つきで、僕を見ていた。

 

「ともかく。そういうわけで、先週に比べても明らかに戦えるようになっていますよ、隼矢さんは。というより、()()なりましたね」

 

 改めてかけられたのは、評価の言葉だった。声色にも、労いと称賛の響きが確かにあった。

 言いながら頷いて、彼女は再び千束の方に目線を合わせる。どこか得意げに、胸を張って見せた。

 

「どうでしょう。納得できましたか?」

 

 対する千束も、笑って答える。サムズアップした右手をたきなさんに向けた。

 

「ばっちり!」

 

 ウインクまで決める。実に千束らしい行動だった。

 

 

 

「……あーいや、でも」

 

 しかしそこで何かに気づいたか、彼女は俄に表情を変える。どこか思いを馳せるように腕を組み、思案顔で中空を見上げた。

 

「なんです?」

「いや、さ」

 

 不思議そうに首を傾げるたきなさんに、千束がちらと目線を向ける。

 

「いや、ね。隼矢さん言ってたけど、ホントここまで持ってくるとはねぇ……」

 

 発されたのは、何とも感慨深げな声だった。

 誰に向けてのものであるかは判然としない。しかし僕にとってその誉れを得るべきは、たきなさんを措いて他にはいなかった。

 

「いや、それは本当にたきなさんのおかげだから。マジで才能あるよ、もの教えるの」

「そう、でしょうか」

「そうだよ」

 

 いまいち自覚のない様子の彼女に、言い募る。

 

「だってほら、最初はホント瞬殺されてた訳じゃん。一番最初なんて三分ちょいぐらい、接敵からなら二十秒持たずに射殺判定だったし。それが今じゃこれなんだから、どんだけだよって話で」

 

 確かに僕の努力も多少は作用しているだろうが、それだけでは説明がつかない。

 本当に、一般人かそれ未満レベルの不甲斐なさから始まった戦闘訓練にせよ、もっと手前、基礎からの体力練成からの過程にせよ、斯くも情けない状態から始まった僕のことを今に至るまで引き上げてくれたたきなさんには、間違いなく指導者としての才覚を感じていたのだ。世辞でも誇張でもなんでもなかった。

 

「ですけど、やっぱり隼矢さんの頑張りあってのものだと思いますけどね。それと飲み込みも早かったですし。才能という意味では、隼矢さんにもあったと思いますよ」

「そうかなぁ」

「そうですって」

 

 立場を入れ替えた、鏡写しのようなやり取りだった。ただ自らに戦闘技能という意味での才能がもしあったとしても、それを積極的に活かしていこうとはあまり思わないわけで、なんとも言えないところではあったけれども。

 と、そこで咳払いの音がした。千束だ。どうやらこのままでは堂々巡りになりかねないと思ったらしい。

 

「ま、いいよそれは、どっちでも。とにかく隼矢さんが()()()()()()ってのは、わかった。ま、私にしてみりゃすごく頼もしいよ、いやホント」

 

 ぱんぱん、と手を叩きながら、二度三度と頷く。

 どこか満足げな表情でありつつも、「ここで話は一区切りにしよう」という明確な意思表明も、彼女の態度には含まれていた。

 

 漂う空気に従うように、僕もたきなさんも、肩から力を抜く。

 ――いよいよ、話は終わりだろうか。どこか()()()()()ものを覚えつつ、僕は千束の次のアクションを待った。

 場の流れは明確に終わりへと近づいていて、それでも千束自身の中には、未だ何か宿したものがあるような気がしていたからだった。

 

 

 

 果たして――刹那、彼女の雰囲気が入れ替わった。

 

「……ただ、ね」

 

 逸らされていた目線が、僕と合う。

 見えたのは、咎めるような目つきだった。真っ直ぐに腕を伸ばして、指を突きつけてくる。そして千束は口を開いた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 予期していたはず言葉に、それでも思わず呻き声が漏れていた。

 

 当然、重々、理解はしていたことだった。ついさっきまでの達成感もあって一瞬だけ頭から抜け落ちていたけれども、何より自分のことなのだ。未だ禊が済んでいないことを、忘れたことなどありはしない。

 だから今日のやり取りのなかで許されたのは、あくまでもたきなさんなのだ。千束は僕のことについては未だ何も言っていない。よくよく思い返せば、分かることだった。

 

「うん。……それは、分かってる」

「よろしい。んじゃ、その埋め合わせはしてもらうから。そうだな……取り敢えずは今日、私の家に来ること」

 

 有無を言わせぬ口調だった。僕の方を指さしたままに、もう片方の手は腰に当てていた。いい? とばかりの、念押しの態度だった。

 

「……そんなことでいいのなら」

「ほぉ……言ったな?」

 

 当然、否やなどあろうはずもない。今日の予定を枉げて彼女の家に行くことなど、僕がしてきたことからすれば何と言うことでもないのだから。

 

 そう思って返した言葉に、千束は笑顔で以て答える。

 しかし、なぜだろうか。その視線を正面に受けて、僕の背中にはゾクリとした寒気のようなものが走った。

 

 

 

 その後たきなさんとは施設の前で別れて、僕たち二人は話の通りに一路千束の家へと向かう。時刻は夜も七時を回っていた。

 着替えを含めた僕の生活用品は、向こうの家に既にある。半同棲に近い形なのだから当然だが、兎に角このほぼ手ぶらの恰好で彼女の家に行くことには、別に何の問題もない。

 しかしその道中、いつもとりとめのない世間話でも会話そのものは絶えない千束と二人の時間、彼女は本当に一言たりとも言葉を発さなかった。

 完全なる沈黙の中、二人で歩き続ける。

 

 ――やはり、怒っているのだろうか。

 思いを巡らせるも、なんとなくではあるが、そういう趣の沈黙とは思えなかった。

 今千束の纏っている空気は、怒りなどという単純な感情の動きによるものではない。直感的に理解していた。

 

 唯一分かるのは、今の彼女が()()()()()()()()()だという、どこまでも客観的な事実に過ぎない。心中に抱えるものが何たるかを推し量ることすらも、僕にはできないままだった。

 

 それでもそのまま二人歩を進めていれば、ほどなくして「一号」には辿り着く。辿り着いてしまう。

 

 いつものようにダミーのフロアのエントランスから中へと入って、奥の隠し扉を抜ける。

 梯子伝いに下へと降りれば、見慣れた部屋の風景が僕たちを出迎えた。

 

「――さてさてぇ?」

 

 僕が梯子で降りてくるのを待って、ぴたりと背後につけた千束が、リビングへ廊下の只中、軽い調子で言いながらも僕の右手を取る。

 

 

 

 そして()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ぞわりとした感覚が走った。本能が警告を発している。純粋で強烈な危機感だった。

 だからだろうか、その正体について考えるより先、衝き動かされるように無理やりに手を振り払いながら前に逃れていた。

 紛うことなき、ただの反射によるものだ。たきなさんとの訓練の賜物でもあった。

 

「なに、を……」

 

 振り返り、思わずそんな呟きが漏れる。

 散々たきなさんにやられてきた経験が、端的に語っていた。

 

 千束は今、僕の腕を捻り上げて引き倒そうとしていたのだ。それは逮捕術にも似ている、リコリス共通の制圧術によるものだった。

 

「へぇ……なるほど」

 

 信じられない、そんな思いで覗いた千束の顔は、しかし普段と何の違いも見られなかった。

 視線の先、彼女は感心したように頷いている。

 

「確かに。たきなもやるな、ここまで仕込むなんて。――けど」

 

 独り言ちて次の瞬間、()()()()()()()()()

 全く見えなかった。恐らくは、「起こり」を消す移動法だろう。気づいた時には懐に潜り込まれ、そして胸倉を掴まれていた。

 

「よっと」

 

 そんなどこまでも軽い掛け声とともに、世界が回る。宙に浮いた感覚が意識に空白を生んで、直後背中を衝撃が襲った。空気が肺から押し出されて、声が漏れる。

 ――投げられた。それを自覚した頃には、千束は地面に倒れた僕の上、鳩尾に膝を立てていた。

 身体の中心、かけられた圧力はさながら標本留めのピンにも似ていた。圧迫感と息苦しさに、思わず呻く。

 

 たきなさんよりも更に数段は洗練された制圧術だった。もう一方の膝は僕の右腕を捉えていて、最後、空いていたはずの左手は、指同士を絡ませるように千束の右手に握られて、押さえつけられている。

 つまり、今の僕は彼女の手によって完全に拘束されていた。

 

 

 

 斯くてあっさりと僕を制圧してみせた千束が、見下ろした姿勢のままに口を開く。

 

「ま、こんなもんよ。まだまだ精進が足りませんなぁ、隼矢()()?」

 

 得意げな声だった。ファーストとはかくあるべしというべきか、或は大人げないと評すべきなのか。

 どこまでも上から目線のその言葉遣いに、しかし僕が懐くのはどうしようもない戸惑いばかりだった。

 まさかこんな「実力行使」に出るなんて、思いもしていなかった。

 

「ちさ、と……?」

 

 零れていく千束への呼びかけも、だからかどこか覚束ない。

 当然に彼女はそれに構うこともなく、言葉を続けていく。

 

「まあ、ね? たきながいたから、あそこじゃ言えなかったけどさ。でも私だって色々、思うことがないわけじゃないのよ」

 

 僕のこと射抜く視線には、やはり怒りの色は見えない。口調だって、軽いものだ。それでもかけられたその言葉自体には、恐らく内心に抱える憤りが表れていた。

 宜なるかな、だろう。あの場は勢いで流れただけで、僕と千束の間の不義理の清算が済んでいないのは、僕が一番よくわかっていた。だからここにやってきたのだ。せめてもの罪滅ぼしになるのならと。

 故にこそ、問いたかった。今のこれは何なのかと、その疑問は強かった。

 千束の表情と、言うことと、一方の現状が、行いが、あまりにちぐはぐで理解ができなかったから。

 

 

 

 しかし、それはただの始まりに過ぎなかった。

 千束の心の中にあるであろう感情の漣が、次第にうねりを生じて激しさを帯びていくのを感じ取る。彼女は何も言おうとしていなくとも、纏う雰囲気が尋常なものではもはやない。堪えきれないような、はち切れそうな、そういう空気だとも思えた。

 それは次第に表にも現れてくる。僕のことを縫い留める、鳩尾に当てられたままの膝に、少しずつ体重が乗せられていく。

 圧迫感は苦しみに変わり、今や痛みへと至ろうとしていた。身体を中心から抉られるような苦痛に、呻く声が漏れる。呼吸も覚束なく、視界もどこかぼやけてきた。

 

「ぁ……ち、さと」

「何で」

 

 僕の問いを、踏みつぶす。今や呟く声は押し込められたように低い。

 

 千束は、豹変していた。

 

 

 

「いや、分かってる。さっき聞いたし、納得だってした。たきなは正しい。間違ってない。なら、隼矢さんだって間違ってない」

 

 自らに言い聞かせるような言葉だった。それでもその態度とは裏腹に、僕にかけられる力はますます強く、荒々しさすらも感じられる。

 だめだ。集中を保てない。散りかける焦点をどうにかして千束の上に合わせようとするも、うまくできなかった。

 息苦しさと痛みに喘ぎながら、混濁する認識の中でどうにか、彼女の言葉を聞こうとする。彼女に呼びかけようとする。そうしなければならないと思っていた。

 

「き、いて」

「分かってるんだよ。なのに、なのに何で……っ!」

 

 またも黙殺された。いや、これは文字通り聞こえてすらもいないのか。

 彼女は今、苛立っている。でもそれは必ずしも僕に対してではない。いやむしろ、()()()()()()()()()()()()

 

「嫌なんだ。分かってても、止められなくても。どうして最初に言ってくれなかったって。でも言うわけないよなって。それは正しいんだって。けど、けどさ……!」

 

 呼吸が荒い。僕もそうだが、千束もだった。言葉もどこか支離滅裂で、それでも言いたいことは理解できる。

 だからこそわかる。結局それは、僕の中に原因があった。千束を苦しめているもののすべては、僕にこそ端を発しているのだ。

 それを、どうしても謝りたかった。けれどもはや、千束が僕にかける力は言葉を発することさえ許しはしない。意識すらも朦朧とし始めていた。

 唸るような声が聞こえる。言うまでもなく千束からだ。思考が言語になって出てこないほどに、今の彼女の心中はかき乱さされているのだろうか。

 

「分かんない……分かんない、分かんないっ――分かんないッ!!」

 

 言うたびに膝を鳩尾に突き立てられて、痛みが走る。無理やりに息を吐き出させられて、ただ呻き声をあげることしかできない。

 何度かそれを繰り返し、僕のことを痛めつけた挙句に、千束はぴたりと動きを止めた。

 

 膝の拘束が緩んでいる。それで抜け出せるというほどではないものの、僕を苛んでいた苦しさと痛みは、随分と遠のいた。

 荒く息を吐く。呼吸が戻った。しばらく息を整えて、どうにか千束へ語りかけようとする。

 

 しかしその寸前、ようやく像を結んだ両目の先に、僕は千束の形相を見た。

 ――瞳が、濁っている。瞳孔が開いていた。それがこちらへと向けられて、言葉すら奪われた。

 

「そっか」

 

 ポツリとした一言だった。しかしそれに、今までとは全く違う寒気を覚えた。何か取り返しがつかない一線を踏み越えてしまったような、そんな気さえした。

 リビングに点いている電気だけが唯一の光源のこの薄暗い廊下の中で、視線の先の彼女が、そこで笑った。――嗤った。

 

「なら、もういいや」

 

 言って、姿が近づいてくる。組み敷く僕に倒れ込むようにして、目鼻の先に見える顔が、その中の瞳が、否応なしに目に入った。

 どろりとした情念の色が、確かに見えた。

 

「待っ、ちさ――!」

 

 そして僕のあげようとした抗議の声ごと、千束の口に諸共に塞がれ、呑み込まれた。

 

 

 

 反射的に身体に力が入った。押しのけようと肘を突っ張ろうとして、しかし強引に腕を取られる。重ねられた唇からは湿り気を帯びた温かさが否応なしに伝わってきて、その生々しい感触が、意識を蝕んだ。

 そこに生まれた間隙を、彼女は決して見逃さない。気づけば膝を抜きながら右腕をも抱え込まれていて、果たして僕は千束の中に閉じ込められてしまった。

 もはや、逃げ出すことなどできなかった。

 

 僕たちは、確かに()()()()関係だ。だからこれまでの暮らしのなかで、こういう形で互いの存在を確かめ合うことは、いくらかあった。

 けれども今のそれは、全く違う。

 知覚の何もかもが千束で埋め尽くされていた。こちらからは何もすることは出来ず、彼女の中の荒れ狂う情動が、そのままに叩きつけられるのをただ受け入れるしかない。

 抱きしめる腕の力はどこまでも強く、絡まった脚は僕の動きを縛っていて、苦しさに無意識にもがこうとするも、指一本動かせなかった。

 

 ひたすらに、貪られていた。息をするのも許さないとばかりにそれは長く深く、唇の感触だけはどうしようもなく鮮明に、脳に刻まれ続けている。

 息苦しさの中で吐く呼気すらも、千束に奪われる。何でこうなっているのか、本来持つべきその問いすらも、もはや認識のかなたへと吹き飛んでしまった。

 

 そこに突如、千束が顔の角度を変える。そして()()がねじ込まれた。

 びくりと体が震える。それは時と場所を変えれば色気あるやり取りになりえたのかもしれずとも、今この瞬間においては暴虐にも等しかった。

 口の中で暴れ回るそれにももはやなすがまま、取り入れるべき酸素すらも吸い取られ、呼吸すらままならないように感じる。

 

 それをひたすらに受けるうちに、意識に少しずつ、靄がかかってきた。思考がまるでまとまらない。それが酸欠によるものなのか、千束の()()に酔わされてのものなのかすらも、次第に分からなくなっていく。認識の境界すらも曖昧になって、微かに頭の奥が痛んだ。

 

 ともかくその末、彼女は僕の身体がすっかり弛緩したことを確かめてから、ようやくにして腕の力を抜く。ずっと重ねていた唇が、離れていった。

 

 

 

 嵐のような、或は夢のような時の果て、ゆっくりと彼女の姿が遠ざかって、奪われていた呼吸が戻ってきた。荒く息を吐く毎に、白んでいた意識は少しずつクリアになる。

 それでも僕は、今のこのありさまを現実のものとは思えなかった。知覚にかかっている靄は消えることなく、身体はどこかふわふわと宙に浮いているようで、僕の身体と僕の意識が、ばらばらになってしまったようにすら錯覚する。指先ひとつ動かなくて、顔も見上げたまま、逸らすことも許されずにいた。

 

 暗闇の中、千束の虹彩が光を受けて浮かび上がる。それはいつもとはまるで違う色をしていた。

 昏く、且つ紅い。陶然としていて、嗜虐的で、そして情欲に近しいものすらも、宿している。

 次いで覗く唇は、ついさっきまでの蹂躙劇を誇示するかのように、どこか濡れて光っていた。自然と目が吸い寄せられて、そこに覚えた艶やかさに、ぞわりと総毛立つ。

 そして視線の先、それがゆっくりと開かれた。

 

「最初からこうすりゃよかったんだよ」

 

 湿り気すらも帯びた声だった。鼓膜から神経を撫でられるような錯覚すらも懐く。

 笑い声があがった。くすくすとした無邪気なそれも、しかしどこか薄ら寒い。

 

「だって分かんないんだもん、どう言えばいいのかもさぁ」

 

 自嘲のそれにも、嘲弄のそれにも見える笑顔のまま、その左手が僕の身体を這った。

 妖しげな手つきだった。意思に反して身体が震えて、しかし未だ息が声をなさない。千束が、また一つ笑みを深くした。

 

「でももうどうでもいいや。……ま、でもちょっと分かったんだ」

 

 これ見よがしに片目を瞑る。一度言葉を切って、すぐに真顔になった。

 

「勝手に決めやがってって。しかもそれが正しいのがもっとむかつく。で、それをたきなと二人で隠してるなんてって思ってさ。……ああ、嫉妬してんだな、私って」

 

 だっせーのな。そう吐き捨てる。それきり、千束は黙った。

 僕も未だ、何も言うことはできない。声をかけたいのに、音一つ出せなかった。故に続いた静寂は、また千束が破った。

 

「……ずっと、怖かった。いつかまたあんな日がやってくるんじゃないかって。そのとき、私だけじゃどうにもできないよなって。分かってたんだ」

 

 ぼそりと発されたそれは、心情の吐露だった。

 

「私のこれは、わがままだよ。それを何とかしようとしたのは隼矢さんも同じなのに。分かってるんだよそんなこと。……けど、しょうがないじゃん」

 

 俯く。白んだ金糸がさらりと垂れた。首が、二度三度と横に振られる。

 

「そんなことしないでいいって思ってたのに。してほしくないって思ってたのに。それを、ほんと、勝手に……」

 

 僕が何も言えないのをよそに、千束はひたすらに言葉を重ねる。そのたびに僕がやったことの重さを突きつけられるようで、夢の中にいるような認識の上においてでさえ、胸が痛んだ。

 はあ、とため息が聞こえる。顔が上げられた。

 

「ねえ」

 

 呼びかけられる。覗く瞳は相変わらず昏い色を湛えていた。

 力を振り絞るようにして小さく頷く。続きの言葉が、降ってきた。

 

「『埋め合わせはしてもらう』って、言ったよね?」

 

 頷く。千束が笑った。

 

「やっぱね、許せないんだ、私。理屈じゃない、ほんとにただのわがままだけど」

 

 放たれる厳しい言葉とは裏腹に、その声はどこか明るさすら帯びている。けれど、なぜかまた寒気がした。危うさを覚えた。

 

「いつか言ってたじゃん? 人間感情の動物だって。ほんと、そうだよね。……だから、さ」

 

 そして懸念が、現実化する。纏う空気が、はっきり澱んだ。またゆっくりと、身体が倒れてくる。

 

()()()()()()()()()()()()。文句なんて、言わないよね?」

 

 囁く声は、復讐と嗜虐の歓びを滲ませた仄暗い色をしていた。

 

「ま、あっても言わせないけど」

 

 そしてまた、千束が僕に覆いかぶさった。

 

 

 

 千束が()()なったのも、結局は僕のせいだった。

 裏切って、だまし討ちして、配慮に欠けていた僕は、相応の責めを受けなければならない。いや、受けさせたいと思ったのだろう。他でもない、千束自身が。

 しかし僕がこんなやり方を選ぶに至った理由を、彼女は理解してしまった。裏付ける理屈は大義にも等しく、斯くて千束は僕を罰するに足る理由を失った。

 

 僕に対する仄暗い処罰感情は行き所をなくしたまま残り、やがて彼女自身の負けず嫌いと絡み合って、火がつく。

 在りようが、捻じ曲がる。そこにかねてからの「発作」のなかで少しずつ積もっていたある種の欲求が結びついて、ついに全てが昇華した。してしまった。

 

 ――暴力で以て捻じ伏せるのは、傷つけるのは、絶対にやってはならない。銃を向けるなど、以ての外だ。けれどやりこめたい。屈服させたい。参ったと言わせたい。

 ――二度と自分から離れられないように、余計なことをしないように、縛り付けてしまいたい。支配してしまいたい。「あなたを、わたしのものにしたい」。

 二つの交差するところにあるのが、つまりこれなのだ。

 だからどうあっても原因は僕にこそあって、故に報いを受けるべきもまた僕だった。

 

 

 

 僕の上、千束の荒い息遣いが聞こえる。

 彼女ですらそうなるほどに、僕はひたすらに()()され続けた。幸いにして未だ()()()()()()()にまでは至っていないが、いずれにせよ僕にはもはや抵抗などできなくなっていた。つまりそれは時間の問題でもあった。

 霞み切った視界の中、爛々と輝く瞳の光がはっきりと目に焼き付く。千束は完全に、この場に酔ってしまっていた。

 くすくすと、笑い声が響く。声は陶然と、しかし嗜虐の色を隠そうともしない。

 

「声も出ませんかぁ? ま、さっきからそうだったけど」

 

 だらしないぞぉ。はっきりと弄うような響きで口にして、また覆いかぶさってくる。耳元に顔を寄せて、吐息交じりに声が吹きこまれた。

 

「千束ちゃんにメロメロかなぁ? かーわいい」

 

 吐息が耳朶にかかって、また背筋が震える。好き放題言われているが、何か言い返すこともできなかった。

 また身体が正面へと戻る。焦点を合わせようとする気力すら衰えて、ぼんやりとした曇りガラスの視界の向こうに、彼女の姿が浮かび上がった。

 だから僕の瞳は完全に蕩けてしまっているのだろう。それを見てか、たまらないとばかりに千束が身を震わせたのが、組み敷かれた僕の身体から伝わってきた。

 

 そしてとうとう、その時が来る。

 よし、と気合を入れる声とともに、彼女の手が、僕のシャツにかかった。服の生地が引っ張られ、そして()()()()()()()()()()のも知覚した。

 

「さ、……覚悟してね」

 

 それが何を意味するかなど、僕にだって分かる。

 これが始まった時からそれこそ覚悟はしていたが、そうは言ってもこんなことで僕たちは()()なるのかと、未だに信じがたい気持ちを抱えているのは事実だった。

 とは言え、もう止めようもない。僕の身体は完全に千束に支配されていて、抗えない。そしてこれが一つの償いであるのなら、甘んじて受けるよりほかにはないのだと、思っていた。思ってしまっていた。

 どこか強張っていた身体の力を抜く。委ねてしまおう、千束が満足するまで。それがきっと正しいのだ。

 諦めに似たその気持ちが、僕の胸中の全てを支配しようとしていた。

 

 

 

 しかし、それがきっと引き金だった。

 諦めかけた僕を、思考を手放そうとした僕のことを、強烈な危機感が繋ぎとめる。

 「考えることを、やめてはいけない」。奇しくもそれは、この数か月のたきなさんの教えに他ならなかった。

 

 ――そうだとも。自分の中から声がする。

 千束の信に背いてまで、そうしてまで成したかったことは、本当は何だったのか。お前は千束の何を守りたかったんだ。

 この三か月の日々が去来する。夜の闇、月の光と、それに照らされる千束の姿が思い浮かぶ。組み伏せて、縛り付けて、僕の自由を奪っても、それでもその最後に彼女はいつだって、縋り付くように身を寄せてきた。薄衣の向こうの肢体の熱が、そこから伝わってくる震えが、都度思い起こさせていたものは何だったか、忘れたとは言わせない。

 それより前、クリスマスの日に、千束に向けた誓いの意味だって、覚えているはずだろう。

 

 

 

 未来だ。千束の未来を、毀したくなかった。そして心だって、損なわせてしまいたくなかった。歪めてしまいたくなかった。そうではないのか。

 なのだとすれば、今の千束の在りようを、そのままにしていいはずがあろうか。

 そうでないのなら――僕が今すべきことはなんであるのか、もう決まっているはずだ。

 

 

 

 奪われていた活力が、嘘のように湧いてきた。縛めを解かれていた両の腕を、静かに千束の肩へと添える。どうせ動く気力もないだろうと高を括っていたのか、それは間違いなく千束の意識の間隙を衝いた。

 猶予は、上衣を脱がすことにかまけていた千束が水を差されたような反応示したそのあとに、今一度僕を抑えにかかるよりほんの一手だけ早い、その一瞬にしかない。そして、僕にとってはそれで十分だった。

 

「は? え、ちょっ……」

 

 腕を、背中に回す。そのままに抱き寄せて、胸の中へと迎え入れた。慈しむように、そして裡に懐く悔悟の念を、全身で示すように。

 

「何すん――」

「千束」

 

 今度は、押し切るのは僕の番だった。

 無論、これから言わんとすることの厚かましいさは十分わかっているつもりだった。やはり千束の好きにさせるべきなのではないかという考えだって、頭の片隅に未だある。その信頼を裏切っておいて、今更僕に何かを言う権利があるなどとは、どうにも烏滸がましいことなのかもしれない。いや、ことなのだろう。

 そうであっても、こればかりはやらなければならないことだった。言わなければならないことだった。

 

「怖かったのは、僕も同じなんだ」

 

 抱きこんだ肩のあたりで、息を呑む声がした。

 

「だからって、やっていいことだったとは思ってない。僕は分かっていて、君の信頼を踏みにじった。分かってるんだ。分かってるけど……でも、それでも僕は」

 

 これを言えるのは、今しかなかった。彼女が根雪の如き恐れを忘れて、しかし僕の行いに対する評を定める前の、この一瞬以外にはあり得なかった。

 

「どうしようもないぐらい怖かった。いつか()()()がやってきて、何の力もないままに、また同じことが繰り返されたら、もう次はないから。……いや」

 

 千束を抱きしめる手に、力が入った。

 

「僕のせいで、僕がいるから、君が戦えなくなったりして。足を引っ張ったりして。それで取り返しのつかないことになったらって、本当に、本当に、怖かったんだ。――そんなことになるなら、死んだほうがマシだってぐらい」

 

 噛み締めるように口に出す。声が震えていた。ある程度戦う力を得た今でも、懼れは僕からは決して消えない。厳然とそこにあり続けている。

 今ならわかる。この恐怖を根本的にどうにかしようと望むなら、まずは()()()()()ほどの力を身につけなければならないのだ。つまり望むべくもない。ならばきっと、僕はそれとは一生向き合っていかなければならなかった。

 それと向き合い続けることが、千束の傍で生きるということなのだから。

 

「隼矢さん、それは……」

「分かってる。分かってるよ」

 

 思わずといった様子で返ってきた千束の声から、熱に浮かされたような色が消えている。

 僕の言うことを、聞いてくれているのだ。涙が出るほどに嬉しかった。

 

「だから、どうしても何かしたかった。気を紛らわせているだけなのかもしれないと思ったけど、何もやらないよりは、ずっといいと思った」

 

 隼矢さん。また、僕の名前を千束が呼んだ。

 それには、応えない。代わりにもう一つ、言うべき理由を持っていた。

 

「それに、ね」

 

 言いながら、想起する。夜の青の中、千束が苦しみ続けてきたフラッシュバックも、苛まれてきた幻影も、その原因のなにもかもが、あの日の延空木の上に取り残されたままなのだ。

 あの場所にある忘れ物を取りに行くためにも、僕のこの姿は、いつか見せなければいけなかった。それで以て、上書かなければならなかった。

 

「いつまでも君を、延空木の上(あんな場所)にいさせたままじゃ、だめだって思ったんだ。僕のせいなんだけど。いや、僕のせいだから」

 

 そうでなければ、千束はあそこから一歩も進めなくなってしまう。そしてそれは、僕には断じて許しがたかった。

 千束の行く末を、未来を、ほかでもない僕が翳らせているのだ。あり得ていいはずがなかった。

 

 言葉を切った僕に、千束は何も言わない。反応する気配もなかった。

 表情も窺えない。納得しているのか、していないのか、どちらとも分からなかった。

 

 けれど、いずれにせよ僕は説き伏せるために今までの話をしたわけではない。それで、千束から許しがもらえると思っていたわけでもなかった。

 彼女の背中から腕を放す。え、と驚きの声が漏れた。

 四肢をだらりと投げ出す。無抵抗を姿勢で示して、改めて口を開いた。

 

「まあ、そういう感じで。理由はあったんだ」

 

 真っ直ぐに天井を見上げる。ここまで言いながら、結局これは言い訳にしかならないのだと、内心ずっと自覚していた。

 

「けど、やったことは何にも変わらないんだよね、結局。……だから」

 

 何とか片方の手だけを掲げて、千束の肩に置く。顔が、僕の方へと向けられた。

 本当に、こんな格好のままで言うべきことではない。それでも、今の僕の言葉を結ぶのは、これ以外にありはしなかった。

 

「ごめん。ごめんなさい。僕は君を傷つけました。信頼に背きました。これ以上、言い訳はしません。『続き』をしたいなら、受け入れます。……本当に、ごめんなさい」

 

 千束の肩から、手を離す。これでなお千束の怒りが収まらないのならば、そればかりは仕方のないことだと思っていた。人事を尽くして、それでもなおそれを選ぶのなら、もはやそれは尊重すべき選択だろうから。

 だからつまり、僕は知ってほしかっただけだった。この場が終わってしまう前に、それでも千束には、僕の愚行の原因と懺悔を、どうしても聞いてほしかった。ただそれだけだった。

 それを彼女がどう判断するかについて、僕に何かを言う権利など、初めからあるとは考えていなかった。

 

 

 

 ただ、沙汰を待つ。何を言われても、受け入れる覚悟はしていた。

 そして、一分が経ったか、それとも二分が経ったか。

 千束が、無言のままに動き始めた。

 

 両手が、掴まれたままの僕のシャツから離れていく。そしておずおずと、腕が背中の方へと回された。彼女の身体からも、少しずつ力が抜けていくのを感じる。纏う空気すらも、和らいだように思えた。

 僕の腕も今一度千束の背中に回して、そのまま暫しの抱擁を交わし合う。無言のままにまた時は過ぎ、やがてゆっくりと、彼女の身体が離れていく。僕もそれを妨げることはしなかった。腕の力を抜いて、その動きに任せていた。

 

 静かに上げられていく千束の顔が、僕の目にも覗く。視線が合わさって、中空でぶつかった。

 互いに見合う双眸から、僕たちが少し前までの狂騒の空気を脱したことを知る。

 

 僕の言葉は、千束に届いた。どう断じたかは分からずとも、それはきっと彼女の心の中にある猛りを鎮めるだけの意味を持っていたのだろう。

 彼女は聡いのだ。懐だって深い。僕の独り善がりと断じられても何も文句は言えないところを、それでも咀嚼して受け止めて、憤りすらも呑み込んでくれていた。

 その高邁な人間性ゆえに、この場には静けさが取り戻されている。

 それだけが、今の真実だった。

 

 

 

 眼前の千束が、どこか困ったように笑う。

 

「――敵わないなぁ、ホント」

 

 言いながらその手を頭に持って行って、そしてどこか恥ずかしげな様相で、彼女は自らの頭を一掻きした。

 えへへ。そう誤魔化すような笑い声と一緒に、再びその唇が開かれた。

 

「そこまで言われちゃったら、私何も言えないや。うん、言えない」

 

 小さく頷きながら、照れ臭そうな笑顔だけはそのままに、しかし今一度しっかりと僕の方へと向き直って、しみじみと言った様子で言葉を繋いだ。

 

「……いやぁしかし、千束ちゃん愛されてますなぁ」

 

 悪戯な視線が、こちらに向く。分かりやすい照れ隠しだった。

 しかしそれは、僕にとって当たり前に過ぎる言葉だ。敢えて真面目腐った態度を繕って、千束のことを見据えた。

 

「当たり前でしょ。ハワイで言ったことに、嘘なんて何一つないよ」

「いやちょ、やめぇってそういうこと言うの!」

 

 恥ずべきところなどない。正面から言い切った僕の言葉を前に、逆に彼女のほうがたじろぐ。本格的に恥ずかしそうな声色で言いながら、顔の前で手をぱたぱたと動かした。

 それがどうにもおかしくて、小さくとも笑い声が漏れてしまう。一瞬だけ咎めるような顔で千束がこちらを見てきたが、しかし僕のそれに釣られたか、彼女もまた笑い始めた。

 二人の間を揺蕩う空気が、一気に和らぐ。それを以て落着とまでは思わずとも、僕にとっては安堵すべきところではあった。

 

 

 しかしそこでどこか仕切り直すように、千束は居住まいを正す。正座の構えを取った。

 寝そべっている僕の横で、それはどこか神妙な態度だった。

 

「……ごめんね。ちょっとどうかしてたわ。『約束』のこともあるのに、あんなことやっちゃって」

 

 覗きこみながら、小さく頭を下げてくる。

 

 そういえば、それもそうだった。僕は思い至る。

 彼女の言う『約束』というのは、つまり僕が千束の家に定期的に泊まることになった最初の日に、お互いで決めたことだった。

 ――もし、どちらかが()()()になっても、いや、もし仮にどちらともがそうなったとしても、彼女がリコリスを引退するまで、()()()()()()()はしない。

 なんとなれば、引退のその日まで、彼女の本分はあくまでリコリスだから。それに支障を来すようなあらゆる行いは、その全てが無責任の産物でしかないだろう、と。

 僕からすれば随分と生々しい話ではあったそれも、今にして思えば定めておく価値はあったのだろうと考える。まさか今日のような形でそれが脅かされるというのは、思いもしないことではあったけれども。

 

 ただ僕からすれば、千束のほうからそうやって謝られることは心外と言ってもよかった。

 今日のことは、どうあっても全て僕が原因で、故に悪いのも僕だ。そうずっと考えていたからだ。

 

「そうさせたのは、僕のせいだから。お互い様だよ。いや、僕の方が悪いか」

 

 故にそう言いながら、僕も千束に倣って身を起こそうとする。

 彼女の正面で、こちらもしっかりと正座になるために。

 

 

 

 ――しかし、そこで気づいた。

 

「……ん? あれ?」

 

 そんな間抜けな声が漏れる。

 

「どした? 隼矢さん」

「いや、ちょっと……あれ?」

 

 千束の怪訝そうな言葉にも、返す余裕がなかった。

 どうにも、身体に力が入らないのだ。身体の芯が痺れたようになっている。本当にピクリとも動かなかった。

 

 一瞬、凄まじい焦燥に血の気が引く。冷静に自己を見直した。

 ……身体の感覚はある。手足の感覚も。だからこれは、ただ動かせないというだけだ。金縛りに近いだろうか。

 

 思わず息を吐いていた。なにかまずい事態でも起こってしまったかと、本当に焦った。

 けれど、そうではない。これは単純に身体に力が入らないだけだ。

 何故か。さっき最後の力を振り絞ったからだとでもいうのか、或は――。

 

「……ごめん、力入んない」

 

 そこに一瞬過った()()()()な予想を追い出すように首を振って、それから千束に助けを求める。

 乞われた彼女は、目をぱちくりとさせた。言葉の意味を咀嚼しているのだろうか。

 しかしその沈黙の末、どうやらこちらの言わんとすることを理解したらしい。或は僕の頭の中に過った、()()()()想像も。

 

「おや? おやおやぁ~?」

 

 千束は全力で意地悪な笑みを浮かべて、こちらの方へと身を乗り出した。

 

 

 

 そこから先は、本当に散々にからかわれた。

 ――いやぁ、私は()()()()のテクもあったかぁ。

 ――こりゃあ、ほんとの()()時が、楽しみですなぁ。

 言い草があまりにあまりでいい加減にしてほしいと思ったが、残念ながら反論などできようはずもなかった。というか、千束がそう言った向きの話を既に織り込んでいること自体が僕としてはどうなのかとどうしても思ってしまったが、きっとこればかりは潔癖に過ぎるのだろう。

 いずれにせよ、この先が思いやられる話だった。今日の時点で、既に将来の二人の()()()が確定してしまったような気さえした。

 とは言え、そもそも僕は色んな意味で千束には勝てないのだ。遅かれ早かれだったのかもしれなかったけれど。

 

 ともかくも千束は僕のことを助け起こしてはくれた。しばし身体を預け、動けるようになるのを待つ。

 しかしその間じゅうずっと、千束は厭に艶やかな笑みを浮かべていた。どう見てもろくなことなど考えてはいないだろう。勘弁してほしかった。やはり文句など言えようはずもなかったが。

 

 とまれそんな紆余曲折を経て、何とか廊下に二人で立つ。

 薄暗いリビング前の廊下の中、乱れた衣服を直しつつ、頭の中に未だかかる靄を振り払うように首を振って、深呼吸を一つする。そして口を開いた。

 

「改めてだけど、本当にごめん。君の言う通り、埋め合わせはしないとって、ずっと思ってた」

 

 そしてその言葉と共に、改めて頭を下げる。

 何度繰り返すのかと問われれば、何度でもと答えるだろう。それはまさに済まさなければならない禊だった。

 そのままたっぷり数秒間に亘って下げ続けた頭を、そこで漸く上げる。正面でこちらを見返す彼女は神妙な表情で、僕のそれに応えるように頷いた。

 

「……そっか」

「うん。それでまあ、いろいろ考えてて。さすがに()()()()()()()()は無理だけど。だから……うん」

 

 一人頷いて、かねてからの提案を持ち掛けることにした。

 

「しばらく一緒に住もう。それで、料理以外の家事を僕がする。さしあたって一週間、こき使ってくれて構わないから。――それで、手打ちにできない?」

 

 千束がパチリと、その目を瞬かせる。そしてしばらくの間思案するように、僕から目線を逸らした。

 その末、こちらに視線を戻した彼女は頷いたものの、その目は少しばかり細められたままだった。

 

「……もう一声、欲しい」

 

 そのままに発されたそれは、遠慮がちではあっても、どこか不満げな表情と、そして声だった。

 

 ただ「もう一声」と言われても、なんだか困ってしまう。果たして一体どうしたものかと、顎に手を当てた。

 二週間にすれば許されるのか。いや、さすがにそれが違うのは僕にだってわかる。これは量の問題ではない。つまり「もっと別の何かを」と求められているのだ。

 ならば、何かないか。そう思って、しかしその瞬間、僕に天啓が舞い降りてきた。

 

 それはもともとの計画にもあったことだった。

 たきなさんとの訓練で一定レベルの実力が身について、最低限でも自分の面倒を自分で見きれるようになったと思ったその暁には、それを以て罪滅ぼしの一つにしたいと考えていた。

 それがいい。一人頷いて、持ちかけた。

 

「じゃあ、来週の週末。一緒に出掛けてさ。――指輪、買いに行こうよ。()()()()()()()()

 

 それを聞いてか、今一度パチリと千束がその目を瞬かせる。

 しかし今度は、それが二度、三度と続いた。そのまま数秒の空白が続いて、それでもまわりの空気が、少しずつ華やいでいく。

 

 その果てに、満開の笑顔が咲き誇った。大きく、本当に大きく頷く。

 

「――乗った!」

 

 どこまでも晴れやかな声で、千束は答えた。

 しっかと僕の手を握って、彼女はリビングへと歩き出す。二人廊下の扉を抜けて、明るさの下へと、その一歩を踏み出した。

 

 

 

 そしてそのあとは、全く普段の千束だった。

 いつものようなとりとめのない雑談を言い合って、お互い笑い合う。

 或は彼女のコレクションの映画を見て、あれこれ言って盛り上がる。

 そんな憂いひとつない日常へと、僕たちは回帰した。

 

 

 

 而してそれ以降、それまで減少傾向とはいえそこそこの頻度で起こっていた千束の「発作」は、その日を境にパッタリとその姿を消した。

 今までのあれは一体なんだったのかというほどに、千束の精神はその安定を取り戻していた。

 

 僕が身につけた多少の戦闘技能がその一助になっていたのならば、それは望外の喜びだろう。

 また或は、たきなさんが見せた「成長」も、ファーストへの昇進それ自体も、千束からすれば心の荷を下ろすに値するものだったのかもしれなかった。

 

 もしそうだというならば、きっとライセンス更新に始まったあの日一日の出来事は、たきなさんも含めた僕たち全員にとって、一つの明確な画期となったのだろう。

 

 僕たちの紡ぐべき、未来への展望。輝ける未知、「もっと先へ」と踏み出すための、それは最初の一歩として。

 ――そして、みんなの一歩として。




 「たきな編」と銘打ちましたが、実際のところの主題は、「それぞれの未来、変化と成長」でした。
 ただその中でも特に、本編において延空木~宮古島あたりの展開をオミットしてしまった関係で描けなかった、たきなの「成長」こそを書きたいという話はありました。だからこその「たきな編」だったり。

 そしてそこに、「DAと公安」の未来展望、そして「主人公と千束」の未来展望を混ぜ合わせた形でプロットを練って、本章の内容ができました。

 そういう意味ではこの部分は完全に蛇足でしたけど、まあ、一つオチということで。

2023/2/24 全体的に改訂。
2023/5/31 さらに改訂。
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